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三女神 伝承の宮々(1)


三女神 伝承の宮々(1)


今回は三女神の伝承を伝える筑紫の神社をまとめました。
三女神は宗像三女神として有名ですが、
古事記や日本書紀にはいくつもの伝承が書かれています。

すでに紹介済みの神社の中から、オリジナルの伝承を伝える神社を特集しました。
三女神ははじめは国家鎮守の神として、また武神として信仰されていたんですよ。

日本書紀、一書に曰はく、(あるふみにいわく)
日の神がまず十握剣(とつかのつるぎ)を食べて化成した子は沖津嶋姫命
別名市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)。

また九握剣(ここのつかのつるぎ)を食べて化成した子は湍津姫命(たぎつひめのみこと)。
また八握剣(やつかのつるぎ)を食べて化成した子は田霧姫命(たぎりひめのみこと)。
(略)
日の神が生んだ三柱の女神(ひめかみ)を葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋
天降り(あまくだり)させました。
今、海の北の道の中にいます。

名付けて道主貴(みちぬしのむち)といいます。
筑紫の水沼の君らが祭る神がこれです。

ここではアマテラスが十握剣、九握剣、八握剣と、三つの剣を食べて、

それぞれ市杵島姫、湍津姫、田霧姫(田心姫)を生んでいます。
その後、アマテラスは三女神を葦原中国の宇佐嶋に天下りさせました。

このブログの読者は、すでに宇佐嶋とは「ありなれ川」の「右の島」の事とご存知ですね。
(「ありなれ川」とは博多湾から有明海まで繋がっていた時代の名前で、
御笠川~宝満川~筑後川ラインです。博多湾~中つ海~有明海)



赤司八幡神社  久留米市

http://lunabura.exblog.jp/i169/

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水沼の君の根拠地であり、聖地である神社です。

縁起によると、昔、筑紫は筑前・筑中・筑後と三府に分かれていて、
その中央にある事から、この神社は「筑紫中津宮」と呼ばれていました。
海北道中とはここの事だと伝えています。

水沼の君の屋敷があった所で、
景行天皇(けいこう)がやって来て、初めて祠壇を建てて祈りました。

景行天皇は自分の皇子・国乳別皇子(くにちわけおうじ)を
御形代(みかたしろ・天皇の代わりに祭祀する人)として残しました。
その国乳別皇子は水沼の君から后を迎え、水沼の君の祖となりました。

その後、神功皇后(じんぐうこうごう)もやって来ました。
それは羽白熊鷲を滅ぼして、これから田油津姫(たぶらつひめ)攻撃に取り掛かる前でした。

皇后はここで祈り、後に妹の豊姫を神の依り代として立てて残しました。
それから人々は「筑紫中津宮」を「豊比咩神社」と呼ぶようになりました。
「筑紫道中(ちくしみちなか)のとよひめさん」と呼ばれています。
今は赤司八幡神社と呼んでいます。




福成神社 朝倉市

http://lunabura.exblog.jp/17290766/

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景行天皇がここにやって来て三女神を初めて祀りました。

その後、神功皇后がやって来て戦勝を祈りました。
それは羽白熊鷲を滅ぼした直後、これから田油津姫攻撃に取り掛かろうという時です。

それから数百年経って、斉明天皇中大兄皇子を連れて戦勝を祈りました。
この時は斉明天皇も新羅と戦わねばなりませんでした。
新羅戦に勝利した神功皇后の例にちなみ、同様の霊験を祈った思いが伝わってきます。

朝倉の橘の広庭宮に遷って三日目に参拝したそうです。
この近くには女官たちの宿舎が伝えられています。

しかし斉明天皇は、それからまもなく崩御しました。
そのモガリの宮は同じ朝倉市の恵蘇八幡宮(えそ)の木の丸殿(このまるでん)です。

斉明天皇の八角形の古墳が奈良で近年発見されましたが、
その地名が恵蘇八幡宮には伝えられていました。



恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)えそ・筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
http://lunabura.exblog.jp/15159645/

恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
http://lunabura.exblog.jp/15193653/

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恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない
http://lunabura.exblog.jp/15199099/

恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ
http://lunabura.exblog.jp/15209580/


こうして三女神は古い時代には武神として祀られていたのが分かりました。

(つづく)

各神社にリンク貼ってますので、ブログ内散歩をどうぞ。





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by lunabura | 2015-01-19 20:01 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(8)

三女神 伝承の宮々(2)


三女神 伝承の宮々(2)

今回は古事記からです。

泣いてばかりいたスサノオの命はついに父神のイザナギの命
「もうこの国に住むな。」と言われて追放されてしまいました。

そこで、スサノオの命は
「それならば姉のアマテラス大御神に事情を話してから出て行きましょう。」
と言って、天に昇る時、山川がことごとく鳴り響き、国土がみな揺れました。
(略)
アマテラス大御神は「どうして、天に昇って来たのだ。」と尋ねました。

スサノオの命は「わたしめは悪い考えは持っていません。
ただ、イザナギの大御神が私に泣きわめいている訳をお尋ねになりました。
そこで、『わたしめは亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです。』
と答えました。

すると、大御神は『そなたはこの国に住んではならない。』と言われて、
私を追放されました。
だから、事情をお話しておこうと思って参上しました。
他意はありません。」と申し上げました。

すると、アマテラス大御神は
「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。
そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。

そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、
アマテラス大御神が先に
スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかつるぎ)を貰い受けて、
三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、

息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタキツヒメの命。三柱です。

(略)

そこで、アマテラス大御神がスサノオの命に言いました。
「後の方で生まれた五柱の男子は、私の物から生まれたので、私の子だ。
先に生まれた三柱の女子は、そなたの物から生まれたので、そなたの子だ。」
と。

こうして、最初に生まれた神、タキリビメの命は宗像の奥津宮にまします。
次にイチキシマヒメの命は宗像の中津宮にまします。
次にタキツヒメの命は宗像の辺津宮にまします。

この三柱の神は宗像の君らが斎きまつる三柱の大神です。

こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。
ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」と言いました。

宗像の奥津宮にます神、タキリ姫の命は大国主の命と結婚して、
生まれた子はアヂスキタカヒコネの神
次にイモタカヒメの神、亦の名はシタテル姫の命。
このアヂスキタカヒコネの神は今、カモの大御神といいます。

(るな訳『『古事記の神々』から一部を紹介しました。全体を見たい方はサイドバーから見に行ってね。)

これを読み直すと、三女神の親はスサノオ命になってますね。
日本書紀はアマテラスとなっていたので、これだけても大違いです。
そして、この三柱の神を祀っているのは「宗像の君」です。

タキリ姫大国主命と結婚しましたよ。(*^_^*)

六嶽神社 鞍手郡
http://lunabura.exblog.jp/i35/
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鞍手神話では、三女神は六ケ岳の崎戸山に降臨したと伝えています。
スサノオの命の剣を三つに折って生まれた女神たちなので、
ここでも剣神すなわち武神として信仰されていました。
剣を持つ武人たちの心の守護神はやはり女神なのですね。
そう。ここは物部氏の故郷の一つです。

神興神社 福津市
http://lunabura.exblog.jp/i36/
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三女神は鞍手郡から神興神社へ。
ここで神威を発揮したといいます。


宗像大社 宗像市
http://lunabura.exblog.jp/i37/
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辺津宮、中津宮、奥津宮。
陸と二つの島からなる壮大な三宮に三女神はおわします。


楯崎神社 福津市
http://lunabura.exblog.jp/i185/
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奥宮(薬師神社)
異敵が襲ってきたために、宗像大神と大己貴神が共に戦った伝承を持つ宮です。

大己貴神は先に宗像奥津宮に座す田心姫と
辺津宮に座す高津姫命を娶ったと伝えています。

三女神と三宮の組み合わせが暗記できません。
それもそのはず。沢山の異称があって、本によってどれも違っています。
だから、あまり気にしなくなりました。

メモ
さて、三女神のうち、二人の女神(ひめかみ)が大国主命と結婚しました。
そして、あの市杵島姫命も結婚していたんですね~。
お相手はニギハヤヒの子・天照日尊だそうです。
ついでに、水沼の君の祖先は物部氏。

うん。これで全部繋がったね。  (^-^)
ここは備忘録として、メモだけ書いとこ。
いつか、必ず全容を、ものにしたいと思います。








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by lunabura | 2015-01-19 20:01 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(10)

三女神の伝承の宮々(3)英彦山神社編


三女神の伝承の宮々(3)
英彦山神社編

英彦山は何回も登った山ですが、ブログを書き始めてからは一度も行っていません。
気になる伝承はあっても、まだ手つかずです。

ブログの記事も書く時間が取れないピンチの時に、
桜もちさんが、コメントを下さいました。

それをまずはUPしますね。


桜もち

彦山修験道の縁起の原文抜粋です。

『鎮西彦山縁起』
此三女神奉日神之勅降宇佐嶋、後移此山焉。
爰大己貴神更娶田心姫命・瑞津姫命為妃鎮座此山北嶺、因称北山地主也。

市杵嶋姫命鎮座于山之中層也。
于時天忍穂耳尊霊為一鷹自東飛来為止于峯。(中略)

於此大己貴命献北嶽於忍穂耳尊、自率田心・瑞津二妃降居山腹日子号。(中略)
爾後三女移宗像宮大己貴神遷許斐山。

『彦山流記』
甲寅歳震旦国天台山王子晋旧跡東漸。(中略)
其乗船舫親在豊前国田河郡大津邑、今号御舟是也。

著岸之当初香春明神借宿、地主神称狭少之由不奉借宿。(中略)
即時権現攀登彦山之曰、地主神北山三御前我住所権現奉譲之間。

暫当山中層推下後、後移許斐山給。
金古七年丙申歳敏達天皇之御宇也。


『豊之前州彦山縁起』
此山中宮市杵嶋姫与安芸厳島神同体、本地弁才天(以下略)

この英彦山から許斐山(福津市八並と宗像市王丸の間の山)の途中に『日王山』があります。
…日若神社の記事に書かれていた場所です。

※携帯で入力したので…誤字脱字があるかもしれません。


るな

桜もちさん、やばい。
ここにも鷹が飛んで来たって?
これはオープンで行きましょう。
でも、あと一週間手が付けられません。 (+_+)
その間に、解説と意見を入れてくださいませ。訳も。
編集して、記事に出して、みんなで考えましょうよ。



桜もち

では!『公開討論』ということで。

ご存知の通り、私の文章力で『訳』は無理ですっ!
原文のまま記事にされた方がダイレクトに伝わると思います…(涙)
その代わりに、問題提起をさせて頂きます。
…これなら私の拙い文章でも大丈夫ではないかと。…たぶん。

ところで!他にも『鷹』の話があるのですか?
田川の古称は『鷹羽』ですよ。
因みに、英彦山の隣は『鷹ノ巣山』…豊前坊(高住神社)のある山です。

では1週間かけて(笑)…私の個人的意見と、討論すべき問題点をコメントさせて頂きますね!



るな

桜もちさん、それではこの上の非公開コメントを記事にしてUPするので、
その下にコメントを入れて行ってください。
討論にはならないと思いますが…。




ということで、よろしくお願いします。 るな




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by lunabura | 2015-01-19 20:01 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(16)

物部氏 どっちが古い?


物部氏 どっちが古い?

「物部はどっちが古いですかね」
全く同じ質問を二人の男性から続けて受けた。
一人は土曜日。もう一人は三日後の火曜日に。
私が誰かと古代史の話をする機会は、最近ではこの二人だけだったので、
立て続けの質問だったということになる。

「どっち」というのは、もちろん「遠賀川流域か、筑後川流域か」ということだ。

私も、同じ関心を持ったことがあったけど、いつの間にか忘れていた。
今日はこれまで出会った伝承を羅列してみよう。

遠賀川流域
神武天皇が田川にやって来た時、迎えに来たのが馬見の物部の末裔・駒主命(こまぬしのみこと?)。(日若神社4)
神武天皇の祖神を祀り続けていて、馬を連れて来て、自宅に案内している。
この自宅というは馬見神社の近くになるのだろう。

神功皇后の時代には仲哀天皇を支えた物部に
嶋戸物部(高倉神社)と新北物部(鞍手郡)が出て来るので、
中流域から河口付近にかけて物部の勢力図があったもよう。
鞍手の物部氏は剣から生まれた剣神の三女神を祀って、三女神の六ケ岳降臨神話を育んだ。

そして、『日本書紀』に出て来る物部胆咋(いくひ)が神功皇后を連れて材木調達している。
大元稲荷神社(小倉南区徳力)を中心にして森林を掌握していたらしい。

その胆咋が筑後川流域では神として祀られている。
その神社が高良下宮社(久留米市)。胆咋は両流域に現れるキーパーソンだ。


筑後川流域
三女神を祀る水沼の君の祖に物部の名が見える。
水沼の君の祖は国乳別命だと『日本書紀』か『古事記』に書かれているが、
実際はもっと古くから筑後川流域にいた。
少なくとも景行天皇の時代に猿大海が出て来る。
国乳別命は神功皇后の時代の人物だ。

そして竹内宿禰とともに高良下宮社の祭神となっているのが先程の胆咋。
この胆咋が高良山に関わる物部氏の基盤になったのではないかと秘かに思っている。

また、さらに筑後川を遡ると物部さんが現在もいて、
かつては他の人々が入れない領域を持っていたという。
この物部氏はさらに古いのではないかと考えている。

そうだ、下流域のこうやの宮では七支刀を持っていた。

こうして両川の物部を比べると、三女神信仰をするのは水沼と宗像だけでなく、
物部氏もまた該当していたことに気付かされる。

真鍋大覚はどう伝えていただろうか。

曽我稲目(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏と那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。
(略)
物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。

これは磐井の時代の話なので、5~6世紀になるが、物部氏のルーツは近東にあり、
佐賀県の神崎にいたと伝えている。

結論
以上が今日、なんとか思い出した物部氏の時代と所在地で、
これから伺えるのは
遠賀川流域には、神武天皇が生まれる前から物部氏はいたという事になり、
筑後川流域に関しては、時代的に指標となる伝承が得られていないので判断できない。
だから、どちらが古いのかまだ分からない。

こんな所かな。^^

それにしても、福岡の人には、どっちが古いのか気になるよね。
何でだろ~。


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(中途半端な地図)


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by lunabura | 2013-10-23 22:07 | 物部氏 | Trackback | Comments(2)

三女神社4  三柱石は御許山を見ている

宇佐・安心院トレッキング(23) 

三女神社4
 三柱石は御許山を見ている

境内に戻って来ました。拝殿の右手に石があります。
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皮籠石と書いてあります。

皮籠石(かわごいし)
当社西約百メートルに皮籠石なる名の字(あざ)あり。そこに皮籠大明神といわれる当社の末社があったが、明治初期、この玉垣内に移し祀られた。
奈良時代、仁聞菩薩(にんもんぼさつ)が三女神社に参拝し、ここに皮籠を下ろし、前面の岸壁に仏像を刻んだと伝えられる。また一説には神武天皇東征の時、この石に皮籠を置かれたとも伝えられる。


直方体の石で、背中に背負う籠のような形をしていますが、
嘉麻市にも同じ字の石があり、それは「こうご」と読ませていました。
「神籠石」と発音が同じなので、気にしていたのですが、山の中なので探しだすのはもう難しそうでした。

石には神が籠るので、この皮籠石もそうなのかな、なんぞ思うのですが、どうでしょうか。
写真の石も御神体と考えていいのかな。大明神というのですから、
どんな信仰があったのか気になりますね。

神武天皇の名前もそろそろ出て来ましたよ。




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これはその横にあった斜めの石です。

三柱石(みはしらいし)
三女神天降りの遺跡と伝えられ、地上に突出すること二メートル余り。
「古来、試みにこれを穿て石根を見んと欲すれば、
宇宙闇然、風雨到り、大地震動してその声、雷の如し、と言う。
後人恐れて、触るものなし」と言い伝えられる。なほ三柱石は安心院七不思議の一つとされている。

この石を抜いて根っこがどうなっているのか見ようとしたら、真っ暗になって嵐となり、地震まで起こったといいます。

この石について、安心院のHPにはこう書いてありました。
三柱石は、三女(さんみょう)神社の境内にあり、石の玉垣を廻らしてある。
天照大神が三女神をこの国に降されるとき、高天原の石を取られて「この石の落ち止まる所に鎮座せよ」と 言って投げられた石という伝説がある。
大地から生えたように三本の石が棒状に立っている。

この石は高天原から投げられた石でした。

さらに、一の鳥居の横にあった由緒の一部。
境内は古代の祭祀の面影を漂わせ、幾多の史跡と伝説とを有し、特に三柱石始め多くの陰石を有し宇佐神宮の元宮お許山(大元山)の御神体となり三個の女陰を形どる巨石の組み合わせと対照的に男根的存在を現わしているところに神秘さを蔵している。応仁天皇元年に社殿を改修したという記録がある。


読点が省略されていて、文脈が分かりにくいのですが、
どうやら御許山の磐座は巨大な女陰石で、こちらは男根石として、
広大な祭祀の仕組みの一画を担っているようです。

安心院は磐座が多くて、謎だらけなんです。



そして、HPをクリックしていたら、「水沼井」が出ていました。
三女神社の崖下の川からほど近くに井戸がある。
この井戸の水はいかなる干ばつにも涸れず、いかなる大雨や洪水にも満ちもせず、濁りもしない。
文化6年(1809年)宇佐の大蔵という者が足の病のため宇佐八幡に参籠して平癒を祈り、37日で霊夢を受けた。
白衣の神翁が現れて言うには、「これから南に3里木裳の里、水沼(みぬま)の神水がある」と。
夢覚めて水沼井に来て教えの通り潅いだら、果たして病は平癒した。
そこで、乗ってきた車を三女神社に奉納して帰ったが、このことによって世に現れ病気平癒を祈る者が引きも切らず、そのため木裳村では、旅宿を営む家がたくさなったという。
この井戸は三女神社が産湯を使った「天の真名井(まない)が三女神の後を慕って高天原から降ったのだという伝説があり、神格化して「お水様」と称して水沼宮として祀っている。

写真がついていました。やはりあの石段を降りた平地にあったみたい…。(・.・;) 

何だかわけ分からなくなってきました。




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これは山門から見える盆地の眺めです。素晴らしいですね。
明らかに正面の山への祭祀意識が見られるのですが、地図を何度見ても、
山の名前が分かりません。

これから向かう妻垣(ともがき)神社なのかなあ。
そうだとすると、そこもまた比売神の降臨地なのです。
ただし、この比売神は三女神とは別の神でした。

だんだん、謎のスパイラルにハマっているような…。
そんな気がしてきました… (+_+)

ミウさん、山の名前をコメントで教えて下さいな…。(非公開でいいので)



三女神社

写真モードにすると、盆地の形がよくわかります。





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by lunabura | 2013-09-02 21:54 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(2)

三女神社3  幻の水沼井

宇佐・安心院トレッキング(22)

三女神社3

幻の水沼井

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水沼井への道は細々と森の中へと続きました。

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そして、ピークに来た時、再び鳥居が。
この時、扁額が裏側になっているのに気付きながら、さらに奥に進むと、長~い下りの石段が。

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時間を気にして、どんどん進むと、あれれ?
普通の道に出てしまいました。

下っては行けなかったんだ。
そう気づいてUターンし始めた時、るなを呼ぶ声が。
マーサが心配して呼びに来てくれていました。


再び長い石段を上って鳥居に戻ったけど、水沼井は見つかりませんでした。
時間がもうない。

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鳥居の所から脇を見ると開けた公園らしきところが樹木の間から見えています。
そこにあったのかな…。
気になりながら、戻る事にしました。


こりゃあ、リベンジ編だな…。
幻のままでは終わらせたくない。

(古川さん、このブログ見たら、どこにあるのか教えてくださいね)

水沼(みぬま)を三潴(みずま)という地名に残す大善寺玉垂宮では
泉を見つけていませんが、
三女神の降臨を伝える赤司八幡神社には渟名井(ぬない・益影の井)が残っています。
が、枯れています。

ここ、三女神社には、「三女神と水沼氏と水沼井」が揃っている。
なんとも魅力的な場所です。
いつか、必ずその泉に手を触れたい。

満月の夜なら月を宿し、月のない夜には北極星を宿す神秘の神事。
神の禊までも介添えをするという水沼。
筑紫の君はここに水沼を置いて、神域を守らせたのでしょう。

ここは宇佐神宮の比売神のルーツを考えるのに大切な場所でした。


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あとで気づいたのですが、当社は川のそばの丘でした。

水沼の君たちが周防灘から川を遡って来たとしたら、川のそばの丘の上に湧き出す水を見つけ、
ここを聖地として、故郷の祭祀をした場所だということになります。


宿泊はその丘の上にある家族村だったのですが、
そこからは安心院盆地の全体を見下ろす事ができました。
きっと家族村からワイナリーにかけて、筑紫の君の聖域が形成された事でしょう。
縄文から弥生にかけての遺跡が残されているかもしれませんね。


境内にはその原始的な祭祀の手掛かりがいくらか残っていました。
もう一度境内に戻りましょう。
(つづく)

月の神事については大善寺玉垂宮に。
星の神事については赤司八幡神社に載せています。





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by lunabura | 2013-09-01 20:22 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(14)

三女神社2 ミッシングリングがつながった?

宇佐・安心院トレッキング(21)

三女神社2
ミッシングリングがつながった?

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(神殿)

拝殿にはもう一つの由緒書がありました。
三女神社由緒
神代の昔、高天原に於て天照大神は素盞嗚尊と盟約の結果
   田心姫の命 一の御殿
   湍津姫の命 二の御殿
   市杵島姫の命 三の御殿
の三女神を生み給い、葦原の中国の宇佐嶋に降し給うた。

宇佐嶋とはこの地宇佐郡安心院邑にして、豪族筑紫君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。

境域には現にこれに関する幾多の史跡と伝説とを有している。

江戸時代に至り、島原藩主累代これを崇敬し、社領十石を奉納し、或は宮殿を造営し、或は矢壺提灯ならびに釣灯篭等を奉納した。 (略)

「豪族筑紫君等がこれを祀る」
なんと、筑紫の君が祀っていたというのです。
ここは九州の東。すると、かなりの広範囲を治めていたのでしょうか。

筑紫の君と言えば「磐井」がいます。ウィキペディアから抜粋しましょう。
528年8月、継体天皇は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍に任命して、筑紫へ派遣した。磐井軍と麁鹿火軍の決戦が行われたのは528年11月。筑紫三井郡での激しい戦闘の後に磐井は捕らえられ、麁鹿火に斬られたとされている(『日本書紀』)。 
『筑後国風土記』逸文には、磐井王が豊前の上膳県へ逃亡して、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記している。


磐井が物部麁鹿火に負けたあと、殺された、或いは豊前の上膳県(かみつみけのあがた)に逃げたとも言われています。
磐井の乱を知った頃はどうして豊前なんかに逃げたんだろうと、地理的に不思議でした。
筑後と豊前のつながりを知らなかったからです。

ここは豊後ですが、筑紫君がこの三女神社を直接祭祀していたということなので、
磐井の勢力範囲はとても広く、安心院(あじむ)にも届いていたということになりますね。


また、筑紫君といえばもう一つ、
「水沼」が後に筑紫君となることを大善寺玉垂宮で紹介しました。

古代の筑後の大豪族として日本書紀に現れる水沼君はいったい何かというと、こういう神のミソギを介添えする巫女を出す家柄である。地方君主の家である。

古代の水沼の伝統は大善寺の玉垂宮の鬼夜と高良大社の朝妻に至る神幸祭に姿を変えて残っているといわねばなならない。

これが後に筑紫君となる。  「高良山をめぐる古代信仰」古賀寿著

水沼女という巫女を出す家柄が水沼君であり、のちに筑紫君となったといいます。

この問題をずっと考えているのですが、
筑紫君の家系は水沼から磐井へと変わったのでしょうか。(政治的な変化)
それとも、磐井とは水沼の末裔だったということでしょうか。
(磐井という字も泉と関係があります)
この辺り、御存じの方教えてください。

九州王朝の場所について志賀島で言い伝えていたのは八女でした。
安曇族は八女まで物資を運んでいたといいます。
八女こそ磐井の地なのですね。

の民である安曇族 ― 橋と大善寺(宇佐)-傘橋と大善寺玉垂宮(久留米)
これは「呉」でつながる勅使道の可能性を示していました。

水沼君 ― 筑紫君 ― 磐井君
水沼の君と磐井の君は「筑紫の君」でつながっています。

そして、この三女神社における、
水沼君 ― 筑紫君 ― 三女神 のつながり。
安心院で筑紫君が三女神を祀っていたとは…。


「ひもろぎさん、井戸に気が付いた?」
「え?」
「ダメだなあ。これを見逃したらここに来た意味がないじゃない」

このトレッキングを企画した古川さんが後からやってきました。

「何ですか。何があるんですか?」
そうして教えられたのは境内から出た時にだけ見える説明板でした。
「水沼井」!!

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水沼井(おみず)
当社東南五百メートルの盆地内に根宮(もとみや)があり、神池として清水が湧出する。伝説によれば三女神天降り(あまくだり)の際の産水(うぶみず)とされ、雨や旱(ひでり)に増減混濁することなし。また手足の不ずいにも著効ありという。

奉仕の社家は水沼氏と称し、お供えや炊事の水にも用いられたといわれる。
この水沼井も安心院七不思議の一つである。

水沼氏が直接ここに携わっていたのです。
ああ、ついにミッシングリングはつながった!!!

水沼 - 三女神 - 宗像

当社の三女神を祀るのは宗像族と誰もが想像するのではないでしょうか。
ここは水沼氏が祀っていました。
まだ水沼の名が残る古い時代の祭祀場だったのです。

500メートルか。
「近かったですか?」
「まあ、そう遠くなかったですよ。下りになる前の所にありますよ」
5分ぐらいか。まだ時間がある。
現地に行ってみよう。
ついに水沼の泉が見られる!

(つづく)




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by lunabura | 2013-08-31 21:41 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

 三女神社 1 不思議な「二女神社」と 水沼の君

宇佐・安心院トレッキング(20) 

三女神社

 不思議な「二女神社」の扁額 と 水沼の君


今朝は夢の中で一枚の映像を見ていました。
高原の展望のよい所に二人の女性が向こうの山を見ています。
向こうの山は台形の形をした緑の美しい山でした。
二人はレギンスをはいたスレンダーな姿で伸び伸びと手を広げ、
とても気持ちよさそうでした。

二人の女性…。
夢の話をしながら、あれ?と思いました。
これは昨日記事にした二女神のシンボルでしょうか。
現代の女性だったのですが、何となくそう感じられました。
後ろ姿だったので、これから顔が見えたり、名乗りがあったりしたら、
逍遥の道程が一歩進んだということかも知れないな…

そんな事を考えたのですが、今回の三女神社の一の鳥居の扁額の
金色に縁取られた文字は何故か「二女神社」だったのです。

トマコさんからもコメントで指摘があったのですが、その通りなのです。
「三女」神社なのに「二女」と書かれた扁額。
これを掲げた人の強いメッセージを感じずにはいられません。


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ここは「家族旅行村 安心院」の隣にあります。
隣といっても、山ですから、10分ぐらいは歩いたかな。
舗装道路に面したいかにも古社の風情。

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これが一の鳥居の拡大です。「二女」神社と書かれています。謎めいた扁額です。


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石段を上ると、広い参道。
土の道で、とても心地よいのですが、るなの頭はまたもや何故?
どうして参道がこんなに広いのだろう。
土の道なのに草が生えていないのはよほど踏みしめたのか。
回りに人家のない所に、これほどの参道を作るのは何故?
るなの何故?なぜ?が始まります。

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次々と石段を上りながら、当然、扁額に意識が行きます。
これは「三女神社」。とてもがっしりとした鳥居です。
他の鳥居も全部「三女神社」でした。

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ようやく神門前に着きました。
ここもまた正面でなく、脇から参拝するようになっていました。

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神門の正面にまわりました。

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思いがけず大きな本殿でした。

祭神は 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 他十柱です。
宇佐神宮の比売神、宗像三女神と同じです。

一の鳥居の所にあった由緒を写します。
由来 鎮座地 宇佐郡安心院町大字下毛字三柱

そもそも三柱山三女神は日本書紀神代巻に曰く
「即ち日神(天照大神)の生みませる三女神を以て、葦原の中国の宇佐島に降(あまくだ)り居さしむ云々…」とあり、即ち宇佐島とはこの地宇佐郡安心院邑、当三柱山一帯とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都比古、宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に、全国唯一の三女神の御名前をもつ社であるにして、水沼の君等がこれを祀る、爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。(略)


ここは三柱山といって三女神の降臨地ということですね。
宇佐都比古、宇佐都比売三女神を祖神としています。
そして、驚きの名が…。
「水沼の君が祀る」とあるのです。
まさか、こんな所まで水沼の君の祭祀圏があるとは。

これって、まさか、るなの仮説「水沼―三女神―宗像のライン」をつなぐ証し?

(つづく)


地図 三女神社






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by lunabura | 2013-08-30 21:28 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(4)

姫神の謎を追って 3 二女神とは

宇佐・安心院トレッキング(19)

姫神の謎を追って 3
二女神とは
 
5 大己貴命と二女神 婚姻

宗像三女神の田心姫、湍津姫、市杵島姫の三人とも結婚しています。
田心姫と湍津姫のお相手は大己貴命
市杵島姫のお相手は天照日孫(ニギハヤヒの子)です。

ですから、三女神の中の二女神といえば「田心姫と湍津姫」だと考えています。
二女神の新婚の宮は英彦山の北嶽だったのですが、
天忍穂耳命が鷹になって飛来したのでその山を譲ります。

一方、二女神と大己貴命が共に異敵と戦った話が福津市の楯崎神社に出て来ます。
この縁起に三人の間の子供の名前が出て来ます。
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系図を書いて見ましたが、二女神のうち、辺津宮は高津姫という名になっていますね。
系図も独特です。

事代主神とかは出雲出身かと思っていましたが、思い込みを捨てて、まっさらの頭で考える必要がありそうです。

人家も全くない半島の奥に鎮座するこの宮の縁起の意味する事は何でしょうか。

田心姫(たごりひめ)の御子たちはいずれも福岡に祀られていますね。
出雲の方ではどうなんでしょうか。
また新たな謎の登場です。


一方、市杵島姫は英彦山では中宮に鎮座していました。
市杵島姫の結婚について知ったのは鞍手郡誌からです。
お相手がニギハヤヒの子となると別の祭祀圏に所属することになります。

以上、二女神と市杵島姫が別々に語られている伝承をまとめてみました。

これらについては「三女神の伝承の宮々 4,5,6」に詳述しています。
http://lunabura.exblog.jp/i203/


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実は私は、「宗像氏」をウィキペディアで検索して、
「出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、」という一文から、
宗像大社の祭神はもともと大国主命ではないかという仮説を持っています。
地主神が大国主命で、三女神が上書きではないかと。

そうすると、先程の楯崎神社での二女神との共闘も上手く説明できるかもしれないのです。
また、宗像大社の千木が外削ぎであるという件とも上手く照合するのです。

千木が外削ぎか上削ぎかで男女の神を示すと言うのは厳密ではない
ということを前に結論づけましたが、それでも、気になっていたのです。

故百嶋氏も大国主命説を出されていたことから、
るなの周辺では最近、この説がクローズアップされています。

大国主命と大己貴命が同神なのかも、ずっと気になっているのですが、
筑紫で観察している限りでは、同神として考えられているようです。
るな的には別神ではないかという思いが捨てきれません。



6 龍宮の二女神


龍宮といえば、志賀島の志賀海神社龍の都として古来認識されています。

龍宮の二女神とは豊玉姫と玉依姫です。
しかし、豊玉姫は志賀海神社には祀られていません。
志式神社や対馬に祀られています。

また、二女神の祭祀圏の傾向を見ると、
博多湾から宝満山までの三笠川流域を中心としたエリアには玉依姫が圧倒的に祀られていて、
豊玉姫はその両脇、西の糸島地域、また東の響灘から周防灘のエリアに祀られています。


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海神豊玉彦と二女神の父娘がセットで祭祀されているのは
みやま市や田川の風治八幡宮の古伝で見かけたぐらいです。

豊玉彦の名が筑紫では残っていないのを見ると、
何か大きな問題が潜んでいるなと考えています。

とりあえず、今回のテーマの二女神としては、この「豊玉姫と玉依姫」もまた挙げられます。

さあてっと、これで三女神と二女神についての整理が出来ました。

いよいよ、宇佐神宮を離れて安心院に行きましょう。


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宇佐神宮 祓所






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by lunabura | 2013-08-29 21:28 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(7)

姫神の謎を追って 2

宇佐・安心院トレッキング(18)

 姫神の謎を追って 2
  
 

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宇佐神宮の祓所

3 水沼の君と三女神 水沼という巫女 
「水沼」というのは、「巫女」のことで、
月にある変若水(おちみず)を神から人へ取り次いだり、
人間の罪穢れを受けた神のミソギの介添えをしたりします。
巫女が神格化して女神となったのではないかと考えています。

それを祀るのが大善寺玉垂宮です。
当宮の鬼夜は火祭りで人の目を引き付けて置いてその間に神に禊を勧めるのが本義なのですね。

水沼の君はその巫女を出す家柄です。
その都は久留米市高三潴から大善寺玉垂宮を中心とした辺りで、
多くの古墳も残されています。

しかし、聖地はずっと北にある赤司八幡神社です。
それは景行天皇の動きから判断しました。

景行天皇は赤司八幡神社で祭壇を作って三女神に祈り、
自分の皇子、国乳別皇子を天皇代行の祭祀者として残しました。

当時の水沼の君は猿大海です。
猿大海が娘を皇子に差し出したことから、水沼の祖は国乳別皇子となりました。
しかし水沼は当然ながらもっと古くから居た訳で、その祖の中に物部の名が見えます。

赤司八幡神社は神功皇后も妹の豊姫を巫女として残しているので、よほどの聖地です。
その中心は潟の渟名井(蚊田の益影の井)だとおもわれます。


三女神はこの赤司八幡神社に降臨したと伝えられています。
道主の貴(みちぬしのむち)というのは水沼三女神に冠された言葉なのですね。
この道主の貴という言葉が宗像大社でも、使われています。

赤司八幡神社では田心姫が降臨されたと言われています。
これは八幡信仰の拡大の中で遠慮されて言われているのだろうと思っています。


一方、その南にある高良山の麓の味水御井神社(うましみずみい)の泉も
古くは神功皇后がミソギの女神として祀られていたそうです。
高良山の神々は山からその泉まで降りて来られて禊をされます。

久留米市の地域は三つの聖なる泉の信仰が中心をなしていたのでしょう。
(三大泉は諸説あるようです)
地図でこの三社を拾うと、とても広範囲ですね。



地図 大善寺玉垂宮 赤司八幡神社 味水御井神社




4 景行天皇と三女神 剣神

また、景行天皇は三女神を他の地にも祀っていました。
それが朝倉市の福成神社です。
ここには神功皇后も、また斉明天皇も祭祀に来ていますので、
剣神としての性格が残っていたと思われます。

斉明天皇は朝倉の橘の広庭宮に着くと三日後には中大兄皇子を連れて参拝されたと伝えています。

すぐ近くに太刀神社があり、神功皇后が羽白熊鷲の討伐を終えて、
田油津姫攻撃に取り掛かる前に太刀を奉納しています。
太刀の名は乙王丸と伝わっています。

祭神に三女神の名があり、勧請したように書かれていますが、
神功皇后の時代には祀られていたと思われます。
あるいはこの時点から祀られ始めたのかもしれません。

この時には剣神としての三女神に勝利を祈ったことでしょう。
ここは軍事訓練地だったというので、
水沼の君のクニの範囲ではないかと推測しています。

今、こうして整理してみると、この時代に「剣神としての三女神の信仰」と
「神の取り次ぎをする水沼(巫女)」が習合していったのではないかと思われます。

天皇の祭祀の時には水沼が常におそばでお仕えしたことでしょう。

天皇自体も「まつりごと」をするのが本来の姿でした。
しかし、景行天皇から神功皇后にかけて戦乱が続き、勝利し続けたので、
「まつりごと」(祭)に「政」の性格が加わっていった過渡期でもあるかもしれませんね。

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宇佐神宮の祓所 
正面には瀧があり、涼しい風が吹いていました。とても心地よい場所です。

(出て来た神社はみなサイドバーから入ってくださいませ。
面倒でしたら、検索欄にコピぺするのも手です)


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by lunabura | 2013-08-24 20:59 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(0)
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