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姫神の謎を追って 1

 宇佐・安心院トレッキング(17) 

 姫神の謎を追って 1

    
比売神についてたくさんコメントをいただきました。
宇佐神宮の比売大神とは誰か。
人々の関心の高さを物語っているようです。
当宮では宗像三女神と同じ神々が比売大神となっています。

 比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
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(宇佐神宮 下宮)

今回、理解を共有するために、逍遥しながら出会った筑紫の姫神たちについて
整理してみようと思い立ちました。

1 六嶽に降臨した三女神 物部氏と剣神
2 神武天皇と三女神 宗像は見えない
3 水沼の君と三女神 水沼という巫女
4 景行天皇と三女神 剣神
5 大己貴命と二女神 婚姻
6 龍宮の二女神 

こんな感じで書いて行きます。(書きながら少々変更するかも^^)


1 六ケ岳に降臨した三女神 物部氏と剣神

三女神と言えば、宗像大社が知られています。
辺津宮・大島・沖ノ島にそれぞれ祀られていますが、
どの神がどの島に祀られているのかを調べると、実は多種多様の組み合わせがありました。

現在、宗像大社では辺津宮は市杵島姫神、大島は湍津姫神、
沖ノ島は田心姫神となっています。(いちきしま姫・たぎつ姫・たごり姫)

この宗像市の南の山を越えると東南部に鞍手郡がありますが、そこに六ケ岳があります。
三女神がその崎門峰に降臨したという伝承があります。
紀元前700年と縁起に書かれています。

その麓に六嶽(むつがたけ)神社があります。
女神たちのしるしとして、奥宮に青い垂れ下がる玉、中宮に八坂瓊の紫玉、
辺宮に八咫鏡を置いたので、身形(みのかた)郡といい、
後に宗像となったとあります。(鞍手郡までかつては宗像だった)

鞍手郡は物部氏の本貫地とも言われています。
三女神はスサノヲ命の剣から生まれたので、もともと剣神の性格があり、
もののふであった物部氏の育んだ鞍手神話とも言われます。

ここから福津市の神興神社に三女神は遷宮したという縁起があります。
そののち宗像市の宗像大社の高宮へ降臨したのでしょうか。

高宮は古高宮と言って、宗像大社の境内のなかにあります。
三女神の祭祀は宮地岳にもあったという説も見られます。

六嶽神社 ⇒ 神興神社 ⇒ 宗像大社
これがひとまとまりの流れです。
(サイドバーから見てね)

地図 六ケ岳 神興神社 宗像大社




2 神武天皇と三女神

神武天皇社が遠賀川河口にありますが、
そこから自衛隊に入った敷地内の浜に、かつて小さな泉があって、
そこでイワレビコ命(神武天皇)と弟宮が禊(みそぎ)をしたと言われています。

仲哀天皇も神功皇后を伴って禊に来ています。
そこから三女神を遥拝したと言います。

ところが、そこからは宗像の四つ塚といわれる四つの山が視界を遮って、
宗像市は全く見えません。
遠賀川に架かる橋の上から上流を見ると、六ケ岳の山々が見えるので、
仲哀天皇は鞍手郡の方を遥拝したと思われます。

当時の三女神信仰は六ケ岳で、神武天皇や仲哀天皇も剣神として、
祭祀されたと思われます。いずれの天皇も戦いを前にしていました。

地図 神武天皇社 六ケ岳




(つづく)




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by lunabura | 2013-08-23 20:52 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(2)

宇佐神宮6・呉橋と大善寺 暗号をどう解けというんじゃい

宇佐・安心院トレッキング(16)

宇佐神宮6 

 呉橋と大善寺 
暗号をどう解けというんじゃい
  

上宮参拝の後、下宮を参拝して、今回のテーマの一つ、呉橋へ行きました。

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よ~く見て下さい。これは社ではありません。橋です。
しかも開かずの橋。十年に一度、勅使を迎える時にだけ開くそうです。

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ちょいと横から。川面が見えます。この呉橋は県の重要文化財です。
宇佐神宮HPには
「鎌倉時代より以前からある西参道の屋根が着いた神橋です。
昔、呉の国の人が掛けたともいわれ、この名があります」
と書かれています。

出ました!「呉の国」の人が架けた?
呉の国といえば、二つあります。紀元前と紀元後。どっちだろう。

ちょっと、ウィキペディアで確認しておきましょう。

呉(春秋)
(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾吳。

呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。

周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。
後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。


呉(三国)
(ご、拼音:Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。


紀元後の方は魏蜀の三国で、神功皇后や卑弥呼の時代です。
神功皇后の時代なら、竹内宿禰たちの土木工事の話などが伝わっている時代なので、
橋を作る事もできたでしょう。
これほどの装飾はなくても、当時の船を造る技術で作れたと思われます。

「呉の国」という表現は、まだ日本人に同化する時代の話なんでしょうね。

さて、呉の民といえば安曇族です。
安曇族が三国時代の呉人とすると時代が合いません。
紀元前の呉なのでしょう。そうすると太伯の時代となります。

紀元前の呉と紀元後の呉って同じなのでしょうか?
にわか勉強なので、わけが分かんない~。

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今回のポイントは「呉橋は勅使道に架かっていて、創建は倭の時代」ということです。
(のちに倭国と日本国の並立時代がやってくる)

呉橋(くれはし)には屋根がついていますね。勅使は右の鳥居から橋を渡るのでしょう。
私が建っている所は一般人の通れる橋で、神橋といいます。
川は寄藻川といいます。

で?何なのだ?これが何を意味する?

るなの頭はこの辺りで思考停止するのですが、
この呉橋の特殊性に気づいてツアーを組んだ古川清久氏はメンバーにどうしても見せたいものがありました。

それは呉橋のすぐ近くの大善寺です。
大善寺?
久留米市の人は「え?」て思うでしょ。
大善寺玉垂宮と同じ字のお寺が宇佐神宮の隣にあったのです。

私たちは迂回して川の上流に出ました。

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ここは「大善寺橋」の上です。
川の向こうに長い屋根の建造物が見えますが、それが先程の「呉橋」です。
この橋は白龍山大善寺の前に架かっています。

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これが白龍山大善寺の正面です。


古川氏は久留米市の「大善寺玉垂宮」の前に架かる橋「傘橋」も、
「傘」という字から、貴人しか通れない橋を意味していると言います。

宇佐と久留米の相似はいったい何を暗示している?

薦神社の呉橋と勅使道。
宇佐神宮の呉橋と勅使道と大善寺。
大善寺玉垂宮と傘橋。

この三つの橋は貴人しか通れない特別な橋。

U~NN.うまく書けない。
人の発見を、何で るなが苦労して解説しているんだい。 (-_-;)


勅使道というのは天皇の使いが通る道。
奈良・平安時代なら天皇の所在地は近畿なので出発点は近畿だけど、
呉の国の人が生きていた時代は倭の時代だから、勅使の出発点は近畿ではない。

そうすると、
出発点は同じキーワードを持つ大善寺玉垂宮だということでしょうか?
あるいは大善寺玉垂宮は通過点?
つまり、天皇あるいは王は筑紫の方にいた。

そんな理解でよろしいのでしょうか。

これについてしばらく考えていたのですが、まさか。
るなの仮説とつながってる?

るなの仮説は「三女神を祀っていた水沼の君が宗像の君となった」というもの。
つまり、水沼の君の三女神と宗像の三女神は同じ神。

大善寺玉垂宮は水沼の君の都にあります。
水沼の君の三女神と宇佐神宮の三女神もつながってる?

これ、やばくないっすか?


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地図 宇佐神宮の呉橋 大善寺


地図 久留米市大善寺玉垂宮と 傘橋




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by lunabura | 2013-08-21 22:24 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(8)

宇佐神宮3 上宮 比売大神考

宇佐・安心院トレッキング(13) 

宇佐神宮3

 上宮 比売大神考


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瀟洒な西大門をくぐり抜けて、本殿へ。

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こんな角度から本殿前に出ます。勅使を迎える準備で修理中です。

御祭神は
一之御殿 八幡大神〔誉田別尊(応神天皇)〕
二之御殿 比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
三之御殿 息長帯姫命
です。
その由来についてはHPにこう書いてありました。

御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。

宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

いよいよ話題の比売大神ですが、八幡神以前に「地主神として祀られ」ていたと書かれていました。
八幡神を祀った6年後に、二之御殿が造立されたということなので、
愛読者さんがコメントされたように、祟りを恐れての祭祀かもしれません。

この「地主神」という表現ですが、神社の境内マップを見ていると、
上宮内に北辰神社が見えます。そこにはこう書いてありました。
北辰神社
比売大神の脇殿といわれ、本宮の地主神と伝えられる造化三神を祀っています。上宮西中門の中に鎮座しています。

比売大神のすぐ横に祀られている地主神は比売大神ではなく、造化三神でした。

その三神の名は
天御中主神(あめのみなかぬし)
高皇産霊神(たかみむすび)
神皇産霊神(かみむすび)
です。

北辰とは北極星のことなので、星神が地主神だったということになります。

地主神が二組あります。これはどう解釈したらいいのでしょうか。

マップを見ていると、「大元神社遥拝所」があることに気づきました。
大元神社は御許山にあり、奥宮と言われますが、祭神は比売大神三柱で、
比売大神が降臨された神山とされています。
御許山山頂には磐座があり、禁足地となっています。

推測が許されれば、最初の地主神は造化三神だったのが、比売大神信仰に変化したと考えられます。
それは祭祀する氏族の変化によるものでしょう。

そして、三女神とは宗像三女神というより、水沼三女神という方が
時代的には上手く説明できると思いました。

「三女神」について、
宗像の君がもちいつく神とあるのは『古事記』。
水沼の君がもちいつく神とあるのは『日本書紀』です。
いずれも同じ三柱の女神です。

何度か書いていますが、宗像族という名称は比較的新しいのです。
(新しいといっても古代の尺度で、ですが)

私の仮説は「みぬまかた」が「むなかた」と変化したのだろうというものです。

神功皇后軍を支えた多くの海人族の中に、水沼水軍がありました。
当時三女神を祀っていたのは久留米市の赤司八幡宮でした。
景行天皇が祭壇を設けて祈り、わざわざ自分の皇子を天皇代行として残しています。

水沼君は神功皇后を迎え、有明海まで船で送り、田油津姫攻撃に参戦。
そのまま唐津に抜けて、安曇水軍の先導で新羅へ。

凱旋後に福岡市名島神社、北九州市和布刈神社に三女神が祀られています。
それは水沼水軍の湊の使用権・占有権の宣言でしょう。
それを宣言したのは神功皇后でした。戦いの褒賞と思っています。

この時、水沼族は筑後川流域から、玄界灘~響灘に出て来たと思っています。

その当時、祭祀者はまだ「水沼かた」と呼ばれていたのではないでしょうか。
それが「むなかた」と変化するのは容易です。
以上が私の仮説です。

そしてこの仮説を裏付けるものが安心院(あじむ)に見つかりました。
水沼の君が三女神信仰を持って宇佐に来ていたのです。
詳細は安心院にて述べましょう。

以上から、宇佐神宮の場合、当初は水沼君の三女神だったと思われます。
水沼三女神と書く方が、しっくりくるのかも知れませんね。

ただし、比売神そのものについては、別の神とする神社もあるので、
その時に検討したいと思います。

こちらに、三女神の伝承の宮を集めています。

三女神伝承の宮々
http://lunabura.exblog.jp/i203/


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by lunabura | 2013-08-17 10:40 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(6)

楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った


楯崎神社(2)
大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った


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奥の院の小祠です。左が岩窟で、後ろに巨大な岩がそびえています。
昭和28年6月、未曾有の豪雨によって地滑りが起こり、境内に亀裂を生じ、
お社も傾いて鳥居も倒れたので道路沿いにお社を建て直したそうです。

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こちらは道路沿いの方の狛犬。
祭神は大己貴神、少彦名、飛龍権現ということですが、
調べて行くと祭神がいろいろと変化しています。
飛龍権現も神功皇后だったり、熊野権現だったりしているので、
今回は境内の説明板に従って行きます。
かなり長い文だったので、時代順にまとめた形で歴史の流れを見てみましょう。

異賊の襲来に大己貴・宗像姫軍が戦った

まだ草木が物を言うような昔、夷が上陸して人民を殺傷した。その時、大己貴神后の宗像姫大神が神軍を率いて戦った。を立て、鼓を鳴らして防御し、ついには敵を撃ち滅ぼした。

大己貴神は先に宗像奥津宮に座す田心姫を娶って一男一女児、味鉏高彦根神と下照姫命を生んだ。次に辺津宮に座す高津姫命を娶って一男一女児、味歯八重事代主神と高照光姫大神命を生んだ。
大己貴命とは大国主神の事で、沢山の妻がいますが、
この宗像の田心(タゴリ)姫を娶った話は古事記にも書かれていて有名です。
が、辺津宮の高津姫を娶ったという話はここで初めて知りました。

辺津宮の祭神は今は市杵島姫となっています。
高津姫と市杵島姫が同一神なのかどうかは調べてみなければなりません。

ただ古い文献に当たっていくと、この三女神は現在のように
「沖津島がタゴリ姫、中津宮がタギツ姫、辺津宮が市杵島姫」という形に
決まっていた訳ではなく、あらゆる組み合わせが存在して異説だらけでした。
神社の方もそれでは問題が多いので、
現在の組み合わせで統一されたのだろうと思っています。

大己貴命が宗像の姉妹と結婚した件については、
これまでもマレビトが来た時には、姉妹と結婚する例がいくつも見られたので、
かなり古くからの慣習だったのでしょう。
鞍手郡誌を見ると、市杵島姫も結婚していますよ。
(相手がよく分からないので調査中です。これらの研究は一生かかりそうですね。)

この縁起で見逃せないのは、大己貴の時代に敵の襲来があったという事です。
同じ話が遠く離れた糸島市の雷神社(いかづち)にも伝わっていたように、
神功皇后の前の時代には異賊の襲来と戦いが長年続いた事が分かります。

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これは神社のそばから見える「恋の浦」です。ここが戦場だったのでしょうか。
現在も密航の監視塔があり、朝鮮半島から潮に乗れば漂着出来る場所です。

神功皇后が祈願した
昔、息長足姫尊が将として西征の時、この山に登って神助を祈った。その時の御船が停泊した所を京泊という。社北、御手を●●した所を「御手水の瀑布」という。

その側に大岩があり、形が軍船のようで、「加羅船岩」という。また三岩瀬あり。その中間には「湯壺」という温泉があって湧き出している。潮が引くと今なお温泉が湧き出しているのが見られる。

ここを北の磯浜と言い、その中に「五色浜」がある。小石が五色で鮮明だ。また「楢葉浜」には化石があって楢葉の文が見られる。この岸の西二町ばかりに「鼓岩」があり、形は鼓にそっくりで、草木は生えていない。鼓島はおよそこの山海の奇勝、言葉に尽くせない。どれもこれもが神明の霊蹟である。(●●は不明)
神功皇后は大己貴の戦勝の縁起にあやかろうとしたのでしょうか。
ここまでやって来て楯を奉納し、その楯が石になったと伝えます。
縁起に書かれた奇岩は現存していて、滝も温泉も残っているそうです。
珪化木や葉の化石、地層なども観察できるところです。

「京泊」(きょうどまり)は古代の良港で、輸入した馬を上陸させて放牧していました。
(⇒渡の牧跡 神代に放ち給う馬の牧跡 http://lunabura.exblog.jp/16445440/

このような半島の牧場を管理し、大己貴の戦勝の盤座を知って案内したのは誰でしょうか。
よほど信頼関係のある長でないとノコノコと付いて行くのは危険な場所です。

ここに近いのは宮地嶽神社で、祭神は神功皇后と勝村、勝頼大神です。
勝村、勝頼の二神は神功皇后を助けて新羅へ遠征したと言いますから、
この二人が案内したのかも知れないなと考えています。

尚、神功皇后が新羅から帰着した場所という伝承が海岸沿いにいくつも残っています。

最澄が仏像を奉納した
桓武天皇の御世、最澄師、求法のために唐国に赴かんとしてここに詣で、宿願を達せんこと祈り、自ら薬師阿弥陀観音像を彫刻して安置し、楯崎寺という。今俗に楯崎薬師と称する所はすなわちこの新宮なり。誤って古宮を薬師となし、神山を称して薬師山という。かつて大神の本跡を知る者なし。
最澄までやって来たんですね。
この楯崎神社のご加護の大きさは数百年たっても語られ続け、
最澄もまたその御加護を祈願して仏像を彫刻して奉納したことから、
薬師寺、薬師神社という名称が重なっていったようです。

西行法師が歌を詠んだ
夫木集 西行法師
さかおろす 楯石崎の 白浪は あらきしほにも かかりけるかな

西行法師がこの楯石崎の海岸を歌に詠んでいました。

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バルチック艦隊と三笠の戦いもこの海です。



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by lunabura | 2012-03-16 16:14 | 楯崎神社・たてざき・福津市 | Trackback | Comments(5)

名島神社(6)倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた


名島神社(6)
倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた

これまでは名島神社については聞き語りを中心に書きましたが、
今回は福岡県神社誌を見て行きたいと思います。
名島神社へのアプローチは道路や団地があって分かりにくいです。
帆柱石(ほばしらいし)」の案内板を目印にいくとこのような海に出ます。
ここは既に神社の境内です。すぐそばに有料駐車場もあります。

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ここには荒磯があって、親水公園があります。

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そして波打ち際に「帆柱石」(ほばしらいし)があります。
神功皇后の船の帆柱が化石になったと伝えられています。
アップしてみましょう・

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帆柱石は木の化石です。説明板を見てみましょう。(一部変更)
名島檣石(なじまほばしらいし)
カシ属の幹の化石(珪化木)で、円柱状の石片が連続しています。名島の丘陵を形成した第三世紀の地層中に露出したもので、時代は漸新世前期(約3700万年前)に属すると考えられています。
香椎宮の社伝によれば、神功皇后の三韓出兵の時に用いた船の帆柱が化石になったといい、近くの「まないた石」や「縁の石」の大石とともに伝えを偲ばせています。
     2000年3月
さすがに伝承は大風呂敷でしたが、神功皇后と結びつけられたのには訳がありました。

祭神 湍津姫命、田心姫命、市杵島姫命
由緒 宗像三神神功皇后の勧請で、その後社は旧藩主より寄附。明治5年11月3日村社に被定。
社説に曰く、神功皇后の御征韓で出発の祭、ここで宗像三女神に三韓服従のことを祈願されて、従軍将士の氏名を名乗らせ、(元黒崎と言ったのをこの時から名島という称号になった。)乗船されて、凱旋の帰途にここに報賽のため、宗像三女神を奉斎されたのが起源である。その時、供奉の官人を御社創立のために残して社務に当たらせたという

中世時代、宗像神を仏名に変えて弁財天と称したが、明治維新の際に名島神社に戻った。(中略)
境内には神功皇后が征韓された時の帆柱が石になったと言い伝える檣石(ほばしらいし)がある。(福岡県神社誌)
名島神社は香椎宮を出港した船団の重臣たちが名乗りを挙げたという事が始まりでした。
その時、神功皇后が宗像三女神を祀りました。
この伝承が大きくなって神功皇后の船の帆柱が石になったという話になりました。

今回注目したいのは従軍将士の氏名を名乗らせたという事と
祭神が宗像三女神だという事です。

前回「筥崎宮(2)」で、香椎宮の神幸祭は
神功皇后が率いる倭国軍の出陣を模したものだと紹介しましたが、
香椎宮を出ると名島は志賀島に向かう航路上に当たります。

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この時、唐津から洞海湾まで、玄界灘の各地の港からも
一斉に軍船団が壱岐の島に向けて出港したことでしょう。

その大事な出陣の儀式が重臣たちの名乗りで、その時に神功皇后は宗像三女神を祀りました。
ただ宮司さんによると、祭神はもともと豊玉彦だったという事です。
確かに名島神社と志賀海神社の祭祀圏を考えると
同じように「君が代」を伝えている点など不即不離の関係です。

豊玉彦は那の国の王であるとも伝えています。
そうすると、名乗りを上げた対象は豊玉彦で、
宗像三女神はこの時合祀したのかも知れないなと考えました。

神功皇后の乗る龍船は安曇磯良が舵取りをしています。
だから彼の祖である豊玉彦に敬意を払ったのだと思うのです。

宗像三女神を信仰していたのは筑後川から北上してきた水沼族だと赤司八幡神社で推測しました。
田油津姫攻撃の時からずっと側で仕えてくれて、その長たる国乳別命(くにちわけ)も乗船している訳ですから、
水沼族への報恩のしるしに、三女神を祀る事で新たな拠点を保障したものではないかと考えました。

さらに、凱旋後に社務をする人を置いて行ったということですが、
この名島の沖の小島に神功皇后は戦利品の鉄の武器を隠したという伝承があります。
今は陸地になって面影もありませんが、
戦後の人々はそこに鉄を拾いに行っては現金化していたそうです。
鋌鉄(ていてつー鉄の延べ板)の可能性もあるなと思いました。
ですから社務というのは鉄器の管理者でもあったのではないでしょうか。

さて、それから千数百年経って、豊臣秀吉がやって来ました。
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神殿です。
秀吉公か来た時にはすでにこの社殿は現在地に降ろされていました。
もともと神功が峯という頂上部に置かれていたそうです。

豊臣秀吉は神功皇后の跡をなぞっている気配があると以前書きましたが、
この神社には「御座所」(ござしょ)を設けて九州観察の中心としたとあります。
それはこの地が九州を観察するのにふさわしい地形だったからです。

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境内の左からはその頂上へと向かう遊歩道が出来ています。
そこを上って頂上の景観を見てみましょう。

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臥龍桜。

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名島神社は桜の名所です。

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秀吉公は淀姫を連れてここに宿泊しました。若杉山や宝満山などが遠くに見えています。
手前の丘陵地帯の麓には弥生銀座がありますよ!
そこに那の国の根拠地があると思われます。淀姫もこの景色を見たのですね。

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これは左の方。立花山が三上山に見えています。その手前に香椎宮があります。
筑紫平野のかなりの部分を目視できます。海も見えた事でしょう。

黒田長政公も見た景色です。
黒田長政がここに赴任して来て城をすぐに移転させたのは、
名島神社にある古い秘密を知ったからだろうと思っています。

その秘密はブログには書けないのですが、
黒田長政がキリシタン大名だったという事が関係していると思います。
神社の上に城があるのが憚られたのでしょう。

だから、長政公が名島城を廃城にした心を汲み取れば
この公園に城を作る事は問題があると思います。
名島神社がこの場所に戻るのが本筋だと思っているんですよ。






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by lunabura | 2012-03-15 13:54 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(4)

赤司八幡神社(1)筑紫道中のとよひめさん 記紀を補う縁起を紐解く


赤司八幡神社(1)
あかじはちまんじんじゃ
福岡県久留米市北野町赤司
筑紫道中のとよひめさん 記紀を補う縁起を紐解く 

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夏の陽が傾きかけた頃、赤司八幡神社に向かいました。
ここは筑後平野のど真ん中。
筑後川の向こうに耳納連山が見えています。連山の右端に高良山があります。

地図を見ると神社はすぐそこで、杜(もり)も見えるのに、道がそれて行きます。
たまたま三叉路にお巡りさんがいたので尋ねると、ニコニコして道を教えてくれました。
聞かなければ分からなかった。近づくと道は迷路のようになっています。
城跡だと後で聞いて納得しました。

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参道です。一の鳥居を過ぎた所です。

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筑後平野に沈む夕陽が長い影を作っています。

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拝殿前のソテツは珍しいです。

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拝殿です。参拝を済ませて境内を廻ると、
宮司さんが自ら境内を掃き清めてありました。
話が伺えた上に、古文献を集めた分厚い資料を知人がもらいました。

不思議にもその資料は三人の方から私の手元に形を変えて届けられていました。
その資料に目を通すと、これまでの多くの課題を解くヒントがありました。
そうだったのか。
こうしてブログで歩いて来たからこそ理解出来る内容でした。

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神殿に廻った時、「あれ?お伊勢さんと同じだ」と言うと、
宮司さんが「ここは八幡神社だけど、宗像三女神が祭神だからですよ。
天照大御神のお子神だからです。」
と教えてくれました。
「もとは、とよひめ神社でした。」とも。

「とよひめ」は豊比咩・止誉比咩・豊姫などと表記されます。
私はここでは止誉比咩と表記したいと思います。
豊姫と言えば、武内宿禰の妻、神功皇后の妹です。
ヨド姫はシリウスの化身であり、津波を教える女神。
それと区別つけるためです。

赤司八幡神社のいにしえの姿「止誉比咩神社」とはどのようなものでしょうか。
この筑後平野のど真ん中にどうして宗像三女神が祭られているのでしょうか。

ここに縁起があるので、「楢原猛夫本」を口語訳します。
筑後の国・止誉比咩神社の本跡の縁起の序をしるす。

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。

天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。

大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。

気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。

醍醐天皇の御代に誉田の神霊と武内の神霊と住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)
いかがですか?
「まさか?」と思いましたか?「なるほど!」と思いましたか?
私は最初「まさか?」と思い、何度も読むうちに「なるほど!」と
思うようになりました。
この縁起には古代の筑紫を知る手掛かりが沢山含まれています。
しかも、このブログではおなじみの人ばかりが登場しています。

次回は縁起の説く世界を紐解いて行こうと思います。
   (つづく)

地図 赤司八幡神社(止誉比咩神社)





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by lunabura | 2012-01-14 14:39 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(6)

赤司八幡神社(2)三女神を祭る海北道中・水沼の君


赤司八幡神社(2)
筑紫中津宮の時代…ここは三女神を祭る海北道中だった
三女神を祭るのは水沼の君と宗像族とどちら?
 

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。

こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。
今回は縁起の中の大きな課題である、ここが「海北道中」だという伝承と、
三女神を祭るのは水沼の君宗像族とどちらなのかという点について考えます。

記紀によれば、アマテラスは水の女神たちを筑紫に降ろしたとき、
「天孫を助けて、天孫の為に祭られなさい」と言います。その場所は「海北道中」です。
そして三女神をいつき祀るのは「水沼の君」と「宗像族」という二つの伝承が書かれています。

海北ということで、宗像市の宗像神社から沖ノ島を自然と想像しますが、
これは現代の地形の感覚から生まれたものです。
この赤司八幡神社の縁起はここが三女神の降臨地の一つで海北道中だと伝えます。
その点について、古代の地形から考えてみたいと思います。
宮が筑紫中津宮と呼ばれ時代の話です。

ありなれ川
福岡には忘れ去られた古代の海があります。
それが福岡の中央を貫流していた「ありなれ川」です。
「ありなれ川」とは「天の川」の意味で、
宇宙を流れる星の川を筑紫の中央を流れる巨大な川に見立てたものです。

各地を廻って昔の事を尋ねると、「昔はここは海だった」とよく聞く事がありますが、
「まさか、こんな内陸部まで。」と驚かされます。

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上の地形図を見ると、薄い緑色の平野に「入り海」の名残が見えます。
(県外の方は宗像の場所を確認しておいて下さいね。)

古代の人は博多湾から筑後平野へと船で移動することが出来ました。
ただし筑紫野の針摺(はりずり)は狭い上に、南北から違う波がぶつかっているので、
難所だったと思われます。

次の地図は「小郡市誌」から抜粋したものです。

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筑後川流域の入り海の様子が詳しく調査されています。
7世紀後半という事は斉明天皇が筑紫に来た頃ですね。
斉明天皇が朝倉の橘の広庭宮で急に亡くなったために、
磐瀬宮との連絡路をどうしたのか考察するために作られた資料だと思われます。

(よく見ると博多湾の方は、ざっと書かれている状態です。
また、堆積した平野部の島々も省略されています。
設定標高が高すぎるかな…。
この地図は古代の筑紫を考える為のタタキ台程度に見て下さいね。)

中つ海
「中つ海」とは「ありなれ川」の事です。
縁起では、この「ありなれ川」の流域を三つの地域に分けていました。

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赤い丸で示したように筑前、筑中、筑後の三つです。
その筑中の中央にある「筑紫中津宮」が現在の赤司八幡神社です。

さて、縁起では「海北道中」とはここだと伝えている点についてですが、
「海北道中」とは宗像神社の北の海だと思い込んでいるので、まずは驚きます。
しかし固定観念をはずして縁起の言う世界観を見てみましょう。

宮のあたりは「河北」(こうこだ)と言います。
ここは潮が引けば「筑後川の北」であり、
満潮になると「有明海の北」になる所なので、海でも河でもある所です。
「河北」とも「海北」とも言える地形です。

だから、「ここが海北道中だ」というのは問題ありません。

二つの島
この「筑紫中津宮」の祭神の三女神は「九州二島惣鎮守の神」と言われていました。

「九州の二島」というのは
「ありなれ川」の左右を「島」と見なした時の呼び方だと思っています。
右の島を右佐島(宇佐島)、左の島を左佐島(佐々島)と呼んでいました。
その名残の地名が大分県に宇佐、長崎県に佐々として残っています。

二つの島の中央部であり、かつありなれ川の中央部に
国を守る惣鎮守の神を祭るのは理にかなっています。
三女神は道主貴(みちぬしのむち)とも言いますが
古代の筑紫の交通の要衝にふさわしい名前でもあります。

こうやって調べて行くと、この赤司八幡神社の縁起は
かなり古い形態を伝えているものだというのが見えて来ました。

さて、ここに居たのは水沼(みぬま)の君です。
水沼は水間、三瀦(みずま)と表記されて地名にも残る事から、
筑中と筑後を統制していた氏族と思われます。
それに対して筑前にいたのは安曇族(あづみ)でした。

それぞれの海の干満の知識を知り抜いた海人族たちが住み分けしていたのが
筑紫中津宮の時代だったと思われます。

筑中の消滅
のちに筑中の地名は消えて筑後に吸収されて行きます。

筑中が消滅したのは、白村江の戦いで水軍が壊滅状態になり、供出した船と
成人男性の人口が激減したのが原因の一つだと私は考えています。
さらに筑後川の堆積によって海が消滅して舟運が不要になってきました。

そんな水沼族が新天地を求めるとしたら、ありなれ川を遡って博多湾に抜け、
安曇族とは競合しない宗像市の釣川に向かうのは妥当でないかと思うのです。

そうすると記紀に書かれた三女神を祭るのが「宗像族」と「水沼の君」という
の二種類の伝承は矛盾がなくなります。

二族は同族ではないか、「みぬまかた」が「むなかた」と変化したのではないか
と前に書きましたが、全く同じ論を唱える人がいたのを資料の中に見つけて、
今びっくりしている所です。

 (つづく)



ありなれ川についてブログ内散歩コース

高天原(1)志賀島の海に高天原があった(なぜ海の中に高天原がある?)
http://lunabura.exblog.jp/13654361/

(今読み返すと、よく分からない状態で書いているので、理解しにくいですね。
すんまっせん)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた・
http://lunabura.exblog.jp/16018354/

(これもレジュメなので、文章になってませんが…。)






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by lunabura | 2012-01-13 22:19 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(2)

赤司八幡神社(3)天の真名井と星の祭祀


赤司八幡神社(3)
天の真名井と星の祭祀

前回、縁起の前半を紐解いて、三女神が天孫を助けるために
この河北(こうこだ)の地に降りてきた事が分かりました。

今回はそのつづきを読みましょう。
天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。
「蚊田」というのはここの地名で、和名抄には「賀駄郷」と書かれています。
日本書紀には筑紫の「蚊田」が応神天皇の出生地だと書いています。
出生地については後で検討する事にして、
今回は「天の真名井と蚊田の渟名井」について考えて行きたいと思います。

この「蚊田の渟名井」は「益影の井」と言う名で残っていました。
神社から一キロほど南です。水はもう湧いていないそうです。
(大城小学校内だそうですが、まだ行ってません。)

「この渟名井に『天の真名井の一元(根源)の水』を降ろした。」という事は
天の水を地上の渟名井に降ろしたと言う、壮大で神秘的な話です。

「天の真名井」という言葉は神社や聖泉に付いているので
よくお目にかかりますが、星の名前でもあるのです。
「天の真名井星」と言います。いったい何の星でしょうか。

天の真名井とは北極星だった
眞鍋氏の本によると、真名井星とは北辰(北極星)の事だそうです。
その部分を解読します。(『儺の国の星・拾遺』p120)
中国では極光(オーロラ)の朱赤を「玄」「辰」と書いた。
「辰」は発音が「神」「眞」と同じ事から、「神」に通じた。
その色は天地の漆黒の闇の中に、火山の噴火の炎が赤く周囲を照らしだす色である。
また大地震で火炎が天に向かう柱となる凄惨な色が「辰」であり「神」だった。

北辰を真名井星(まないのほし)と言う。
「真」とは紫紅の色彩を言う。その紫は最高冠位の服の色になった。
「名」とは時代によって「土」を指したり、「水」を指したりした。

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写真のようなオーロラの赤い色を「玄」「辰」と中国では書いていました。
「北辰」とは北にそのようなオーロラが出ることを知っていて出来た字だそうです。
「辰」「神」「真」は同じ発音であることから、「真」で「赤紫」色を指すようになりました。

「真名井」とは宇宙の「神聖な赤色が出現する北の方向」と「水」を示す言葉でした。

これを踏まえて、もう一度縁起を読みましょう。
天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。
天孫降臨の時に、北極星の神水を蚊田の渟名井に降ろして、その水を供えた
という話になります。
実際には、泉に北極星が映り込んだ時、その水を汲んで供えたと言う事でしょう。

それを担ったのが三女神であり、巫女でした。
その巫女を水沼(みぬま)と言った時代がありました。(大善寺玉垂宮にて詳述)

私はこのような星の祭祀があった事が伝えられている事に感動しました。

当時の北極星は何だろう?
問題は北極星です。北極星は時代によって変わります。
天孫降臨の時代は何の星だったのでしょうか。
天孫降臨がいつなのか誰も分からないので、ちょっと困りましたが、
神武天皇が2600年前と言う事(らしい)ので、それより昔に設定してみます。

とりあえず3000年前頃と設定しておきましょか。
それというのも3000年前頃なら北極星は龍座のツバーンだと
はっきりしているからです。(理由がそんなもので済みません。)

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3000年前に筑紫に立って北極星を探すと、くねくねと連なる龍座が見えて、
そのしっぽあたりにツバーンが輝いています。
ずっと見ていると、ツバーンは不動なのですが、それを中心にして
ヘビのような龍座が左廻りにぐるぐる廻ります。

現代ならポラリスの廻りを小熊座や北斗七星がまわります。

この祭事は星が一番輝く新月の深夜に行われたのだろうと思います。

これで思い出すのは満月の夜に月の光を映しこむ神事です。
鞍馬寺のウエサク祭では5月の満月の夜、器に水を満たして満月を映し、
祈りを込めたあと、その水を人々に分かちあう神事がありますが、
同じ名前の祭事がアジアの各地に残っています。

味水御井(うましみずみい)神社大善寺玉垂宮でその可能性を探りました。
この筑紫中津宮でも満月に神事が行われたかもしれません。
どれもが水沼の君のエリアだからです。

ここは御井郡で、三井郡とも書きますが、語源は三つの泉から来ています。
一つは味水御井神社。もう一つがこの渟名井(益影の井)でした。
さらにもう一つ。逍遥しながら出会えたらいいですね。

水沼の君の神社の伝承を紐解く事で古代日本の祭祀が一つ分かりました。
う~ん。すごい縁起だ。

なお、赤司八幡神社には「竿例し」という特殊な祭事があります。
正月14,15日の夜、地上10尺の竿を立て、
月光によって生じる竿の影の長さを測って占象とするものです。
(現在は旧歴の正月14日の晩だけ行われる。)

これは日時計ならぬ月時計ですね。
満月は15日前後なので、竿の影を観測して正しい満月時を得たのでしょうか。
この辺りは誰か専門家の人、教えてください。

水沼族の満月と新月の祭祀。なんとしめやかで美しい神事でしょうか。

そして星と月があれば太陽があるはず。
近くに伊勢天照御祖神社があった事が記録されていますが、
それは所在不明になっています。
久留米のみなさん、見つけたら教えてくださいね~。
(つづく)





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by lunabura | 2012-01-12 22:02 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(20)

宗像大社(6)みあれ祭・市杵島姫が姉姫さまたちを海上までお迎えに


宗像大社(6)みあれ祭

市杵島姫が姉姫さまたちを海上までお迎えに
秋季大祭は大船団の海上神幸から始まった


2010年10月1日。よく晴れた青空のもと、神湊(こうのみなと)へ。
宗像大社 みあれ祭についに行って来ました。

例年10月1日はこの日は三か所に分かれて祀られている三女神が
辺津宮(へつみや)に集まる日です。
遠い沖ノ島には田心姫(たごりひめ)。宮司さんだけが住む無人島です。
大島には湍津姫(たぎつひめ)。ここまでは女性が行けます。
辺津宮には市杵島姫(いちきしまひめ)。いわゆる宗像大社です。
その三柱が三日間だけ集まって秋季大祭が行われます。
遠い島に住む姉姫さまたちをお連れするのは地元の漁師さんたちです。
みなさんが力を合わせて大船団を組んで神湊(こうのみなと)までお迎えします。
この海上神幸がみあれ祭です。
今日は、その祭りのレポートです。

9時半に御座船(ござふね)が大島を出発して、約一時間で入港すると聞いて、
神湊のフェリー乗り場の第一駐車場に入ったのは8時11分。
あと四台分開いていますよ、と言われて、ぎりぎりセーフ。
波止場の防波堤の上に陣どりました。左右にはずっと年上のお兄さまたち。
情報交換をしながら、楽しく待ちました。
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今朝の太陽のオーラは舞扇を広げたようで、気分が高まります。
海には光の道が出来てきらきらととても綺麗です。
8時38分。辺津宮の市杵島姫を奉斎したお神輿が神湊に到着しました。
ひとり静かに姉姫さまたちを迎えに出る時を待ちます。

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今頃は御座船2隻と150隻の大船団が大島に集結しています。

9時30分。二人の姉姫さまの神輿が御座船に乗って、大島を出立しました。
御座船に選ばれた船はその年一年の豊漁を約束されるとか。
今は、新造船がその名誉を担います。
この波止場からも、大島が見えていて、はるかかなたの水平線に、
真っ白な船が真横に走っていくのが見えます。
大船団は一直線に鐘の岬の方に向かいます。
そう、織幡宮がある鐘の岬です。

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すると、こちらの市杵島姫の神輿も船に載って、姉姫さまたちを迎えに出ました。

三女神が合流すると、船団は直角に曲ってこちらに方向を変えました。
何隻も何隻も。大船団です。正面からこちらに向かって来ます。
その迫力に胸が熱くなって来ます。

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「どれか分からん。」とルナが興奮すると、
「一番高いが立っているのが御座船。」と隣の人が教えてくれました。
みなさん、望遠レンズで三脚もバッチリ。連続シャッター音の響く中、
ちっちゃなデジカメで限界に挑戦。なんとか、遠い船団が写りました。

すると花火が鳴って興奮も最高潮。
「あの花火が船団の解散の合図ですよ。」と隣の方。
それから船たちは各地の漁港に帰って行くのだそうです。
その直後、船たちは派手なパフォーマンスを始めました。
急カーブを描いたり、蛇行運転をしたり。
べたなぎの海面がうねって白いしぶきがあがります。
波が高くうねって、船はまるで嵐の中のように波間に見え隠れします。
各船それぞれに派手な運転で御座船に別れをつげて離れて行きました。

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残った三隻の御座船が粛々と入港して来ます。
神官や奉仕の人たちの姿もよく見えます。
すると海上の船から再び花火。
廻りの島々に届けとばかりに入港を知らせる花火が轟きました。

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三艘の御座船が岸壁に横付けされて、それぞれの船から神輿が降ろされると、
一年ぶりに三姉妹が揃いました。
この神輿を奉斎した船の人々の見守る中、清め祓いの神事が催行されました。

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それから、神輿はすぐそばの高台にある頓宮(とんぐう)へ。
「おー~。おー~。」という清めのケイヒツの声を先頭に神輿が練り歩きます。
空の雲までも鳳凰のよう。
向こうに見える右の島は地島。左が中津宮のある大島です。
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頓宮には建物は何もありません。古式そのものです。
頂上のひもろぎにて、改めて御迎えの神事「頓宮祭」が行われました。
ここでは三女神が揃っていて、こんなに間近で拝観する事が出来ます。
ただ今11時半。このあと、いよいよ本宮への行列です。


天気も最高で、おだやかな秋の一日。お祭りの初日のレポートでした。
永年の憧れだった「みあれ祭」。縁あってようやく見る事が出来ました。
一生に一度は見たかったので感慨もひとしおです。

まだまだこれから3日間、神事が続きます。
港では、日程の分かるパンフレットが配られたんですよ。
ここにその日程表を掲載しておきます。
 みあれ祭について
宗像大社の秋季大祭に先立ち、9月中旬に大島より御座船(ござふね)を仕立て、沖ノ島の沖津宮に向かい、まず田心姫(たごりひめ)の御神霊を大島の中津宮までお迎えする「沖津宮神迎え神事」が斎行されます。
 そして、10月1日に大島の中津宮より神湊(こうのみなと)まで、沖津宮と中津宮の神輿をお運びするのが海上神幸「みあれ祭」です。
 神湊では辺津宮の神輿がお出迎えになり、一年に一度、三宮の御神璽がお揃いになります。このおまつりは古くから行われた御長手神事(長い竹に布を付けたもの)を神のしるしとして辺津宮にお迎えした神事を再興したものです。

秋季大祭日程表
10月1日     午前9時30分  中津宮出港(海上神幸)みあれ祭
           午前10時30分 神湊入港
           午前11時     頓宮祭(宗像市神湊)
           午前11時20分 陸上神幸
           午前11時40分 入御祭斎行(主基地方風俗舞奉奏)

10月2日     午前8時     流鏑馬神事
           午前11時    秋季大祭第二日祭(喜多流翁舞奉奏)

10月3日     午前11時    秋季大祭第三日祭(浦安舞奉奏)
           午前11時40分 高宮祭
                      第二宮・第三宮祭
                      宗像護国神社秋季大祭
           午後6時     高宮神奈備祭(600年ぶりに復活)
     日程は変更になる場合があります。

高宮神奈備祭 (たかみやかんなびさい)
高宮神奈備祭は、秋季大祭を締めくくる祭典です。みあれ祭でお迎えした宗像三女神に秋祭りの無事斎行を感謝すると共に、新たな霊力を戴かれた宗像三神の神威の無窮を祈念する神示です。高宮は宗像大神降臨の伝承地で、神奈備山・神奈備の杜と崇めれられてきました。
神奈備とは神々が降りてくる山や杜を意味します。

高宮神奈備祭のレポートは宗像神社(3)に書いています。

るなメモ
●みあれ祭に行く時は、日焼け対策、風よけなどをしておくこと。
●第一駐車場料金 12時間300円。(2010年時点)

●御座船は一隻と思い込んでいたけど、三柱にそれぞれの御座船があったのを知ったのはとてもよかったです。

●神輿の先導のケイヒツの声を初めて聞きました。源氏物語に出てくるのですが、本では分からない、生の声が今に伝わっていました。

●海上神幸の航路がいったん鐘の岬に向かって行ったのは、現場に行かなくては分からなかった事。そこは海路の難所ですが、その岬にはこのブログで紹介した織幡宮があって、竹内宿禰が祀られています。この海路の安全と国を守る為です。そして、「御長手(おんながて)」という竹に幟を付けた始まりの宮でした。
船団がまるでそこに挨拶するように見えたのも、とてもゆかしかったです。

●地元の小学校では、男子生徒全員が船に乗ってこのみあれ祭を体験すると聞きました。残りの人たちは浜に出て、知っている船に手を振るとか。子供たちに祭りを体験させるのは、文化の継承のために一番必要な事なんだと思いました。

●遠方の人がこのみあれ祭を見るためには、地元のホテルや国民宿舎、民宿に前日から泊まるのが一番です。バスなどで祭りを見に連れて行ってくれます。神代の時代からの風景がそのまま残る宗像路の旅はルナのお勧めの旅です。


《ブログ内で宗像の旅をするなら》
       三女神の元宮を訪ねる  六嶽神社⇒神興神社⇒宗像大社       
       海と祈りの宗像路    宗像大社⇒織幡神社⇒玄界灘の黒船騒ぎ  
  
地図 宗像大社 神湊





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by lunabura | 2010-10-02 14:46 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(6)

三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


三環鈴
天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


『伽耶文化展』の第3弾。今日のテーマは「三環鈴」です。

c0222861_1351635.jpgこれが三環鈴です。リングに三つの鈴が付いています。韓国咸陽郡の上栢里(じょうはくり)から出土。(最大幅6.0㎝ 厚さ2.8㎝ 三国時代 5世紀 東亜大博物館)
馬具の飾りに分類されていました。
咸陽って中国だけかと思っていましたが、伽耶にも咸陽があるんですね。
(写真は実物より大きくなっています)







c0222861_13515314.jpgさて、これを見た時、「あれ、天河神社の五十鈴だ。」と思いました。三環鈴は天河神社では「五十鈴(いすず)」という名で御本尊となっています。これがその写真です。青銅製です。大きさは手のひら大。(下の写真を参考に)










天河神社とは
正式名称は「大峰本宮天河弁財天女社」ですが、普通は「天河神社」と言います。
紀伊半島の中央部・奈良県吉野郡天川村にあります。
修験道の重要拠点で、今でも護摩焚きなどがあっています。
この御祭神は市杵島姫。(宗像大社の女神ですね。)
それが密教を通して弁財天となりました。この二神はよく同一化されています。
この弁財天が芸能の仏さまという事で芸能人やミュージシャンがはるばると天河神社に訪れます。
その神社の御本尊の三環鈴は実際に音が出ます。
天河神社のHPには、天照大御神の天の岩戸隠れの時に、岩戸の前で振られたものとも書いてあります。

どうやったらよく音が出る?
三環鈴は考古学的には馬鈴として分類されていますが、少し疑問が残ります。
これはぶら下げるようには出来ていないのです。
普通の馬齢は紐通しが必ずついています。
私は天河神社の五十鈴のお守りを持っているのですが、
ぶら下げてジャンプしても肌に当たった時、音が消えてしまいます。
(馬のようには走れないから?ではないと思う)
つまんで振れば音が出ますが、それでは三つの形が活かせません。
音を上手く鳴らすには、棒に挿して両脇を固定する方がよさそうです。
なんとなく巫女さんの振る鈴っぽい形になります。


三環鈴の日本での出土例を探す
そこで、三環鈴をネットで調べてみました。ちょっと数えただけでも16例ありました。
どの三環鈴も馬具と共に出土しています。
馬鈴と解釈するのが一番多かったです。
しかし、ルナ的には今だに「はいそうですか」とは言えない気分が残ります。
(と、リングの中央をしげしげと見る)

サイズの変化が気になった。
ネットではサイズまでは書いてあるものが少なく、三つほど書いてあったので小さい順から並べます。
●中央のリング3,8㎝、鈴の直径2,7㎝(佐賀・花納丸古墳・6世紀)
●長さ13㎝、厚さ5,3㎝、鈴の直径5,5㎝(静岡・山ヶ谷古墳・6世紀)
●高さ6,3㎝。(ボストンにある伝仁徳稜)

伽耶では長さ6㎝厚さ2,8㎝だったのが、倍以上に大きくなっていきます。
まるで銅鐸のようですね。
イメージの助けに、CDの直径を測ると12㎝でした。
初期の三環鈴はその半径の大きさです。
面白い事にCDぐらいの大きさになると、手で持って振りやすくなります。
実際、天河神社ではそのレプリカを手に持って振られます。
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日本では神器へと昇華していった
三環鈴は古墳からの出土がほとんどですが、珍しい例として、
神社に奉納されたものがありました。
福岡県北九州市の岡田神社。神武天皇の神社です。
藤原の純友の乱を鎮圧した小野好古が奉納したと伝えられています。
三環鈴が神器のように、特別なものになったのが分かります。


この三角形という形が、三つ巴という神道思想に合致する形だったので、
倭人に特に好まれて、手のひらサイズに大きくなって、
神を呼ぶ時に鳴らされる祭祀の神器となっていったと思われます。
天河神社では鎮魂(魂を丹田に鎮める)に使われるそうです。

トータルの仮説として
青銅文化の中で出現した三環鈴は伽耶の王族たちに何らかの形で用いられて、
死んでからも馬具と共に埋納された。
渡来人と共に倭にやって来た時は6㎝ぐらいのサイズだったのが、
あっという間に12㎝のサイズに巨大化されて、手で振る神器となり、
祭祀に使われたり、神社に奉納されたりするようになった。
と考えました。

ルーツを考えると、伽耶では既に完成形になっているので、
原型はもっと北の方で見つかるのではないかと思いました。
また、三種の神器の玉・鏡・剣の三点セットのようには注目されていないので
見落とす事が多いのでしょうが、
ワカタケルの刻印がある有名な鉄剣が熊本と埼玉にありますが、
これには両方とも三環鈴が一緒に出土しています。
三環鈴は王位の象徴のアイテムとしても検討してもいいのではないかと思いました。

参考文献
『天河』 監修 柿坂神酒之祐 扶桑社
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
写真はこの二冊から転載しました。

ちなみに、不思議な天河神社参拝記は別項でいつか書こうかなと思っています。



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by lunabura | 2010-08-30 14:11 | 三環鈴・天河神社・奈良県 | Trackback | Comments(8)
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