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タグ:小郡市・三井郡 ( 13 ) タグの人気記事

小郡「黄泉の道」の古墳巡り(1)横隈山古墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(1)
⑤横隈山古墳

福岡県小郡市

小郡市内歴史の道マップを手にしながら「黄泉の道コース」を廻ってみました。
思い立った理由は夢の中に「生掛遺跡」という張り紙が出て来たから。
「生掛(しょうがけ)古墳」の事だとすぐに分かりました。
確か小郡市だったはず…と地図を見ると
「津古(つこ)」のすぐ傍ではないですか。

「津古」と言えば、老松神社の伝承に、
「神功皇后が津古から船に乗って老松神社に行って行在所とした。
武内宿禰に祀らせた。そこから田油津姫を攻撃した。」
とあって、気になっていた所です。
物部軍の拠点があった所になるからです。

「津古」―駅名としてはよく知っているけど、
古墳が集中して見つかってる所だとは知らなかった。
丘陵地帯の古墳群。御原国のエリア内です。

これが「黄泉の道」コースのマップです。
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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


九州歴史資料館で手に入るこのマップは歩く人のためのものなので、車で古墳巡りをしようとすると信号機の名前などが載っていないために、2~3種類の地図を見比べながら走らないと分からないです。


神社と違って古墳は地図に載っていないので緊張の連続。
今回の目的は5つの古墳を完走して地形を掴むこと。
マップのお勧めとは反対に左回りで見学する事にしました。
出発地点は小郡埋蔵文化財センターです。


⑤横隈山古墳

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埋蔵文化財センターから東へ。並走する車道と電車路線を超えて宝満川方面へ。
整然と区画整理された坂道の住宅地へ入って行きました。
古墳なら自然林があるはずと見回すと早くもこんもりとした丘が見えました。
あわてて左折すると、入口がない。
人に尋ねて、反対側にありそうだと聞いて廻ってみると、ありました。
案内板がちゃんとありましたよ。

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石段までついているので、墳丘に登ってみましたが、樹木があるだけでした。
案内板を写しておきます。
横隈山遺跡
現在「みくに野東団地」の名で呼ばれる23万平方メートルに及ぶ範囲を横隈山遺跡という。

1973年3月より実施された発掘調査により、この遺跡が旧石器時代から縄文、弥生、古墳、歴史時代と、間断なく生活の場であったこと、特に弥生時代の遺構群はほぼ全域にわたって存在することが明らかにされた。

現在地は横隈山遺跡第一地点で、保存されているのは前方後円墳である。墳丘は全長約35.6m、後円部南側は盗掘などで原形をかなり壊されている。石室など、内部主体の確認はされていないが、円筒埴輪の破片は採集されている。墳丘の形態は帆立貝式前方後円墳に近い。5世紀から6世紀にかけての築造と考えられる。

横隈山遺跡は標高20~50mの丘陵地帯に位置しているが、この古墳が最高地である。見晴らせば、東に花立山、西北に津古遺跡、原田五郎山古墳と続き、筑後平野北部の古墳時代前~後期の変遷を知る上で重要なばかりか、筑前、肥前、筑後三国の境界として歴史的要所であり続けたことと併せ、この遺跡のもつ意義ははかりしれないものがある。

北部九州には稲作農耕を基盤とする国家の成立をうかがわせる有名な遺跡が多いが、福岡平野では新幹線、高速道、団地建設などの開発により、須玖岡本はじめ殆どは破壊され尽した。植物生態学的にも、シイ、カシ等を中心とする照葉樹林体の相をみせるこの一帯は、いわざ「弥生の森」そのものであり、これだけの歴史的環境を残している所は県内でもきわめて稀であるといえよう。

昭和56年3月10日 小郡市教育委員会
          小郡市郷土史研究会

ここは横隈山遺跡というんですね。
23万平方メートルの広さがあるというけど、どの範囲なんだろう。
すごい広さみたい。住みやすさは旧石器時代から。
標高が20~50mあるので、宝満川の氾濫の心配がない所なんだ。

この古墳の長さが35.6mというのは結構大きいみたい。
帆立貝型の前方後円墳って、福津市の奴山古墳群にもあったよね。
縫殿神社の祠があった所。このブログでは2例目になるんだ。

円筒埴輪はなかなかお目にかからない。仙道古墳で見ただけ。
石室がまだ調査されてないから、未来の人のお楽しみ。
この周囲は全部団地になってしまったので、
この頂上の大型古墳だけ残されていた。
そして、目の前の森は照葉樹林体という。
そうそう、足元の落葉は雨に濡れるとつるつるすべるタイプ。
そして、これが「弥生の森」なんだ。

そして、時代は5~6世紀。
413~478 倭の五王が宋に使いを出した
479 雄略帝が末多王を百済王に任
479 倭国は高句麗を攻撃
507 継体天皇26代 即位
512 任那4県を百済へ
512 倭国は高句麗に勝利
515 倭国は伴跛国に敗北
527 磐井の乱
531 安閑天皇・27代 即位
538 百済聖明王が仏像献上
552 蘇我稲目vs物部尾輿
562 伽耶諸国が滅亡

こんな時代。ずいぶん韓半島や中国大陸との交流や戦いがあってる。
この横隈山古墳に眠る権力者も、行き交う武人や船を見たのかな。
さあ、基礎知識が出来たので、次の井の浦1号墳へ行きましょう。
       (つづく)








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by lunabura | 2011-08-05 21:33 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(2)

「黄泉の道」の古墳巡り(2)井の浦1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(2)
④井の浦1号墳
福岡県小郡市

「駅の前に古墳らしいものがある公園がありますよ。」
と、道行く人に教えられて地図を見ると、
どうやら目指す「井の浦古墳」と重なっています。
「それだあ。」
三国が丘駅前を目指して行くと、それらしき緑地がありました。

駐車場がなく、案内板も見当たらないのですが、
他に見当たらず、探索してみることにしました。

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堂々とした公園入り口です。

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石段を上がると美しい墳丘が。
一番高い所に、気品さえ感じられる円墳があるではないですか!
名前が分からないけど、「井の浦古墳」で間違いないでしょう。

自然環境も素晴らしく、案内板を求めて歩き始めると、
ミュールを履いているのに気づきました。
ミュール=「つっかけ」で古墳探しをするのは、無理無理。
こんなに明るくてきれいな森の公園は珍しいのに…。残念。
坂道を下って、道路にあった看板に辿り着くと、関係ないものでした。

案内板を探し回るのをあきらめて、次に移動しよう、と車で脇を通ると、
美しい湖に囲まれていた!
なんと恵まれた立地なのだ。
改めて、この古墳は特別な存在なんだと思いました。
上空からご覧あれ。


白くハレーションを起こしている所が湖で、空が写って白くなっています。
丸い円墳がよく分かります。
その東側にもなにやら墳丘らしいものがあるのが気になります。
写真を撮った円墳が1号墳なら、それらも古墳だったのかも。

そして、案内板が見つからないという事は資料がない!

ネットで「古代体験館おごおり」を調べると、説明がありました。
「この古墳は6世紀後半に造られて、横穴式石室で、直径23mの円墳。
石室やその周辺から、耳飾りや石製の玉類のような装飾品、
土器などが見つかっている。」
という事が分かりました。

出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトに載っていました。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 横隈井の浦遺跡 ⇒ 入力項目から検索」
と進むと「出土した銅の腕環、金銀メッキのイアリング、甕棺」が見られます。
(文字入力は上手くいかないので「▼」を利用すると、いろんな写真が見られます。)

たった5点しかないので、盗掘されていたんでしょうね。

という事で、古墳の資料はこれ以上は無いのですが、
「6世紀後半」だというのが分かったので、
その時代の筑紫を調べてみることにしました。

被葬者が500年代の後半に亡くなっているという事から
550年前後~末にここで何が起こったかという事を調べれば、
被葬者が生きた時代が分かる。
という事で、小郡市史を読んでにわか勉強をしました。

被葬者が見た時代とは
朝鮮半島では、6世紀半ば以降、百済・新羅・高句麗による天下取り合戦が激化。
538年、倭人が鉄を運び出していた南加羅が新羅に奪われ、
562年には大伽耶も新羅の保護下に入ってしまう。
日本書紀ではこの事を「新羅は任那の官家を滅ぼした」と書いている。
倭国が任那を失ったことを意味している。

欽明天皇556年、百済の王子・恵(けい)が帰国する時に筑紫の水軍がこれを護衛し、
また別に「筑紫火君」(つくしひのきみ)が勇士1千を率いて護送した。

「筑紫火君」の本拠地は鳥栖市の旧養父郡に推定されている。
その北の基肆郡物部系国造が統治していたと推定されている。

崇峻天皇は591年、任那の再興を企てて、2万余りの大軍を筑紫に向かわせる。
「大将軍」には紀・巨勢・大伴・葛城の各氏から4人が選ばれた。
この大軍が大和を離れると、翌年に明日香の地で
蘇我馬子・額田部皇女・聖徳太子らにより、祟峻天皇が暗殺される。

新政権は「筑紫将軍所」に内乱のせいで「外事」を怠らぬよう早馬を出す。
祟峻天皇の命で朝鮮半島へ出兵するはずだった大軍は
3年9か月もの間、筑紫に滞在したままだった。

市史から関係がある部分だけをまとめてみました。

被葬者が生きた時代には大きな事件として
556年に「百済王子を護送する。」事と
591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」
という事があったのが分かりました。

591年
井の浦古墳の被葬者は591年の2万の大軍を見ることが出来たでしょうか。
微妙ですね~。もう亡くなっていたかも知れませんね。

それにしても2万の大軍とか、どこに駐留させたのだろう。
「筑紫将軍所」って太宰府なんだろうか。
これだけの人数の兵糧をどうやって賄ったんだろう。
(いろいろと謎が生まれます…。)

ちなみに、603年には来目皇子が筑紫の志摩で亡くなってます。
聖徳太子は任那奪回は本気だったんですね。

556年
556年の百済王子の帰国の時には古墳の被葬者はきっと生きていたでしょう。
この時に百済王子を送ったのが、筑紫の水軍筑紫火君たちです。
「筑紫の水軍」が養成された所として、この筑後地方は有力だったでしょう。
この被葬者も直接関わったかもしれません。

「筑紫火君」は筑紫の君肥の君が通婚して出来たそうです。
本拠地がすぐ近くの養父郡(鳥栖市)なんですから、
被葬者は筑紫火君の動向を全神経を傾けて見守った事でしょう。

この6世紀後半の筑紫の風景って、
対新羅の緊張がずっと続いていたんですね。
古墳から武具がたくさん出てくるのもうなづけます。
この古墳の被葬者もこの高台から、
広い川の向こうに新羅を見据えていたのかも知れませんね。

それではで③の三国の鼻1号墳に向かいましょう。


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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


















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by lunabura | 2011-08-04 13:15 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(0)

「黄泉の道」の古墳巡り(3)三国の鼻1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(3)
三国の鼻1号墳

福岡県小郡市

三国の鼻1号墳井の浦古墳の丘陵から水田の方に下って行く方向にあるようです。
それらしき森を見つけたのですが、墳丘が見当たりません。
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こうして写真で見ても、フラットですね。分かれ道を右の方に下りてみました。

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おおお。花立山が見える!あの隼鷹神社から見えていた花立山です。
この視野いっぱいの水田がかつては川でした。

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私が歩いてきた道を振り返るとほら。かつては汀(みぎわ)があったような自然のカーブ。
ここは「津古」(つこ)なんです。

老松神社の伝承に、神功皇后は「津古」から船に乗ったと書いてありました。
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この地図は再掲ですが、中央上部に「●津古」がありますね。
今私はこの●の所にいます。
その南に老松神社「神宮皇后行在所」があります。
津古に立つと、花立山の向こう側に老松神社があるのが分かります。
ここは1800年も変わらぬ風景を残していました。
そう、稲の緑が川の水に変わるだけ。

神功皇后竹内宿禰はこの近くから船に乗って移動した訳です。
もう、誰も彼もが忘れてしまった話です。

そうそう、古墳を探してたんだ。
通りがかりの人に尋ねると古墳の案内板が上の道にあったと教えてくれました。
そして、なんとその人はこのブログの愛読者の方でした。
(驚き!こんな所で、出会うなんて!)
不思議な巡り合わせに感動しながら、教えられた方向へ。

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行くと浄化センターの建物があって、門が閉まっています。
案内板はあったけど、古墳は消滅していました。
絵を見ると、きれいな前方後円墳だなあ。岬の一番いい所にあったんだ。

その事情を案内板で見てみましょう。
三国の鼻遺跡(みくにのはな)
三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国が丘周辺に広がっていました。遺跡は弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは弥生時代後期の環濠集落古墳時代前期の前方後円墳です。

環濠集落は、全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で構成されています。環濠は最大幅4.5m、深さ2.3mで、34軒の竪穴住居群を守るように取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器や石器が見つかりました。

前方後円墳「三国の鼻1号墳」は全長66mの市内最大の古墳で、現在の団地内にありました。造られたのは4世紀中ごろで、「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最後を飾るにふさわしい巨大古墳です。

この古墳からは、二重口縁壺といわれる祭祀用の土器が焼く120個も出土したことが特筆されます。発掘調査により、この壺は古墳の墳丘上にきれいに配置されていたことが分かりました。その他にも管玉と鉄剣、そして珠文鏡といわれる鏡が見つかっています。

ここは背振山系から延びて来た丘陵の先端が宝満川沿いの沖積平野に突き出す通称「三国の鼻」と呼ばれることころで、筑紫平野を見渡せる素晴らしく見晴らしの良いところです。弥生時代や古墳時代の人々にとっても、非常に重要な場所だったことが分かります。  平成22年11月 小郡市教育委員会

福岡にも壺がずらりと並べられた古墳があったとは。初めての御対面です。
4世紀中ごろの造営で津古古墳群の最後を飾ったものです。
イラストを見ると立地が素晴らしい。
実際にこのイラストの左側の方に行くと、車を止めて写真を撮るには
危険だったのですが、大変見晴らしが良かったです。

古墳の内部主体は後円部に大小二つの割竹形木棺
前方部には一基の小型割竹形木棺が埋地されていました。
この「外形割竹形木棺二重口縁の壺」が畿内型古墳の葬礼そのものだそうです。
こんな見晴らしのいい所に造るのも、畿内型らしいですね。

ふと思ったんです。
この岬は防衛上大事な拠点で、ここに必要なのは見晴らし台なんだ。
そんな所に墓を造ってしまうんだから、平和になったんだろうか。
国防を考えない被葬者の示威行為に過ぎないのか。

弥生時代から環濠を営んで身を守った人たちが
この場所に古墳を造営したとは考えにくい。

また、ここで起こった仲哀軍皇后軍羽白熊鷲田油津姫などの戦いとは
どう結びつけたらいいのだろう。

小郡市誌を見てまとめてみました。
宝満川の中流域の中心地は現在の小郡市域で、旧三原郡だった。邪馬台国時代は弥生時代の後期後半に当たるが、そのころの遺跡は小郡市の各地に分布する。

この三国の鼻遺跡は集落が標高45m前後の丘陵の頂上部にあって、眼下に平地を見下ろせる眺望のきくところに立地している。

南西側の平らな場所に環濠が巡っていて、内部に34棟の竪穴式住居が営まれていた。
環濠は少しずつ変化して行った。

おそらく当時の水田面からの比高が20mという立地は、普通の農耕村落というよりも、いわゆる高地性の防御村落として、周辺を監視し、その動向を地域社会に通信・伝達する高地性集落であったと考える。

なるほど、環濠集落の中の家がわずか34棟とは少ないなと思ったけど、
やはりこの岬から周辺を監視する砦のような所だったんですね。
ここで得た情報は首都に当たる小郡・大板井遺跡に送られます。

邪馬台国時代の御原国と吉野ヶ里遺跡の場所を描いてみました。
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御原国の広さは分かりません。
三国の鼻から首都の小郡までをとりあえずエリアとして描いています。

弥生時代には監視所だった三国の鼻に、畿内型古墳が造られた訳です。
「畿内の支配権が及んだことを示すものだ!」
という説もあるのですが、

「これらの前方後円墳を、久留米、八女方面に南下する前の
筑紫の君の奥津城と考える森貞次郎の説」もありました。
(「日本の古代遺跡 34 福岡県」保育社)

研究者によってずいぶん位置づけが違うんですね。
これまた興味深い古墳になりました。


出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトにて。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 三国の鼻遺跡1 ⇒ 入力項目から検索」
(文字入力は上手くいかないので、「▼」を利用すると、いろんな写真が見られますよ。)


c0222861_21251530.jpg
①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳














それでは②の生掛古墳に行きましょう。

地図 三国の鼻 伊の浦古墳 隼鷹神社





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by lunabura | 2011-08-03 21:21 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(7)

「黄泉の道」の古墳巡り(4)津古生掛古墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(4)
津古生掛古墳

つこしょうがけこふん
福岡県小郡市みくにが丘


  さて、夢に出て来たのがこの津古生掛古墳
  すでに完全消滅しているのは分かってる。
  だから、何で夢に出て来たのか、確かめに行くだけ。
  何が待っているのだろうか。

現場へ行く道は地図では読めない道でした。
大通りは車がスピードを出すような所で、
そこから脇道が並行して走っていたので、そちらに行って見ました。
左の団地の中なのだから、取り敢えず左へ左へと、
地図と見比べながら曲がってみると、分からなくなってしまいました。
  古墳探しは難しい。消滅している古墳をどうやって探すのだ。

T字の手前で困っていると、目の前でワンちゃんがウンチをし始めました。
道路の真ん中!終わるのを待っていると、飼い主さんが恐縮しています。
  こんなハプニングこそ私の味方にしなきゃ。

車まで謝りにこられる飼い主さんに、いいえ気にしないで下さい、と
ニコニコしながら、これ幸いと古墳を尋ねるのでありました。
地元の人でも分かりませんでした。
でも、近くで草取りをしている人にまで尋ねてくれました。
  ふふふ。これが狙い。
そして生掛公園というのがあって、そこに案内版がある事が判明。
曲がり角をしっかりと教えて貰って、着く事が出来ました。
聞かないと分からなかったなあ。

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そしてこれが生掛公園の一部。
けっこう広いんですが、他のアングルは人家ばかりになってしまうので、遠慮しました。

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現場の案内版です。他に撮った写真はありません…。(さみしい。)
書き写します。
津古生掛古墳津古生掛古墳は、現在の「三国が丘団地」の生掛公園付近にありました。この古墳は昭和60年の団地造成に伴う発掘調査によって発見され、三国丘陵に存在する古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)に属する津古古墳群の一つです。
調査の結果、東西方向に全長33m(後円部径29m、前方部長さ4m)で、後円部が高く、前方部が低い前方後円形になることがわかりました。

なになに。3世紀後半の古墳ですって!
となると、卑弥呼が死んだすぐ後の時代ではないの。
神功皇后ももう亡くなってる。
でも、4世紀後半も含まれるとなると、倭国が高句麗と戦ったりした時代。
倭国が高句麗と戦ったなんて、全く知らなかった。
高句麗の好太王碑文に書いてある話かな?
まいったなあ。分からない事ばかり。

ま、そこは置いといて、つづきを読もう。
古墳の周辺には方形周溝墓や土壙墓などが多数造られており、この地方の有力者とその家族や近親者たちを埋葬した墓と考えられています。

出土品には、鏡のほか鉄剣、鉄鏃(てつぞくーやじり)などの武器、ガラス玉などの装飾品など多くの副葬品(お供え物)が見つかりました。

鏡は中国で作られ、日本に持ち込まれたと考えられる方格規矩鳥文鏡です。

また銅の部分が中空の鶏形二重口縁壺形土器が3個体分見つかりました。その表情の豊かさや写実的な描写から考古学の世界だけでなく、美術史的にも注目されています。ほかの二重口縁壺などと共に、祭祀に使用されたものと考えられます。

これらの出土品から3世紀の終わり頃に造られたと考えられ、九州でも最古級の前方後円墳であることが分かりました。 

なんだ、結論は3世紀の終わりなんだ。
卑弥呼が亡くなって、再び戦乱が起こった頃の人だ。
この古墳は未盗掘だった?全く分からない。
3世紀の終わりと推定された要因は鏡と二重口縁壺の形なんだろうか。

副葬品があるなら写真が見たい。
家の中の図録を探すと結構あちこちで紹介されていました。
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これがニワトリ形二重口縁壺。どこかで見た事があるニワトリですね~。
まさか、小郡市で出土していたとは。
高さ約30センチで、この写真は複製品です。これが3個分出土しました。
しかも底には穴が開けてあるんですって。

二重口縁壺というのが、どうやらポイントらしいので、
奈良の箸墓古墳の二重口縁壺形埴輪(45センチ)を見てみると、こんな形。
箸墓古墳は3世紀の中頃。ニワトリより少し古い。

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前回の三国の鼻1号墳に飾られた壺とそっくりですね。
二重口縁って、なかなか凝ったデザインなんだ。
この津古生掛古墳から出た土器は地元のものがなくて、
ほとんどが畿内や中国地方のものがばかりだったんですって。
だから被葬者は畿内と関係が深い人だそうです。

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これが古墳の形。前方後円墳でも帆立貝のタイプに近いですね。
木棺が直葬してあったそうです。木棺なんだ~。
出土した当時は「日本最古の前方後円墳」と大騒ぎになったんですって。
今では九州から関東にかけて広く発見されているそうです。

c0222861_2182539.jpg

これが出土した鏡。方格規矩鳥文鏡。中の方に正方形が描いてあるんですね。
これの年代の決め方が書いてありました。
京都府の大田5号墳から出た鏡と似ていて、
そちらの方の鏡には魏の年号が書かれていたんですって。
魏の「青龍3年」は西暦235年。
だから、津古生掛古墳の鏡も同時期に中国で作られたたと考えられるんですって。
年代が具体的に出たなんてすごいな。
1700年以上も前の時代って、何と優れた技術の時代なんだ~。
う~む。恐るべし。青銅器文化。

以上の資料は「邪馬台国―九州と近畿」(大阪府立弥生文化博物館図録44)
の写真と進村氏の文を参考にしました。


現在、住宅が建ち並び、古墳そのものを見ることはできなくなりましたが、古墳時代前期の墳墓としての歴史的価値は高く、当地域のみならず全国的にも著名な遺跡となっています。   平成21年2月 小郡市教育委員会

高度成長期に発見された古墳はこうして多くのものが消滅してしまったけど、
これが平成時代に見つかったものなら、きっと保存されたんでしょうね。

調べて行くと重要な古墳だったのがよく分かりました。

地図 生掛公園


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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳








この土器や鏡について、訂正や補足説明がある方、是非コメントしてくださいね。

それではラストの津古1号墳へ。




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by lunabura | 2011-08-02 21:21 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(2)

「黄泉の道」の古墳巡り(5)津古1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(5)
 ①津古1号墳
つこ
福岡県小郡市津古永前641-34

今回はラストの津古1号墳です。
ここはナビをズーンと拡大して、目指す事が出来ました。
行き過ぎて戻ったりしながらも、団地内の急坂を上ると、
こんもりとした森が見えだしたので、エイヤっと目指します。
2軒分ずつ直角に曲がりながらも辿り着きました。
おお。きれいだ!古墳が残されてる!しかも案内板がある!これに違いない!

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団地内の史跡公園になって古墳が残っていました。

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前方後円墳なんですね。段差が見える位置から撮りました。
右の方が高いから後円部で、左が低くなって前方部です。

c0222861_15253213.jpg

後円部の一番高い所に立って、前方部を撮りました。
おおっ、くびれの部分がくっきりと見える!優美!
細長い点は三国の鼻1号墳のラインに近いですね。

案内板を読んでみましょう。
津古1号墳
西鉄大牟田線津古駅の西南方向の低丘陵上には古墳時代前期に属する前方後円墳2基と方墳1基からなる古墳群と、その北側にある舌状台地状の河岸段丘には弥生時代から古墳時代にかけての住居跡群が発見されており、これらを含めて津古遺跡と呼ぶ。

遺跡の調査は昭和43年8月から11月まで実施されており、現在ではこの「みくにの団地」内に津古1号墳が保存されている。
津古1号墳は未盗掘であるため内部主体は不明である。古墳は標高52mの丘陵頂部にあり、前方部を北側に向けた主軸長約35mの前方後円墳である。

この古墳は未盗掘なんだ。形も綺麗に残っています。
古墳時代前期だから、3世紀後半~4世紀後半というのは前回学習済み。
卑弥呼の死後でした。
これまで行った③三国の鼻1号墳と②津古生掛古墳と一緒に
「津古古墳群」と言われています。
この三つの古墳を古い順に並べると、

ニワトリの津古生掛古墳が3世紀後半でトップを飾り、
古墳が現存するここ、津古1号墳が二番手。35m。
そして、イラストだけが残る三国の鼻1号墳が4世紀中ごろで、66m。最後を飾る巨大古墳でした。

こうして時代順に見学するのもイメージが掴めていいかも。

さて、この津古1号墳は未盗掘だから中味が分からない。
でも、2~3号墳には出土品がありました。
この古墳のすぐ東側の丘陵上には津古2号墳、津古3号墳と称する古墳があった。
津古2号墳は主軸長約32m。前方部幅約10m、後円部径約19mの前方後円墳である。盗掘を受けていたが、内部主体は木棺であったことが確認されており、刀子3本、小玉2個が検出されている。

周溝からは小型丸底壺、小型器台、舟形文様の線刻を有する壺などの古式土師器が出土している。前方部は南に向いており、1号墳とは逆方向に位置する。

2号墳の内部主体は木棺です。津古生掛古墳と同じでした。
土師器って赤っぽい土器の方ですね。
津古3号墳は津古2号墳に南接して所在しており、一辺約13m、封土高1m弱の方墳である。周溝からは小形丸底壺、二重口縁壺などの古式土師器が出土しているが、内部主体は不明である。
ここに保存されている津古1号墳は古墳時代前期に属する数少ない前方後円墳として学術上にその価値は高く、また我々の祖先の生活を知るうえからも大切にしなければならない遺跡です。

方墳と前方後円墳が並んでる!どう解釈されているのだろう。
文献は見つかりませんでした。
出土物の写真も見つかりませんでした。
でも津古生掛古墳と同時代なら出土物の雰囲気は少し分かるようになりましたョ。

さて、これで「黄泉の道」の古墳巡りは終わりです。
振り返ると、それぞれが丘陵の頂上部にありました。
木棺が出たのが珍しいなと思ったんですが、この時代には周囲では
まだまだ在来の箱式石棺や石蓋土壙が盛行していたそうですから、
ここは特別な人たちの古墳群みたいですね。

そして、この津古から神功皇后が軍勢を率いて老松神社まで
船で行った事が神社の方では伝えられています。
羽白熊鷲田油津姫、夏羽などと戦っているのです。
時代は200年ですから、この古墳群よりずっと前の時代になります。

津古には港があり、この戦いにメリットがある人々が住んでいたはずです。
船や武器などを製造していた所があるはず。
西隣の佐賀県には青銅器のハイテクランドも控えています。
まだまだ手掛かりが眠っている小郡市でした。

文献と出土物が合体する日を夢見て、これからも歩いて行きまっしょ。
いつも一緒に旅して下さってる皆さん、ありがとうございます。

c0222861_21251530.jpg
①津古1号墳  3世紀後半から4世紀
②津古生掛古墳 3世紀後半
③三国の鼻1号墳 4世紀中ごろ
④井の浦1号墳 6世紀後半
⑤横隈山古墳 5~6世紀




















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by lunabura | 2011-08-01 15:39 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(1)

老松神社(小郡市)羽白熊鷲に勝った神功皇后は田油津姫攻撃に取りかかった


老松神社
福岡県小郡市上岩田
羽白熊鷲に勝った神功皇后は
田油津姫攻撃に取りかかった

時には勘違いが思いがけない所へ導いてくれることがある。
この老松宮に来たのもそんな勘違いからでした。

媛社神社天忍穂耳神社が七夕さまなら、その間には白鳥座があって、
中心付近に盤座(いわくら)でもあるんじゃない?
そう思って地図を眺めてみるけど、よく分からない。
少し北に上岩田老松神社というのがある。とりあえず行ってみよう。

その程度の考えでした。白鳥座の場所は後で見直すと見当違いでした。

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国道500号線を走ると、こんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
神社の脇から入ってしまったので、改めて正面から撮り直しです。
勢いよく流れる用水路にかかった小さな橋を渡ると、うっそうとした杜の中。

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夕暮れの雨の中とはいえ、かなりの異世界の趣。

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デジャヴでも起こりそうな、夢の中を彷徨うような世界でした。

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参拝を済ませて、真っ暗な拝殿に向かってフラッシュ焚いてみると、左右に木像。
老松神社と言えば、普通は菅原道真公を祭っています。
これらの神像もそれに関する木像でしょうか。

祭神
由緒書きがありました。
老松神社(老松宮)
祭神 菅原眷族神 高良玉垂命 住吉大神
由緒 この老松宮はもと、上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は神磐戸と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変わったのであろう。

菅原眷族神とあるのは、菅原道真公そのものでなく、側近を祀っているのでしょうか。
「昔の社殿は1070年、上岩田の庄領家菅原氏の造立」とあるので、
末裔がいたのかな…。まっ、よく分からない。

次の祭神は高良玉垂命。こんな所に、例の謎多き神が。
次の住吉大神と一緒なので、高良玉垂命は竹内宿禰の事かも。
各地の神社で「高良の神」とあれば、今のところ何処でも竹内宿禰を指していました。
筑紫の国では高良玉垂命は竹内宿禰と考えるのが一般的だったようです。
ただ、これが真実かどうかは分かりません。
最近、るなは疑(うたぐ)り深い。(御勢大霊石神社でのショックが大きかった。)

ところが、由緒書きを読み進めると、あれ?
大昔、神功皇后が秋月の羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐せられ、次いで、筑後国山門県の田油津姫(たぶらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。

今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦(ちゅうれん)の折、武内宿禰に御剣を祀らせられた。その不動岩が境内にあったが、現在は不明。又、境内に大岩窟があったが、正保年間(1644)これを破壊し、その巨石を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。  (略)

神功皇后がここにも来てる。しかも、これは仲哀天皇の崩御後だ。
そして既に羽白熊鷲とは戦った後。
次のターゲットは山門県(やまとのあがた)の田油津姫。
その為の陣営を整え直して、ここに行在所(あんざいしょ)を作ったんだ。

仲哀天皇は軍卒を励ますために廻っている時に流れ矢が当たったと
御勢大霊石神社で伝えているので、敵はずいぶん近くにいる。
すると、この時点での敵は羽白熊鷲しかいない。
流れ矢ではなく、狙われたのではないか。
この時は宝満川を挟んで戦ったのではないか。

天皇が負傷したあと、親衛隊の物部軍は血相を変えて川を渡って攻撃したはず。
その勢いに、さすがの羽白熊鷲も本拠地の秋月に押し戻された。

竹内宿禰が仲哀帝の遺骸を香椎宮から豊浦の宮に送り届けると、
神功皇后は羽白熊鷲と戦うのに躊躇しなかった。
皇后の指揮のもと、物部軍は宝満川を渡り、松峡宮、大己貴神社へと進軍した。

ここに来て、るなはこんなストーリーを考えるようになりました。

新羅(辰韓?)との戦いを決断するのに、
あれほど占いばかりした彼女とは全く様子が違う。
神功皇后はこの時は無我夢中だったんだ。報復なのだ。
夫を殺された怒りのために、彼女に迷いはなかった。
戦いの先頭を切る彼女に、親軍は頼もしささえ感じただろう。
新たな主上の誕生だった。
そうして、ついに羽白熊鷲を討った。

でも、山門(やまと)の田油津(たぶらつ)姫は何故?
何故、田油津姫をいきなり殺したのだろう。


この時の陣地と敵方の本拠地を地図に書き込んでみました。
c0222861_13361114.gif

仲哀天皇は御勢大霊石神社で羽白熊鷲と対峙したので、宝満川を挟んでの戦いだと思われます。
「松峡神社は神功皇后の行在所」という伝承があるので、
仲哀天皇の崩御後に、皇后軍は川を渡って歩を進めたと考えます。
それから、敵をもう一歩追い詰めて、大己貴神社に出ました。
地図では朝倉市と書いてあるところのすぐ北に大己貴神社はあります。
そして、ついに羽白熊鷲を滅ぼしました。

その後の攻撃目標は田油津姫。彼女のクニはかなり下流です。
皇后軍はこの老松神社に陣営を構えました。
津古(つこ)から船で」と書いてあることから、ここは岬か島だったようです。(標高18m)

この先、物部の本営たる高良山までは、皇后を連れて行っても大丈夫です。
しかし、彼女を南下させたかどうかは疑問。
戦場に皇后を連れて行って、主上を再び失う失態など、もうあり得ない。
神功皇后はこの老松宮に留まったのかも知れない。

(と、空想にふけっていたルナは、はっと現実に帰る。)

という訳で思いがけず
神功皇后の田油津姫攻撃の陣営跡に来てしまったのでした。

不動岩と古墳
由緒書きでは、神功皇后の時代には不動岩があったという。
やったね。まさか、盤座があったとは。
神磐戸とまで呼ばれていたので、ここは聖地だったんだ。
竹内宿禰に剣を祀らせたというから、いつものように銅剣だろう。

「大岩窟があった」というのは、古墳の石室ではなかったかと思いました。
というのも、境内にはこのように石が並べられていたのです。

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半サークル状に並べてあるので、独特の雰囲気を醸し出しています。
後で小郡市誌を開くと、やっぱりこの境内には二つの古墳がありました。
老松神社古墳(上岩田古墳群)
一号墳は規模が直径15m。見かけの高さ1.5m。
二号墳は直径12m。見かけの高さ3m。時期は不明。

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これは境内右手の猿田彦の石碑です。加工した岩もごろごろとしています。
その裏手の少し高くなっている所が、古墳だったのかもしれませんね。
ここは宝満川の近くなので、大きな洪水があれば川に洗われてしまい、
表土が流れて石室が露出した可能性があるかもとおもいました。

「1644年に大岩窟を破壊して巨石を稲吉の堰に再利用した」とあるので、
あの媛社神社の近くに運ばれたようです。

上岩田注連ねりそうそう、ここの「人形しめ」を忘れちゃならない。
正式には「上岩田注連(しめ)ねり」と言うそうです。
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ここだけの注連縄で、代々その創り方が受け継がれています。

それに加えて、神殿には鬼面が。
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う~。私のカメラではこれが限界。
これまで見た鬼面の中では、高良下宮社に一番近い感じ。
この神社は江戸時代後期に再建されています。

帰ってから地図を見直すと、あれ?
ここは筑紫の飛鳥のそばでした。

まいった。御原国は面白い。
遺跡がやたら多いので、少しずつ訪れて行きたいと思います。

飛鳥
御勢大霊石神社
大己貴神社

地図 上岩田老松神社 飛鳥 
  





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by lunabura | 2011-07-07 14:00 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(2)

天忍穂耳神社・もともとはこちらが彦星だった?


天忍穂耳神社
あめのおしほみみ
福岡県小郡市今隈
もともとはこちらが彦星(アルタイル)だった?

小郡市の真ん中を大分自動車道が東西に走っていて、
その小郡ICの近くに天忍穂耳神社はあります。

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びっくり。
天忍穂耳神社の参道を甘木鉄道が横切っていました!

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そして、普通の道も横切っていました。

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境内は広くてシンプルです。その奥に、堂々とした拝殿がありました。
屋根の雰囲気などはお城のような感じです。
狛犬が歴史を見て来た証言者のように古い趣を残しています。

この神社で有名なのは楠の巨木です。
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平地の大きいクスノキ。

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その威風堂々とした姿には足を止めずにはいられません。
横には楠に向かってベンチがずらりと並べられていて、
木陰で心ゆくまで癒されるようになっていました。

市のHPによると、樹高30m、幹廻り8.7mです。樹齢およそ300年。
地元では江戸時代前期に今隈を開拓した田籠彦右衛門がクスを植え、
それを中心に村が形成されたという伝承が残されているそうです。

この神社の祭神についての資料がありません。
福岡県神社誌にも載っていませんでした。
主祭神は当然ながら天忍穂耳命でしょうが…。

前回の媛社神社からここに来た訳は、媛社神が万幡豊秋津師姫だとしたら、
この天の忍穂耳命と夫婦になるからです。

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という訳で今日は媛社神社(七夕神社)の本当の彦星は
天忍穂耳神社じゃないかなというお話です。

媛社神社の現代の彦星は宝満川を挟んですぐ近くの稲吉老松神社です。
けれども、ずっと古代の広い川で見た時には老松神社では近すぎるから、
古代の川で対岸にあたる所に神社がないかなと地図を見ていたら、あった!
夫を祀るその名もズバリ、天忍穂耳神社がありました。
もしかしたら、この二つの神社の間には広~い川が流れていた?

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あれ?まさか。ぴったりじゃない?何とぴったりかというと星空の七夕さまとです。
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るなの目には天の川を挟んだベガ(織姫星)とアルタイル(彦星)が
万幡豊秋津師姫天の忍穂耳命の夫婦の神社に見えるのです。

古代はこの二社が七夕さまだったのが、時代が下がるにつれて忘れられて、
川幅も狭くなったので(大正時代に)稲吉老松神社が彦星になったんじゃないかな。
(大正時代に圃場整備のために牽牛社が老松神社に合祀されています。)

ここ小郡市は物部の里。物部氏は星見の氏族。
星を観測する人たちが中東からやって来た時、
発見した美しい宝満川を見て、親しんだ夜空の星を大地に映し出した…。

ま、もうすぐ七夕さまだし、こんな想像もアリだよね?

さあこれで、小郡市の高木の神ファミリー神社も四人目をめっけ。

(父)   高木の神 → 隼鷹神社
(娘と子)万幡豊秋津師姫 饒速日尊 → 媛社神社
(娘の夫)天の忍穂耳命 → 天忍穂耳神社

もしこれに加えてアマテラスとか、ニニギとかがあったらどうしよう。
完璧すぎる…。そこまでは期待してないんですけどね。


地図 天忍穂耳神社 媛社神社 稲吉老松神社(現代の彦星)






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by lunabura | 2011-07-04 21:55 | 神社(ア) | Trackback | Comments(6)

媛社神社(七夕神社)(2)「肥前国風土記」宗像の珂是古の舞台だった


媛社神社(七夕神社)(2)
福岡県小郡市大崎
「肥前国風土記」宗像の珂是古の舞台だった


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媛社神社は別名・七夕神社の名前通りに七夕のお祭りが盛んで、
境内にはその日の賑わいを伝える資料が展示してありました。
獅子舞にも七夕飾りが!ふふふ。可愛い。

棚機神社から七夕神社へ
扁額に書かれていたもう一つの名前が「棚機神社」でした。
今回はそれについて考えてみます。

「棚機」も「七夕」もタナバタと読むので、
織物が盛んな時代に娘たちが技能上達を願って「棚機さま」に参拝していたのが、
いつのまにか7月7日の「七夕さま」となりました。

娘たちは「早く一人前になれますように」と祈りながら、
「私にも彦星が現れますように」とも願った事でしょう。
普段は家に閉じこもっている娘たちが姿を見せる日だから、
若衆たちも参拝のふりをして、嫁探しに遠くからでも集まって来る。
神社への道は列をなしたというのもよく分かるなあ。

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                  (神社の横の公園)
宝満川を挟んで彦星に相当する牽牛社もありました。稲吉老松神社と言います。

風土記の媛社
さて、この里で織物が盛んになった理由が
「肥前国風土記」にまでさかのぼる事が出来ました。
そこには四つ目の神社の名前、媛社(ひめこそ)について書かれていました。

「肥前国風土記」を書き写しましょう。
基肆郡(きのこおり)媛社の郷
この郷の中に川がある。名を山道(やまぢ)川という。その源は郡の北の山から出て、南に流れて御井の大川と出会っている。

昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を逃れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、その卜占のしめすところでは、「筑前の国宗像の郡の人珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられたら凶暴な心はおこすまい。」とあった。

そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「まごころから私の祭祀を必要とされているのなら、この幡は風のまにまに飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」といい、そこでただちに幡を高くあげて風のまにまに放してやった。するとその幡は飛んで行き、御原の郡の媛社の杜に落ち、ふたたび飛んで還って来て、この山道川の付近の田の村に落ちた。

珂是古はこれによっておのずから荒ぶる神の(本居とこの郷での)おいでになる場所を知った。その夜の夢に、臥機(くつびき)と絡垜(たたり)が舞をしながら出て来て珂是古を押えてうなされた。そこでまたこの荒ぶる神が女神であると知り、さっそく社を建てて祭った。それから後には路行く人も殺されなくなった。
そういうわけで、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。
(吉野裕訳)

この話、どこかで聞いたことがあるなと思った人も多いでしょう。
何となく分かるけど、よく分からない話です。

二つのヒメコソ神社
くじらさんがヒメコソ神社は二つあり、鳥栖市にはカセコ山という所があり、
姫方という所には七夕屋敷という字名があると教えてくれました。
なるほど、土地勘がないとこの話はよく分からないのですね。
先に地図を見てみましょう。

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珂是古が姫古曾神社の所から「幡」(たこ)を飛ばしたら
媛社神社まで飛んで行って落下し、再び姫古曾神社に戻って来たと言う事です。
それで、二つのヒメコソ神社が出来たんだ…。

七夕屋敷跡は今はインターチェンジの中ですって。
謎の屋敷跡か。ここもいつか調べたいな。

さて、この風土記の話から推測したのは、
媛社神が最先端の織物技術が欲しくて、宗像から珂是古を招いた話が
背景にあるのではないかという事です。
珂是古は宗像に住んでいた祭祀をする人であり、
機織りの技術者を連れて来れる立場にあった人ではないか。

宗像国の織物事情
珂是古って宗像のどこに居たのだろうと思って、
先月、福津市の縫殿神社の方に出かけました。

そこで分かったのは、応神天皇が望んだ呉の織り姫が4人渡来してきた時に、
一人だけ宗像の神の依頼で福津市に留まったと言う事でした。

この織姫は神社の神として祀られ、前方後円墳の上にも祀られているのを知りました。
この縫殿神社にはもう一つ伝承があって、
神功皇后の時、ここで船の帆を織らせたという話も伝わっていました。

織物の話について、他にも無いかなって探すと、
宗像市の織幡神社では神功皇后の時に
傍の波津(はつ)で幟を織らせた話がありました。

これらの事から、宗像には早くから織物の技術者がいたのが分かります。
珂是古も津屋崎古墳群あたりに住んでいたのかも知れないなあ。

かつては宗像国もこちらの御原国も高度な織物技術があったのが、
宗像国の方が中国や韓から最先端の技術やデザインが入ってくるので、
媛社神がその技術者をどうしても欲しがって無理を言って珂是古を招いた。
そんな話が風土記の物語の源流にあるのではないでしょうか。

弥生から古墳時代にかけての織物文化を伝える興味深い伝承です。

宗像国と御原国のつながり
面白いことに、宗像市の織幡神社の主祭神は竹内宿禰です。
竹内宿禰と言えば、小郡市の竈門神社が彼のの陵墓と伝えられていました。
どちらにも竹内宿禰の伝承が濃厚にあります。

「宗像国と御原国」は珂是古だけでなく、竹内宿禰でも繋がっていました。
地名にも「ニタ」とか「用山」とか共通するものが見つかりました。
(「用山」を「もちやま」と読むのが分かるのは宗像と小郡の人ぐらい?)
これらには両国が深い関係を持っている事を示唆しています。

媛社神(ひめこそのかみ)は高木の神の娘?
珂是古を招いた媛社神は女神でした。
娘たちはこの女神に感謝して祈っていたのが、時代とともに
七夕さまの織姫さまにすり替わって行きました。

そして、この女神の名は万幡豊秋津師姫(よろずはたとよあきつし姫
=??幡千千姫万幡姫・たくはた…)だという説がありました。
「機織り」に関わる名前から言われているのでしょうか。

そうだとするとこの神社には子と母が一緒に祀られている事になります。
(磐船神社がニギハヤヒ命。棚機神社が万幡豊秋津師姫)

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万幡豊秋津師姫の父・高木の神は隼鷹神社に祀られていましたね。

高良山から高木の神が追い出されたという「神の交代劇」は
それだけでは終わっていないような、気になる神社の配置です。

宗像市 織幡神社
福津市 縫殿神社


小郡市 隼鷹神社
小郡市 玉母宮竈門神社

地図 織幡神社 縫殿神社 媛社神社(七夕神社)





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by lunabura | 2011-07-02 16:51 | ヒメコソ神社・小郡 | Trackback | Comments(13)

媛社神社(七夕神社)(1)ニギハヤヒを祀っていた?


媛社神社(七夕神社)(1)

ひめこそじんじゃ・たなばたじんじゃ
福岡県小郡市大崎
四つの名前を持つ神社
ニギハヤヒ命を祀っていた?

二つのヒメコソ神社
ヒメコソ神社という神社が近くに二つあります。
小郡市の媛社神社と鳥栖市の姫古曾神社です。どちらもヒメコソです。
今回は小郡市の媛社神社に行きました。

この媛社神社は前回の隼鷹神社から6キロほど宝満川を下った所にあります。

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この神社も水田の中の集落の中のこんもりとした杜を探せば辿りつけます。
石段は正面の数段だけですが、周囲より少し高い所に立つ点では、
これまでの4つの神社とよく似ていました。

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藤棚を右に見ながら参道を進むと、広くて明るい境内に出ました。

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拝殿です。御祭神は媛社神織姫神です。
この神社は地元では七夕神社と呼ばれて人々に慕われています。

歴史
由来を伝える資料がいくつか展示してあったので、それを時代順に並べてみました。
縄文時代 5000年前の遺跡で炉の跡が出土した。
弥生時代 各所に集落が出来る。県道原田駅大崎線(七夕通り)を建設する際には、
       字中ノ前でまつりの跡が発見された。水田が広がる。
奈良時代 1300年前。田畑を区切って耕地を整理した条理の跡が出る。
平安時代 ここを含めた筑後の国の献上品は米と織物だった。(延喜式)
天文3年(1534)三原郡大崎村という名前が初めて文字資料に出てくる。
明治17年(1884)戸数60、人口314
平成22年 戸数538、人口1465

弥生時代から祭りがあってたんですね。
平安時代には米と織物を献上していたので、織物がさかんだったのが分かります。
明治時代には人口が314人とは!わずか60軒でこの神社を支えていたのでしょうか。
昔の人はエネルギーがあったんだなァ。

この小郡市は考古学的な発掘が盛んで、
神社でこのように古代からの歴史が学べるのはさすがですね。

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こんな弥生土器の出土物まで展示してありましたよ!
本物が伝える力ってパワフルですよね。

四つの名前
今回はこの神社の扁額に注目しました。

c0222861_2148568.jpg

一の鳥居には金色で「媛社神社」と書かれ、

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二の鳥居には「磐船神社・棚機神社」と書かれています。
通称の「七夕神社」を加えると四つの名前がある事になります。
長い歴史の変遷を思わせます。
今日はその中の磐船神社について考えてみます。

磐船神社(いわふね)
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですが、ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
ここ小郡市も物部氏の里です。
ですから大阪と同様にニギハヤヒ命が祀られている可能性があります。

この地域のかつての地名「三原郡」は「御原郡」とも書かれていて、
「御原郡衙」(みはらぐんがー役所)がすぐそばにあります。
遺跡群から、邪馬台国の時代にはここには「御原国」があったと考えられています。
前回の隼鷹神社の北の三国の鼻から宝満川沿いに下って来て、
この大崎の遺跡などまでが御原国の勢力範囲の中心で、
御原国全体の拠点集落は大板井だという事です。(参考 小郡市史)
飛鳥と言う地名もすぐそばにあったし、昔から重要なクニだった事が分かりました。

時代が下がって鎌倉時代になると、御原国には武士団・三原氏がいて、
筑後武士団のリーダー的存在でした。
彼らは太宰府官人の大蔵氏の一族で、刀伊の入寇の時にも活躍しました。

宝満川のそばにある端間(はたま)という地点は水運の連結点で、
その上流では帆かけ舟を使い、下流では潮汐を利用して運行していたそうです。
(参考 『宗像大宮司と日宋貿易』 服部英雄)

この精鋭武士団がこの地で形成されたのは、
物部氏という「もののふ」の中心地だったからとなりますが、
御勢大霊石神社や隼鷹神社の歴史を知ると、精神的な背景として
仲哀天皇の時代にむざむざと天皇を戦死させてしまった屈辱的な事件が
武士団としての精鋭化に駆り立てたのではないかと思いました。

彼らは「もののふ」であり、「もののけ」の神を祀る氏族でもあったので、
ここに物部氏の祖であるニギハヤヒを祀り、磐船神社と名付けたのではないか
と考えました。
宮司さんもこの神社はもともとニギハヤヒを祀ったはずだと言われているそうです。
その痕跡は祭祀の形に何か残っているかもしれませんね。

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(古事記の系図ではニギハヤヒは物部の祖となっています。)

そんな物部氏の神社と棚機神社が対等に書かれている理由は何でしょうか。
次回は棚機神社について見て行きましょう。

隼鷹神社
御勢大霊石神社
飛鳥

地図 隼鷹神社 媛社神社 大板井 飛鳥





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by lunabura | 2011-06-29 22:06 | ヒメコソ神社・小郡 | Trackback | Comments(2)

隼鷹神社・鷹になった高木の神と仲哀天皇


隼鷹神社
はやたかじんじゃ
福岡県小郡市横隈
鷹になった高木の神と仲哀天皇

宝満川に沿ってずらりと神社が並んでいるのですが、その一つの隼鷹神社に行きました。

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小郡市は南北に西鉄天神大牟田線と宝満川が走っていますが、隼鷹神社はその中間に位置します。
道路からこんもりとした杜が見えたので曲がって見ると、
農道にハマり込みそうな予感に、歩いている人を捕まえて確認すると、
やはり道がヤバイ事が判明。大通りに戻って反対側から行く事に。
でも、立地が分かるいい写真が撮れましたョ。
そう、隼鷹神社は田んぼの中の鎮守の杜なのです。

次の信号から曲がって急カーブを下って、50mほどで小さな路地に入って行きます。
道はくねくねとしていて、古代の道が舗装された感じです。
途中から、舗装が無くなって…。ぬかったらどうしよう…。
でも、すぐに神社に出ました!

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神社の正面は宝満川を向いていました。

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いかにも古社らしい風情に幡が花を添えています。
雨の中ですが、雨つぶがいい感じに映ったかな。
参拝を済ませて境内を見廻すと、神社の名前通りに鷹が…。

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1800年記念と書いてあります。
1800年前といえば…仲哀天皇と神功皇后の時代です。
そう!なんと、ここは仲哀天皇のゆかりの神社なんです。

福岡県神社誌を紐解きましょう。
村社 隼鷹神社 三井郡三國村大字横隈字天神木
祭神 高御産巣日神、大己貴命、彦火々出見命、高皇産霊神

あれ?「高御産巣日神」と「高皇産霊神」は同じ神様じゃないかな…。
どうなってるんだろ。続きを読むと
祭神 大己貴命は字狐塚に無格社、大行事神社として、
祭神 彦火々出見命は字鬼川原に無格社、龍神社として、
祭神 高御産霊神は字元宿に無格社、天神社として
祭祀あったものを編入。

とあります。周囲の神社が合祀されて4柱になっていました。

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すると、境内のこの祠の左の石には「大行事」と彫ってあったので、
大己貴命が祀られているのかな。他にも摂社がありました。

結論としては、隼鷹神社の主祭神は「高御産巣日神」でした。

それでは続きを訳してみましょう。
(途中タカミムスビの表記が一つ一つ違っているのですがそのまま書いておきます。)
伝説に曰く
仲哀天皇が熊襲征伐の時、大保の仮宮で天神地祇を祀った時に、高皇産巣日神の姿をとって現れ、北を指して飛び去り、松の梢に止まって姿が見えなくなった。
その後、神功皇后の勅命で高皇産霊尊の神霊を祭り、鷹の姿で現れた事からこの神の名前を隼鷹天神と称して、御神体の鷹を安置した。この当時の松は朽ちてしまい、その後には楠があり、それが今の御神木である。


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境内の御神木の楠です。幹廻り8.5m、樹高33mです。説明板によると、
この場所が「もとみや」と呼ばれていて、かつては神殿があって、クスノキが植わっていたそうです。その木に鷹が止まったので隼鷹神社という名になりました

と書かれています。ここが謂われの地のそのものです。

神社誌の方に書いてある「大保の仮宮」は「御勢大霊石神社」の事になります。
なるほど、その神社はここから南3キロの所にあります。
今の田んぼはかつては干潟だったので、直線で3キロなら鷹が飛んで行くのが目視出来た事でしょう。

仲哀天皇が御勢大霊石神社の方で祭祀する時に
鷹が現れて北の方に飛んで行った時は、誰もが吉兆と思ったのでしょうが、
そのあとすぐに仲哀天皇は亡くなってしまいます。
すると、人々は「あれは祟りの神だった」と噂したと思われます。
神とは誰かと言うと、主祭神の高見産巣霊の神だと言うことになります。

神功皇后たちはこの鷹が祟り神だったと知って、
鷹が止まった木の所で丁寧に祀った事情が想像できます。
タカミムスビの神って…、そう、高良山から追い出された高木の神の事ですよ。
高良の神に一晩の宿を貸したら結界を作られて戻れなくなったという。(高樹神社)

高良山から追われた高木の神は、熊襲との戦という大事な時に出現して、
天皇に祟ったと考えられたのです。
何だか驚きの展開になって来ました。

さて周りの神社を調べて行くうちに、この宝満川の周囲には
この高木の神のファミリーがそれぞれ祀られているのが分かりました。
しかも、このエリアは高良山の真北にあたります。
しかもこの近くには、以前に報告した筑紫の飛鳥があります。
そして、織り姫で福津市とつながってくるのです。
いったいどうなってるの?何だかここは重要な所みたい。

はやる気持ちを抑えて、焦らずに一つずつ見て行くとしましょう。

尚、この神社には横隈早馬祭が12月16日(現在は11月第3日曜日)に
行われています。その年の新稲ワラで早馬を作ってお祓いを受けたあと、
氏子は宝満川でミソギをして、早馬をかついで神社に参るという祭だそうです。
米どころならではのお祭りです!

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神社の正面には宝満川そして花立山が見えています。

御勢大霊石神社
高樹神社

地図 隼鷹神社 御勢大霊石神社 高良山






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by lunabura | 2011-06-27 16:08 | 隼鷹神社・はやたか・小郡市 | Trackback | Comments(9)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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