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【真鍋ノート】南十字星と大宰府

【真鍋ノート】


南十字星と大宰府


真鍋大覚の星に関する史料は『石位資正』といい、
漢名の星宿の項目に対し、日本の古い和名を列記したものだという。
中国の星名と日本の星名の照合表のような感じなのだろう。

この『石位資正』が書かれたきっかけは、
刀伊の入寇という侵略事件だった。
この時、異国の天文知識に接した藤原隆家が編纂したものという。
隆家はこの時、大宰権帥だった。

当時は太宰府から南十字星がまだ見えていたという。
南十字星が将来見えなくなるにつれて、
星の和名が消えることを案じたことからの編纂だった。



緒言より(改変)
<『儺の国の星 拾遺』の原本は『石位資正』で、
藤原隆家が1039年に大宰権帥に再任された時、
九州で星暦についての古今の見聞録を編纂したものである。

執筆の契機は1014年から1019年の任期中に
刀伊の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の
偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝える。>

ウィキペディアによると、
藤原隆家が大宰権帥になったのは
眼病(突き目)の治療のために筑紫行きを望んだからだという。
この時に、刀伊の入寇に遭い、応戦している。
刀伊とは満州の女真族と考えられ、
壱岐・対馬を襲い、筑前まで上陸したという。

この時に隆家は敵ながら天文知識の豊富さに感銘したのだろう。

この頃は太宰府から南十字星が有明海のかなたに沈むのが見えていたが、
将来、この星座が見えなくなるとともに、
世人の関心が星空から離れていく気配を察してこの本を企画したという。

太宰府から最終的に見えなくなったのは明治15年(1882)だそうだ。

真鍋大覚の父、真鍋利市は明治43年(1910)3月27日に
脊振山頂から南十字星のγ星(一番上の星)を有明海上に見たという。

今年(2017年)、脊振山系から南十字星のγ星が撮影されて、
話題になった。
まだ、年に数回は観測することができるらしい。

済星(さいせい)
韓人は南十字星を「済星」と呼んだ。
巨済島や済州島はこれに由来する地名で、
昭和60年から換算して35年~309年前に出来た名である。

わたしの星

倭人は南十字星を「わたしの星」と呼んだ。
「済」が菱形の川瀬舟をさすことからついた。
「済」(さい)がなまって「さやのほし」と呼ぶこともあった。



真鍋の本は文章だけなのに、色彩があふれている不思議な本。


<2017年10月16日>



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by lunabura | 2017-10-16 20:56 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

高祖(たかす)の語源



高祖(たかす)の語源



【真鍋ノート】

白鳥座の十字の中心に、昔は赤い高津星があったという。
今はない。

いにしえの人はこの赤い高津星が銀河の中心を示し、
万物の生命の発祥として尊崇していた。
この祭壇があった所を「高祖・たかす」「鴻巣・こうのす」と呼んだ。

糸島の高祖山の語源がこれである。

のちには「託社(たこそ)」とも呼んだ。
倭人が巫女の神託を求めたことからくる。

倭人は上古は神産(かみむすひ)に祈り、
それから高麗系の南林を拝すようになった。

南林とは地中海の天地創造の二神のうちのガリヤという地の女神を
燕文に書き改めた神名である。

さらに次の時代になると、倭人は妙見や普賢や観音を唱えるようになる。

高津川とは、天の川のことである。


メモ 
鞍手六ケ岳の高祖も同じ由来か。   
高倉神社の神山は「高津の峯」という。神々が降臨した神奈備山。
「赤間」の語源も、この高津星が神武天皇の前に現れた赤馬に乗った神、
 ということからだと考える。





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画像出典
http://www.kvision.ne.jp/~ktmksdkh/14houkoku.html




『儺の国の星』p91

高津星

古今和歌集巻九羇旅 在原業平(825~880)
  名にしおはば いざこととはむ 都鳥 
  わが思ふ人は ありやなしやと
都鳥とは嘴(くちばし)と脚が赤いカモメである。 

空飛ぶ姿をみあげると、頭と腹に各々紅一点があり、
これが昔の白鳥座のありし日の姿であった。

眼光の位置には今も赤色巨星デネブが輝いているが、十文字の交点に
もっと赤く淀んでいた高津星は今はない。

高津星は夏の夜空に銀河の中心をしめす星であって、
万物の生命の発祥としての尊崇が古人にあり、
この祭壇があったところが怡土高祖(鷹巣)山(416m)、
那珂鴻巣(こうのす)山(100m)などとして、
名だけが残っている。

平安の頃は託社(たこそ)とよんでいた。

そして、わが心に思う女人の胸の内を告げる巫女が
里人の求めに応じて託宣(のりごと)を伝えていたときく。

倭人は天の川を「たかつがわ」とも称していた。
 




<2017年8月25日>

高祖山 上巻28 高祖神社
高津の峯 上巻11 高倉神社



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by lunabura | 2017-08-25 19:38 | <地名の由来> | Trackback | Comments(0)

洞(くき)と企救(きく)の地名の由来



洞(くき)と企救(きく)
の地名の由来


北九州市に「くき」と「きく」という間違えやすい地名があります。

洞海湾を昔は「洞の海」と書いて「くきのうみ」と呼んでいました。
また、その東にある企救半島は「きく」と読みます。
菊や聞の字を当てるケースもあります。

「くき」の海と「きく」半島の地名の由来は
「北斗七星」から来ていると真鍋大覚は伝えています。


「北斗七星」を「規矩の星」(きくのほし)と呼ぶ集団がいました。
中国語で「規」とはコンパス、「矩」とはサシガネ(L字型定規)のことです。








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北斗七星の柄をサシガネに見立て、
マスの部分をコンパスで描いた円に見立てたのです。

そのサシガネと円の形を洞海湾と企救半島に重ね合わせた結果、
クキとキクという表現が生まれました。

洞海湾と企救半島に地名がまだ無い時代、
北斗七星になぞらえて表現した訳です。

サシガネとコンパスはいつの時代からあるのでしょうか。

伏羲(ふっき)と女媧(じょか)は
中国神話に出てくる「人類を創造した神」ですが、
女媧の手にはコンパス(規)、伏羲の手にはサシガネ(矩)があります。

太古からこの二つの製図道具があった証しです。

北斗七星は北にあるので、南に住む人が名付けたことになりますが、
真鍋は宇佐からの見立てだと言います。

宇佐に住む集団が北斗七星を見て、規と矩を連想し、
宇佐の北にある北九州市の地形を呼ぶとき、
洞海湾はサシガネのように細く曲がった地、
企救半島は円の中に入る地、
そんなイメージを持って、北斗七星の印象を重ねたということになります。

「キ」と「ク」だけでは分からないので、
「キクのキ」「クキのク」と強調表現をしたのでしょう。

新羅が攻めてこないように、関門として、北斗七星を並べたそうです。
北斗七星(規矩の星)の守護を願ったのでしょうか。




<2017年3月19日>

※ コメント欄が現在使えないようです。連休明けに直るかな? (´-ω-`)


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by lunabura | 2017-03-19 21:42 | <地名の由来> | Trackback | Comments(2)

天豊財重日足姫天皇の名に星の名が込められていた



天豊財重日足姫天皇の名に

星の名が込められていた





天豊財重日足姫天皇
(あめのとよたからいかしひたらしひめ)
とは斉明天皇の名です。
皇極天皇とも言いますね。

この長い名前の一部「重日足」は「いかしひたらし」と読みますが、
これはシリウス星を指しているそうです。

「古代エジプト人は夏至の東の空に上がるシリウスを
ソティス、あるいはコプトと崇めた」
と真鍋は書いています。

ソティスとは豊穣の女神で、イシスの化身ともされています。
コプトとはプタハとも言い、鍛冶や職人の守護神だそうです。




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(左 ソティス 右 コプト)

シリウスを見て、豊穣を祈る氏族と、
鍛冶の成功を祈る氏族がいたということになります。

後者については、
シリウスはそのプラチナのような、ダイヤモンドのような輝きから
坩堝の職人たちが生み出した結晶とも例えられ、
その達人は石上(いそのかみ)、あるいは五十師(いそし)、
あるいは伊覩率(いとし)とも呼ばれていたそうです。

そう、この名前は五十迹手(いとて)の所に出てきます。『日本書紀』にね。
拙著『神功皇后伝承を歩く』では上巻28高祖神社p85に書いています。

伊都の県主の祖である五十迹手(いとて)を仲哀天皇が「いそいそし」とほめますが、
これは「坩堝の達人」という意味だと言うことになります。




また、前者については、
「古代エジプトでは夏至の正午を一年の中日」としたそうです。
つまり、夏至の朝、シリウスの出を見て、
その日を一年の折り返しと認識したわけです。
これは暦を作る人たちの考えになりますね。

シリウスはナイル川の氾濫を知らせる星でもあるので、
豊穣をもたらす女神だったということになります。


さて、タイトルの斉明天皇の名前ですが、
天豊財重日足姫天皇の「重日足」を「いかしひたらし」と読むののですが、
「いかたらし星」もまたシリウスを指しているそうです。

「斉明」も、「最明」と同じ「さいめい」ということから、
夜空で一番明るい星、シリウスを指しているとか。
「恵蘇星」(えそのほし)もまたシリウスのことです。



そうすると、斉明天皇のモガリの宮だった朝倉の「恵蘇八幡宮」の「恵蘇」もまた
シリウスを指していると読めます。

これは天武天皇が命名した社号だそうですが、
天武天皇もまた夜空のシリウスを見るたびに母帝斉明天皇を思い出し、
「最明の星」シリウスの別名として「恵蘇」を
モガリの宮に付けたのかもしれませんね。



以上、次回の歴史カフェの予習編でした。^^

 <2016年10月24日>

12回の歴史カフェの予習にもなるので、再掲しますね。

<2017年3月3日>





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by lunabura | 2017-03-03 01:12 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご42 「7」はシュメールの聖数 



ひめちゃご42


「7」はシュメールの聖数 
 


神功皇后が「七日七晩」籠って祈ったという話が『日本書紀』に書かれているが、
この「7日」という日数を他でもいくつか採取した。

「七日七晩」

これを聞くと現代人は「ああ、一週間か」と簡単に脳内変換するが、
紀元200年(日本書紀説)ごろに「七日」という単位があることが
ずっと不思議だった。

「七曜」は平安時代に空海が唐から密教とともに「宿曜経(すくようきょう)」として日本へ持ち帰ってきたという。

神功伝からは、すでにその前から「七」という数字が
祈願成就の単位として存在していたということになる。

この「7」は聖なる数と言えよう。

どの民族かが自分たちの文化と共にその概念を倭国にもたらした。

この「7」について、真鍋は
シュメールの聖数が「7」だ、と書き遺していた。

以下、『儺の国の星』p20より。(読みやすく変更)

<古代中東のシュメール帝国(前2900~1955)は
天変地異の輪廻の明けを七百七歳としました。

七はシュメール民族の聖数でありまして、
現行の七曜はその遺風であります。

始元の数を一とする文化の発祥地であり、
零を始元とする印度アーリア民族とは異なり、
数え年(かぞえどし)の式例を日本にまで及ぼしました。

この値の由来は太陽暦706年と、太陰暦8732月の差が
わずか0.11354日であり、日食月食の会合周期として
暦書作成の基本としたからであります。>

これによると、
シュメールは707年ごとに天変地異が繰り返すという思想を持っていて、
「7」を聖なる数字としていた。

彼らは数字を数える時、「1」からカウントするが、
それに対してインドのアーリア人は「0」から数えた。

(インドの「0の発見」は仏教の「無の思想」と結びつけられている。)

これに対して「1」から数え始める思想は
私たち日本人が人生の年数を「数え」で表すことに反映されている。

これは胎内にいる10月10日(とつきとおか)を一年と数えるため、
生まれた時には既に一歳児となっているという考えが元になっている。

これでは不便なので、「0歳」からスタートする「満」を並行して使用している。

つまり、私たちの日常に始元を「0」、あるいは「1」とする二民族の思想が入り込み、
使い分けをしているということになる。


シュメールが「7」を聖数とし「707」を天変地異の輪廻とする理由は
暦の計算から来た。

太陽暦と太陰暦を併用すると、端数がずっと出て、
累積されると季節感もずれるために調整していくのだが、
約706年後に再び二つの周期が一致する。

この太陽太陰の会合周期と天変地異の周期が連動するというのが、
「7」を聖数とする理由となる。

言い換えれば、シュメールにとって「7」とは
災害警鐘の暗号が込められている鎮めの祈りの数なのだ。


さて、この「707」年の災害周期に関して、
日本でも「性空上人」(しょうくうしょうにん)によって確認されたということが
同書に書かれている。


<花山院(968~1008)の御意を承りて、
地震噴火の動静を会得した性空上人(91~1007)は、
筑紫の伝説でありました山焼(やまやけ)、山燃(やまもえ)、山篝(やまかがり)
即ち噴火の年代が678年8497月ごとに起こる事実を確かめました。

その差はわずか0.02683日でありますから、日本人はいつの頃か、
大陸より遥か程度の高い暦数を知っていたことになります。>

性空上人は脊振山でも修行しているので、筑紫の伝説に接したのはこの時だろう。

噴火が約700年ごとに起きているということを計算したようだ。

有明海の津波も「夜渡七十」すなわち70年ごとに起こっていた。

「7」は、天変地異のサイクルとして畏れられていたのだろう。


さらに、この本は「スバルとシュメール」についても触れている。

<儒波屡(すばる)とは、
源順(911~983)の倭妙類聚抄にある万葉仮名であり、
中東では七星で描写されておりました。

シュメールの聖なる星が春分点に輝いた時代からの名が
伝えられたのかもしれません。>

倭妙類聚抄に「スバル」という読みが書かれていた。
つまり、平安時代には既にプレアデスを「すばる」と呼んでいたことになる。

スバルは六連星(むつれぼし)とも言い、後には六星と捉えられるようになるが、
古代には「七星」で描かれている。

シュメールはスバルを「七星」の聖なる星としていた。

さて、現代。

七色が七回登る「七面山」という意味には
災害を鎮めるというシュメールの聖数「7」の意味が
込められているのかもしれない。







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by lunabura | 2016-12-17 20:23 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

榧星 かやのほし ベガ 伽耶とはベガを祀る天壇



榧星 かやのほし ベガ


伽耶とはベガを祀る天壇


天の川を挟んで輝く織女と彦星。
織姫星はベガ。

そのベガについて、今日は『儺の国の星』を読んでみます。
今日は、その一部の抜粋です。p156

<榧星 かやのほし> ベガ

古事記神代記上に曰く、
野の神、名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。
またの名は野椎神(のづちのかみ)という。

榧星は織女ベガの古名である。

地中海の神話には榧(かや)を神女巫人の化身として
崇(あが)められているときく。
幹の中心部が女人の血液に似て、朱赤に染まっているからと説かれる。


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                画像出典 ウィキペディア
(略)


織女の古名をガリヤと言う。

トロヤ人は母なる大地を女神とした。
そしてエトルリア人は色女として、
冬至の夜に大地に接する彼方をガリヤと呼んだ。

今のライン川とローヌ川あるいはドナウ川のあたりで、
ローマ皇帝ユリウス・カエサルが太守としてその植民地に開拓した地方である。


(略)

韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた。
遠く離れた地中海のガイヤに遡る古語である。


ベガを榧の木の精と見たのは地中海の人々。
それは女神の姿で語られました。

トロヤ人もエトルリア人も大地を女神としました。
同様に日本の神話でも野の神は女神でした。



私たちは七夕の時だけ、織女を意識しますが、
時代ごと、季節ごとに方角と時間を変えて姿を見せていました。

古代ヨーロッパで見えたベガは
冬至の夜に大地近くで冷たく輝いていたといいます。

あと少し、寒さを乗り切れば春が到来することを教えてくれる
「春の女神」でもあったそうです。



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           左 彦星 右 織女ベガ


凍り付いた北欧の大地近くに春の女神・ベガが輝く頃は夜も長いことでしょう。

短い昼に凍えた手をふところから出して、食事の支度をしたのでしょうか。

星を仰いでたくましく生き抜いた人間の強さが、心に浮かびます。


「伽耶」(かや)ということばはそんなベガを祀って祈る天壇だったといいます。

その語源がガイヤから来ているということは、
倭人の記憶の中に、遠い西の果ての祈りの心が残っているということでしょうか。




そのベガを志賀星(しがのほし)とも呼ぶそうです。
                          p166p156






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by lunabura | 2016-11-01 21:32 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

日向星(ひむかみぼし)スハイル星 冬至、春分の目安星



日向星(ひむかみぼし)

帆座 アル スハイル アル ワズン
冬至、春分の日の目安の星
 




太陽を観測するだけではどの日が冬至か、夏至か、あるいは春分、秋分か、
目測では決め難い。

暦があるからこそ、観測できるものだ。

特に、太陽がUターンする夏至や冬至は振り子が止まって見えるように、
留まってみえる(だろう)。

(だろう)というのは、寝坊助には観測の経験が無いから(^^;




古代の人はどうやって見定めたのか。

星見の物部はこれに星の観測を組み合わせていたという。
その時を告げる星を日向星と呼んだ。

学名でアル スハイル アル ワズン。
略してスハイル星という。

以下、『儺の国の星拾遺』から


<冬至>
神代の昔、遠い祖先は暁方にこの星が南の果てに上がるのを見て
冬至の日を見定めたと語られている。

やがて朝日が上がるのを家屋の左端に望んで、
春を待つ心によろこびを感じたと語られている。

今は赤緯歳差で南天の彼方に去ったが、
古今和歌集の頃は大寒厳冬の最中になっていた。

氷上星(ひかみのほし)、或いは氷室星(ひむろのほし)
日甦星(ひのかわりぼし)、氷川星(ひかわのほし)がこれであった。

<春分>
また暮れ方のまだ明るい春霞の彼方に
彼岸の中日に眺めることが出来たところから、
中日星(なかびのほし)、或いは日拝星(ひおがみぼし)、
日向神星(ひうがみぼし)などの名もあったという。

<道真公>
延喜式以降、筑紫では天神星(てんじんのほし)の名が
いつとはなしに出来上がった。
菅原道真の命日に見えたと伝えられる星であった。

<立冬>
今から1994年昔は、
明け方にこの星が有明の干潟の彼方に上がる日が立冬であった。

その頃は立冬を元旦とする氏族も多かった。
因りてこれを冬日星(とうひのほし)、なまって登志星(としのほし)と
呼んでいた。

以上『儺の国の星拾遺』p202

< >は綾杉が追加したもの。


まとめ

スハイル星
冬至 明け方、南から昇る。 氷上星。
春分 暮れ方、明るい春霞の彼方(西?) 中日星、日拝星、日向神星、
立冬 (太宰府から見て?)有明海の方角から昇る。 冬日星、登志星
旧2月25日 道真公の命日にちなんで 天神星



星が季節によって時間と方角を変えて姿を見せる。
ダイナミックな宇宙の動きを古代の人は感じていたんだな。

「日向」の地名を地図で探すと次々に出てくる。
案外、天体観測に関連する地形だったのかもしれない。

日向神(ひゅうがみ)は地名だが、星の名でもあったとは興味深い。
人々は辿りついた地に星の名を付けていったという。
美しい話だ。


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                     画像出典 ウィキペディア 
帆座 λ(ラムダ)が スハイル星




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by lunabura | 2016-10-31 21:03 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

白鳥座 規矩星 きくのほし



白鳥座

規矩星(きくのほし)






c0222861_2014025.jpg


<「さきくさ」は聖書の百合であり、天文学でいう星座の白鳥キグナスであった。

古事記允恭記には木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と
衣通郎女(そとおしのいらつめ)の名が見える。

白鳥座の古名は十薹星(そとうのほし)、木梨星(きなしのほし)、
軽子星(かるのほし)などがあった。

機久(規矩・木魂)星(きくのほし)。物干し竿を衣透(そとほし)といった。

星は記紀の頃にはすでに古人の心に身に溶けてしまって、
表にはもはや出てこなかったのである。>

『儺の国の星』p188


白鳥座もまた見る人によって異なる物語を持っていました。

『古事記』の衣通姫、軽大郎女は同じ人で、
白鳥座の名を持った人ということになります。
でも、『古事記』の時代には星の意味は忘れ去られたようですね。




c0222861_2023073.png

(画像出典 ウィキペディア)

白鳥座を規矩(きく)の星とも言ったそうです。

確か、規矩の星と言って北斗七星を指すという話も載っていたと思います。

さて、企救(きく)国は白鳥座なのか、北斗七星なのか。
どっちかな。



以下はウィキペディアから。

衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)は、記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。

『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。




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by lunabura | 2016-10-29 20:06 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

準備中



今年はキンモクセイの花がびっしりと咲いて、
家中に香りが漂いました。

撮った画像を見たら、空っぽ。
なんだ、バッテリー無しで撮ったんだ。

わずか一週間で散ったけれど、
今日は土の上に黄金色の小花の重なりがびっしり。
その間から水仙の芽が出ています。

キンモクセイはもうすぐ二番花が咲いて、
もう一度、甘い香りを漂わせてくれます。





さて、昨日から歴史カフェのテキストに画像を入れる作業をしています。

文字ばかりの資料にカラーの画像をたっぷりと入れていくと、
ワクワク楽しくなってきます。

自分で天智天皇紀を読んでみると、知らなかったことばかりでした。

人の考えを通さず、自分の目で見ると
ウロコがびっしりと付いてたんだなあ、とよく分かりました。(^_-)-☆

難しいけど、今回もやっぱり原典を読みましょう。

今回は真鍋大覚の資料と突き合わせるので、
ほぼチーム・アンドロメダです。

「チームア・アンドロメダ」とは、
アンドロメダを大覚星とも呼ぶことから勝手に付けた研究会の名前です。

さて、このアンドロメダ星雲を「太歳の星」とも呼ぶそうです。


神功皇后の時代、太歳の予定の日に日食が起こって空が暗くなり、
アンドロメダが日中に黄金色に輝いたことから付いたそうです。







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人々は驚き、その神秘性を心に深く刻んだのでしょうね。


ということは、神功皇后は即位したんだろうな。
田川の位登八幡で。
筑紫の資料では「十五代」と書かれたものを見かけるもんね。
中国の史料にも。

そして、天智天皇もまた「太歳」した年に即位したんだろうね。

以上、これも歴史カフェの予習編でした。






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by lunabura | 2016-10-27 23:05 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

リラとベガの和名・ リラは伊豫・ベガは志賀


リラとベガの和名

リラは伊豫・ベガは志賀

琴座はリラ。
この美しい発音を倭人は上手く出来なくて、イヨと発音したといいます。

また、織姫星はベガ。
天の川のほとりに輝くベガも倭人が発音するとチカ、シカとなったと
真鍋は言いました。

志賀星 ベガ
 北辰が左枢(さすの)星(ほし)と右枢(うすの)星(ほし)を双方に立てた時代は、垂仁帝三十七(後八)年であった。伊勢神宮御遷座は同二十五(前五)であったから、何かこの前後に日と星の天文観測があったらしい。かつての井澗(しかの)(志賀)星であった織女が、北天に燦爛と輝いていた時代は一四〇〇〇年前のことであった。そして織女(※ベガ)が最も遠く北天から離れた時代は、一條帝正暦三(後992)年の頃であった。『儺の国の星拾遺』p154


北辰とは北極星。左枢星と右枢星とはポラリスとツバーン。
「阿氐良」(アテラ「麻氐良」(マテラ)と同じ意味ですね。

弥生時代は北極を示す星がなくて、ポラリスとツバーンを見て、
北を決めていたという話は何度か書きました。

じゃあ、何にもない、真っ暗な北を何と呼んだか?
「天御中主」と言ったそうです。
そう、志賀島の元宮三宮の沖津島。
ここには「天御中主」が祀られています。

さて北極星は時代によって変わります。
現代はポラリス。縄文時代のころはツバーン。
そして、14000年前の頃、(旧石器?)の北極星はベガでした。
「ベガは氷河を煌々(こうこう)と照らしていた」ことになります。(p157)

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 榧(かやの)星(ほし)は織女ベガの古名である。(略)
 琴座リラを倭人は伊豫とよんでいた。

 魏志倭人伝に伊邪(いや)なる国名は、何か西域の遥か彼方の神話を千七百年昔まで保存していたかのごとき響きをあたえていたものと感ぜられる。

所はいずれも肥前松浦の地で太(おほ)身(みみ)の氏族が青海原を前に逞しく生きていた地である。又の名を千顆(ちくわ)の里という。無数の島々が碧潭(へきたん)に連なる地でもある。

 昔はv,w,b,t,nは音が交って聞きとりも書きとりも難儀した時代があった。これは近東民族のきわめて珍しい先天的素質であった。

前述のベガは、この方式に則して倭人に伝えられた訛をさがすと、値(ち)加(か)、志賀或は千岩(ちいわ)などの地名を挙げることができる。

そして又l,r,yが言い別けられぬ倭人にあってはリラは伊豫(いよ)などの地名として昔生きていたことにもなるのである。 『儺の国の星』p156  榧星 ベガ


あれあれ、魏志倭人伝に出てくる「伊邪」国は松浦にあったと言ってますね。
松浦=末廬が通説ですが、これもまた見直しか…。

太身族については、他所にもいくつか見られます。
断片を繋ぎ合せて、いつか紹介できたらと思っています。

異国の人の発音は難しいですよね。
中近東の人の発音を聞いたら今でも難しい。

ベガ (vとtが混乱)→ チカ・シカ → 値加・志賀
リラ (l、r、yの区別がつかない) → イヨ → 伊豫

思いっ切り変わったもんですな。

「魚」の発音が上手くできないことを思い出します。
(ユー・イユー・イオ・イヲ)

日本人はlとrは今も区別が苦手です。
中国語のリーはジーと聞こえる時があります (^_^;)
2000年以上経っても、耳は弥生人のままの、るなでした。(´・ω・`)

それにしても、伊豫の国がリラの国だったとは、
星の名が地名になって行くのですが、これは想像つかなかった。


2015年1月6日



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by lunabura | 2016-07-05 09:01 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)
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