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斉明天皇の筑紫三行宮 長津宮推定地の龍頭遺跡群はゴミ処理場に



斉明天皇の筑紫三行宮
 
磐瀬・長津・橘広庭宮

長津宮推定地の龍頭遺跡群はゴミ処理場に


『日本書紀』の斉明天皇の巻に書かれている磐瀬行宮と長津宮について、
ずっとその場所を探していました。以下はその部分。

斉明7年1月14日。御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
3月25日に御船、環りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇、これを改めて名を長津とのたまう。(略…ここに東朝が出てくる)
5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮に遷って居す。

このように、文面では娜大津に磐瀬行宮があり、その名を長津と変えた
としていますが、その理由は書かれていません。


磐瀬宮
先週、書いたように、「磐瀬宮」は遠賀川流域の中間市磐瀬に伝承がありました。
これに関しては近くの水巻町の本、あるいは自動車地図などにも書かれていて、
当地では当たり前のこととして伝わっていることが分かりました。
ただし、現地では史跡としての認識がなく、
JRの線路のために削られたことが判明しました。

遠賀水軍といえば熊鰐を思い出します、天皇家との関係は神功皇后以降
ずっと良好だったことが次の縁起で分かります。

「推古天皇の御代、新羅国が任那に侵入したため、(略)神功皇后の故事に倣って
洞(くき)の海より入港し軍団を整えていたが(略)」
(拙著『神功皇后伝承を歩く 下巻 93豊山八幡神社』より)

豊山八幡神社と中宿神社の宮司は兄弟で、熊鰐の末裔と聞きました。
斉明天皇の少し前、推古天皇の時代にも、新羅と戦うための軍団を
洞海湾で整えていたのです。



長津宮
一方、長津宮に関しての記述は真鍋大覚の本にあります。
昭和57年2月吉日の日付で那珂川町長の大久保福義氏が「発刊にあたって」で
「那珂川には上古は神功皇后、下って皇極・斉明天皇、並びに
後の天武天皇、持統天皇、そして安徳天皇の行宮がありました。」
と書いています。

文中の「皇極・斉明天皇、並びに後の天武天皇、持統天皇」の行宮が
長津宮を指しています。
著者の真鍋大覚自身もそれは那珂川町の「梶原」にあったと記述しています。



三つの宮

『日本書紀』に書かれている行宮名の変更の理由が不明である事、
中間市の「磐瀬」(磐瀬宮)と那珂川町の「梶原」(長津宮)が、
それぞれに行宮の伝承が持つ事から、書紀の編者が福岡の土地勘がないため、
二つを混同して書いたのではないかと考えるようになりました。

これに加えて「朝倉」という、戦いには不向きな立地に
「橘広庭宮」を建てた理由も明らかにはなっていないのですが、
各地をフィールドワークし、伝承や神社縁起を紐解いた結果、
次のような状況を推理しました。


筑紫入りした斉明天皇一行は神功皇后の故事に倣い、
遠賀川流域で熊鰐の末裔、岡の県主の率いる遠賀水軍の軍備の謁見と祭祀をした。
その時の行宮が中間市磐瀬である。

それから那珂川町に遷ろうとしたが、
地震で建造物が倒壊したために中間市で足止めを食らう。

那珂川町の長津宮の代わりに、急きょ、朝倉にあった安曇族の聖地が
行宮に仕立てられた。

朝倉で安曇族は倭王朝の副都的な施設があったのを再編し、
東朝の百官百僚の受け入れ態勢を整えるために、
マテラ山の木を切って天皇の住居建設が行った。
(東朝とは『日本書紀』によると、斉明天皇の朝廷を指す。)

建設が終わると斉明天皇は朝倉入りをする。
そして、天皇は唐・新羅軍と戦うために神功皇后の旧跡を回って戦勝祈願をするが、
そのうちに病になってしまった。

中大兄皇子が母の病気平癒の祈願を朝倉や佐賀市吉野でするも、空しく天皇は崩御。
皇子は木の丸殿で12日間のモガリをした。

そうするうちに、那珂川町の行宮が完成し、中大兄皇子は本格的に長津宮入りをする。

ありなれ川に関しては通行が不便だったため、水城に閘門をつけて運河にして、
潮の満ち干に関係なく往来できるように工事をさせた。

以上が三つの行宮をつなぐ推理です。




龍頭遺跡群
あとは那珂川町に行って、梶原の「龍頭遺跡群」の地形を確認すれば良いだけでした。
「龍頭」という地名は天皇と関わりのあることを示唆しています。

現地入りに当たって地元の方に案内をお願いしましたが、
この「龍頭遺跡群」については資料館でもすぐには分からなかったと言われました。

しかし、那珂川町の出した資料によると、
次のような巨大な柱跡を発掘しているのです。

c0222861_219295.jpg

弥生時代と奈良・平安の複合遺跡で、写真の建物跡は奈良・平安のものです。
3間×3間で、一辺が8メートル。正方形なので、お堂でしょうか。
中大兄皇子が母の菩提を弔ったとも推測できます。

それにしても柱が巨大です。瓦は出土していないのでしょうか。


これはかなり重要な遺跡です。
どのように保存されているのか、楽しみだったのですが、
案内されたのは次のような建物でした。


c0222861_2192970.jpg

遺跡はゴミ処理場になっていた。(´・ω・`)

敷地のどこにあったのかも分かりませんでした。


せめて、このコンクリートの上に柱跡をペイントして遺跡の案内板を出してほしい。
建築物の想像イラストを描いてほしい。
そう思いながら周囲の写真を撮りました。



c0222861_2194935.jpg

眼下に安徳南小学校と那珂川南中学校。正面の向こうは博多湾。
これからの戦いに相応しい陣地です。

たぶん学校の敷地に長津宮の本体があり、
龍頭遺跡群は祭祀や仏事のための聖地だったのではないかと思われました。


せめて、この遺跡を忘れないでいてほしい。

この遺跡は博多の海から出港する船団を見届けたのです。
中大兄皇子もここに立って見送ったのかもしれない。

そして多くの船は二度と帰りませんでした。




龍頭遺跡群





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by lunabura | 2015-11-12 21:17 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(2)

水城の地下の木樋・ イタドリ


水城の地下の木樋

 イタドリ

1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。

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東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。



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これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。

真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。





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水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。

この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。

土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。





これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105


イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
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(画像出典 ウィキペディア)


閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。

これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。




瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。

夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。

そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。



「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。



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これは大土居小水城の木樋です。


この使用法が具体的に分かるのが次の文です。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。

唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。

その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140

この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。





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大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。






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by lunabura | 2015-07-16 19:11 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた

針摺の瀬戸と水城
古代、玄界灘と有明海はつながっていた


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(大野城市で発行されているパンフレットです。
1.2キロの大堤が築かれていて、日本書紀にも書かれています。
その目的が分からないと言われていますが、眞鍋家ではその歴史が伝えられていました。)

昨日、初めて講演をしました。

このブログを始めて一年と四か月になりましすが、、ブログを通しての御縁で、講演を依頼されました。
・『儺の国の星』の存在と真鍋 大覚氏について。
・かつて古代において、有明海と博多湾は海峡で結ばれていたこと。
・ふたつの海の潮汐の差を調節するために初期の水城が築かれたこと。その他。

こんなお題なのですが、本を調べると、
古代の福岡の地形を抑える事が正しい歴史の把握に繋がると思い、
お引受けする事にしました。
あちこちに散らばっている話探し出して、構成しなおしました。
その結果、構成は
1 真鍋大覚 略歴 暦法家としての眞鍋家 星の観測法 
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
3 ありなれ川とハリチ 針摺(はりずり)
4 瀦水塘と水城(大水城 小水城 上津土塁)
5 ありなれ川と水城の歴史
6 ありなれ川の風景と地名 舟 遠の朝廷 国栖(くにす) 太陽暦 鎮西 やす 三並 古賀・通古賀 中大江 板付 三笠・三原・御井・三潴・三池 三井郡 三原の潟 あさつま 夜渡七十 有明

としました。

ありなれ川とは、銀河、天の川の事です。
これを地上に映して、滔々と流れる大河もありなれ川と呼んでいました。
古代の筑紫にもそんな大河が真ん中を流れていました。
洪水や土砂の堆積などとの戦いの連続でした。
この話を世に残して下さった真鍋大覚氏と、
治水工事に取り組んだ先人たちへの敬意をこめて、

2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
5 ありなれ川と水城の歴史

を紹介します。
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
昭和57年・60年出版 那珂川町 原本は『石位(せきい)資正』(星暦)
「高松宮宣仁親王殿下が昭和のはじめに、日本人の祖先が空に輝く星々に向かって懐(いだ)いていた心と、その呼び名について調べることを、香椎宮宮司木下祝夫博士に指示されたが」、当時、木下氏は古事記のドイツ語訳で忙しかったので、真鍋大覚氏に依頼された。

本の内容は、300程の星の和名とその由来や歳差運動の計算、地名の由来、各渡来人の風俗や聖数や暦などの背景、古代鉄(隕鉄、スズ鉄、砂鉄)、暦(金星暦、土星暦ほか多種。)神の名の由来などなど、星暦を以って天皇家を支え、星辰を祀った物部氏に伝わる伝承が書いてある。

天皇の遷宮の理由、太陽の観測、銅鏡の使用法など門外不出とされた内容も含まれる。また日本書紀を補う文化背景が豊富に書かれている。

失明されたので、口述筆記。昔の記憶を辿りながらなので、難解な文脈になっている。

地図 針摺 と ありなれ川(灰色の市街地がそれに近い姿です。)

☆地図は拡大して行くと見えるようになっています。

5 ありなれ川と水城の歴史
氷河期 2万3500年前。肥前三根で水と雪を堰き止める堤の工事跡から炭が出土。瀦水塘の痕跡。この時代から灌漑と耕作を始めていた。

前255年 高来山(2987m)が爆発して現在の雲仙岳(1360m)に山容を変えた。
147~167 倭国はその領有権をめぐって大乱となる。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路(しおじ)見山(みやま)、或いは四(し)明山(みょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

248年 卑弥呼死去。
________________________________________
473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我の稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我の稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂(さく)田(たの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。
________________________________________
628頃 網代跡が出土。早春に海の魚が上って来るのを捕える木組で、汀線にはどこでも出土。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

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恵蘇八幡の拝殿にある羅針盤

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恵蘇八幡 時の公園にある、水時計
恵蘇八幡宮は 斉明天皇のモガリの宮です。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させ た大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

(講演後、福岡の南部にある「広川」を「ありなれ川」と今でも言う事を教えていただきました!感激です。)

講演デビューという事で、
久留米地名研究会の皆さまたちには暖かく迎えていただいて、
なごやかな雰囲気の中で話させていただきました。
ありがとうございました。

本は完売してしまっていますが、アーカイブに取り組む提案もあったりして
どなたでも手に出来る可能性も出て来ました。
実現したら、またお知らせします。


この話に関連するお散歩コース
『ひもろぎ逍遥』
高天原(1)志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
              2000年前の博多の姿

恵蘇八幡宮と木の丸殿 (1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
                  中大兄皇子はここで喪に服した
          (2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
          「高市郡越知岡村」は牽牛子塚か?車木ケンノウか?
          (4)こんな所に大きな漏刻(水時計)があった

牽牛子塚古墳 八角形の古墳はまるでピラミッド 斉明天皇陵に確定か?

『古事記の神々』
筑紫の君・磐井
斉明天皇




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by lunabura | 2015-05-17 22:16 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)

水城現地説明会


水城現地説明会


今日は久し振りの天気に恵まれて、水城の現地説明会に行ってきました。

JR水城駅のすぐそばに、切断面があって、100年ぶりの発掘調査です。


c0222861_21545036.jpg

駅から行くとこのように見えます。
手前が博多湾側です。

高さは14~5m。
その断面が露出しています。


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灰色が問題の砂の層で、人と比較すると、2m近くあるのが分かります。
御笠川の砂です。

これが饅頭の餡をくるんだような形状になっているそうです。
(金太郎アメのような感じ?)
粘土と混じり合っていて洪水の跡ではないという話でした。

構造上不可解な場所です。
アンコのように中央だけ砂にするなら、どうやって構築したかという
問題も解決しなくてはならないでしょう。


洪水で決壊したとなると、一部だったでしょうから、
この位置が決壊していなければ、また別の所に求める必要があるでしょう。
これ以上は無理ですね。

一年で出来るのかという質問、やはり出ていました。
「文献上では」という答えでした。

たとえば、竣工してから完成するまで十年かかったとしても、
記録には完成した年を書くもんです。

天智天皇3年(664)に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」とあるそうです。

『日本書紀』のアバウトな書き方の癖からして、(ダイジェスト版の宿命)
この文を一年で作ったと解釈する必要はあるのかな…。

1・2キロの堤防。まっすぐ作ってますね。
畑で畝をつくると、ヒョゴヒョゴと曲がります。
測量だけでも、どのくらいの期間がかかったんだろう。
まっすぐですよ、まっすぐ。

とも思いながら。気持ちいのいい水城跡を一部ですが、一周しました。

c0222861_2155439.jpg

太宰府側の傾斜を写しました。
すぐ下に家が建っていますが、水が出ていました。
家の辺りは貯水池として水が蓄えられていたことになります。

これをまっすぐ切れる所まで歩いていって、反対側に出ました。



c0222861_2156161.jpg

今、博多湾側に立って、水城駅方面を向いて撮っています。
左の森が水城跡。
手前の土手もその延長ではありますが、削っているようです。

内倉氏の本に木樋が430年と出ていると書かれているそうです。
が、決して公では公表されないだろうと皆さんの噂です。

鴻臚館でも古いものが出ていますが、関連者の方が
「そんなの出ても公表しない」とはっきり言われた、とある人が憤慨。

水城の築造に当たって、一番下には木の枝や葉を敷き詰めています。
その状態から晩春から初夏にかけて伐採されて敷き詰められた事が分かっています。

その葉を炭素法で検査されるそうですが、公表されるかどうか分からない、
と聞いた人もいます。

真実が伝えられないなら残念な世界ですね。
複雑な思いで帰路につきました。

ちょっと辛口でした。

学芸員さんたちの笑顔の挨拶に癒されました。
ありがとうございました。



水城駅そば






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by lunabura | 2014-08-30 21:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

水城に思う


「水城」って


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今日は、水城(みずき)に関するシンポジウムに行ってきました。
中国や朝鮮半島など東アジアの全体像から、水城を捕えようとする試みです。

白村江の戦いの時代を中心に講演があり、その時代の状況が描かれました。
中には、百済で禰軍(ねいぐん)という人の(兄弟の)墓碑が
発見されたというホットな情報も。
この人は百済が滅んだのち、中国の高官になり、太宰府にも二回派遣されたという人で、
墓碑にはかなりの文字数で当時のことが書かれています。

「水城」に関しては、
るなは真鍋の言う「ダムとしての水城」を検証したいなと思っています。

「磐井が蘇我稲目と共に灌漑のために作った」
「573年の台風で水城が決壊して箱崎まで濁流にのまれた」
「天智天皇は水城を疎水式に切り替える工事をした」
この疏水式の工事を『日本書紀』では「水城を作った」ということにしている訳です。

心ある人は、たった一年で1200mの大工事は出来ないと分かっています。
何人もの人が最後にささやくんですね。
「たった一年では」と。

しかし、公の講座を聞くと、水城を天智天皇が作った防衛施設とする観点しか存在していないようです。
このままでは、話はどんどん逸れて行くんだろうなと危惧しています。

太宰府で直接、暦法に携わった物部の末裔の話が世に出る事はあるのでしょうか。

さて、水城の再発掘は100年ぶりだそうです。

今回、土塁の頃に砂の層が発見され、上下の製造法が違う事が指摘されています。
友人が現地説明会で質問したけど、答えは無かったそうです。
また、一年で出来るのかという質問にも答えはなかったとか。
多分、だれも答えることはないでしょう。分かっているんですね。

また、途中に砂の層があります。
砂の層があれば、土塁は脆弱になります。
しかし、これは考えられた工法だとされています。

るなは、この「砂の層」こそ、573年の決壊跡ではないかと考えています。

また、新しいイラストを見ると、
土手の下に流れる木樋(水を流すもの)が複数描かれていました。
灌漑するためにコントロールしながら水を通した設備だなと思われます。

あるイラストには唐の大型船が水城に迫り、
水城を切って船を沈めるような戦術が書かれているものもあります。

が、海底の浅い博多湾を大型船は入港できず、
ましてや三笠川を遡上することはあり得ません。
川は小舟ですよね。
もし、水城を切れば洪水となり、肥沃な田畑が住民と共に失われてしまいます。
そんな亡国の戦術を為政者が取るでしょうか。

「防衛施設」説があっても構わないのですが、
戦術も一緒に提案してほしいな。

と、考えながら帰路に着きました。

サイドバーの「針摺の瀬戸と水城」は一部ですが講演の資料を載せています。

今日は、とりあえず感想だけ書いておきますね。



水城






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by lunabura | 2014-08-23 20:53 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

「水城」は磐井がひらいた


「水城」は磐井がひらいた


水城(みずき)。
天智天皇が作って水を貯えさせたという。

今でもグーグルアースにくっきりと写る土塁。
本当に防衛の為に作られたのでしょうか。

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川を堰きとめた土塁で軍事的にどんな作戦が可能なのか、いまだに理解が出来ません。
次は大野城市のホームページから。

水城の名前の由来
 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。

 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。

(筑紫は「ちくし」と思われますが、そのままにしています) この水城に関しては、過去記事で真鍋大覚の記述をまとめて、その一部を
「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」
http://lunabura.exblog.jp/16018354
というタイトルで既に紹介しています。

今回はその記事の観点を変えて、水城を造ったのは磐井であって、天智天皇ではないこと。
天智天皇は水城の改修工事を行ったことを確認したいと思います。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路見山(しおじみやま)、或いは四明山(しみょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂田(さくたの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させた大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。

(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、
その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。

「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、
天にあっては「天の川」を指していました。

南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。

早岐(はいき)・針尾・針摺は同じような地形に付けられ地名で、
原型を残す「早岐瀬戸」をユーチューブで見ると、往時の「針摺の瀬戸」の様子も想像できます。
http://www.youtube.com/watch?v=d6qEGnI9--o

針摺では、時には博多湾の水が狭い水路を超えて、
蘆木川~千年川(筑後川)へ流れ込むこともあったといいます。

安曇族たちが九州王朝へ物資を運ぶのはこの水路を通っていたわけです。

しかし、473年の大水害で針摺瀬戸が埋まってしまい、船で運航することが出来なくなりました。


そこで筑紫君磐井は蘇我稲目と共に治水工事をしました。
ダムを造って、灌漑用水も確保したというのです。

土手の中に木樋による導管がある謎も
水の管理をしていたことを考慮すれば理解できると思います。

しかし、川を堰き止めたのですから、洪水で決壊すれば被害は甚大です。
実際、573年に大水害が起こっています。

そして、天智天皇の時代に疏水の工事をしたと伝えています。
天智天皇が「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」(大野城HP)
というのは、磐井がひらいた水城が壊れたため、天智天皇が疏水式にしたということになります。

観世音寺の鐘はもともと水城の側で「玄界灘と有明海の潮時をみはからって、
水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ」るために利用されたものだと言います。

深く湾入していた当時の川は潮の満ち引きがあったので、
それを利用して川を遡ったりしていたそうですが、
月を見れば満ち引きの時刻まで船人たちは把握していました。
が、太陽暦はまた別物だったので、船人の利便を図って鐘を設置したのでしょう。

この疏水では通行税がちゃんと取られて、観世音寺の運営費に充てられたそうです。

水城が唐に対する軍事目的で造られたのでなく、
博多湾と筑後川を船で運航するための内政的なものだと観点を変えれば、
その不思議な形状への研究が進むのではないでしょうか。


 水城






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by lunabura | 2014-05-26 20:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

ヨド姫三社めぐり(4)與止日女神社3・伏見神社との関係

ヨド姫三社めぐり(4)

與止日女神社3

伏見神社との関係

もう一か所、これまで逍遥した神社と関連があるので確認したい神社がありました。
それは福岡県那珂川町の伏見神社です。

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その社伝には淀姫が遷座したと書かれていたのです。
過去記事を写します。(青字で)
伏見神社
鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田

御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿禰
御祭神の組み合わせが珍しいです。神功皇后と武内宿禰のペアはおなじみで、すぐ近くの裂田神社の伝承にも出て来ました。かつては、ここから裂田神社まで神幸があっていたそうですから、裂田神社と伏見神社は縁が深かったのですね。

主祭神の淀姫命について、さらに詳しく書かれていました。
御由緒 
淀姫命は神功皇后の姉姫で干珠満珠を求め給う神徳の姫で、欽明天皇25年11月1日、佐賀の里に川上大明神として鎮座されたが、託宣によってこの地に遷座され、後、異国襲来にそなえ、神功皇后、武内宿禰と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す。
ここの主祭神は淀姫命でした。「淀姫」はヨド姫と読みますが、「豊姫」と混同されて呼ばれています。ここでは神功皇后の姉と書いてありますが、ほかでは妹という説もあります。

               ***
この由緒を見たとき、佐賀の川上からここに遷座されたのなら、
元宮はどうなっているのだろうかと、ずっと気になっていたのです。

でも、こうして佐賀の方は、変わらずに鎮座しているので、
伏見神社に書かれた「遷座された」とは「勧請した」という意味で使われたのでしょうね。
欽明天皇25年を調べると、564年でした。

「佐賀の里に川上大明神として鎮座された」ということは、
與止日女神社の創始がこの年だということになるので、
意外な場所に由緒が伝わっていたということになります。

 この伏見神社には「ナマズ」の絵馬が沢山掛かっています。
それについてもブログの過去記事から。(青字で)

ナマズ
取水口のあたりには名前が付いていました。由来書を現代語に書きなおすと、
鯰渕(なまずふち)
神社の前に流れる那珂川の「一の堰」より上流、伏見の渕、鐙(あぶみ)の渕、風拝(かざはい)の渕を総称して「鯰渕」と言い、「鞍掛鯰」の居るところ。
神功皇后の三韓征伐の時、背振山に登られ、灘の川を渡られた時、馬の鞍に魚が飛び上がり、皇后が「なまづめ」たいと言われ、その魚をナマズと名付けた。皇后が三韓征伐の船を出したとき、無数のナマズの群が船を抱き、水先案内をし、戦勝されたことからナマズを神の使いとされた。
ナマズは普段は姿を見せないが、天下の変事には現れる。元和元年大阪夏の陣、寛永14年島原の乱、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争、大東亜戦争終戦前に現れた。

皇后のセリフがよく分からないのですが、「なま冷たい」ということかな。
相変わらず馬乗りの好きな皇后ですね。

日本書紀で「海の中の大魚がみんな浮かび上がって船をたすけた」という話が
ここでは「ナマズが船を助けた」ということになっていました。

前回は日本書紀の記事を「津波が起こった」と解釈しましたが、
ここでも地震を象徴するナマズの名で伝わっていました

          ***
神功皇后の新羅の役の時の津波について、当社ではナマズが守ったということになっています。
大善寺玉垂宮の方では、引き波の時に敵の船が倒れ、
皇后の船はニナ貝が守ってくれて倒れなかったといいます。

これらからも、津波現象の神格化がヨド姫であるということがうかがえます。
また豊玉姫も玉依姫とともに、干珠満珠という引潮満ち潮の神格化となっています。
そして、もう一人、神功皇后の妹(伏見宮では姉)の名前が豊姫で、
干珠満珠を海神から授かった人です。

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これは神社のすぐ前を流れる那珂川。
佐賀の與止日女神社と全く同じ立地ですね。
津波がここまで遡ってきた、と知らせるための淀姫ではないでしょうか。

さて、再び佐賀の與止日女神社に戻りましょう。

嘉瀬川は、川上川とも呼ばれ、肥前国風土記では佐嘉川。
当社の側を流れる流域は聖地とされ、殺生禁断であった。
特に、ナマズは祭神の使いとして、土地の人は食べないそうだ。

(玄松子の記憶より)

與止日女神社でもナマズは祭神の使いとなっていました。

で、るなにはもう一つ確認したいことがありました。
                                        (つづく)




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by lunabura | 2014-02-08 23:16 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・「発刊に当たって」を読む


儺の国の星
「発刊に当たって」を読む
 

那珂川町にせっかく来たので、この町に伝わる古来の星々の名が記された
『儺の国の星』を改めて手に取りました。

行間からこぼれ出す、さんざめく星々の光。
忘れ去られた古代の日本人の暮らし。
何度読んでも、その世界に引き込まれてしまいます。
しかも私の読解は遅々としています。

真摯に古代社会を追う人々にとってはヒントに満ちているこの本の再版を
町にお願いした事は前述しましたが、再版されるかどうかはまだ分かりません。

そこで、今回はその「発刊に当たって」という一文を書写する事にしました。
これで古代の那珂川町にアプローチしてみましょう。
発刊にあたって

那珂川町の歴史は、いつから始まったものか何の文献も、これを説明する資料は全く残っておりません。

しかし、日本書紀には儺縣(なのあがた)の記事がみえ、また有名な魏志倭人伝には奴国(なのくに)の記載がありますから、既にその頃は筑紫国の玄関として大陸の文化をまともに受け入れていた所と考えられます。

日本から大陸に渡るには、必ず玄界灘の上を通らなければなりません。従って昔の舟人が、必ず星の明りを看(み)て取って、船を行ききさせていたことを思い合わせますと、那珂川には、必ず古い星の名が無数に残っていて然るべきであります。

那珂川は中世の幾度となく打ち続いた戦乱の中にも、荘園だけは祖先の素朴にして誠意ある代々変わらぬ努力の致すところ、厳然として保存され、その上料(あがりりょう)の寄進が博多と太宰府の文化を支える偉大な基盤の形成に力あったことは、隠れた事実でありました。

思ふに、昔の殿上人でなければ、心得ているはずのない上品な星の名が口伝ながら旧家に残っていたことは、誠に不思議な奇蹟でもありました。

那珂川には上古は神功皇后(201~269)、下って皇極・斉明天皇(642~644、655~661)、天智天皇(662~671)並びに後の天武天皇(673~686)、持統天皇(687~696)そして安徳天皇(1181~1185)の行宮(あんぐう)がありました。

今から54年程前に、高松宮殿下の御下命を承りて古事記の独逸語翻訳に生涯を畢(つく)した香椎宮司木下祝夫博士が、斯くの如き由緒ある土地には必ずや日本の文化を支えてきた観星の古語が残存していることと思ふので、今のうちに寸暇を工面して後世に書物を残すことを進言しておかれたのが、執筆の動機であったと聞きます。

著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸(ひたち)石岡(いしおか)の出(で)で、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。

特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合(うまかい)(694~737)及び今昔物語に豪勇を讃えられた藤原保昌(958~1036)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

幸い、著者は幼少の頃、父母とともに田仕事、畑仕事、山仕事を夜遅くまで手もと、足もとが見えなくなるまで手伝っておられました。

そのときに、両親からその季節の星の色や光を一つひとつ文字通り手に取るように教え込まれ、時刻の読み方と天気の見方を教えられました。

その時の記憶はもう今から数えて50年昔のことでありますから、もう既にご記憶はかなり淡くなったと語っておられますけれども、民族学的伝承を永久保存する目的で関係方面のご同意とご協力を得て、ここに出版の運びとなりました。

本書は、広報なかがわに昭和53年4月から昭和56年3月まで「那珂川町の星紀辰位」と題して連載した分と、未掲載の聞き書きを追加した分であります。

何分にも遠い昔の伝承の回想録だけに正確な年代や出典を考証するのに多大の事実を要したものと思われまして、九州大学工学部技術官佐藤洋子氏の並々ならぬ調査並びに校正及び索引作製の御助力がありましたことをここに改めて特記しておきます。

皆様方は、この小冊子をご覧になられまして、私達の遠い祖先が夜の間に眺め、祈ってきた美しい雅やかな星の名の数々がこんなにあったのかと驚かれることと思います。

どうか、皆様方のご家庭にもまた、いくつもの別の星の話題があるかと存じますから、何かご団欒のおりの思い出の引きての一つになればと幸に存じます。

昭和57年2月吉日  那珂川町長 大久保 福義

この序文で驚くのは、まずは神功、皇極・斉明・天智・天武・持統・安徳天皇の
歴代の行宮があった事がさらりと書かれている事です。

この中で安徳天皇の行宮については「安徳台」「お迎え」という地名に残されています。
お迎え
安徳天皇に因む地名です。九州へ下向した安徳天皇が外戚であり安徳台(迹驚岡―とどろきのおか)に居館を構えた原田種直を頼り那珂川町を遡上した際、ここで原田一門や村人に迎えられたと伝えられています。

安徳天皇は迹驚岡の仮御所で体を休め、後に壇ノ浦の戦いへ挑むべく各地を渡り歩きました。」(なかがわ見聞録~文化財散策ルート~よりー町で貰えるマップ)
原田種直はNHKの大河ドラマで大宰府の長官(?)として出て来ましたね。
彼のお家は那珂川町だったんだ~。
風早神社の近くなので、武器の生産もしていたかも。

これがそのエリアです。

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これは裂田神社から眺めた裂田溝(さくたのうなで)。
左の森が安徳台です。実際に室町時代の居館あとなどが発掘されています。

さて、さらに前の時代の皇極~持統天皇の行宮と言ったら磐瀬宮という事になります。
いったいそれはどこだと伝わっているのでしょうか。
手に入る那珂川町の沢山のパンフレット類には全くその記述が見られないので、
これからのお楽しみとなりました。

また著者の眞鍋大覺氏に関しては、先祖は鹿島神宮の神官だった事、
また常陸風土記の作者の末裔だった事が書かれています。
那珂川町では庄屋として暦を作った家系なんですね。

さて、カテゴリにある<星の和名・天体>はこの本を元に、
星ごとに分類していく試みをしているものです。
誰も伝えることのなかった古代日本の星の世界へのチャレンジです。

「真鍋大覚」というタグがありますが、エキサイトブログのタグ機能は
各記事に三つしか使えないので、中途半端な分類になっています。
頭の痛い所です。


次回は『儺の国の星・拾遺』の方を紹介します。




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by lunabura | 2012-08-12 22:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 (1)序文を読む 1


儺の国の星・拾遺 1
序文を読む 1
 

前回、那の国の星々の名が那珂川町の旧家に伝わる事情が分かりましたが、
今回はさらに詳しく見て行きたいと思います。
『儺の国の星・拾遺』の序文ですが、長いので、少しずつ紹介して行きます。

序文
本書はさきに昭和57年3月31日に刊行されました『儺の国の星』の続編であります。

那珂川は太宰府の近郊に在ったことから、編暦の官人の草稿が旧家に保存されておりました。しかるに醍醐帝天慶2(939)年の藤原純友の乱と後陽成帝天正14(1586)年の島津義久(1533~1613)の乱により、多くの古書が散逸しました。

それでもなお明治38(1905)年7月26日の大風大水までは庄屋の土蔵の中の唐櫃(からひつ)や文庫の中には、太宰府からの疎開の書類写本が保存されていたのでありましたが、この時の水禍の災害があまりにも甚大であったがために、その復旧工事に盆を返上しての日夜の努力が彼岸まで続いたとのことでありました。

漸く秋分に入って土蔵の中に風を通した時に、意外な雨もりで書類は水気を吸い込んで、ついに開きも離しもかなわず、盥(たらい)に水をはって、これに浮かべて少しづつはがしては筵(むしろ)の上に広げて乾かしたのでありますが、何分にも九百年近い古書であったがために修理不能のやむなきにいたりました。

幸に真鍋勝次(文化14年4月8日~明治42年4月23日 1817~1909)に幼少の頃から侍して、よく家伝の古書を披見(ひけん)していた真鍋利市(明治4年8月12日、昭和22年8月16日、1891~1947)がその内容を記憶しておりましたので、

ここに何とか「晉書天文誌」と昭和39(1964)年、初版のA.Becvar(ベックバール)の『アトラス ボレアリス エクリプテイカリス アウストラリス』の星座図をもってその口伝を確かめることができました。

真鍋勝次は明治維新後もなお那珂郡の方冊(ほうさく)を作製して、百姓の歳時月令に資した最後の人でありました。

昔の國暦は現行の太陽暦ではなく、太陰暦に二十四節季、五十六節気、或いは七十三節期を配し、しかも気候の早晩を閏月の適所挿入によって調整するところの天文気象暦でありました。

餘日延年、即ち1年の太陽暦日と太陰暦日の差を秋分に定め、これと同じ日数が過去何年前にすでに存在していたかを付表から引き、その年の天気地気の記録を参照して立冬までに編纂を完了するのでありまして、真鍋利市は常に机辺(きへん)に正座して祖父真鍋勝次の仕事を見守り、自ら検算を助けました。

早くから窮理の術、即ち現在の球面三角法と天文力学を修め、祖父はその英才を嘱望して、孫ながら、真鍋勝三郎(文久2年12月15日~昭和25年3月26日、1862~1950)の養子に選びましたが、後、前町長真鍋勝次(明治43年2月11日~昭和53年7月28日 1910~1978)の出生におよび、これを独立させて大学卒業まで学費を送ることに定めました。

察するに肥前長崎の天文学者西川如見(1648~1724)に幾代か前の先祖が洋書を求めてこれを習っていたものとみえます。

西川如見は暦法に季節を入れることを主張して江戸幕府に抜擢されました。東山帝元禄2(1689)年に江戸本所深川に渾天儀を置き、渋川春海(1639~1715)は京都土御門に代って暦書編纂の事業を開始しました。

二百十日を入れるべき百姓漁師の上申をうけつけたのは、靈元帝寛文11(1671)年からのことと伝えられます。
(つづく)
那珂川町が太宰府市に近いという事で、大宰府で使われた文書の草稿が
旧家に保存されているような環境があった訳です。

藤原純友や島津義久の乱で多くの古書が散逸したと書いてありますが、
私が逍遥している間も、大宰府政庁跡では純友が建物を燃やした話を聞いたし、
志式神社や伊野天照皇大神宮辺りでは、
島津の兵隊たちが神社を焼いて古文書も焼失したり、
鐘を持ち去ろうとして具合が悪くなったという話に出会いました。

古文書を焼く事はその歴史を抹殺するに近い暴挙ですよね。

那珂川町ではそれでも残った写本などが、明治38年の水害で駄目になってしまった。
その日付が7月26日と言う事なので、今年の7月12日~14日前後の水害を思うと、
梅雨前線や台風の脅威はいつの時代も思いがけない地域を襲うのが分かります。

風水害のために真鍋家でも蔵書が修理不能になったのですが、
祖父の手伝いをしていた利市が内容を記憶していて、
昭和になって出版された星座図で口伝を確かめたという事です。

明治38年の水害から昭和39年の初版まで、よく途絶えずに伝わったものです。
(これって、すごい内容が日本に伝わっていたんだ。900年以上も前の情報なんです。)

毎年作成される暦は太陰暦で、気候の早晩を閏月の挿入で調整するという事です。

この閏月(うるうづき)で思い出す事があります。
10年ほど前に太陰暦のカレンダーを2年ほど使った事があります。

確か四国・土佐で作られ始めたカレンダーなのですが、
漁業の人の間で漁に役立つという事で、口コミで広がりました。

これが婦人服の生産や販売(バーゲンの時期の見極め)などにも役に立つので、
さらに広がって行ったそうです。
旧暦のカレンダーという物は、閏月の挿入場所が、寸前にならないと分からないものだと書いてありました。

夏の長さや短かさなどは、ここに反映されるのだそうです。

私はそれまで、閏月は4年に一度、定期的に挿入するものだと思っていたので、
目からウロコでした。

それにしても、球面三角法なんぞを何に使ったんでしょうか。
(ネットで調べると、天文や航海術、そして四柱推命などに必要らしい。)
やはり海を渡るには必要不可欠なんですね。

c0222861_0122493.jpg

江戸後期の渾天儀 画像出典
http://www.e-tmm.info/syuuzou/kontengi.htm
(つづく)

地図 那珂川町と太宰府市







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by lunabura | 2012-08-11 00:19 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 2・物部氏の矜持 ― 遺言はハレー彗星の通過日の特定だった


儺の国の星・拾遺 2

序文を読む 2
物部氏の矜持 
遺言はハレー彗星の通過日の特定だった
 

前回のつづきです。
口述筆記のために、明らかな誤字は変えています。
明治43(1910)年4月19・679日Halley(ハリー)彗星は近日点を通過しました。

この時が69推の方冊(ほうさく)の家系を語る と、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。

ここに1推(いっすい)とはメトン周期のことで、太陰暦235月6939・68841日と19太陽年6939・60170日が差0・08761日をもって一致するところからきた名称でありました。

これから69推は1311年前、即ち推古帝7(599)年のことになるのでありますが、日本書紀巻22推古紀(603)年壬戌歳には、
   冬10月に百済の僧 観勒(ほうし くわんろく まうおもぶ)けり。
   仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併(あわせ)て
   遁甲方術(どんかふはうじゅち)の書(ふみ)を貢(たてまつ)る。

とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から大宰府の招請に応じて暦書を
上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系
であ
ったことが判明いたしました。

大宰府は異朝の入貢する船籍が多く入泊しますから、各国の暦制が船ごとに異なり、これを対応して数年先の次の入国の機会まで、日取りを正しく登録する必要がありました。

従って物部氏は代々、大宰府の暦官の職務を世襲して、もって天文学的計算の術を通じ、これに仕えていたのであります。

「69推の方冊(ほうさく)の家系を語る」
これはハレー彗星が地球に一番近づく日時を特定する事によって、
69推(1311年)続いた、真鍋家の歴史と実力を証明するという意味です。

トップシークレットだった為に、誰も理解する事のない、
物部氏の本来の仕事がこの天体観測であり、暦造りでした。
ハレー彗星はハレーが発見した事になっているが、
日本ではとっくに知られていたのだという思いが伝わって来ます。

この計算が、どれほど高度な科学的知識に裏付けられているのか、
明治時代には誰も理解出来なかった事でしょう。
現代でも、そんな家系が在ったと素直に信じる人は少ないかもしれません。
だからこそ、ハレー彗星の到来を予見したのですね。

ハレー彗星の近日点をどうやって計算したのか想像も出来ないけど、
「69推」ぐらいは理解してみましょう。

「メトン周期」か…。名前は知っていても、内容は知らないよ。
こんな時はWik頼り。
 メトン周期 19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。メトン周期に
従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。

関係ある所だけ書き写しました。検算してみましょう。

1年は365日。1か月を30日とすると、30日×12か月は360日。
その差は5日。10年経つと50日も差が出て、季節感はめちゃめちゃ。
そこで時々閏月を入れて誤差を調整する必要が出てくるけど、
19年間で7回の閏月を入れると誤差は解消されるという事か…。

どうれ、計算してみよう。
365日×19年=6935日
30日×235ヵ月=7050日
7050-6935=115日
30日×7回=210日
あれ?うまくいかない。一か月30日が間違ってる? (@_@;)
29.5日ぐらいかな?
それとも、序に書いてあった、12桁でないと誤差がひどすぎる?
(どうやって計算するの~)

それじゃあ、12桁を使ってまじめに計算しようとしたけど、
桁が多過ぎて計算機に入力できない。とりあえず、下6桁までで計算してみよう。
365.693960日×19年=6948.1852日
30日×235.693968月=7070.8188日
これもダメ。検算でさえ私は出来ない(涙)
差0・08761日が出て来ないよ~ (・.・;) 
やはり、1か月30日が駄目なのか。誰か頼む…。(いや、お願いします。)

こんなメトン周期を日常で使う家系ってどんな家?
そして、計算機がないのに、どうやって計算したのだろう。
メトン周期はあきらめ!

気を取り直して、ハレー彗星を調べてみよう。
「ハレー彗星はエドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656~1742)が
初めて76年ごとに地球に近づく彗星を発見した。」

なるほど。
真鍋勝次氏は日本の物部氏はすでに76年ごとに地球に近づく彗星の存在を知っていて、
その近日点を計算する事も可能だったという事を証明したかったんだ。
そして見事的中。

これは天文の歴史を塗り替えるような内容ですぞ。
だから、遺言にしてまでもその家系の存在を伝えたかったのでしょう。
う~む。これぞ物部氏。

真鍋家と大宰府
日本書紀では69推前=599年の3年後に百済の僧・観勒が暦を伝えたとなっていますが、
真鍋家の祖先は、この暦と日本古来の暦との付き合わせをしたという事を暗示しています。
(ひとひねりしていいるのは大覚氏の独特の表現法です。)

現代でも外国では西暦以外の各種の暦を使っています。
東南アジアの何処でしたか、一つの国で何十種類もの暦を民族ごとに使っている
という話をラジオで聞きました。
そのカレンダーはきっとすごい事になってるんでしょう。
でも、その国ではそれが当たり前。
古代の姿が残っているのですね。

古代、大宰府に入港した船も各国から来て自国の暦を使っているため、
倭国の暦との付き合わせが大宰府政庁で行われたんですね。

c0222861_10231412.jpg

これは大宰府の再現図。(パンフレットより)
どの建物でやったのかな。少し身近になりました。

さて、つづき。
真鍋勝次は明治20(1887)年3月28日をもって時の農商務省大臣 山縣有朋(1838~1922)から表彰を受けております。

埼玉県秩父郡の民生安定に多大の貢献を為したるをもって感謝の金一封を授与せられたのでありますが、東京帝国大学農科大学の教授博士をしても荒廃の極に達した田畑の土地改良の大事業を僅か2年の歳月で完成させた功績は天下一の篤農(とくのう)の郷士と称えられたとのことでありました。その語る処の祖先の逸話がこれであります。(つづく) 

勝次氏は那珂川町の元町長ですが、埼玉県では田畑の土地改良に尽力。
日本古来の智恵が余すところなく発揮されたのでしょうね。
どんな改良法だったか、これまた知りたいものです。
(つづく)








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by lunabura | 2012-08-09 10:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)
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