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上大利小水城3 悠紀田・主基田の原型

【真鍋ノート】


上大利小水城 3

悠紀田・主基田の原型




悠紀田・主基田(ゆきでん・すきでん)といえば、
大嘗祭の時に卜占される二か所の水田のことだが、
真鍋によると、
原型は瀦水塘(ちょすいとう)を利用した耕作時代にあるという。

すると、瀦水塘とは小水城や水城のことなので、
川を堰き止める土塁や下流にあるプールの存在は
寒冷な時代の倭人の知恵によるものだったということになる。


『儺の国の星 拾遺』p40

<天皇即位の大典に献上する新米を作る所を
悠紀田および主基田という。

昔の瀦水塘耕作時代の名残りである。

悠紀田が上田(うえた)であって、
「ゆき」は冬の間に降り積もった雪とその溶水・湧水を
瀦水するからである。

主基田は下田(すけた)、即ち夏の間の水を受け敷(す)けて
熱水を貯めるからである。>

寒冷の時代、山に積もった雪が川を流れてくる。
その災害を防ぐために土塁で止めて、水を蓄えた。
それを上田といった。

田植えの頃になると、
溜まった水を土塁の下流の下田に流し込み、
太陽熱で温めて田園に流す仕組みだ。

確かに、米作は水温が低いと作れない。
私は水田跡を借りて畑にしたことがあるが、
貸主に水田を放棄した理由を尋ねたら、
水温が低くて収穫できなかったということだった。

福岡でも少し標高があると、このような水温の管理の問題があったのだ。
この体験から、稲作が朝鮮半島から渡ってきたという学説は
妄想だと理解するようになった。

古代の筑紫では雪解け水をいったんプールして
温めてから灌漑していたのだ。
この仕組みが小水城であり、
のちに巨大な土木工事となった水城と考えられる。

悠紀田(ゆきでん)とは雪水の上田が原型で、
主基田は下田(すけた)が「すき」田になったということになる。



古代は不作を考慮して、多種な品種を揃えて、
気候に合わせて何種類も植えたという。
上田と下田は当然品種が異なっただろう。

水城や小水城の一部には土塁を貫通する「木樋」が発見されている。
それを「根太扉」(ねだび)と言ったという。



上田から下田に水を落とすのは寒食から立夏の頃で、
菜種の花や実がついたころだという。
イタドリの葉の色が変わるのもこの頃か。

瀦水塘の閘門(こうもん)の上で渡水が厳粛に執り行われたという。
これを歳祭(としまつり)といい、
百姓が年(とし)すなわち米稲の収穫の平安を
牛飼い座のγ星・セギヌスに祈ったという。

ウィキペディアによると、
牛飼い座は日本では春から夏にかけて見られるそうだ。

牛飼い座といえば、アルクトウルスなら知ってるぞ。
春の星だ。


過去記事

上大利小水城 現地説明会



上大利小水城 2






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by lunabura | 2017-10-18 20:27 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する


上大利小水城 2

積雪による洪水を防ぐ堤として
形成された話に納得する

 

福岡には『日本書紀』に書かれた水城(みずき)という
古代の土塁が実存しているが、
ほかに「小水城」(しょうみずき)が複数存在する。

このたび、大野城小水城の現地説明会に参加したが、
それは真鍋の記録の検証のためだった。

人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は氷河期以前にあったらしい。肥前三根で2万3500年前と推定される。今も堤を水城という。昔は「みなつき」であって、「つき」は築ではなく雪であったはずになる。

氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であった、その勢いは一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。

祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。   『儺の国の星拾遺』p141


氷河期が終わったのは1万年ほど前のことらしい。
真鍋は氷に閉ざされた時代の話をよく書いている。


脊振山系では、近年まで雪で道路が不通となる話をよく聞いた。

積雪が崩壊して洪水となると、
山麓離れたところまで洪水に没したと真鍋はいう。

私たちはこの現象を今夏、まざまざと見た。
雪が木に変わっただけだ。
朝倉の水害ははるか有明海まで及んだ。

はるか遠い昔、積雪が山津波を起こすのを止(とど)めるために
人々は堤(水城)を造ったという。

のちにはこれが池や田、畑となって「天に至る景観」になったということは、
段々畑の形成は積雪の山津波を食い止めるための営みだったことになる。

佐賀側ではこの堤が円形になってウロコ状に発達したものを見られるが、
福岡側の小水城や水城は直線構造だった。


水城は瀦水塘(ちょすいとう)と呼ばれた。
瀦水塘はほかに、上田(かみだ)、水雪田(みなつきた)、水盡田(みなつきだ)
といった。
「つき」とは「雪」の古語だったという。
積雪のイメージから来たらしい。

夏になると上田から下田(しもだ)に水を送る。
上田に水がなくなったために、「水無月」(みなつき)の名が起きたという。


万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。『儺の国の星拾遺』p140

水城の築造場所は山の麓で平坦になった所、谷間の狭くくびれた所を選んだ。
そこに堤を築造して、閘門を設置したという。

閘門(こうもん)とはコトバンクによると、
水位差のある水面間で船を就航させるための構造物。
上流端と下流端に扉 lock gateをもつ長方形の一種の部屋 (閘室) である。
とある。

水城には土塁の下に木樋が四本以上敷かれていて、水を通すようになっている。
木樋にあるL字型の構造が閘門に当たるのか。

板で開閉するようになっていたのだろう。
これをイタドリと呼んだ。

谷は水城で仕切られ、冬には上手に水が張られ、下手に麦が蒔かれた。
夏になると、上手の水が下手に貼られて水稲が植えられ、
空っぽになった上手には陸稲(おかぼ)が植えられたという。

1・2キロもある水城ではなく、小水城の形成ではないかと思われた。


この話から、上大利小水城を見てみよう。


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この土手が小水城で、全景だ。
約90mで、やはり谷の狭い部分に築造している。

土塁は本来もう少し高く、手前にせり出していた。

土塁の右手は自然丘陵を利用して形成している。
さらに右手には現代の川が流れていた。

全体は左手(奥)の方に傾斜していて、
現在、上流から下流に水を通すパイプが設置されている。

手前が下流で、この前まで田んぼがあった。


閘門や木樋は確認されていない。
閘門を設置するとなると、奥が良いだろう。

今は9月だが、古代の様子を想像すると、
土手の向こうでは水稲が実り始め、
手前では陸稲が育っているということになる。





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これが奥の方の第一トレンチ。
水たまりがあるが、基盤まで掘り下げると、
雨が降らないのに自然と水が出てくるという。

トレンチ左手に版築が出ている。
版築とは種類の違う土を段々に重ねる工法だ。
ここから古墳時代の土器の破片が出土している。

しかし町の見解では、665年の築造のはずだから、
この土器片は土取場に古墳時代のものがあったのだろうということだった。

ほかに、飛鳥時代の土器片も出ている。

外敵を防ぐための土塁だが、外濠の存在は無かったという。

この上大利は大宰府からみたら、川の反対側に当たる。
何故、離れた所を防御するのかと尋ねたら、
大宰府に通じる道があったからということだった。


感想としては、小水城は真鍋の話をよく説明していると思われた。


前文の続きを載せておこう。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。

天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。
『儺の国の星拾遺』p140








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by lunabura | 2017-09-07 22:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

上大利小水城現地説明会に行ってきた


上大利小水城

現地説明会に行ってきた



今日は大野城市(おおのじょうし)の上大利(かみおおり)にある
小水城(しょうみずき)の現地説明会に行ってきました。





c0222861_2120620.jpg

天気が良すぎて画像が暗いですね。約90mほどの土塁です。









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この小水城は水城の南西の延長線上に位置するものです。
谷を堰き止めて造られました。

水城に関しては、
白村江の戦いの後の防衛網という説で満ちあふれていますが、
真鍋大覚は磐井が水利目的に造ったものと伝えています。


さらに、小水城については氷河が溶け始めた時代からの、
営々とした人々の営みとして記録を残しています。

真鍋の話がどんなものか、またじっくりと読んで、
現地の様子と比較したいと思います。

今日の感想ですが、
谷川を堰き止める五か所ほどの土塁が、作戦上、どんな利便性があるのか、
素人としては全く想像できません。


土塁で川を堰き止めたら、下流に住む者にとってはとても危険ですね。



現地の紹介はまた改めてします。



<2017年9月2日>




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by lunabura | 2017-09-02 21:21 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

卑弥呼より400年前の奴国は青銅器製造が花盛り 春日市須玖 岡本遺跡とタカウタ遺跡



卑弥呼より400年前の奴国は青銅器製造が花盛り

春日市須玖 岡本遺跡とタカウタ遺跡

テクノポリスだった奴国が具体的に見えてくる



2017年7月26日付け西日本新聞より




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【把頭飾の鋳型の出土】

春日市の須玖タカウタ遺跡で「把頭飾」(はとうしょく)を造るための
土製鋳型が発見されました。

把頭飾とは銅剣の柄の先端に付ける飾り。





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この「把頭飾の土製鋳型」の発見は国内で初めてとか。
把頭飾は従来、半島や大陸由来説が主だったので、
歴史観の見直しが必要になるのでしょうね。

紀元前2世紀頃のものなので、卑弥呼より約400年ほど前の工房。







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【把頭飾の出土】
同じ春日市須玖の「須玖岡本遺跡」で
紀元前150年ごろの銅剣と青銅製の「把頭飾」が出土しています。

国内産の可能性も視野に入ってきました。
卑弥呼から約400年前の人物です。シルクや水銀朱も出てますね。












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【多紐協の鋳型】

須玖タカウタ遺跡からは、多紐鏡の鋳型も出てますよ。
これも輸入品とされていたのが、国産品の可能性を示しています。


これまで歴史講演で、把頭飾や多紐鏡が出てくると、
朝鮮半島や中国大陸製と決めつけている印象があって、
その論拠が分からなかったのですが、
やはり、輸入品と決めつけることが出来ないのを知って納得です。

春日市、大注目ですね。



ちなみに奴国(なこく・ぬこく)の「奴」には「大きい」という意味があります。
博多湾を囲んだ「大きい国」という意味かも。
もちろん、志賀島も入っていますし、
香椎宮は儺(な)の県(あがた)ですし、
那珂川町も儺の国の一部です。
古代は海や山を中心に考えると分かりやすいです。





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by lunabura | 2017-07-31 21:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

斉明天皇の筑紫三行宮 長津宮推定地の龍頭遺跡群はゴミ処理場に



斉明天皇の筑紫三行宮
 
磐瀬・長津・橘広庭宮

長津宮推定地の龍頭遺跡群はゴミ処理場に


『日本書紀』の斉明天皇の巻に書かれている磐瀬行宮と長津宮について、
ずっとその場所を探していました。以下はその部分。

斉明7年1月14日。御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
3月25日に御船、環りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇、これを改めて名を長津とのたまう。(略…ここに東朝が出てくる)
5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮に遷って居す。

このように、文面では娜大津に磐瀬行宮があり、その名を長津と変えた
としていますが、その理由は書かれていません。


磐瀬宮
先週、書いたように、「磐瀬宮」は遠賀川流域の中間市磐瀬に伝承がありました。
これに関しては近くの水巻町の本、あるいは自動車地図などにも書かれていて、
当地では当たり前のこととして伝わっていることが分かりました。
ただし、現地では史跡としての認識がなく、
JRの線路のために削られたことが判明しました。

遠賀水軍といえば熊鰐を思い出します、天皇家との関係は神功皇后以降
ずっと良好だったことが次の縁起で分かります。

「推古天皇の御代、新羅国が任那に侵入したため、(略)神功皇后の故事に倣って
洞(くき)の海より入港し軍団を整えていたが(略)」
(拙著『神功皇后伝承を歩く 下巻 93豊山八幡神社』より)

豊山八幡神社と中宿神社の宮司は兄弟で、熊鰐の末裔と聞きました。
斉明天皇の少し前、推古天皇の時代にも、新羅と戦うための軍団を
洞海湾で整えていたのです。



長津宮
一方、長津宮に関しての記述は真鍋大覚の本にあります。
昭和57年2月吉日の日付で那珂川町長の大久保福義氏が「発刊にあたって」で
「那珂川には上古は神功皇后、下って皇極・斉明天皇、並びに
後の天武天皇、持統天皇、そして安徳天皇の行宮がありました。」
と書いています。

文中の「皇極・斉明天皇、並びに後の天武天皇、持統天皇」の行宮が
長津宮を指しています。
著者の真鍋大覚自身もそれは那珂川町の「梶原」にあったと記述しています。



三つの宮

『日本書紀』に書かれている行宮名の変更の理由が不明である事、
中間市の「磐瀬」(磐瀬宮)と那珂川町の「梶原」(長津宮)が、
それぞれに行宮の伝承が持つ事から、書紀の編者が福岡の土地勘がないため、
二つを混同して書いたのではないかと考えるようになりました。

これに加えて「朝倉」という、戦いには不向きな立地に
「橘広庭宮」を建てた理由も明らかにはなっていないのですが、
各地をフィールドワークし、伝承や神社縁起を紐解いた結果、
次のような状況を推理しました。


筑紫入りした斉明天皇一行は神功皇后の故事に倣い、
遠賀川流域で熊鰐の末裔、岡の県主の率いる遠賀水軍の軍備の謁見と祭祀をした。
その時の行宮が中間市磐瀬である。

それから那珂川町に遷ろうとしたが、
地震で建造物が倒壊したために中間市で足止めを食らう。

那珂川町の長津宮の代わりに、急きょ、朝倉にあった安曇族の聖地が
行宮に仕立てられた。

朝倉で安曇族は倭王朝の副都的な施設があったのを再編し、
東朝の百官百僚の受け入れ態勢を整えるために、
マテラ山の木を切って天皇の住居建設が行った。
(東朝とは『日本書紀』によると、斉明天皇の朝廷を指す。)

建設が終わると斉明天皇は朝倉入りをする。
そして、天皇は唐・新羅軍と戦うために神功皇后の旧跡を回って戦勝祈願をするが、
そのうちに病になってしまった。

中大兄皇子が母の病気平癒の祈願を朝倉や佐賀市吉野でするも、空しく天皇は崩御。
皇子は木の丸殿で12日間のモガリをした。

そうするうちに、那珂川町の行宮が完成し、中大兄皇子は本格的に長津宮入りをする。

ありなれ川に関しては通行が不便だったため、水城に閘門をつけて運河にして、
潮の満ち干に関係なく往来できるように工事をさせた。

以上が三つの行宮をつなぐ推理です。




龍頭遺跡群
あとは那珂川町に行って、梶原の「龍頭遺跡群」の地形を確認すれば良いだけでした。
「龍頭」という地名は天皇と関わりのあることを示唆しています。

現地入りに当たって地元の方に案内をお願いしましたが、
この「龍頭遺跡群」については資料館でもすぐには分からなかったと言われました。

しかし、那珂川町の出した資料によると、
次のような巨大な柱跡を発掘しているのです。

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弥生時代と奈良・平安の複合遺跡で、写真の建物跡は奈良・平安のものです。
3間×3間で、一辺が8メートル。正方形なので、お堂でしょうか。
中大兄皇子が母の菩提を弔ったとも推測できます。

それにしても柱が巨大です。瓦は出土していないのでしょうか。


これはかなり重要な遺跡です。
どのように保存されているのか、楽しみだったのですが、
案内されたのは次のような建物でした。


c0222861_2192970.jpg

遺跡はゴミ処理場になっていた。(´・ω・`)

敷地のどこにあったのかも分かりませんでした。


せめて、このコンクリートの上に柱跡をペイントして遺跡の案内板を出してほしい。
建築物の想像イラストを描いてほしい。
そう思いながら周囲の写真を撮りました。



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眼下に安徳南小学校と那珂川南中学校。正面の向こうは博多湾。
これからの戦いに相応しい陣地です。

たぶん学校の敷地に長津宮の本体があり、
龍頭遺跡群は祭祀や仏事のための聖地だったのではないかと思われました。


せめて、この遺跡を忘れないでいてほしい。

この遺跡は博多の海から出港する船団を見届けたのです。
中大兄皇子もここに立って見送ったのかもしれない。

そして多くの船は二度と帰りませんでした。




龍頭遺跡群





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by lunabura | 2015-11-12 21:17 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(2)

水城の地下の木樋・ イタドリ


水城の地下の木樋

 イタドリ

1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。

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東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。



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これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。

真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。





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水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。

この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。

土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。





これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105


イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
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(画像出典 ウィキペディア)


閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。

これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。




瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。

夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。

そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。



「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。



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これは大土居小水城の木樋です。


この使用法が具体的に分かるのが次の文です。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。

唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。

その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140

この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。





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大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。






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by lunabura | 2015-07-16 19:11 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた

針摺の瀬戸と水城
古代、玄界灘と有明海はつながっていた


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(大野城市で発行されているパンフレットです。
1.2キロの大堤が築かれていて、日本書紀にも書かれています。
その目的が分からないと言われていますが、眞鍋家ではその歴史が伝えられていました。)

昨日、初めて講演をしました。

このブログを始めて一年と四か月になりましすが、、ブログを通しての御縁で、講演を依頼されました。
・『儺の国の星』の存在と真鍋 大覚氏について。
・かつて古代において、有明海と博多湾は海峡で結ばれていたこと。
・ふたつの海の潮汐の差を調節するために初期の水城が築かれたこと。その他。

こんなお題なのですが、本を調べると、
古代の福岡の地形を抑える事が正しい歴史の把握に繋がると思い、
お引受けする事にしました。
あちこちに散らばっている話探し出して、構成しなおしました。
その結果、構成は
1 真鍋大覚 略歴 暦法家としての眞鍋家 星の観測法 
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
3 ありなれ川とハリチ 針摺(はりずり)
4 瀦水塘と水城(大水城 小水城 上津土塁)
5 ありなれ川と水城の歴史
6 ありなれ川の風景と地名 舟 遠の朝廷 国栖(くにす) 太陽暦 鎮西 やす 三並 古賀・通古賀 中大江 板付 三笠・三原・御井・三潴・三池 三井郡 三原の潟 あさつま 夜渡七十 有明

としました。

ありなれ川とは、銀河、天の川の事です。
これを地上に映して、滔々と流れる大河もありなれ川と呼んでいました。
古代の筑紫にもそんな大河が真ん中を流れていました。
洪水や土砂の堆積などとの戦いの連続でした。
この話を世に残して下さった真鍋大覚氏と、
治水工事に取り組んだ先人たちへの敬意をこめて、

2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
5 ありなれ川と水城の歴史

を紹介します。
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
昭和57年・60年出版 那珂川町 原本は『石位(せきい)資正』(星暦)
「高松宮宣仁親王殿下が昭和のはじめに、日本人の祖先が空に輝く星々に向かって懐(いだ)いていた心と、その呼び名について調べることを、香椎宮宮司木下祝夫博士に指示されたが」、当時、木下氏は古事記のドイツ語訳で忙しかったので、真鍋大覚氏に依頼された。

本の内容は、300程の星の和名とその由来や歳差運動の計算、地名の由来、各渡来人の風俗や聖数や暦などの背景、古代鉄(隕鉄、スズ鉄、砂鉄)、暦(金星暦、土星暦ほか多種。)神の名の由来などなど、星暦を以って天皇家を支え、星辰を祀った物部氏に伝わる伝承が書いてある。

天皇の遷宮の理由、太陽の観測、銅鏡の使用法など門外不出とされた内容も含まれる。また日本書紀を補う文化背景が豊富に書かれている。

失明されたので、口述筆記。昔の記憶を辿りながらなので、難解な文脈になっている。

地図 針摺 と ありなれ川(灰色の市街地がそれに近い姿です。)

☆地図は拡大して行くと見えるようになっています。

5 ありなれ川と水城の歴史
氷河期 2万3500年前。肥前三根で水と雪を堰き止める堤の工事跡から炭が出土。瀦水塘の痕跡。この時代から灌漑と耕作を始めていた。

前255年 高来山(2987m)が爆発して現在の雲仙岳(1360m)に山容を変えた。
147~167 倭国はその領有権をめぐって大乱となる。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路(しおじ)見山(みやま)、或いは四(し)明山(みょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

248年 卑弥呼死去。
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473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我の稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我の稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂(さく)田(たの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。
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628頃 網代跡が出土。早春に海の魚が上って来るのを捕える木組で、汀線にはどこでも出土。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

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恵蘇八幡の拝殿にある羅針盤

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恵蘇八幡 時の公園にある、水時計
恵蘇八幡宮は 斉明天皇のモガリの宮です。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させ た大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

(講演後、福岡の南部にある「広川」を「ありなれ川」と今でも言う事を教えていただきました!感激です。)

講演デビューという事で、
久留米地名研究会の皆さまたちには暖かく迎えていただいて、
なごやかな雰囲気の中で話させていただきました。
ありがとうございました。

本は完売してしまっていますが、アーカイブに取り組む提案もあったりして
どなたでも手に出来る可能性も出て来ました。
実現したら、またお知らせします。


この話に関連するお散歩コース
『ひもろぎ逍遥』
高天原(1)志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
              2000年前の博多の姿

恵蘇八幡宮と木の丸殿 (1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
                  中大兄皇子はここで喪に服した
          (2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
          「高市郡越知岡村」は牽牛子塚か?車木ケンノウか?
          (4)こんな所に大きな漏刻(水時計)があった

牽牛子塚古墳 八角形の古墳はまるでピラミッド 斉明天皇陵に確定か?

『古事記の神々』
筑紫の君・磐井
斉明天皇




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by lunabura | 2015-05-17 22:16 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)

水城現地説明会


水城現地説明会


今日は久し振りの天気に恵まれて、水城の現地説明会に行ってきました。

JR水城駅のすぐそばに、切断面があって、100年ぶりの発掘調査です。


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駅から行くとこのように見えます。
手前が博多湾側です。

高さは14~5m。
その断面が露出しています。


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灰色が問題の砂の層で、人と比較すると、2m近くあるのが分かります。
御笠川の砂です。

これが饅頭の餡をくるんだような形状になっているそうです。
(金太郎アメのような感じ?)
粘土と混じり合っていて洪水の跡ではないという話でした。

構造上不可解な場所です。
アンコのように中央だけ砂にするなら、どうやって構築したかという
問題も解決しなくてはならないでしょう。


洪水で決壊したとなると、一部だったでしょうから、
この位置が決壊していなければ、また別の所に求める必要があるでしょう。
これ以上は無理ですね。

一年で出来るのかという質問、やはり出ていました。
「文献上では」という答えでした。

たとえば、竣工してから完成するまで十年かかったとしても、
記録には完成した年を書くもんです。

天智天皇3年(664)に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」とあるそうです。

『日本書紀』のアバウトな書き方の癖からして、(ダイジェスト版の宿命)
この文を一年で作ったと解釈する必要はあるのかな…。

1・2キロの堤防。まっすぐ作ってますね。
畑で畝をつくると、ヒョゴヒョゴと曲がります。
測量だけでも、どのくらいの期間がかかったんだろう。
まっすぐですよ、まっすぐ。

とも思いながら。気持ちいのいい水城跡を一部ですが、一周しました。

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太宰府側の傾斜を写しました。
すぐ下に家が建っていますが、水が出ていました。
家の辺りは貯水池として水が蓄えられていたことになります。

これをまっすぐ切れる所まで歩いていって、反対側に出ました。



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今、博多湾側に立って、水城駅方面を向いて撮っています。
左の森が水城跡。
手前の土手もその延長ではありますが、削っているようです。

内倉氏の本に木樋が430年と出ていると書かれているそうです。
が、決して公では公表されないだろうと皆さんの噂です。

鴻臚館でも古いものが出ていますが、関連者の方が
「そんなの出ても公表しない」とはっきり言われた、とある人が憤慨。

水城の築造に当たって、一番下には木の枝や葉を敷き詰めています。
その状態から晩春から初夏にかけて伐採されて敷き詰められた事が分かっています。

その葉を炭素法で検査されるそうですが、公表されるかどうか分からない、
と聞いた人もいます。

真実が伝えられないなら残念な世界ですね。
複雑な思いで帰路につきました。

ちょっと辛口でした。

学芸員さんたちの笑顔の挨拶に癒されました。
ありがとうございました。



水城駅そば






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by lunabura | 2014-08-30 21:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

水城に思う


「水城」って


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今日は、水城(みずき)に関するシンポジウムに行ってきました。
中国や朝鮮半島など東アジアの全体像から、水城を捕えようとする試みです。

白村江の戦いの時代を中心に講演があり、その時代の状況が描かれました。
中には、百済で禰軍(ねいぐん)という人の(兄弟の)墓碑が
発見されたというホットな情報も。
この人は百済が滅んだのち、中国の高官になり、太宰府にも二回派遣されたという人で、
墓碑にはかなりの文字数で当時のことが書かれています。

「水城」に関しては、
るなは真鍋の言う「ダムとしての水城」を検証したいなと思っています。

「磐井が蘇我稲目と共に灌漑のために作った」
「573年の台風で水城が決壊して箱崎まで濁流にのまれた」
「天智天皇は水城を疎水式に切り替える工事をした」
この疏水式の工事を『日本書紀』では「水城を作った」ということにしている訳です。

心ある人は、たった一年で1200mの大工事は出来ないと分かっています。
何人もの人が最後にささやくんですね。
「たった一年では」と。

しかし、公の講座を聞くと、水城を天智天皇が作った防衛施設とする観点しか存在していないようです。
このままでは、話はどんどん逸れて行くんだろうなと危惧しています。

太宰府で直接、暦法に携わった物部の末裔の話が世に出る事はあるのでしょうか。

さて、水城の再発掘は100年ぶりだそうです。

今回、土塁の頃に砂の層が発見され、上下の製造法が違う事が指摘されています。
友人が現地説明会で質問したけど、答えは無かったそうです。
また、一年で出来るのかという質問にも答えはなかったとか。
多分、だれも答えることはないでしょう。分かっているんですね。

また、途中に砂の層があります。
砂の層があれば、土塁は脆弱になります。
しかし、これは考えられた工法だとされています。

るなは、この「砂の層」こそ、573年の決壊跡ではないかと考えています。

また、新しいイラストを見ると、
土手の下に流れる木樋(水を流すもの)が複数描かれていました。
灌漑するためにコントロールしながら水を通した設備だなと思われます。

あるイラストには唐の大型船が水城に迫り、
水城を切って船を沈めるような戦術が書かれているものもあります。

が、海底の浅い博多湾を大型船は入港できず、
ましてや三笠川を遡上することはあり得ません。
川は小舟ですよね。
もし、水城を切れば洪水となり、肥沃な田畑が住民と共に失われてしまいます。
そんな亡国の戦術を為政者が取るでしょうか。

「防衛施設」説があっても構わないのですが、
戦術も一緒に提案してほしいな。

と、考えながら帰路に着きました。

サイドバーの「針摺の瀬戸と水城」は一部ですが講演の資料を載せています。

今日は、とりあえず感想だけ書いておきますね。



水城






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by lunabura | 2014-08-23 20:53 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

「水城」は磐井がひらいた


「水城」は磐井がひらいた


水城(みずき)。
天智天皇が作って水を貯えさせたという。

今でもグーグルアースにくっきりと写る土塁。
本当に防衛の為に作られたのでしょうか。

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川を堰きとめた土塁で軍事的にどんな作戦が可能なのか、いまだに理解が出来ません。
次は大野城市のホームページから。

水城の名前の由来
 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。

 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。

(筑紫は「ちくし」と思われますが、そのままにしています) この水城に関しては、過去記事で真鍋大覚の記述をまとめて、その一部を
「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」
http://lunabura.exblog.jp/16018354
というタイトルで既に紹介しています。

今回はその記事の観点を変えて、水城を造ったのは磐井であって、天智天皇ではないこと。
天智天皇は水城の改修工事を行ったことを確認したいと思います。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路見山(しおじみやま)、或いは四明山(しみょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂田(さくたの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させた大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。

(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、
その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。

「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、
天にあっては「天の川」を指していました。

南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。

早岐(はいき)・針尾・針摺は同じような地形に付けられ地名で、
原型を残す「早岐瀬戸」をユーチューブで見ると、往時の「針摺の瀬戸」の様子も想像できます。
http://www.youtube.com/watch?v=d6qEGnI9--o

針摺では、時には博多湾の水が狭い水路を超えて、
蘆木川~千年川(筑後川)へ流れ込むこともあったといいます。

安曇族たちが九州王朝へ物資を運ぶのはこの水路を通っていたわけです。

しかし、473年の大水害で針摺瀬戸が埋まってしまい、船で運航することが出来なくなりました。


そこで筑紫君磐井は蘇我稲目と共に治水工事をしました。
ダムを造って、灌漑用水も確保したというのです。

土手の中に木樋による導管がある謎も
水の管理をしていたことを考慮すれば理解できると思います。

しかし、川を堰き止めたのですから、洪水で決壊すれば被害は甚大です。
実際、573年に大水害が起こっています。

そして、天智天皇の時代に疏水の工事をしたと伝えています。
天智天皇が「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」(大野城HP)
というのは、磐井がひらいた水城が壊れたため、天智天皇が疏水式にしたということになります。

観世音寺の鐘はもともと水城の側で「玄界灘と有明海の潮時をみはからって、
水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ」るために利用されたものだと言います。

深く湾入していた当時の川は潮の満ち引きがあったので、
それを利用して川を遡ったりしていたそうですが、
月を見れば満ち引きの時刻まで船人たちは把握していました。
が、太陽暦はまた別物だったので、船人の利便を図って鐘を設置したのでしょう。

この疏水では通行税がちゃんと取られて、観世音寺の運営費に充てられたそうです。

水城が唐に対する軍事目的で造られたのでなく、
博多湾と筑後川を船で運航するための内政的なものだと観点を変えれば、
その不思議な形状への研究が進むのではないでしょうか。


 水城






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by lunabura | 2014-05-26 20:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)
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