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水城に思う


「水城」って


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今日は、水城(みずき)に関するシンポジウムに行ってきました。
中国や朝鮮半島など東アジアの全体像から、水城を捕えようとする試みです。

白村江の戦いの時代を中心に講演があり、その時代の状況が描かれました。
中には、百済で禰軍(ねいぐん)という人の(兄弟の)墓碑が
発見されたというホットな情報も。
この人は百済が滅んだのち、中国の高官になり、太宰府にも二回派遣されたという人で、
墓碑にはかなりの文字数で当時のことが書かれています。

「水城」に関しては、
るなは真鍋の言う「ダムとしての水城」を検証したいなと思っています。

「磐井が蘇我稲目と共に灌漑のために作った」
「573年の台風で水城が決壊して箱崎まで濁流にのまれた」
「天智天皇は水城を疎水式に切り替える工事をした」
この疏水式の工事を『日本書紀』では「水城を作った」ということにしている訳です。

心ある人は、たった一年で1200mの大工事は出来ないと分かっています。
何人もの人が最後にささやくんですね。
「たった一年では」と。

しかし、公の講座を聞くと、水城を天智天皇が作った防衛施設とする観点しか存在していないようです。
このままでは、話はどんどん逸れて行くんだろうなと危惧しています。

太宰府で直接、暦法に携わった物部の末裔の話が世に出る事はあるのでしょうか。

さて、水城の再発掘は100年ぶりだそうです。

今回、土塁の頃に砂の層が発見され、上下の製造法が違う事が指摘されています。
友人が現地説明会で質問したけど、答えは無かったそうです。
また、一年で出来るのかという質問にも答えはなかったとか。
多分、だれも答えることはないでしょう。分かっているんですね。

また、途中に砂の層があります。
砂の層があれば、土塁は脆弱になります。
しかし、これは考えられた工法だとされています。

るなは、この「砂の層」こそ、573年の決壊跡ではないかと考えています。

また、新しいイラストを見ると、
土手の下に流れる木樋(水を流すもの)が複数描かれていました。
灌漑するためにコントロールしながら水を通した設備だなと思われます。

あるイラストには唐の大型船が水城に迫り、
水城を切って船を沈めるような戦術が書かれているものもあります。

が、海底の浅い博多湾を大型船は入港できず、
ましてや三笠川を遡上することはあり得ません。
川は小舟ですよね。
もし、水城を切れば洪水となり、肥沃な田畑が住民と共に失われてしまいます。
そんな亡国の戦術を為政者が取るでしょうか。

「防衛施設」説があっても構わないのですが、
戦術も一緒に提案してほしいな。

と、考えながら帰路に着きました。

サイドバーの「針摺の瀬戸と水城」は一部ですが講演の資料を載せています。

今日は、とりあえず感想だけ書いておきますね。



水城






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by lunabura | 2014-08-23 20:53 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

「水城」は磐井がひらいた


「水城」は磐井がひらいた


水城(みずき)。
天智天皇が作って水を貯えさせたという。

今でもグーグルアースにくっきりと写る土塁。
本当に防衛の為に作られたのでしょうか。

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川を堰きとめた土塁で軍事的にどんな作戦が可能なのか、いまだに理解が出来ません。
次は大野城市のホームページから。

水城の名前の由来
 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。

 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。

(筑紫は「ちくし」と思われますが、そのままにしています) この水城に関しては、過去記事で真鍋大覚の記述をまとめて、その一部を
「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」
http://lunabura.exblog.jp/16018354
というタイトルで既に紹介しています。

今回はその記事の観点を変えて、水城を造ったのは磐井であって、天智天皇ではないこと。
天智天皇は水城の改修工事を行ったことを確認したいと思います。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路見山(しおじみやま)、或いは四明山(しみょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂田(さくたの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させた大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。

(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、
その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。

「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、
天にあっては「天の川」を指していました。

南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。

早岐(はいき)・針尾・針摺は同じような地形に付けられ地名で、
原型を残す「早岐瀬戸」をユーチューブで見ると、往時の「針摺の瀬戸」の様子も想像できます。
http://www.youtube.com/watch?v=d6qEGnI9--o

針摺では、時には博多湾の水が狭い水路を超えて、
蘆木川~千年川(筑後川)へ流れ込むこともあったといいます。

安曇族たちが九州王朝へ物資を運ぶのはこの水路を通っていたわけです。

しかし、473年の大水害で針摺瀬戸が埋まってしまい、船で運航することが出来なくなりました。


そこで筑紫君磐井は蘇我稲目と共に治水工事をしました。
ダムを造って、灌漑用水も確保したというのです。

土手の中に木樋による導管がある謎も
水の管理をしていたことを考慮すれば理解できると思います。

しかし、川を堰き止めたのですから、洪水で決壊すれば被害は甚大です。
実際、573年に大水害が起こっています。

そして、天智天皇の時代に疏水の工事をしたと伝えています。
天智天皇が「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」(大野城HP)
というのは、磐井がひらいた水城が壊れたため、天智天皇が疏水式にしたということになります。

観世音寺の鐘はもともと水城の側で「玄界灘と有明海の潮時をみはからって、
水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ」るために利用されたものだと言います。

深く湾入していた当時の川は潮の満ち引きがあったので、
それを利用して川を遡ったりしていたそうですが、
月を見れば満ち引きの時刻まで船人たちは把握していました。
が、太陽暦はまた別物だったので、船人の利便を図って鐘を設置したのでしょう。

この疏水では通行税がちゃんと取られて、観世音寺の運営費に充てられたそうです。

水城が唐に対する軍事目的で造られたのでなく、
博多湾と筑後川を船で運航するための内政的なものだと観点を変えれば、
その不思議な形状への研究が進むのではないでしょうか。


 水城






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by lunabura | 2014-05-26 20:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

ヨド姫三社めぐり(4)與止日女神社3・伏見神社との関係

ヨド姫三社めぐり(4)

與止日女神社3

伏見神社との関係

もう一か所、これまで逍遥した神社と関連があるので確認したい神社がありました。
それは福岡県那珂川町の伏見神社です。

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その社伝には淀姫が遷座したと書かれていたのです。
過去記事を写します。(青字で)
伏見神社
鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田

御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿禰
御祭神の組み合わせが珍しいです。神功皇后と武内宿禰のペアはおなじみで、すぐ近くの裂田神社の伝承にも出て来ました。かつては、ここから裂田神社まで神幸があっていたそうですから、裂田神社と伏見神社は縁が深かったのですね。

主祭神の淀姫命について、さらに詳しく書かれていました。
御由緒 
淀姫命は神功皇后の姉姫で干珠満珠を求め給う神徳の姫で、欽明天皇25年11月1日、佐賀の里に川上大明神として鎮座されたが、託宣によってこの地に遷座され、後、異国襲来にそなえ、神功皇后、武内宿禰と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す。
ここの主祭神は淀姫命でした。「淀姫」はヨド姫と読みますが、「豊姫」と混同されて呼ばれています。ここでは神功皇后の姉と書いてありますが、ほかでは妹という説もあります。

               ***
この由緒を見たとき、佐賀の川上からここに遷座されたのなら、
元宮はどうなっているのだろうかと、ずっと気になっていたのです。

でも、こうして佐賀の方は、変わらずに鎮座しているので、
伏見神社に書かれた「遷座された」とは「勧請した」という意味で使われたのでしょうね。
欽明天皇25年を調べると、564年でした。

「佐賀の里に川上大明神として鎮座された」ということは、
與止日女神社の創始がこの年だということになるので、
意外な場所に由緒が伝わっていたということになります。

 この伏見神社には「ナマズ」の絵馬が沢山掛かっています。
それについてもブログの過去記事から。(青字で)

ナマズ
取水口のあたりには名前が付いていました。由来書を現代語に書きなおすと、
鯰渕(なまずふち)
神社の前に流れる那珂川の「一の堰」より上流、伏見の渕、鐙(あぶみ)の渕、風拝(かざはい)の渕を総称して「鯰渕」と言い、「鞍掛鯰」の居るところ。
神功皇后の三韓征伐の時、背振山に登られ、灘の川を渡られた時、馬の鞍に魚が飛び上がり、皇后が「なまづめ」たいと言われ、その魚をナマズと名付けた。皇后が三韓征伐の船を出したとき、無数のナマズの群が船を抱き、水先案内をし、戦勝されたことからナマズを神の使いとされた。
ナマズは普段は姿を見せないが、天下の変事には現れる。元和元年大阪夏の陣、寛永14年島原の乱、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争、大東亜戦争終戦前に現れた。

皇后のセリフがよく分からないのですが、「なま冷たい」ということかな。
相変わらず馬乗りの好きな皇后ですね。

日本書紀で「海の中の大魚がみんな浮かび上がって船をたすけた」という話が
ここでは「ナマズが船を助けた」ということになっていました。

前回は日本書紀の記事を「津波が起こった」と解釈しましたが、
ここでも地震を象徴するナマズの名で伝わっていました

          ***
神功皇后の新羅の役の時の津波について、当社ではナマズが守ったということになっています。
大善寺玉垂宮の方では、引き波の時に敵の船が倒れ、
皇后の船はニナ貝が守ってくれて倒れなかったといいます。

これらからも、津波現象の神格化がヨド姫であるということがうかがえます。
また豊玉姫も玉依姫とともに、干珠満珠という引潮満ち潮の神格化となっています。
そして、もう一人、神功皇后の妹(伏見宮では姉)の名前が豊姫で、
干珠満珠を海神から授かった人です。

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これは神社のすぐ前を流れる那珂川。
佐賀の與止日女神社と全く同じ立地ですね。
津波がここまで遡ってきた、と知らせるための淀姫ではないでしょうか。

さて、再び佐賀の與止日女神社に戻りましょう。

嘉瀬川は、川上川とも呼ばれ、肥前国風土記では佐嘉川。
当社の側を流れる流域は聖地とされ、殺生禁断であった。
特に、ナマズは祭神の使いとして、土地の人は食べないそうだ。

(玄松子の記憶より)

與止日女神社でもナマズは祭神の使いとなっていました。

で、るなにはもう一つ確認したいことがありました。
                                        (つづく)




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by lunabura | 2014-02-08 23:16 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・「発刊に当たって」を読む


儺の国の星
「発刊に当たって」を読む
 

那珂川町にせっかく来たので、この町に伝わる古来の星々の名が記された
『儺の国の星』を改めて手に取りました。

行間からこぼれ出す、さんざめく星々の光。
忘れ去られた古代の日本人の暮らし。
何度読んでも、その世界に引き込まれてしまいます。
しかも私の読解は遅々としています。

真摯に古代社会を追う人々にとってはヒントに満ちているこの本の再版を
町にお願いした事は前述しましたが、再版されるかどうかはまだ分かりません。

そこで、今回はその「発刊に当たって」という一文を書写する事にしました。
これで古代の那珂川町にアプローチしてみましょう。
発刊にあたって

那珂川町の歴史は、いつから始まったものか何の文献も、これを説明する資料は全く残っておりません。

しかし、日本書紀には儺縣(なのあがた)の記事がみえ、また有名な魏志倭人伝には奴国(なのくに)の記載がありますから、既にその頃は筑紫国の玄関として大陸の文化をまともに受け入れていた所と考えられます。

日本から大陸に渡るには、必ず玄界灘の上を通らなければなりません。従って昔の舟人が、必ず星の明りを看(み)て取って、船を行ききさせていたことを思い合わせますと、那珂川には、必ず古い星の名が無数に残っていて然るべきであります。

那珂川は中世の幾度となく打ち続いた戦乱の中にも、荘園だけは祖先の素朴にして誠意ある代々変わらぬ努力の致すところ、厳然として保存され、その上料(あがりりょう)の寄進が博多と太宰府の文化を支える偉大な基盤の形成に力あったことは、隠れた事実でありました。

思ふに、昔の殿上人でなければ、心得ているはずのない上品な星の名が口伝ながら旧家に残っていたことは、誠に不思議な奇蹟でもありました。

那珂川には上古は神功皇后(201~269)、下って皇極・斉明天皇(642~644、655~661)、天智天皇(662~671)並びに後の天武天皇(673~686)、持統天皇(687~696)そして安徳天皇(1181~1185)の行宮(あんぐう)がありました。

今から54年程前に、高松宮殿下の御下命を承りて古事記の独逸語翻訳に生涯を畢(つく)した香椎宮司木下祝夫博士が、斯くの如き由緒ある土地には必ずや日本の文化を支えてきた観星の古語が残存していることと思ふので、今のうちに寸暇を工面して後世に書物を残すことを進言しておかれたのが、執筆の動機であったと聞きます。

著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸(ひたち)石岡(いしおか)の出(で)で、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。

特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合(うまかい)(694~737)及び今昔物語に豪勇を讃えられた藤原保昌(958~1036)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

幸い、著者は幼少の頃、父母とともに田仕事、畑仕事、山仕事を夜遅くまで手もと、足もとが見えなくなるまで手伝っておられました。

そのときに、両親からその季節の星の色や光を一つひとつ文字通り手に取るように教え込まれ、時刻の読み方と天気の見方を教えられました。

その時の記憶はもう今から数えて50年昔のことでありますから、もう既にご記憶はかなり淡くなったと語っておられますけれども、民族学的伝承を永久保存する目的で関係方面のご同意とご協力を得て、ここに出版の運びとなりました。

本書は、広報なかがわに昭和53年4月から昭和56年3月まで「那珂川町の星紀辰位」と題して連載した分と、未掲載の聞き書きを追加した分であります。

何分にも遠い昔の伝承の回想録だけに正確な年代や出典を考証するのに多大の事実を要したものと思われまして、九州大学工学部技術官佐藤洋子氏の並々ならぬ調査並びに校正及び索引作製の御助力がありましたことをここに改めて特記しておきます。

皆様方は、この小冊子をご覧になられまして、私達の遠い祖先が夜の間に眺め、祈ってきた美しい雅やかな星の名の数々がこんなにあったのかと驚かれることと思います。

どうか、皆様方のご家庭にもまた、いくつもの別の星の話題があるかと存じますから、何かご団欒のおりの思い出の引きての一つになればと幸に存じます。

昭和57年2月吉日  那珂川町長 大久保 福義

この序文で驚くのは、まずは神功、皇極・斉明・天智・天武・持統・安徳天皇の
歴代の行宮があった事がさらりと書かれている事です。

この中で安徳天皇の行宮については「安徳台」「お迎え」という地名に残されています。
お迎え
安徳天皇に因む地名です。九州へ下向した安徳天皇が外戚であり安徳台(迹驚岡―とどろきのおか)に居館を構えた原田種直を頼り那珂川町を遡上した際、ここで原田一門や村人に迎えられたと伝えられています。

安徳天皇は迹驚岡の仮御所で体を休め、後に壇ノ浦の戦いへ挑むべく各地を渡り歩きました。」(なかがわ見聞録~文化財散策ルート~よりー町で貰えるマップ)
原田種直はNHKの大河ドラマで大宰府の長官(?)として出て来ましたね。
彼のお家は那珂川町だったんだ~。
風早神社の近くなので、武器の生産もしていたかも。

これがそのエリアです。

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これは裂田神社から眺めた裂田溝(さくたのうなで)。
左の森が安徳台です。実際に室町時代の居館あとなどが発掘されています。

さて、さらに前の時代の皇極~持統天皇の行宮と言ったら磐瀬宮という事になります。
いったいそれはどこだと伝わっているのでしょうか。
手に入る那珂川町の沢山のパンフレット類には全くその記述が見られないので、
これからのお楽しみとなりました。

また著者の眞鍋大覺氏に関しては、先祖は鹿島神宮の神官だった事、
また常陸風土記の作者の末裔だった事が書かれています。
那珂川町では庄屋として暦を作った家系なんですね。

さて、カテゴリにある<星の和名・天体>はこの本を元に、
星ごとに分類していく試みをしているものです。
誰も伝えることのなかった古代日本の星の世界へのチャレンジです。

「真鍋大覚」というタグがありますが、エキサイトブログのタグ機能は
各記事に三つしか使えないので、中途半端な分類になっています。
頭の痛い所です。


次回は『儺の国の星・拾遺』の方を紹介します。




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by lunabura | 2012-08-12 22:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(1)

儺の国の星・拾遺 (1)序文を読む 1


儺の国の星・拾遺 1
序文を読む 1
 

前回、那の国の星々の名が那珂川町の旧家に伝わる事情が分かりましたが、
今回はさらに詳しく見て行きたいと思います。
『儺の国の星・拾遺』の序文ですが、長いので、少しずつ紹介して行きます。

序文
本書はさきに昭和57年3月31日に刊行されました『儺の国の星』の続編であります。

那珂川は太宰府の近郊に在ったことから、編暦の官人の草稿が旧家に保存されておりました。しかるに醍醐帝天慶2(939)年の藤原純友の乱と後陽成帝天正14(1586)年の島津義久(1533~1613)の乱により、多くの古書が散逸しました。

それでもなお明治38(1905)年7月26日の大風大水までは庄屋の土蔵の中の唐櫃(からひつ)や文庫の中には、太宰府からの疎開の書類写本が保存されていたのでありましたが、この時の水禍の災害があまりにも甚大であったがために、その復旧工事に盆を返上しての日夜の努力が彼岸まで続いたとのことでありました。

漸く秋分に入って土蔵の中に風を通した時に、意外な雨もりで書類は水気を吸い込んで、ついに開きも離しもかなわず、盥(たらい)に水をはって、これに浮かべて少しづつはがしては筵(むしろ)の上に広げて乾かしたのでありますが、何分にも九百年近い古書であったがために修理不能のやむなきにいたりました。

幸に真鍋勝次(文化14年4月8日~明治42年4月23日 1817~1909)に幼少の頃から侍して、よく家伝の古書を披見(ひけん)していた真鍋利市(明治4年8月12日、昭和22年8月16日、1891~1947)がその内容を記憶しておりましたので、

ここに何とか「晉書天文誌」と昭和39(1964)年、初版のA.Becvar(ベックバール)の『アトラス ボレアリス エクリプテイカリス アウストラリス』の星座図をもってその口伝を確かめることができました。

真鍋勝次は明治維新後もなお那珂郡の方冊(ほうさく)を作製して、百姓の歳時月令に資した最後の人でありました。

昔の國暦は現行の太陽暦ではなく、太陰暦に二十四節季、五十六節気、或いは七十三節期を配し、しかも気候の早晩を閏月の適所挿入によって調整するところの天文気象暦でありました。

餘日延年、即ち1年の太陽暦日と太陰暦日の差を秋分に定め、これと同じ日数が過去何年前にすでに存在していたかを付表から引き、その年の天気地気の記録を参照して立冬までに編纂を完了するのでありまして、真鍋利市は常に机辺(きへん)に正座して祖父真鍋勝次の仕事を見守り、自ら検算を助けました。

早くから窮理の術、即ち現在の球面三角法と天文力学を修め、祖父はその英才を嘱望して、孫ながら、真鍋勝三郎(文久2年12月15日~昭和25年3月26日、1862~1950)の養子に選びましたが、後、前町長真鍋勝次(明治43年2月11日~昭和53年7月28日 1910~1978)の出生におよび、これを独立させて大学卒業まで学費を送ることに定めました。

察するに肥前長崎の天文学者西川如見(1648~1724)に幾代か前の先祖が洋書を求めてこれを習っていたものとみえます。

西川如見は暦法に季節を入れることを主張して江戸幕府に抜擢されました。東山帝元禄2(1689)年に江戸本所深川に渾天儀を置き、渋川春海(1639~1715)は京都土御門に代って暦書編纂の事業を開始しました。

二百十日を入れるべき百姓漁師の上申をうけつけたのは、靈元帝寛文11(1671)年からのことと伝えられます。
(つづく)
那珂川町が太宰府市に近いという事で、大宰府で使われた文書の草稿が
旧家に保存されているような環境があった訳です。

藤原純友や島津義久の乱で多くの古書が散逸したと書いてありますが、
私が逍遥している間も、大宰府政庁跡では純友が建物を燃やした話を聞いたし、
志式神社や伊野天照皇大神宮辺りでは、
島津の兵隊たちが神社を焼いて古文書も焼失したり、
鐘を持ち去ろうとして具合が悪くなったという話に出会いました。

古文書を焼く事はその歴史を抹殺するに近い暴挙ですよね。

那珂川町ではそれでも残った写本などが、明治38年の水害で駄目になってしまった。
その日付が7月26日と言う事なので、今年の7月12日~14日前後の水害を思うと、
梅雨前線や台風の脅威はいつの時代も思いがけない地域を襲うのが分かります。

風水害のために真鍋家でも蔵書が修理不能になったのですが、
祖父の手伝いをしていた利市が内容を記憶していて、
昭和になって出版された星座図で口伝を確かめたという事です。

明治38年の水害から昭和39年の初版まで、よく途絶えずに伝わったものです。
(これって、すごい内容が日本に伝わっていたんだ。900年以上も前の情報なんです。)

毎年作成される暦は太陰暦で、気候の早晩を閏月の挿入で調整するという事です。

この閏月(うるうづき)で思い出す事があります。
10年ほど前に太陰暦のカレンダーを2年ほど使った事があります。

確か四国・土佐で作られ始めたカレンダーなのですが、
漁業の人の間で漁に役立つという事で、口コミで広がりました。

これが婦人服の生産や販売(バーゲンの時期の見極め)などにも役に立つので、
さらに広がって行ったそうです。
旧暦のカレンダーという物は、閏月の挿入場所が、寸前にならないと分からないものだと書いてありました。

夏の長さや短かさなどは、ここに反映されるのだそうです。

私はそれまで、閏月は4年に一度、定期的に挿入するものだと思っていたので、
目からウロコでした。

それにしても、球面三角法なんぞを何に使ったんでしょうか。
(ネットで調べると、天文や航海術、そして四柱推命などに必要らしい。)
やはり海を渡るには必要不可欠なんですね。

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江戸後期の渾天儀 画像出典
http://www.e-tmm.info/syuuzou/kontengi.htm
(つづく)

地図 那珂川町と太宰府市







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by lunabura | 2012-08-11 00:19 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 2・物部氏の矜持 ― 遺言はハレー彗星の通過日の特定だった


儺の国の星・拾遺 2

序文を読む 2
物部氏の矜持 
遺言はハレー彗星の通過日の特定だった
 

前回のつづきです。
口述筆記のために、明らかな誤字は変えています。
明治43(1910)年4月19・679日Halley(ハリー)彗星は近日点を通過しました。

この時が69推の方冊(ほうさく)の家系を語る と、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。

ここに1推(いっすい)とはメトン周期のことで、太陰暦235月6939・68841日と19太陽年6939・60170日が差0・08761日をもって一致するところからきた名称でありました。

これから69推は1311年前、即ち推古帝7(599)年のことになるのでありますが、日本書紀巻22推古紀(603)年壬戌歳には、
   冬10月に百済の僧 観勒(ほうし くわんろく まうおもぶ)けり。
   仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併(あわせ)て
   遁甲方術(どんかふはうじゅち)の書(ふみ)を貢(たてまつ)る。

とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から大宰府の招請に応じて暦書を
上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系
であ
ったことが判明いたしました。

大宰府は異朝の入貢する船籍が多く入泊しますから、各国の暦制が船ごとに異なり、これを対応して数年先の次の入国の機会まで、日取りを正しく登録する必要がありました。

従って物部氏は代々、大宰府の暦官の職務を世襲して、もって天文学的計算の術を通じ、これに仕えていたのであります。

「69推の方冊(ほうさく)の家系を語る」
これはハレー彗星が地球に一番近づく日時を特定する事によって、
69推(1311年)続いた、真鍋家の歴史と実力を証明するという意味です。

トップシークレットだった為に、誰も理解する事のない、
物部氏の本来の仕事がこの天体観測であり、暦造りでした。
ハレー彗星はハレーが発見した事になっているが、
日本ではとっくに知られていたのだという思いが伝わって来ます。

この計算が、どれほど高度な科学的知識に裏付けられているのか、
明治時代には誰も理解出来なかった事でしょう。
現代でも、そんな家系が在ったと素直に信じる人は少ないかもしれません。
だからこそ、ハレー彗星の到来を予見したのですね。

ハレー彗星の近日点をどうやって計算したのか想像も出来ないけど、
「69推」ぐらいは理解してみましょう。

「メトン周期」か…。名前は知っていても、内容は知らないよ。
こんな時はWik頼り。
 メトン周期 19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。メトン周期に
従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。

関係ある所だけ書き写しました。検算してみましょう。

1年は365日。1か月を30日とすると、30日×12か月は360日。
その差は5日。10年経つと50日も差が出て、季節感はめちゃめちゃ。
そこで時々閏月を入れて誤差を調整する必要が出てくるけど、
19年間で7回の閏月を入れると誤差は解消されるという事か…。

どうれ、計算してみよう。
365日×19年=6935日
30日×235ヵ月=7050日
7050-6935=115日
30日×7回=210日
あれ?うまくいかない。一か月30日が間違ってる? (@_@;)
29.5日ぐらいかな?
それとも、序に書いてあった、12桁でないと誤差がひどすぎる?
(どうやって計算するの~)

それじゃあ、12桁を使ってまじめに計算しようとしたけど、
桁が多過ぎて計算機に入力できない。とりあえず、下6桁までで計算してみよう。
365.693960日×19年=6948.1852日
30日×235.693968月=7070.8188日
これもダメ。検算でさえ私は出来ない(涙)
差0・08761日が出て来ないよ~ (・.・;) 
やはり、1か月30日が駄目なのか。誰か頼む…。(いや、お願いします。)

こんなメトン周期を日常で使う家系ってどんな家?
そして、計算機がないのに、どうやって計算したのだろう。
メトン周期はあきらめ!

気を取り直して、ハレー彗星を調べてみよう。
「ハレー彗星はエドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656~1742)が
初めて76年ごとに地球に近づく彗星を発見した。」

なるほど。
真鍋勝次氏は日本の物部氏はすでに76年ごとに地球に近づく彗星の存在を知っていて、
その近日点を計算する事も可能だったという事を証明したかったんだ。
そして見事的中。

これは天文の歴史を塗り替えるような内容ですぞ。
だから、遺言にしてまでもその家系の存在を伝えたかったのでしょう。
う~む。これぞ物部氏。

真鍋家と大宰府
日本書紀では69推前=599年の3年後に百済の僧・観勒が暦を伝えたとなっていますが、
真鍋家の祖先は、この暦と日本古来の暦との付き合わせをしたという事を暗示しています。
(ひとひねりしていいるのは大覚氏の独特の表現法です。)

現代でも外国では西暦以外の各種の暦を使っています。
東南アジアの何処でしたか、一つの国で何十種類もの暦を民族ごとに使っている
という話をラジオで聞きました。
そのカレンダーはきっとすごい事になってるんでしょう。
でも、その国ではそれが当たり前。
古代の姿が残っているのですね。

古代、大宰府に入港した船も各国から来て自国の暦を使っているため、
倭国の暦との付き合わせが大宰府政庁で行われたんですね。

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これは大宰府の再現図。(パンフレットより)
どの建物でやったのかな。少し身近になりました。

さて、つづき。
真鍋勝次は明治20(1887)年3月28日をもって時の農商務省大臣 山縣有朋(1838~1922)から表彰を受けております。

埼玉県秩父郡の民生安定に多大の貢献を為したるをもって感謝の金一封を授与せられたのでありますが、東京帝国大学農科大学の教授博士をしても荒廃の極に達した田畑の土地改良の大事業を僅か2年の歳月で完成させた功績は天下一の篤農(とくのう)の郷士と称えられたとのことでありました。その語る処の祖先の逸話がこれであります。(つづく) 

勝次氏は那珂川町の元町長ですが、埼玉県では田畑の土地改良に尽力。
日本古来の智恵が余すところなく発揮されたのでしょうね。
どんな改良法だったか、これまた知りたいものです。
(つづく)








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by lunabura | 2012-08-09 10:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

儺の国の星・拾遺 3・メトン周期と満月の祭事


儺の国の星・拾遺 3
序文を読む 3

メトン周期と満月の祭事
 

諸事情で投稿が遅くなりました。<(_ _)> お待たせです。

前回の難問……メトン周期の計算を愛読者さんがしてくれました!
さて、どんな問題でしたっけ。
そうそう、ハレー彗星の近日点を計算した真鍋家(物部氏の末裔)の
計算力を理解するために、基礎となる「推」を検算していた所でした。

「推」という言葉は現代では「メトン周期」に置き換えられるという事で、
メトン周期にチャレンジして、さじを投げた所でした。(笑)

メトン周期 
19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月(うるうづき)を入れる回数を求めるのに用いられた。
メトン周期に従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されること
になる。
(wiki より)

太陽暦で暮らしている私達も、時々旧暦を使います。
福岡では七夕が旧暦で行われていたので、8月の天候の安定した季節に
満天の星空を見る事が出来ました。
最近はもう太陽暦の7月だけになったかな?
7月の七夕は梅雨の末期なので、雨が心配ですよね。

中国では旧暦の正月の帰省ラッシュがよくニュースになっています。
旧暦が今でも生活に密着しているのが分かります。
旧暦だと、月を見れば今日は何日だと分かるので、
空の「誰でもカレンダー」になります。

ところが、困った事に太陽暦とはズレがあるため、話は簡単ではありません。
そのずれが無くなるのが19年目だという事です。

今月の満月は2012年8月2日でしたが、
もし「次の8月2日の満月の日に再び会いましょう」と恋人と約束したら
19年後になってしうまうんだ~。

さて、眞鍋氏の本に戻ると、
古代、大宰府にやってくる各国の船はオリジナルの暦を持っていたので、
大宰府政庁で計算して暦の突き合わせを行なったわけです。

「609年、百済の僧・観勒が暦の本を奉った」と日本書紀にあるけど、
「この時、暦が初めて日本に導入された」と解釈するのは間違いで、
倭国にはすでに和暦が存在していて、百済の暦とどう違うのかを
当時、換算される部署が存在したというのが実態だという事です。

それを行ったのが真鍋家の祖先で、物部氏です。
すでに高度な暦が日本では作られていました。

神功皇后の筑紫での行動にきちんと日付が付いているのも、
当時、すでに暦があって、従軍書記官がいたと推定しています。

前置きが長くなりましたが、メトン周期について愛読者さんのコメントを紹介します。
(朔とは新月。望とは満月の事です。)
メトン周期ですが1月を30日で計算すると合いません。「日」単位で考えてください。

1朔望月=新月から新月の間は29.530589日です。
(だから陰暦では29日と30日の月が約半々になっています)

これを235回繰り返すと29.530589×235=6939.688415日、

1太陽年=冬至から冬至の南中時までは365.242194日×19回繰り返すと=6939.601686日

235を12で割ると19年と余り7月ですので、19年7閏とすれば、19年後に同じ月の同じ日(*11月1日)に冬至が回ってくるわけです。

(*太陰太陽暦では冬至は11月1日を基本の「朔旦冬至」とし、19年ごとに回ってくる。それでもこのメトン周期では若干のずれが出るのでいろいろ改善されています)

これによると、太陽暦と太陰暦の差が0.086629日。
真鍋氏が出した差は0.08671日。
おお。かなり近い数字が出ましたよ。
(1朔望月=約29.5日を覚えておこう。)

計算機の無い時代なのにかなりの水準だったんですね。
愛読者さん、ありがとうございます。
これですっきりしました。

赤司八幡神社の満月の祭事
さて、物部氏が計算力の優れた人たちだったのが分かりましたが、
それで思い出すのが久留米市の赤司八幡神社満月の祭事「竿例し」です。
(「赤司八幡神社」の正しい名称は「八幡神社」です。)

私は、これは「満月の測量」が祭事になったのでないかとずっと考えていました。
赤司八幡宮に伝わる「竿例し」は正月14、15日の夜、地上10尺の長さの竿を立て、月光によって生じる竿の影の長さを測って占象とする。まことに古拙な占行事で、他に例を聞かぬものである。
(『赤司八幡宮の「竿例し」』(古賀壽)より)

「正月14、15日」に注目して下さい。14日と15日の二日間あるという事です。
「正月」とは「旧暦の正月」の事ですから、15日は満月です。
しかし、一か月は約29.5日なので、ずれが溜まると
満月が15日に来るとは限らず、14日に満月を迎える事もあります。

だから、14日と15日の夜に竿の長さを測量して
満月の時間を確定していたのではないかと考えています。

それは神官によって厳粛に行われた事でしょうが、
そのまま神事として伝えられたではないでしょうか。

現在は旧暦の正月14日の晩、一日だけ行われているそうですが、
よくぞ伝えられたと感激しています。

古賀氏の寄稿文には
「昔は多くの人が集まってこの祭事を見守ったと聞くが、
現在は宮司と家族と時に総代会長が参加するというさびれたものになっている。」
とも書いてあります。
是非とも近隣の方々にこの祭事の意味を知って見守っていただきたいなと思いました。

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この赤司八幡神社は三女神の降臨の地であり、大宰別府です。
天の真名井の意味を伝え、満月の測定の神事を伝えています。
かなり高度な星宿祭祀が行われたもようです。

神功皇后を諸手で迎えた人々の宮でもあります。
まだまだこの宮の伝承全体を消化しきれていないのですが、
日本古来の神道の姿を研究するに欠かせない重要な宮だと認識を新たにしました。





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by lunabura | 2012-08-01 11:03 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

儺の国の星・拾遺 4・天明3年 浅間山の噴火の年の暦づくり


儺の国の星・拾遺 4
序文を読む 4

天明3年 浅間山の噴火の年の暦づくり
 

さて、序文の残りの部分です。まずは読んで行きましょう。

祖先は陰暦12月13日に威儀を正して百姓家の一つ一つに、来る年の朔(さく)と望(ぼう)の干支をふりがな付きで一枚の和紙にしたためて直接届けておりました。

明治初年で戸数37でありましたから、少なくともこれだけの分を楷書でしたためておりました。百姓の日々の生活と行事がすべてこの方冊で仕切られて、農事歳時にいささかの支障も無いことを期待せねばならぬ所でありましたから、その編集にはまさに斎戒沐浴しての一月半余の厳粛な仕事が離れの一室で人気を避けて行われたと聞きます。

メトン周期をどうやって手計算したのか、未だに謎ですが、
斎戒沐浴してまで、一室にこもって暦造りをしたというのですから、
これは神々への祈りと同じレベルの取り組み方だった事が伺われます。

こうして出来た新しい暦は神前に供えられ、古い暦は焚き上げられました。
これを「お火焚き」と言い、那珂川町の裂田神社や伏見神社の神事となって、
現代に伝えられています。

この話の続きは
裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
http://lunabura.exblog.jp/16314603/

に書いています。
(この記事のイラストをペテルギウス流星群のHPに掲載したいという依頼があって、
こんなものでよければと快諾しましたが、HPは出来たのかな?)

話がずれそう。元に戻って続きを読みましょう。
光格帝 天明3(1783)年癸卯歳は、この昭和59(1984)年と同じく冬は寒く雪は稀(ま)れで、春から夏にかけて雨少なく気爽やかで、秋は白露(はくろ)の前から涼しくなりました。

この天気は例年通りの順調な日取りでありました所、7月7日(陽暦8月5日)に信濃浅間岳の大噴火がはじまり、ついに秋落ちの凶作が東国を襲ったのでありました。

今年は閏10月が陽暦11月23日から12月21日まで小月で挿入されております。翌天明4(1784)年甲辰歳は閏正月が陽暦2月21日から3月20日になっており、秋も冬も例年より長くなることを示しております。

祖先は連日の如く赤く燃える夕空に驚き、まず近い先例を手持ちの記録から繰り出しました。差し当たりの目安が201年2486月の差0.63692日でありまして、当時から現代にくだれば、今年になるのでありますが、前に遡れば正親町(おほぎまち)帝 天正10(1582)年、羅馬(ローマ)使節派遣と西洋新暦改制の年でありました。

翌年閏正月は陽暦2月23日から3月23日の間に挿入されております。

この暦制の革命に加えて、あの天正14年の乱世による史料の喪失がやむをえぬ時世とは言いながら編暦に多大の支障を来(きた)したのであります。

そこで1021年12628月、差0.00310日をもって淳仁帝 天平宝字6(762)年の先例に鑑(かんが)み、閏12月1日から来年度の暦をはじめました。即ち冬長く残りて春来ること晩(おそ)しと案じたのであります。

祖先は正月が一月先になり、一同を待たせたことになりましたので、取り敢えず晒木綿(さらしもめん)の袋に精白した糯米(もちごめ)一升を納めて戸別に持参し、己れの不徳不明を陳謝して廻ったとのことでありました。

地元の天気のことならばいざ知らず、遠い他国の山燃えのこと等、まことに不慮不則なりとして鄭重(ていちょう)な挨拶(あいさつ)に恐縮したとの後日談でありました。

夕陽の赤きことを年改まりても尽きることなく、気は冷涼でありましたが、水温はさしたることなく、例年通り、一月に籾種(もみだね)を水に浸けて苗代を起したおかげで幸いには飢饉に至ることなく、一同何とか平年作までに持ちこたえたことを喜び合ったと聞きます。

氷雪の解けること晩(おそ)きとも地水の上るは遅きことなしと諭(さと)して、里人の心を安んじたことは長く世の人の話になりました。
(一部、読みやすくするために変更しています)

読んで行くと、時系列がいくつかあって、よく分からなくなってしまいました。
そこで、まずは浅間山が噴火した天明3年について検索すると、
次のイラストがヒットしました。

c0222861_110644.jpg

浅間山の噴火 天明3年 (画像出典は下記より)
http://www.asamaen.tsumagoi.gunma.jp/eruption/index.html

江戸時代の噴火なので各地の史料に記録が残り、上記のサイトから引用すると、
噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。

となっています。
c0222861_1122697.jpg

旧暦7月7日は大噴火だったことがこれで確認できました。
遠く離れた福岡でも連日、夕焼けを観測したために、祖先が驚いて記録を調べました。
この祖先とは江戸時代の人だと分かります。

先例を調べる目安が201年と書いてありますが、理由は私には分かりません。

天明3年の201年前は天正10年で、すぐ後に西洋新暦改制が行われて
比較が難しくなった上に、天正14年の乱によって、史料が失われました。
豊臣秀吉による九州の役の時代ですね。
博多も炎上して、櫛田神社の御神体が那珂川町の伏見神社に避難した話が
伝わっているので、真鍋家もその騒乱に巻き込まれたのでしょう。

その櫛田神社の御神体については
伏見神社(2)櫛田神社から疎開した須佐之男社の御神体
http://lunabura.exblog.jp/16345830/

に書いています。

天正10年の史料が無いので、祖先は更に古い天平宝字6(762)年を調べて、
ようやく翌年の暦を決定しました。

その結果、なんと「閏12月1日から来年度の暦をはじめました」となっちゃいました。

これは、翌年のカレンダーを貰った方からすると、
年始が「12月」からスタートしているという驚きの暦だったのです。

♪もう幾つ寝るとお正月♪と待っていた「12月」のあとに
また「閏12月」が来るのですから、楽しみにしていた子供たちもがっかりですね。
あの世の御先祖さんたちもがっかりです。
(昔は盆と正月に先祖が帰って来てたんです。)

お正月が一か月先になったのは自分の不徳の致すところと言って、
祖先は貴重品だったもち米を配って回ったという事ですから、
その気構えに驚かされます。

しかし、この暦のお蔭で稲作は順調な結果をもたらしました。
もし「閏12月」を年始に入れなかったら、寒すぎて稲が育たずに凶作になった事でしょう。
暦が村の農事に大影響を与えるのですから、責任ある厳しい作業だったのですね。

こうして暦は農事に活かされたのですが、
本来の目的は祭祀の日取りを決定するためのものでした。

この千年以上の観測の記録と智恵は真鍋氏が「地震雲」を世に出す礎となりました。
気象庁では今でも地震雲は認めていないそうですが、
311の前後の地震雲がネットに多く寄せられて、いろんな方が自分で検証する時代になりました。






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by lunabura | 2012-07-30 11:05 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 5・物部氏の星の観測法


儺の国の星・拾遺 5
緒言を読む

物部氏の星の観測法
 

それにしても、代々、どうやって星々の名前を覚え、
その星から年号が分かるのでしょうか。
虎の巻はあったのでしょうか。
今回は、「緒言」からその原本と星の観測法を紹介します。

原本
本書の原本は「石位資正」(せきいしせい)の名で藤原隆家(979~1044)が後朱雀帝 長暦(1039)年に大宰権帥(ごんのそち)に再任された時、九州に在って星暦についての古今の見聞録を編纂したものでありました。

執筆の契機は、三條帝長和(1014)年から後一條帝寛仁3(1019)年に大宰権帥の任期中に刀伊(とい)の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝えられます。

逸話ではありますが、この頃から南辰(なんしん・ここでは南十字星)が有明海の彼方に沈み行く光景が都府楼から遠望されたのが、今にして大宰府の暦書を収録しておかねば永久に世人の関心が星空から離れて行く気配を憂慮しての企画でありました。

「石」とは「星」の事です。
この本は大宰府に赴任した藤原隆家が九州に残っている星暦を書き留めたものなんですね。

この時代に刀伊が襲ってくる大事件が起こっていますが、
よく知らないので、wiki からあらすじを抜いて見ました。
対馬への襲撃
寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。

そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。

筑前国怡土郡への襲撃
その後、筑前国怡土の郡に襲来、寛仁3年(1019年)4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。

これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。

刀伊の入寇は単語だけ教科書に載っていたような記憶がありますが、
この福岡では大変な戦いだったのですね。

長崎の原爆を描いた小説に、当時一番恐れられていたのが
「ムクリ・コウクリ」だという一文があったのですが、
これは「蒙古・高句麗」つまり「元寇と刀伊の入寇」を指していたんだと
今頃つながりました。
それにしても敵が福岡に上陸したとは…。

敵を撃破した隆家はその後、異国の天文知識に感銘して、
自国の天文の見聞録を見直してこの本が成立したというのも、不思議な縁です。

この時代は南十字星が都府楼から見えていて、
有明海に沈んで行くのが観測されたというのですから
想像もつかない古代の静けさと光景です。

歳差運動によって、星の小さな変動が1000年も積み重なった今では
もう見えないのでしょうが、
明治時代には脊振山から南十字星の一番上の星γ星が観測されたそうです。

南十字星については
南十字星の和名 古代の呼び方
http://lunabura.exblog.jp/16129802/

に書いています。

「緒言」に戻りましょう。
「石位資正」の内容でありましたが、源順(みなもとのしたごう)(911~983)が朱雀帝 承平7(937)年に上梓しました倭名類聚鈔に則した記述であったらしく、漢名の星宿に項目を分けて、これに日本の星の古名を列挙し、要すれば由来の説明を摘記略述したものでありましたから、星座を拾って夜毎に見上げておれば、幼少といえども星名を暗記するには容易であったと思います。

中国の星と日本の星の対照表ですね。それに解説のメモが付けられた。
日本独自の星の名があったんだ。
「幼少といえども星名を暗記するには容易」と書いてあるけど、
子供だからこそ覚えられるんだよね。
(小学校の先生が子供は記憶力がいいと何度も言ったのが今頃立証されている…)

それでは星をどうやって覚えたのでしょうか。
続きを読みましょう。
父親は筆者(※大覚)を田の畔(あぜ)か石の上に立たせて、後ろから肩越しに右手の甲を手で握って星の名を教えました。夜の8時か朝の4時に時間を定め、しかも子午線の上にある星だけを繰り返して説くだけで、その他は一切言及しませんでした。

これが昭和7年(1932)年から同15(1940)まで続きました。

考えてみれば、頭上の天頂を通過する南北の方位から東へ15度外れた星は1時間後には子午線に必ず乗ってくるものであり、西へ15度外れている文は15日前には必ず見たものでありましたから、まさに季節の移り変わりについての予習復習が8年間も続けられたのであります。

後年筆者が宇宙科学を志す素地がこの頃に出来上がりましたが、今でも星座表で前後左右の星の並びを聞くたびに、あの時その時の季節を思い出します。

これを初めて読んだ時は驚きました。
全く想定外だったんです。

子午線上の星の位置と名を覚えて行く。
これこそが物部氏の伝統的な伝授法です。
すごいですね。
子供に8年間毎晩教えるというのも合理的です。
そして、この伝授は大覚少年で終わりを告げました。
この本は高松宮宣仁殿下の五十余年に及ぶドイツ語訳古事記刊行の大事業の中のささやかな一環として世に出る運びとなりましたことは誠に感慨無量の一言に尽きるところであります。

この本は日本人への最後の贈り物です。
どうぞ再版されて皆様の手元に届きますように。

因みに今夜、2012年8月12日の夜8時。福岡はこんな星空です。

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天の川が正面に流れています。
これに星座を重ねてみましょう。

c0222861_12483024.jpg

福岡の夜空は明るくなり過ぎていますが
子午線の右に赤いアンタレスぐらいは見えるかなあ。
みなさんの所はこれと比較してどの位置に見えますか?






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by lunabura | 2012-07-28 12:49 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(14)

丸ノ口古墳公園(1)那の国を見晴らす装飾古墳たち


丸ノ口古墳公園(1)
福岡県筑紫郡那珂川町後野
那の国を見晴らす装飾古墳たち

丸ノ口古墳公園はJR博多南駅から車で約10分の所にあります。
(へえ。そんなに近い(驚))
「丸ノ口・北中入口」の信号から山の方に登って行くのですが、
ナビなら「那珂川町北中学校」で行くと、隣なので分かりやすいでしょう。

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手前の駐車場から遊歩道を上ると円墳が!いきなりテンションが上がります。
ところが、左の草むらがすでに古墳。しかも、こちらがメイン。

丸ノ口古墳群Ⅵ群2号墳

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正面に廻って遠景を撮るとこんな感じ。入口は防護されています。

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扉の隙間から撮ってみました。円文が写りましたよ!

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これがそのイラスト。
イラストは円文と波と舟です。う~む。舟はどうして空にあるのだ。
よくよく考えると、高い所から見た大海原を描こうとするとこうなるかな。
あるいは遥か彼方からやって来た?
それともあの舟に乗って旅立つ?
装飾古墳は妄想出来るので、やっぱり楽しい。

しかし、問題は中央にある円文。さらに上にもある。
かつて王塚古墳で円文を見て、何も考えず人の説を採用したけど、
あれは反省。最近は少し慎重になった。

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これが出土品。さて古墳の時代は?
6世紀の後半だそう。
すると、磐井の乱後、古墳が小さくなったというのがこれ?

さてさて、一か所にこだわるには古墳が多い。先を急ごう。

丸ノ口古墳群Ⅴ群5号墳

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これは一枚目の写真の中央に見えていた円墳。廻り込むと、石室が露出していた。
おお、入口から既に円文が見えている。

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あれれ。この強化ガラスみたいな保護板は蕨手さんがレポートしていた古墳だ。
そうか。この古墳だったのだ。これは装飾古墳なのだ。
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石を打って模様を刻みこんでいる。
いたずらしないように覆いをしているのだろうけど、
ここだけ湿気がひどくなって、却って石の劣化が早くなるかも。

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と心配したけど、この解放感からすると、保護板で済ませたい気持ちもよく分かる。
天井石がないので、よく観察できるのだ。
パンフレットを見ると、何々?これは移築復元したんだって。
そうか。そうなんだ。
直径14mの円墳で、「円文」が3つ描かれているのが特徴。
ふむふむ。

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説明板がすぐそばにあるのでありがたい。
いつの頃かな?
6世紀代。さっきの2号墳と時代は重なる。

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ここから出土したのは玉類。
他の所からは武器や馬具が出ているので、ここにも、かつてはあったかも。
それとも夫人?
この時代は女性も同等に埋葬されたのかな…。

さて、この二つの装飾法は敲打法というのだそうだ。
ここだけなのかなあと思うと、こんなイラストまであった。

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福岡中南部に多いんだ。技術が伝播したのか、技術者が移動したのか、
偶然の一致なのか。誰か研究してないかな。
この古墳群が町の史跡に指定されたのが平成11年という事で、
カラーの説明板がすぐ傍に在るのは理想的でした。
(あとは出土品の所在地があれば完璧かな。)

そして、ここから見た景色がこれ。
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那の国全体が見渡せた!

正面に見えるのが若杉~宝満山系。左のずっと奥は犬鳴山系かな。
宝満山系の手前の低くて丸い山が乙金山、その右が最近話題になった大城山(大野城)のようだ。
大城山の麓には大宰府がある。その左は水城で仕切られている。

さらに左の低地から今立っている所も、かつて「天の原」と言われたという。
ちょうど白い飛行機が降りて行くところが板付。那国の王墓がそちらにもある。

ここは北東部が開けているのだ。
古墳の被葬者の背景を知るのに大切なのは場所だと思う。

この見える範囲に磐瀬宮候補地の梶原があり、日拝塚古墳があり、
三笠の山の稜線を伝って月が昇る天体ショーを見られる「月の浦」もある。
ここは何だか凄い所だ。
こんな見晴らしのいい所に古墳を作れるのは、この地を熟知して那の国を愛した人だ。

と思って反対側を見たら、あれ?磐座じゃない?
(つづく)

丸ノ口古墳公園





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by lunabura | 2012-07-25 22:58 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(3)
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