ひもろぎ逍遥

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タグ:春日市・大野城市・筑紫郡 ( 39 ) タグの人気記事

丸ノ口古墳公園(2)これは磐座?


丸ノ口古墳公園(2)
これは磐座? 

広大な那国の景色を眺めたあと、後ろを振り向くと、山の上に岩がいくつも見えました。

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い、磐座(いわくら)じゃない?

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登って行くと、頂上付近の岩群れが怪しい。
さらに近づくと岩群れの頂上に方向を示す石が見える。
写真を撮ろうと尾根に出ると、だ、断崖絶壁 (@_@;)

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採石か採土の為に切り通された崖になっていました。
かろうじて頂上の方向石が残っている状態。
ここまで近づくのが限度…。

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船石というのかも知れないけど、組んだ石に違いありません。
どこか、方向を示す強固な意志を感じます。
本来はこれを中心に磐座があったのだろうけど、もう全容は分かりません。

そこで思い出したのは、この近くに[後野神ノ前遺跡]という磐境祭祀跡がある事です。

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これは町で貰える冊子『那珂川町の文化財』の一部。
左上の写真は何気ない岩の集まり見えるけど、祭祀場です。
左下の土器群は岩のすぐ近くで出土したもの。
右の写真には、先程と似た石があります。

町の話によると、ここは大宰府のための祭祀場ではないかという説があるそうです。
これは面白い。

現在地はこの後野神ノ前遺跡から、さほど離れていません。

だから、現在地の岩の集まりが磐座だという可能性は充分で、
発掘すれば何か出るのではないだろうかと思いました。

後野神ノ前遺跡が大宰府鎮護の磐座説は魅力的ですが、
磐瀬宮のための祭祀場の可能性がないかなとも考えました。
そうすると、北西部に当たり、いい感じなのです。
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(龍頭遺跡群の近くが磐瀬宮推定地)

那珂川町の磐瀬宮説についての検証はまだ手つかずですが、
その近くの龍頭遺跡群ではこんな掘立遺跡が出ています。

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(町で貰える『那珂川町の古代・中世遺跡』より)

う~む。那珂川町は面白い。

そうして、頂上から下り始めると、巨大な岩盤が見えました。

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で、でかい。
これは御神体だったのだろうかと思ったのですが、祠らしきものは見当たりません。

この岩盤がどうしてこんな所にそそり立つのか、
思い出したのは阿蘇山の9万年前の大噴火です。
阿蘇山の火砕流がこの町まで流れて来たのを知ったのは
裂田溝(さくたのうなで)の所です。
(⇒ 裂田神社)
安徳台の特異な地形はその火砕流によるものですが、
これも同様にして出来たものではないかと思いました。

すると九州の各地で見た同様の岩盤が思い浮かんで来ました。

三郡山登山ルートの途中、あるいは熊本の山の中や
鹿児島の慈眼という名のついた公園でも、同じようなものがありました。
その成り立ちが不思議で仕方がなかったのですが、
今私の記憶の中でつながりました。

阿蘇山の大噴火による火砕流は九州を覆い尽くしたのです。
そして、山容が崩壊する時の地震で津波が起こり、
北アメリカの東海岸まで届いたというホピ族の言い伝え。

想像するだけで、寒くなる…。
(つづく)






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by lunabura | 2012-07-23 22:42 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

丸ノ口古墳公園(3)白石古墳群・磐座と古墳の謎


丸ノ口古墳公園(3)
 白石古墳群
磐座と古墳の謎
 

さて、巨岩を久し振りに見て、満足して下りて行くと、あれ?
ここにも古墳がある。
いったいどうなっているのだ。
しかも、入口に扉が付いている。きっと重要なのだろう。

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開口しているなら覗かねば。

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格子の隙間から写真を撮ると、こんな石室。


さらに、もう一つ古墳があった。
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暗くて見えないので、写真を撮る。

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この石室はさっきのよりずっと強固に造られている。日拝塚古墳と見た目も近い。

ここは「白石古墳群」という事が案内板で分かったが、
もうどれがどうなのか、各古墳の名前が分からなくなってしまった。
6世紀の後半のものだそうだ。
Ⅲ群1号墳は入口の前にテラスを作って、土器を供えて、
その中には皮袋の形をした水筒のような土器もあったという。

いったい、この丸ノ口古墳公園はどんな構造になっている?
改めてイラストマップを取り出した。

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このマップを見ると、私は一番右の⑩からスタートして、
③-④ そして地図では木が書いてある所に登って②-①と移動したらしい。
マップの中で、赤い丸は移築したものという事だ。

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そうすると先程、足元にあったこの露出した石室は移築した物だろうか?
その長さは90センチほどで、最小のものらしい。
この日はこうして珍しい古墳公園に満足して帰宅の途についた。


今、振り返りながら、古墳と磐座の関係を考えた。
古墳群がとても見晴らしの良い所に造られて、
すぐ上の磐座が祭祀遺跡だとすると、気になる事が一つある。

それは何故、祭祀地に古墳を隣接して造ったのだろうかという問題だ。
古代では祭祀点と埋葬地は別にするのではないかという考えを私は持っている。
(忌宮神社で、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)が太陽観測点ではないかと推測したのは、
思想的に禁忌を侵す事になるので、逆に隠す所にもって来いだったと考えたからだ。)

だから、磐座と古墳が至近距離だという事に疑問が残る。
イヤシロチにケガレが置かれるのだ。
 
幸いに築造の時期が分かっている。
6世紀後半という時代を考えると、磐井の乱後の混乱期だったろうと思われる。
この町でも古墳は小型化した。
古来の祭祀形態が排除される対象になった可能性だってゼロではない。

考えるに、この古墳群の被葬者は磐座を守り続けた一族ではないだろうか。
一族というイメージは、90センチという石室のサイズから生まれた。
90センチとすると、埋葬された子は2歳未満だったと思われる。
幼い子供の為に丁寧に石室を造る余力があったのだ。
しかし、「神ノ前」を離れられない。
そこでタブーを侵して、聖地に埋葬した。

そんな妄想が生れて来た。

「神ノ前」とか「後野」とかいう地名から、
ここはもっと広い範囲の祭祀圏があったのではないかと想像された。


たった一つの古墳群でこんな妄想を書く事が出来るのはブログならではだ。
これから先、いろいろと見て行く中で、自分の妄想を礎として、時には反省して
古代世界の再構築に向かいたい。


この那珂川町は古代の十字路の中心点だという評価がある。

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(町で貰える、『なかがわまちエコミュージアム』より)

西に行けば伊都国や末廬国へ。東に行けば大宰府。
北は袖の湊。南は吉野ヶ里。
古代のキーポイントを結ぶ立地だ。
大宰府がまだ湿地だった頃は、こちらの方が重要な地点だったに違いない。






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by lunabura | 2012-07-21 23:16 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(13)

百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ


百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ

日拝塚古墳のさきがけ
福岡県那珂川町

百済にある前方後円墳と北部九州との関わりについて、再開です。
ずっと前に石室が似ている春日市の日拝塚古墳を紹介し、
筑紫郡那珂川町ミリカローデンに行った所で中断していました。

石室の構造が百済の海南長鼓山古墳と春日市の日拝塚古墳が似ていたのですが、
一方、九州の前方後円墳の学会に出掛けて知ったのは、
京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の番塚古墳の石室も似ているという事でした。

そうすると、この三つの古墳はこんな位置関係になります。
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番塚古墳については下記へ(九州大学文学部考古学研究室)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/banduka.htm


これは前掲の二つの石室。
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そして那珂川町で聞いたのは、日拝塚古墳は那珂川町の大王たちの古墳群からつながる事でした。
それが下の地図です。

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安徳大塚古墳→老司古墳(福岡市)→貝徳寺古墳→日拝塚古墳(春日市)の順です。

さて、今回はこれらの大王たちの古墳を時代順に辿りましょう。

1 安徳大塚古墳
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一番古いとされる古墳で裂田神社の近くにあります。(気が付かなかった~)
全長64m。濠を含めると81m。4世紀の後半。
発掘調査は行われていないのですが、葺き石と埴輪が確認されているそうです。
前方部が細くてきれいな形をしていますね。(小郡市の古墳を思い出します)

2 老司古墳

それから老司古墳。これは福岡市老司にあります。5世紀初頭です。
竪穴系横口式石室で、初期の横穴式古墳だそうです。
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石の大きさが随分違いますね。

画像出典 福岡市の文化財より 詳しくは下記へ
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/property/detail.php?ID=101539
三角縁神獣鏡を含む10面の鏡などが出土したという事で、首長墓と呼べるものだそうです。

3 貝徳寺古墳

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あの貝徳寺君ハニワが出土した古墳です。(やっぱり山本太郎く~ん)
すでに墳丘が削り取られていたために、存在そのものが知られていなかったとか。
昭和56年に調査されて全長54mの前方後円墳だという事が分かりました。
5世紀後半。
いかにも前方後円墳と言えるバランスの良い形をしています。

4 日拝塚古墳

これは過去記事へどうぞ。
日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳 http://lunabura.exblog.jp/18056441/  
   (2)「ひはい」の由来 http://lunabura.exblog.jp/18063037/

町の話によると、那珂川町の古墳は磐井の乱以後小さくなって行き、
日拝塚古墳のあとは小さな前方後円墳が乱立するようになったそうです。

やはり、磐井の乱は福岡では大事件だったのですね。

さて、こんな話を聞いたら、そりゃあ現場に行きたい!
と、場所を尋ねると、一つは消滅し、一つは個人の所有地という事で見学は無理。

しかし食い下がって、なんとか見学できる古墳はないかと尋ねると、
丸ノ口古墳群を紹介されました。
これは、ブログでもどんどん紹介して下さいとのことです。
それは心強い。
という事で、レッツゴー。






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by lunabura | 2012-07-19 00:05 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(1)

大宰府・神籠石コメントまとめ2

大宰府・神籠石コメントまとめ2

続きです。

ところで、大野城は四王寺山でしたっけ。


厳密には、大城(おおき・おおぎ)山=四王寺山ではありません。
四王寺山にある峰々の最高峰が、大城山で、
四王寺山全体に、大野城(おおののき)があります。

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四王寺山と水城(大野城市に行くと貰える資料)


これは研究した方でないと答えられないほど深い話なのですね。


四王寺山は、すり鉢状になった山で、
山全体の周囲の峰々を土累や石垣で補強して山全体を守る山城として
大野城(おおののき、おおのじょう)が造られています。

太宰府の都府楼の真北標高約410メートルの大城山を最高峰に
大原山などの峰々の総称が四王寺山と呼ばれている感じですが、
地図によっては、「大城山(四王寺山)」と記載されているものもあり、
このあたりは曖昧になっています。

四王寺山には、尾根をつたって延々6.5km以上に及ぶ土塁が馬蹄形に延びており、
土塁が谷にかかるところでは石垣が築かれ、巨大な大野城が形成されています。

四王寺山の名前の由来は、奈良時代に立てられた「四王院」に由来するとされています。
四王院は、774(宝亀5)年に新羅の宗教的呪詛に対抗して呪詛返しをするために創建された寺院で、
現在、大野城の 土塁線上には四天王である毘沙門天、広目天、増長天、持国天 と呼ばれる地域があり、
それぞれの地域から礎石建物や井戸なども見つかっています。

ですから、歴史的には四王寺山より大城山の方が、古い呼び名となります。
もともとは、「大城山=王城の山」、だったのかなと個人的には思っていますが。

大宰府政庁(=都府楼)の真北にある大城山は、
風水で言うところの玄武にあたる山でもあります。

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(大宰府政庁跡から見た四王寺山)

確かに北=玄武だ。

大野城跡は四王寺山にあるんだ。
よく近くを通っているはずなのに、未だにどの山がそうだと言えない。(・.・;)
何度か登った事もあるのに、よく分からない。
ここも土砂崩れの復興が数年かかって最近ようやく見学できるようになったというが、
今年の豪雨には耐えられたか?

この山は神功皇后が登って祈った時、イケメン住吉神が降臨して新羅攻撃を援けてくれ、
その後二人は結ばれたと、『高良神秘書』には書いてある。
(記事は高良大社(7)に詳述)
訳(わけ)が分からなかった。
しかし、その後のるな探偵の調査では確かに住吉神の待遇は格別になっている。

が何度調べても、霧の中に戻ってしまう。
そうか、呪詛が今も効いているのか…。  (-_-;)


大野城跡については、大野城市のHPに詳しく書かれています。
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/kyoiku/rekishi/shitei/onojoato.html



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by lunabura | 2012-07-07 14:59 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた・倭国と日本国・仲遺跡・亀石


ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた

倭国と日本国・仲遺跡・亀石
 


ついに那珂川町に戻ってきました。
一年前だったでしょうか、裂田溝(さくたのうなで)を辿りながら
御中主神社、風早神社、伏見神社、裂田神社、現人神社などを逍遥しました。
(どれもサイドバーからどうぞ。)

人の営みと自然が調和した里で、日本書紀に書かれた水路を辿った古代散歩は
沢山残されていた伝承や祭りで豊かな色彩にいろどられていました。

そして今回は百済の前方後円墳の話から日拝塚古墳を経由して那珂川町へと
思いがけない歴史を辿ってやって来ました。

韓半島の南にある前方後円墳の被葬者は倭人で、九州の北部出身の人たちでした。
この時代についての中国側の記事を読むと、
倭国が毎年朝貢していたのに、その旅程を高句麗が邪魔するという状況でした。

そののち、いつの間にか日本国という存在が出現して、
これもまた中国に朝貢して来ました。
だから、一時期は倭国と日本国という二王朝が同時に存在しています。
その後、倭国の記述は消えて行きました。
韓半島の古墳もまたそれを裏付けるような状況でした。
その石室の構造が春日市の日拝塚古墳と似ているのを確かめに行ったのが
前々回の記事です。(サイドバー→日拝塚古墳)

百済と春日市と那珂川町。
この三つの地域が古墳でつながったのは偶然でした。
ある講座で百済と日拝塚古墳がつながるのを知り、
那珂川町の講座で日拝塚古墳と那珂川町の王墓級の古墳群がつながるのを知りました。

そこで、私の中で、那珂川町の古墳群→日拝塚古墳→百済の前方後円墳という
系譜があるのではないかという仮定が生まれました。
それは確かめないと分かりません。

時代は5~6世紀。磐井の乱は527年。
この磐井の乱は良い指標になります。
筑紫の君・磐井は筑紫の古代史ファンにとってはヒーロー。
(と、私だけが思ってる?いや、きっとみんなにとってもヒーロー。)
その子は葛子。他に鞍手の北磐津などがいるのが分かっています。
そして粕屋の屯倉。宮地嶽不動古墳。岩戸山古墳など。
筑前でも筑後でも、福岡の各地で彼らは深い歴史の奥から呼びかけて来ます。
そう、磐井の君の治めたエリアはとても広かったのです。

そのエリアは彼より300年前の人である神功皇后の移動したエリアにも
一部重なっていました。
皇后を支えた筑紫の古代人たちは、夏羽や羽白熊鷲、田油津姫たちという
旧勢力を滅ぼした後、新たな秩序を作り上げました。
それは連合国的なものだったように思われます。
これが倭国ではないかと思い始めました。

そして6世紀になって筑紫の君として記録に残ったのが磐井です。
彼はついに継体天皇と雌雄を決した。
それが倭国と日本国の戦いだったのではないでしょうか。
言いかえれば九州王朝VS近畿王朝という形なのでしょう。

「日本国は倭国の別種である。」
それは現代の「英国と米国」のような関係に近いと思います。
英国からの移民たちが独立して新国を作り、母国を凌駕して繁栄した。
伝統の国VS繁栄した新国。
それが「倭国と、東の方で繁栄した日本国」とそっくりだなと思うのです。

さて、日拝塚古墳が6世紀のものであり、
那珂川町の古墳群がそれより過去にまで遡れるらしいという事は
磐井と同時代に生きた人たちが埋葬されているという事になります。

那珂川町の古墳の分布は全国の10倍の密度だそうです。
乱開発から逃れ、系統だった古墳の変遷が見られる町です。
その古墳群の中に何が見つかるでしょうか。楽しみです。

今、私はミリカローデンという町の施設の玄関前にいます。
この真下にも古代の遺跡が眠っていました。
古代の人はどんな景色を眺めたのでしょうか。

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西の山々が見えます。片縄山や油山です。

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南には神奈備山がありました。城山というそうです。
ここに住む人々はこの山を神聖視したに違いありません。

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その人たちの遺した遺跡を仲遺跡(ちゅういせき)と呼びます。
縄文時代~古墳時代。
という事は仲遺跡の人たちは神功皇后や竹内宿禰を出迎えたかも知れません。
磐井の君とはどう関わったでしょうか。
ここもまた奴国(那の国)なのです。

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玄関口にぽつんと岩がありました。
どことなく怪しくて、ペトログリフでもないかと観察していたら、亀だ!

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自然石の一部だけを亀に見立てて彫っています。
どこから持って来たのだろう。
スタッフに尋ねたけど分かりませんでした。
亀は各地で神の使い、あるいは神そのものでした。

造成する時に現地から出たのでしょうか。それとも他所から持ち込んだ?
これは土器と同じように文化財としてどこから発掘されたか記録されるべきものです。
遺跡も石も神社も全部、ひっくるめて文化財だと思っています。

そして施設内には三角縁神獣鏡がありましたよ。
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そして例の山本太郎に似た貝徳寺くん。(と、古墳の名前からネーミング)
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さて、うまくつながるかな。さらに古代を歩いてみましょう。




ミリカローデン那珂川 福岡県筑紫郡那珂川町仲2丁目5-1
文化ホール 図書館 プールなどの総合施設






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by lunabura | 2012-06-09 18:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(3)

日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳


日拝塚古墳(1)
ひはいづかこふん
福岡県春日市下白水南6丁目208番外
百済と倭国を結ぶ古墳

百済の前方後円墳から、ずいぶん寄り道をしました。
百済の地にあるこれらの古墳は倭人が作ったことが見えて来ましたが、
その中の海南長鼓山古墳が春日市の日拝塚古墳に近いという事を聞きました。
偶然にも、すぐにその古墳に行く事が出来たので今回はそのレポートです。

この古墳は住宅地が迫る丘陵のピークにあります。道案内なしでは難しい所ですぞ。
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墳丘の形が綺麗に残っています。
国指定になっていたので、この敷地だけは保護されています。

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後円部に石室の入り口が露出しています。

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近づくと、こんな感じ。
教育委員会に申し込めば石室に入る事が出来るそうです。

c0222861_9544032.jpg

今日は隙間からカメラでエイヤっと。結構見えますね。
この石室が百済の海南長鼓山古墳と似ているそうです。

c0222861_9545612.jpg

そこで、二つの写真を並べて見ました。
左が日拝塚古墳。右が海南長鼓山古墳です。
確かに似ていますね。
日拝塚古墳は人が立つことができそうです。竹原古墳王塚古墳を思い出しました。
(過去記事はサイドバーから)
百済の前方後円墳は平天井が特徴だそうですが、
この海南長鼓山古墳の天井がどうなのかは分かりません。

石室の形や副葬品など、比較した研究があったら面白そうですね。

とりあえず、一般人が簡単に手に入る情報として、まずは春日市のHPから
 
6世紀に築造された前方後円墳で、周溝まで含めた規模は全長60メートルほどになります。墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。

 主体部は、後円部中央に位置する単室の横穴式石室です。昭和4年に盗掘を受けた際、石室内から須恵器、鏡、装身具、武器、馬具などが多量に出土しており、大部分は回収され、東京国立博物館に収蔵されています。
主軸が東西を向いて大根地山を見ているのは興味深いので、次回検証します。
今回は百済のものと比較するのがテーマです。
何々?出土物はいったん盗掘されたものが取り戻されたって?
これは驚きですが、その出土品もみんな東京に行ってしまった?
これじゃあ出土品が見られないぞ。

看板の写真を見てみましょう。
c0222861_9575593.jpg

これはかなり洗練された副葬品ですね~。
これが、倭人たちが百済で手に入れて、故郷の首長に贈ったものだとすると、
面白いのですが、私にはよく分かりません。

妄想するのにはもっと資料が欲しいなと思って探すと文化庁のデータベースがありました。
日拝塚古墳は博多平野にあり、那珂川の右岸の低段丘上に立地する前方後円墳である。古墳は前方部を西に向けており、全長41.2メートル、後円部径22メートル、高さ5.9メートル、前方部幅34メートル、高さ5.4メートルを測る。墳丘は段築が明瞭で、葺石、埴輪は認められない。石室は後円部中央に設けられ、西南に開口する単室の横穴式石室である。玄室は長さ3.6メートル、幅2.6メートル、高さ4メートルである。羨道は長さ4.8メートルで玄室から2.5メートルは幅約1メートル、高さ1.5メートルを有する。

玄室奥壁寄りに屍床があったといわれるが現在は残っていない。昭和4年に開口したおり、多量の出土品が知られ、獣形鏡1面・金製垂飾付耳飾1・金環4をはじめとする装身具類、環頭柄頭をもつ太刀1をはじめとする武具類、鉄製輪鎧3組などの馬具類、須恵器等多数があり、現在東京国立博物館に保管されている。本古墳は前方部が発達した平面形を示しており、出土品の特色からもこの地域で6世紀に属する後期の古墳として典型的なものである。
むむ。これでも、よく分かりません。残念だなあ。

(つづく)

地図 日拝塚古墳





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by lunabura | 2012-06-05 10:06 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(6)

日拝塚古墳(2)「ひはい」の由来


日拝塚古墳(2)
「ひはい」の由来
 

さて、今回のテーマは「日拝」という名前の由来です。
墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。(春日市HPより)

さて実際はどうなっているでしょうか。

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測量なんて当然出来ないので、グーグルアースから切り取ってみました。
前方後円墳にしては円墳が丸くないですね。封土が崩れているのかな。
それともそんな設計?

いや、テーマは古墳の主軸でした。
グーグルアースが地図として正しく東西南北を指しているとすると、
切り取った輪郭が物差し代わりに使えます。
それと見比べると微妙に傾いているので、
主軸はHPにあるように「ほぼ東西」となるようです。
歳差運動で、東西がぶれたのでしょうか。

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円墳の上から東を見ると、遠くに三角形の山が見えました。
(写真では電柱のすぐ左。)これが大根地山(おおねち)です。

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拡大しました。三角形の独立峰です。
このブログでは初登場ですが、実はこの山はあちこちから見える、気になる山で、
神功皇后が登って祭祀したという伝承もあります。
私もかつて登ろうとしたけど、イノシシの噂を聞いて止めたことが…。(-_-;)

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日拝塚古墳から大根地山に向かって東にラインを引くと頂上にはつながりません。
少し北に届きます。
もしかしたら、日の出の場所は山の北の峠かもしれません。
日の出を観測するのに、山のピークを利用するのも有りですが、
二上山のように凹んだ所から出る太陽を観測する例もあるのです。

そこで、月の浦からの月の天体ショーを発見した、くるま座さんに尋ねると、
彼はここで日の出を観察したというではないですか。
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それによると、春分の日は大根地山の少し左側から、夏至は乙金山から太陽が昇ったそうです。
それを写真に書き込んで見ました。
夏至に乙金山(おとがねやま)から昇るとすると、春分の日についても
大根地山のピークではなく峠から出る事が前提だった可能性が出て来ました。

ここから毎日、日の出を見た情景を想像しましょう。
春分の日に大根地山の峠から太陽が出ると、その後、日の出は日々左にずれて行き、
夏至の日に乙金山から出ると、Uターンして再び大根地山に戻ります。
その後はさらに右の方から出来ます。
冬至の日の出の目当ての山も家の向こうにきっとある事でしょう。
蛇足ですが、大根地山と古墳のほぼ中間点に大宰府があります。

c0222861_19412953.jpg

さて、振り返って古墳の反対側を見ると油山が見えました。
どんな日没が観測できるのでしょうか。

さてさて、この「日拝塚」の由来についてはあの真鍋大覚氏が書き残してくれていましたよ。

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写真が載っていたので、私が撮ったものと並べて見ました。
30年ほどで封土の形が変化しているようですね。
本文を引用してみます。
前方後円墳は門戸(かどのくち)の方位が夏至の日の出、冬至の日の入りを見通す様式になっているものもある。まさに居ながらにして太陽暦日を見取ることが出来る。

前方後円墳を「狐塚」とも言う。その形が狐の耳を立て腰を高くして休みおる姿に似ているからと説かれている。

昔は日契塚(ひけいづか)、後に日経塚(ひけいづか)と呼び、一種の日計塚の意であったが、これを「きつね」と略したのが由緒らしく、更に吉日を選び縁起を担ぎ出す江戸初期頃には暦書の普及も又百姓町民の手元に届くことになって、その由緒が失われた。

またの名を日回塚(ひかいづか)あるいは日向塚(ひけいづか)と言う。夏至冬至のこの日を限って日の出入りの方位が回転するからであるが、これが訛って日拝塚に変わり、春分秋分の日の出日の入りを正す渾天儀の役を勤めてきたのである。
なるほどですね。
すべての古墳が太陽の観測に使えるように造成した訳ではありませんでした。
ただ、この古墳は主軸が東西に造られたために、
さきほどのように山の稜線を観測する事で「日を計る」ことができたので
「日契」「日経」とも呼ばれ、「日回」「日向」とも書かれ、最終的に「日拝」となりました。

「あの古墳は何でヒケイち言うとかいな。」と人々が語源を考えて、
漢字を当てはめていったようすがよく分かります。
キツネの寝姿に似ているのも、面白いですね。
キツネが口にくわえている巻物とは暦のことなのですから。

つづき。
(前方後円墳は)元来は含墓(がんぼ)のちには観墓(かんぼ)と呼んだこともあった。その形が「含」(に似ていたからである。)

「含」とは即ち「王者の口に血統を刻した玉石」で、これを挟む葬式が遠く殷周時代に行われ、(その形は今の短冊あるいは紙雛、又は戯化されて、てるてるぼうずの形に似ていたが、)冥土で閻魔が鋏でこれを抜き、裏表の書面を確かめたうえで天国か地獄への配分を定めたと語られている。やがてこれが「大王の舌抜きの説話」に転じ、更には虚偽の申し立てを「二枚舌」と言うに及んだのである。
へえ。そうなんだ。
中国の殷などの被葬者の口に玉石をくわえさせるのは、
その血統の印刻を閻魔大王に見せるためなんですって。
閻魔大王はその玉石を引っこ抜いて、書面を確かめたなんて。
由来が分かるとなるほどだな~と思いますね。
その形は前方後円墳の形なんだ。ふふ。そうなんだ。

古墳の前と後は高さが不同であった。方位を見定める労を軽くする配慮であった。

衆人はこれを見て各々高さを競うゆえに「いがみあいづか」と称していたらしい。権力闘争を事とした王者を揶揄(やゆ)するかの如くに聞こえるが、元来は神前仏前に供える飯粥(いがい)の形を写した古語に他ならない。

飯はさらに高く盛り上げることができるが、粥(かゆ)は椀に入れて具を中に伏せてもほぼ平たくなる。百姓はかつて王者の資本で開拓した水田のお蔭を感謝する供物を日々忘れなかったのがこの発祥である。(中略)

里の女人が供物を捧げて立ち帰った後、人気のなくなったのを見済まして、母狐が子狐連れでそのまま一日草むらの日向で昼寝をしていたと聞く。古墳の尊厳は荘園が存続していた頃まであったらしい。

『儺の国の星』より(一部、るなが言葉を補いました。)
お供え物の「いがい」が「いがみあい」に変わるなんて、有り得る~。
そして暦のシンボルとなったキツネがそこで昼寝をするなんて、いい時代の話ですね。

古代は「王者の資本で開拓した水田」って、言われるとホントそうなんだ。
これに類する話は「裂田溝」(さくたのうなで)も該当しますよね。
あの裂田溝はここからはすぐ隣の那珂川町にあるんですよ。

そして、この日拝塚古墳の系譜はその那珂川町につながるという話を聞きました。
時代を遡ってその那珂川町に行きましょう。





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by lunabura | 2012-06-04 19:50 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(2)

百済の前方後円墳(2)・磐井の君VS継体天皇の背景


百済の前方後円墳(2)
磐井の君VS継体天皇の背景
 

前回は百済の南方に集中する前方後円墳や横穴墓が北部九州につながる事を書きました。
横穴墓については遠賀川流域のものと類似している事が分かったのですが、
前方後円墳の方は石室構造が北部九州系である事が指摘されています。
それが次の要約です。

3 579年、『日本書紀』雄略23年の記録によれば、百済の三斤王が死去した際、
東城王の帰国を筑紫国軍士500人が護衛したという。

この記録は栄山江流域の前方後円墳の石室構造が北部九州系である点、
北部九州地域における百済産の威身財、
栄山江流域の倭系古墳に甲冑や刀剣などの武器・武具が
顕著に副葬されるという考古学資料と符合する。

したがって護衛のため韓半島に渡った彼らが帰国せずに栄山江流域に配置され、
百済王権に仕えた と推定される。


―百済の王の帰国を護衛したのは筑紫の軍士たちなんですね。
同じような話を小郡市の「黄泉の道―古墳巡り」でも書きました。
筑後川や遠賀川で鍛錬した武人たちは軍船を並べて韓半島へと渡ったんだ。

小郡市「黄泉の道」古墳巡りはこちら
http://lunabura.exblog.jp/i190


百済は都から遠く離れた栄山江流域を支配するために、
息のかかった百済人を支配者に据えて現地の豪族たちを押さえ、
さらに牽制するために倭人の軍勢をそのまま駐屯させたようです。
倭人を外人部隊のように使ったという感じでしょうか。なかなかの政策だな。

倭人たちの中には百済の高級官僚になった者もいました。
彼らは当地で手に入った金細工の宝飾品などを自分の故郷の首長たちに送り届けた結果、
倭国の首長たちの死後に、それらが古墳に副葬される事になったと考えられます。
だから日本で百済系のものが出土するんですね。

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(熊本の江田船山古墳と百済の益山笠天里古墳の副葬品 画像出典は朴天秀氏のPDFより)
この金銅の靴は福岡や近畿でも出土しています。

さて一方で、百済の倭人たちは故郷から持ち込んだ須恵器やゴホウラの釧なんかを
死ぬまで手元に置いていました。そして亡骸と共に埋納されました。
だから、韓半島に倭の物が出土する訳です。

彼らは百済王を送り届けるという名誉ある任務のために選抜された、つわものたちで、
異国で死ぬ事も覚悟していたのでしょうが、
拙(つたな)い造りの現地制作の円筒埴輪を見ると、
倭国の美しい前方後円墳を作る事で、故郷への思いを込めたんだろうなと思われて
ちょっと切なくなります。
(写真はPDFにあります。)

百済に突然出現した前方後円墳は、短期間で作られなくなります。
その原因として磐井の乱が無関係ではなかった事が次の文からうかがえます。

4 継体王権の擁立には5世紀後半から
瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていた九州勢力が
百済王権との仲介などの役割をしたと推定される。

その一方で栄山江流域の前方後円墳被葬者を含めた
北部九州の有力豪族の対外活動が頂点に達し、倭王権をおびやかすようになった。
その結果が527年に起きた磐井の乱と考えられる。

その後、当地での前方後円墳の造営は停止するようになり、
倭系百済官僚の出自は畿内周辺に集中するようになる。
 

―百済の倭人たちは百済と倭国を取り持つ仲介者として力を増大させていきます。
彼らは九州出身ですから、当然ながら筑紫の君たちを大切にします。
それが継体天皇との戦いの一因となって行ったようです。

思い出すのは、日本書紀のこんなシーンです。
継体天皇21年の夏、6月の壬辰(みづのえたつ)の3日に近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。

この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井(いわい)は密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。

新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野(けな)の臣の軍勢を防ぎ止めてほしい。」と。

ところが磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。
外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」
と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。

磐井は奢り高ぶっていました。毛野の臣は前を遮られて、進軍できずに停滞しました。

青い部分を見て下さい。
これって、継体天皇のイチャモン・難癖じゃない?
と、訳しながら思ったんですが、やはりそのようですね。

九州の武人たちが身体を張って百済を守り、その対価として韓半島との交易権を握ったのに対して、
継体天皇が横やりを入れたというように見えて来ます…。



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それにしても百済もまた、したたか。
倭人の駐屯地を三か所に分けて、倭人同士が連絡しにくいようにする方策をとったことが、古墳の配置から推理されるそうです。

北の海岸には高句麗戦略の基地とした形跡が。

そして百済は倭国のの二大勢力である九州の勢力と近畿王権を両天秤にかけて上手くバランスを取っていたのです。



朴氏の論文には「九州勢力」とか「古代の九州」という言葉が出て来ます。
これって、いわゆる「九州王朝」のことかなぁと思いながら読みました。
いろいろと考えさせられる面白い論文でした。

さて、当初の謎―百済の前方後円墳の被葬者について
その答えが九州北部と繋がった手掛かりは石室構造でした。
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上の写真はそれをよく示す海南長鼓山古墳の石室です。
これも朴天秀氏のPDFによる写真ですが、赤いベンガラが塗ってあります。
いかにも倭国的です。

これが春日市の日拝塚古墳とかなり近いそうです。
数日後に、思いがけず私はその日拝塚古墳に行く事が出来ました。

という事で次回はその日拝塚(ひはいづか)古墳に行きましょう。

参考文献
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」
―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と 古代日本との交流を示す出土物
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/kokusai5-1_2-001paku.pdf

<追記>
この朴天秀氏の論文の下線部分について問題があるので次回はそのお話です。



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by lunabura | 2012-05-14 10:33 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(13)

この埴輪、山本太郎に似てない?


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王冠をかぶって入れ墨をした男性の埴輪。
山本太郎に似てる~。
古墳時代なのにヘアースタイルは美豆良じゃないし、冠も珍しい形。
これは会いたいと思って、出土地である福岡県筑紫郡那珂川町の
古墳の講演会に出掛けて来ました。

あいにく、この埴輪は出張中で、対面出来なかったのですが、
この那珂川町の古墳の集中ぶりは全国の10倍以上。
沢山の古墳を紹介されて、古墳の遍歴が少し分かるようになりました。

そのあと古墳見学に行ったので、後日レポートします。

そして、この那珂川町は何よりも眞鍋大覺の古里。
『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』を出版した町です。
私にとってこの本は伝承や日本書紀を理解するためのバイブル。

眞鍋大覺は縄文杉の年代を測定し「縄文杉」という名称を作った人。
炭素測定による年代測定の先鞭を付けた人。
「地震雲」の存在を世に出した人。
「針摺の瀬戸」を伝えた人。

この本があいにく昨年完売になったので、
ミリカローデン那珂川の館長さんに再版をお願いしました。
その本の存在を御存じなかったのですが、前向きの回答が戴けそうです。

この本は古代日本の暦法を支えた物部氏の最後の伝承者による本です。
物部氏はハレー彗星の存在も既に知っていましたよ。
物部氏の暦法はトップシークレットだったために世に出ていませんでしたが、
現代の私たちにとって、古代史の謎を解く手がかりに満ちています。
この本が多くの古代史研究家に渡り、研究されるように願っています。




地図 那珂川町






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by lunabura | 2012-03-26 23:19 | にっき | Trackback | Comments(2)

月の浦・天体ショー・万葉歌「天の原~」は禁忌の歌?


月の浦

月の浦から見える天体ショーを発見
万葉歌「天の原 ふりさけみれば~」は禁忌の歌だったのか?
 

昨日、太宰府地名研究会でくるま座さんが急遽、研究発表。

その中に hurutakaimasakiさんからイラストの依頼があった万葉歌
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
に関わる発表があったので、途中経過を報告します。

まず、これまでの経緯です。(サイドバー<地名>→「御笠の森」)
Commented by hurutakaimasaki
添付の地図を見て改めて感じたことです。
宝満山の別名は三笠山ですよね。春日の真東。海抜は869m。
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
唐へ渡った阿部仲麻呂の歌です。出立地は当然博多那の大津。
春日から見た三笠山から昇る月はさぞ美しかったんでしょうね。

luna様「宝満山と月」の写真、心当たりがあれば教えて下さい。
一方、奈良の御蓋山は見かけの高さ200mほど。若草山に登るかしなければ月の出のいい写真は撮れないようです。
ちなみに「三笠の杜」の歌の「大野」は春日から見て宝満山の手前の大野山(四王寺山)ですよね。
なお「三笠社之 神思知三」は「三笠の杜の 神し知らさむ」と訓読されているようです。
三笠山も三笠川も三笠杜も元はみんな福岡だと思っています。
(イラストの山に月があれば・・などど欲張りな願望を・・)

Commented by lunabura
この歌が福岡で詠んだ歌だという話は何人かから聞きましたが、具体的に確認した人を知らないのですよ。
糸島市の松尾氏が精力的に各地から見える日の出を撮ってあるのですが、御笠山があったかどうかは、確認しないと分かりません。
幣の浜の月の出などは拝見しました。

また、御笠山が宝満山のま南にある宮地岳(あしきの近く)を指していたという話を先日くるまざさんが突き止めました。
このあたりは私もよく分からないのですが、分かったらまた報告します。
(あと延々と続くので省略します。「御笠の森」のコメント欄を参照して下さいね)
御笠山の月の出が見えるビューポイント探しという事で、
太宰府の研究家くるま座さんに相談すると、
ちょうどくるま座さんは基山の山頂にある案内石におかしい表示があるのに気づいた所でした。
それは頂上から見える山の名を示す丸い石盤なのですが、
宝満山の隣に三笠山が書かれていたのです。(三笠山=御笠山)

c0222861_134354100.jpg

普通は「宝満山をかつては御笠山と言っていた」という事ですが、
石盤からは「宝満山と御笠山とは別山である。」という事になり、
教育委員会などに尋ねたけれど、分からなかったという事でした。

神社考古学家の百嶋由一郎氏に尋ねると、
隣の宮地岳を御笠山と呼んでいた事を証明する資料が届けられました。

フィールドワーク家でもあるくるま座さんは
満月に実際に観測しますと言われたのですが、あいにく二回とも曇り空。
その間に地名の調査を続けて、「月の浦」という不思議な地名を発見。

そして今月の満月の夜にそこから見ると、宝満山と宮地岳の間から月が出て、
宮地岳の山稜をなぞるように月が昇っていく天体現象を確認しました。

さらに「日の浦」という地名も発見された事から、
そこからは日の出の天体ショーが確認される事と思われます。

「天の原」は福岡の南北を貫流する「ありなれ川(中つ海)」が隔てた
左の島「左佐島」の別名です。
(⇒「高天原」や「赤司八幡神社」「針摺の瀬戸」を参照)
(赤司八幡神社に書いた「中つ海」の範囲を訂正しています)

「月の浦」は「天の原」にあり、「中つ海」を挟んで対岸に三笠山(宮地岳)を見る位置にあります。
これが課題の万葉歌の場所と特定出来た訳ではないのですが、
思いがけず、古代筑紫にあった「月の出の天体ショーが見られる月の浦」という
特別な名所を発見しました。


月の浦と宮地岳




くるま座さんは一方で、この歌について調査をし、
これが太宰府における禁忌を詠んだ歌だという記事を発見。
それが太宰府の「うそ替え」という祭事の暗号と、
菅原道真の遺言の謎を解くカギとなることまで発表されました。

また太宰府の南に二つの巨大な盤座があるのですが、
そこから福岡県内の9つの神籠石まで、
東西や夏至線などの祭祀線が引かれる事を発見。

古代筑紫の結界と思われる壮大な祭祀線像が浮かび上がりました。

以上が概要ですが、くるま座さん。論文でも書いてくれたらいいのにな~。

話が聞きたい方は直接「自然食のくるま座」に行けば、話してくれると思います。
くるま座の場所は「地震雲教室」の所に書いてます。

ということでhurutakaimasakiさん、あの歌は思いがけない展開となりました。
イラストはもうしばらくお待ちください。




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by lunabura | 2012-01-22 13:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(10)
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