ひもろぎ逍遥

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御笠の森・神功皇后の笠が飛んだ


御笠の森
みかさのもり
福岡県大野城市山田2丁目 
神功皇后の笠が飛んだ

お待たせしました。
今回から羽白熊鷲との戦いのルートを歩いて行きます。

下関市の忌宮神社(いみのみや)に行って分かったのは
そこが仲哀天皇が宮室をたてた穴戸(あなと)の豊浦宮であって、
新羅の塵輪(じんりん)から都を襲撃されていた事でした。
すでに新羅との戦いは始まっていたのです。

実は仲哀天皇は塵輪に攻撃される前に
下関市から北九州市、豊前市、宇佐市にかけて、
木を切り出して、船を48隻も作らせているのも分かりました。
これらは日本書紀には書かれていない部分でした。

これらの事から分かった流れは、
仲哀天皇は船を48隻造らせて、新羅攻撃の準備に取り掛かっていた。
ところが新羅の塵輪と熊襲の連合軍が豊浦宮を先制攻撃。
かろうじて仲哀天皇が塵輪を射殺して勝利を収めたが、
護衛の阿部高麿、助麿の兄弟は戦死してしまう。

そのために天皇一行は防府市の佐波に避難していたが、
ついに香椎宮に遷宮して、本格的に戦闘の準備に取り掛かった。

軍事訓練をする中、会議で武人たちは先に新羅を攻撃する作戦を勧めたのに、
仲哀天皇は熊襲攻撃に執着した。
仲哀天皇の意向に従い、皇軍は御勢大霊石神社で布陣をして、
宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。

仲哀天皇の突然の崩御の理由を知るために、皇后が小山田斎宮で神託を聞くと、
神々は熊襲より新羅を討てと勧めた。
しかし神功皇后もまた神々の意見を聞かずに羽白熊鷲攻撃を決意する。
(田油津姫がこの場にいて、皇后を暗殺しようとして失敗している。)

そこで新たに立て直した作戦は陸路と水路の挟み打ちをする事だった。
神功皇后自ら本軍を率いて、陸路を進軍した。

その途中、皇后の笠が吹き飛んでしまう。
この笠が飛ぶ話は日本書紀に書かれているんですね。
仲哀9年2月6日。仲哀天皇は崩御。
3月17日に皇后は熊襲を討とうと思って、香椎宮(かしい)から松峡宮(まつお)に遷った。
その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛んだ。そこで人々はそこを御笠と呼ぶようになった。

それがこの森です。

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廻りは道路と住宅街ですが、見事に残されていました。
鳥居があればまるで神社のようです。

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古木がそのままに遺されていました。

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森の中に入る事が出来ます。森の中は異空間です。
この石は万葉歌碑。

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おもはぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の森ぞ 神し知らさむ

太宰大監 大伴宿禰百代作

読み方はこれでいいのかな…。
漢字は原典は万葉仮名だったので、適当でいいんですが、
ひらがなが上手く読めない…。意味もよう分からん…。
(hurutakaimasakiさんに読み方、教えていただきました。ありがとうございます。)

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何やら祠もありました。説明板があったので、書き写します。
笠が飛んだ話
武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、
宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、
荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、
筒井村の辺りまで進まれた時に、
いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。
そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、
北へ北へと飛んで行って、一キロメートルはなれた山田村の森の
大きな楠の梢(こずえ)にかかってしましました。

お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。
事情を聞いた村長(むらおさ)は森の神様にお願いするほかはないと思い、
お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。

すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、
笠はひらひらと舞い降りてきました。
大変喜んだ村人達はそこを「舞田」(まいでん)と呼ぶようになりました。

赤司岩雄著『大野城市の伝説とその背景』より抜粋

さすが地元には地名と共に詳しい話が残っていました。
こうして伝えられるとありがたいですね。

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しかし。るな的にはどうも納得できない。
笠が一キロも飛ぶ?
しかも笠が飛んだことが、神様に舞を奉納する騒ぎにまで発展する?
そして、日本書紀にわざわざ書くほどの事件だった?

きっと誰しもがこう思う事でしょう。
何らかの暗喩なのでしょうが、残念ながら謎は解けませんでした。
地元の神への挨拶が出来てなかったという事なのかな…。






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by lunabura | 2011-10-29 14:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(19)

現人神社・ここは全国の住吉神社の元宮


現人神社
あらひとじんじゃ
福岡県筑紫郡那珂川町仲
ここは全国の住吉神社の元宮

知る人ぞ知る。住吉神社の元宮、現人神社にやって来ました。
住吉ということは全国の住吉神社の元宮です!

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那珂川町でも中心的な存在のお宮です。
ここは石段もなく、平地に神社がありました。
駐車場からすぐに一の鳥居です。楠が大きい!

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堂々とした拝殿です。

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中からは灯明の灯りがこぼれています。
大阪の住吉大社へ行き、博多の住吉神社へ行き、そしてこの現人神社へ。
ずいぶん遠回りして、ようやく元宮に辿り着きました。
ここに来れた事に感謝して参拝。

住吉三神―この三柱のには何度も出会って来たし、、
それはオリオンの三ツ星を象徴している と私は思っています。
しかし、まだまだ心の中には謎が残っていました。その謎が何かが掴めない。
境内の由緒書きを写します。
現人神社(住吉三神総本宮)略誌
御祭神 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命
御由緒 並びに御神徳
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。

いかがでしたか。そのまま書き写しました。
内容はこれまで歩いて確認してきた話ばかりです。少し復習をして置きましょう。

冒頭の「伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて
禊祓い給いし時に生れましし」は祝詞(のりと)の中に出てくる有名な一文です。

イザナギの命が海辺で禊をした時に、この住吉三神は海の神と共に生まれました。
三神は、神功皇后が香椎宮や小山田の斎宮で神託を得た時に現れた神々で、
皇后の身を守り、戦いを勝利に導く約束をしてくれました。

そして、神の約束通り戦いに勝つと、皇后はこの地でお礼参りをして、
伏見宮の前から水を引いた裂田溝に水を通し、神田を潤し、藤原朝臣佐伯宿禰を祭祀の祀官としました。
そして、海岸線が遠くなったのでしょう、三神は博多の住吉神社へ分霊されました。
これが全国の住吉神社へと展開していきます。

このお話の場所に全部行きました。
ここに書かれた歴史の場の一つひとつを歩いてきた事に驚きました。
今回はまるで、第一ステージのフィナーレのようです。

それなのに、心の中にはまだ残るものがある。
それは住吉族とはどんな海人族たちなのだという疑問でした。

仲哀天皇を筑紫に呼んで、古新羅(辰韓?イルウィ?)と
戦わねばならなかったのは住吉族の方ではなかったか。
玄海灘を簡単に越えられる船を操る事が出来る海の民たち住吉族。
それは安曇族とはまた違った海人族。

それはずっと心に気にかけていた問題でした。
そして、神殿を撮影しようとして見たものは。

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またもや、神殿を守る鬼面。やはり柱に喰らいついている。
(葉っぱに焦点があってしまいました。)

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こちらは角があって、如何にも鬼を意識したデザイン。

この神殿・拝殿・大鳥居は、正徳4年(約270年前)当時の領主地頭であった黒田靫負(かげゆ)重実が氏子に協力して再建したものである。明治5年に現人神社と改号した。

とあります。江戸時代の建築でした。こういう鬼面は当時の流行なのかな?
これまで出会った鬼面を持つ三つの神社は、
「現人神社―伏見神社―高良下宮社」でした。
三社とも神功皇后と竹内宿禰が関わる神社ばかりです。
(ま、福岡の神社はかなりの確率で二人が関わっていますが…。)

そして思い出したのは、高良玉垂神秘書に書かれた秘密
四王寺山に降臨したのは住吉大神と住吉の神たちだった。
かれらの名前は物部氏。
そして、そのうちの一人、物部のヤスツラが神功皇后を妻にしたという。

大阪の住吉大社には、住吉の神と神功皇后の秘密が書かれているという。
通説ではその住吉の神とは武内宿禰を指すと噂されるが、そうではなかったのか。
謎解きは簡単には終わらないようだ。

視点を変えよう。
那珂川町には中臣氏もいて、物部氏と水利権の争いをしたと眞鍋氏は書いている。
「中東→安羅人→あらしと→あらひと→現人」とも。
安羅とは南朝鮮に位置した大伽耶の一部。
のちに武内宿禰の息子の葛城襲津彦は、新羅に邪魔されて日本に渡れなくなった弓月の君の民たちを助けに行った。(日本書紀)
弓月の君とは秦氏の事。

どうなってるのだろう。この先は霧が立ち込めて、前が見えない。
古代朝鮮の事情が分からないと謎が解けない。
韓国の方ではこの時代の史料がなくて、研究が遅れているという。

真鍋氏の本には渡来人のルーツについての記述があちこちに
散りばめられているのに、分かる人にしか分からない。
この先は中東から極東までの民族の歴史の知識が必要なエリアになっている。
そう。これが私のモヤモヤの原因なんだ。

それでも、るなは歩き続けるよ。そして那珂川に戻って来るよ。
那の国の見た夢を見にくるよ。それは倭の始まりのクニの一つだから。

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今回は気合いでいっぱいリンクはりました。 (^^)/~~~
グレー色で目立たなくなった文字がリンクです。 ><
なんだか古代の筑紫の総復習です。

地図 現人神社





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by lunabura | 2011-05-23 14:17 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

風早神社・製鉄の民の隠れ宮?


風早神社
かざはやじんじゃ
福岡県那珂川町安徳
製鉄の民の隠れ宮?

那珂川町の地図を広げて見ていると、奈東南雄さんが、
風早神社を見つけて「こりゃあ物部氏の神社だ」と言い出しました。

それなら行かなくてはと言う事で、伏見神社の後で訪れました。
地図上では簡単に見つけたけど、そこへ至る道は普通の道ではありませんでした。
そこで頼りになるのは、くるま座さん。
那珂川のフィールド・ワークをかなり重ねたらしく、
地元の人しか分からない道を縫って、私道のような道を通って到着しました。

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人家の間から突然開けた農地の向こうに、なんとゆかしい佇まいの鳥居。
歓声を上げて走り出しました。

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杉林の中を縫っていく急斜面の石段。
この斜度の険しさは、これまでも何社かあった。
まさしく製鉄所がある急斜面。
風早という神社の名前からして、風の神様が祀られているはず。
きっとここは製鉄の現場。

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丘の頂上は直径30mほどの円形の平地で、その正面に小さな祠があるだけでした。
祠を守るために新たに覆い屋が重ねられていました。

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覆い屋の中の神殿の側面。

境内には何もありません。何と簡素な。これこそ、祈りの原点。
この地形こそ大切な場所なのです。

杜の中の境内はとても心落ち着く所で、参拝を済ませると、
みんな座り込んでしまいました。
小さな丘の頂上の森に囲まれた境内。なんと心地よい。
木々の隙間からは川が見えます。先ほどの那珂川が流れています。

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登って来た石段を上から見下ろしました。
新しく塗り替えられていた赤い手摺から、
今なお地元の人々に大切にされているのが分かります。
くるま座さんがコンパスを取り出して確認すると、何と神殿は北向きでした。

地図を広げて、地形を確認。

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左下に風早神社の杜がこんもりとしています。
伏見神社の前を流れていた那珂川が、この丘にぶつかったために
急カーブを描いて蛇行していました。
「え?隣は安徳台?」
最初の裂田神社とは、安徳台を挟んでほぼ反対側に来ていたのです。
「なんだ。今日は安徳台の周囲をぐるぐる廻っているんだ。」

奈東さんが、地形を説明してくれました。
「製鉄には北西の風が必要で、この谷川から正にその風が吹き付けて来る。」
「そうすると、この風早の製鉄所と安徳台とはどちらが先?」
「製鉄所が先だね。それを守るために安徳台がある。」
鉄製品を作るには製鉄と冶金の作業があって、冶金の方が危険な作業だったとか。

地元の眞鍋氏の本によると、人々は夏は米を作り、冬の北西の風が吹き出すと、
製鉄をして農具を作っていた時代があったとか。
いったん火を入れると、三日三晩燃やし続けなければなりませんでした。
火を燃やすために風が必要だし、二酸化炭素が溜まらぬためにも風が必要でした。
この地形は海からの風が川を通って風速を増すような、まさに理想的な場所でした。

祭神は風の神と想像されますが、今の段階では分かりません。
(追記 現人神社の摂社 風早神社・伏見神社(級長津彦命・息長足姫命) 
                          福岡神社誌より)
この神社は隠れ宮のような風情です。
そっとして置くのがふさわしい静けさが漂っていました。

安徳台そのものからも、紀元前2世紀の製鉄所跡が発掘されているので、
この町はかなり早くから開発された重量拠点に間違いありません。
渡来人たちはこの地形を発見して歓喜したことでしょう。
海に近く、風を利用出来、天然の要害の地。安徳台。
水田を潤すために裂田溝を作って水の供給を安定させた。

この安徳台を中心としてクニづくりをした、製鉄と土木建築に優れた民たち。
いくつかの渡来人の集団の技術を集めた複合都市のように見受けられます。
そしてここは那の国です。

安徳台は未開発で、畑があるだけなので、考古学的な発掘が期待されます。
2200年前の住居跡からは勾玉や青銅器の鋳型、鉄器や鉄片ほかが出土。
飛鳥時代の柱の建物あとなども見つかっています。
しかも物部氏の末裔である眞鍋氏は地元の伝承を書き残している。
日本書紀には轟の岡として登場している。

研究資料が揃っていて、古代社会のようすが総合的に明らかに出来る、
目を離せない場所になりました。
また日を改めて安徳台には行きたいと思います。

地図 風早神社





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by lunabura | 2011-05-21 14:55 | 風早神社・かざはや・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

伏見神社(1)淀姫・豊姫は津波の暗号


伏見神社(1)
福岡県筑紫郡那珂川町
淀姫・豊姫は津波の暗号
裂田溝から南の山田の信号を左に曲がると、伏見神社はすぐにありました。

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那珂川の流れに沿った道路沿いです。

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道路から上がるとすぐに拝殿です。

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拝殿は古式ゆかしく堂々として、いかにも地元の氏神様らしいたたずまいです。

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扁額の色が青いのは珍しく、水に関する宮を思わせます。
古い絵馬が沢山奉納されていました。
ここにどうしても来たかったのです。ここから学ぶことが沢山あるので、
どこから手をつけて行ったらいいのか困惑するほどです。
参拝を済ませて、とにかく由緒書きを読んでみましょう。
伏見神社
鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田
御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿禰

御祭神の組み合わせが珍しいです。神功皇后と武内宿禰のペアはおなじみで、
すぐ近くの裂田神社の伝承にも出て来ました。
かつては、ここから裂田神社まで神幸があっていたそうですから、
裂田神社と伏見神社は縁が深かったのですね。

主祭神の淀姫命について、さらに詳しく書かれていました。
御由緒 淀姫命神功皇后姫で干珠満珠を求め給う神徳の姫で、
欽明天皇25年11月1日、佐賀の里に川上大明神として鎮座されたが、
託宣によってこの地に遷座され、後、異国襲来にそなえ、
神功皇后、竹内宿禰と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す。

ここの主祭神は淀姫命でした。
「淀姫」はヨド姫と読みますが、「豊姫」と混同されて呼ばれています。
ここでは神功皇后の姉と書いてありますが、ほかでは妹という説もあります。

今回は淀姫や豊姫の系譜の話ではなく、
この女神が何を象徴しているのかを整理したいと思います。

淀姫とはこれまでも何度か書きましたが、「ヨド七十」と呼ばれる、
有明海から筑後川にかけて、70年に一度起こる大津波の神格化でした。
「七十」という数字を「ヨド」と発音していた時代があった訳ですね。
ここから山脈を隔てた南の佐賀県の河上に與止日女神社があり、
そちらでも、ヨドとトヨと両方の名が使われています。
伏見神社の淀姫はその河上の淀姫が祀られています。

さて志式神社の神楽や高良山の伝承では豊姫は、
海神から干珠満珠を貰ってくれた女神でした。

高良山の玉垂宮神秘書では、イルウィが攻めて来たので、
干珠を海に投げると潮が引いて、敵が船から降りたので、
すかさず満珠を投げると潮が満ちて、敵が溺れたと書かれていました。

この話を聞いて「おや」と思った人も多いと思います。
今では、これが津波現象を暗示している事を私たちはよく知っています。
「干珠満珠」は「引き波と津波」を起こす珠なのです。

一方「日本書紀」では、神功皇后たちが朝鮮半島を攻めた時、
この干珠満珠のおかげで大波が起こって船が国の中に到達します。
新羅王はそれを見て、
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来たことを聞いたことがない。
これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」
とショックを受けます。
この記事も「大波」を「津波」と訳す方がよいのではないかと随分考えました。

こうして見ると「ヨド姫」「トヨ姫」というのは、
川や海で起こる津波の神格化だというのがよく分かります。

その津波を象徴する淀姫がどうしてここに鎮座したのでしょうか。
その疑問は地形を見るとすぐに解決しました。
神社の目の前の那珂川のすぐ近くまで、かつては海が迫っていたからです。
那珂川町は標高が20mほどで意外にも低地です。
奥まった地形なので、津波が発生すると、波の高さが増幅する地形です。

地図 伏見神社のある那珂川町と 川上大明神

那珂川町が狭い谷の奥にあるのが見て取れます。

実際、この近くの梶原では木造建築の跡が出土しましたが、
地震と津波で倒壊した状態で発掘されたそうです。
その震源地は新羅あたりだったとか。

淀姫が祀られたのは、津波がないように祈るためだったのがよく分かります。
そして後世の人には、ここまで津波が上がるので気をつけなさいと
伝える為の神社なのです。

そうすると豊姫や淀姫が祀られている神社は、かつて水辺にあった可能性大なので、
自分の町に、もしこの女神が祀られていたら、地形を調べ、伝承を調べ、
先人の教えがあるのではないかと考え、
防災を見直す「よすが」とすべきなのがよく分かります。
    
            (つづく)

裂田神社へ


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by lunabura | 2011-05-20 17:04 | 伏見神社・ふしみ・那珂川町 | Trackback | Comments(6)

裂田神社(1)日本書紀に書かれた裂田溝は現存していた


裂田神社(1)
さくたじんじゃ
福岡県筑紫郡那珂川町安徳
日本書紀に書かれた裂田溝は現存していた

日本書紀を現代語していく内に出て来た「裂田溝」(さくたのうなで)。
遠い過去の話かと思っていたら、今でもそれが残っているという。
しかもこの神社は古代祭祀線の南北線に乗っかってくる…。

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車で移動すると、いかにも神社らしい杜が見えて来ました。
右側の手前の杜が「裂田神社」。その左奥の森は「安徳台」です。

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車を駐車場に止めて、正面に廻りました。
田園風景の中に流れるせせらぎの横に立つ神社でした。
なんと心地よい。

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川が下の方を流れていて、そこにせり出すような場所に神社はあります。

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拝殿の彫刻は雅(みやび)な装いで、姫宮らしい雰囲気です。
そう、ここもまた神功皇后のゆかりの宮でした。
参拝を済ませて、案内板を読みました。
裂田神社安徳、宇竜頭にある。裂田の溝を記念して神功皇后を祀ってある。朱塗りの拝殿は間三間、入二間、絵馬がところせましと奉納され、その奥に神殿がある。

神殿の扉には菊花の紋章がある。境内には明治39年の鳥居をはじめ、こまいぬ、注連掛石などが、杉の老木や古株と並び、裂田の溝が周りをめぐっている。
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たき ごもりをする。
(社)つくし青年会議所

安徳と言えば安徳天皇を思い出しますが、その名の通り、
この地には安徳天皇を迎えた伝承も残っていました。
御祭神には神功皇后だけが書かれています。
どうして、ここに彼女の名が残るのか、日本書紀を抜き出しましょう。
(神功皇后は佐賀県の松浦郡に行って、ウケイをした。
西の方を討たねばならなかったのだ。
ウケイは裳の糸に針をつけ飯粒で釣りをするという方法だった。
「もしそれが成就するなら、魚よ、かかれ。」
みごと川魚がかかって、吉と出た。)

皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。

皇后は武内宿禰を召して、剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

神功皇后は夫の天皇が亡くなっても、戦争への流れを止めることが出来ず、
行き先々でウケイをしています。不安で仕方がなかったはずです。
天皇の死を隠しているために、作戦通りに着々と軍備は整えられて行きました。

佐賀県の松浦郡は朝鮮に向かう港がある所です。
この那珂川町は距離的にも近く、古くから栄えていて、重要拠点だったようです。
後の時代にも、斉明天皇中大兄皇子たちが新羅との戦争のために、
この那珂川町の行宮を目指してやって来ています。

日本書紀によると、神功皇后たちは本格的な祭祀をするために
この地で神田を作ることにしたようです。
すぐ近くまで海が迫っていて、だんだん干潟になっていく時代です。
しかし地形を見ると、田を潤す川がありません。
そこで那珂川から導水する工事を行った訳です。
それが裂田溝(さくたのうなで)です。

これらは、いくつかの伝承を組み合わせたものではないかとも思いますが
まさしく1800年前の工事の現場が残されていました。


水路をまっすぐ掘っていく途中で、神社の下の岩盤にぶつかってしまいました。
「武内宿禰に剣と鏡で祈らせると、雷が落ちて岩盤が砕かれた。」
となっていますが、横の安徳台からは紀元前の製鉄跡が見つかっていることから、
現実には、その鉄器の援助を竹内宿禰らが融通してくれたのではないかと思いました。

地元の真鍋大覚氏は隕石が落ちた可能性を述べてあります。
隕石が落ちたら植えるという椋の木の古木が近くにあるようです。

隕石がそんなに都合よく落ちるのかなと疑問を持ったのですが、昨夜、韓国ドラマの「トンイ」を見てびっくり。
李王朝時代には宮殿の中に隕石が落ちているのですね。
その当時はよく隕石が落ちたというセリフもありました。
(もちろん史実かどうかは分からず、そんな記事をモチーフにして、ドラマが出来たのかなと想像。)
この岩盤が砕かれたのは隕石の跡なのか、鉄器で穿(うが)った跡なのか、
自分の目で確かめてみたい。

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神社の裏に行くと本当に岩盤が露出していました。
まっすぐ掘られてきた水路は、これにぶつかったため、迂回させています。
この下流に開削した岩盤があるはず。

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現場に写真があるので読んでみると、文面からはこのコンクリートの下らしい。
見ることが出来なくなって残念です。


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                              (つづく)

地図 裂田神社 





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by lunabura | 2011-05-11 21:25 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(4)

裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?


裂田神社(2)
「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
1800年前の行事が続いていた

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(神社から裂田溝(さくたのうなで)を見る。)

前回の案内板の記事に
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たきごもりをする。

という文があって、驚きました。
これって、地元の真鍋氏の本に書いてある伝統行事じゃない?
まさか「お火焚き」が残っているとは!

真鍋家って那珂川町の物部氏だったと言うのですが、
その物部氏の末裔が書いた本が『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』。
あまりの難しさに地元では忘れられているようなのですが、
私はこのお蔭でずいぶんと謎解きが出来ました。
今日はこの本を書かれた現地で読んでいきたいと思います。


那珂川では仲哀天皇の頃からお火焚きの催事が始まり、今も部落ごとに守られている。
氏族は自分たちの部落の新年の暦を神に供えて、古い暦を焼き捨てた。これが「お火焚き」で、その語源はギリシア語の「キタヒ」で「書物」の意味である。

陰暦12月15日の夜を「お火待ち」として、部落の一族が一つ家に集い、夜を徹して酒宴をした。この夜には「お火待ち星」(オリオン座のペテルギウス)が夜空に昇った。この星を別名、神直毘星(カムナビ星)とも呼んでいる。


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オリオンは冬の星座。冷たい冬風の中に堂々とその姿を表します。
オリオンの三ツ星は船乗りにとっては道しるべとなる大切な星で、住吉様と呼ばれました。

そのオリオン座の一番高い所にある赤い星がペテルギウスです。
農業をする者にとっては、収穫が一段落して、
土木工事や、農機具を整える季節が来た事を教えてくれる星でした。

「神ナビ」とは暦を作る為に月日を正しく並べる行為をさします。
この星が出る頃は、出来上がったばかりの翌年の暦を祝う時でもありました。

その暦を作ったのが物部氏です。
暦を作るのに必須事項は「満月とついたち(朔月)」と「月食、日食」の完全な予測だった。木の幹を大小に小さく切って、1年の月日を並べ衆議一決するまで立て替え、並べ直して納得のいくまで日取りを組んだ。暦が出来上ると氏族一同に触れて廻り、年毎の資料は神殿に奉納して子々孫々に伝えた。

満月は夜午後8時に昇り、朔月は午前4時に沈む。当時、二つの家系があって、一日の始まりを午後8時とする家系と、午前4時にする家系があった。この為に生じるずれは無理に合わせず、暦の日付を空欄にしておいて、それぞれの家系で解釈できるようにしていた。(神社や寺の銘で日付が空欄になっているのはこれが原因)

私たちは当たり前のようにカレンダーを手にしますが、旧暦のカレンダー作りは今でも計算と予測が大変で、閏月(うるうづき)の入れ方がとくに難しいそうです。

しかし季節がよく予測できるために、現代でも農業や漁業関係者はもちろん、洋服の製造や仕入れの業者など、季節ものに関わる人の大切な情報源になっています。

暦の編纂を行ったのは那珂川町では真鍋勝次が最後で、勝次は陰暦11月になると沐浴潔斎して暦の計算に取り掛かかった。その遺言は     
「明治43年4月19・679日にハレー彗星は近日点を通過する」という内容だった。
明治42年に亡くなったが、この遺言は的中した。

ハレー彗星は、西洋で発見されるよりずっと前に、日本で知られていたそうです。
その予測に成功させる事は、和暦のレベルの高さを証明する事になるので、勝次氏は渾身の力を込めて予測されたのでしょう。

長距離の測量には球面測量の計算が必要だそうですが、そんな計算法も古代から伝わっていました。
古代祭祀線を理解するには、こんな事も計算できないといけないので、
るなさんはお手上げです。くるま座さん、頑張ってくださいね。
と言う事で、「火たきごもり」という行事は「古い暦を焼く」ことから始まったのが分かりました。この行事が1800年も続いたとは素晴らしいですね!

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(裂田溝から裂田神社を見る。)

暦については、後の世の闘争の原因にもなって行きました。
曽我氏と平群氏がいて、早良郡脇山に住んでいた。平群氏は一年の元旦を望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革した。

曽我も平群も「月」の意味で、「曽我」は月の東洋的異称。「平群」は月の西洋的異称だった。これが暦法の採否を巡って中大兄皇子の激烈な論争と対決の背景となった。

ここに出てくる早良郡脇山とは福岡市の西の方にあります。
那珂川町からは西北の方になります。
朝鮮半島で国の興亡があるたびに、大勢の人たちが逃げて来て、それぞれに集落を作っていました。
亡命者同士、緩やかな和平関係が結ばれていたと思われますが、
水利権の争いや、どの氏族の暦を採用するかなど、将来の氏族闘争の火種が生まれました。

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これは「和名抄」に書かれていた地名を現代の地図に落としてみたものです。
平群氏や曽我氏が福岡に居たのは地元でもあまり知られていません。

竹内宿禰が近畿地方に渡来人たちを連れて行って開拓した話になっているそうですが、
そうすると、このエリアに集結していた渡来人たちが、竹内宿禰や神功皇后が
東征した時に、一緒に大和地方に移住したのではないかと考えるようになりました。

彼らが土木技術に長けていた名残がこの裂田溝かもしれません。
ちなみに、実際に工事したのは国栖(こず・くず)と呼ばれる部族です。

ギリシア語で「月」を「フェンガリ」と言い、「ヘグリ」と変わったと思われる。
近東系の出であって、月氏(ササン)の子孫であったと思われる。
早良(さわら)には平群氏が百済人をここに租界せしめた。

考古学的にも、各地の地域の土器が一か所で発見されたり、
朝鮮式の古墳があったりするようなので、
少しずつ、そんな資料に当たって行きたいなと思っています。

                   (裂田溝と安徳台につづく)




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by lunabura | 2011-05-11 19:19 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(4)

裂田溝と安徳台・溝の幅を測った・阿蘇山の火砕流


裂田溝と安徳台

さくたのうなで・あんとくだい
福岡県筑紫郡那珂川町山田
溝の幅を測った
え?ここまで阿蘇山の火砕流が…。

裂田溝は現在よく整備されて、町歩きのメインルートにもなっています。
今日は、現場でどうしてもしてみたかったこと、
「溝の幅を測る」にチャレンジです。

真鍋氏の本によると、「裂田溝は近東の古尺である俔尺で測られている」という
一文があって、これを確かめたかったのです。
しかし、「あっ。巻尺忘れた!」というドジから始まりました。

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裂田神社付近の水路は以前より広くなっているというので、昔に近いものと言う事で、
連れて行ってもらったのが山田地域でした。
片側は舗装道路で、反対側は石組。完全に作り変わっています。
これではちょっとターゲットにならない。
でも、くるま座さんが車から1メートルの定規を持って来てくれたので、
ちょっと測ってみるか…。

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1メートル、2メートルと測り始めたら、
「その定規は1mではないよ。」と奈東南雄さん。(ハンドルネーム)
「あれ?ホント。101センチだ。」
(何でそんな変な定規が存在するのだ…。と思いながら測り直す。)
「斜めになってるよ。」と再び奈東南雄さん。
「あは、ホント。」定規をだんだん斜めに置いていた。
「橋の端に合わせて計らないと。」
「そうですね (・.・;)」我ながらいい加減だ。と思いつつ測り直す。
「出発点はきちんとしてるの?」
「え?いいえ。そう言えば、川ってどこを測るんですか?川幅って、川底?それとも、土手の所?」
そんな基本を考えてみたこともない。

「川幅は土手の端から端を言うけど、この工法だと、川底を測ったらいい。土手が90センチくらいだから、石垣ののり面を測って、足し算をしたらいい。」
なるほどですね。といって再び測り直し。
「最後は50センチ!」
「全体でどれだけ?」
「あっ。定規を何回置き直したっけ。」
テンションが上がると足し算もままならず、5回も測り直したのでした。
それで、350センチが川底の幅で、斜めの石垣や土手を合わせたら約5mになりました。

これだけ整備されているのですから、これで古代尺と比べようと言う愚かさに
我ながらアホらしいのですが、現地に行って見ないと状況は分からなかったので、
取り敢えず、やってみたかった事をやって、満足しました。

あとでネットで調べると、昔の素掘りの跡もあったそうですが、
古代史跡としての保存はされず、消滅しています。
幅も3~5mでいろいろとあるそうです。当然ながら何回も改修されています。

で、眞鍋氏が書いている古代尺は何センチ?
裂田溝も早鞆の門も近東の古尺である俔尺(けんしゃく)1.05006メートルで設計してある。

ふうっ。細かいな…。私から見ればほとんど1メートルなのに。
眞鍋氏はそれじゃ済まないんだ。
しかも失明されてからの口述筆記ですから、暗記力も半端ではない…。

結論から言えば、現代の水路では古代の水路の幅を想像する事も出来ず、
古代尺測量実験は失敗に終わりました。

それにしても、この裂田溝を巡るコースはよく整備されていて、
田園風景の中を「さるく」(方言で「歩きまわる」という意味)のはとても心地よく、
トイレや説明板が完備されていて、一度は全体を歩きたいなと思いました。

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そして、説明板を見ていて驚きました。

9万年前の阿蘇山噴火の時に火砕流がここまで流れ込んだというのです。
阿蘇4期という有名な噴火…。
正面に見える安徳台はその火砕流で出来た丘だったとは!
阿蘇からここまでどんだけ~?さすがにぞっとする。

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(裂田溝から安徳台を見る)
約30万年前から9万年前までに大規模な噴火が4回 (Aso1-4) あった。地下から大量の火砕流や火山灰を放出したため、巨大な窪地(カルデラ)が形成された。

その中でも4回目の噴火 (Aso4) が最も大きく、火砕流は九州中央部を覆い一部は海を越え山口県にまで達し、火山灰は北海道に至る日本全土の他朝鮮半島でも確認されている。

Aso4の火山灰でできた地層を見つければ、9万年前の地層であることがはっきり分かるため、植物学、考古学など様々な研究で時代を示す指標として使われている。
(ウィキペディア)

この阿蘇の噴火は「ホピの予言」と繋がっています。
信じられないかもしれませんが、彼らは阿蘇山の噴火を伝えていたのです。
次回はちょっと寄り道して、幣立神宮(へいたてじんぐう)に託された
「ホピ族からのメッセージ」について書きたいと思います。

那珂川町 阿蘇山 





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by lunabura | 2011-05-09 16:43 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(8)

御中主神社・古代祭祀線を追って

御中主神社
福岡県筑紫郡那珂川町片縄
古代祭祀線を追って

珍しく、くるま座さんから連絡がありました。
「天の御中主神社って、そんな名前の神社は聞いたことがないと思っていたら、那珂川町にあるって聞いて、今度行こうと地図に印をつけていたら、とてもびっくりしたんですよ。」
「なんですか?」
「それが、他の神社と一直線上に並ぶんです。」
「へえ、そうなんですか。」
「南北ラインでは、北は名島神社箱崎宮
南は現人神社、裂田神社、日吉神社、不動岩、そして何故かグリーンピア那珂川がライン上に乗ってくるんです。」
「え~?那珂川の真北が箱崎宮と名島神社なんですか?」
「そうなんです。」
「南も有名な神社ばかりですね。
グリーンピアも、もともとイヤシロ地だったのを知らずに作ったのかも。」

「それがですね、さらに驚いたのが、東西にもラインが出たんです。」
「東西?」
「そうなんです。西は日向峠で東は日拝塚古墳、太宰府天満宮、大根地山なんです」
「ひ、ひなた峠!!!太宰府天満宮?」
「ただし、東西線は微妙にずれています。」

「東西線は、歳差運動でずれている可能性がありますよね。」
「そうなんですか。」
「測量線は厳密で、日の出が誰が見ても、ずれるようになったら遷都をしなくてはならなかったのです。70年で一日ずれます。東西ラインがずれていたら、逆算すると測量した年が却って分かるかも知れません。」
「70年。」
「真鍋大覚さんがそう書いているのです。」
「そうですか。その天之御中主神社に連休に行こうと思ってるんですが。」
「え?れ、連休?行きます。行きます。連れて行って下さい。」

という訳でようやく那珂川町へ行く機会が出来ました。
1週間前に九州歴史博物館で安徳台の展示を見たばかりだったので、
いつになったら行けるのだろうかと思っていた矢先でした。

安徳台では紀元前2世紀の製鉄跡が見つかっていて、早くから栄えていたようす。
その安徳台が那珂川町にあるのです。
それに加えて、この町こそ真鍋大覚氏のホームグラウンドなのです。

こうして、数人で那珂川町の逍遥へ。

込み入った住宅街の中をぐるぐると探して小さな神社に着きました。
扁額を見ると「御中主神社」と書いてあります。
これが神社の正式名かどうかは、まだ未確認です。

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カーブした道路からすぐに一の鳥居がありました。

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昔のままの小さな祠に屋根覆いがしてあります。
地元の氏神さまとして大切に守られているようすでした。

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参拝を済ませて祠の中を見ると、キューピーさんがたくさん置かれていました。
その後ろに丸い御神体石があります。

境内は家が数件分の広さぐらいでしょうか。
祠の裏が小山になっていて、山に向かっての信仰があったような形跡があります。

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この写真の左手が小山です。
かつては大きめの円墳があったような雰囲気で数メートルの高さがあり、
そちらに祭祀点があるような印象を受けました。
宅地が山肌を削りながら迫っています。
イヤシロ地を中心に住宅が迫ってくる場所は、
かつてエネルギースポットだった可能性があります。

古代に祭祀点を決めた時、目印に置くものは石ぐらいしかありません。
しかしあっという間に樹木に覆われてしまいます。
埋もれてしまった祭祀点に祠を置いたりして、
神社の形式を取り始めたのが崇神天皇です。

ここが「天の御中主の神」を祀る神社で、東西線と南北線の中心地だとすると、
何らかの盤座があるのかもしれません。

この神社の由来などに関しては、文献に当たっていないので、
また、おいおい調べて行きましょう。

古代祭祀線を調べるには国土地理院発行の広い地図を使います。
直線上にあると言う時は、少々の誤差も認められません。
古代の人の測量技術は、現代と同じだそうです。
そうでないと、宮殿や寺院は建たないし、船も作れません。

「電波の中継点を作る為に測量して山に入ると、
基準点に盤座が既にあるんだよねえ。昔の人はどうやって測量したんだろ。」
と、関係者が話していたのを思い出しました。

前回、摩利支神社で「天の御中主」を調べて、
「北極星の神」と「曙の神」が合祀されているケースが多いことが分かりました。
これって、「北」と「東」の事ですよね。

もしかしたら、この「御中主」という名前には、
まさしく縦横に走る古代祭祀線の中心点を示している可能性があるのかも。

現地では廻りの山がどう見えるのかは全く確認出来ませんでした。
とりあえず、ライン上の神社を見てまわる事にしました。

このあと、まずは裂田神社に向かいました。

御中主神社 名島神社、箱崎宮、現人神社、日向峠、太宰府天満宮、大根地山

なるほど、それらしきラインが出て来ましたゾ。



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by lunabura | 2011-05-07 14:56 | 御中主神社・みなかぬし・那珂川 | Trackback | Comments(6)

日本最古の山城まつり・ユミン・笛木優子さんが審査員でしたよ!


「日本最古の山城まつり」
福岡市大野城市
ユミン・笛木優子さんが審査員でしたよ!



大野城市の広報課の方とメールのやりとりをしている内に、
古代山城サミット」がある事を知りました。
ところが、それは翌日開催と言います。午前中は仕事。あきらめました。
ところが、HPを見るとなんと笛木優子さんがシンポジウムに
パネラーとして出演すると書いてあるではないですか。
女優・笛木優子
私が彼女の事を知ったのは昨年の事。
2009年4月 NHK教育 ETV特集
「日本と朝鮮半島2000年 古代 人々は海峡を越えた」の番組です。

その内容は伽耶を訪ねて、古代の日本と朝鮮の交流を
考古学的に見て行くものでした。
当時から交流が活発だったのを知って、驚いたのですが、
韓国語を話す若い日本の美しい女性に釘づけになりました。
彼女は女優。え?韓国でドラマの主役を務めたという。

その笛木優子さんがパネラーなら聞きたいと思いましたが時間的に無理。

ところが午後から「日本最古の山城まつり」パフォーマンス・コンテストがあって、
彼女が審査員をすると書いてあるではないですか。
1時からとしか書いてない。この手のは大体2時間だ。
間に合うかもと、車でかけつけました。
会場は大文字公園。中に入ると、いきなりチマチョゴリの美人たち。
一瞬、古代の筑紫に紛れ込んだのかと思いました。

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推測するに、韓国舞踊を披露してくれたのでしょう。あいにく、遅かった。

次々に地元の子供から大人まで、趣向をこらしたパフォーマンスが披露されました。

そして、圧巻は福岡大学付属・若葉高校。あっ、もと九州女子高だ!
ダンスチームはBチーム、Cチームが出演という。すごい大所帯です。
彼女たちが毎年、全国大会で優勝しているのをテレビで見ています。
それをナマで鑑賞できるとは。
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出番を待つ彼女たち。この余裕ぶりは明らかに納得する稽古量があってこそ。
テーマは「玄海の海と人々」・「炭坑節」。郷土をテーマにするのは素晴らしい。

デジカメを買って知ったのですが、シャッターを押すと、
映像はその0.5秒ぐらい後が保存される。
だからダンスを撮ると、タイミングがずれて間の抜けた映像になるのですが、
彼女たちの踊りはどこで切り取ってもスキがない。
どれだけ努力したか、よく分かります。

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若葉高校のダンス部のみなさん、パワフルで素敵なダンスをありがとう。


さて、いよいよ審査の発表です。
すると、韓国の舞踊団が一等席に集まって来ました。
その表情をみると、期待十分。
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憧れのまなざしの先には

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ワンピース姿のユミン笛木優子さん登場。
彼女たちの熱狂ぶりを見ると、やっぱり韓国じゃ有名女優なんだ。
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笑った顔の目線はこちら♡

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話している人を必ず見ている姿が人柄を伺わせる。
ルナはどうしても笛木優子さんに会いたい。会って伝えたい事がある。
それまでは、日韓友好の懸け橋となって、輝いていて下さい。


祭りの記録
2010年9月24日(土)
古代山城サミット~神護石系山城・朝鮮式山城~大野城まどかぴあ大ホール
日本最古の山城まつり 大文字公園

笛木優子の登場するETV特集
2009年4月 「日本と朝鮮半島2000年1~古代 人々は海峡を越えた~」
2009年6月 「日本と朝鮮半島2000年3~仏教伝来~」
2010年1月「日本と朝鮮半島2000年SP「海峡を越える国宝の美」

出演ドラマのほんの一部
わが家(原題 (우리집)MBC 2001年) チョン・ダイン
(韓国MBCのTVドラマ「わが家」で聴覚障害者ダイン役)
オールイン 運命の愛(原題 올인 SBS 2003年) 落田リエ役
ホテリアー(テレビ朝日 2007年) - 柏木真由美 役
アイリス(原題 IRIS|아이리스 KBS 2009年) 日本内閣情報調査室国際部 佐藤えりこ役

カメラは5倍ズームしかなく、今日はピンボケの写真ばかりです。




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by lunabura | 2010-10-01 00:25 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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