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9月の歴史カフェお礼





今月の歴史カフェは「中大兄皇子と朝倉橘広庭宮」でした。
ご参加の皆さまありがとうございました。

朝倉というエリアに絞ったので、
具体的なイメージが掴みやすかったのではと思いました。

同じ朝倉でも、西の方では神功皇后と羽白熊鷲との戦いがあり、
東の方では斉明天皇と中大兄皇子の祭祀がありました。

二つの歴史に共通したのが「福成神社」でした。

福成神社は三女神を祀る宮。

景行天皇が水沼の三女神を祀り、
神功皇后がその縁で三女神を祀り、
斉明天皇が宗像三女神を祀りました。


また、宮野神社では中臣鎌足が祖神と大己貴を祀りましたが、
それは神功皇后の時代の中臣烏賊津臣と大己貴を思い出せます。

神功皇后と斉明天皇を同一人物とする人もいますが、
時代も内容も全く違っていますね。



歴史カフェは、これまでのブログ記事を
一つずつテーマを決めてまとめようと思って始めました。

バラバラの記憶をつなぐと、
筑紫の各地域の歴史や特性が浮かび上がってきて、理解が深まります。

理解すると、その地を訪ねて体感したいと思うようになるのが不思議です。

どの回でも、現地に行こうという会話があっています。

そのとき欲しいのはやはり地図。
古代史には、平地でなく、山を中心とした地図が欲しいですね (^_-)-☆

古代史という難解な話題に賛同していただいて、
シェア出来るのはありがたいなといつも思います。



次回の歴史カフェは中大兄皇子の続きです。
水城や観世音寺、太神宮を柱として考えています。

大宰府の天文祭祀官の家系だった真鍋の力を借ります。

詳細はお待ちくださいませ。
募集は開始します。





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by lunabura | 2016-09-27 22:44 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

白鳳元年と白鳳二年



白鳳元年と白鳳二年




「白鳳年号」は正史には登場しない。
九州年号と言われている。

現在、『高良玉垂宮神秘書』の抜粋版を推敲している最中だが、
白鳳年号がいくつも出てくる。

白鳳二年に高良山では大事件が起こっていた。

それまで大祝として祭祀を務めていた物部氏の美濃理麿保続に
高良大明神が垂迹し、
「我は発心して高良大菩薩となる。俗体は保続に譲る」
と告げたというのだ。

そして、保続は訪れた修行僧の教訓を受けて出家してしまう。

それまで、仏教を受け入れなかった高良山に、ついに
仏教が入って来たという大事件が起こった年が白鳳二年だ。

この年は癸酉(みずのととり)とも書かれていることから、
西暦673年の事と特定できた。

この673年の事件について、「白鳳二年」と記す条のほか、
「白鳳十三年」と記す条が出てくる。
後者は「二中暦」で書かれていることが分かった。

また、同年を「天武天皇即位二年」と記述する条もあり、
あれこれと調べた結果、どれもが正解で、
673年を寺社暦では「白鳳二年」、二中暦では「白鳳十三年」と計算していた。

高良山では、混乱を避けるために、この年を
天武天皇即位二年「癸酉」とも書き、
表記に工夫をしていることが分かった。



さんざん「白鳳年間」のことを調べた結果、頭に焼き付いていたので、
今日、朝倉の恵蘇八幡宮を読みなおして、
ここにも「白鳳」の年号が出ていたことに驚いた。


その概略は、中大兄皇子がここに天降八幡社を創建したが、
天武天皇白鳳元年に社名を恵蘇八幡宮と変えたという。

ここでも「白鳳元年」という寺社暦が使われていたのだ。



恵蘇というのは恵蘇星といって、シリウスを指すが、
これはベツレヘムの星でもあり、
エソ、ヤソという連想を古代でも持っていたことが真鍋から読み取れる。


当時でもバタ臭い名前に変更したのは誰か。

それが天武天皇の勅命だという。



その翌年、高良山に仏僧が入って、大祝が出家してしまったのだが、
天武天皇の差し金ではないかと、漠然と思うようになった。


つまり、高良山への刺客だ。

神道の山に寺院が建てられるようになった。
この時、安曇と物部の高良山での棲み分けは終了し、
高良山は物部一色となる。

白村江の戦いでの敗戦が大きなきっかけに違いない。

天武天皇はあの竈門山(かまど)に宝満山と名を変えさせてもいる。

戦後処理という言葉ではニュアンスが多少違っているが、
天武天皇が筑紫の古い形態を書き換えようとした
痕跡が見られる「白鳳年間」である。




827の歴史カフェは「高良玉垂宮神秘書」ですが、
主にこの白鳳二年より以前の内容になります。

白鳳二年に関しては、少々触れる程度になります。





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by lunabura | 2016-08-20 22:56 | メモ | Trackback | Comments(0)

宮野神社(3)三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


宮野神社(3)
朝倉市宮野
三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


前回、朝倉市の宮地嶽神社と宮地嶽古墳を紹介しました。

この神社と古墳を抱く宮地嶽(120m)の南に開けた小平野があり「宮野」と言います。
その一角に宮野神社と別所神社があり、過去記事で紹介しました。

宮野神社(1)斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮
http://lunabura.exblog.jp/22100319/

別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った
     http://lunabura.exblog.jp/22119354/

別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地
 http://lunabura.exblog.jp/22126791/


宮野神社では鎌足に大己貴神を祀らせて、勝利祈願をしています。
これは神功皇后の先例に見倣ったものと思われます。

神功皇后は大己貴神社(上巻42)と大神神社(下巻68)でそれぞれ大己貴神を祀って神助を得ています。

ところが、別所神社の祭祀の主体者は中大兄皇子となり、祈願内容は病気平癒です。
切迫した状況が伺えます。

別所神社が「皇居の辺」にあったという言葉から、橘広庭宮はすぐ近くにあったことが分かりました。
中大兄皇子は、自分自身で祈願するために皇居から近いところを選んだということです。




そして、この別所神社を含む900m×900mの都を想定して、以下の図を描きました。

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この記事を書いた段階では、結論を持っていなかったのですが、風水上から、宮地嶽神社を北に抱くのを最良として、「宮野説」を結論づけました。

これを昨年(2014年)の久留米大学生涯講座で発表したのですが、それに関しては全く反応がありませんでした (^_^;)


ま、タイトルは「古代筑紫を貫流した ありなれ川」で、眞鍋大覺の伝承を紹介したものでしたし…。一時間半の中、最後の30分で、宮野説を話したので、サラリと成りすぎたかな?


この「橘広庭宮」の所在地に関しては福岡でもあまり興味を抱かれていないのも、肌で感じます。歴史が奈良や京都の事だと刷りこまれている洗脳がなかなか解けないのも一因だと思います。



でも、神功皇后と同じく、斉明天皇と中大兄皇子の足跡を伝える宮があるのも事実です。ただ、神功皇后は130社ほど採取したのに対し、斉明天皇親子は十数社です。



それでも、『日本書紀』を裏付け、そして補う歴史が展開したのを、神社縁起で推し量る事が出来ます。
以下は過去記事に田手神社を追加したものです。

「朝倉橘広庭宮を探せ」
http://lunabura.exblog.jp/22149931/

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)(下巻53)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊
○月○日 田手神社で祭祀。(向津媛
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


赤字は祟り神として位置づけ、斉明天皇の病気後に祀ったと仮定しました。


さて、広庭宮の場所の話に戻りましょう。

るなは「宮野説」です。「宮野」という地名もまた宮があったことを示唆しています。

 朝闇神社説を確認するために現地に行くと、高木神が祀られていたので、大変驚きました。この神は祟りです。新羅戦を前にして仲哀天皇にも祟った怖ろしい神です。

これを北に奉じることは有り得ないと思いました。また、発掘調査でも寺院あとしか見つからないようです。

これに対して、新羅と戦って勝利を得た女神が宮地嶽神社に祀られているのです。それが神功皇后。
その神威を受けたイヤシロチこそ風水上、ふさわしい土地です。それが宮野です。

そう気付いてから、現地を確認して、その正中線に立ってみたい。そう思ったのですが、思いを遂げる日が、宮地嶽神社の三か月後に訪れました。



「宮野神社に三階松があるんですよ」
と、驚きの情報をくるま座さんが言ったのです。

宮野神社は上記のように、一度参拝して、ブログでも紹介したのですが、「三階松」には気付きませんでした。
これこそ、福津の宮地嶽神社の神紋であり、九州王朝の紋。

宮野神社には筑紫舞の絵馬もあるらしいです。天子の森にはそのオブジェがあります。(ルソン足をしている)

それまで、朝倉と福津との繋がりが分かりませんでした。でも、「三階松」があれば、すべては繋がります。





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宮野神社から宮地嶽を撮りました。いつも、神功皇后を仰ぎ見ることになります。




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そして、正面に見える所まで移動しました。


ここに橘広庭宮が建っていると考えると、ゆったりとした平野がひろがって、神名備山を抱く、ふさわしい立地条件です。

この土地を提供したのは、前記事では鎌足の一族かと思いましたが、今では安曇族だろうと思っています。



その証しが三階松紋ですが、それだけでは弱いなと思って、地元の歴史マップを見ていたら、近くに「志賀様の大楠」という巨樹が描かれていました。

これは斉明天皇が志賀大神を祀った跡だそうです。
志賀大神とはもちろん綿津見三神のことです。
安曇族が桂川を遡って船を着ける舟着き場に祀ったのでしょう。

これで、安曇族がここまで上がって来た裏付けが取れました。

ちなみに、安座上姓は、朝倉で天皇から授かった安曇族だそうです。
上座の安曇族という意味でしょうか。(上座とは朝倉の一部)

時代も、どの天皇かも、聞いていませんが、この「宮野」を提供して建造に関わった功績を称えられたのではないかと、ひそかに思っています。



橘広庭宮推定地






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by lunabura | 2015-10-10 20:15 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(4)

宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)・斉明天皇は神功皇后に祈った・卑弥呼と神功皇后は?


宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)

朝倉市宮野
斉明天皇は神功皇后に祈った
卑弥呼と神功皇后は?

前回は宮地嶽(120m)の中腹にある湯の隈装飾古墳を紹介しました。

宮地嶽神社はその頂上にあります。道は農道で、最後は切り返しながら急斜面を上がりました。案内人がいなかったら、分からずにグルグルと回ったかもしれません。


車は宮地嶽神社の裏側に到着しました。




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正面です。








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朝倉市は神社の説明板が何処も充実しています♪説明板を見て大変驚きました。




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御祭神が神功皇后・勝村神・勝依神なのです。
前回も書いたように、総本山の福津市の宮地嶽神社と全く同じ祭神なのです。
(勝依は福津では勝頼)






神功皇后は西暦200年頃の人。(まだ、他の時代の証拠が見つかっていない)

勝村・勝頼筑紫君・葛子の子ですから、西暦500年代の後半以降に活躍したと思われます。福津の宮地嶽古墳に埋葬されました。その古墳は7世紀前半~中頃と言われています。円墳です。



ここ、朝倉の中腹にあった湯の隈古墳の古墳は6世紀後半築造。円墳です。
被葬者が500年代前半から後半にかけて活躍したとすると、磐井の乱を子供のころに見て、葛子や勝村・勝頼の活躍を見届けたのかも知れませんね。

中腹という位置関係から、この被葬者は頂上の宮地嶽神社を守る役目があったのではないかと推測しました。宮地嶽神社は安曇族ですから、ここは安曇族の聖地とも考えた訳です。






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そして、頂上からほんの少し下がった所に宮地嶽古墳がありました。



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これは前方後円墳。




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朝倉の平野を見渡す絶景ポイントを押さえています。


未発掘ですが、埴輪などが見つかっているもよう。時代は4世紀後半とされています。
この時代は、謎の4世紀と言われ、どうなっているのかよく分かりません。



この4世紀に神功皇后を持ってくる研究者は多いですが、国乳別皇子や高良玉垂命の廟の付近から出土するのは弥生時代のもの。(下巻57弓頭神社)綱分神社(下巻86)から出土するのも弥生時代のもの。

神功皇后伝承地の出土物には気を付けているのですが、古墳時代の決定版は見つかっていません。


4世紀説の根拠とされていると思われる、石上神社の七支刀は複製品だということが分かったので、決め手にはなりません。肝心の年号の部分が削られているのも紹介しましたね。



卑弥呼と神功皇后は どう違う?

ちなみに、200年説を採って、卑弥呼=神功皇后という説をメールで送って来られた方があります。忙しい時で、直接返事が出来ませんでした。ここで解答しようと思います。

二人はキャラクターが全く違います。

卑弥呼は一生独身で、人にも会わなかったのですが、神功皇后は天皇の后として、どんどん人前に出て行動しています。

化粧している姿が目撃されたり、馬に乗っている姿も目撃されています。出産もしているし、香椎潟では海に入って禊をしていて、男のヘアースタイルに変えるというパフォーマンスも見せています。(下巻67番御島神社)

卑弥呼は中国の後ろ盾が必要で、狗奴国と戦っていました。
神功皇后は夫に代わって新羅と戦い、侵略を防いだという点も全く違います。

卑弥呼は最期は「自死」と書かれていて、これは自害するという意味だと言う方もあります。非常に孤独な人生でした。




話が逸れました。朝倉の宮地嶽古墳の話に戻りましょう。

この前方後円墳の被葬者がどんな氏族だったのかは、分かりません。

安曇族がこの時代にこの山を掌握していたのか、分からないということです。4世紀なら、水沼水軍の訓練地が近いことから、まだ水沼族の支配下だった可能性もあります。あるいは他の氏族の可能性も。


斉明天皇

そして、ここに参拝に来たのが斉明天皇です。橘広庭宮に到着した翌日に、この神社に参拝して戦勝を祈願したと言われています。

『日本書紀』からは、661年5月10日という事になるので、緑豊かな初夏でした。もちろん、天皇が祈った女神は神功皇后です。

そして、斉明天皇は三日目には福成神社(下巻53)で参拝しています。祭神は三女神ですが、神功皇后の足跡を辿って神功皇后にあやかろうとしているのがよく分かります。

斉明天皇もまた新羅と戦わなくてはならない状況に追い込まれました。この時は唐軍との連合軍となります。神功皇后の神助を心から願ったことでしょう。

そして、この時は、斉明天皇もまだまだ元気だったのでしょうが、このあとわずか二か月後、7月24日に崩御となります。







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by lunabura | 2015-10-08 23:31 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(12)

湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

杷木神社 (2)磐井の弔い合戦は鎮圧された


杷木神社 (2)
磐井の弔い合戦は鎮圧された

杷木神社の古文書はキリシタン大名・大友宗麟によって焼かれてしまいましたが、
その直前に書かれた記録が残っていて、
『福岡県神社誌』に漢字だけの縁起が書かれていました。(・.・;)

万葉集のような書き方でした。
例のごとく、るな流の口語訳で紹介します。

筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武??槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。

そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。

是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。

ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。

 件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。

しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武??槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。

 そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。

是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。

 天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。

維時大永二年壬午二月穀日
              神坂源大夫藤原貞家之を誌す
上手く訳せない所は元のままにしています。(+_+)

継体天皇の磐井討伐の理由は、縁起によると
異国の貢ぎ物を奪い取ったからとなっています。

これには大いに疑問があるのですが、今回のテーマはそれでなく、
縁起が伝える「磐井の残党の蜂起」です。
言いかえれば「弔い合戦」。

これは『日本書紀』には全く書かれていませんでした。
膨大な歴史を書いている本ですから、仕方ないといえば仕方ないのですが…。

御井郡の一戦ですべて終わったのではなかったのです。
全く想像していませんでした。

「磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ」の所が実は訳が分からないのですが、
「磐井の残党は青人や土蜘蛛のたぐいと力を合わせ」と今の所、解釈しています。
青人とは目の蒼い氏族たちでしょうか。

さて、磐井の弔い合戦、蜂起した場所は「豊前筑前の間」。
戦場は磐井が負けた御井郡ではなく、豊前と筑前の間でした。

遠賀川流域でしょうか。
いろんな物部氏がいる所なので、分裂した可能性もあります。

麁鹿火の命を受けた「筑前から豊前にかけての武将たち」の名は
「豊前国の企救の長手、鷹羽の金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起」
と、具体的な名が記されています!

「企救」(きく)なら聞(企救)物部で、北九州市。

「鷹羽」は田川市。
「金田麿」という名前からは、田川郡川崎町の正八幡神社の田原麿や田麿の名前が
思い浮かびます。(ガイドブックは16番です)
景行天皇の時代から神功皇后、またのちのちの時代に掛けて当地を治めたのは田原氏

三笠郡は太宰府の近く。田中鷲丸、男起の田中姓は物部氏と思われます。
(みやま市に「田中物部神社」があります)

そうすると、麁鹿火は蜂起した場所を囲んだ所に住む物部氏や田原氏に命を下したと
考えられます。
「是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、」とあるので、
磐井一族の蜂起は一か所ではなく、同時多発的になされた様子も伺えます。

そして、官軍は杷木神社の大己貴命と武??槌命に祈願して戦勝し、
物部宿禰高古が祭主となっています。

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「大己貴命と武??槌命」にかつて祈ったのは神功皇后でした。
官軍は神功皇后の祈願に倣ったのでしょう。
朝倉には大己貴神社以外にも古くから大己貴命が祀られていました。

磐井の弔い合戦…想像もしていなかったので、かなり驚いています。

これは葛子の時代のことでしょうか。
そうすると、葛子は妃を殺され、弔い合戦に負けて、
ついに糟屋の屯倉を献上することになったのでしょうか。








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by lunabura | 2014-06-03 20:25 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

杷木神社・磐井の残党を平定したという



当ブログに訪問される方のなかに、ルーツ調べをしていてヒットしたという方が
何人もいらっしゃいました。

自分の魂の遍歴(過去世)を知る事は癒しと浄化につながり、
肉体を造ったDNAの遍歴を知る事もまた癒しと浄化につながっていきます。

ルーツ調べをすると、先祖たちが過酷な人生を生き抜いて来たことが分かり、
感謝の念が生まれます。

「敵だ」と思い込んでいた人物や国が、自分の魂やルーツの中に見つかって、
憎むことの愚かしさを知らされます。

そういう点で、このブログ、精神世界の事も古代史のこともバランスよく
書き綴っていきたいなと思ったりしています。

さて、朝倉の神社、あと一つ残っていました。



杷木神社(1)
はきじんじゃ
磐井の残党を平定したという


c0222861_21301718.jpg


今回の朝倉の旅の一番の目的はこの神社だったのです。

――たしか「磐井」の文字が出てきたはず…。
そう思いながら福岡県神社誌をめくると、やはり、ありました。(訳します)

往昔は元上座郡上鄕十八ケ村の宗祠である。延喜式和名抄把伎鄕を例祭前の鎮祭区域とする。

第28代(附記継体天皇は第26代なり)継体天皇の御代以前の創始にして筑紫の磐井の残党、謀叛の際、官軍の勝利を祈願した由緒をもって、矢納めの式がある。

磐井残党平定の報賽として、朝廷より宇津志馬二匹、弓矢幣帛捧げられる。恒例の祭祀はこの時より始まったという。(大日本地誌所載)

なんと、この宮は「磐井の敵」が祈った宮なのです。
しかも、磐井の残党と戦っている!
(神社誌の表記は「筑紫の磐井が残黨」となっています)

磐井の乱は簡単には収まっていなかった!

八女地域の古墳が石人山古墳や岩戸山古墳以降も二代分ほど続いている点から、
磐井の根拠地が壊滅状態ではなかったのだなとは思っていたのですが、
思いがけない歴史がここに書かれていました。

磐井の子葛子は屯倉を差し出して、命乞いをしたのですが、その妃は殺されています。

これは、もうすぐ出す『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』で詳述しますが、
葛子の子供が勝村・勝頼という名で、宮地嶽神社の祭神となっています。

磐井が殺されたあとも、九州王朝は簡単には滅ばず、
福津市と八女市の二極で統治が行われていたのではないかと推測していたのですが、
杷木神社の社伝から、その説が補強されるかもしれません。

この神社で祈った天皇軍は、「残党平定のお礼参り」をしているので、
磐井の残党軍が負けたことが分かります。

これが八女の前方後円墳の終焉の理由かもしれません。

神社誌にはさらに別伝が書かれているので、もう少し読み込んでみます。




※ コメント・メールの返事が遅れます。少し待っててくださいね。


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by lunabura | 2014-06-02 21:32 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

麻氐良布神社


麻氐良布神社

麻氐良(まてら)という不思議な名前の山が朝倉市にあります。
その神社は麻氐良布神社と書いて、「まてら」「まてらふ」の二つの読み方が見られます。

この山が重要なのは、斉明天皇の死の病の原因が、この神域の木を伐採したためと言われているからです。

当時からそれが分かったのでしょう、中大兄皇子は麻氐良布神社から
イザナミ尊を別けて、「皇居の辺」に別所神社を建てたとなっています。

麻氐良布神社の祭神を『福岡県神社誌』で調べてみました。

月読尊、天照大神、伊弉諾尊、素盞嗚尊、蛭子尊
です。

夫婦神(イザナギ・イザナミ)とその子(蛭子)と三貴子(月読、天照、素盞嗚)
というのが自然な形だとすると、イザナミだけが祀られていません。

やはり、もともと一緒に祀られていたのが、
わざわざイザナミだけ別所神社に祀られ直されたということでしょうか。
勧請でなく、分祀だとすると、よくよくのことですよね。

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ただし『神名帳考證』では
伊弉册尊 伊弉諾尊 斎明天皇 天智天皇 明日香皇子 天照國照彦火明命
となっていて、イザナミ尊が祀られています。

祭神の変遷があったようですね。

そして、境内神社を見てびっくり。

十九座神社
宗像神社
織幡神社
筥崎神社
志賀海神社
志登神社
筑紫神社
竈門神社
美奈宜神社
於保奈牟智神社

まるで、ガイドブック『神功皇后伝承を歩く』の目次を見ているよう。
(ちょっとオーバーかな)
筑紫の神々の勢揃いなのです。懐かしい名前ばかりです。
ちなみに、主祭神を書き加えてみましょう。

宗像神社(宗像三女神)
織幡神社(武内宿禰)
筥崎神社(応神天皇)
志賀海神社(綿津見三神)
志登神社 (豊玉姫)
筑紫神社(白日別)
竈門神社(玉依姫)
美奈宜神社(天照皇大神-寺内)(素盞嗚―林田)
於保奈牟智神社(大己貴)

ほら、知っている神さまばかりでしょ。

ここで祈れば筑紫の神々に全部通じるという神社でした。

三か月前でしょうか、「倭国大連合」というタイトルで、
対新羅戦の為に神功皇后(本当は仲哀天皇)を旗頭として筑紫の氏族たちが大連合したことが、
倭国という国の母胎となったのではという仮説をお話ししました。


これらの氏族の神々が勢揃いなのですから、よくよくの神社のようです。

登る機会はあるかなあ。





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by lunabura | 2014-05-23 21:32 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

朝倉橘広庭宮を探せ


朝倉橘広庭宮を探せ

朝倉橘広庭宮の所在地はまだ発見されていません。
最近、太宰府説も提出されましたが、朝倉においては次の3つの候補地が挙げられます。
1 須川
2 山田
3 杷木町志波(はき町しわ)

るな的手法は個々の神社の伝承を並べて全体像を浮き彫りにするというやり方です。
まだ、ブログでは紹介していない神社も含めて、これまでの伝承を並べてみます。

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


この中で、カギとなるのは「宮野~別所~朝闇」神社の東西の祭祀ライン。
とりわけ別所神社は「皇居の辺」にある。
また、福成神社の近くに宮殿橋がある。
天子の森は施政の地伝承あり。

次は太宰管内志から。
「○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふ」

訳すと、「橘広庭宮は宮野村という説がある。その北の方に朝闇寺が須川の枝村にある」となりますので、
宮は宮野村にあると言われていたことが分かります。

これらをすべて含むとなると、条里が2キロほどの都を設定しないといけません。
この遷宮は天皇・皇太子・臣下・女官などの記載があるので、
百官百寮・軍隊も一緒で、相当規模の条里計画があったと想定できます。

もちろん、条里なんか未完成のものばかりでしょうが。

そこで、同時代の都のサイズを探してみました。

太宰府政庁 和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろう。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
(参照 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazaifu.html)

藤原宮 925×907m
太宰府 2400m×2600m

で、広庭宮の都を900×900に仮設定してみました。


さて、風水師ならどこを選ぶ?

東:青龍 … 豊かな川の流れがある
西:白虎 … 大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀 … 広大な平野や海があり視界が開けている
北:玄武 … 山や丘陵がある



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宮地嶽神社を軸とすると、一番左。

宮野神社を軸とすると中央。

天子の森(○印がずれているような)を軸とすると右。


こんな感じになりました。
実は、前から朝倉東小学校を狙っていたんですが、天子の森ラインなら乗って来そうですね。

まだまだ、フィールドワークが足りませんが、とりあえず仮説を立ててみました。

以上、るな風水師でした。

(つづく)

地図 朝倉市









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by lunabura | 2014-05-22 21:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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