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タグ:朝倉市・朝倉郡 ( 50 ) タグの人気記事

朝倉の地名に星の名が



朝倉の地名に星の名が



いつもの真鍋ノート。

戸次星へきのほし杷木星。アルデラミン

三並みつなみオリオン。夜須郡夜須村三並。三笠星、三組星。三連(みづら)星。三諸星。三島星。三島。溝くい。

朝倉の道の駅に「三並の里」(みなみのさと)があるのですが、
「三並」って、オリオンの三ツ星なんですね。


「杷木」はケフェウス座のアルデラミンですって。

途中に「四三嶋」(しそしま)という信号があるけど、北斗七星だろうなといつも思いながら通過します。

マテラ山のマテラは竜座のツバーン。

朝倉には星の名前がついた地名がこの他にもあります。

ぼーっとしながら見ていると楽しいですね。例のエクセルです。

そうそう、肝心の朝倉は「あしたのいわくら」すなわち、夜明け前の東の空にでる星座群のことだそうですよ。






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by lunabura | 2017-12-15 23:11 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)

高校生プロジェクト 柿を長期保存せよ



高校生プロジェクト

 柿を長期保存せよ



柿って、食感の好みが分かれますよね。

サクッと歯ごたえがないとダメな人。
とろける感じで柔らかなのがいい人。
熟したのが好きな人。
熟したのは絶対ダメな人。

皆さん、どれですか。

杷木(はき)の柿は名産品ですが、洪水のあと、まだ道路が通じずに収穫できない話があったりすると、本当に残念です。

柿の実はすぐに柔らかくなるので、秋だけしか食べられません。

そこで、杷木の高校生が柿の実の保存法を研究したのです。

それはビニール袋に一個ずつ入れて冷蔵するという方法でした。

そのビニール袋の厚さを変え、温度を変えて研究した結果、
春まで食べられる厚さと温度を発見したのです。

これが商品化されて、スーパーに並ぶようになりました。

春でもサクサクとした食感で食べられる!
とても驚いたし、何よりもエコな方法が見つかりましたね。

その高校は朝羽(あさは)高校といいますが、今は統合されてありません。

スーパーでビニールにピタッと入っている柿を見たら、是非手に取って味わってください。
これなら遠い方も応援ができまする。^^

朝倉の杷木の柿です♪





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by lunabura | 2017-12-13 20:12 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

朝倉




朝倉


二つ先のバスハイクの準備を仕込んでいます。
だって、いつも締め切り直前に連絡が来るんですもん。(-_-;)
(だいだいパターンが分かった…。)


バスの運行時間と神社での滞在時間を考えて夕方には天神に戻れるように組むのですが、ゼンリンの地図を使うと、予測時間がぴったりと出ます。
車のナビよりずうっと正確。
それに神社での所要時間を予測して加味しますが、ピッタリと時間があって、ドライバーから「神スケジュール」と言われたことも。


ところが、朝倉では皆さん、思った以上にじっくりと過ごされました。
朝倉特有の癒し空間とでもいうのでしょうか、いるだけで心も体も喜ぶような感覚があるのです。あれって、行った人にしか分からないですよね。

テレビを見ると、災害の復興はまだまだ。
災害の直後はスーパーの豆腐や麺類、納豆など、基本的な食材が消えてしまったことを思い出しました。日々の暮らしも支えもしてくれている町でした。
朝倉杷木(はき)の柿はとろけるようにおいしい。

来年早々に2回目の朝倉行なので、またリュックの大きい方を持っていこうと思います。








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上巻46 秋月八幡宮










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上巻42 大穴貴神社











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上巻41 仙道古墳







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上巻44 老松神社








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by lunabura | 2017-12-12 20:43 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

第9回バスハイク 朝倉の紅葉狩りになりました



第9回バスハイク

 朝倉の紅葉狩りになりました








今日は「羽白熊鷲の里・秋月野鳥(のとり)」に
行ってきました。

ちょうど紅葉の始まり。





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上巻40 砥上神社









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上巻40 砥上神社










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上巻45 垂裕神社前の黒門











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上巻47 粟島神社




朝倉の三連水車の里の周辺には、まだまだ流木が残っているところもありました。
野菜や果物がとても元気。
また1月に行きますね。






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by lunabura | 2017-11-20 22:21 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

秋月のバスハイクのプランニングをした



今日はバスハイクのプランニングをしました。

もう9回目になるんですね。
次回は朝倉です。

仲哀天皇崩御後、神功皇后は羽白熊鷲討伐に向かいますが、
筑前町から朝倉の秋月まで、
行軍ルートがずらりと連なっています。

車で5~10分の距離ごとに神社があります。

かつては神社誌を見ては探しに行ったので、
何度もバラバラに行きましたが、
今回はルート沿いに一気に行くので、楽しみです。

このルートはバイクで走ると体感が違うだろうなと思いつつ
時間調べをしました。
もちろん、「杉の馬場」は歩きですよ。


催行は11月に決まりました。
具体的には、「歴史と自然をまもる会」が公表されてから後の
案内になります。

紅葉がちょうどいいかも。
フルーツの里なので、それも楽しみです。



以下はパワーポイントの画像です。







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照英に羽白熊鷲の役をやって欲しい^^









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『日本書紀』に載ってる「安」(やす)の松峡八幡宮。








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軍士たちが敵前逃亡した大己貴神社。











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『日本書紀』に出てくる「荷物田村」(のとりたのふれ)










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黒門前が陣営地の一つ。










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垂裕(すいよう)神社の石段登りは御覚悟を。
メチャ、ハード。

などなど。




秋月、すごく好きなんです。




『神功皇后伝承を歩く』上巻40~47「羽白熊鷲との戦い」




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by lunabura | 2017-09-26 22:13 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

9月の歴史カフェお礼





今月の歴史カフェは「中大兄皇子と朝倉橘広庭宮」でした。
ご参加の皆さまありがとうございました。

朝倉というエリアに絞ったので、
具体的なイメージが掴みやすかったのではと思いました。

同じ朝倉でも、西の方では神功皇后と羽白熊鷲との戦いがあり、
東の方では斉明天皇と中大兄皇子の祭祀がありました。

二つの歴史に共通したのが「福成神社」でした。

福成神社は三女神を祀る宮。

景行天皇が水沼の三女神を祀り、
神功皇后がその縁で三女神を祀り、
斉明天皇が宗像三女神を祀りました。


また、宮野神社では中臣鎌足が祖神と大己貴を祀りましたが、
それは神功皇后の時代の中臣烏賊津臣と大己貴を思い出せます。

神功皇后と斉明天皇を同一人物とする人もいますが、
時代も内容も全く違っていますね。



歴史カフェは、これまでのブログ記事を
一つずつテーマを決めてまとめようと思って始めました。

バラバラの記憶をつなぐと、
筑紫の各地域の歴史や特性が浮かび上がってきて、理解が深まります。

理解すると、その地を訪ねて体感したいと思うようになるのが不思議です。

どの回でも、現地に行こうという会話があっています。

そのとき欲しいのはやはり地図。
古代史には、平地でなく、山を中心とした地図が欲しいですね (^_-)-☆

古代史という難解な話題に賛同していただいて、
シェア出来るのはありがたいなといつも思います。



次回の歴史カフェは中大兄皇子の続きです。
水城や観世音寺、太神宮を柱として考えています。

大宰府の天文祭祀官の家系だった真鍋の力を借ります。

詳細はお待ちくださいませ。
募集は開始します。





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by lunabura | 2016-09-27 22:44 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

白鳳元年と白鳳二年



白鳳元年と白鳳二年




「白鳳年号」は正史には登場しない。
九州年号と言われている。

現在、『高良玉垂宮神秘書』の抜粋版を推敲している最中だが、
白鳳年号がいくつも出てくる。

白鳳二年に高良山では大事件が起こっていた。

それまで大祝として祭祀を務めていた物部氏の美濃理麿保続に
高良大明神が垂迹し、
「我は発心して高良大菩薩となる。俗体は保続に譲る」
と告げたというのだ。

そして、保続は訪れた修行僧の教訓を受けて出家してしまう。

それまで、仏教を受け入れなかった高良山に、ついに
仏教が入って来たという大事件が起こった年が白鳳二年だ。

この年は癸酉(みずのととり)とも書かれていることから、
西暦673年の事と特定できた。

この673年の事件について、「白鳳二年」と記す条のほか、
「白鳳十三年」と記す条が出てくる。
後者は「二中暦」で書かれていることが分かった。

また、同年を「天武天皇即位二年」と記述する条もあり、
あれこれと調べた結果、どれもが正解で、
673年を寺社暦では「白鳳二年」、二中暦では「白鳳十三年」と計算していた。

高良山では、混乱を避けるために、この年を
天武天皇即位二年「癸酉」とも書き、
表記に工夫をしていることが分かった。



さんざん「白鳳年間」のことを調べた結果、頭に焼き付いていたので、
今日、朝倉の恵蘇八幡宮を読みなおして、
ここにも「白鳳」の年号が出ていたことに驚いた。


その概略は、中大兄皇子がここに天降八幡社を創建したが、
天武天皇白鳳元年に社名を恵蘇八幡宮と変えたという。

ここでも「白鳳元年」という寺社暦が使われていたのだ。



恵蘇というのは恵蘇星といって、シリウスを指すが、
これはベツレヘムの星でもあり、
エソ、ヤソという連想を古代でも持っていたことが真鍋から読み取れる。


当時でもバタ臭い名前に変更したのは誰か。

それが天武天皇の勅命だという。



その翌年、高良山に仏僧が入って、大祝が出家してしまったのだが、
天武天皇の差し金ではないかと、漠然と思うようになった。


つまり、高良山への刺客だ。

神道の山に寺院が建てられるようになった。
この時、安曇と物部の高良山での棲み分けは終了し、
高良山は物部一色となる。

白村江の戦いでの敗戦が大きなきっかけに違いない。

天武天皇はあの竈門山(かまど)に宝満山と名を変えさせてもいる。

戦後処理という言葉ではニュアンスが多少違っているが、
天武天皇が筑紫の古い形態を書き換えようとした
痕跡が見られる「白鳳年間」である。




827の歴史カフェは「高良玉垂宮神秘書」ですが、
主にこの白鳳二年より以前の内容になります。

白鳳二年に関しては、少々触れる程度になります。





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by lunabura | 2016-08-20 22:56 | メモ | Trackback | Comments(0)

宮野神社(3)三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


宮野神社(3)
朝倉市宮野
三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


前回、朝倉市の宮地嶽神社と宮地嶽古墳を紹介しました。

この神社と古墳を抱く宮地嶽(120m)の南に開けた小平野があり「宮野」と言います。
その一角に宮野神社と別所神社があり、過去記事で紹介しました。

宮野神社(1)斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮
http://lunabura.exblog.jp/22100319/

別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った
     http://lunabura.exblog.jp/22119354/

別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地
 http://lunabura.exblog.jp/22126791/


宮野神社では鎌足に大己貴神を祀らせて、勝利祈願をしています。
これは神功皇后の先例に見倣ったものと思われます。

神功皇后は大己貴神社(上巻42)と大神神社(下巻68)でそれぞれ大己貴神を祀って神助を得ています。

ところが、別所神社の祭祀の主体者は中大兄皇子となり、祈願内容は病気平癒です。
切迫した状況が伺えます。

別所神社が「皇居の辺」にあったという言葉から、橘広庭宮はすぐ近くにあったことが分かりました。
中大兄皇子は、自分自身で祈願するために皇居から近いところを選んだということです。




そして、この別所神社を含む900m×900mの都を想定して、以下の図を描きました。

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この記事を書いた段階では、結論を持っていなかったのですが、風水上から、宮地嶽神社を北に抱くのを最良として、「宮野説」を結論づけました。

これを昨年(2014年)の久留米大学生涯講座で発表したのですが、それに関しては全く反応がありませんでした (^_^;)


ま、タイトルは「古代筑紫を貫流した ありなれ川」で、眞鍋大覺の伝承を紹介したものでしたし…。一時間半の中、最後の30分で、宮野説を話したので、サラリと成りすぎたかな?


この「橘広庭宮」の所在地に関しては福岡でもあまり興味を抱かれていないのも、肌で感じます。歴史が奈良や京都の事だと刷りこまれている洗脳がなかなか解けないのも一因だと思います。



でも、神功皇后と同じく、斉明天皇と中大兄皇子の足跡を伝える宮があるのも事実です。ただ、神功皇后は130社ほど採取したのに対し、斉明天皇親子は十数社です。



それでも、『日本書紀』を裏付け、そして補う歴史が展開したのを、神社縁起で推し量る事が出来ます。
以下は過去記事に田手神社を追加したものです。

「朝倉橘広庭宮を探せ」
http://lunabura.exblog.jp/22149931/

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)(下巻53)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊
○月○日 田手神社で祭祀。(向津媛
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


赤字は祟り神として位置づけ、斉明天皇の病気後に祀ったと仮定しました。


さて、広庭宮の場所の話に戻りましょう。

るなは「宮野説」です。「宮野」という地名もまた宮があったことを示唆しています。

 朝闇神社説を確認するために現地に行くと、高木神が祀られていたので、大変驚きました。この神は祟りです。新羅戦を前にして仲哀天皇にも祟った怖ろしい神です。

これを北に奉じることは有り得ないと思いました。また、発掘調査でも寺院あとしか見つからないようです。

これに対して、新羅と戦って勝利を得た女神が宮地嶽神社に祀られているのです。それが神功皇后。
その神威を受けたイヤシロチこそ風水上、ふさわしい土地です。それが宮野です。

そう気付いてから、現地を確認して、その正中線に立ってみたい。そう思ったのですが、思いを遂げる日が、宮地嶽神社の三か月後に訪れました。



「宮野神社に三階松があるんですよ」
と、驚きの情報をくるま座さんが言ったのです。

宮野神社は上記のように、一度参拝して、ブログでも紹介したのですが、「三階松」には気付きませんでした。
これこそ、福津の宮地嶽神社の神紋であり、九州王朝の紋。

宮野神社には筑紫舞の絵馬もあるらしいです。天子の森にはそのオブジェがあります。(ルソン足をしている)

それまで、朝倉と福津との繋がりが分かりませんでした。でも、「三階松」があれば、すべては繋がります。





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宮野神社から宮地嶽を撮りました。いつも、神功皇后を仰ぎ見ることになります。




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そして、正面に見える所まで移動しました。


ここに橘広庭宮が建っていると考えると、ゆったりとした平野がひろがって、神名備山を抱く、ふさわしい立地条件です。

この土地を提供したのは、前記事では鎌足の一族かと思いましたが、今では安曇族だろうと思っています。



その証しが三階松紋ですが、それだけでは弱いなと思って、地元の歴史マップを見ていたら、近くに「志賀様の大楠」という巨樹が描かれていました。

これは斉明天皇が志賀大神を祀った跡だそうです。
志賀大神とはもちろん綿津見三神のことです。
安曇族が桂川を遡って船を着ける舟着き場に祀ったのでしょう。

これで、安曇族がここまで上がって来た裏付けが取れました。

ちなみに、安座上姓は、朝倉で天皇から授かった安曇族だそうです。
上座の安曇族という意味でしょうか。(上座とは朝倉の一部)

時代も、どの天皇かも、聞いていませんが、この「宮野」を提供して建造に関わった功績を称えられたのではないかと、ひそかに思っています。



橘広庭宮推定地






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by lunabura | 2015-10-10 20:15 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(4)

宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)・斉明天皇は神功皇后に祈った・卑弥呼と神功皇后は?


宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)

朝倉市宮野
斉明天皇は神功皇后に祈った
卑弥呼と神功皇后は?

前回は宮地嶽(120m)の中腹にある湯の隈装飾古墳を紹介しました。

宮地嶽神社はその頂上にあります。道は農道で、最後は切り返しながら急斜面を上がりました。案内人がいなかったら、分からずにグルグルと回ったかもしれません。


車は宮地嶽神社の裏側に到着しました。




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正面です。








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朝倉市は神社の説明板が何処も充実しています♪説明板を見て大変驚きました。




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御祭神が神功皇后・勝村神・勝依神なのです。
前回も書いたように、総本山の福津市の宮地嶽神社と全く同じ祭神なのです。
(勝依は福津では勝頼)






神功皇后は西暦200年頃の人。(まだ、他の時代の証拠が見つかっていない)

勝村・勝頼筑紫君・葛子の子ですから、西暦500年代の後半以降に活躍したと思われます。福津の宮地嶽古墳に埋葬されました。その古墳は7世紀前半~中頃と言われています。円墳です。



ここ、朝倉の中腹にあった湯の隈古墳の古墳は6世紀後半築造。円墳です。
被葬者が500年代前半から後半にかけて活躍したとすると、磐井の乱を子供のころに見て、葛子や勝村・勝頼の活躍を見届けたのかも知れませんね。

中腹という位置関係から、この被葬者は頂上の宮地嶽神社を守る役目があったのではないかと推測しました。宮地嶽神社は安曇族ですから、ここは安曇族の聖地とも考えた訳です。






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そして、頂上からほんの少し下がった所に宮地嶽古墳がありました。



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これは前方後円墳。




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朝倉の平野を見渡す絶景ポイントを押さえています。


未発掘ですが、埴輪などが見つかっているもよう。時代は4世紀後半とされています。
この時代は、謎の4世紀と言われ、どうなっているのかよく分かりません。



この4世紀に神功皇后を持ってくる研究者は多いですが、国乳別皇子や高良玉垂命の廟の付近から出土するのは弥生時代のもの。(下巻57弓頭神社)綱分神社(下巻86)から出土するのも弥生時代のもの。

神功皇后伝承地の出土物には気を付けているのですが、古墳時代の決定版は見つかっていません。


4世紀説の根拠とされていると思われる、石上神社の七支刀は複製品だということが分かったので、決め手にはなりません。肝心の年号の部分が削られているのも紹介しましたね。



卑弥呼と神功皇后は どう違う?

ちなみに、200年説を採って、卑弥呼=神功皇后という説をメールで送って来られた方があります。忙しい時で、直接返事が出来ませんでした。ここで解答しようと思います。

二人はキャラクターが全く違います。

卑弥呼は一生独身で、人にも会わなかったのですが、神功皇后は天皇の后として、どんどん人前に出て行動しています。

化粧している姿が目撃されたり、馬に乗っている姿も目撃されています。出産もしているし、香椎潟では海に入って禊をしていて、男のヘアースタイルに変えるというパフォーマンスも見せています。(下巻67番御島神社)

卑弥呼は中国の後ろ盾が必要で、狗奴国と戦っていました。
神功皇后は夫に代わって新羅と戦い、侵略を防いだという点も全く違います。

卑弥呼は最期は「自死」と書かれていて、これは自害するという意味だと言う方もあります。非常に孤独な人生でした。




話が逸れました。朝倉の宮地嶽古墳の話に戻りましょう。

この前方後円墳の被葬者がどんな氏族だったのかは、分かりません。

安曇族がこの時代にこの山を掌握していたのか、分からないということです。4世紀なら、水沼水軍の訓練地が近いことから、まだ水沼族の支配下だった可能性もあります。あるいは他の氏族の可能性も。


斉明天皇

そして、ここに参拝に来たのが斉明天皇です。橘広庭宮に到着した翌日に、この神社に参拝して戦勝を祈願したと言われています。

『日本書紀』からは、661年5月10日という事になるので、緑豊かな初夏でした。もちろん、天皇が祈った女神は神功皇后です。

そして、斉明天皇は三日目には福成神社(下巻53)で参拝しています。祭神は三女神ですが、神功皇后の足跡を辿って神功皇后にあやかろうとしているのがよく分かります。

斉明天皇もまた新羅と戦わなくてはならない状況に追い込まれました。この時は唐軍との連合軍となります。神功皇后の神助を心から願ったことでしょう。

そして、この時は、斉明天皇もまだまだ元気だったのでしょうが、このあとわずか二か月後、7月24日に崩御となります。







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by lunabura | 2015-10-08 23:31 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(12)

湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)
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