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湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

杷木神社 (2)磐井の弔い合戦は鎮圧された


杷木神社 (2)
磐井の弔い合戦は鎮圧された

杷木神社の古文書はキリシタン大名・大友宗麟によって焼かれてしまいましたが、
その直前に書かれた記録が残っていて、
『福岡県神社誌』に漢字だけの縁起が書かれていました。(・.・;)

万葉集のような書き方でした。
例のごとく、るな流の口語訳で紹介します。

筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武??槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。

そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。

是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。

ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。

 件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。

しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武??槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。

 そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。

是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。

 天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。

維時大永二年壬午二月穀日
              神坂源大夫藤原貞家之を誌す
上手く訳せない所は元のままにしています。(+_+)

継体天皇の磐井討伐の理由は、縁起によると
異国の貢ぎ物を奪い取ったからとなっています。

これには大いに疑問があるのですが、今回のテーマはそれでなく、
縁起が伝える「磐井の残党の蜂起」です。
言いかえれば「弔い合戦」。

これは『日本書紀』には全く書かれていませんでした。
膨大な歴史を書いている本ですから、仕方ないといえば仕方ないのですが…。

御井郡の一戦ですべて終わったのではなかったのです。
全く想像していませんでした。

「磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ」の所が実は訳が分からないのですが、
「磐井の残党は青人や土蜘蛛のたぐいと力を合わせ」と今の所、解釈しています。
青人とは目の蒼い氏族たちでしょうか。

さて、磐井の弔い合戦、蜂起した場所は「豊前筑前の間」。
戦場は磐井が負けた御井郡ではなく、豊前と筑前の間でした。

遠賀川流域でしょうか。
いろんな物部氏がいる所なので、分裂した可能性もあります。

麁鹿火の命を受けた「筑前から豊前にかけての武将たち」の名は
「豊前国の企救の長手、鷹羽の金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起」
と、具体的な名が記されています!

「企救」(きく)なら聞(企救)物部で、北九州市。

「鷹羽」は田川市。
「金田麿」という名前からは、田川郡川崎町の正八幡神社の田原麿や田麿の名前が
思い浮かびます。(ガイドブックは16番です)
景行天皇の時代から神功皇后、またのちのちの時代に掛けて当地を治めたのは田原氏

三笠郡は太宰府の近く。田中鷲丸、男起の田中姓は物部氏と思われます。
(みやま市に「田中物部神社」があります)

そうすると、麁鹿火は蜂起した場所を囲んだ所に住む物部氏や田原氏に命を下したと
考えられます。
「是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、」とあるので、
磐井一族の蜂起は一か所ではなく、同時多発的になされた様子も伺えます。

そして、官軍は杷木神社の大己貴命と武??槌命に祈願して戦勝し、
物部宿禰高古が祭主となっています。

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「大己貴命と武??槌命」にかつて祈ったのは神功皇后でした。
官軍は神功皇后の祈願に倣ったのでしょう。
朝倉には大己貴神社以外にも古くから大己貴命が祀られていました。

磐井の弔い合戦…想像もしていなかったので、かなり驚いています。

これは葛子の時代のことでしょうか。
そうすると、葛子は妃を殺され、弔い合戦に負けて、
ついに糟屋の屯倉を献上することになったのでしょうか。








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by lunabura | 2014-06-03 20:25 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(3)

杷木神社・磐井の残党を平定したという



当ブログに訪問される方のなかに、ルーツ調べをしていてヒットしたという方が
何人もいらっしゃいました。

自分の魂の遍歴(過去世)を知る事は癒しと浄化につながり、
肉体を造ったDNAの遍歴を知る事もまた癒しと浄化につながっていきます。

ルーツ調べをすると、先祖たちが過酷な人生を生き抜いて来たことが分かり、
感謝の念が生まれます。

「敵だ」と思い込んでいた人物や国が、自分の魂やルーツの中に見つかって、
憎むことの愚かしさを知らされます。

そういう点で、このブログ、精神世界の事も古代史のこともバランスよく
書き綴っていきたいなと思ったりしています。

さて、朝倉の神社、あと一つ残っていました。



杷木神社(1)
はきじんじゃ
磐井の残党を平定したという


c0222861_21301718.jpg


今回の朝倉の旅の一番の目的はこの神社だったのです。

――たしか「磐井」の文字が出てきたはず…。
そう思いながら福岡県神社誌をめくると、やはり、ありました。(訳します)

往昔は元上座郡上鄕十八ケ村の宗祠である。延喜式和名抄把伎鄕を例祭前の鎮祭区域とする。

第28代(附記継体天皇は第26代なり)継体天皇の御代以前の創始にして筑紫の磐井の残党、謀叛の際、官軍の勝利を祈願した由緒をもって、矢納めの式がある。

磐井残党平定の報賽として、朝廷より宇津志馬二匹、弓矢幣帛捧げられる。恒例の祭祀はこの時より始まったという。(大日本地誌所載)

なんと、この宮は「磐井の敵」が祈った宮なのです。
しかも、磐井の残党と戦っている!
(神社誌の表記は「筑紫の磐井が残黨」となっています)

磐井の乱は簡単には収まっていなかった!

八女地域の古墳が石人山古墳や岩戸山古墳以降も二代分ほど続いている点から、
磐井の根拠地が壊滅状態ではなかったのだなとは思っていたのですが、
思いがけない歴史がここに書かれていました。

磐井の子葛子は屯倉を差し出して、命乞いをしたのですが、その妃は殺されています。

これは、もうすぐ出す『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』で詳述しますが、
葛子の子供が勝村・勝頼という名で、宮地嶽神社の祭神となっています。

磐井が殺されたあとも、九州王朝は簡単には滅ばず、
福津市と八女市の二極で統治が行われていたのではないかと推測していたのですが、
杷木神社の社伝から、その説が補強されるかもしれません。

この神社で祈った天皇軍は、「残党平定のお礼参り」をしているので、
磐井の残党軍が負けたことが分かります。

これが八女の前方後円墳の終焉の理由かもしれません。

神社誌にはさらに別伝が書かれているので、もう少し読み込んでみます。




※ コメント・メールの返事が遅れます。少し待っててくださいね。


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by lunabura | 2014-06-02 21:32 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

麻氐良布神社


麻氐良布神社

麻氐良(まてら)という不思議な名前の山が朝倉市にあります。
その神社は麻氐良布神社と書いて、「まてら」「まてらふ」の二つの読み方が見られます。

この山が重要なのは、斉明天皇の死の病の原因が、この神域の木を伐採したためと言われているからです。

当時からそれが分かったのでしょう、中大兄皇子は麻氐良布神社から
イザナミ尊を別けて、「皇居の辺」に別所神社を建てたとなっています。

麻氐良布神社の祭神を『福岡県神社誌』で調べてみました。

月読尊、天照大神、伊弉諾尊、素盞嗚尊、蛭子尊
です。

夫婦神(イザナギ・イザナミ)とその子(蛭子)と三貴子(月読、天照、素盞嗚)
というのが自然な形だとすると、イザナミだけが祀られていません。

やはり、もともと一緒に祀られていたのが、
わざわざイザナミだけ別所神社に祀られ直されたということでしょうか。
勧請でなく、分祀だとすると、よくよくのことですよね。

c0222861_2129173.jpg




ただし『神名帳考證』では
伊弉册尊 伊弉諾尊 斎明天皇 天智天皇 明日香皇子 天照國照彦火明命
となっていて、イザナミ尊が祀られています。

祭神の変遷があったようですね。

そして、境内神社を見てびっくり。

十九座神社
宗像神社
織幡神社
筥崎神社
志賀海神社
志登神社
筑紫神社
竈門神社
美奈宜神社
於保奈牟智神社

まるで、ガイドブック『神功皇后伝承を歩く』の目次を見ているよう。
(ちょっとオーバーかな)
筑紫の神々の勢揃いなのです。懐かしい名前ばかりです。
ちなみに、主祭神を書き加えてみましょう。

宗像神社(宗像三女神)
織幡神社(武内宿禰)
筥崎神社(応神天皇)
志賀海神社(綿津見三神)
志登神社 (豊玉姫)
筑紫神社(白日別)
竈門神社(玉依姫)
美奈宜神社(天照皇大神-寺内)(素盞嗚―林田)
於保奈牟智神社(大己貴)

ほら、知っている神さまばかりでしょ。

ここで祈れば筑紫の神々に全部通じるという神社でした。

三か月前でしょうか、「倭国大連合」というタイトルで、
対新羅戦の為に神功皇后(本当は仲哀天皇)を旗頭として筑紫の氏族たちが大連合したことが、
倭国という国の母胎となったのではという仮説をお話ししました。


これらの氏族の神々が勢揃いなのですから、よくよくの神社のようです。

登る機会はあるかなあ。





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by lunabura | 2014-05-23 21:32 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

朝倉橘広庭宮を探せ


朝倉橘広庭宮を探せ

朝倉橘広庭宮の所在地はまだ発見されていません。
最近、太宰府説も提出されましたが、朝倉においては次の3つの候補地が挙げられます。
1 須川
2 山田
3 杷木町志波(はき町しわ)

るな的手法は個々の神社の伝承を並べて全体像を浮き彫りにするというやり方です。
まだ、ブログでは紹介していない神社も含めて、これまでの伝承を並べてみます。

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


この中で、カギとなるのは「宮野~別所~朝闇」神社の東西の祭祀ライン。
とりわけ別所神社は「皇居の辺」にある。
また、福成神社の近くに宮殿橋がある。
天子の森は施政の地伝承あり。

次は太宰管内志から。
「○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふ」

訳すと、「橘広庭宮は宮野村という説がある。その北の方に朝闇寺が須川の枝村にある」となりますので、
宮は宮野村にあると言われていたことが分かります。

これらをすべて含むとなると、条里が2キロほどの都を設定しないといけません。
この遷宮は天皇・皇太子・臣下・女官などの記載があるので、
百官百寮・軍隊も一緒で、相当規模の条里計画があったと想定できます。

もちろん、条里なんか未完成のものばかりでしょうが。

そこで、同時代の都のサイズを探してみました。

太宰府政庁 和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろう。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
(参照 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazaifu.html)

藤原宮 925×907m
太宰府 2400m×2600m

で、広庭宮の都を900×900に仮設定してみました。


さて、風水師ならどこを選ぶ?

東:青龍 … 豊かな川の流れがある
西:白虎 … 大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀 … 広大な平野や海があり視界が開けている
北:玄武 … 山や丘陵がある



c0222861_2154446.jpg

宮地嶽神社を軸とすると、一番左。

宮野神社を軸とすると中央。

天子の森(○印がずれているような)を軸とすると右。


こんな感じになりました。
実は、前から朝倉東小学校を狙っていたんですが、天子の森ラインなら乗って来そうですね。

まだまだ、フィールドワークが足りませんが、とりあえず仮説を立ててみました。

以上、るな風水師でした。

(つづく)

地図 朝倉市









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by lunabura | 2014-05-22 21:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

長安寺廃寺(2) 二つの「ちょうあんじ」


長安寺廃寺(2)

二つの「ちょうあんじ」

 
今回の朝倉の旅の目的は橘広庭宮の伝承調べだったのですが、
橘広庭宮石碑の麓に長安寺廃寺石碑があり、それにも足を突っ込み始めました。

朗報は寝て待て?
愛読者さんから、有力情報が。

どうやら「ちょうあんじ」が二種類ありそうで、こんがらがって来たので、
今回は整理することにしました。

『大宰管内志』朝倉(上座郡)にこんな記事があるそうです。
(番号は、るながつけました)

筑前国二十上座郡
朝鞍寺 安楽寺御領目録に上座郡朝鞍寺領(略)とあり、昔々この朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此郡の山田村にありしと云、いつの比に亡びたるにやすべえさだかなる事はしりがたし。(1)

橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふその寺跡いまもいちしろし。(2)
これは明確に書いてありますね。

(1)朝鞍寺は朝倉山長安寺として山田村にあり、亡びた時期は分からない。

朝倉山は麻氐良山(まてら)のことだと言われていましたね。
山田村は麻氐良山の麓にあり、木の丸殿もあります。
木の丸殿とは斉明天皇の服喪のために中大兄皇子が殯(もがり)をした所。

長安寺廃寺跡にはこんな説明板がありました。

「筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。」

長安寺は恵蘇八幡宮の「社僧の寺」ですって。神宮寺みたいな感じでしょうか。
地図を見ると、山田村と恵蘇八幡宮は隣接していました。



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ネットの地図では分かりづらいので道路地図をコピーしました。
右の円が山田で、長安寺(朝鞍寺)が麻氐良山の麓にあるのが確認できますね。
「長安寺」とは「朝鞍寺」ということになります。



では、「朝闇寺」はどうでしょうか。

(2)朝闇寺は須川の枝村にあって、寺跡がはっきりしている。
その南、宮野村に橘広庭宮がある。

上と同じ地図ですが、左の円が須川で、朝闇神社がある所です。
瓦など鳥居の北辺りから出土したようですが、まだ特定には至っていません。

以上、『大宰管内志』に書かれている二つの「ちょうあんじ」の在り処を確認しました。
(著者は伊藤常足さんですよ~。鞍手の古物神社の神主さん。物部)


太宰管内志だけで結論を出せる訳ではありませんが、これって、すっきりしますよね。

前回、説明板を読んで理解できなかった点も、二つの「ちょうあんじ」を想定すれば、
整合性が取れそうです。

橘広庭宮の場所も宮野村とありますよ。いよいよかな~。るな探偵登場は…。

いや、るな風水師じゃ。
(つづく)





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by lunabura | 2014-05-20 21:48 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

橘の広庭宮公園の上の金刀比羅神社


橘の広庭宮公園の上の金刀比羅神社

 

思いがけない所で高木の神と出会い、仲哀天皇の崩御と重ね合わせて考え込みながら、
帰ろうとすると、
「向こうに何かあるよ」と、るなパパ。

見ると、階段がありました。
杜の中の自然歩道を歩いていくと
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あっ。これは!


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写真でよく見かける橘広庭宮の石碑だ。
ここにあったんだ。

周囲を見回すと丘のピークという感じでしょうか。
横には農道がついていました。

広庭宮なら当然、平地にあるはずなので、不思議な場所に建てたんだなと
きつねにつままれたような印象でした。



「鳥居がある」
再びるなパパ。
鳥居があるなら行かずはなるまいて。


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場所は石碑の後ろの方です。
柿の果樹園の中を通るとすぐに祠がありました。


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そこもまた小山のピーク。
見晴らしのいい、イヤシロチでした。


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向こうの山を遥拝する場所かなとも思ったのですが、
地図を見ても山に名前は付いていませんでした。

朝闇神社の上宮的な位置にあるピーク上の金刀比羅社。
この時思い出したのは宮野神社の右手の古墳の上の金刀比羅社。

同じような位置関係から、斉明天皇時代の祭祀だろうかと思いはしましたが、
何も分かりませんでした。

家に帰って朝闇神社を記事にするとき、ふと「朝闇神社」で検索すると、
古田武彦氏の「第四章 幻の筑紫舞 1」にヒットしました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku15/tikumai1.html

これによると、朝闇神社には絵馬があったのですね (@_@
宮野神社にも絵馬があった!
知らなくて残念。

この記事は筑紫舞の探求ものなので、筑紫舞に焦点が当てられていますが、
掲載された白黒の絵馬をじっと見ると、
宮廷の女官など宮人たちが描かれていませんか?

思えば、別所神社や宮野神社は藤原鎌足や中大兄皇子の祭祀が始まりなのです。
その絵馬には斉明天皇や中大兄皇子の時代が描かれた可能性はないでしょうか。

これら、東西に並ぶ神社は都の周辺に位置しているのではないか。
絵馬は当時の雅びな宮廷人の暮らしを描いたものではないか。
そんな思いが生まれて消えませんでした。

宮地嶽神社の本(発刊はずっと先~)には筑紫舞の事も書いたので、
この古田氏の筑紫舞の記事を見るとまた安曇の世界に引き込まれそうです。

斉明天皇の殯の宮の横の恵蘇八幡宮でもついに筑紫舞が再現されました。
どこに行こうと、安曇の痕跡に出会ってしまう。

「るなさん、安曇を選んで回ってるんですか」
「いえ、私はブラブラです。でも、どこに行っても安曇がいるのです。
安曇は船に乗って全国の港へ、そして、くぐつ舞を持って山という山へ分け入ったから。
今では安曇が歴史の始まりとまでも言える」
これは昨日の友人との会話でした。

(つづく)

地図 橘広庭宮公園






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by lunabura | 2014-05-19 20:58 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

朝闇神社 高木の神…再びの悪夢か


朝闇神社

高木の神…再びの悪夢か

 
思いがけず長安寺の石碑で道草しましたが、道の最奥にある鳥居に向かうと、
注連縄がとても低くてくぐるのが遠慮されました。
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神額は朝闇神社。

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「闇」の字が選ばれているのは天皇の死を暗示しているのでしょうか。


説明板がありましたよ。
朝闇神社(ちょうあんじんじゃ)
福岡県朝倉町大字須川鐘突1269

祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかと考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門堂」は現在も残っている。





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祭神はあの高皇産霊尊すなわち高木の神でした。



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山里ではよく見られる氏神様的な神社の様子ですが、
ここに高皇産霊尊が祀られているというのはよくよくの事ではないでしょうか。

そう。
思い出すのは仲哀天皇の突然の崩御の事件です。

斉明天皇と全く同じように新羅と戦うために筑紫にやって来た仲哀天皇。
戦いの準備中に突然、崩御。
誰もが、このケースを思い出したに違いありません。

仲哀天皇の崩御に関しては複数の伝承が日本書紀にも書かれ、
ガイドブックでも整理しましたが、
伝承が一番厚かったのは御勢大霊石神社(小郡市)でした。

羽白熊鷲と戦うために川原(御勢大霊石神社)に布陣した仲哀帝は
前線を見まわって帰陣する途中に敵の矢に射られてしまいます。
それが原因で崩御するのですが、
神功皇后はそののち北の隼鷹神社で鷹を祀ります。

それは御勢大霊石神社に布陣するために天皇が天神地祇を祀ったとき、
鷹が飛来し、その後、北を目指して隼鷹神社の松の木に止まったからです。

皇后は鷹が不吉をもたらしたと考え、後に鷹を祀ったと考えています。

鷹はどこから飛んできたのか。
北を目指したなら、南から飛んできたのではないか。
そう考えて地図を見ると、真南には高樹神社があったのです。そこは高良山の麓。

高良山の地主神だった高皇産霊尊は高良の神に欺かれて結界を張られて
戻れなくなり、麓に鎮座するようになりました。
高良の神とは竹内宿禰ですから、仲哀帝が筑紫に来た時あるいはその直前の事件です。

高木の神が仲哀天皇に祟った。
そして、再び斉明天皇に祟った。

そう思わずにはいられませんでした。

地図を見ると、宮野神社~別所神社~朝闇神社が、ほぼ一直線上に乗って来ました。
東西のラインです。
当社に立つと真西が観測されるということになります。

どうやら祈りのラインがありそうな気配です。
都から見て朝闇神社は真東に鎮座しているのでしょうか。
まだ都の場所は特定できていません。

『福岡県神社誌』を調べたのですが、朝闇神社は載っていませんでした。
「朝倉」の語源かとも言われる重要な宮なのに、載っていないのは不思議です。

「アサクラ」とは「朝の石位」(あしたのいわくら)
すなわち、星座を表すと書いていたのは真鍋大覚。
いよいよ真鍋大覚を読み直す必要があるようですね。

でも、もう少し地形の観察をしておこうと思います。
(つづく)

地図 朝闇神社









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by lunabura | 2014-05-18 19:00 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

長安寺廃寺跡 猿沢の池があった


長安寺廃寺跡

 猿沢の池があった

 別所神社で教えてもらった万徳寺横の川に出ると、神名備山が!

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低いけどきれいな円錐形。
これでは遠方からは気付かなかったはず。
都を造るなら目当ての山があるのではと思ったのですが、ちょっといいかも。

目の前の橋を渡ってさらに川沿いに進み、一軒家の先を右に曲がりました。
古い街並みの姿を留める細い道を抜けると鳥居が見えました。


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手前に駐車場が完備されていて驚きました。
(別に驚くようなことではない…が)


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そこからの眺め。意外にも高度を上げています。
向こうは耳納連山ですね。



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鳥居手前、右手に石碑が。
あれ?
長安寺と彫ってある。
長安寺と言えば、佐用姫伝説の時に出てこなかった?

ここにあったんだ。

神在神社・大伴狭手彦が祀った宮だった
http://lunabura.exblog.jp/17562963/


詳しくは上に書いていますが、その一部を書き抜きます。

欽明天皇23年(562年)8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。その王は垣を越えて逃げました。

狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。
最後の一行に書かれた「長安寺」です。
思いがけず、その現場に来ました!
(日本書紀には何処の国か分からないと書いていますが、取り敢えずここにもあります)

説明板です。
長安寺廃寺跡
福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1308

 奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。

出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
現地の地名は朝倉ですが、朝鞍、朝闇と表記されているんですね。
朝鞍、朝闇と書けば「あさくら」と読めますが、
音読みでは「ちょうあん」となるので、「長安」ともなるわけです。

礎石が出ていますが、前回の別所神社では、
柱の礎石はここから持って来たのではないかという話でしたね。


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(別所神社の蓮の花の礎石)
出土物は何処に展示されているのだろう。
現物を見て、別所神社と見比べてみたいものですね。

出土物の時代が8世紀前半なら斉明天皇(~661)崩御後、半世紀。
説明板の続きでは、観世音寺と関連付けて説明がされています。

また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから、長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。

うむ。
長安寺=橘広庭宮=筑紫尼寺か。
これはまだよく理解できない。
橘広庭宮→筑紫尼寺→長安寺 と変わったということかな。
そうすると、大伴狭手彦の時代の長安寺は何と呼ばれていたのだろう。
???
ま、いいか。



駐車場を出るとすぐに池がありました。


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「猿沢の池」と書かれていました。
もう、びっくり。
狭い。
奈良の猿沢の池を見た時もその狭さにショックを受けたことを思い出しました。

説明板です。

この池は、昔から常に満々と水をたたえ今まで枯れたことがない。かんばつの時には、この池で雨乞いがなされ、池の水を汲むと大雨が降るといわれていた。
また、昔は池底がとても深く、つり鐘が埋められているという伝説があり、廃寺となった長安寺と関係があるのではないかと考えられる。
なお、近くには「朝倉橘広庭宮跡」をはじめ、斉明天皇が橘広庭宮におられたとき、
御遊されたという「花園山」「降葉山」「桂川」等の旧跡がある。
おお、この近くには斉明天皇の足跡が沢山残っているんですね。
地図、地図がほしい。

地図を見ながらあれこれと妄想するのが楽しいんですけどね。
これは現地の人が描かないと分からないっす。

(つづく)





斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月11日 斉明帝、中大兄皇子 福成神社にて戦勝祈願。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮





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by lunabura | 2014-05-17 22:43 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(8)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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