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別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地


別所神社(2)

「皇居の辺」なる清浄の地


さて、私が当社に参拝した理由は『福岡県神社誌』にこんな縁起が載っていたからでした。
(訳します)

由緒
斉明天皇七年創立。
明治五年十一月三日村社に被定。
当社は朝倉橘の広庭の宮に遷幸された時、朝倉社の木を伐り宮殿を造られたので神怒り祟られて殿を壊された云々と日本書紀に出ている。

この時、皇太子中大兄皇子は先帝の罪を償われて皇居の辺なる清浄の地を占って陰神伊弉冊尊(いざなみ)を別けてここに勧請されたので、社号を別所神社と称し、事解男、速玉男の二神を合祭して三座とする。

いにしえ社頭の繁栄の時は当村の八並という所に神幸をされ神楽を奏して厳重に祭祀を執り行った。
この縁起の「皇居の辺なる清浄の地」に驚いたのです。
すなわち、当社は橘広庭宮の一角、もしくはそのそばにあるという事になります。

広庭宮の所在地はいまだに特定されていないのですが、
ここに手掛かりが書かれていたので、現地を調べるためにこの宮に訪れたのです。

ちょうど氏子さんが消毒の手を休めておられたので、話を聞くことが出来ました。

「拝殿の柱の礎石は蓮の花で、珍しいんですよ」
見ると、確かに蓮の花です。

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「言われないと見過ごす所でした」
境内の説明板にもこう書いてありました。

 
また、拝殿の柱の礎石は、非常に珍しい蓮華模様が彫られており、これは朝闇寺(廃寺)より持ってきたものではないかといわれている。
この礎石は朝闇廃寺から持って来た可能性があるんですね。
全体の土台が石積みなので珍しいなとは思ったのですが、
教えて貰わなかったら気付かなかったです。

「神殿の右手に神木があったんですが、近年の台風で倒れたんです。
幸いに外に倒れたんですよ」
「それはよかったですね」
猪野天正皇大神宮では杉が神殿に倒れたのを思い出しました。
あの時の台風はすごかった。

c0222861_1823093.jpg

(木立の向こうの切り株)

「昔は鬱蒼として涼しかったのですが、すっかり明るくなりました」
明るい境内からは想像つきません。

「昔は神幸が南の宮野幼稚園の所まで行われていましたよ。石があります」
地図を見ると真っ直ぐの道がついています。

神幸が行われるお旅所というのも大事な地点です。
幼稚園や小学校などは古代のイヤシロチに造られたケースがあるので、興味が引かれます。

そして宮の場所の話をしました。
「ここは橘広庭宮のそばにあるようなのですが」
「広庭宮ならありますよ」
「え?広庭宮が伝わっているのですか?」
「はい」
「どこですか」
「万徳寺の横の川を渡って左に曲がって一軒目を右に曲がってまっすぐ行った所です」
「あの川の向こうですか」
さっき道を探してアチコチ迷ったので、万徳寺の場所は分かっていました。
思いがけず目的の場所を聞くことが出来ました。
早速、予定を変更して現地に向かう事にしました。

そして、そこに思いがけないものを見たのです。
(つづく)




斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月11日 斉明帝、中大兄皇子 福成神社にて戦勝祈願。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮







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by lunabura | 2014-05-16 18:57 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った


別所神社(1)

中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った

斉明天皇と中大兄皇子の名を伝える別所神社。
朝倉市須川のバス停(名前不明)から路地に入った所にありました。


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新緑の季節でした。桜でしょうか。春はピンクで溢れ返るのでしょうね。


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拝殿前に松の木。



説明板から。
所在地 福岡県朝倉町大字須川字下須川3197-2
祭神 事解男命(ことさかお)伊弉冊尊(いざなみ)速玉男命(はやたまのお)



c0222861_1755811.jpg

イザナミ尊が祀られていましたが、夫神のイザナギ尊の名は見当たりませんでした。
その代わり、事解男命と速玉男命が祀られています。


説明板の続きを読みましょう。
 
西暦661年、斉明天皇は百済救済のため、中大兄皇子ら文武百官を従え「朝倉橘広庭宮」(あさくらのたちばなのひろにわみや)に入られた。ほどなく病にかかられたため、中大兄皇子は麻氐良山の朝倉社の祭神「伊弉冊尊」を別けて祀り、斉明天皇の御病気平癒を祈願されたのがこの別所神社である。

 昔は須川村の氏神として祀られ、百年前までは、ここより南のお旅所(宮野幼稚園北側)まで御神幸が行われていた。
なんと麻氐良山!(まてら)が出てきました。
中大兄皇子はそこから伊弉冊尊だけ分けて祀った!

斉明天皇の葬儀を見た神はイザナミ尊だったの????
まさか。

確認のため、斉明天皇について訳した『古事記の神々』の該当部分を抜き出します。
(前後はサイドバーから入って読んでくださいな)
『日本書紀』の口語訳です。

3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津宮とされました。

夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)

5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。

また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)

8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて喪儀を見ていました。人々は怪しみました。
橘広庭宮の造営のために朝倉神社の木を切り取っています。
そのせいで神の怒りに触れて雷が落ちて御殿が壊れました。

それから人々が次々に亡くなり、斉明天皇まで亡くなってしまいます。
天皇の葬儀の時には「朝倉山」の上に鬼が出て大笠を付けて見ていたと書かれています。

この「朝倉山」こそ、地元では「麻氐良山」だと言われているのです。

別所神社のイザナミ尊が「斉明天皇の御病気平癒を祈願」するために麻氐良社から分祀されたのなら、
葬儀を見ていた鬼とはイザナミ尊を暗示している可能性も出てきました。

中大兄皇子は何故、イザナミ尊だけ格別に祀ったのか。

それはイザナミ尊の両脇に祀られる事解男命(ことさかを)速玉男命(はやたまのを)の神にヒントがありそうです。
この三神で思い出すのは、イザナミ尊とイザナギ尊との哀しい別れのシーンです。

イザナギ命は亡くなったイザナミ命に会いたくて黄泉の国まで行ったのですが、
絶対見ないで、と言われたのに覗いてしまい、腐りつつある遺骸を見て逃げ出します。

『古事記』から。
 最後に、イザナミの命がみずから追いかけて来ました。
そこで、イザナギの命は千引(ちびき)の岩をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引いて塞いで、その岩を間に置いて、互いに向かい合って立ち、イザナギの命が絶縁の言葉を言い渡しました。

すると、イザナミの命は、「いとしいあなた。こんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人、くびり殺します。」と言いました。

そこで、イザナギの命が言いました。
「いとしいわが妻よ、そなたがそんな事をするなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう。」

こういう事から、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるようになりました。
黄泉の国まで探しに来てくれた愛しい夫が、約束を破った上に逃げて行き、
自分との間に岩を置いて道を断った。

女性から見ると、とても哀しいシーンです。

この時、愛は憎しみに変わり、イザナミ命は「一日に千人殺す」と宣言しました。
そして、イザナミ命は死の女神となってしまいました。

『古事記』では上記のようになっていますが、『日本書紀』にもいくつか別伝が書かれていて、
その中に事解男命と速玉男命が出てきます。

そこではイザナキ尊は「離婚しよう」と言った時、その誓いとして唾を吐きます。
唾を吐くのは約束を固めるしるしで、「唾(つは)く神」を速玉之男、
「掃う神」を泉津事解之男(よもつことさかのを)と名付けたと書かれています。

死の女神と、縁を断つ二柱の男神。

中大兄皇子は「死の女神の言霊の実現」を封じ込めるために
事解男命と速玉男命を??で固めたのではないでしょうか。

そのために「別の所」にわざわざ祀ったと思われるのです。

宮殿は落雷で破壊され、官僚や王族たちが続々と死に、ついに病の床に伏した母帝。

何としても死の女神を鎮めたい。

緊迫した祈りの様子がひしひしと伝わって来ます。
(つづく)


斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮



別所神社 麻氐良山







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by lunabura | 2014-05-14 18:51 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)

宮野神社(2)小山は古墳だった


宮野神社(2)
小山は古墳だった

さて、前回の宮野神社を書いたあと、二つの情報が入ってきました。

一つは筑後国造さんからのコメント。
「金毘羅神社の小山は古墳です。
遺跡地図では、中宮野神社内古墳となっており、横穴式石室の円墳のようです。
一部石材が露出していますよ。」

神殿の右手の小山は古墳だったんですね!


c0222861_2114461.jpg

古墳には石段が付いていました。
石材が露出していたなんて…。
見たかったです。




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もしかしたら、祠の前の石は天井石?

横穴式石室ということなら、6~7世紀かなあ。
ウィキペディアで「横穴式石室」を調べました。一部分だけ抜き出します。

日本での横穴式石室
●日本列島でも横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。

●6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。

●646年(大化2)薄葬令が公布された。この令によって、古墳の築造が細かく規制された。石室をつくることが許されたのは貴族階級であり、一般庶民には石室をつくることは許されず、地に埋めることが規定されている。

この宮野神社が創建されたのは661年です。
社伝では「この宮野神社は、藤原氏祖先の墓といわれ、天孫降臨のとき天照大神に従った「天児屋根命」を祀ってある。」とあるので、古墳も近い年代になります。

橘朝倉宮が建設される時には、風水に叶った適地が検討されたはずで、
朝倉の情報を提供した豪族がいたはずです。

それが誰なのか推測する時、古墳の被葬者が関わった可能性もあり、
中臣氏の祖先がもともと当地に居住していた可能性もでてきます。

何だかワクワクですね。



そして、もう一つの情報はくじらさんから。
「久留米市に藤原鎌足の子孫がいる」ということでした。

バラバラの情報のが、朝倉市の宮野神社という一点で急に膨らみを生じてきました。

想像もしなかった古代のフクオカの姿が垣間見られて楽しいです。




さて、この日、宮野神社から別所神社へ向かいました。
徒歩でもすぐに着く所にあります。

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農道です。向こうのとんがり樹の辺りが別所神社。



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振り返れば先程の宮野神社の杜が見えています。
両社は直線距離で130m。

実はこの日は別所神社の方に先に行ったのですが、消毒があっていたので
遠慮して宮野神社を先に参拝したのです。
宮野神社では別所神社の消毒のモーター音が聞こえていましたよ。
それほど近いんです。

モーター音が止まるのを待って、車で移動しました。
そこにも斉明天皇に関わる縁起がありました。
次回は別所神社へ。



斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮


恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿 筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した
http://lunabura.exblog.jp/15159645/



宮野神社と別所神社





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by lunabura | 2014-05-12 21:23 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

宮野神社・斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮


宮野神社

斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮



ずっと気になっていることがありました。
斉明天皇の軌跡です。
朝倉には関連の神社がいくつかあったので、調べたいと思っていました。

福成神社(朝倉市)の近くに女官たちの宿舎の伝承があるなら、
徒歩圏内に朝倉の橘の広庭宮があるに違いないと考えてから何年も経っています。

観光マップを観光課から送っていただきましたが、
やはりオリジナル地図を作らないと辿りつけそうもありませんでした。


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まずは宮野神社へ。
境内は遠くからでも見えるのに参道がありません。
畑帰りの人に尋ねて教えてもらい、迂回して辿りつきました。
正面向かって左から境内に入るようになっています。


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一歩、境内に踏み込むとただならぬ宮の気配。
その重厚さ、そして「宮」野という名から、いきなり核心に来たのだろうかと
一瞬驚きました。


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朝倉はどの宮にも説明板があって、ありがたいです。

説明板から。
所在地 福岡県朝倉町大字宮野字中宮野1248
祭神 大己貴命 天児屋根命 吉祥女
祭神の組み合わせが不思議だな。



c0222861_1716054.jpg

宮野神社は大字宮野の氏神であり、毎年10月25日に祭礼が行われている、
この宮野神社は、藤原氏祖先の墓といわれ、天孫降臨のとき天照大神に従った「天児屋根命」を祀ってある。
藤原氏祖先の墓所だといます。どういう意味だろう。
誰かがここに埋葬されている?
祭神は天児屋根命です。

ネットで調べてみました。
岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 (wikipedia)



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斉明天皇6年(660年)、朝鮮半島の百済が唐と新羅の郡に亡ぼされ、日本朝廷に
救いを求めてきたので、天皇は翌7年(661年)百済救援のために筑紫に下られ、朝倉橘広庭宮を大本営とされ救援軍を半島に進められたのである。天皇は遠征軍の戦勝を祈願するため、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建されたと伝えられている。
思いがけず藤原鎌足の名が出て来ました。
ここは斉明天皇が生存中に藤原鎌足に命じて創建した宮でした。
そうすると、天児屋根命は藤原鎌足の祖先神ということで、関連性があります。
もういちど、三祭神を見直しました。

祭神 大己貴命 天児屋根命 吉祥女
吉祥女が菅原道真夫人なら、道真公(845~903)なので、この時代には関係ありません。
そうすると、残るのは大己貴命
神功皇后の時にも祟り神として複数個所で祀った神の名が残りました。
大己貴神社(朝倉市)もそう遠くはありません。

斉明天皇は戦勝祈願に大己貴命を祀らせ、
その祭祀に当たった藤原氏の祭祀官が留まって祭祀を続けたのでしょうか。
その祭祀官のお墓?とか、ちょっと乱暴すぎるかな。
う~ん。なんで墓所だろう。


『福岡県神社誌』の方を見てみました。(訳します)

由緒 斉明天皇七年創立。明治五年十一月三日、村社に被定。当社は斉明天皇当所橘広庭の宮に御遷幸のみぎり、玉体守護神として天児屋根命及び大己貴命を勧請し、宮野神社とし、その後天慶年中に秋月対馬守春実吉祥女を合祭し、三座とした由、いにしえの繁栄の時は当村の内字落合という所に神幸神祭執行などが由来に書かれている。
これによると、天児屋根命と大己貴命は斉明天皇の守護神として祀られたとなっています。
すでに具合が悪かったのだろうか…。

合祀された吉祥女に関しては天慶年間が938~947年。
道真公の没した903年の後なので、やはり夫人なのかもしれません。


藤原鎌足がここに立った。
奈良にしか足跡がないと思い込んでいたので、驚いています。


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拝殿から一の鳥居を眺めました。
平坦な地が続き、麦畑が広がっています。
その向こうに筑後川が流れています。その洪水原は豊かな穀倉になりました。

この付近はすでに陸地化していたのでしょう。
ここは都の中心地ではないようですが、
祭祀が営みやすいように都の近くに祀られた可能性を秘めていました。



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境内の右手奥に小山がありました。


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金毘羅社と読めるようです。

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祭神は分からないけど、ウィキでは「大物主神」となっています。

そうすると、最初の祭祀はこちらなのでしょうか。
あるいは、神功皇后伝承地の場合、海人族たちの社がそっとあったりするので、
斉明天皇の龍船を漕いだ海人族かも、とも思ったり。

金毘羅さんを信奉する海人族は、何というのだろう。



さて、都の設計にあたって、目当ての神名備山でもないかと裏手を見ましたが、
ピンと来る山はありませんでした。

この近くにはもう一つ、斉明天皇伝承を持つ別所神社があります。
歩いてすぐの所でした。別所神社と言います。(つづく)



斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社創建。
7月24日 崩御。68歳。


地図 宮野神社







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by lunabura | 2014-05-09 19:12 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(4)

まさかの 出会い


今年は、元旦からずうっと原稿を見直しています。

年末のはなしです。
いよいよ第二校に入ろうとする時、出版社の不知火書房さんから連絡がありました。

「今朝、古本屋で寺内ダム建設時の資料集が手に入ったが、そこに、民話が収録されている」と。

ガイドブックに掲載する「矢埜竹神社」は祭神が分からないままだったのに、
それもちゃんと書いてあると。
結果的には私が推測した「埴安神」で間違いなかったのだけど、
神功皇后の腰掛岩など、見つからなかったものが写真で掲載されているとか。

その写真の説明を聞きながらストックしていた境内の写真を見ると、偶然にも写っていた!
巨木がケンポナシかどうか分からなかったけど、その写真も載っているって。
そして、拝殿の後ろにある石の祠こそ本殿だったと。
紋の正式名称も「丸に鷹の羽」と書かれていた。

「明日、朝届くように送りますから、書き替えてください」
「は…い。余白はどのくらい」
「四行分空いています」
「時間は間に合いますか」
「充分に間に合います」

電話を置きながら本当に驚いた。
矢埜竹神社は神社誌を調べても住所が変遷していて特定できず、
祭神も、近所の方に聞いたり、近くの神社に尋ねたりしたけど、どうにもこうにも分からなかった神社。

推測を書くしかなかったのですが、資料も出て来て一安心。
しかも、このタイミングで出て来る?
一週間遅れていたら、間に合わなかったのに。

羽白熊鷲が応援してくれたかな。
でも、羽白熊鷲たちはこの村の娘たちをさらうというとんでもない事をやっていた!
ということは、神功皇后やムラの人たちが応援してくれたんだ。

こうして、最後の最後、奇跡の大逆転があったのです。
結局、全面的に書き換えたのですが、ブログの記事も書き換えなきゃ。



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このイラスト、村の姿を見事に描いているなあ。


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by lunabura | 2014-01-02 23:27 | にっき | Trackback | Comments(0)

古代あさくらツアー・卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る


古代あさくらツアー
卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る

嬉しいな!
ついに古代史ツアーが出た。
これまでの逍遥で、歴史や産物の豊かな所に沢山出会っていました。
そんな魅力的な市町村の観光と古代史を組み合わせたプランが出来たらいいなと
ずっと思っていたので、この古代朝倉のツアーにうれし涙。

タイトルは

「古代あさくらを駆け抜けた 卑弥呼・神功皇后・斉明天皇
ゆかりの地を巡る歴史探訪モニターバスツアー」


―原鶴温泉、農家レストラン、直売所で買い物、夜は郷土史家と歴史談義
2012年5月31日(木)~6月1日(金)
ときたもんだ。

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行程表を見ると、無理なく廻れるコースを組んである。



神功皇后が仲哀天皇の仇討ちをするために羽白熊鷲を攻略するルート。
卑弥呼の里の候補地―平塚川添遺跡。
斉明天皇が突然亡くなって、天智天皇が殯をした恵蘇八幡宮。
そして橘広庭宮の候補地。

そんな場所を巡るんですよ~。
朝倉と言えば三連水車。
夜は原鶴温泉だ。
筑後川流域は今は小麦が黄金色。
果物もおいしい所です。

私も各神社をリンクして応援します (^o^)/
下調べに利用してね。

砥上神社とがみ 朝倉郡 皇后軍が駐屯して砥石で武器を磨いた
栗田八幡宮(松峡八幡宮) まつお 朝倉郡 羽白熊鷲攻撃の大本営を築いた
大己貴神社 おおなむち 朝倉郡 神功皇后は大三輪の神を祭った
恵蘇八幡宮
恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない
恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ


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問い合わせ・申し込み
朝倉広域観光協会 歴史探訪モニターツアー事務局
TEL 0946-24-6758 FAX 0946-24-9015
e-mail:aakankou@apricot.ocn.ne.jp

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途中であの埴輪くんに会えるかも!

仙道古墳
http://lunabura.exblog.jp/15708317/

















朝倉市










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by lunabura | 2012-05-26 20:42 | にっき | Trackback | Comments(6)

福成神社・景行、神功、斉明、中大江皇子が参拝・朝倉橘広庭宮は近い

福成神社
ふくなりじんじゃ
福岡県朝倉市入地
景行、神功、斉明、中大江皇子が参拝した宮
朝倉橘広庭宮は近いぞ
 
前回の太刀八幡宮から南へ1.5キロ。
歩いても30分かからない所に福成神社はあります。
筑後平野の中の集落の中央部にあり、
くねくねと曲がる狭い道に突然神社が現れるような所です。
神社を中心にして町が形成されたような印象を受けました。

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一の鳥居です。道路に並行しているので、左右をキョロキョロしないと
通り過ぎそうです。

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参道のモザイクがおしゃれで、
両脇の桜の木が春にはさぞかし美しいだろうと思われます。

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拝殿です。柱があるだけでとても開放的。
雨風の時には雨が降り込むのでしょうか。

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拝殿には沢山の絵馬が奉納されています。羅針盤が中央にありますね!
海人族に関係があります。

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神殿です。

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訪れた時には銀杏の実が色づく頃でした。
境内にはネットが敷かれ、銀杏の実が収穫されていました。
季節に即した人々の営みが今なお息づいている処でした。

ここは旧朝倉町。各地の史跡に説明板が設置されています。
これを読みながら驚愕しました。
福成神社 朝倉町大字入地字宮ノ本1673

祭神 宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)
   斉明天皇
   天智天皇
別名を「印鑰(いんやく)大明神」ともいい、朝倉町で最も古い神社である。毎年10月26日には祭礼が行われる。

 その昔、神功皇后が熊襲を征伐し、三韓に兵を進められた時、宗像三神を祀り海路の安全を祈られ、この地に来られたといわれている。この時皇后は、「神の助けによって大いに福成りぬ。」と言われたことから、福成神社といわれるようになったと伝えられている。

また斉明天皇も、百済救援の時、中大兄皇子らと共にこの神社で戦勝祈願をされたといわれている。

なお、神社の東方には、謡曲で有名な「綾の鼓」の舞台となった桂の池跡があり、謡の中に出てくる「源太老人」を祀ったといわれる地蔵尊が、神社の西側にたてられている。
あっと驚く名前が次々に出て来ます。上から順に見ていきたいと思います。

印鑰(いんにゃく・いんやく)
印鑰神社はこのブログでは、高良玉垂宮にちょっと出て来ましたが、
「印」とは印鑑。「鑰」とは鍵。
朝廷から預かった印鑑と鍵を特別に保管した所が神社になったりしています。
ここも、そのような役所があったのでしょうね。
中心的な場所だという事を示しています。

神功皇后と三女神
神功皇后は太刀神社からここに来たのではないかと考えました。
田油津姫攻撃をするためには、ここからは海路になるのです。
その為に水の神である宗像三女神に神助を祈願しました。

ここに三女神を祭ったのは景行天皇です。
その時代から三女神を守護とする氏族の拠点だった事を意味します。

その氏族とは水沼の君です。
「宗像三女神は水沼の君のもちいつく神である」
という日本書紀の記述が整合して来ます。

最近わたしは「みぬまかたむなかた」と変化したのではないかと
考え始めています。

水沼の君の一族は有明海から中つ海(筑後川+宝満川)の
浅い海の航海技術を持っていたと考えます。
この時代は水が豊かでした。
しかし、「中つ海」が堆積して陸地化すると活躍の場を失い
新天地を求めて宗像市に移ったのではないかと思い始めています。

宗像方面のある学芸員の人と話し合ったのですが、
  宗像族は安曇族より新しい。
  古代には宗像族は宗像市に見つからない。
  いったいどこにいたのだろう。
  鞍手郡の六ケ岳に降臨したというが、その前は何処に居たのだろう。
という問題でした。
そしてこの筑後川流域に古くから三女神の祭祀があるのを知ったのです。

ここは水沼の君のエリア。
その祖は国乳別(くにちわけ)皇子。景行天皇の子です。(⇒弓頭神社)

この福成神社で景行天皇が三女神を祀ったという点。
近くの太刀神社も三女神。
そして赤司神社(久留米市)にも三女神。
三女神の元の形が次第に浮かび上がって来ました。
詳しくは赤司神社でさらに考えたいと思います。

斉明天皇と中大兄皇子も参拝した
ここは景行天皇の祭祀した宮という事で神功皇后がやって来て、
新羅に勝ちました。
400年以上経って斉明天皇と中大兄皇子もその故事に倣ったのでしょう、
朝倉橘広庭宮に到着後、三日目には参拝したと伝わっています。
新羅と戦うために是非ともこの神の神助を仰ぎたかったからです。

朝倉橘広庭宮はまだ宮跡が特定されていませんが、
モガリの宮となった恵蘇八幡宮木の丸殿はここから東へ5キロの所です。
広庭宮はかなり近いことが分かります。

そして、源太老人の墓が神社のすぐ左隣にある事から、
宮に仕える女官たちの宿舎も近い事が分かって来ました。

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これがその源太老人の墓石です。そこにも説明板がありました。
今から約1300年前、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷られた頃、天皇にお供してきた女官に、庭掃きの「源太老人」が思いを寄せていた。しかし、身分の違いからこの恋は実らず、源太老人は「桂の池」に身を投げて自殺してしまった。

一方女官は、毎晩源太老人の亡霊になやまされ、とうとう気が狂い池に身を投げてしまったのである。そこで、源太老人の供養のためにこの地蔵尊がたてられ、隣には源太の墓がたてられたのである。

この地区では、毎年4月13日になると、源太老人の供養のためにお祭りが行われている。なお、現在、桂川にかかる橋名を「宮殿橋(ぐうでんばし)」といい、その横には「桂の池跡」の石碑がたっている。
源太老人の恋の話はどこかで聞いたことがあったのですが、
その話の現場がこの朝倉だったとは全く知りませんでした。

この女官は、天智天皇の寵妃だという説もあり、
一目見ることも許されないのはやはり身分がかなり高い人だっただろうと思いました。
女官の宿舎や桂の池跡は宮から近いとのことで、只今、朝倉町に問合わせ中です。

このすがすがしく明るい宮の近くに大きな池があり、その橋は宮殿橋と言った。
女官の宿舎がすぐ近くにあった。
朝倉橘広庭宮をめぐる女官や掃除人たちの哀しい事件。
想像だにしなかった王朝絵巻がここに眠っていたとは。
ここの地名は「宮ノ本」。

近辺の神社にも天智天皇の伝承がいくつか見られるので、
今年はぜひ全体の位置関係を把握したいなと思っています。

田油津姫攻撃の想定ルート
さて、神功皇后はここから船で有明海に行くのですが、
そのルートはどうなっているのだろうかと考えました。

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すでに、小郡市の「津古」から船に乗って、
行在所の老松神社で祭祀をしたという伝承を紹介しています。(⇒老松神社(小郡市))

そのラインを結ぶルートを考えると、
いったん大本営のある松峡八幡宮に戻る為に陸路を北上。
針摺(はりずり)で宝満川を渡り、津古(つこ)に出る
と考えたら上手く行きました。
「針摺」は入り海が一番狭い所。
「津古」は有明海へと渡る帆かけ舟が停泊する大きな湊でした。

しかし、この想定ルートに自信がなくて、神社誌を見ていると、
「神功皇后がお腹が痛くなった」という神社がラインに乗って来ました。
それが地図の左上の松尾宮です。
次回はそこに行きましょう。

地図 福成神社





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by lunabura | 2012-01-07 21:07 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)

太刀八幡宮・神功皇后は太刀を磨かせて奉納した


太刀八幡宮
たちはちまんぐう
福岡県朝倉市大庭
神功皇后は太刀を磨かせて奉納した 

寺内の美奈宜神社から下って来ると広い平野に出ます。
太刀八幡宮はその中の集落の一角にあります。

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こんもりとした森に一本だけそびえる大木。
これがくるま座さんが教えてくれた神社の見つけ方。

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左に廻り込むと鳥居がありました。
(後で分かったのですが、右に廻ると駐車場があります。)

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いかにも古社の風情で、大木の根が石段を持ち上げています。

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参道には沢山の灯籠や狛犬が並んでいます。
御祭神は 神功皇后、応神天皇、三女神です。

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神殿です。一部に彩色が施されているのは珍しいです。

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境内には大木が沢山あって、木陰と光が心地よい空間を作り出しています。

ここにも神功皇后の伝承がありました。
今回は福岡県神社誌を読んでみます。(現代語に改変します。)
由緒
神功皇后の勅命により、熊襲討伐のため、西国に軍兵を進められた時、羽白熊鷲と土蜘蛛田油津姫などの頑強な敵を討伐するために、大庭村上の原で軍兵を訓練し、また刀剣を磨かされた。

この時、皇后は帯びていた御剣を抜いて磨かせて「この太刀を天神地祇に捧げてお祈りしよう。」と言われて、太刀を納めてその上に大石を置き、これを太刀塚と称し、今も境内にある。碑には摂政元年辛巳年(201年)と記している。

御奉納の太刀の銘は乙王丸との古老の口碑により、この地を乙王丸村と名付けた。皇后が剣を抜かれた所を上原村の内抜剣区と呼んで、剣を磨かせたところを磨次と言い、どちらも今は人家が建っている。
「太刀」という神社の名前は神功皇后が太刀を奉納した事から付いていました。

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その太刀塚を捜すと参道の右側にありました。

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正面です。石は平べったく見えますが奥行きがある大きな石です。

いつ神功皇后はここに来たのでしょうか。
いくつかの伝承と位置関係を考えあわせると、
羽白熊鷲を滅ぼしたあと、次なる田油津姫攻撃のために軍勢を整えて、
刀剣を磨かせた事が分かって来ました。

そして自分が帯びていた太刀を抜いて磨かせると
それを天神地祇(天地の神々)に捧げて、次なる戦いの戦勝を祈願しました。
剣を納めると大石を積み上げてそのしるしとしました。
今なおその現場が残っている事に驚かされます。

戦いの前に刀剣を磨かせたという話は砥上(とがみ)神社にもありました。
ここでも兵卒たちは石剣を、武将たちは鉄剣を磨いたことでしょう。
そして漆を塗ったという話も伝わっています。

刀剣に漆
変な話だと思ったら、たまたま韓国ドラマの「キムスロ」で、
「黄漆」が「錆び止め」だというワンシーンを見ました。
前後は見ていないのですが、それは大きな情報でした。

「漆・刀」で検索すると、日本でも刀剣に漆を塗っていました。
薄く塗れば錆び止めとなり、切れ味は変わらないとか。
弥生時代にも刀剣に塗った例があるそうです。

日本刀を持つ人に尋ねたら「真剣」は手入れが大変で、
特に梅雨時は錆に対して気を使うそうです。

この太刀八幡宮にはそんな古代の「太刀」の手入れについての伝承が
地名にもなって残っていました。

乙王丸は太刀の銘。
内抜剣区は皇后が剣を抜いたところ。
磨次(もしくは徳次)は剣を磨いたところ。
ほかに、塗器は漆を塗ったところ。
上に並べてみると、伝承が混乱しています。
地元の方でないと分からない古い地名です。どなたか教えて下さいませ。

さて、
もともと「太刀社」だったのが「八幡宮」になった事情も伝わっていました。
土民らは小祠を造って太刀塚を祀っていたところ、嵯峨天皇・弘仁の世になって、村人らが集まって協議して、八幡神をお祭りしようと豊前国宇佐宮に御分霊を謹請し、弘仁14年に宮殿を建てて、応神天皇、神功皇后、三女神の三座を斎き祭った。皇后の神剣にちなんで社号は「太刀八幡宮」となった。(略)

天正15年、豊臣秀吉が九州平定に軍馬を進めた時、当社は兵火にかかり、社殿一切を焼失したので、文禄元年氏子中で社殿を再建した。
これを読むと、神功皇后と三女神を祀っていたのが、
皇后の子であり八幡神である応神天皇を後に加えたのが分かります。

三女神とは宗像三女神の事です。
ここに宗像三女神というのが意外だったのですが、
筑後川流域を廻っていると、古くから各地に祭られているのが分かって来ました。
今は広大な平野ですが、入り海だった時代の祭神なのでしょう。
明らかに宗像市の宗像神社より古い時代になります。

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さて、境内をぐるりと廻ると正面には福岡には珍しい「子持ち鳥居」がありました。

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黄金の稲穂の向こうは、かつて入り海でした。
ここから見える範囲は沼地だったのかも知れません。
一日に二回は波が洗った事でしょう。

次なる敵、田油津姫の根拠地「山門」はこの向こうです。

調べて行くと神功皇后は近くの福成神社に参拝していました。
準備の合間を縫って訪れたのでしょうか。
そこは忙しい合間でも行くべき神社だったのです。



地図 太刀八幡宮





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by lunabura | 2012-01-06 17:30 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(0)

羽白熊鷲塚・熊鷲は矢で倒された


羽白熊鷲塚
 

福岡県朝倉市矢野竹
羽白熊鷲は矢で倒された 

ついに羽白熊鷲の墓にやって来ました。
そこは前回の矢埜竹神社からわずか400mの所でした。
墓は寺内ダムの付属施設「あまぎ水の文化村」の敷地内にあります。

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「あまぎ水の文化村」は広大な公園。その中にある「せせらぎ館」に向かいます。

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流れる水をデザインした広大な長い階段を上って行きます。
ゲート前で既にテンションが上がったのに、この壮大さに感激。

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次々に現れる水のモニュメントを楽しみながら高みに登って行きます。

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そしてラストのゲートに入ると円墳らしき塚がありました。
これが「羽白熊鷲塚」です。
ただし、これは最近、移転されて造られたものです
説明書きがあるので読んでみましょう。(一部 変更)
羽白熊鷲の碑
仲哀天皇御代、木免(きづ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり。その長(おさ)を羽白熊鷲(はじろくまわし)という。荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す。
 
神功皇后 新羅征討の途次、橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣中なりしが、かかる形勢を関知し、まず内患を断つ事の急務なるを悟り、従駕の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)等と審議の末、巨魁羽白熊鷲を征討する事に決せり。

神功皇后ただちに軍容を整え、仲哀天皇9年(西暦391年)3月橿日宮を経て松峡宮に至り、激戦死闘の結果、ついに層増岐野において強敵羽白熊鷲の軍勢を殲滅(せんめつ)、この時聡明かつ沈着な神功皇后、左右を頼み「熊鷲を収得し我が心即ち安し」とのたまう。

羽白熊鷲の覇権の強大さここに歴然たり。
おもうに古代、我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず。いま彷彿として羽白熊鷲の勇姿脳裏に去来す。われらはここに永遠に不滅の羽白熊鷲をねんごろに顕彰し碑を建立して辞となす。
平成14年12月  山本辰雄 謹選

引用文献
「日本書紀」「太宰管内志」「第二本時代志」「古事記」「延喜式」「筑前志」「筑前国続風土記」「考証三代実録」「筑後志」「朝倉風土記」など
香り高い文語体で書かれていました。
そう、羽白熊鷲は郷土の誇りなのです。
日本書紀なんかに、さんざんに書かれているのは、負けた者の宿命。
この矢野竹の地に散った弥生の王を愛さずにはいられません。

このクニは二度と立ち上がれないよう徹底的に滅ぼされたのでしょう。
地元の神社の伝承にわずか名を残しただけで、
日本書紀にも書かれた強大な王が居たということも忘れ去られていました。

この「あまぎ水の文化村」建設にあったってその墓が再発見され、
世に出て来たのも、不思議な流れです。
説明板の裏に由来が書かれていました。(一部変更)

羽白熊鷲の塚 由来記
「水の文化村」建設時、ここに羽白熊鷲の遺跡あり。
せせらぎ館の建設地と重なりし為に70m南に移転せり。
平成14年4月 甘木商工会議所施設運営の委託を受けし後、羽白熊鷲の存在を知る。
仲哀天皇の御代、領土を統治せし豪族 羽白熊鷲の塚とは余りに貧弱、不敬に亘るとし、ここに再度移転せるものである。
これを読むと「せせらぎ館」を建設する時に熊鷲の墓が見つかって南に移転したが、
郷土の皆さんが羽白熊鷲の存在を知って、郷土の豪族として改めて認識し、
移転した墓を問題視して、この目立つ場所に再度移転したのが分かります。

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彼の墓は、もともと何処にあったのだろう?
スタッフや地元の方々に伺ってその様子が分かりました。
写真に「せせらぎ館」と熊鷲塚を同時に撮りました。
本来の場所はプールの下辺りだという事なので、この写真の範囲内かも知れません。

もともと、ここは畑だったそうです。
墓は丸い石が置かれているだけだったそうです。
塚はなく、発掘した時も何も出て来なかったそうです。

建物の下になるので墓は一旦、上の写真の右奥の方に移転されました。

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この写真は塚の奥を撮ったもので、遊歩道があってアズマヤがあります。
その裏手に枯山水があって、さらにその裏側に廻り込み
榊が2本植えられた所に移されました。

現場の写真も撮ったのですが、これは一時期に移転された場所なので、
後の混乱がないように、写真は掲載しません。
確かに裏の裏というさみしい場所でした。

だから今のような堂々とした場所に移されたのは本当に良かったと思います。
本来の墓は無くなったのですが、開発のために再発見されて世に出たのは
多くの遺跡と同じように不思議な運命を感じます。

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このロケーションこそ、熊鷲の墓にふさわしいものでしょう。
墓石は塚の上に置かれたそうですが、写ってませんね。

「熊鷲の最期の場所」というのも伝わっていました。
それは「せせらぎ館」の裏の階段あたりだそうです。
熊鷲は矢で射られたそうです。
「近くの雑木山から矢で射られたと言うが、あんなに離れていて、
はたして矢が届いたのだろうか」と地元では話したりしているそうです。

電話だったので、その雑木山がどれかは分かりません。

「はたして矢が届いたのだろうか」という言葉がずっと気になっていました。

そして先日、忙しい中に無理して行った吉野ヶ里の出雲展で、思いがけない矢を見たのです。
  (つづく)

地図 羽白熊鷲塚










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by lunabura | 2011-12-20 22:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

矢埜竹神社・皇后軍は矢の竹を切った


矢埜竹神社(田神社)
やのたけじんじゃ
福岡県朝倉市矢野竹
皇后軍は矢の竹を切った

矢埜竹神社は喰那尾神社から900mほどしか離れていません。
喰那尾(くいなお)神社は山の頂上にありましたが、
矢埜竹(やのたけ)神社は谷に下って行く所にあります。

ケンポナシの古木があるので有名らしいのですが、どの木かな。
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ガードレールの切れ目から入って数軒で目に入るのがこの巨木。これが神社の目印です。
このまま道を進むとすぐに突き当たるので右に曲がると境内の駐車場に出ます。

正面が何処か、よく分からず、きょろきょろして鳥居を見つけて
扁額を見ると「…埜竹…」という字が辛うじて読めました。

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このように時を経た物が好みなのでついつい写真を沢山撮ってしまいます。

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参道の長さはわずか10mほど。

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石灯籠が残っています。
石灯籠ってずっと昔の時代は一つだけだったそうですね。

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参道を終えて振り返るとこのように「下がり宮」になっています。
ここが「下がり宮」だというのは地元の方に教えてもらいました。
この特殊な形に特別な宮の思いがします。

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本殿です。

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本殿正面です。御祭神を隣家に尋ねたりしましたが、分かりませんでした。

この神社は何故か、あれこれと尋ねるのがはばかられて、
踏み込む気持ちになれません。

そして本殿の裏手に廻って驚きました。石の祠が真裏にあったのです。
隠れキリシタンのように、本殿でお参りすると
この祠を参拝するようになっていました。

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これがその祠です。
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神紋を見ると2本の矢が彫られています。「並び矢」です。

後で、紹介していただいた方に電話で尋ねると、現在ここは田神社というそうです。

羽白熊鷲の伝承がないかと尋ねたのですが、それは分からないという事でした。
皇后軍が竹を切って矢竹にしたという伝承は伝わっていました。
その特殊な竹は川の方、少し登った遺跡の所に今も生えているという事です。
遺跡がある?!と思ったのですが、具体的には尋ねそびれました。

矢は消耗品です。
皇后軍の兵士たちは矢じりだけは沢山所持していて、
矢竹は現地調達だったのでしょう。
矢に使える特殊な竹をここに見つけて、必死で矢を造ったのを
村人は見ていて、今に言い伝えたのではないかと思いました。

地図 矢埜竹神社









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by lunabura | 2011-12-19 17:36 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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