ひもろぎ逍遥

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タグ:朝倉市・朝倉郡 ( 51 ) タグの人気記事

喰那尾神社・皇后軍の陣営地

喰那尾神社
くいなおじんじゃ
福岡県朝倉市三奈木
皇后軍の陣営地 

前回の粟島神社から直線で約3キロ。
山見川ぞいを走ると緩やかな勾配です。
秋月カントリークラブを目指して曲がるとゲートの正面に鳥居がありました。

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鳥居が無かったら神社がそこにあるとは、とても分かりません。
鉄の階段を上って草むらをかき分けると、

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山道を発見。

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その先は草むらですが、道はあります。

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すぐに人の手が入った参道になりました。
木に掛けられた竹が結界を示しています。

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神祠の脇から境内に入りました。

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美奈宜神社上宮と書いてあります。
ここは喰那尾(くいなお)神社であり、美奈宜(みなぎ)神社の上宮です。
祭神は天照皇太神宮 住吉大明神 春日大明神。

この話は小山田斎宮から話が続いていました。
神社の伝承を写します。
創設
第14代仲哀天皇は山口県長門一の宮から筑紫方面へ軍を進めておられた。しかし、天皇は急に病気になって亡くなられました。神功皇后はこのことを秘めて武内宿禰等を従えて敵対する羽白熊鷲を討つために小山田邑を軍立ちされた。

当時熊鷲は、白髪山(古処山)を本城として良民を苦しめていました。皇后等は喰那尾山に陣を布き、武内宿禰の軍略を用いて之を討ちとられた。

そこで賊の大将を討つことが出来たのは、出発の時小山田邑でお告げをうけた「三神」のお助けによるものとして、三奈木川のほとり「池辺」の地に「ヒモロギ」を立て、神を招いて戦の勝利を奉告された。
美奈宜神社に尋ねたところ、
この池辺の宮(本宮・元宮)にあった神祠をここに遷したそうです。
池辺の元宮で神功皇后が祈ったのは羽白熊鷲を滅ぼしたあとの事で、
この喰那尾山はまだ戦争中の話です。
ここにヒモロギを立てて、神功皇后は神々に勝利を祈ったそうです。

ここに陣を敷いたという事で、辺りを見回すと、樹木が茂って視界は利かないけれど、
木が無かったら戦場が見渡せるような小峯のピークです。
しかし、かなり狭いので、
選(え)り抜きの親衛隊が少数で皇后を守っただろうと思われます。

元々ここは羽白軍の見張り台があったのではないでしょうか。
皇后軍はこの見張り台の存在を知っていたのでしょう。
ここを狙い、奪う事で有利に立つ作戦だったと思われます。

ここに至るまでに何度か戦いがあったようで、皇后軍は矢の補充をします。
それを伝えるのが次回訪れる矢埜竹神社です。

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帰りながら鉄の階段から一の鳥居と秋月ゴルフ場のゲートを写しました。
向こうの山々は戦ってきた秋月の方面です。

地図 喰那尾神社






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by lunabura | 2011-12-18 19:55 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

粟島神社・神功皇后の鎧かけの松


粟島神社
あわしまじんじゃ
福岡県朝倉市日向石
神功皇后の鎧かけの松の伝承があった 


私たちはいったん駐車場に戻り、秋月の城下町の中の道を通って移動しました。
秋月は「杉の馬場」から路地に入ると、江戸時代の空間が残っていて
武家屋敷などが店になったりしてとても面白い所ですが今回はパスです。
(皆さん是非探検してね。)

城下町を出ると秋月八幡宮のある山を廻り込みながら寺内ダム方面へ。
「秋月から寺内ダムに抜けられるの?」
「うん。もちろんよ。」
「そうなんだ!」
私が想像した羽白熊鷲の逃走ルートを車は走って行きました。

小石原川が緩やかに流れて、小さな盆地を形成しているような地形の中を走ります。
標高は高いまま、フラットな土地が開けていました。
右に左に、気になる形のいい山が。
「ほら、あそこ。」
「え?どこどこ?」
「山の所。」
示された左の丘を見ると石段が見えました。

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近づくと車道には大きな石碑もありました。

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舗装してあるけど農道みたいでそのまま畑に入り込む道です。
車で入ると、延々とバックで戻ることに。

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歴史ある石段!

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すぐに御堂があって、覗くと歩けないほどの急な石段が。
あれ?ここには何も祀られていない。
正面を上るのが、はばかられて見回すと左に石段があったので、そちらを上りました。

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振り返るとこんな景色です。
石段に手すりがついているのでここを上ってよかったんだ。
そして先を見るとまた御堂。そして左右にも石段。
どうなってる?

結局どれを通ってもよかったのです。
でも、地元の人にだけ分かる参拝の仕方があるんでしょうね。

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拝殿に出ました。
ここは神仏混淆の神社のようで、信仰が盛んなようすです。
由緒書きがありましたよ。
粟島神社の御神体である粟島大明神はその昔、神功皇后ゆかりの鎧かけの松の根元に祭られていたと言われ、寛政10年頃、石造りの神殿に納められ拝殿は嘉永年中に建立されたと言い伝えられ、霊験あらたかな神として今日まで永く信仰を集めてまいりました。
 近年拝殿の老朽化が激しくなりその左上方の土地を隣接者の御協力を得て造成を行い、又多くの方々の御寄附を頂き、ここに新しい神殿の建立に至ったところであります。

粟島大明神は女神にして腰より下の病に特に利玉有り子宝、安産の神と言われております。
又粟島神社は少彦名命大己貴命を共に祀り諸病平癒、商売繁盛を祈る神社であります。粟島神社の大祭は3月3日で毎月3、13、23日が成願日となっております。
この新しい神殿を期に御参拝の皆様がさらに大成願成就される事を祈ります。

 平成12年(西暦2000年)12月吉日

神功皇后の鎧かけの松の伝承が書かれていました。
場所は拝殿の下の古い境内のようです。

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少し探したのですが、場所は分かりませんでした。

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帰りながら境内から川の方を撮りました。日本の原風景のような光景です。
神功皇后もさすがに鎧を身に付けていたのですね。
同じ光景が見えたでしょうか。

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下りて山の方を撮りました。この山のどこかに羽白熊鷲がいます。
そして、皇后軍の別動隊も佐田川を遡ってあの山に向かっているはずです。

古代は敵の居場所も味方の居場所もどうやって分かったのでしょうか。
ここに立つと、皇后軍には地理が分かる案内人がいただろうと思えました。

マーサに尋ねました。
「帰りは寺内ダムを取ってもいい?地理関係が知りたい。」
「いいよ。すぐそこよ。」
こうして、皇后軍のルートをそのまま走って行きました。

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これは境内にあった石。地名は日向石
古代祭祀線が気になる場所でした。





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by lunabura | 2011-12-16 11:13 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

秋月八幡宮・ここは羽白熊鷲の聖地か


秋月八幡宮
あきづきはちまんぐう
福岡県朝倉市秋月
ここは羽白熊鷲の聖地か
 

秋月のメインストリート「杉の馬場」に下りて来て、さらに奥に進むと鳥居がありました。
山の中に入っていく車道があります。
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歩いて行くと、まもなく右の下の方に湖が見えて来ました。
山の上に水がある…。

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と思う間もなく神社に着きました。
私たちは裏手から入っていました。

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これが裏の入口のようす。神殿の裏側です。

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正面に廻って驚きました。
こんな山の中にこんな大きな神社が建っていようとは。
私は既に入り口で由来書きを読んでいました。
秋月八幡宮由来
秋月八幡宮の歴史は古く、平安時代中期の940年、朝廷に謀反を起こした藤原純友の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神功皇后の旧地とされる宮の丘(現在の社のある周辺)で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することが出来たことから、946年、この地に武人の守護神として神社を建立したのが始まりだと記されています。(神布皇后と書いてあるのですが、神功皇后と思われます。るな)

その後、鎌倉時代に遷り、1203年、秋月氏の祖といわれる秋月種雄公(大蔵春美の八世孫)が秋月の地に移り住むようになり、現在の社の本宮を造営したとされています。
社は秋月氏によって400年にわたって代々修造が加えられて多くの信仰を集めて来ましたが、秋月氏の高鍋への移封によって久しく退廃していったとあります。
藤原純友については、時々伝承に出くわします。
昔は道が沢山あった訳ではないので、移動ルートが重なったりしています。
ここの場合は純友と戦う大蔵春実が神功皇后の旧跡という事で、
この場所にやって来て祈願したという訳です。

純友の乱を平定した後に神社を建立しているので、
大蔵春実が参拝した頃は石が祠かがあったのでしょう。

江戸時代に入り1624年、秋月藩初代藩主黒田長興公が就封されてからは、
15年ごとに数次にわたって社の本宮、拝殿の改修が行われて、
施設が完備されると共に、夏秋二度の祭事が賑やかに行われるなど、
近隣の住民の信仰が大変厚かったと記されています。
現在も7月の夏祭り、10月の御神幸の御降りなどが行われています。

歴史のある郷土秋月でも由緒ある建造物として800年にわたって現在まで受け継がれている八幡宮は数少ない歴史的建造物となっています。
黒田長興公は前回の垂裕(すいよう)神社の祭神として祭られていましたネ。
長興公はこの八幡宮を守護神として信仰し、何度も修復を重ねています。

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この拝殿は鎌倉時代の建物なのですね。
拝殿の正面には「武徳門」と書かれています。
「武」の字は「戈(ほこ)を止める」=「戦いを止める」という意味なので、
この宮には「戦いでなく徳で治世する祈り」が込められています。

気になったのは、ここは山上なのに、とても広い事です。

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本殿の前の方です。

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これは本殿の左にある敷地です。石碑は忠霊塔でした。
本殿より少し低くなっています。
ここは大きな屋敷があってもよい広さです。
かなりの人数が生活でき、水は裏にある湖から得られる。
そして神功皇后軍の陣営「宮園の森」があった。

羽白熊鷲の居城はここなのだろうか。
それとも、非常事態のために造られていた山城?
この広さは何だろう。

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神木は古く、巨大でひたすら美しい。
その左下に写った鳥居は別の方向を向いていました。

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これは廻り込んで撮ったものです。

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そして本殿の方に歩いて行くと、まるで城壁のような構えです。
正面に立って参道を見下ろすと、

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絶壁に石段が付けられていました。
写真でも分かるように途中の階段が見えないほどの急斜面です。
さすがにこの石段を下りて再び戻ってくる気にはなりませんでした。

ここは山城だった?
水があり、広い敷地があり、二段になっている。
正面からはとても攻撃出来ない。
でも正面の石段は後世のものの可能性が高いし。

境内の端の変な向きの鳥居も気になって、一緒に行ったマーサに、
「さっきの鳥居の方が古いよね。」
「そう。もとの参道はそっちだったと私も思う。」
「今の拝殿はその後に造られた?だから祭祀線が違う。」
「そう。」
「ここが遥拝所ならどの山を遥拝する?」
「やっぱり古処山(こしょさん)でしょ。古い参道が古処を向いていると思う。」
「なるほどね。本殿あたりが聖域で、古処山を遥拝し、
左の敷地が祀り事をするための施設があった。
そして、いざと言う時の籠城用のものだった。」

ここは羽白熊鷲の祭祀場で、遥拝所だったのではないかという結論を出しました。
後談ですが家に帰って神社誌を読んでびっくり。
「社の南下向道の傍らの土中に、
古代の神供を盛る土器がいくらともなく今なお出てくる」と書いてありました。

やっぱりそうだ。祭祀用の土器が沢山出土している。
南下向道とは上の写真の石段の廻りだろう。
考古学的な調査資料が見たい。発掘調査されただろうか。

この土器を供えたのは羽白熊鷲の一族で、連綿として祭祀していた聖地だ。

敵の聖地を奪取することは、勝利を意味する。
この地を抑えた皇后軍は勝利宣言をしたに違いない。

しかし、戦いはここでは終わらなかった。
何故なら皇后軍の足跡はこの急な石段の向こうに続いている。
熊鷲たちはここを捨てて敗走して行った。
そして寺内ダムのそばで最期を迎える。

しかし、その間はどこを通って行ったのだろう。
もうこれ以上は分からない。

そう思いながら、
「マーサ。これで今日の予定は終わり。今日はありがとう。」
「そう?神功皇后の鎧掛けの神社なら、もう一つ知ってるけど。」
「え?鎧掛けの神社?そこ、そこ。
もう探せないとあきらめてたんだけど。近くにあるの?」
「うん。近いよ。行く?」
「行く。行く。連れてって。」
こうして、私たちはもう一か所の神社に廻りました。

地図 秋月八幡宮





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by lunabura | 2011-12-14 21:03 | 神社(ア) | Trackback | Comments(4)

垂裕神社(1)秋月のとりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」


垂裕神社(1)
すいようじんじゃ
福岡県朝倉市秋月野鳥
筑前の小京都・秋月野鳥
のとりたのふれに皇后軍の駐屯地「梅園の森」がある


今日から再び神功皇后の話に戻りましょう。
羽白熊鷲を攻撃する皇后軍が
いよいよ敵地の見える老松神社まで進軍したところまでお話しました。

伝承はこの後、秋月の城下町で見つかりました。
秋月は小京都と呼ばれるように、しっとりとした城下町です。
大人の秘密のデートスポットにお勧めしようと思ったのですが、
久し振りに行くと観光客が多くてびっくり。
「大人のデートスポット」と変更しましょ。

この町が神功皇后の伝承を辿ると全く別の表情を見せてくれました。

何だったっけ?
そうそう、デートコースでなく、「荷持田村」(のとりたのふれ)探しでした。

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秋月は車でしか行けないのですが、近くに有料駐車場が沢山あります。
車を止めてからメインの「杉の馬場」の通りを歩きましょう。
入り口のバス停です。(あっ。なんだ、バスが通ってるんだ。)
ここは「郷土館前」です。「野鳥(のとり)」は次のバス停ですね。
でも、この場所の地名を調べると「秋月野鳥」(あきづきのとり)です。

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すぐ橋を渡ります。

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この橋の名前が「野鳥橋」。(のとりばし)

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この川の名前が「野鳥川」。(のとりがわ)
とても水質がよくて、染色家がここに引っ越して染め始めたら、
一際美しく染まるようになったと言っていました。

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ずっと桜並木が続きます。今は初冬なので、葉も散りました。

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ずっと歩いて行きましょう。

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武家屋敷が見えます。

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そうして桜並木が終る所に垂裕神社の鳥居が見えて来ました。

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石段を上ると黒門です。
人気スポットなので、人が写らないようにするためにずいぶん待ちましたぞ。

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この黒門あたりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」があると伝えています。
秋月城からここまでがフラットな地形なので、
もともと羽白熊鷲もこの辺りに居城を構えていて、皇后軍と一線交え、
敗戦して逃走した後に、皇后軍が駐屯したのではないかと思いました。

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この地図で見ると、左から右に歩いてきたことになります。
野鳥橋、杉の馬場、秋月城趾、現在地です。
そして右下に秋月八幡宮と書いてありますが、
皇后軍の次の陣営がそこにあります。

その秋月八幡宮に行く前に、この垂裕神社も見て置きましょう。(つづく)








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by lunabura | 2011-12-13 14:02 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)

垂裕神社(2)黒田長興公を祀る宮だった


垂裕神社(2)
黒田長興公を祀る宮だった


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黒門から先の参道はゆるやかな勾配ですが、

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次に待つのは急で長い石段です。
自然石で作られたこの石段の起源は意外と新しく、
明治時代に士族たちが総出で作ったもので、「士族坂」と言います。

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かなり長い石段を上り終えると境内に出ました。

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山の中の神社です。とても緑豊かな所でした。
山の頂上部にあるので、光が射し込んでいます。

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拝殿正面です。

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明治時代に造営されたものです。

境内に由来書きがありました。
垂裕神社由来記 (すいようじんじゃゆらいき)
ここは旧筑前の国秋月である。
当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主 黒田長興公(1610~1665)を奉祀する。
長興公は福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚 毅にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。

1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)

福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。

1638年(寛永15年)島原の乱に際しては(公は時に28歳)幕命に従って諸藩と共に出陣。原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。

1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主長元公(土佐山内家より養子)は藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。

1873年(明治6年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり、旧御館裏の空谷杉や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者多く崇拝の社となっている。

時がうつりて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。

参道の黒門は秋月氏時代(1202~1587)の古処山城の搦手門(からめでもん)であったものを、長興公の秋月城築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財)
1999年10月
垂裕神社維持委員会
この神社は黒田長政の三男で、わずか14歳で城主となった長興公を
没後200年経って垂裕大明神として祀った社でした。
明治維新を経てここに神社が造営されました。
その時に士族たちが台地を開いて道を作り、士族坂を作っています。

この由緒書きにはもう神功皇后の名も羽白熊鷲の名もありません。
城が作られると、かなり広範囲に整地されるので、
弥生の遺跡も残っている可能性は低いでしょう。

この近辺に羽白熊鷲が居城を構えていて、
皇后軍と戦った事はもう時のかなたに消え去っていました。

しかし、砥上神社から松峡神社、大己貴神社、老松神社と、
点と点を結べば伝承がつながって行きます。
更にそれは羽白熊鷲の臨終の地へと続いて行きます。

ここがやはり日本書紀に書かれている「荷持田村」(のとりたのふれ)なんだ。
ここは少し前まで野鳥村でした。

そんな事を考えながら境内を歩いて見ると、
小峯のピークを整地しているのが分かります。
境内の端に立つと風が下の方から顔に当たって来ます。
ああ、上昇気流だ。
ここで羽白熊鷲たちは鉄の武器を作っていたのだろうか。
そうだとすると、武器が山積みされていた事だろう。

「攻めて来たぞ~!」
皇后軍が野鳥川を渡ってなだれ込んで来ると、
この村に住む人々はここを捨てて山城に逃げ込んだ。
皇后軍は案外簡単にこの地を手に入れのではないか。

決戦はここではなかったようだ。

敵が逃げ、まだ生活の跡のある黒門あたりに皇后軍は陣を敷いた。
残党を探してこの小ピークに向かう踏み分け道を上ると、
残された武器があり、兵士たちは歓声を上げた。
そんな想像がされました。

ここに神社を建てたときには
1000年以上も経っているので森に戻っていた事でしょう。
それでも熊鷲たちの整地した名残があっただろうと思いました。

そんな想像をしながら次の陣営地へと
私たちも追って行きましょう。

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地図 垂裕神社








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by lunabura | 2011-12-12 15:55 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)

老松神社(朝倉・下渕)熊鷲の本拠地が見える


老松神社(下渕)
おいまつじんじゃ
福岡県朝倉市下渕840
熊鷲の本拠地が見える
前回、「美奈宜神社(林田)」では、
佐田川の下流で水軍が一夜で陣営を作り上げて、
羽白熊鷲を挟み打ちにする作戦ではなかったのか、
と書きましたが、

その間、皇后軍の本隊は大己貴神社から古処山が見える場所に進軍しました。

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松峡神社(まつお)から仙道古墳を左に見ながらいよいよ秋月方面へ。
写真の左端に見える円墳が仙道古墳です。左の山が阿弥陀が峯。
右の山は大己貴神社(おおなむち)の御神体山です。
この右側を廻り込んだ所に大己貴神社があります。
そこで見え始めたのは古処山(こしょ)。羽白熊鷲の根拠地です。
敵前逃亡者が現れたために皇后は大己貴神を祀りました。

そこからいよいよ川沿いに遡って行きます。
秋月に行くには二つの道路があるのですが、より山際の古道を行くと、
こんもりとした杜が見えました。

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老松神社です。

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いきなりの大古木に先制パンチ。

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古木の茂る神社でした。

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拝殿です。

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秋月藩に近いからでしょうか、崇敬厚かったのがよく分かります。

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神殿です。新しく造成されたようです。

案内板があったのですが消えかかって、よく読めませんでした。
いろいろ総合すると、
皇后軍の秋月周辺の駐留地を「七ヶ森」と言い、
ここは「三府の森」(みふのもり)という陣営です。
皇后の丈競岩(たけくらべいわ)がここに移されているそうですが、
これは気づかなかったです。

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境内の裏手にまわると、古処山(こしょさん)がよく見えました。
二つの山の右の方です。
その手前の山には見張りがいるに違いありません。
その奥は秋月野鳥。羽白熊鷲の根拠地「のとりのたふれ」。

こちらからよく見えると言う事は向こうからも丸見え。
軍勢の数もすべて把握される地形です。
ここは平野のど真ん中。周りよりほんの少し高くなっている程度。
逃げも隠れもしない覚悟の陣営だったのが分かります。
川沿いに進めば道は敵の根拠地に通じる。


もうどこで戦闘が始まってもおかしくない。
直線でわずか5キロ。
向こうから進撃すれば1時間後に戦闘が始まってもおかしくない。
老松神社はそんな陣営の跡でした。


地図 老松神社 秋月野鳥










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by lunabura | 2011-11-17 10:16 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(2)

美奈宜神社(林田)(1)出雲の三神が神功皇后軍を助けてくれた


美奈宜神社(林田)(1)
みなぎじんじゃ
福岡県朝倉市三奈木4933
出雲の三神が神功皇后軍を助けてくれた

美奈宜神社は二つあります。今回は筑後川近くの美奈宜神社です。

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広い筑後平野の中です。西日が低い角度で射しこんでいます。

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赤くて瀟洒な山門が迎えてくれました。

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屋根のラインがシャープでかつふくらみがある、美しい形をしています。
屋根の色と赤い柵のコントラストもここちよいです。

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彫刻もまた素晴らしい。

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神前にお神輿がありました。そろそろお祭りでしょうか。

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神殿の裏に廻ると巨大なクスノキ。境内が広いので、さほど大きく感じないほど。
さて、この神社の由緒書きを読んでみましょう。
式内大社 美奈宜神社 略記
御祭神(出雲三神)大国主命(大国様) 
素盞鳴尊(すさのお・祇園様)
事代主命(ことしろぬし・恵比須様)
縁起 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸にも病にかかり崩御された。皇后はこの事を秘し、その根幹新羅を討つべく、出師(軍隊を出す事)の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器の準備を整え、神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征して行った。

この神社は出雲の三神が祀ってありました。
この由緒書きには少し独自の伝承が見られます。
仲哀天皇の父を景行天皇としている点。(日本書紀では父は日本武尊)
仲哀天皇は熊襲を討ったあと病死。(日本書紀では熊襲征伐前に崩御)
(これらについてはよく分かりません。)

「韓半島への出港地は肥前名護屋だった。」
これについては、久留米市の赤司八幡宮でも同様の伝承があり、
この筑後川流域の船団は佐賀県の唐津市の玄海灘側に集結したと考えられます。

 皇后は航海中船中で大己貴命素盞鳴尊事代主命の三神に戦勝を祈願された。海上つつがなく船は新羅の港に投錨し、上陸して戦端は開かれた。戦いは連勝し、三カ条をもって降伏し、大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた三神を祭られた。その神が美奈宜神社の三神である。

主な祭礼 1月1日(歳旦祭) 4月29日(春祭)7月30日(夏越、茅の輪)
 10月17日(神課祭)10月21日(おくんち)御神幸 
11月最終日曜日(新嘗祭)
県指定無形文化財(蜷城の獅子舞)おくんちに奉仕
弘化4年(1847)1650年祭執行
白鷺塚 三神奉賛の地は白鷺が羽を休めた所で、竹の叢生する片延字鷺塚一番地、白鷺塚である。  (一部分かりやすく改変)

神功皇后は航海中にこの出雲三神に戦勝を祈願して勝利を得たので
白鷺の止まった竹の生えていた所にこの三神を祭りました。
それがこの美奈宜神社の始まりです。

皇軍の帰港地が肥前高橋の津になっています。
(この場所ごご存知の方教えてくださいませ。)

話によると、唐津から有明海は船で往来が出来るとか。
モーターボートでそのまま通る事が出来るそうです。
大川市の風浪宮では外海を通って帰るルートを推定したのですが、
多島海の時代は、けっこう大きな船も通ったのかな。
(これも詳しいルートが分かる方教えてください。)

さて、神功皇后が出雲三神に祈った話ですが、「福岡県神社誌」を見ていたら、
また少し違う伝承が出ていました。
神功皇后が新羅を討征する時、船の中で大己貴命、素盞鳴尊、事代主命の三神に将軍の治要を祈られ、異賊を討ち平らげ、肥前国杵島郡高橋の津に上陸した時、素盞鳴尊などの神助により、山の中に薬湯を見つけ、軍兵の創傷を治療し疲れを癒したので、皇后は「あな嬉しや」と言ったので、ここを嬉野村(うれしの)と呼んだ。

皇后は凱旋の途中、三神の垂迹の地を定めようと白鷺が降りた所で祈ろうと放つと、下座郡の大沼の竹が生えた所に鷺が宿ったので、皇后は摂政として治世した時にここに宮を作った。

(治要とは国を治める最も大切な事柄という意味。)
「嬉野(うれしの)」といえば「嬉野温泉」で有名ですが、その始まりは帰国後の
兵たちの傷を治すために出雲の三神の神託で温泉を見つけたという事なんですね。
(意外な所から意外な語源が出て来ました。地元ではどう伝えているのでしょうか。)
ここでは出雲の神々は病を治す神としての働きでした。

で?
神社に書かれていた由緒は羽白熊鷲攻略とは関係ありませんでしたね。
ここにはもう一つ伝承がありました。
それは美奈宜(みなぎ)という言葉に込められた伝承でした。 (つづく)

地図 美奈宜神社









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by lunabura | 2011-11-16 22:10 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Trackback | Comments(2)

美奈宜神社(林田)(2)一夜で蜷が城を作った・羽白熊鷲を挟み打ちか?


美奈宜神社(林田)(2)
一夜で蜷が城を作ったという伝説
羽白熊鷲の拠点を挟み打ちにした?


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もう一つの伝承です。
蜷城(ひなしろ)の名の由来
昔むかし(約1800年前)古処(こしょ)の山から見下ろした里には筑後川が流れ、よく土地の肥えた豊かな村がありました。

 しかし、古処の山には羽白熊鷲という悪者が住んでいました。時どき山をおりてきて、村人を苦しめました。村人は本当に困りました。
 神功皇后が九州におみえになったとき悪者退治をお願いしました。

 皇后さまは神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷にたのんで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにして滅ぼしなさい。」とお告げになりました。
c0222861_23353762.jpg
 
 皇后様は川蜷を呼んでたのみました。一晩のうちに立派な城ができました。羽白熊鷲がせめてきましたが、水攻めにあい、滅ぼされていましました。
 
 このあと、村は静かな平和な村となりました。神功皇后様は神様をお祭りするお社を建てようと思われ、一羽の白鷺をお放ちになりました。「白鷺の降りた所にお社を建てたいと思います。どうぞその場所をお示しください。」と申されました。

 白鷺は空に舞いあがり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞おりました。

 皇后様はそこを白鷺塚と命名されその近くに神様を祭るお社と建てられて、美奈宜神社(蜷城(みなぎ)=美奈宜)と呼ばれました。また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼びました。ニナシロがだんだんなまってヒナシロとなりました。

蜷城の守り神として美奈宜神社は今もみんなを見守って下さっているのです。
(宗像大社、美奈宜神社の縁起より記す)
平成13年1月1日 蜷城地区振興会 (一部改変)

c0222861_23352122.jpgこの伝説では「川蜷(かわにな)と干珠満珠」が大活躍です。
羽白熊鷲との戦いの戦術として、これらの伝説的な要素から骨子を抜き出すと、
   一夜で城が作られた。
   水を利用した戦術が立てられた。
という事になります。

そこで、るな的に考えた。
神功皇后の本隊は大己貴神社辺りにいるのですが、川を遡るために
敵の目をそらしたのではないかと、前に書きました。

そして、この美奈宜神社の伝説から推測したのは
ここに水軍たちが夜中に集結して、一晩で陣営を築いたのではないか
という事です。

夜明けとともに平野部に突如現れた陣営。
「まさか。佐田川の河口に?」熊鷲はそう思った事でしょう。

小石原川から敵が攻めてくる事を前提に戦術を練っていた羽白熊鷲は
佐田川への対応を迫られて急いで軍を二手に分けた。
そして精鋭隊に敵陣を攻撃させた。

この時水攻めがあったとすると、
水軍は川の水を堰き止めて敵の通れる道をわざと作り、
敵が攻めて来た所で堰を切って川の水を流した。
そんな戦術を考えて見ました。

皇后軍は挟み打ちにする作戦だった。
こうして、野鳥(のとり)あたりの熊鷲の陣営が佐田川の敵に対応する隙を狙って、
本隊は一気に小石原川から攻め込んだ。

ま、るなの想像しうる素人戦術ですが…。次回は皇后軍の本隊に戻りましょう。

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by lunabura | 2011-11-15 23:39 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Trackback | Comments(2)

美奈宜神社(寺内)神功皇后は神々に戦勝を奉告した


美奈宜神社(寺内)
みなぎじんじゃ
福岡県朝倉市荷原2421
神功皇后は神々に戦勝報告をした

羽白熊鷲との戦いの後、次に神功皇后の伝承が出てくるのは
熊鷲の塚から約一キロ下った美奈宜神社です。

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佐田川にかかる橋を渡ると一の鳥居です。

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これは橋からの眺め。
神功皇后がこの川を「みな清し」と言ったことから
「美奈宜」(みなぎ)と付いたと言います。

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砂利が敷き詰められた明るい参道の向こうは森の中。

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石段を上ると神門がありました。
かつては神官・僧侶が36人も仕えていたそうです。

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少しずつ森が深まって行きます。
山の中に池があって、ようやく神殿が見え始めました。

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拝殿です。ちょうど工事中でした。

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それで幸運にも御神体を象徴する御幣がすぐ目の前に置かれていていました。

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ここは山あいの宮なので、どれもこれもが苔むしていて美しいです。

この宮にも神功皇后の伝承がありました。
由緒書きを写します。
式内 美奈宜神社
祭神 天照皇大神 住吉大明神 春日大明神 
   相殿 神功皇后 武内宿禰 をあわせ祭る

由緒
第14代仲哀天皇は白髪山(しらがみやまー古処)を本城とする敵「羽白熊鷲」を討つため軍を進められていたが、途中病気で急逝、しかし神功皇后は喪を秘して武内宿禰らを従えて喰那尾(くいなお)山頂(ここから北西200m)の地で陣を敷き謀議の末、賊を討たれた。

これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。
後に仁徳天皇(神功皇后の孫)の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」という。

遷宮
1.大宝元年旧9月22日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡へ。
2.元弘3年(西暦1333年)大宮谷(ここから100m上)へ。
3.天正2年11月(西暦1574年)領主秋月種実の頃現在地へ。神領50町。神官・僧侶36人仕えていた。

社格 
貞観元年正月27日(西暦859年)「従五位上」という位を給う。これは「三代実録」の文中に見える。また延喜式10巻神名帳(西暦920年頃の書)に「筑前国下座郡美奈宜神社三座」名神大と記載あり。

祭礼
10月22日の「おくんち」には獅子、羽熊等お供約200人の御神幸行列が今なお行われている。

これまで羽白熊鷲攻撃のルートを辿ってきましたが、
この由緒書きでおさらいすると、
仲哀天皇は羽白熊鷲を攻撃しようと小郡市の御勢大霊石神社を本陣として
中つ海(筑後川)を挟んで羽白熊鷲に対峙し、
前哨地を視察する途中に熊鷲軍の矢に倒れました。

その死については病気説がありますが、実情は戦死で、
不名誉なために病気で急逝という事になったのではないかと考えるようになりました。

その後神功皇后は小山田斎宮で祟った神を明らかにして、教えのままに祭事を済ませ、
仲哀軍を率いて陸路を進軍して本拠地の秋月野鳥(のとり)を攻撃、
逃げる敵を追って喰那尾山頂を奪取。(喰那尾神社=美奈宜神社本宮)
そこに神籬(ひもろぎ)を作って神々に戦勝を祈りました。

その神々の名がこの美奈宜神社に書かれています。
天照皇大神 住吉大明神 春日大明神 の三神です。
この三神は小山田斎宮で神託を受けた神々だと伝えています。

参考として小山田斎宮の祭神を挙げると
天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
天照大御神と住吉三神が共通しています。

これまでの神功皇后の祭祀の仕方を見ていると、
いつくかのパターンがあるのが分かってきましたが、その一つとして、
「援助してくれた氏族」の神を祭祀するという事があります。

この山の中に神道の中核を成すような三神があるのは、
それらが「連合軍たる皇后軍を形成する氏族」の神々で、
それを祀る事で連合軍への感謝を皇后は示した結果だと考えています。
この祈りが武人たちの心を掴む事になったんだなとも。

興味があるのは、小山田斎宮の神々が仲哀天皇を殺した祟り神であって、
十分に祭祀したお蔭で守護の神となった点です。
祟り神は祭祀する事で味方に付けることができました。

そう思いつつ、実は何故、天照大御神が仲哀天皇に祟ったのか、
その謎を抱えて、ずっと歩いているのです。
まだ手掛かりを掴めていません。

遷宮について。
由緒を読むと神社はあちこちに遷宮しています。
元宮はどこだろう?
もう一つの美奈宜神社と関係はどうなっているのだろう?
そんな疑問を持っていました。
はじめはよく分からなかったのですが、現地に行き神社にお尋ねして見えて来ました。

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現在の美奈宜神社の300mほど上流の「池辺」で神功皇后は神籬を立て、神を招いて戦の勝利を奉告しました。のちに仁徳天皇の勅願で神社となりました。(本宮、元宮)
751年、「喰那尾」山頂に遷宮。(栗尾山)
1333年、山頂は暴風雨が多いために「大宮谷」に遷宮。(中宮)
1574年、中宮は境内が狭くて陰気なため現在地「荷原」に遷宮。

という事です。

それでは、二つの美奈宜神社の関係は?
同じ朝倉に二つの美奈宜神社がある事について、結論を言えば、
二つの美奈宜神社は全く関係なく、名前が同じなのは偶然だそうです。

荷原(寺内)の美奈宜神社は皇后が「みなきよし」と言った事から付き、
林田の美奈宜神社は「になしろ」(を作った)から付いた名だとか。
祭神もそれぞれ違っていました。

これですっきりしました。
林田の美奈宜神社については既に詳述しているのでサイドバーからどうぞ。

それでは次の伝承地に行って見ましょう。

地図 美奈宜神社




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by lunabura | 2011-11-14 15:22 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Trackback | Comments(5)

阿弥陀が峯と埴安神社・二上山が見える久光・三輪・奈良


阿弥陀が峯と埴安神社
福岡県朝倉郡筑前町久光
二上山が見えるここは久光・三輪・奈良
 

栗田遺跡から見える二上山。綺麗にV字になる所があるはず!

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都合良いことに東へと向かう道がありました。

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道は山に並行です。

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Vの間の山が見えなくなって来た。

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ここじゃない? 完璧。

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すると直角に離れて行く道がありました。この先に観測点があるかも?
写真の道を手前の方に走ると集落があって、鳥居が!

c0222861_21211341.jpg

埴安神社だ。土の神様だ…。光と関係ないんだ…。ちょっと期待外れ。

c0222861_21213632.jpg

でも場所はどんぴしゃりなんだけど。

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ムラの鎮守の神様です。

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摂社があって菱形の御神体石が祭られていました。

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社殿の裏に廻ると、さきほどの二上山がよく見えました。
しかも、さらに奥にVが重なってる。これで条件は揃った。
やっぱり祭祀点だろうか。

二上山の名前は分からないのですが、そこは「阿弥陀が峯」という地名でした。
「阿弥陀」ならサンスクリット語で「光」。仏教が入って来ての名なら死者の山か…。
今立っている地名は「久光」(ひさみつ)。

太陽は谷から昇るかな…、と地図を広げようとして嫌な感。
私たちは東に向って走った。という事は「阿弥陀が峯」は北?(焦)

あ“~。やっぱり。V字の谷から太陽は昇らない~。
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(黄色の破線は皇后軍の推定進軍ルート)

と言う事で、るなの推論は見事にハズレ。

でも、この横の地名は何だ。三輪、奈良、大己貴神社と並んでる。
まるでここは奈良県?と勘違いしそうな地名がずらり。
近畿と福岡の地名の並びが似ている事は有名だけど、ここは原郷。
奈良の原風景を見ているのだろうか。

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結局、ここ「久光」は太陽祭祀線がない所でしたが、
この埴安神社は、栗田遺跡で出土した赤い磨研土器や
仙道古墳のあの面白い埴輪なんかを作った人たちが奉斎した神社なんでしょうね。







さて、神功皇后軍の話に戻りましょう。
地図を見ると、皇軍はこれまでは羽白熊鷲に対して山影を移動していましたが、
ついに敵陣から流れて来る川を遡らなくてはならない所に出て来ました。
敵に姿をさらす事になります。
これで敵前逃亡者が出てしまい、「これは大己貴の神の祟りだろう」と言う事で、
皇后は大己貴神社で祭祀をしています。

そして、この敵の目をそらすために、ある作戦が別動隊で実行されていました。
それは美奈宜神社(みなぎ)で起こっていました。 
次回はその神社に行ってみましょう。








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by lunabura | 2011-11-10 21:28 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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