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タグ:朝倉市・朝倉郡 ( 51 ) タグの人気記事

栗田遺跡・朱の祭祀土器のクニは熊鷲と対立していた?・邪馬台国朝倉説はここ


栗田遺跡
くりたいせき
福岡県筑前町栗田
朱の祭祀土器のクニは熊鷲と対立していた?
邪馬台国朝倉説はここ
 

松峡神社の参道からまっすぐ。農道を下って行くと看板がなにげに。おおっ。ここは遺跡だ。

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栗田遺跡(経田地区)
所在地 朝倉郡筑前町大字栗田字経田(きょうで)  (旧三輪町)

この遺跡は、昭和初期にすでに合わせ甕棺(かめかん)や赤色に彩られた高杯(たかづき)・壷(つぼ)類が出土することで知られており、昭和48(1973)年の調査で甕棺72基、祭祀(さいし)遺構8か所の遺構が検出されました。

特に祭祀土器は高杯や壺のほか椀(わん)・甕・大形筒形器台などがあり、精製された胎土で赤色に塗られ、表面の内外をていねいに磨いた丹塗磨研(にぬりまけん)土器が多量に出土し、墓地に伴う祭祀遺跡として有名です。

 これらの出土遺物は、平成6年28日に国の重要文化財の指定を受けました。
         平成12年3月31日   筑前町(旧三輪町)教育委員会

(胎土とは材料の粘土の事。)
おおお。こんな所で会えた。ここは栗田遺跡だ!
甕棺72基と祭祀遺構が八か所とは多いな。

看板にある写真は退色していますが、この遺跡の特徴は真赤な土器なのです。
甘木歴史資料館や小郡国立歴史資料館に行くと、並んだ土器の中でも
一際美しく朱色が輝き、その高杯の高さに目を引かれます。
その赤い土器の出土現場にたまたま出くわしたんだ。
国指定が平成6年とは意外に遅かったんですね。

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(甘木歴史資料館だより41号より)
これは弥生時代の中期だそうです。すると、神功皇后のちょっと前だ。

これについての出土状況の資料があったので、一部を書き換えながらまとめてみます。
すでに畑や水田となっているが、当遺跡は水田面より1.5mほど高い洪積台地上にある。この台地の南の部分が弥生時代の遺跡帯である。

この栗田遺跡は旧栗田小学校の敷地内にあって、今は水田となっているが、この東にはまだ台地が残っていて、同種の遺跡が多く残っているものとみられる。

高杯は全面をベンガラ染めにし、その口縁の平たく広い部分に櫛歯文を間隔を置いて描き、光沢を施している。磨研にはヘラを使っている。

昭和26年に畑地水田化の工事が進められたが、この時もすでに土取りの途中で既に遺物は排土中に投げ出されていたため、出土状況は分からない。しかし、10数基の須玖式の甕棺と共に大型丹塗磨研された器台が出土していた。
(『埋もれていた朝倉文化』朝倉高校史学部出版)

ここに立つと水田なので、土地が低いかと思ったのですが、
もともとは高台で弥生の墓地だったんですね。標高は40m~80mです。
遺跡の上に小学校が建って、畑になって、それから水田に変える時に、どんどん出土したんだ。
昭和26年は戦後間もないから、食糧作りが優先されて、
土器ががんがん出て来てもそこらに放置されたんですね。

それにしてもこの高杯は82センチ。フォルムの美しさといい、
朱色の光輝くようすといい、ほかに見られない美意識の高さです。
甕棺は須玖式というなら、那国とどう関係があるんだろ。
もうちょっと土器を真剣に勉強しながら見ておけばよかった…。
(こんな後悔の日が来るのは予想していたけどね…。)

そして辺りを見まわすと、もう一つ看板がある!
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行ってみるとちょうど稲刈りが一枚終わったところでした。
栗田遺跡(旭ノ下・ひのした地区) 所在地 朝倉郡筑前町栗田字旭ノ下

東に旭ノ下川が南流し、南西300mに多量の祭祀土器を出土し、国指定を受けた栗田遺跡経田地区があります。

昭和49(1974)の調査で弥生時代前期後半から中期の住居跡3軒と袋状貯蔵穴2基、
土壙(どこう)7基、溝跡一条、後期の住居跡1軒、終末期から古墳時代初頭の大溝一条が発掘されました。

またこの遺跡からは「石製把頭飾(はとうしょく)」という有柄(ゆうへい)銅剣の石製模造品が出土しています。
平成20年3月  筑前町教育委員会

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これが石製把頭飾です。弥生時代から古墳時代までの住居があったんですね。
この地域の人たちがここを住居や墓地とするなら、神は山の方。
そう。松峡神社を祀った人たちのはずですね!

しかも羽白熊鷲が太宰府まで遠征するならここを通るはず。
こんな美しい暮らしをしている人たちから略奪するのも無理ないなあ。

という事で、栗田遺跡の人たちは羽白熊鷲と対立して、
神功皇后軍を聖地の松峡神社に迎えた人たちだと思いました。

邪馬台国が朝倉にあるという人たちはここを邪馬台国と推定しています。
その場合の卑弥呼の墓と噂されているのがこれ。

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それでなくても、気になる塚です。

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ここに立って驚いたのは、みやま市の田油津姫との戦いの現場とどこか
雰囲気が似ている事でした。東の山との距離感です。
このクニの特徴は目の前に二神山がある事です。

太陽祭祀があったにちがいない。地名も「旭ノ下、久光」などがある。
ここからは神の山ー大己貴神社の御神体山が見えていました。
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その山の右の方を見ると、あれは仙道古墳の前の森だ。大己貴神社がその向こう。
皇后軍はこの山裾を通って大己貴神社まで進軍しました。

ここは巨大な祭祀遺構の只中だ。まずは観測ポイントをさがそう。
必ずそこに神社か石がある。探しに行こう。(^ ^)/

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地図 粟田遺跡

参考
栗田遺跡を詳しく知りたい方のために文化庁データベースから。
弥生時代の墳墓から出土した赤色塗彩磨研土器の一括で、壺形二十七箇、甕形六箇、鉢形二箇、高坏形十箇、器台形三箇、蓋形一箇で構成される。

 栗田遺跡は福岡県朝倉郡三輪町、朝倉山塊の南麓に形成された扇状地に立地し、圃場整備事業に先立つ昭和四十八年度の調査以来、昭和四十九年度、六十年度と三次にわたる発掘調査が実施された。

 本件は、そのうちのB区と称された四〇〇平方メートルの範囲で検出された、弥生時代中期から後期の甕棺墓・土壙墓群と、この墓地を区画すると考えられる溝から出土した一括である。土器は「丹塗磨研土器【にぬりまけんどき】」と称されるものが大半を占め、それに磨研土器が伴っている。これらは、甕棺埋葬に伴う墓前祭祀に用いられたものと考えられる。なかでも器台形土器は、高さ八二センチを測り、大型でその遺存状態もよい。

 丹塗磨研土器を祭祀に用いるのは、主に佐賀県や福岡県中南部など、北部九州を中心にした地域であるが、住居跡内から出土する例もあり、墓域以外でも日常の祭祀に用いられることがあった。
 本件の一括は、弥生時代最盛期の基本的な組み合わせである高坏、壺、甕、器台が質量共に豊富に揃い、弥生時代の葬制を具体的に示す恰好の資料として価値が高い。






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by lunabura | 2011-11-06 13:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

松峡八幡宮・目配山で神功皇后は熊襲攻撃の作戦を立てた


松峡八幡宮
まつおはちまんぐう
福岡県朝倉郡筑前町栗田
目配山で神功皇后は熊襲攻撃の作戦を立てた

前回の砥上神社から約3キロほど東南に松峡八幡宮はあります。

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農道からまっすぐ。白い鳥居が見えました。この岬のような丘の上に神社があります。

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いかにも古社の雰囲気が漂っています。

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上りは急ですぞ。いつの間にかへいちゃらになりました。

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境内は思ったよりも広く、拝殿も一段高い所に建てられています。

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周りに人家があまりないのに、拝殿がとても豪奢で驚きました。

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天徳4年(960)年8月に左大臣藤原重直(しげなお)が社(やしろ)を建立し、
佐々木左近重綱と横山左衛門重貞の両名が宮司に任命され、
神領(じんりょう)として500町をもらった記録があります。

と案内板に書いてありました。平安時代の建物!そのままでしょうか。
左大臣が建立するほどですから、
八幡信仰への崇敬の厚さは並々ならぬものがあったのが分かります。

御祭神は
八幡大神 神功皇后 住吉大神
です。

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解放された拝殿です。


参拝を済ませて、振り返ると大きな楠があります。
「栗田八幡宮の大樟(おおくす)」 三輪町指定天然記念物
昭和53年2月25日  朝倉郡三輪町大字栗田字谷
この樟は根回り約12m、高さ約30mの大木で、樹齢千年を超えると思われる。この木の根元は空洞となり、そこに樫が自生している。
 また、この古木は江戸時代に記された貝原益軒の『筑前国続風土記』粟田八幡宮の条に「御社の前に楠の古木あり、その太さ5かかえあり」とあり、当時から大木として知られていたことがわかる。   筑前町教育委員会

貝原益軒がまさにここに立ったんだ。このブログではよくお目にかかります。(ペコリ)
この場所はかつて三輪町だったんですね。
こうして古い地名が書かれていると、歴史を尋ねるものには大助かりです。
今は砥上神社のあった夜須町と合併して筑前町です。

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その楠に近づくとこんな風です。洞の上には穴があいてます。

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今なお力強く生きています。

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この写真いっぱいに枝葉を茂らせてます。中央の狛犬の後の大木がそれです。

さて、神功皇后はここで何をしたのかな?
案内板から
また、本神社の祭神である神功皇后の伝承地であり、羽白熊鷲との戦いのために「松峡宮」を建て、戦に赴き、戦に勝利した皇后が「心安し」といったことにちなんでこの地方を夜須と呼ぶようになったと伝えられています。
平成21年3月 筑前町教育委員会

この辺りも夜須なんだ。
神功皇后は神社の裏手の山に登りました。
そこで地形を見渡して羽白熊鷲との戦いの作戦を立てたことから、
その山の名前を目配山(めくばりやま)というようになったそうです。
頂上には神功皇后の腰掛石が残っています。
また御手水滝や皇后がお化粧をしたというお化粧川などがあるそうですが、
それは分かりませんでした。

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急な石段を降りると筑後平野が広がっていました。
かつては「中つ海」と言っていました。
正面のずっと向こうに御勢大霊石神社(みせたいれいせき)があると思うと、
やっぱり海路での作戦は遠かったな…。
そして皇后もここに立った時、それを強く感じたんだろうなと思いました。

このあとの伝承地は大己貴神社(おおなむち)です。
すでに記事にしているので、サイドバーからどうぞ。

そして次回は少し寄り道をします。^^

地図 松峡八幡宮 目配山




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by lunabura | 2011-11-04 17:09 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(4)

砥上神社・とがみ・皇后軍はここで武器を研いだ


砥上神社(中津屋神社)
とがみじんじゃ
福岡県朝倉郡筑前町砥上
皇后軍はここで武器を研いだ
「やす」はここ
 

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広い平野の向こうに見える山々が美しくて、地図を見ると
神社が麓にあるので時間が出来た時に行ってみました。

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途中、神社の気配はするけど見つからなくて、道に居た人に尋ねると、
目の前だった…。
そして案内板を見て、オドロキ。ここもまた神功皇后の史跡でした。

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ここは砥上岳の登山口にもなっていました。

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暑い夏の日に訪れたのですが、山里のお宮は涼しくてとても心地よい空間でした。

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開放的な拝殿です。雨の日はこのまま雨が降り込むのですね。
そんな当たり前の事が現代に生きる自分の中から消えています。
お参りするために拝殿にあがりました。

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振り返った景色です。日本ってなんて美しいんだろう。

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境内にひときわ大きくそびえる御神木はイチイカシ。
由緒書きを読んでみます。(一部現代語に変更)
郷社 中津屋神社
御祭神 神功皇后 八幡大神 住吉大神
この逍遥でもう何度も登場した神々です。
八幡大神は皇后の御子の応神天皇ですね。
由緒
当社は夜須(やす)郡の祖社であって、宮所は古くから社伝に
「神功皇后が新羅を征討しようして、まず諸国の軍衆をこの地に召集され、
中宿(なかやど・屯営)とした事により「中つ屋」と呼ぶ。
ここに集まった軍衆に命じ、兵器を砥ぎ磨かせたので、砥上の地名を残した。

征討進発に当たり、軍議を催し、武神なる武甕槌神(たけみかづち)を勧請して
皇軍の武運を祈り、三韓平定が成功するように奏上されたと伝える。
現在、砥上嶽の山上に武宮(たけみや)があるのはこれである。(以下略)
由緒には「新羅を征討しようとして」と書いてありますが、
流れからは「新羅」でなく「熊襲」を討つのが正しいでしょう。

兵器を砥いで磨かせたというので、敵は目前です。
弥生時代の甕棺の骨に刺さっているのは石の武器だそうで、
ここも一般の兵士は石戈や石剣を磨いたのでしょう。

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境内の裏手に2本の木があって注連縄がかけてあります。

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その奥に砥上山の山頂にある「武宮」の遥拝所の石碑がありました。
左は道になっていて、砥上山の連山が見えました。

町の案内板の一部。
町名の「やす」は神功皇后がまつろわぬ在地の豪族・羽白熊鷲を滅ぼして
「わが心すなわち安し」と語ったことに由来する。平成7年3月
と書いてあります。「夜須町」は平成の合併で「筑前町」に変わっています。
これに該当する日本書紀の部分は
3月20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼした。
側近に「熊襲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言った。
それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになった。
「ソソキ野」と「安」はここになります。
ここもまた歴史のある地名が消えました。

上の文をじっくりと読むと、「羽白熊鷲」を「熊襲」と呼んでますね。
ここではいわゆる熊本や鹿児島の熊襲ではないのが分かります。

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それにしても山際のお宮は本当に気持ちがいいです。
戦いの前の武人たちの緊張した記憶なんか遥かかなたに掻き消えていました。

地図 砥上神社







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by lunabura | 2011-10-31 13:46 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(4)

仙道古墳(1)装飾古墳を守る、盾を持ったユニークな埴輪がいたよ sanpo


仙道古墳(1)
福岡県朝倉郡筑前町久光仙道
装飾古墳を守る、
盾を持ったユニークな埴輪がいたよ


さて、再び旧三輪町に戻って来ました。
前に紹介した大己貴神社から直線距離で約1.5キロ。
田んぼの向こうに丸い古墳が…。こりゃあ、行ってみなきゃ。
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すぐ後ろは神奈備山だ!大己貴神社の「神体山」とそっくりです。
山との位置関係なども同じような印象です。

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仙道古墳です。国の史跡なんですね。

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墳丘が二段になっていて、円筒埴輪がずらりと並んでいます。
こんな風に埴輪が復元された古墳を福岡で見るのは初めてです。
入口が整備されています。今日は案内板を道しるべに見て行きましょう。

国史跡 仙道古墳
所在地 福岡県朝倉郡筑前町久光字仙道111の2
指定年月日 昭和53年5月6日
この古墳は、6世紀(古墳時代後期)の赤色や緑色の彩色で、円文・同心円文・三角形文などの装飾が描かれている複室の横穴式石室です。

装飾古墳なんですね!
6世紀って、このまえ紹介した竹原古墳王塚古墳と同じ時代だよ!
それらとは、かなり離れていますが、壁画があるなら見比べたいですね!

墳丘は葺石(ふきいし)を持つ2段築成の円墳で、墳丘の周囲には二重の周溝を持ち、また、墳丘を囲むように埴輪が立てられ、入り口部分に盾持ちの武人埴輪などの形象埴輪が立てられていました。

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これがその楯を持った埴輪です。盾と一体化しています。
本物は甘木歴史資料館にあります。
サイズは現物より大きいと聞きました。

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レプリカとはいえ、現物の印象そっくりに再現されています。
そう、こんな顔だったんです。
帽子(冠)がギザギザなのが特徴的です。
この帽子を見る限りは、竹原古墳の武人とは別の文化のようです…。

昭和52年の調査当時は、墳丘が部分的に削り取られ、高さ4mを残すのみでした。

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これが発掘当時の写真です。確かに、墳丘の上の方が無くなってる。
手前には埴輪の破片が沢山見えています。

しかし、2重の周溝を持つ径45mの大型の円墳であり、石室は南西に開口する横穴式石室で、基底部の石材と片袖を残して全て抜き取られていましたが、石室の規模は、現存で全長7m、高さ2m、幅2.4から3mを測りました。床面には、奥壁と平行して石障石が立てられ扁平石・小円礫が敷かれていました。

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これが石室の状況です。高さが2mもあるなら、立って歩けます。
立派な奥壁が印象的です。中程にある石が袖石というんだ。
それにしても天井石などを抜き取るなんて、なんという盗掘者。
このあたりは造園業が盛んなので、まさか庭石に化けてる?

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公園の隅に「石室の石材」と書いてありました。
これは、持ち出す途中で廃棄したという意味でしょうか?
それにしても、この雰囲気の石は高良山でよく見かけるような印象です。

装飾文様は現存する石室全面にわたって施され、赤色・緑色で円文・同心円文・三角形文等が確認されました。
出土遺物は、石室からガラス小玉多数、管玉8点、ナツメ玉3点、青銅製釧(くしろ)1点
墳丘から須恵器少量と、墳丘及び周溝から円筒埴輪、朝顔型円筒埴輪、柵形円筒埴輪・馬・人物・家等の形象埴輪が出土し、石室背面の周溝から円筒埴輪が多量に出土しました。この出土により墳丘の周囲に埴輪が立てられていたことが分かりました。

それでも、残された石に装飾文様が残ってた!
なんと有り難い事でしょう。出土遺物は青銅のブレスレットが特徴かな。
ネットを検索すると、ここから出土したらしい青銅製の鈴が見られました。
家形埴輪は是非見たいものです。(歴史資料館に行ったけど記憶がない…)

調査の成果に基づき、墳丘の形状を築造当時の姿に復元し、埴輪も当時のように並べ、古墳の往時の姿がうかがえるようにしました。石室についてもあずまやに復元模型を設置して本来の姿が理解できるようにしています。
筑前町教育委員会 TEL0946-42-6621


この公園の端っこに原寸大のレプリカが作られていましたよ!
行ってみましょう。
(つづく)

地図 仙道古墳 大己貴神社 恵蘇神社


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by lunabura | 2011-01-03 12:26 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

仙道古墳(2)壁画は〇と◎と△と▲でした

仙道古墳(2)

壁画は〇と◎と△と▲でした。

この仙道古墳の周囲は公園になっていて、奥の方にあずまやがありました。
あずまやと言っても、石室の実物大のレプリカが!
テラスのようになっていて、いつでも見られるようになっています。
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まずは長い羨道に興奮。かなり奥行きがあります。
7m。堂々たるものです。

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石室のようすです。
分かりやすいようにくっきりとペイントしてあります。
左手前の袖石に二重円があります。
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石室の中に入って、袖石の裏側を撮りました。
二重円が二つ。三角形は赤と白がくっついています。
長靴のような多角形があって斜めになっています。
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左から反時計回りに見て行きます。これは左の壁です。
緑の文様が出て来ました。バチの形です。
赤と白の三角形は離れて一列になりました。そして、丸が出て来ました。
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正面の奥壁です。
大きな二重円が頂上にあって、いろんな円が不規則に浮遊するかのようです。
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右側の壁です。二重丸が六つ整列しています。
長靴型多角形が再び出て来ましたが反転しています。
そして三角と丸がふわふわと。
う~っ。何だろ。何が描かれているのだろう。
(この浮遊感はまるでシャガールのよう。)
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これは現地の説明板です。全体のようすがよく分かります。
白い部分だけが現存している岩です。
足もとに残った石にも赤い三角形が描かれています。
その中の一番左の三角の中に緑が塗られています。
緑は合わせて二か所だけでした。

この謎を解くのはちと無理だから、文様についての説を紹介しましょう。

二重円文=「的氏」説
二重円文は「的」を表して、「的氏」(いくは・生葉・うきは・浮羽)を
指しているのではないかという説があります。
二重円文はいろんな古墳にも描かれています。
その中に線刻された「二重丸」の上下に「線」(棒)が描かれている例があり、
立てた「的」を示しているという説です。
この古墳は筑後川流域にあって、川の向こうは「ウキハ」郡です。
自分の所属や出身を紋章で表す可能性は高く、
残りの丸や三角も氏族を指す可能性がないか、思案中です。

「三角文」とユダヤ・ヒッタイト・アリアン人  
眞鍋氏が「三角形」について語っているのでそれを紹介します。

中東の古代の生命の再生復活、或いは発祥誕生を祈念する図形にダビデ(全1010~971)の紋章がある。不思議なことに陸奥閉伊(へい)には希伯来(ヘブライ)民族の墓石が今も現存している。

中東のヒッタイトの遺跡は正三角形の模様が壁画に執拗なまでに一面に大小限りなく書き散らされている。残された遺族の悲嘆と追慕の心を察するに余りなる壁画である。

ダビデの紋章はこの正三角形を二つ上下に重ねて正三角形の頂点を出したかたちであり、雪華の結晶の図柄でもある。

正三角形の由来を厳粛かつ端然と理解して敢えてはばかる事のない民族はアリアン人である。正三角形の上の水平な一辺は恥骨であり、下の頂点は尾骶骨の象徴であって、人間の股間即ち生殖器を示す。

三角形を逆向きに重ね合わせることは、蘇生を願う印象であった。
これをまとめると、


1.ダビデの星 ✡のように重ねわせた紋章には再生復活、発祥誕生の意味が込められている。
2.ヒッタイト は▲ ▼を一面に限りなく描く。
3.アリアン人にとって ▼の上辺は恥骨、下の頂点は尾骶骨 生殖器。
4.▲と▼を重ね合わせるのは、蘇生を願う。

1.ダビデの星は言うまでもなくユダヤの紋章ですが、日本でも籠神社や伊勢神宮に見られて騒がれた事が あります。今ではどちらも消されています。
2.ヒッタイトの壁画が一面に描かれるのは初めて聞きました。当然ながら、王塚古墳田代太田古墳(佐賀)を思い出させます。


この仙道古墳の三角形が何を表すのかまだ分からないのですが、
ただ、王塚古墳と見比べてみて、同じ使い方をしているのが一か所だけありました。
それは遺体の床の区切りの所(屍床)です。同じように三角文が並べられています。

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王塚古墳  
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仙道古墳
両者の屍床の三角形についてはルーツを遠く辿っていけば
同じ思想を共有していた時代があるかもしれないなと思いました。
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竹原古墳の三角文は縦になっていて、旗ではないかと思いました。
前の二つとは使い方が違います。
三角形はあまりにも普遍的な形なので、もっと用例を見る必要があります。

盾持ちの埴輪は甘木歴史資料館に展示してあります。
資料館には付近の考古学的遺跡を網羅した地図がありました。力作です。
これを手に入れてから、逍遥すると2倍、楽しめますよ。

ブログ内 装飾古墳巡り
王塚古墳 福岡県嘉穂郡桂川町寿命
(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ
(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男

竹原古墳 福岡県宮若市竹原
(1)この優美な装飾壁画は通年公開!
(2)日本の古墳に火を噴くドラゴンが何故描かれている?

★大国主の命の現代語訳を始めました。また、長くなりそう…。




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by lunabura | 2011-01-02 15:37 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(8)

大己貴神社(1)(旧三輪町)

大己貴神社(1)
おおなむちじんじゃ
福岡県朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷(旧三輪町)
旧三輪町の中心の宮

平成の大合併で、「三輪町」の名前が消えてる?
筑前町という名前に変わっているみたい…。
その旧三輪町に「大己貴神社」という、まるでイヅモかヤマトのような
名前の神社を見つけて、出掛けたのはずいぶん昔の事です。
冬になると何故か出雲に行きたくなる。
だから、今日はその名もゆかしい大己貴神社へ行こう。

さて、地図を広げていると、あれっ、この前行った小郡市の飛鳥と、
この旧三輪町はお隣さんなんだ。直線距離で8キロ。歩いて二時間か…。
この三輪町あたりの地名畿内の地名に関係があるのは、ずっと前から
言われていたけど、いつのまにか大学の先生によって証明されていた。
これは心強い。そういう点ではここはプロト大和。この神社はその惣社です。

福岡と日田をつなぐ県道386号線の、「久光橋」から小京都の秋月めざせば、
大己貴神社」の大きな看板があるから、すぐに分かります。
道路を隔てた所に「歴史の里公園」が出来ていて、ゆっくりと車が止められます。
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一の鳥居の左に大きな岩が。「幸神」と彫ってあります。
参道には古い石碑がいくつも並んで、歴史をしのばせます。
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石の太鼓橋が。結構これって急斜面なんですよね。
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石段を登ると、拝殿に出ました。
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朱塗りの華やかな拝殿です。
幕末から明治にかけての建造だそうです。

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扁額は「大神宮」となっています。大和の「大神神社―おおみわじんじゃ」と同じ字ですね!
そして、ここは大己貴神社。(おおなむち)やはり出雲と大和と合わせもつような名前です。
地元では「おおがさま」「おんがさま」と言うそうです。
奥に見える神殿には三面の鏡があります。これも珍しい。
今日、再びここに来れたことを感謝して、参拝。

拝殿脇の由緒書きを読みましょう。(現代語に変えました。)
大神大明神(弥永村にあり)
延喜式神名帳に、夜須郡於保奈牟智神社が一座あるというのはここの事です。祭る神は大己貴命です。今は大神(おおが)大明神と言います。社は南向きです。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合祀しています。宮どころは神さびて境地は特に勝れています。

日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。

9月23日は旧暦のため、現在の(  )に祭礼があります。この日、神輿の御幸があります。御旅所は村の西十町ばかりの所にさやのもとという所です。その他、年中の祭礼がたびたびあったと言いますが、今はそんな儀式も絶え果てました。しかし夜須郡の惣社なので、その敷地は広く氏子も特に多いです。人々は大変崇敬していると書いてあります。     略    三輪町教育委員会

この文章は貝原益軒の「筑前国続風土記」から書き抜いてありました。
益軒の本にはさらに、異伝が書いてあったので紹介します。
『釋日本紀』に「筑前国風土記」からの引用文があって、
神功皇后が新羅を討とうとして軍士を整理し、発行した時、道中、軍士共が逃げ出しました。その理由を占った時、祟る神がいるのが分かりました。名を大三輪の神と言いました。そこでこの神社を建てて、ついに新羅を平定しました。その神社がこれです。

貝原益軒は、軍が集まらなかったという説(日本書紀)と、
集まったけど逃げ出した(筑前国風土記)という二つの説を並行して書いています。
地元の三輪町教育委員会では、日本書紀説を採用していたのが分かりました。

この大神、大己貴を祀る神社は他にもあって、福岡市の東区にも「大神神社」があり、
隣は美和台(ミワダイ)で、同じような伝承を伝えています。
この先 、二つの神社を視野に入れながら、
それぞれの郷土史にアプローチ出来たらいいなと思っています。

この神社の何よりの特徴は遥拝所があって、御神体山がある事です。
では、境内の左奥にある遥拝所への道に行きましょう。
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参道は50メートルほどの長さです。最終地点には、お神酒を供えるための台があります。

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遥拝所から見える神奈備山です。
神社で名前を伺うと、「神体山」という名で、三輪山とは言わないそうです。

この山にかつて登った事があります。
大和の三輪山のように盤座がないかなと探しに行きました。
山腹は苗木が植林されていて、その間を抜けて、森の中に入って行きました。

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頂上付近に盤座らしきものが一つありました。(1996年撮影)
頂上全体は森になっていたと記憶しています。

ここは「御神体山と遥拝所と神社」という基本パターンが見られる点で、
また、畿内に移動していった地名の元の地であり、その中心の宮という点で、
大変興味深い神社です。

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by lunabura | 2010-12-28 15:20 | 大己貴神社・おおなむち・朝倉郡 | Trackback | Comments(2)

大己貴神社(2)大己貴の語源を考える。穴遅とゾロアスター教と錬金の工人


大己貴神社(2)

大己貴の語源を考える。
穴遅とゾロアスター教と錬金の工人

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『儺の国の星』にゾロアスター教穴遅について書いてあったので、
その一部を参考資料として紹介したいと思います。
本文を分かりやすく書き換えながら抜粋します。

火星を日本では「夏日星」という。

西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。青空と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。女人の衣装に赤と青の聖色を配した発祥がここにある。

やがてこの信仰は拝火教によって東方に移り、月氏の民族によって宮殿や霊廟の装いに変化した。華厳の寺院がこれであり、白鳳天平の時代にできた大和の寺院や仏塔となった。

拝火教はゾロアスター(前660~538)に始まり、マニ(215~277)によって再興された西域の信仰であって、青は草木、赤は火焔に対応されるようになった。

那珂川伏見宮の岩戸神楽、熊野那智の火祭りはこの伝統を今に伝えている。胡人、即ち紅毛赤蠻の氏族を那珂川では「すってん」と呼んでいた。「酒呑童子」を「すってんろうじ」と読む方言があった。西天、あるいは率土のなまりであったと思われるが、胡人が特に足が短くて馬に乗らず、よく道で転んでいたためと語られていた。
 火星が赤色なので、自然と毛唐華頂の容貌を連想させたものらしい。胡人はよく歌うというのが祖先の一致した見解だった。

拝火教は元来は砂漠の中に現れる自然発火や蜃気楼をみて、天地の安穏を祈る信仰だった。オアシスの蒸気が噴出して空中に彼方の部落を映し出す光景を砂上の楼閣と言うが、連れていたがそれを見て、天地の異変を感じとって吠えたてていた。

日本で神社の狛犬の石像が始まるのと、華厳の寺院が建てられるようになるのが同じ時代だという理由は、彼らの文化が入って来たためである。

大地の岩漿が沸騰し始めると、その上にある石油の地層は、激しい噴気を高熱高圧で砂漠の砂礫の間から地上にあふれさせる。これが日中の直射日光の熱によって引火されて、昼夜の区別なく燃え続ける。近東の民族はこれを聖火と拝して、天地の崩壊がないように大地にひれふして必死で祈った。

これが拝火教で、唐代には景教として、光仁帝(781年)に長安の都までおよんだ。大地の神の怒気が地上の人間の悪業を焼きつくす前兆がこの聖火だった。(これが閻魔となる。)

 日本では穴遅(あなむち)として神代に現れて、天平の頃には穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の工人の氏族の別名となった。炉の火口(ほくち)の色がまさに火星を遠くから見た色と同じであった。

 聖火は大地の神の憤激がおさまると消える。その期間は7日だった。これが一週間の発祥である。石油の湯気に劫火をつける天の神がMazda(マツダ)である。エジプトではラーであった。天と地が合わせて火を注ぐ時が、人間を永久に見放す時であった。
ゾロアスター教が日本に入って来たことは周知の通りですが、
このように具体的に砂漠の地層に含まれていた石油の自然発火を畏れて
祈るのが始まりだと書かれているのを見たのは初めてです。
かれらは犬を連れていて、それが狛犬のルーツになり、
同時に拝火の思想が寺院建築の背景にあったのが伺えます。
そして、日本では穴遅(大・己貴)と呼ばれ、
鉄を金を細工する工人の氏族名となったと言います。
とても具体的なので、イメージがよくつかめます。

この旧三輪町の大己貴神社に神功皇后たちが来たのは、
羽白熊鷲を討つためだと言われています。
この羽白たちもまた別の鉄の氏族だと思われます。
(その恐ろしさに兵士たちは逃げだした?)

羽白熊鷲たちの居所が各説あるのですが、
面白い事に、朝倉市の観光マップを新旧二枚戴いて比較していたら、
片方にだけ羽白熊鷲の石碑が掲載されていました。
マップを見たばかりでどうなっているのか分からないので、
また来年の宿題にしたいと思います。
みなさまの応援のお蔭で、ここまでやってこられました。
ありがとうございます。来年もよろしくお願いします。

※なお、この真鍋大覚氏の本について、発行元の那珂川町で
最近、購入したという人に会いました。
在庫があるのではないかと思われます
。(在庫終了)
歴史の真実を求める人にとって最後の贈り物だと思います。
多くの人がこの本を紐解かれる事を願っています。

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神殿の裏


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by lunabura | 2010-12-27 23:28 | 大己貴神社・おおなむち・朝倉郡 | Trackback | Comments(10)

恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)えそ・筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮


恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿
えそはちまんぐう・このまるでん
福岡県朝倉市山田151
筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した


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前回、斉明天皇の陵墓かと紙面を賑わした牽牛子塚古墳について書きましたが、
彼女が亡くなった場所は筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)だと
日本書紀に書いてあります。
この宮の場所についてはまだ特定されていませんが、
モガリをして、仮埋葬したと言われる宮は今も伝わっています。
今日はそこに行きましょう。

福岡から大分県方面に向かう386号線を、筑後川を右に見ながら行くと、
三連水車で有名な朝倉に出ます。
その先、大きく左にカーブする所に、この恵蘇八幡宮はあります。
楠の巨木があって、古い風情が残っているので、すぐに分かります。
鳥居は道路に面していて、石段を少し登れば境内です。
昔は筑後川から直接上がったのかもしれません。
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本殿は江戸時代に改築されました。
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お参りして天井を見上げると珍しい十二支の羅針盤がありました。

この恵蘇八幡宮のご祭神は斉明天皇・応神天皇・天智天皇です。

道路わきにあった由来を写します。
由緒によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばな)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使いの一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白旗が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。

宇佐八幡宮の主祭神といえば応神天皇です。
中大兄皇子によって応神天皇が祀られたという由緒です。
応神天皇は母君の神功皇后のお腹の中にいた時に、共に新羅に渡って、
戦わずして勝利を得たので、それにあやかりたいと言う事で勧請したのでしょう。
白旗が降りたというのは宇佐神宮の神威を得たという事で、
シンボリックな話になったと思われます。
しかし、軍事的に考えると、宇佐は古来、造船などの技術が確かな所なので、
その援助を依頼したのではないかと思いました。
難波でも軍備をしたようになっていますが、
玄界灘を渡って戦うとなると、海路に詳しい水軍無しには戦えません。
天上から白旗が降りたというのは、宇佐の協力を得た印ではないかと思いました。

さあ、こうして、戦の準備が着々となされたのですが、
母の斉明天皇がわずか二カ月で亡くなってしまいます。
その年齢が68歳。
天皇が亡くなったので、そのモガリは、おろそかに出来ません。

木の丸殿

さて、亡くなった斉明天皇の御遺体はこの神社の上の山に移されました。
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神社の右の方にもう一つ鳥居があるのがそれです。上って行きましょう。
石段がいくつも続いて小高い丘の頂にでます。
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この頂きはぐるりと石垣が囲まれていました。
この中に古墳が二基あるそうです。説明板がありました。

日本書紀によれば「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のために7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方2間(1.8m)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」(こうそうのち)
と刻されている。形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基としてみている。

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中には入れないのですが、目をこらすと、中央部にいくつかの石の柵が見えます。
そこに、斉明天皇の「藁葬(こうそう)の地」と書いてあるそうです。
藁(わら)の葬?
よく分からないのですが、かつて仲哀天皇が亡くなった時、
遺体はムシロで包んだという伝承を聞いた事があります。
ここも、戦争の陣営の事、遺体を包んだのは藁で編んだムシロだったのかも知れません。
ここで斉明天皇のモガリ(殯)が行われました。
遺体はどうしても腐敗の過程を通らなくてはいけません。
古代の人々は、その過程を大切にしていました。

中大兄皇子がモガリをする様子が伝わっていました。
皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって、7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べ御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、一日を一か月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

この御陵山については恵蘇神社にも由緒が書いてありました。
斉明帝藁葬地 (こうそうち) 御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。

木の丸殿遺跡(このまるでん)
天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山に木皮のついた丸木で忌み殿を建て、12日間喪に服されました。後世の人々が「木の丸殿」と呼びました。

天智天皇御製
秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)
朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)
具体的な部分は少しずつ差がありますが、
まさにこの地は斉明天皇の御遺体を一時的にモガリした場と言えます。
(つづく)


★ 教えてください ★
さて、この由緒を読むと、斉明天皇の御遺体はこのあと、
「奈良県高市郡越知岡村」に移されたと書いてあります。
この点について、奈良の方で、どうなっているのか、教えていただけませんか。
今、話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事なのでしょうか。
日本書紀では、飛鳥川原(行宮?)でモガリをされたように書いてあります。
その後、改めて埋葬されたと思われます。
土地勘がないので、どなたかこの恵蘇神社の伝承について、
奈良の方と照らし合わせて、分析して推理していただけたらと思います。

☆ 日本書紀の該当部分を現代語訳しました。
   筑紫の朝倉橘野宮で亡くなった斉明天皇・7世紀の東アジアの地図



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by lunabura | 2010-09-23 14:47 | 神社(エ) | Trackback | Comments(14)

恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。

恵蘇八幡宮(2)  

なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
「高市郡越知岡村」は
牽牛子塚か?車木ケンノウか?
 

前回、斉明天皇の筑紫でのモガリの宮である恵蘇八幡宮木の丸殿を紹介しましたが、
なんと、その縁起の中に斉明天皇の陵墓の場所がはっきりと書いてありました。
これが境内の中の説明板です。
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前回も書いたのですが、もう一度書き写します。
 斉明帝藁葬地 (こうそうち)御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。
あまりにさりげなく書いてあるので、この史料の重要さを見逃す所でした。

これが「恵蘇八幡宮縁記図解」です。
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(『温古』第41号(甘木歴史資料館)に掲載)
「恵蘇八幡宮縁起」によると、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にいたころ、中大兄皇子がこの地で戦勝を祈願したところ、八幡神の旗が舞い降りたと伝えられる。縁起書は福岡藩の学者である貝原益軒の書とされる。
と説明してあります。開いたページには貝原篤信の字が見えます。

そこで今日のテーマは
この縁起はどちらを指している?
斉明天皇陵は牽牛子塚古墳か車木ケンノウ古墳か?
 


牽牛子塚古墳は考古学者が推定している古墳で、
車木ケンノウ古墳は宮内庁が指定している古墳です。

 まず、地名を整理しておきましょう。
恵蘇八幡宮に書かれた所在地  奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越

この「奈良県高市郡越知岡村」について前回「その場所を教えてください。」と書いたら、
ブログ「徒然なるままに、、、」の管理人のじゅんじゅんさんから、
情報を頂きました。コメント欄ではもったいないので、ここに紹介します。
(ブログはサイドバーでリンクしています。)
「牽牛子塚古墳の現在の所在地は、奈良県高市郡明日香村大字越ですね。
ウイキペディアのよると、越智岡村は昭和20年までは地名として存在しし、高取町に属していたこともあるようです。以後何回かの市町村合併の後、昭和31年には、高市郡明日香村越となっています。地図を見ていただければ分かりますがと、高市郡と高取町は隣どうしです。話題になっている、牽牛子塚古墳がある所はその境界線あたりに位置しています。
恵蘇神社の由緒書って、スゴイ情報ですね!
話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事に間違いないと思います。」

すごい事になりました。
越知岡村は現在、高市郡明日香村越となっているそうです。
そうすると、恵蘇八幡宮に書かれている斉明天皇陵は牽牛子塚古墳になります。
地図 
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越


それでは、どうしてはるか離れた朝倉で斉明陵の所在地を知り得たのでしょうか。 

由緒書きを順に並べ直すとその理由が見えて来ました。
661年5月9日 斉明天皇は朝倉橘広庭の宮に到着する。
?月?日 中大兄皇子は恵蘇八幡宮の所在地に、宇佐神宮の祭神応神天皇を勧請して、
     朝倉山天降八幡宮とする。
7月24日 斉明天皇は病のために崩御。68歳。
8月1日  中大兄皇子は朝倉山天降八幡宮の山頂に、遺骸を移して、一時的に葬る。
     その中腹に木の丸殿を急いで立てて、12日間喪に服した。
     後、奈良県高市郡越知岡村へ移される。
673年?月?日 天武天皇の勅命により、斉明・天智天皇の二霊を合せて、三柱として、
        恵蘇八幡宮と改称する。

斉明天皇が筑紫に来た時は天武天皇も一緒でしたから、彼も母のモガリに立ち会ったはずです。
兄の天智天皇が亡くなってから、このモガリの宮を思い出したのでしょう。
ここに二人を合祀し、朝倉山天降八幡宮の名前も恵蘇八幡宮に改称しました。

どうして、具体的な地名が伝えられたのか? 
それは祝詞の奏上がヒントになります。
現代でも正式参拝すると、祝詞の中に自分の住所氏名が読み上げられます。
当時、神社の名前を変え、祭神を斉明天皇にするにあたって、
「斉明天皇は越智岡村に埋葬されました」と、奏上されたのではないでしょうか。
こうして、この地に斉明天皇陵の所在地が具体的に残されたと思いました。

さて、ここまでがルナの推理です。
これを立証するには「恵蘇八幡宮縁起図解」の内容を検討する必要があります。
関係者の方々によって、詳細を調べていただけたら、この斉明天皇陵の所在地は確定すると思いました。

地図 恵蘇八幡宮と木の丸殿





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by lunabura | 2010-09-22 15:30 | 神社(エ) | Trackback | Comments(17)

恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない


恵蘇八幡宮(3)

越知岡村はどこ?
一筋縄では行かない地名の特定
明日香村の地名の変遷が分からない


前回、越智岡村という地名が特定できれば、牽牛子塚古墳
斉明天皇の陵墓になるという仮説を出しましたが、
明日香村と高取村の境にあるというこの古墳の地名が100パーセント
昔の越知岡村かと言うと、かなりの研究を要する事が分かりました。

問題点が絞られて来たと思うのですが、ウィキペディアでは
越知岡村が途中で高取村に合併されているようになっています。
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この表は私がウィキペディアを改編したものです。
この古墳の所在地を書き入れてみました。
謎があります。
1、まずこの表が正しいのかどうか。越知岡村は全域高取町になったのか。
   一部明日香村になっていないか。
2、牽牛子塚古墳の所在地「越」は越知岡村なのか。
3、車木けんのう古墳の近くにも「越智」があるので、越知岡村ではないか。
この三つが明らかになると、斉明天皇陵がどっちかが見えてくる。
あと一息です。

今日、初めてブログを訪問して下さった方のためにこれまでの経緯を書くと、
斉明天皇は福岡県で亡くなって、その後、
朝倉市の恵蘇八幡宮の御陵山でモガリをされました。
その事については江戸時代に書かれた縁起に書いてあります。
そして、その縁起に、斉明天皇の御遺体はそののち奈良県高市郡越知岡村
移されたと書いてあるのが分かりました。
そこで、そこの越知岡村がどこにあるのかが分かれば、
斉明天皇の陵墓が特定できるかもしれないと言う事で、
土地勘のある方に情報提供を呼び掛けています。

恵蘇八幡宮に書かれた所在地 奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木 (宮内庁指定)
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越  (考古学者推定)

この表だけがその資料です。これはもちろん専門家の方が調査すればいい事ですが、
土地勘のある明日香ファンならこの謎が解けるのではないかと思っています。

前回は頂いたコメントを元に推理しました。
が、明日香村と高取町の町名の変遷が簡単には分からない事が明らかになりました。
地元の郷土史研究家で地名を詳しく調べている方にこの件を教えてほしいなあ。
福岡の方も、この「恵蘇八幡宮縁記図録」を調査するという次のステップが立ちはだかります。
何か新たな情報が入ったら続報を出します。
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境内の大楠です。樹高32m。胸高周囲9m。県の天然記念物です。




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by lunabura | 2010-09-21 14:10 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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