ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご101 物部神社2 板部城と中津隈城



ひめちゃご101

物部神社2 

板部城と中津隈城
 


さて、物部神社の西から聞こえてきた
「私たちはここにいます」という森について、
密かに筑後国造の調査を期待していたが、やはり調べてくれた♪

以下はそのコメントだ。

<物部神社の西の森は、板部城という中世の城跡で、古墳は無いようです。
しかし物部神社の西500mの宝満神社
(祭神は玉依姫命であり、息長足姫命、市杵島姫命、大山咋命も合祀されています)
の境内には、前方後円墳である中津隈宝満宮古墳や
他の古墳の石室の石材が露出しています。
また、三階松紋もあります。>

このように、西の森には板部城があることが分かった。

また、さらに西にある中津隈宝満神社にも三階松紋があるという。
「宝満神社と三階松」は珍しい組み合わせになる。

実は、これと前後して、地元に詳しい方が
その宝満神社の画像と掲示板の説明文を寄せてくれた。








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幡の上部に赤い三階松紋が見える。
この石垣が古墳の形状を残しているのだろうか。
ほかの古墳の石材もあるということで、
もともと複数の古墳が築造されていたようだ。

この宝満神社自体は732年に松本というところに勧請されたのが、
812年に現地に遷されたということだ。

すでに古墳があったので、神社を建てる時に一部の古墳が壊されたのだろう。

「城」の話を手掛かりに『北茂安町史』を調べてみた。
すると、ここにも中津隈城があったという。
そして、この中津隈宝満神社が城の核とされていた。

つまり、中津隈城の丘の歴史は、もともと古墳があり、
神社が建ち、城が建てられたことになる。

これと同様の歴史を辿ったのが物部神社と板部城のようだ。



町史によると、板部城の敷地に関しては、
西の森説と、物部神社を含んだ敷地説の二つに分かれるという。











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物部神社の境内には上のように古墳の奥壁が並んでいる。
城を建造するときに、奥壁だけ残されて祀られたような趣だ。

この古墳は物部神社敷地にあったものか、
あるいは西の森から移されたのではないか。














c0222861_2161646.jpg

この場所について、チェリーが新たに作成してくれていた
現地周囲の地図があるので、見てみよう。

物部神社の西に島が見える。(「スーパー地形」の「形」の右側)
これが「中津隈西」といい、中津隈宝満神社が鎮座する所と思われる。

そして、物部神社の南に涙の形をした島(岬)が見える。
そこを「中津隈東」と呼ぶようだ。

「隈」は天文観測所の可能性がある。

「西」と「東」があるということは、中央があるということだ。
「西」と「東」に挟まれた岬には重要な施設があったのではないか。

地名と地形からそんなことを考えた。

なお、『風土記』には物部神社の北、綾部八幡宮の南の地点に
「郡役所」があったことが書かれている。
その場所が神社の形で残っていたら素晴らしいが。

そして、綾部~物部の舌状台地の東を流れる川が寒水川だ。
寒水川といえば、先日の朝倉の水害で氾濫した川と同じ名だ。

綾部~物部の東の寒水川も土砂崩れが起こって、僧が祈っている。
(九千部山の語源由来)
周囲は花崗岩質の風化土からなる丘陵地帯で、
綾部の民が故郷に戻らず居ついたのも納得できる。

さらに古くは阿蘇Ⅳの火砕流が及んだ所でもあるという。
これは9万年前の話だ。

三人の情報のおかげで、漠然としたまま素通りするところが、
地形と由緒をしっかりとみることができた。
三人に感謝。

<2017年10月30日>





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by lunabura | 2017-10-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)

資料完成^^



歴史講座の資料が出来上がりました。
来週の分です。
8ページにもなりました(^^;

最近は紙を節約する事より、
ページ配分をゆったりとして、見て楽に思える方を優先しているので、
ページ数がだんだん増えてます(;’∀’)
(空白が増えている^^)

二時間内にまとめるのに、また一工夫が必要なのです。

今回は物部氏や賀茂氏。
シンボルを理解していくと、随分昔から各地に展開していたのが
見えてきました。

どちらも冶金の民と言えますが、
物部氏は武器を造ってたのかな。
賀茂氏は農機具などがメインということでしたよね。

七支刀は鉄の刀です。
各地に出土するのは青銅器が多いですよね。
どの部族が作ったのかが分かると面白いんだろうなあ。







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by lunabura | 2017-08-21 21:29 | にっき | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご37 ヒメコソ三社参り



ひめちゃご37

ヒメコソ三社参り
 



今日はヒメコソ神を祀る三社に参拝した。
ウメとタケが同行してくれた。

エリアは小郡市から鳥栖市、みやき町にかけて。

特に鳥栖市とみやき町には同じ地名「姫方」があるが、
それは物部とイチキシマ姫祭祀によるものと考えられた。

二つの姫方を結ぶ夏至日の出冬至日没ラインを柱にして東から西へと回った。

この行程の計画をしているうちに、
朝日山がそのラインに乗っていることが分かったのだ。

今日は写真整理をしているが、なんと10か所も回っていた。


本日は備忘録として、リストを書いておきたい。

1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
6 千栗神社 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方

このうち、ヒメコソ神三社とは次の三社を指す。

1 媛社神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原

9時から3時ごろまで、ゆっくりと昼食を取ったので実質5時間の行程だった。
皆さんの参拝の参考までに。







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4 姫古曽神社にて







                     <2016年12月8日>



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by lunabura | 2016-12-08 23:16 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(3)

歴史カフェ 次回は「物部とヒメコソ神」



歴史カフェ 

次回は「物部とヒメコソ神」



今日の歴史カフェ、第一日目、ご参加ありがとうございました。

テーマは中大兄皇子(天智天皇)の
福岡での事績、水城や漏刻、指南車、観世音寺などでした。

中大兄皇子や斉明天皇の存在は福岡では語られることがなく、
記憶から消え去っている印象を受けます。

二人(に限らす大田皇女や額田も藤原鎌足も)が福岡に来たことを、
私たちは子供のころから教えられなかったので、
『日本書紀』の話が奈良や京都の話と思い込んでいたんですね。

新たな視点を得て読んでみると、
『日本書紀』は身近な歴史を伝えてくれているのがよく分かりました。

改竄や捏造も納得しながら読み込めば、
もっと故郷の歴史を導き出せることを確信しました。

「ひめちゃご」は中大兄皇子を通して見せられている部分もあり、
女神だけでなく、日本を守った人たちを知ることでもあるのだと
思うようになってきました。


百済が滅びて唐軍が占領し、
難民が筑紫に押し寄せるのを目の当たりにした中大兄皇子は、

続けて筑紫もまた唐軍に占領されることを恐れ、
筑紫の神々を守るために京都などに神々を遷したのではないか。

中大兄皇子の筑紫での祭祀を見ていると、そうも思われてくるのです。



「脇巫女」と「ひめちゃご」は同じテーマでありながら、
別の時代を教えられてもいるようです。

奇しくもその舞台は、鞍手、姫方、太神長島という「物部の里」でした。
(くらて、ひめかた、おおが・おさじま)

次回のお題は「物部とヒメコソ神」です。

物部の祭祀、出自、ヒメコソ神など、
これまでブログに出て来た内容を整理して、一緒に考えていきいと思います。

目次など詳細が決まったら、また案内しますが、募集は開始しますね。
ご参加お待ちしています。


また、本日(10月30日)の内容を11月10日にも話します。
興味のある方は申し込みお待ちしています。





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by lunabura | 2016-10-30 22:10 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(4)

杉守神社  香月氏



杉守神社

 香月氏


遠賀川流域の物部氏の中では、香月氏の系譜がかなり詳しく伝わっている。

物部氏は文字を持っていて、記録を残す氏族だったのだろう、とよく思う。

香月氏の祖はニギハヤヒであり、かつ田道命ということなので、
物部と皇族の末裔の両方の性格を持つ。

だからだろう、
小狭田彦の代に景行天皇や日本武尊の遠征に絶大なる支援をしている。

その結果、日本武尊は小狭田彦に「香月」姓を賜ったという。

簡略な縁起はネットでも見ることが出来るが、
文脈から、どうしても分からない事があった。

それは、香月氏の本貫地は杉守神社のある所ではないのではないか、
という疑問だった。

それを確認するために、杉守神社に出かけることにした。

場所は前回の磐瀬行宮(中間市)からわずか4キロ程度の所だ。





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田園に突き出た丘陵があり、その突端に宮は鎮座していた。







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急な石段を上りきると境内に出た。








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拝殿は左側にあった。
宇佐や熊本で見かけた横参道のようなタイプだった。







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神紋は鳥だ。
後で教えていただいたが、「白い鳥」と言う。
何か特別な鳥を指すわけではなかった。
ヤマトタケルの象徴である「白鳥」のことだろうと勝手に思った。

これまで「白鳥」を「はくちょう」と思い込んでいたが、
「しろいとり」と読むのが正しいのかもしれない。





初夏の嵐のあと、クスノキの落ち葉がおびただしい季節だ。
落ち葉掃除をしてあった宮司に話を伺う事が出来た。

それによると、やはり、香月氏はもともとここではなく、
黒川の上流、「ヨモギが原」という所に住んでいたという。
「フツ」と似ているでしょうが、とも言われた。

「ヨモギ」は一般に「ホウ」「ブ」と音読みするから、
何か特別な呼び方があったのだろう、なるほど、
物部らしいと思った。
そう、「フツの御魂」という剣神霊を信仰しているのが物部氏だ。


小狭田彦が娘の常磐津姫とヤマトタケルの縁組をしたのも、
そのヨモギが原ということになる。

戦うときには香月氏は宗像氏と共に戦ったという。
香月氏の祖に市杵島姫の名前も見えることから、
両氏は長い間共闘関係にあったのだろう。

宗像氏の動向の伝承を初めて採取した。
宗像氏は大国主を祖とするので、遠賀川流域で活躍していたのだ。
なるほど。
ミッシングリングが少しずつ繋がっていく。



さて、香月氏は何故ここに移って来たのか、伺った。

もともと黒川の上流、シラキ川が注ぐ所に住んでいたが、
水が無かったので、現在地に移ってきたという。
氏子が周辺に多いのも理由の一つだと言われた。

移ってきたのは、古代の話だ。
現在地には近年まで水質のよい井戸があったが、
炭鉱のために水が出なくなったという。

また、黒川も洪水で氾濫して、一面水浸しになるという話も伺った。

当宮はもともと「日本武尊」のみを祀っていたが、
先祖の夢で、それでは寂しいからと、新たに三祭神を合わせ、
四柱を祀っているという。
三祭神とは神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇だ。

まだ「スギモリ」も「杉森」から「杉守」と変わった。


家に戻って黒川の水域を調べていると、金剛山を回りこんでいることが分かった。
金剛山!
そう、そこには川上タケルの弟がいたはずだ。


「脇巫女27」でそのことを考察している。
◇◇ ◇

小狭田彦は本名は常盤津彦と言った。
幼少より賢明で、いつも山間の狭い土地を開墾していたから、
小狭田彦と言うようになった。

景行天皇が来て、しばし小狭田彦の居館に留まり、移っていく。

のちにヤマトタケルもやって来て滞在する。
小狭田彦の住まいは香月庄。現在杉守神社の所か。
あるいは寿福寺か。

小狭田彦は娘の常磐津姫を差し出した。

この近くの金剛山に熊襲が住んでいた。
そのクマソとは火国の川上梟師の弟で、江上梟師(たける)と言った。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、
熊襲の軍を屠ったという。

杉守社伝に日本武尊が
「あな楽し、花の香り月清きところかな。
今よりこの地を香月のむらと名づくべし」
と名を賜ったのはこの時だろうか。
小狭田彦は香月氏となった。

◇◇ ◇

やはり、金剛山にいた江上タケルと一戦交えていた。


ヨモギが原に居た小狭田彦は娘をヤマトタケルに嫁がせた。

それから江上タケルや川上タケルとの戦いに勝ち、
褒賞として香月の姓を賜った。

その後、小狭田彦の夢に亡くなったヤマトタケルが現れて、
白鳥となって、この地に飛んで来よう、
と言ったことに因んでここに祀るようになったとする。





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杉守神社では宮司さんにお忙しいなか、お話を聞かせていただきました。

改めて、お礼を申し上げます。



杉守神社






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by lunabura | 2016-05-12 22:00 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(6)

脇巫女43 物部サンジカネモチ


脇巫女43

物部サンジカネモチ


依代(よりしろ)の口を借りて語った物部某
その話のあらすじを書くことにする。

物部某はこの話を書くかどうかは私の判断に委ねた。

数日間、そのサインを待っていると、
今朝の眠りの中で、私はあらすじを辿っていた。
GOのサインだ。

良く分からない部分もあったので、違っていたら訂正を乞う。


物部某の語る古代。

海面が高くて、九州がまだ半分の面積だったころ、
物部氏は鉱物を求めて鞍手に入った。

鞍手で「黒玉」という重い物質を発見すると、
それで刀や槍や矢を作った。

農耕をして、ようやく安泰に暮らせるようになったころ、
ヤマトタケルが来て、土地を明け渡すように言った。

この時、物部は二つに分裂した。
一つは受け入れ派。もう一つは反対派。

受け入れ派は小狭田彦だった。
娘の常磐津姫を差し出した。


物部某のいた熱田には宗像物部がいた。
武器を作っては熱田神社の裏山に集積していた。

長年、苦労しながら鞍手を開発した熱田の物部にとって、
ヤマトタケルの要求は理不尽で受け入れがたかった。

受け入れるか、戦うか。
熱田の物部の内部でも二つに分裂した。

古物神社には物部の姫君、ミヤズ姫がいた。
他の姫君と違って、幼い頃には男の子たちと走り回るような姫だった。

そんなミヤズ姫は物部の民に愛されていた。

ヤマトタケルを受け入れる事は、ミヤズ姫を差し出すことでもあった。

物部にとって、これも許しがたかった。

熱田の物部某は物部サンジカネモチをそそのかして
ヤマトタケル討伐の策を持ち込んだ。

サンジカネモチは正義感に駆られると、その策を実行に移した。



サンジカネモチはヤマトタケルを襲った。

ヤマトタケルは草薙剣を持って戦ったが、
サンジカネモチの剣が急所を捉えた。

ヤマトタケルは草薙剣を捨てて逃げた。

深手を負いながら五人の護衛とともに逃げたが、鎧が重すぎて脱いだ。
追っ手に見つかることを恐れて、鎧を土に埋めた。

泉水(せんすい)に着くと、ヤマトタケルはその水を飲んだ。
ところが、その水は水銀を含んだ毒水だった。



ヤマトタケルはついに絶命した。



五人の護衛は遺体を剣岳に埋葬しようとしたが、
死が発覚することを恐れ、麓に埋葬した。

五人は一計を案じ、影武者を仕立てた。
こうして、何事もなく、ヤマトタケルは存在することになった。


物部サンジカネモチは奪った草薙剣を持って熱田に戻ると
一族に言い放った。

  われにひれ伏せ、この地に残りし者よ
  われにひれ伏せ。この地を汚す者よ
  われこの地に君臨したる者 この地を浄化する者
  われにあがなう者よ、われにひれ伏せ
  われに従え

そうして、熱田の武器を持ち出すと
草薙剣を持って古物神社に駆け付けた。


以上が私が理解したあらすじだ。



この話に呼応するように鞍手には「鎧塚」という地名があり、
ヤマトタケルの鎧を埋めた所と伝わっている。

また、泉水は?
どうだろう。
そこには小学校があるという。


以下は三か月前の星読の記録だ。

◇◇ ◇
<17>2015年11月22日

熱田神社にも参拝しようと「七色」が言った
星読は初めてだった

参拝していると、体が前に引っ張られるような感じがした・・・強い力ではない

この時、星読の心に言葉がよぎった

われにひれ伏せ、この地に残りし者よ
われにひれ伏せ。この地を汚す者よ
われこの地に君臨したる者
この地を浄化する者
われにあがなう者よ、われにひれ伏せ
われに従え


「七色」は説得している・・・そんな感じが伝わってきた

帰りに気になったので振り返り・・ひれ伏せ

「七色」は「もののべ」たちの神社として教えてくれた

◇◇ ◇


依代を借りて出て来た物部某が言うには、
物部サンジカネモチの転生者が星読だそうだ。

星読の心によぎった「われにひれ伏せ」という言葉は、
ヤマトタケルを討って草薙剣を取り上げ、
熱田神社に戻ってきた時の言葉だったそうだ。

三か月前の記録は、こうして繋がった。



鞍手 熱田神社 泉水




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by lunabura | 2016-02-27 18:07 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(14)

脇巫女42「物述」が語ったが


脇巫女42
「物述」が語ったが


「歴史カフェ」を始めたが、
この時を契機として何かが始まる予感を持つ人もいた。

そして、四日後の今夜、2016年2月24日。
思いがけず、「物述」が語り出す所に居合わせることになった。

それは「菊如」の祈りによって呼び出された見えない存在が、
「崋山」(かざん)の口を借りて語ったものだった。

物述の男は怒りに満ちていたが、
最後には「良き日かな」と言って去っていった。

そこで語られた鞍手での出来事は想像を絶した。
通説とはあべこべの世界だった。

私はまだ理解しきっていないのだが、星読はすべてを飲み込んだようだった。



そして、私には受け入れられない話も出て来た。
想定外というか。

「受け入れて、その立場でみると、いろいろと思い出しますよ」
と「崋山」は言った。
その微笑は先ほどの「物述」とは別人だった。

「そうですね」
そう答えながら、受け入れるには時間が必要だと分かった。

コメント欄で同じ悩みを書いてくれた人がいたが、
自分の立場になるとこれが難しいことを知った。

やはり、ミラー現象は起こる。

さて、この話を今書くのは困難だ。
「星読」が書いてくれたら、綴ることにしようか。





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by lunabura | 2016-02-24 23:08 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)

馬上の武人5任那四県を百済に与えてしまった


馬上の武人5
WAKIMIKO
任那四県を百済に与えてしまった

 
西暦512年。
穂積臣押山は任那の哆唎(たり)国守だった。
百済に派遣された時、筑紫国の馬を四十頭を土産にしたことを前回書いた。

四十頭もの馬を乗せる為には船は何隻いったのだろうか。
どこから出発したのだろうか。
船を出したのはどの海人族か。
筑紫の歴史を再現するためには、これらを一つ一つ考察する必要がある。

前回、この馬の産地は福津市の渡半島を中心とした
「高田牧」だろうと推測したが、
そこには京泊という湊があり、馬を輸入して育てたという伝承も残っている。

言い換えれば、京泊は外洋船が入港できる湊だから、
そこから直接、馬を船に乗せたかもしれない。
ただ、これは単なる私の推測以上のものではない。

しかし、歴史が筑紫以外の何処か他にあるという刷り込みを排除するには
積極的に推論を出し合う必要があると思う。

神功皇后の時のケースを考えると、今津湾、唐津湾もまた外洋船が泊まれる。
その近くに牧が見つかれば、新たな候補地が出てこよう。
そんな活発な意見交換が必要な時になっていると思う。



さて、穂積臣押山の話に戻ろう。彼は物部系だった。

押山が百済に行った年の末、12月に百済が朝貢してきた。
そして、こともあろうに、「任那国の四県を与えてくれるように」と
書いた文書を持ってきた。

押山も一緒に帰国したのか、それに口添えをした。
その理由は、「任那の四県は百済に近く、日本からは遠い。
百済に合併するのが最上な政策で、現状のまま百済と別国だったら守れない」
というものだった。

そんな理由がまかり通るのかと、理解に苦しむが、
大伴大連金村はこれを聞いてはかりごとをして
継体天皇に奏上した。



これがいわゆる「任那四県割譲事件」だ。
任那を百済に無償譲渡したという、
現代からは考えられない大事件が起こった。

この事件から、継体天皇は傀儡(かいらい)であり、
決定権は金村に存するのがよく分かる。

百済への譲渡が決定し、文書が作成された。

物部大連麁鹿火はその文書を伝える使者に任命された。
百済の客は難波の館にいた。

麁鹿火が出発しようとすると、妻が引き留めた。

「住吉大神が高麗、百済、新羅、任那らを誉田天皇(応神)に授けたあと、
母の息長足姫姫(神功皇后)が武内宿禰と共に、
官家(みやけ)を国ごとに設置したというのに。

それを裂いて他国に与えたら後の世までそしりを受けます」

麁鹿火は、「理屈はそうだが、勅命には逆らえない」と返事すると、
妻は仮病を使うようにとアドバイスをした。

麁鹿火は妻の進言に従い、別の者が文書を持っていった。

こうして、紙切れ一枚で任那の四県が百済に譲渡された。
大伴金村と穂積押山は賄賂(わいろ)を貰ったという噂が立った。

この四県の名は「任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県」
(みまな国のおこしたり・あろしたり・さだ・むろの四つのこおり)
と『日本書紀』にある。

ここに例の十数基の前方後円墳が造られていた。
そして、割譲されたあとは、ぱったりと造られなくなった。

任那に赴任していた筑紫や豊、火の国からの豪族たちは帰国したのだろう。

このことを、考古学者(韓国・朴氏)は、
あたかも倭の豪族たちが百済の配下にあるように書いていた。
そうではなかった。
そこは任那だった。
「任那」ときちんと書くべきだった。


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by lunabura | 2016-02-06 21:18 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人4 大伴金村大連 筑紫馬40匹


馬上の武人4
 WAKIMIKO
 大伴金村大連 筑紫馬40匹


金村大連が推した武烈天皇の在位はわずか8年だった。
しかも、子供がいなかった。

金村大連は天皇探しをする。仲哀天皇の五世孫の倭彦王を推挙した。
丹波まで迎えに行ったが、武装していたので倭彦王は恐れて姿を隠した。

金村大連は続けて男大迹(をほど)天皇を推挙する。継体天皇のことだ。
別名は彦太尊。継体天皇の名称を使おう。

継体天皇は誉田天皇の七世に当たる。
誉田天皇とは応神天皇のことだから、仲哀天皇と神功皇后の末裔で
天皇家の血筋ということになる。

金村大連は一応、物部麁鹿火大連許勢男人大臣らと協議する形を取るが、
実質的には独壇場で、麁鹿火大連たちは言われるがままだった。

金村大連は天皇の鏡と剣も預かっていて、継体天皇に奉っている。
手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に推挙したのも金村大連だった。

大伴金村大連は軍事力で他の豪族をしのぎ、政をほしいままにしていた。
天皇を推挙する実権を持ち、皇后選びも思うがまま。全盛期を迎えていた。

大伴氏の拠点はずっと古代には佐賀の吉野ヶ里遺跡の近くに
あったことを思い出す。
佐賀平野から玄界灘に抜けるルートも掌握していた痕跡があり、
武寧王が唐津で生まれたことが、
大伴氏の存在を抜きには考えられないようになってきた。

麁鹿火大連はひたすらイエスマンになっていた。



継体天皇即位後の体制が落ち着くと、
『日本書紀』は再び朝鮮半島の事情ばかりを書いている。

継体天皇3年2月、日本から使者を送った。
任那にあった日本の県邑(あがたのむら)に逃げ込んでいた百済人を調査し、
三、四世に遡って百済に送還した。



継体6年4月、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣する。
この時、筑紫国の馬を四十匹、百済に与えた。

馬が四十匹だ。すごい数だ。
しかも、筑紫の馬だ。筑紫の何処に牧があるか。

一番の候補はやはり福津市の渡半島だろう。
そこを中心として、宗像市に掛けての海岸線沿いに「高田の牧」があった。

過去記事に書いている。

渡の牧跡 わたりのまきあと 神代に放ち給う馬の牧跡
http://lunabura.exblog.jp/16445440/


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この「高田牧全体」では1300頭の成牛馬がいた時期があるという。



この牧を掌握していた筑紫の長は誰か。当然ながら磐井君だ。
ここ津屋崎は九州王朝の末裔たる宮地嶽神社関連の領地だった。

この四十頭の馬を運んだ穂積臣押山は饒速日の末裔。すなわち物部系だ。
朝鮮半島の南にあった任那諸国の中の哆唎国(たり)の守(みこともち)だった。
この男はのちに問題を起こす。

この継体6年は西暦では512年。

百済王の末多王が廃位されたのが502年のことだと書いたが、
この末多王を任命したのが日本だった。それが479年のことだ。

この時、百済王の任命権を日本が持っていた。

国王となすべく、末多王を日本から送り届ける時に、
筑紫の軍士が500人も護衛して海を渡った。

この筑紫の軍士派遣から筑紫馬贈与にかけての時代こそ、
百済に前方後円墳が築造された時代(5世紀後半~6世紀前半)と重なってくる。

「百済」と書いたが、そうではなかった。
そこは「任那」(みまな)諸国の一部だった。

あの古墳群は任那に赴任していた筑紫の豪族たちが眠っていたのだ。

以下は過去記事だが、まだそこが任那だとは知らないで書いている。
百済の前方後円墳
http://lunabura.exblog.jp/i189/



これは、某考古学者(日本人)が百済として講義したのを鵜呑みにして、
そのまま百済と考えてしまっていたことに、今気づいた。







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by lunabura | 2016-02-05 19:24 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(6)

馬上の武人2 物部影姫


馬上の武人2
WAKIMIKO
物部影姫

物部麁鹿火(あらかひ)は磐井君を滅ぼしたのだが、
『日本書紀』を開くと、その娘が出て来た。
「影姫」という。

物部影姫は有名な女性のようだが、私は初めて知った。

武烈天皇のページは読みたくなかったのだが、
麁鹿火を知るために読んでみた。

武烈天皇の名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)で、
これ以外は見当たらない。
ここでは武烈天皇という名を使おう。
その皇太子の時の話だ。

父の億計(おけ)天皇(仁賢)が崩御したときに、
大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が自ら王になろうとした。

真鳥は皇太子のために宮殿を造ると言って、出来上がると自らが住んだ。

この頃、皇太子(武烈天皇)は物部麁鹿火の娘の影姫の評判を聞いて
媒酌人を通して妻問をしようとした。

ところが、既に影姫は真鳥大臣の息子の(しび)を迎え入れていた。
そこで、「海柘榴市(つばいち)でお待ちします」と返事をした。

歌垣の当日、皇太子は影姫と会い、袖を取っていると、
鮪が二人の間に割り込んだ。

皇太子と鮪は歌のやりとりをした。
そのあと、皇太子が影姫に歌を贈った。

「琴の音に魅かれて神がやってくるという影姫は
玉に例えるなら、僕の好きな真珠のようだよ」

影姫の代わりに鮪が歌を詠んだ。
「大君の帯が結ばれて垂れていますが、
私は他の方と帯をほどいて結ばれているのです」

その歌で、鮪と影姫が恋仲だと知ると、皇太子はその夜、
大伴金村連の家に行って鮪の討伐を命じた。

大伴金村連は数千人の兵を率い、乃楽山(ならやま)で鮪を討った。

影姫は追って行き、鮪が殺されるのを見て嘆き苦しんだ。

以上が、あらすじだが、一説には、
鮪が影姫の家に宿った夜に殺されたとも書いてある。

歌の中で影姫は鮪を「夫」と詠んでいる。
妻問の時代だから、夫と呼ぶのは当然のことだが、
今日は影姫のことではなく、
その実家が「麁鹿火」宅であることに注目したい。

本来、この時代に天皇の称号はなく、「王」「大王」と呼ぶ時代だ。

平群真鳥が実力で王座に着こうとしたことが分かるが、
息子の鮪(しび)と物部影姫が夫婦になっていたのだから、
物部麁鹿火と平群真鳥は手を結んでいたことになる。

鮪(しび)は物部の婿になった。
その婿(むこ)が殺されて、平群との結束は失われた。

麁鹿火の方は特段、お咎め無しだった。
しかし、娘婿を殺した大伴金村に対して、どんな思いを持っただろうか。

若い二人を通して新しい支配地図を描いていたいに違いない。
そんな未来が消されたが、
武力に勝る大伴に屈するほか、なかったのだろう。
麁鹿火の動向は描かれていない。

これが八月のことだった。

そして、11月11日に大伴金村連は皇太子に会い、
平群真鳥大臣の討伐を持ち掛け、
自ら大将となって真鳥の家を囲んで火をつけた。
真鳥(まとり)はついに殺された。

12月に大伴金村は皇太子に討伐の終了を報告した。
この時「政を皇太子に返した」と書紀は語る。

これは、やはり平群真鳥が一時期にしろ、
王座に着いていたことを表している。

金村はこのあと、皇太子に即位を勧めた。
こうして武烈天皇が誕生した。
金村はその日、大連になった。



平群氏はこれで滅んでしまったのだろうか。

調べると、殺された鮪には既に子供がいたらしく、
その末裔が名を残している。

平群氏については、
糸島南部から福岡市早良区に掛けて居住していたことが分かっている。

糸島に行けば、宇美八幡宮で真鳥の祖・平群木兎(づく)の末裔が
武内姓で宮を祀り続けている。

(宇美八幡宮は拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻32の方)


これらは歴史には出てこない。
この逍遥で知り得たことだ。


※さて、馬上の武人を追って、鞍橋(くらじ)君の背景を探っている。
古墳時代の話は「馬上の武人」シリーズとして、
「脇巫女」の中で章立てすることにした。カテゴリは「脇巫女」に入る。




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by lunabura | 2016-01-29 20:36 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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