ひもろぎ逍遥

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馬上の武人2 物部影姫


馬上の武人2
WAKIMIKO
物部影姫

物部麁鹿火(あらかひ)は磐井君を滅ぼしたのだが、
『日本書紀』を開くと、その娘が出て来た。
「影姫」という。

物部影姫は有名な女性のようだが、私は初めて知った。

武烈天皇のページは読みたくなかったのだが、
麁鹿火を知るために読んでみた。

武烈天皇の名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)で、
これ以外は見当たらない。
ここでは武烈天皇という名を使おう。
その皇太子の時の話だ。

父の億計(おけ)天皇(仁賢)が崩御したときに、
大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が自ら王になろうとした。

真鳥は皇太子のために宮殿を造ると言って、出来上がると自らが住んだ。

この頃、皇太子(武烈天皇)は物部麁鹿火の娘の影姫の評判を聞いて
媒酌人を通して妻問をしようとした。

ところが、既に影姫は真鳥大臣の息子の(しび)を迎え入れていた。
そこで、「海柘榴市(つばいち)でお待ちします」と返事をした。

歌垣の当日、皇太子は影姫と会い、袖を取っていると、
鮪が二人の間に割り込んだ。

皇太子と鮪は歌のやりとりをした。
そのあと、皇太子が影姫に歌を贈った。

「琴の音に魅かれて神がやってくるという影姫は
玉に例えるなら、僕の好きな真珠のようだよ」

影姫の代わりに鮪が歌を詠んだ。
「大君の帯が結ばれて垂れていますが、
私は他の方と帯をほどいて結ばれているのです」

その歌で、鮪と影姫が恋仲だと知ると、皇太子はその夜、
大伴金村連の家に行って鮪の討伐を命じた。

大伴金村連は数千人の兵を率い、乃楽山(ならやま)で鮪を討った。

影姫は追って行き、鮪が殺されるのを見て嘆き苦しんだ。

以上が、あらすじだが、一説には、
鮪が影姫の家に宿った夜に殺されたとも書いてある。

歌の中で影姫は鮪を「夫」と詠んでいる。
妻問の時代だから、夫と呼ぶのは当然のことだが、
今日は影姫のことではなく、
その実家が「麁鹿火」宅であることに注目したい。

本来、この時代に天皇の称号はなく、「王」「大王」と呼ぶ時代だ。

平群真鳥が実力で王座に着こうとしたことが分かるが、
息子の鮪(しび)と物部影姫が夫婦になっていたのだから、
物部麁鹿火と平群真鳥は手を結んでいたことになる。

鮪(しび)は物部の婿になった。
その婿(むこ)が殺されて、平群との結束は失われた。

麁鹿火の方は特段、お咎め無しだった。
しかし、娘婿を殺した大伴金村に対して、どんな思いを持っただろうか。

若い二人を通して新しい支配地図を描いていたいに違いない。
そんな未来が消されたが、
武力に勝る大伴に屈するほか、なかったのだろう。
麁鹿火の動向は描かれていない。

これが八月のことだった。

そして、11月11日に大伴金村連は皇太子に会い、
平群真鳥大臣の討伐を持ち掛け、
自ら大将となって真鳥の家を囲んで火をつけた。
真鳥(まとり)はついに殺された。

12月に大伴金村は皇太子に討伐の終了を報告した。
この時「政を皇太子に返した」と書紀は語る。

これは、やはり平群真鳥が一時期にしろ、
王座に着いていたことを表している。

金村はこのあと、皇太子に即位を勧めた。
こうして武烈天皇が誕生した。
金村はその日、大連になった。



平群氏はこれで滅んでしまったのだろうか。

調べると、殺された鮪には既に子供がいたらしく、
その末裔が名を残している。

平群氏については、
糸島南部から福岡市早良区に掛けて居住していたことが分かっている。

糸島に行けば、宇美八幡宮で真鳥の祖・平群木兎(づく)の末裔が
武内姓で宮を祀り続けている。

(宇美八幡宮は拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻32の方)


これらは歴史には出てこない。
この逍遥で知り得たことだ。


※さて、馬上の武人を追って、鞍橋(くらじ)君の背景を探っている。
古墳時代の話は「馬上の武人」シリーズとして、
「脇巫女」の中で章立てすることにした。カテゴリは「脇巫女」に入る。




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by lunabura | 2016-01-29 20:36 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人1 饒速日の九代目


馬上の武人1
WAKIMIKO
饒速日の九代目 物部膽咋


2月の遠賀水軍の話の件は、まだ正式な依頼があっていないので、
詳細を告知できないでいるが、
今回の試みとして、列伝方式でやろうと思っている。

そこで、物部膽咋(いくひ)の拠点を探してみた。
「徳力」(とくりき)の地名の由来である「採り木」に関連するのが膽咋だ。
小倉(こくら)にある。

過去記事では「大元稲荷造化宮」としてUPしているが、
今は神理教の境内社となっているもよう。

そこで、神理教のHPを見ると、
膽咋は饒速日(にぎはやひ)の九代目と書いてあった。

膽咋は娘を景行天皇に嫁がせている。
また、山下影姫に武内宿禰が生まれると、
自分の妻の幸を乳母に差し出している。

この幸夫人が高良下宮社の幸神社の祭神だ。
武内宿禰を育てた人として、敬われたのだろう。

膽咋の娘が景行天皇に嫁ぐのだから、
神功皇后の時代には長老的な立場だということが分かる。

その膽咋が神功皇后を案内して徳力に連れて来ている。

目的は「採り木」すなわち造船のための木材調達ということだが、
大元稲荷造化宮の急勾配の小山はいかにも武器庫を思わせた。

膽咋は武器の準備の進捗を皇后に見せたのだろう。

この時には阿部高麿・助麿兄弟が護衛をしていた。

残念ながらこの兄弟は数年後に新羅が皇居を襲った時、
天皇と皇后を守って戦死した。
この時の皇居は、もちろん下関の豊浦宮(忌宮神社)だ。
決して奈良ではない。

戦死した兄弟は宮地嶽神社の失われた祭神だった。
だから、安曇族だ。

この時代は物部氏と安曇族は蜜月だったようだ。




このあと、物部氏の十九代または二十代の頃に磐井の乱があった。
膽咋の末裔は物部麁鹿火(あらかひ)側についた。

これは香月氏と同じだ。
香月氏も饒速日の末裔だった。
そして麁鹿火側についた。



――安曇系の磐井と饒速日系の物部の戦い。
そんな縮図が透けて見えてくる。

『日本書紀』を読むと、
継体天皇側と磐井側は、山を隔てているが、海は隔てていない。
同じ陸の戦いとしか解釈できないのだ。

これは何を意味するのか。
筑紫と豊の戦い。
それが磐井の乱だったのだろうか。

ところが、豊側の継体天皇と麁鹿火が次々に死んで
戦いはうやむやに終焉してしまった。

そして、少々変化しつつも元の棲み分けに戻った。

そんな世界が見えて、茫然とする。




神理教




追記
「馬上の武人」シリーズを新たに立てて古墳時代の歴史を探る。
カテゴリは「脇巫女」。



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by lunabura | 2016-01-28 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)

脇巫女 7宇佐の姫大神 


脇巫女 7
WAKIMIKO
宇佐の姫大神


星読の託宣はまた時代を変えた。

<「もののべ」によって星読みの民はこの地を追われ宇佐へ
          ・・・・姫大神となった三女神>


「星読みの民」すなわち鞍手族(國栖)は
「もののべ」の上に君臨していたはずだが、その「もののべ」から追われたという。
そして、宇佐に至り、姫大神となった。

宇佐の謎であるヒメ神とはやはり三女神だったのか。
星読はたぶん、ヒメ神が謎の神だ、ということなど知らなかっただろう。

私も、これまで注意して各地の祭神を確認していたが、
すべてが宗像三女神としていた。
ここに星読の託宣と各地の伝承は一致した。

しかし、私の中にはまだ受け入れられない部分が残っていた。
頭ではすごく納得しているのだが。


それにしても、鞍手でいったい何が起こったというのか。
「星読みの民」は何故追われたのか。
星読のリーディングを待つしかないが、私は別の件で驚かされた。

それは、占星術の件だ。

あの真鍋大覚が、宇佐神宮の託宣は占星術で占われたと書いているのだ。

宇佐に逃げ込んだ「星読みの民」の占星術が花開いたというのか。

真鍋によると、
宇佐と出雲はもともと同族で、のちに分かれたらしい。
その証が四拍手なのだろうが、
このときの出雲とは遠賀川流域と私は考えている。

「星読みの民」は湊を造成する技術もあったため、
物部の手が及ばぬ宇佐に受け入れられたのかもしれない。

何としても、真鍋の伝える渡来人たちの全容を知りたいのだが、理解が困難だ。
今日、関わる部分だけ、抜いてみることにした。

八幡は舟人で、太白暦(金星暦)だった。のちに八幡は宇佐と結託する。

後には河童と呼ばれる國栖(鞍手族)は「つき人」と呼ばれ、太陰暦(月暦)だった。
國栖は磯城(しき)という石積みを作った。

石上(いそのかみ)は磁針作成の達人で、やがて舟人の八幡と結束する。
石上は物部のことだ。

同じように星を観測する民であっても、
「暦を作る物部」と「占いをする八幡や國栖(鞍手族)」とでは
理解し合うのは難しかったのかもしれない。



2015年11月20日

                 (つづく)






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by lunabura | 2015-11-20 23:49 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(13)

(10)姫古曽神社3 彗星の化身・市杵島姫

佐賀県東部(10)

姫古曽神社3

彗星の化身・市杵島姫

荒ぶる姫古曽神の名が市杵島姫だったとは。
驚かずにはいられない。

実は、真鍋からの引用でよく分からなくてスルーした部分があります。

それは(6)媛社の鄕「荒ぶる神」で引用した文です。前回、触れなかった一文を赤字にしてみます。

姫子星(きしのほし)
 肥前風土記 基肆郡姫社の鄕の条に曰く
珂是古、即ち、幡を捧げて祈祷みて云ひしく、「誠に吾が祀を欲(ほ)りするならば、此の幡、風の順(まにま)に飛び往きて、吾を願(ほ)りする神の辺に堕ちよ」と。

太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。
 (略)
 彗星は最初にその姿をみせる所は、水平線に近い赤道上空である。倭人は彗星を大気都比売(おおげつひめ)とよんでいたかと思われる。「おほ」は長大と同時に形だけでなく、人間の呼吸、即ち「いをき」と通ずるところから伊吹星(いぶきのほし)とも呼ばれていた。
 (『儺の国の星拾遺』p78 姫子星)

今回は
「太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。」を解読したいと思います。

「太宰府から見るとこの中空あたりに彗星が出てくる。」という文は、真鍋の祖先が太宰府の天官であり、常に太宰府から天体を観測していたことを意味し、基肆郡はそこからは南に当たるという地理関係を理解する必要があります。

南の空低く現れるのがカノープスでした。気象を占うのに、カノープスの出現は洪水の前兆を示していました。

しかも、76年に一度の彗星が姿を表すと、夜な夜な角度を変えながら拡大し、カノープスの光を隠す時、古有明海(中つ海)は荒れ狂うのでした。

その彗星を姫子星と呼んだ人たちがいました。またオオゲツヒメと呼ぶ人たちもいました。オオゲツヒメの長く白い尾を見て、冬の白い息を思い浮かべる倭人だったのでしょう。


「宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、」
という部分は三女神が剣を三つに分けて噛んで吹き出した「息吹」から生れた神々ということを示しています。

剣というものは細長く白々としているので、彗星を見て剣と息吹を連想する人もいたということです。

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これを見て、女性の下着を思い浮かべるか、幡を思い浮かべるか、白い息を思い出すか、白い剣の刃(やいば)を思い出すかで、呼び方が姫子星、風子星、息吹星と変わったということでした。

『日本書紀』には三女神が生まれたのは十握剣に限らず、九握剣、八握剣から一柱ずつ生れたとする神話も紹介されていて、驚いたことがあるのですが、彗星の姿の象徴だったと考えると、ナルホドですね。

「宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、」
という一文は、三女神が彗星の象徴で、紀元前903年に既に観測されたということを示しています。

紀元前903年。
これもまた、物部氏にとっては引照とする年だったのでしょう。

「いちきしま」姫(市杵島姫)の語源は「斎く」(いつく)から来ているとするのが一般的ですが、それでは三女神が剣から生まれたことを説明できません。

剣のように冷たい白い輝きの彗星が爆発して三つに分かれて飛び散った時の輝きを神格化したのが三女神だとすると、神として崇められ、荒ぶる神として畏れられた理由を良く説明してくれます。


これまでの女神像、何だったのかと思ってしまいました。

市杵島姫とは彗星のことで、その白く長い輝きを冬の白く吐く息になぞらえ、息吹の女神として畏れられた女神でした。この原形を良く伝えるのが姫古曽神社の荒ぶる神だったということになります。

星の名をつけた人物がいます。
例えばシリウスの名をつけたのが安曇の長・磯良。
彗星の名がついたのが市杵島姫。
ちなみに獅子座流星群は稲目星と呼ぶそうです。そう、蘇我稲目もまた星の名前が付けられた人でした。


-------------------------------------------------------------------------------
◆ 『神功皇后伝承を歩く 下巻』が天神エリアでもうすぐ店頭に並ぶそうです。帯の色が二種類あり、古代の朱色と山吹色のものが出ているそうです。画像と印象が違うので、びっくりしないでくださいね。

また、予約の方からは到着したという連絡がそろそろ届いています。ありがとうございます♪


下の「佐賀東部の神社と古墳」をクリックすると、シリーズで読めます ♪


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by lunabura | 2015-04-15 20:25 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)

(8)姫古曾神社・祭神は何故、市杵島姫なのか1

佐賀県東部(8)

姫古曾神社 

祭神は何故、市杵島姫なのか1
 

さて基肆国を終わりにする予定でしたが、くじらさんからのコメントで、当地の大まかなイメージがつかめたので、もうひと踏ん張りしてみようと思います。

それは姫古曾神社の祭神が何故、市杵島姫なのか、というテーマです。

まず、くじらさんのコメントは次のようなものでした。

「柚比弥生遺跡群は、紀元前後に最盛期を迎えた後、倭国大乱の時代に、急速にその規模を縮小している事が、遺跡の発掘調査からわかっています。(鳥栖市史 古代編より)

あたかも集団で何処かに移動したかのように。

磐井の乱平定後に、再び、活況を迎えますが、その後は徐々に、養父方面に中心を移している事が伺えるそうです。

養父には、筑紫肥君の館が置かれていたと比定されていることからも、この地域が古代から続く重要な拠点であったと、推測されます。」

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「最盛期を迎えたこのクニが、急速にその規模を縮小するのは、物部氏祖神 饒速日命の東遷に従ったからだと考えられます。西暦200年頃には、残留勢力が残るのみとなっていたと遺跡の規模の推移図は語っています。(鳥栖市史 古代編)

紀伊国造莵道彦の娘、影媛を祀る竈門神社(玉母宮)一帯から、小郡、三根にかけて、ひとつの同族が支配するクニが存在した可能性を考えています。」

るな
「なるほど。福岡県と佐賀県の地図で見ると、玉母宮から三根まで、水沼国と川を挟んで拮抗するクニが見えてきますね。神埼もまた物部がいたということなので、範囲はさらに広がるかもしれません。」

以上がやりとりの一部です。

現在「弥生が丘」となっている「柚比弥生遺跡群」の規模の変遷から、集団的な移動があったことが推定されています。また、それを含むクニ全体は小郡市の媛社(ひめこそ)神社も含んだエリアが想定されています。

地図を見ると、姫古曾神社(鳥栖市)と媛社神社(小郡市)の距離は2.8キロ。徒歩40分ほど。ほぼ東西に位置していて、意外に近いです。

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媛社神社(小郡市)から真北4キロの所に竈門神社があり、そこは山下影媛の墓所と伝えられています。この三社は宝満川の西にあり、その三角形の中にあの御勢大霊石神社や小郡官衙遺跡が含まれます。

小郡市の媛社神社には「磐船神社・棚機神社」の鳥居もあるので、物部氏の存在が伺えます。

県がまたがっているのでイメージが掴めなかったのですが、古代史を理解するには両県を含むような新たな地図が必要ですね。

山下影媛に関しては、男の子を出産すると乳母に物部夫人を迎えます。物部氏と絶対的な信頼関係があった証しです。この男の子こそ竹内宿禰です。

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竹内宿禰が軍隊を組織し、天皇軍も指揮できたのも、この辺りを調べていくとさらに具体的な姿が描き出せそうです。

こうしてみると、この地域には地方豪族(山下影媛の実家)と武雄心の一族と物部氏、さらに青銅工人集団などが協調関係にあったことが分かります。

このようなエリアに市杵島姫が媛社神として祀られているのが姫古曾神社なのです。



(つづく)







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by lunabura | 2015-04-09 19:45 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(6)

物部氏 どっちが古い?


物部氏 どっちが古い?

「物部はどっちが古いですかね」
全く同じ質問を二人の男性から続けて受けた。
一人は土曜日。もう一人は三日後の火曜日に。
私が誰かと古代史の話をする機会は、最近ではこの二人だけだったので、
立て続けの質問だったということになる。

「どっち」というのは、もちろん「遠賀川流域か、筑後川流域か」ということだ。

私も、同じ関心を持ったことがあったけど、いつの間にか忘れていた。
今日はこれまで出会った伝承を羅列してみよう。

遠賀川流域
神武天皇が田川にやって来た時、迎えに来たのが馬見の物部の末裔・駒主命(こまぬしのみこと?)。(日若神社4)
神武天皇の祖神を祀り続けていて、馬を連れて来て、自宅に案内している。
この自宅というは馬見神社の近くになるのだろう。

神功皇后の時代には仲哀天皇を支えた物部に
嶋戸物部(高倉神社)と新北物部(鞍手郡)が出て来るので、
中流域から河口付近にかけて物部の勢力図があったもよう。
鞍手の物部氏は剣から生まれた剣神の三女神を祀って、三女神の六ケ岳降臨神話を育んだ。

そして、『日本書紀』に出て来る物部胆咋(いくひ)が神功皇后を連れて材木調達している。
大元稲荷神社(小倉南区徳力)を中心にして森林を掌握していたらしい。

その胆咋が筑後川流域では神として祀られている。
その神社が高良下宮社(久留米市)。胆咋は両流域に現れるキーパーソンだ。


筑後川流域
三女神を祀る水沼の君の祖に物部の名が見える。
水沼の君の祖は国乳別命だと『日本書紀』か『古事記』に書かれているが、
実際はもっと古くから筑後川流域にいた。
少なくとも景行天皇の時代に猿大海が出て来る。
国乳別命は神功皇后の時代の人物だ。

そして竹内宿禰とともに高良下宮社の祭神となっているのが先程の胆咋。
この胆咋が高良山に関わる物部氏の基盤になったのではないかと秘かに思っている。

また、さらに筑後川を遡ると物部さんが現在もいて、
かつては他の人々が入れない領域を持っていたという。
この物部氏はさらに古いのではないかと考えている。

そうだ、下流域のこうやの宮では七支刀を持っていた。

こうして両川の物部を比べると、三女神信仰をするのは水沼と宗像だけでなく、
物部氏もまた該当していたことに気付かされる。

真鍋大覚はどう伝えていただろうか。

曽我稲目(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏と那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。
(略)
物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。

これは磐井の時代の話なので、5~6世紀になるが、物部氏のルーツは近東にあり、
佐賀県の神崎にいたと伝えている。

結論
以上が今日、なんとか思い出した物部氏の時代と所在地で、
これから伺えるのは
遠賀川流域には、神武天皇が生まれる前から物部氏はいたという事になり、
筑後川流域に関しては、時代的に指標となる伝承が得られていないので判断できない。
だから、どちらが古いのかまだ分からない。

こんな所かな。^^

それにしても、福岡の人には、どっちが古いのか気になるよね。
何でだろ~。


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(中途半端な地図)


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by lunabura | 2013-10-23 22:07 | 物部氏 | Trackback | Comments(2)

七支刀の神像―こうやの宮


七支刀の神像―こうやの宮

今日は久留米地名研究会で発表された
「『こうやの宮』の里を訪ねる」という講演を聞いてきました。

c0222861_22224293.jpg


「こうやの宮」を知ったのはずいぶん前で、二度ほど参拝しました。
七支刀を掲げる異国の神像。
これを知ったのはかなり衝撃だったのですが、
民家の庭を通って参拝するようなところだったので、
紹介するのが憚られていましたが、
講演者の方に確認を取って、ブログ掲載の許可をいただきました。

何もない田んぼの中の祠にどうしてここにそんなものがあるのか
不思議で途方にくれたことを思い出します。

今回の話で、狭い地域に十数社もの宮があり、
中には中大兄皇子もここにやって来たという伝承の宮が有るのを知り、
この宮にアプローチするのに、
太神(おおが)という地域全体から出来る事が分かりました。

「太神」は「於保三和」と平安時代には読んでいたことが
『倭名類聚抄』に書かれていたのを知って、なるほど。

熊鰐さんが率いる遠賀水軍がオンガ、オオガともいい、
その上流から山越えしたら大己貴神社(朝倉市)に出る。

熊鰐さんは岡田宮(北九州市)に祀られていて、こうなっています。
(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
       少彦名命(スクナヒコナノミコト) 
       県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
熊鰐さんは出雲系なのです。

どうやらオオガが古代に重要な位置をしめていると、
マーサと意見が一致したのを思い出しました。

大神神社が福岡市和白にありますが、そちらは「おおみわ」と読みます。

神功皇后はこの神を畏れていました。
どうやら筑紫の古代の神なのですね。

出雲の方のブログを拝見するとルーツを筑紫に求めています。
私も出雲が筑紫の深層にあるのが気になって仕方がありません。

まだ訪れていない大根地神社は「オオネチ」と読みますが、
「オオナムチ」の変形ではないかと予想しています。

それが、この「こうやの宮」の所在地太神(おおが)とどうつながるのか。
この宮の正式名は「磯上物部神社」というそうです。

大己貴と物部がつながるとしたら、これまた沢山の研究が必要ですね。

う~ん。
今日は、備忘録として書いておきます。







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by lunabura | 2013-03-02 22:26 | 七支刀 | Trackback | Comments(2)

儺の国の星・拾遺 2・物部氏の矜持 ― 遺言はハレー彗星の通過日の特定だった


儺の国の星・拾遺 2

序文を読む 2
物部氏の矜持 
遺言はハレー彗星の通過日の特定だった
 

前回のつづきです。
口述筆記のために、明らかな誤字は変えています。
明治43(1910)年4月19・679日Halley(ハリー)彗星は近日点を通過しました。

この時が69推の方冊(ほうさく)の家系を語る と、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。

ここに1推(いっすい)とはメトン周期のことで、太陰暦235月6939・68841日と19太陽年6939・60170日が差0・08761日をもって一致するところからきた名称でありました。

これから69推は1311年前、即ち推古帝7(599)年のことになるのでありますが、日本書紀巻22推古紀(603)年壬戌歳には、
   冬10月に百済の僧 観勒(ほうし くわんろく まうおもぶ)けり。
   仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併(あわせ)て
   遁甲方術(どんかふはうじゅち)の書(ふみ)を貢(たてまつ)る。

とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から大宰府の招請に応じて暦書を
上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系
であ
ったことが判明いたしました。

大宰府は異朝の入貢する船籍が多く入泊しますから、各国の暦制が船ごとに異なり、これを対応して数年先の次の入国の機会まで、日取りを正しく登録する必要がありました。

従って物部氏は代々、大宰府の暦官の職務を世襲して、もって天文学的計算の術を通じ、これに仕えていたのであります。

「69推の方冊(ほうさく)の家系を語る」
これはハレー彗星が地球に一番近づく日時を特定する事によって、
69推(1311年)続いた、真鍋家の歴史と実力を証明するという意味です。

トップシークレットだった為に、誰も理解する事のない、
物部氏の本来の仕事がこの天体観測であり、暦造りでした。
ハレー彗星はハレーが発見した事になっているが、
日本ではとっくに知られていたのだという思いが伝わって来ます。

この計算が、どれほど高度な科学的知識に裏付けられているのか、
明治時代には誰も理解出来なかった事でしょう。
現代でも、そんな家系が在ったと素直に信じる人は少ないかもしれません。
だからこそ、ハレー彗星の到来を予見したのですね。

ハレー彗星の近日点をどうやって計算したのか想像も出来ないけど、
「69推」ぐらいは理解してみましょう。

「メトン周期」か…。名前は知っていても、内容は知らないよ。
こんな時はWik頼り。
 メトン周期 19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。メトン周期に
従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。

関係ある所だけ書き写しました。検算してみましょう。

1年は365日。1か月を30日とすると、30日×12か月は360日。
その差は5日。10年経つと50日も差が出て、季節感はめちゃめちゃ。
そこで時々閏月を入れて誤差を調整する必要が出てくるけど、
19年間で7回の閏月を入れると誤差は解消されるという事か…。

どうれ、計算してみよう。
365日×19年=6935日
30日×235ヵ月=7050日
7050-6935=115日
30日×7回=210日
あれ?うまくいかない。一か月30日が間違ってる? (@_@;)
29.5日ぐらいかな?
それとも、序に書いてあった、12桁でないと誤差がひどすぎる?
(どうやって計算するの~)

それじゃあ、12桁を使ってまじめに計算しようとしたけど、
桁が多過ぎて計算機に入力できない。とりあえず、下6桁までで計算してみよう。
365.693960日×19年=6948.1852日
30日×235.693968月=7070.8188日
これもダメ。検算でさえ私は出来ない(涙)
差0・08761日が出て来ないよ~ (・.・;) 
やはり、1か月30日が駄目なのか。誰か頼む…。(いや、お願いします。)

こんなメトン周期を日常で使う家系ってどんな家?
そして、計算機がないのに、どうやって計算したのだろう。
メトン周期はあきらめ!

気を取り直して、ハレー彗星を調べてみよう。
「ハレー彗星はエドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656~1742)が
初めて76年ごとに地球に近づく彗星を発見した。」

なるほど。
真鍋勝次氏は日本の物部氏はすでに76年ごとに地球に近づく彗星の存在を知っていて、
その近日点を計算する事も可能だったという事を証明したかったんだ。
そして見事的中。

これは天文の歴史を塗り替えるような内容ですぞ。
だから、遺言にしてまでもその家系の存在を伝えたかったのでしょう。
う~む。これぞ物部氏。

真鍋家と大宰府
日本書紀では69推前=599年の3年後に百済の僧・観勒が暦を伝えたとなっていますが、
真鍋家の祖先は、この暦と日本古来の暦との付き合わせをしたという事を暗示しています。
(ひとひねりしていいるのは大覚氏の独特の表現法です。)

現代でも外国では西暦以外の各種の暦を使っています。
東南アジアの何処でしたか、一つの国で何十種類もの暦を民族ごとに使っている
という話をラジオで聞きました。
そのカレンダーはきっとすごい事になってるんでしょう。
でも、その国ではそれが当たり前。
古代の姿が残っているのですね。

古代、大宰府に入港した船も各国から来て自国の暦を使っているため、
倭国の暦との付き合わせが大宰府政庁で行われたんですね。

c0222861_10231412.jpg

これは大宰府の再現図。(パンフレットより)
どの建物でやったのかな。少し身近になりました。

さて、つづき。
真鍋勝次は明治20(1887)年3月28日をもって時の農商務省大臣 山縣有朋(1838~1922)から表彰を受けております。

埼玉県秩父郡の民生安定に多大の貢献を為したるをもって感謝の金一封を授与せられたのでありますが、東京帝国大学農科大学の教授博士をしても荒廃の極に達した田畑の土地改良の大事業を僅か2年の歳月で完成させた功績は天下一の篤農(とくのう)の郷士と称えられたとのことでありました。その語る処の祖先の逸話がこれであります。(つづく) 

勝次氏は那珂川町の元町長ですが、埼玉県では田畑の土地改良に尽力。
日本古来の智恵が余すところなく発揮されたのでしょうね。
どんな改良法だったか、これまた知りたいものです。
(つづく)








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by lunabura | 2012-08-09 10:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

儺の国の星・拾遺 3・メトン周期と満月の祭事


儺の国の星・拾遺 3
序文を読む 3

メトン周期と満月の祭事
 

諸事情で投稿が遅くなりました。<(_ _)> お待たせです。

前回の難問……メトン周期の計算を愛読者さんがしてくれました!
さて、どんな問題でしたっけ。
そうそう、ハレー彗星の近日点を計算した真鍋家(物部氏の末裔)の
計算力を理解するために、基礎となる「推」を検算していた所でした。

「推」という言葉は現代では「メトン周期」に置き換えられるという事で、
メトン周期にチャレンジして、さじを投げた所でした。(笑)

メトン周期 
19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月(うるうづき)を入れる回数を求めるのに用いられた。
メトン周期に従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されること
になる。
(wiki より)

太陽暦で暮らしている私達も、時々旧暦を使います。
福岡では七夕が旧暦で行われていたので、8月の天候の安定した季節に
満天の星空を見る事が出来ました。
最近はもう太陽暦の7月だけになったかな?
7月の七夕は梅雨の末期なので、雨が心配ですよね。

中国では旧暦の正月の帰省ラッシュがよくニュースになっています。
旧暦が今でも生活に密着しているのが分かります。
旧暦だと、月を見れば今日は何日だと分かるので、
空の「誰でもカレンダー」になります。

ところが、困った事に太陽暦とはズレがあるため、話は簡単ではありません。
そのずれが無くなるのが19年目だという事です。

今月の満月は2012年8月2日でしたが、
もし「次の8月2日の満月の日に再び会いましょう」と恋人と約束したら
19年後になってしうまうんだ~。

さて、眞鍋氏の本に戻ると、
古代、大宰府にやってくる各国の船はオリジナルの暦を持っていたので、
大宰府政庁で計算して暦の突き合わせを行なったわけです。

「609年、百済の僧・観勒が暦の本を奉った」と日本書紀にあるけど、
「この時、暦が初めて日本に導入された」と解釈するのは間違いで、
倭国にはすでに和暦が存在していて、百済の暦とどう違うのかを
当時、換算される部署が存在したというのが実態だという事です。

それを行ったのが真鍋家の祖先で、物部氏です。
すでに高度な暦が日本では作られていました。

神功皇后の筑紫での行動にきちんと日付が付いているのも、
当時、すでに暦があって、従軍書記官がいたと推定しています。

前置きが長くなりましたが、メトン周期について愛読者さんのコメントを紹介します。
(朔とは新月。望とは満月の事です。)
メトン周期ですが1月を30日で計算すると合いません。「日」単位で考えてください。

1朔望月=新月から新月の間は29.530589日です。
(だから陰暦では29日と30日の月が約半々になっています)

これを235回繰り返すと29.530589×235=6939.688415日、

1太陽年=冬至から冬至の南中時までは365.242194日×19回繰り返すと=6939.601686日

235を12で割ると19年と余り7月ですので、19年7閏とすれば、19年後に同じ月の同じ日(*11月1日)に冬至が回ってくるわけです。

(*太陰太陽暦では冬至は11月1日を基本の「朔旦冬至」とし、19年ごとに回ってくる。それでもこのメトン周期では若干のずれが出るのでいろいろ改善されています)

これによると、太陽暦と太陰暦の差が0.086629日。
真鍋氏が出した差は0.08671日。
おお。かなり近い数字が出ましたよ。
(1朔望月=約29.5日を覚えておこう。)

計算機の無い時代なのにかなりの水準だったんですね。
愛読者さん、ありがとうございます。
これですっきりしました。

赤司八幡神社の満月の祭事
さて、物部氏が計算力の優れた人たちだったのが分かりましたが、
それで思い出すのが久留米市の赤司八幡神社満月の祭事「竿例し」です。
(「赤司八幡神社」の正しい名称は「八幡神社」です。)

私は、これは「満月の測量」が祭事になったのでないかとずっと考えていました。
赤司八幡宮に伝わる「竿例し」は正月14、15日の夜、地上10尺の長さの竿を立て、月光によって生じる竿の影の長さを測って占象とする。まことに古拙な占行事で、他に例を聞かぬものである。
(『赤司八幡宮の「竿例し」』(古賀壽)より)

「正月14、15日」に注目して下さい。14日と15日の二日間あるという事です。
「正月」とは「旧暦の正月」の事ですから、15日は満月です。
しかし、一か月は約29.5日なので、ずれが溜まると
満月が15日に来るとは限らず、14日に満月を迎える事もあります。

だから、14日と15日の夜に竿の長さを測量して
満月の時間を確定していたのではないかと考えています。

それは神官によって厳粛に行われた事でしょうが、
そのまま神事として伝えられたではないでしょうか。

現在は旧暦の正月14日の晩、一日だけ行われているそうですが、
よくぞ伝えられたと感激しています。

古賀氏の寄稿文には
「昔は多くの人が集まってこの祭事を見守ったと聞くが、
現在は宮司と家族と時に総代会長が参加するというさびれたものになっている。」
とも書いてあります。
是非とも近隣の方々にこの祭事の意味を知って見守っていただきたいなと思いました。

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この赤司八幡神社は三女神の降臨の地であり、大宰別府です。
天の真名井の意味を伝え、満月の測定の神事を伝えています。
かなり高度な星宿祭祀が行われたもようです。

神功皇后を諸手で迎えた人々の宮でもあります。
まだまだこの宮の伝承全体を消化しきれていないのですが、
日本古来の神道の姿を研究するに欠かせない重要な宮だと認識を新たにしました。





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by lunabura | 2012-08-01 11:03 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

中宿八幡宮・熊鰐の館跡だったー神功皇后の船を修理・熊鰐の末裔


中宿八幡宮
なかやど
北九州市八幡東区祇園
熊鰐の館跡だったー神功皇后の船を修理
熊鰐の末裔の方に会えたよ


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中宿八幡宮は桃園球場の近くにあります。
区画整理された地域にあって、周辺の道は一方通行です。一の鳥居です。

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拝殿は華やかな朱色。

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朱と紫と緑のコントラストが美しいです。

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御祭神は仲哀天皇 応神天皇 神功皇后。父と母と子が祀られていました。

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神殿です。
まずは由緒書きを読んでみましょう。(現代語にします)
中宿八幡宮 御由緒
御祭神 本座 足中津日子命(仲哀天皇) 品陀和気命(応神天皇)息長足比売命(神功皇后)
相座 建速須佐之男命 奇名田比売命
相座 大綿積神 菅若神 ほか (略)

御鎮座由来
今を去る事1800年余の昔、第14代仲哀天皇の御后、神功皇后は筑紫の香椎の宮で崩御された天皇の代わりに、皇子(後の応神天皇)を身ごもりながら群臣の動揺を考えて天皇の崩御を隠し、男装をして三軍を率いて九州騒乱の源、新羅征伐に出征された。
この間北九州を中心に動かれて苦節の末、三韓を従えられました。

その時、神告があって「三韓を従えたが、行き先に謀反の者がいる。厚く慎み給え。」と告げられました。そこで当宮の地に中宿りされて豊山の宮を造らせ、皇后みずから中宿(なかやどり)で忌み慎んで斎籠されて豊山の宮ともどもに皇祖の神の教えのままに天神地祇を祀られた。

事無く皇后は大和に御帰還ののち、この中宿の地の祭祀を行われた祭場に、村人らが祠を建立し、産土神(うじがみ)として奉斎し、何度も社を増改築、特に大内氏、麻生氏、近世では黒田氏の崇敬厚く今日に至り、現社殿は昭和36年に御改築した。
仲哀天皇の崩御を隠して、亡骸を豊浦宮の殯葬地に隠しても、
香坂王(かごさかおう)たちに知られるのは時間の問題でした。
香坂王の立場からは神功皇后はどのように見えたでしょうか。

新羅攻撃に戦わずして勝利し、百済や高句麗まで従えた勝利の女神として
神功皇后の人気は絶大なものになり、その皇子の方を天皇にという声は日々高まり、
それは香坂王の所まで届いた事でしょう。
皇太子であったはずの香坂王は身を守るためには戦うしかありませんでした。

それを伝えたのが神託。
そして神託どおりに香坂王と忍熊王は謀叛を起こしたのでした。
(正しくは皇后方の方が謀反のはずだけど…。)
こうして決戦をすべく、皇后軍は再び船路での戦いに挑む事になりました。
神功皇后はこの中宿宮に忌宮を造って天神地祇に祈りました。

あらたな戦いに備えて問題になったのは御座船の帆柱が折れていた事でした。
その事情をリーフレットから一部抜粋。
九州入りした神功皇后は御神託ありて航海の後の御船の帆柱を取替え、この地に忌宮を造営し天神地祇を祀られ御滞在された。この時、御先導お世話申し上げたのが、この地の県主熊鰐なり(後、花尾城主麻生氏より波多野姓を賜る)

『南に帆柱山を仰ぎ北に洞の海を望む海陸便の良い処、此の地に今し中宿りせむ』としてお休みされた場所が現在の中宿八幡宮である。
その神功皇后の船の修理を請け負ったのが熊鰐でした。
その修理の場所がここだそうです。
そして熊鰐の末裔が神職としてこの宮を守り続けていたのです。

私が訪れた日、祭事を終えられた宮司さんに詳しい話を聞く事が出来ました。
記憶を辿って大まかな内容を紹介します。

「こちらの由緒について伺いたいのですが。」
「ここは熊鰐の館で陣屋ですよ。ここで神功皇后は精進潔斎されて籠られたのです。」

「ここが熊鰐の館なんですか?神功皇后がここで祈ったんですか?」
「はい。私は崗の県主熊鰐の27代目です。麻生氏により波多野姓になりました。
ここは軍船の修理が行われた所で、神功皇后の船の帆柱が折れたので、
あの帆柱山から木材を採って来て、ここで修理をしました。

また大倉・勝山の竹竿を切り出したのです。昔は3号線は海で、若松区は島でした。神功皇后は皇后崎で上陸されたのです。ここで船団も造ったのです。」
そう言われて改めて宮司さんの御顔を見ると、
穏やかな笑顔は私の熊鰐さんのイメージそのものでした。
(熊鰐さんに会えた!)
思いがけず、探していた熊鰐の館に辿り着いていました。

実は「熊鰐の館あと」は他に、遠賀川河口の岡湊神社の対岸にもあるのです。
(そこも山鹿小学校にお世話になって見つける事が出来ました。別館だと思っています。)

熊鰐の二つの館。
加えて伝承の数々をプロットしていくと、熊一族は洞海湾の湾岸エリアを領有していて、
その中心地がこの中宿八幡宮だという事が見えて来ます。

熊鰐の一族は皇祖の祭祀と造船と兵士たちを担う海人族です。
熊の一族―これは熊野族というものではないか。
その考えは八幡の熊野神社で芽生えていたのですが、もっと検証が欲しい所です。

場所的には前回の竹内宿禰の陣営の旗頭神社とは近距離です。
旗頭の陣営で彼らが守ったのは鉄の生産地だろうと考えたのですが、
物部氏を筆頭に生産される鉄器の中の大工道具を駆使して
この熊鰐の館では造船が行われたと考えています。

鉄を供給するのは物部氏の中でも、大倉主を祀る高倉神社の嶋戸物部氏とか
企救(きく)郡の企救物部氏あたりではないかとおもいます。

この宮のあちこちからノミや槌の音や働く声が聞こえてきそうです。

この宮の南にある皿倉山や帆柱山には神功皇后の登山の伝承もあり、
帆柱山という山名も神功皇后の船の帆柱の供給地という事から付いた名前でした。
それは拝殿の後ろに聳えています。

さて、境内にはさらに神宮皇后のゆかりの、こんな祠が。

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胎石神社(たいせき)(はらみいし)
神功皇后がこの地に着いたとき、奇石を見て、「私が皇子をはらんだ時の腹に似ている」と言って崇(あが)められた。その後、萬治1年社殿を建立。以後村里の女房、産前に詣で安産を祈る。また奇病まで治されるとあれば今なお難病平癒を祈る人多し。御神体に触れればなお良いという。 (現代語に)


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ということで、ちゃんと手を入れられるようになっていました。とりあえず、ナデナデ。

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ほかにも摂社がいろいろとありましたが、それは皆さまの参拝のお楽しみに。

さてさて、この熊鰐は皇子の為に素敵なプレゼントを用意していました。
感激した神功皇后は豊山八幡神社で…。
私たちも次回はそこに行ってみましょう。



地図 中宿八幡宮



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by lunabura | 2012-04-01 20:40 | (ナ行)神社 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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