ひもろぎ逍遥

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神崎神社・物部の里


神崎神社
こうざき
福岡県鞍手郡鞍手町古門
物部の里

仲哀天皇の一行のルートを辿ってみようと思って地図を見ると
古物神社神崎神社は一キロほどの距離で、道も舗装されています。

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古物神社からナビで住所を入力して近づくと集落があって溜め池に出ました。
池の向こうの森が神社の杜のようですが、参道が分かりません。
車を降りて人を探していると、ブドウをパック詰めして出荷準備をしている農家
がありました。この町はフルーツの町なのです。

そこで神社を訪ねると、やはり正面の森の中に神社があり、
フェンス沿いに行く事が出来ると教えて貰いました。
「神功皇后の話を御存じないですか?」
「あ~。ここに来たという話を聞いたことがありますね。」
という事でした。
また「神崎」は「こうざき」と読む事を教えて貰いました。

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言われた通りに進むと大木が生い茂る石段がありました。
しかし上り終わると、あれれ?
神殿の裏に出てしまいました。

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拝殿の正面に廻ると立派な参道がちゃんとあるではないですか。
なるほど。裏から入り込んだので分かりにくかったんだ。

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拝殿の中に祭神が書かれていました。

本殿 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 仁徳天皇 玉依姫
です。
仲哀天皇と神功皇后の行幸があったので祀られたのでしょうね。

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本殿から左上に土地があって、祠が並んでいました。
向って右より
末社 貴乃殿神社 大山咋大神(子供の神)
   豊日別大神(豊前坊様)
   貴船大神(水の神)
   今宮大神 (荒吾郎神社と同じ農業の神)
   恵比須大神(食糧の神)
   大山祗大神(山の神)

このように書かれていると、祭神の意味がよく分かっていいですね。
生活に密着して暮らしを守ってくれる神々が大集合です。
もしかしたら、こちらの方が仲哀天皇の行幸前の祭神かも知れません。
豊日別大神がこの筑紫の国にあるのも面白いです。

ここを神功皇后が通過したというのは鞍手町誌に書いてありました。
境内が複数の高さの広場で立体的になっているのを見ると、
当時の有力者の家があったのではないかと想像したくなります。

この神社名は「神崎」(こうざき)で、近くの信号機にも「神崎」と書かれていました。
首長そのものを神と呼んだのか、あるいは神を祀った場所だったのか、
由来は分かりませんが、
「神崎」と言えば佐賀県の「神崎」(かんざき)の方がずっと有名です。

それは吉野ヶ里の近くにあるのですが、その神崎もまた古物部の里なのです。
どちらも物部氏に関わっていて地名が二つとも残存しているのは
これからの探求の手掛かりになりそうですね。

さてさて、ガイドブックに掲載するので一の鳥居を撮らなくちゃと、
正面の参道を下って行きました。

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正面にも綺麗な池がありました。


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これが入口付近のようすです。左の湖面の反射を受けて明るくなっています。
鳥居はこの上の方にあります。

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これが最後の石段で、本殿前に出ます。
この宮は集落の小高い所にあって、地形がよく残っている点でも興味深いです。

さて神功皇后の伝承が次に出て来るのは白山嶺を越えた所にある春日神社です。
次回はそちらに行きましょう。

地図 神崎神社




物部氏については古物神社に詳しく書いています。
古物神社 http://lunabura.exblog.jp/i29/
古物神社(1)宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった
古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇
古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?
古物神社(4)物部氏は中東から来た星見の氏族






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by lunabura | 2012-02-07 17:55 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(1)

勝山勝田神社・大倉彦の領地で竹竿を切り出した


勝山勝田神社
かつやまかつた
北九州市八幡東区勝山
大倉彦の領地で竹竿を切り出した 

勝山勝田神社は大蔵という所の大蔵小学校の裏にありました。
地形を見ると、大蔵川から神社に向かう参道の上に小学校が建っています。
ですから、この神社に行くには小学校の壁に沿ってぐるりと廻って行きました。
小学校と神社の間の道は車が一台分通るだけで、車は止められません。

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鳥居の向こうにはうっそうとした杜が!

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石段をちょっと上れば境内で、社殿は横向きに建っていました。

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境内に入った途端、深山の中に入り込んだ趣です。
境内はさほど広くなく、振り返れば小学校の屋上が見えます。
その向こうは川ですから、一気に高度を上げた所に神社があるのが分かります。
ここには神功皇后の伝承が残っています。
向こうに山が見えますが、向こうにも神功皇后の伝承を伝える乳山神社があります。

ここは「大蔵谷」です。
そこに「勝山勝田」という名前が神社に付いた由来が書かれていました。
神社名 勝山勝田神社
御祭神 大山津見神・武御雷神(たけみかづち)・賦都主神(ふつぬし)
相殿 大倉主神社 大倉彦神 大久羅姫神
相殿 貴船神社 宇気持神・高龗神・闇龗神
相殿 疫神社 大禍津日神
相殿 大日神社 大日靈神 
相殿 恵比須神社 事代主神・伊古那姫神
  (神功皇后・武内大臣)

御由緒およそ1700年昔、神功皇后朝鮮出兵の折、洞海湾にて船団をつくり、「大蔵」の地名の由来と云われる大倉彦神の治めていたこの大蔵谷より、皇軍の御旗竿として竹を伐り出した。

その「めでたい」縁で、帰朝後「勝山」と名づけ、神功皇后みづからお社をまつられたと言われている。

筑前藩主、黒田守政公はこの勝山の名をめでて、藩主の旗竿とされ、代々の殿様の信仰あつく、祭礼の折、特に芝居や踊りの興行が許され、大蔵谷にとどまらず広く信仰された。

宝暦年中、(西暦1751年)には江戸幕府より「神社帳」に書きだすように幕命をうけ、また安永7年(1779年)御社殿建立の折、布目のついた古瓦が出たことが記録に残されています。その勝山のいわれによって勝運、武勇、海運の神様として信仰されています。
年中祭事
1月1日 歳旦祭、1月15日 どんど焼祭、2月3日 節分祭、10月12日 秋祭、12月31日除夜祭     (一部改変しました)
下関の豊浦宮(忌宮神社)に皇居があった時代、
仲哀天皇は船を造らせていて、各地に材木を調達した伝承があることを
前回、大元稲荷神社の所で書きましたが、
ここには皇軍の旗竿を切り出した所だという伝承がありました。

ざっと見た所では、多種多様の樹木が茂る山で、竹には気づきませんでしたが、
なるほど、考えてみると、竹というものは当時どれだけ有用な植物だったのか、
気づかされます。

これまででも、矢埜竹神社(朝倉市)では矢竹にふさわしい品種があって、
皇軍が必死で矢を作った話が残っていました。
風浪宮(ふうろうぐう・大川市)には神殿の裏に多種の竹が植わっている一角があって、笛に使えそうな品種を見かけました。
竹内宿禰の一族は特殊な竹を現在に至るまで伝えていると聞いています。

神功皇后の皇子である応神天皇八幡信仰の中心的存在になっていくのですが、
そのシンボルである「幡」。それも竹がないとサマにならないのですね。

「幡」は、織幡神社(宗像市)の近くの波津で織らせています。
そこで初めて紅白の幡というものが生まれたのですが、
その幡を取り付ける竹はこんな所から切り出されました。

造船の準備と一言で言えるけど、福岡の北部全体を巻き込んだ大掛かりなもので、
植生を知り尽くしていないと出来ないことでもありました。

神功皇后は新羅攻撃の凱旋後、撃鼓神社(げっこ・飯塚市)に白幡を八本奉納しています。
凱旋後の彼女の祭祀アイテムの中に「幡」が入って来ます。
「八本の幡」が勝利のシンボルとして大きな位置を占めるようになったのでしょう。

どうやら私たちは八幡信仰の始まりを目撃しているようです。
八幡信仰が広まるに連れて、神社の上に八幡(はちまん)の名が付けられて行きます。
北九州市に八幡区という名称が出来たのは八幡神社が沢山あったからだと
意外に単純な理由を神社で伺いました。

ここの祭神は剣神が中心です。
相殿に大倉彦の名があり、地名にもなっている事から、彼もまたこの土地の有力者で、
物部氏の一族だっただろうと思われます。

この由緒を見て嬉しかったのは、現地でないと分からない伝承が書いてあった事です。
1.洞海湾で船団が結成された事。
2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
です。
今回はこれらについて考えます。

1.洞海湾で船団が結成された事。
これについては、複数箇所に伝承があったのですが、
特に中宿八幡宮(八幡東区)では、熊鰐の末裔の宮司さんから直接、
熊鰐の館があり、船の修理をし、船団を結成した話を伺いました。
この勝山勝田神社にもその船団の話がさらりと書いてあって、
読んだ当時はその言葉に気づかなかったなあと思い返しています。

2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
これは最初読んだ時は疑いました。ここに来るチャンスがあったのだろうかと。
その後、北九州での神功皇后の伝承を整理して行くうちに、
たっぶりと時間があったのが分かりました。

北九州の伝承は三つの時期に分けることができます。
  (ア)豊浦宮の時代 下関からやって来て神武天皇の祭祀跡に祭祀に来たり
               木材調達をしたりしています。

  (イ) 香椎宮への遷都の通り道 下関から香椎宮へ遷都する途中に通って、祭祀をしたりしています。
               洞海湾での立ち往生は日本書紀にも書かれていて有名です。
               この時には仲哀天皇と一緒です。

  (ウ)香椎宮から豊浦宮への帰還 日本書紀には省略されていたのですが、
               八幡(やはた)で軍船の修理をしていて、その間に各地にお礼参りや、
               新たな戦いへの祈りを各地でしています。
               この時には乳飲み子の皇子を連れています。

この三つが北九州には混在しているので、伝承は多いのに、
整合性がなくて不自然だと思うのは仕方ないなと思いました。

それでは皇后はこの宮にいつ来たのでしょうか。
神社の名前のとおり、勝った後に、お礼参りに来たと思われます。
それというのも、川の対岸の山の乳山八幡宮では、
神功皇后が皇子に乳を飲ませたという伝承もあるからです。

船の修理をしている間、皇后は各地にお礼参りをし、
香坂王(かごさか)の反乱を聞いて、新たな戦いの準備をしています。

3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
大倉彦と言えばすぐに高倉神社高倉の神を思い出します。同じ「倉」が付きます。
高倉神社は嶋戸物部氏でした。
ここもその子供たちなどの一族が治めていたのかもしれないと思いましたが、まだ仮説の状態です。

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さて、この神社には相殿が多いのですが、その中に貴船神社があります。
境内には山からの湧水を祀るところがありました。
祭神の大倉彦と大久羅姫はここで水神を祀っていたのではないかと思いました。

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そして、たまたま旗竿にふさわしい竹があったのでしょう。
大倉彦は竹を伐り出して皇軍に奉仕し、
神功皇后はその恩に、わざわざ足を運んでお祀りした事から、
神社の名称が「勝山勝田」という凱旋の名前に変わったのだと思いました。

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境内の古木です。

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住宅が密集する北九州ですが、神社の緑は驚くほど深いです。

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参道からは印象深い山が。帆柱の木を切ったという帆柱山でしょうか。
帆柱山と皿倉山はどちらがどれか、よく分かりません。
地元の方教えてくださいね。

地図 勝山勝田神社






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by lunabura | 2012-01-26 13:53 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

大元稲荷神社と造化宮・物部胆咋と皇后の木材調達


大元稲荷神社と造化宮
北九州市小倉南区徳力
徳力の語源は「採り木」から
物部胆咋たちは木を伐採した
 

今回はタイトルに困りました。
探しているのは「西伏見稲荷神社」だったのですが、
そこにあったのは「大元稲荷と造化宮」だったからです。

小倉の「徳力(とくりき)」という地名は「採り木」から派生したそうです。
誰が木を採ったのかというと、神功皇后物部胆咋です。
物部胆咋(もののべのいくひ=膽咋)が護衛の阿部高麿助麿兄弟を
連れて皇后と共にやって来たといいます。
阿部の高麿と助麿は、その後、下関市の忌宮で戦死した人です。

何のために木を採りに来たのかと言うと、造船のためです。
木を伐採した話は北九州市から山口県まで各地に残っていました。
徳力はその中の一つです。

神功皇后と物部胆咋と阿倍高麿と助麿。
この顔ぶれがそのまま祭神として「宮司武神社」に祀られていると知って、
取材に行く事にしました。

しかし「宮司武神社」は貴布禰神社(水の神系)の中に祀られていたのが、
秋葉神社(火の神系)に合祀され、
その秋葉神社も西伏見稲荷神社と改称したということで、社号は消滅していました。

地図を見比べて、秋葉神社の名を小倉南区徳力5丁目に見つけたので、
出掛けて行って現地の地形を確認する事にしました。

行ってみると、いつのまにか神理教の境内に紛れ込んでしまいました。
ですから、今回は行った通りに順を追ってそのまま紹介する事にします。

もう日が暮れかかっていました。
現場に近づくと、すぐそばに高架道路が出来ていて、
ぐるぐると同じ所を廻ってしまって辿りつけません。

道の反対から目的地を見ると墓場があって、その中に鳥居が見えました。
探してもそれ以外に見当たらないので廻り込んで近づくと、
車道は狭く、途中からは人道になってしまい、車も止められませんでした。

稲荷なら小高い所にあるはずだからと考えて、山の反対側からアプローチすることにしました。
すると、とても大きな神社の敷地内に出てしまいました。
神理教と書いてあります。

そして目的の山を見ると稲荷の赤い鳥居がずらりと並んでいました。
あった。あった。
喜んで車を降りて扁額を見ると「大元稲荷神社」となっています。
名前は違うけどこの山に違いない。

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上り始めると、分かれ道がいくつも出て来てます。
どこかで合流するんだろうと適当に登って行くと、あれ?稲荷ではない。

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小峯のピークにあるのは「造化宮」という神社でした。
神紋は16弁の菊花?(正しくは日月五星紋)

由緒書きがあったので、読んで驚きました。(一部変更)
造化宮
造化宮は饒速日(にぎはやひ)命の12代物部伊美岐履中天皇の詔をうけて全国の疫病を平癒し、九州に下りこの地に神籬を建て、天在諸神を祀り、万民安全を祈念され信仰の大元を定められたと伝えられる。

雄略天皇の病を平癒した16代物部足奇はその功により天皇より巫部(かんなぎ)の姓と日月五星の御紋章を賜り、この地に居をおく。これが豊国巫部の始めであり、本教の発祥である。

以来、幾多の変遷があったが77代教祖経彦命本教を興すに際し、新たに社殿を設け本教の奥の宮として奉斎する。
祭神は造化三神を中心に天在諸神18柱を祀る。神理教本院
ここは物部氏の神社でした。ニギハヤヒから12代と具体的に書かれています。
履中天皇はwikiでは336年~405年。仁徳天皇の御子です。
この時代に物部の伊美岐がここに神籬を建てて祭祀したのが始まりでした。

物部氏が祭祀した場所だ。ここはもしかして企救(菊)物部の地?
ここは昔は企救郡(きくのこおり)のようなのです。

この縁起では物部伊美岐が初めて下って来たように受け取れますが、
そうではなく、ここはもともと企救物部氏の拠点であって、
伊美岐が先祖の地に戻ってきて、改めて造化の神々を祭祀したのではないかと思いました。

というのは、最初に書いたように、
神功皇后が徳力に来た時、物部胆咋が一緒に行動しているからです。
目的は先ほど書いたように造船のための木材伐採でした。
胆咋が自分の所領地を案内した可能性があるのではないかと思いました。

「木を伐採する」という事で思い出した事があります。

話はそれますが、久留米市の高良大社の「高良の神は
年に一度山の木を数える」という不思議な伝承の事です。
物部胆咋は高良下宮社の祭神になっています。

これまでの私の推論をまとめると、
謎の「高良玉垂神」とは「安曇の磯良と、その祖たる豊玉彦」であり、
「高良の神」とは「竹内宿禰」だと考えるようになりました。
(高良玉垂神と高良の神は別の神)

それから安曇の磯良が去り、竹内宿禰が去ったあと、
「物部胆咋」が高良山一帯を治めるようになったのではないかと推論しています。

胆咋と木材調達の伝承は他にもありました。
だから胆咋(いくひ)と高良山の「木を数える神」と繋がるかもしれない。
と思ったのです。
(ローカルでマニアックな話で済みません。これについては別項で改めて書きたいと思います。)

話を戻しましょう。

とにかく物部氏の名がここに出て来て、仰天しました。
赤い鳥居の上にある造化宮に面食らって、さらに他の道を辿ってみると、
ついに稲荷社に出ました。

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見回すと視界は利かないけれど、もう一つの小ピークの上のようです。
最初に探していた西伏見稲荷神社へと下る道がないかと探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、位置関係からすると、ここが元宮に違いないと思いました。

「稲荷=鉄器そして小峯のピーク」という「武器製作と保管庫のセオリー」
通りの社でした。(るなの勝手なセオリーですが)
ここは物部氏の武器庫だったのだろうと思いました。

そして、胆咋は神功皇后に武器の準備のようすを示すためにここに案内した。
これが本筋だと考えました。

由緒書きがありました。
大元稲荷神社
当社は古来豊国巫部家の邸内に鎮祭されたものでその勧請年代は定かでない。
文化年間(1804~1815年)教祖の父右七経勝翁が巫部の守護神として祭祀するべく御神託をうけ伊勢外宮より御分霊を奉載した。これを社の中興とする。

教祖幼少のころ小倉藩国学者西田直養翁のもとへ通学の毎夜、絶えず前後を守護するように随行する白狐あり。その後、神理を究めんと行する教え子に数々の神助霊応が絶えず、昭和6年秋境内よりこの地に遷座する。

本教に奉仕する人々の守護神であり、かつ農工商の広きにわたって霊験著しい。昭和47年春改築する。  神理教本院
由来書きを読むと、江戸時代ごろには忘れ去られた聖地になっていたようです。
神理教の教祖によって新たな形で再び稲荷社が出来たのも神縁でしょうか。

写真を撮り終えた頃は暗くなってしまいましたが、
山を降りて来るとまだ明るいので、神理教の方にも廻ってみました。

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これが本院です。
ここにも由緒書きが。
神理教のあらまし
神理教は我が国の古代神道を復活された教派であり、高祖饒速日命天照大神より番民救済のため天璽十種(とくさ)の神宝を授かった時にはじまり、その子孫が代々神示、神術を伝えて、77代教祖巫部佐野経彦命によって祖逑大成されたものであります。
(後略)
ここは物部氏の古神道が再び世に出てきた教会のようです。

こうして、目的の西伏見稲荷神社が大元稲荷神社に変わったのかどうか
分からないまま、日が暮れて帰途に着きました。

神功皇后の伝承のガイドブックに取り上げるには曖昧だったので、掲載をあきらめたのですが、
造船した場所や材木を調達した場所などが明らかになるにつれて、
新羅攻撃の計画がすでにあった事を確信するようになりました。
日本書紀とは様相が違っています。

蛇足ですが
帆柱山で神功皇后の船の帆柱を伐採したというのは地元で有名な話でした。

地図 大元稲荷神社と造化宮と神理教



う~む。この地図を見ると、やはりすぐ南に徳力秋葉神社がありますね~。
ここまで記事を書いたから、書き直しはやめにしようっと。

どなたか行ったら教えて下さいね。



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by lunabura | 2012-01-24 17:59 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅


若八幡神社(2)

神夏磯媛と香春岳と新羅

この神社の伝承を読んで疑問だらけになってしまいましたが、
まずは御祭神を調べましょう。
神夏磯媛(かむなつそひめ)
仁徳天皇
応神天皇
神功皇后
小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)

祭神は本来は「神夏磯姫」を祀っていたのが、
子孫の夏羽たちの怨霊鎮めの為に八幡神が勧請されました。

今回はこの神夏磯媛と夏羽の二つの時代を考えてみます。

景行天皇と神夏磯媛の時代
主祭神の神夏磯媛について、日本書紀の景行天皇の巻で確認しましょう。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを(みやこ)と呼ぶようになりました。
                    
これを読むと、この神夏磯媛のクニの周辺の山岳地帯に
四つほど小国があった事が分かります。
高羽は田川で、莵狭は宇佐だといいます。

まつろわぬ者たちが山岳地帯に住んでいるのは、
鉱山を中心に集落を作っていたのがクニとして発達したのであって、
彼らが人をさらうのは、鉱山の働き手を確保するためだと思っています。
事故が多いため、里人を拉致して働かせるのが手っ取り早い。

景行天皇が来たといっても、彼もまた小国の首長なので、
服従する気などさらさらなかったでしょう。

各国それぞれに鉱山を持っていて、それなりに均衡がとれていた時代に、
神夏磯媛だけが景行天皇に帰順した していたという状況です。
それでは神夏磯媛はどんな鉱山に関わっていたかというと、
この若八幡宮の前に立てば一目瞭然でした。

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神社の鳥居の向こうに、香春岳があったのです。
香春岳と言えば、先に書いたように銅山です。

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これは香春岳の全容です。
右の台形に削られた山が一の岳。祭神は辛国息長大姫大目尊
中央が二の岳。祭神は正哉吾勝々速日天忍骨尊
左が三の岳。祭神は豊比売尊。銅はこの三の岳から採れます。

香春岳の銅山は「辛国(からくに)」が象徴するように、
新羅系渡来人が開発したと伝えられていて、
その末裔に神夏磯媛の系統があった可能性は高いと思います。
神夏磯媛は彼女なりにクニの安泰化を図って天皇に帰順し、
豊かな国造りをしました。
これが景行天皇の時代です。

仲哀天皇と夏羽の時代
次にやって来た仲哀天皇は景行天皇の孫にあたります。
夏羽田油津姫兄妹も神夏磯媛の孫か曾孫に当たるのでしょう。

仲哀天皇と神功皇后が筑紫入りしたあと、この一の岳の向こう側に廻って、
鏡山大神社で鏡に皇后の御魂を鎮めて祀ったと伝えられています。
彼女が奉納するのは大体は銅剣などの武器ですから、よほど重要な山です。
他に鏡を奉納した所は、今のところ私が知っているのは唐津市の鏡山稲荷神社です。
(どちらにも白石信仰があります。)

神夏磯媛の時代は景行天皇が来ても、何とか丸く収めて、
この銅山の実質的な権利をそのまま継承して朝貢で済ませていたのが、
今度は仲哀天皇が来て銅山の権利や朝貢額を確認した上、
今度の戦争への負担を要求されたと思います。

この時応対したのが、夏羽だと思われます。
この時、夏羽側に不利で納得出来ない交渉があったと考えました。
ポイントは仲哀天皇の皇后もまた新羅の王統の血を引いているという点です。
その御霊を目の前で鎮められたのですから、
夏羽側は良い思いはしなかった事でしょう。

銅山経営者から見たら、仲哀天皇は利潤を掠め取るような存在です。
田油津姫がこの現場にいたかどうかは不明ですが、
神功皇后を暗殺しようという気持ちが生じたとしたら、
この香春岳についての利権の問題が絡んでいると考えられます。

田油津姫の暗殺未遂現場として、
「古賀市の小山田斎宮であり、そこで捕えられて殺された」という伝承もあります。
小山田斎宮と言えば、神功皇后が一週間祈祷をして神意を尋ねた所です。
ここに田油津姫がいたとしたら、かなり近しい関係になります。

小山田斎宮で殺されたとすると山門での田油津姫討伐は無いことになります。
山門での戦いの伝承もまた、かなり濃厚にあるので、
仮に暗殺未遂事件が小山田斎宮で起こったとしても、
彼女は山門に逃げて、そこが戦場になったと想像しています。

考えてみると、神夏磯媛から田油津姫にかけての時代は、
佐波から山門まで、かなり広い地域に影響力が及んでいた事になります。

物部氏と土蜘蛛たち
物部氏の分布図に「夏羽と熊鷲と田油津姫」を重ねてみました。
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赤い丸が物部氏です。黒い■が夏羽や熊鷲たちです。
こうして地図を眺めていると、
物部氏は遠賀川や筑後川流域で発展していき、隕鉄やスズ鉄を生産していたのが、
川が堆積して陸化して行ったために原料確保が出来なくなって行き詰まり始めた
状況が読み取れます。

一方神夏磯媛や鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折、羽白熊鷲たちは
山の方に住み分けして金や銅を生産し、
あるいは買い付けた鉄原料などを鍛冶生産していました。

川が陸地化して行く事が両者のバランスを崩し、
軋轢が大きくなって行った原因の一つになったと思われます。

しかも、韓半島ではすでに鉄鋼石を製鉄する時代に入っていて、
どんどん鉄製品が流通していきます。
庶民の農機具まで鉄製品になって行きます。
その人たちの一部が筑紫に入って来る時代です。

その韓半島では、紀元1世紀の首長の中には、
古墳の床に鉄の延べ板をびっしりと並べる者まで現れました。
(慶尚北道 舎羅里(さらり)130号古墳)

鉄は貨幣の代わりを成すようになり、
あらたな経済の枠組みが生まれようとしていました。
神功皇后が奉納して廻った青銅の武器は時代遅れになろうとしていました。

そんな時代の変化のうねりの中で、夏羽と田油津姫は殺されました。
倭国が香春岳の支配権を新羅から完全に断絶したとなると、
新羅本国との戦いは避けられない状況が生まれて来ます。
それまでにも豊浦宮では、仲哀天皇が新羅の襲撃を受けている事も
忘れてはなりません。

夏羽が妹を助けるために軍を起こした事は
物部軍に夏羽討伐の格好の口実を作ってしまいました。
そして夏羽軍が滅びた事は、天皇家の筑紫~筑豊の金属生産の
完全制圧という結果をもたらしました。
そして視線は海を越えて鉄の豊かな韓半島へと向けられました。

仲哀天皇を亡くして暴走する物部軍をもう制する事は出来ない。
神功皇后は新羅攻撃を拒否できない状況に立たされました。
このあと、神功皇后は筑紫の西の方の那珂川町へと連れられて行きます。
(現人神社、裂田神社・伏見神社)

(注。仲哀天皇9年を西暦200年として考えています。新羅がまだ辰韓だった時代です。
新羅は「社局」が母胎だと言われています。)

参考
舎羅里(さらり)130号古墳 紀元1~2世紀
新羅の母胎「社局」の近くで発掘された慶尚北道「舎羅里(さらり)130号古墳」
の記事と副葬品(韓国のサイトです。)
鉄の延べ板が63枚敷き詰められている。
 http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=ko%7Cja&u=http://www.yeongnam.com/yeongnam/html/yeongnamdaily/culture/article.shtml%3Fid%3D20100526.010200807020001
(つづく)




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by lunabura | 2011-07-25 16:22 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(22)

若宮八幡宮・「三十六歌仙絵」


若宮八幡宮
福岡県宮若市水原395
岩佐又兵衛の「三十六歌仙絵」があった宮
古代の交通の要衝


宮若市は福岡~犬鳴峠~北九州の東西ラインと
宗像~見坂峠~飯塚の南北ラインの交差する所にあります。
古代からの交通の要衝です。
その交差する中央点近くに若宮八幡宮はあります。

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「若宮八幡宮」という小さな信号機からまっすぐ進むと、突き当りに神社は見えます。
如何にも古社らしい風情は遠くからでもすぐに分かりました。

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小さな池にかかる太鼓橋を渡ると、時を経た狛犬や手水舎などがあって、
次第に歴史の深い層に入っていくようです。

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神門があります。江戸時代だぁ。

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神門に掲げられた山笠の札を見ると祭りの熱気が伝わって来ます。

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拝殿の中を覗くと床几が沢山並べられていて、
祭りの神事で参拝する若衆たちの神妙な後姿が目に浮かぶようです。

参拝を済ませて、振り返ると案内板がありました。
若宮八幡宮の岩佐又兵衛筆の「三十六歌仙絵
岩佐又兵衛勝以(かつまさ)(1578~1650)は江戸時代初期に活躍した著名な画家で、浮世絵の祖といわれ、屏風絵や絵巻物などに優れた作品を残している。

この若宮八幡宮の「三十六歌仙絵」は豊頬長顎と呼ばれる又兵衛独特の人物表現がみられ、各画面に又兵衛の用いた印章が押されているところから、又兵衛真筆の作品であることがわかる。

彼は「三十六歌仙絵」を得意にしていたが、36人ともそろっている作品は仙波東照宮(埼玉)の扁額とこの作品の二組だけである。またこの作品に描かれた歌仙の組み合わせは非常にめずらしく、又兵衛の歌仙絵の中でも、代表作のひとつといえる貴重なものである。

この歌仙絵は役場の金庫に保管されていたものを改めて鑑定してみて、
作者が分かったそうです。昭和60年の事です。
新聞でもかなり大きく報道されたので印象に残っています。
その写真は拝殿の壁に展示されています。本物は福岡市美術館にあるそうです。
ここに何故この絵が来たのか、いろんな謎解きがされています。
調べるの、面白そうですね。
(でも江戸時代はパスしよう。るなは弥生人ではないかと最近思う。)

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これはいくつもあった古木の中でも群を抜いて長寿だったクスノキです。
いきいきと葉をつけていて、とても元気です。幾久しく栄えたまえ。


そうそう、肝腎の御祭神は
応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰
です。
このブログで何度もお目に掛る顔ぶれですね。

祭神に関する縁起は残っていないようですが、
ここは仲哀天皇神功皇后遠賀川流域から香椎宮に向かう時に、
通ったルート上にあります。
だから祭神の内、神功皇后と武内宿禰はここに来たに違いないと思っています。

鞍手から白山嶺を超えてようやく平地に下りて来た所にこの宮があります。
ここから先は見坂峠という難所が待っています。

鞍手郡から香椎宮にかけて神功皇后伝説のある神社を載せてみました。
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見事に古代の道が浮かんできました。
鞍手郡は物部氏の本貫地と言われていますが、
鞍手郡誌によると、弥生時代から古墳時代にかけては
ニイギタ物部が中心だそうです。地名にも「新北」が残っています。

こうして仲哀天皇の遷宮のルートを整える準備は大変だったはずです。
言いかえれば、このルートは物部氏が抑えているルートなのですね。

日本書紀によると、一行は仲哀8年1月21日に香椎宮に着いているので、
真冬の山越えです。今でも雪が降ると通行止めになるような所です。
雪解けを待たずに移動したのは何でだろう。
福岡って夏は草木が生い茂るから、夏は大変だもんね。
古代の人には雪なんて大した事でもなかったのかな。
知れば知るほど、新たな謎が出て来ます。




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by lunabura | 2011-07-12 18:14 | 若宮八幡宮・わかみや・宮若市 | Trackback | Comments(2)

媛社神社(七夕神社)(1)ニギハヤヒを祀っていた?


媛社神社(七夕神社)(1)

ひめこそじんじゃ・たなばたじんじゃ
福岡県小郡市大崎
四つの名前を持つ神社
ニギハヤヒ命を祀っていた?

二つのヒメコソ神社
ヒメコソ神社という神社が近くに二つあります。
小郡市の媛社神社と鳥栖市の姫古曾神社です。どちらもヒメコソです。
今回は小郡市の媛社神社に行きました。

この媛社神社は前回の隼鷹神社から6キロほど宝満川を下った所にあります。

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この神社も水田の中の集落の中のこんもりとした杜を探せば辿りつけます。
石段は正面の数段だけですが、周囲より少し高い所に立つ点では、
これまでの4つの神社とよく似ていました。

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藤棚を右に見ながら参道を進むと、広くて明るい境内に出ました。

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拝殿です。御祭神は媛社神織姫神です。
この神社は地元では七夕神社と呼ばれて人々に慕われています。

歴史
由来を伝える資料がいくつか展示してあったので、それを時代順に並べてみました。
縄文時代 5000年前の遺跡で炉の跡が出土した。
弥生時代 各所に集落が出来る。県道原田駅大崎線(七夕通り)を建設する際には、
       字中ノ前でまつりの跡が発見された。水田が広がる。
奈良時代 1300年前。田畑を区切って耕地を整理した条理の跡が出る。
平安時代 ここを含めた筑後の国の献上品は米と織物だった。(延喜式)
天文3年(1534)三原郡大崎村という名前が初めて文字資料に出てくる。
明治17年(1884)戸数60、人口314
平成22年 戸数538、人口1465

弥生時代から祭りがあってたんですね。
平安時代には米と織物を献上していたので、織物がさかんだったのが分かります。
明治時代には人口が314人とは!わずか60軒でこの神社を支えていたのでしょうか。
昔の人はエネルギーがあったんだなァ。

この小郡市は考古学的な発掘が盛んで、
神社でこのように古代からの歴史が学べるのはさすがですね。

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こんな弥生土器の出土物まで展示してありましたよ!
本物が伝える力ってパワフルですよね。

四つの名前
今回はこの神社の扁額に注目しました。

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一の鳥居には金色で「媛社神社」と書かれ、

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二の鳥居には「磐船神社・棚機神社」と書かれています。
通称の「七夕神社」を加えると四つの名前がある事になります。
長い歴史の変遷を思わせます。
今日はその中の磐船神社について考えてみます。

磐船神社(いわふね)
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですが、ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
ここ小郡市も物部氏の里です。
ですから大阪と同様にニギハヤヒ命が祀られている可能性があります。

この地域のかつての地名「三原郡」は「御原郡」とも書かれていて、
「御原郡衙」(みはらぐんがー役所)がすぐそばにあります。
遺跡群から、邪馬台国の時代にはここには「御原国」があったと考えられています。
前回の隼鷹神社の北の三国の鼻から宝満川沿いに下って来て、
この大崎の遺跡などまでが御原国の勢力範囲の中心で、
御原国全体の拠点集落は大板井だという事です。(参考 小郡市史)
飛鳥と言う地名もすぐそばにあったし、昔から重要なクニだった事が分かりました。

時代が下がって鎌倉時代になると、御原国には武士団・三原氏がいて、
筑後武士団のリーダー的存在でした。
彼らは太宰府官人の大蔵氏の一族で、刀伊の入寇の時にも活躍しました。

宝満川のそばにある端間(はたま)という地点は水運の連結点で、
その上流では帆かけ舟を使い、下流では潮汐を利用して運行していたそうです。
(参考 『宗像大宮司と日宋貿易』 服部英雄)

この精鋭武士団がこの地で形成されたのは、
物部氏という「もののふ」の中心地だったからとなりますが、
御勢大霊石神社や隼鷹神社の歴史を知ると、精神的な背景として
仲哀天皇の時代にむざむざと天皇を戦死させてしまった屈辱的な事件が
武士団としての精鋭化に駆り立てたのではないかと思いました。

彼らは「もののふ」であり、「もののけ」の神を祀る氏族でもあったので、
ここに物部氏の祖であるニギハヤヒを祀り、磐船神社と名付けたのではないか
と考えました。
宮司さんもこの神社はもともとニギハヤヒを祀ったはずだと言われているそうです。
その痕跡は祭祀の形に何か残っているかもしれませんね。

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(古事記の系図ではニギハヤヒは物部の祖となっています。)

そんな物部氏の神社と棚機神社が対等に書かれている理由は何でしょうか。
次回は棚機神社について見て行きましょう。

隼鷹神社
御勢大霊石神社
飛鳥

地図 隼鷹神社 媛社神社 大板井 飛鳥





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by lunabura | 2011-06-29 22:06 | ヒメコソ神社・小郡 | Trackback | Comments(2)

裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?


裂田神社(2)
「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
1800年前の行事が続いていた

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(神社から裂田溝(さくたのうなで)を見る。)

前回の案内板の記事に
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たきごもりをする。

という文があって、驚きました。
これって、地元の真鍋氏の本に書いてある伝統行事じゃない?
まさか「お火焚き」が残っているとは!

真鍋家って那珂川町の物部氏だったと言うのですが、
その物部氏の末裔が書いた本が『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』。
あまりの難しさに地元では忘れられているようなのですが、
私はこのお蔭でずいぶんと謎解きが出来ました。
今日はこの本を書かれた現地で読んでいきたいと思います。


那珂川では仲哀天皇の頃からお火焚きの催事が始まり、今も部落ごとに守られている。
氏族は自分たちの部落の新年の暦を神に供えて、古い暦を焼き捨てた。これが「お火焚き」で、その語源はギリシア語の「キタヒ」で「書物」の意味である。

陰暦12月15日の夜を「お火待ち」として、部落の一族が一つ家に集い、夜を徹して酒宴をした。この夜には「お火待ち星」(オリオン座のペテルギウス)が夜空に昇った。この星を別名、神直毘星(カムナビ星)とも呼んでいる。


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オリオンは冬の星座。冷たい冬風の中に堂々とその姿を表します。
オリオンの三ツ星は船乗りにとっては道しるべとなる大切な星で、住吉様と呼ばれました。

そのオリオン座の一番高い所にある赤い星がペテルギウスです。
農業をする者にとっては、収穫が一段落して、
土木工事や、農機具を整える季節が来た事を教えてくれる星でした。

「神ナビ」とは暦を作る為に月日を正しく並べる行為をさします。
この星が出る頃は、出来上がったばかりの翌年の暦を祝う時でもありました。

その暦を作ったのが物部氏です。
暦を作るのに必須事項は「満月とついたち(朔月)」と「月食、日食」の完全な予測だった。木の幹を大小に小さく切って、1年の月日を並べ衆議一決するまで立て替え、並べ直して納得のいくまで日取りを組んだ。暦が出来上ると氏族一同に触れて廻り、年毎の資料は神殿に奉納して子々孫々に伝えた。

満月は夜午後8時に昇り、朔月は午前4時に沈む。当時、二つの家系があって、一日の始まりを午後8時とする家系と、午前4時にする家系があった。この為に生じるずれは無理に合わせず、暦の日付を空欄にしておいて、それぞれの家系で解釈できるようにしていた。(神社や寺の銘で日付が空欄になっているのはこれが原因)

私たちは当たり前のようにカレンダーを手にしますが、旧暦のカレンダー作りは今でも計算と予測が大変で、閏月(うるうづき)の入れ方がとくに難しいそうです。

しかし季節がよく予測できるために、現代でも農業や漁業関係者はもちろん、洋服の製造や仕入れの業者など、季節ものに関わる人の大切な情報源になっています。

暦の編纂を行ったのは那珂川町では真鍋勝次が最後で、勝次は陰暦11月になると沐浴潔斎して暦の計算に取り掛かかった。その遺言は     
「明治43年4月19・679日にハレー彗星は近日点を通過する」という内容だった。
明治42年に亡くなったが、この遺言は的中した。

ハレー彗星は、西洋で発見されるよりずっと前に、日本で知られていたそうです。
その予測に成功させる事は、和暦のレベルの高さを証明する事になるので、勝次氏は渾身の力を込めて予測されたのでしょう。

長距離の測量には球面測量の計算が必要だそうですが、そんな計算法も古代から伝わっていました。
古代祭祀線を理解するには、こんな事も計算できないといけないので、
るなさんはお手上げです。くるま座さん、頑張ってくださいね。
と言う事で、「火たきごもり」という行事は「古い暦を焼く」ことから始まったのが分かりました。この行事が1800年も続いたとは素晴らしいですね!

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(裂田溝から裂田神社を見る。)

暦については、後の世の闘争の原因にもなって行きました。
曽我氏と平群氏がいて、早良郡脇山に住んでいた。平群氏は一年の元旦を望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革した。

曽我も平群も「月」の意味で、「曽我」は月の東洋的異称。「平群」は月の西洋的異称だった。これが暦法の採否を巡って中大兄皇子の激烈な論争と対決の背景となった。

ここに出てくる早良郡脇山とは福岡市の西の方にあります。
那珂川町からは西北の方になります。
朝鮮半島で国の興亡があるたびに、大勢の人たちが逃げて来て、それぞれに集落を作っていました。
亡命者同士、緩やかな和平関係が結ばれていたと思われますが、
水利権の争いや、どの氏族の暦を採用するかなど、将来の氏族闘争の火種が生まれました。

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これは「和名抄」に書かれていた地名を現代の地図に落としてみたものです。
平群氏や曽我氏が福岡に居たのは地元でもあまり知られていません。

竹内宿禰が近畿地方に渡来人たちを連れて行って開拓した話になっているそうですが、
そうすると、このエリアに集結していた渡来人たちが、竹内宿禰や神功皇后が
東征した時に、一緒に大和地方に移住したのではないかと考えるようになりました。

彼らが土木技術に長けていた名残がこの裂田溝かもしれません。
ちなみに、実際に工事したのは国栖(こず・くず)と呼ばれる部族です。

ギリシア語で「月」を「フェンガリ」と言い、「ヘグリ」と変わったと思われる。
近東系の出であって、月氏(ササン)の子孫であったと思われる。
早良(さわら)には平群氏が百済人をここに租界せしめた。

考古学的にも、各地の地域の土器が一か所で発見されたり、
朝鮮式の古墳があったりするようなので、
少しずつ、そんな資料に当たって行きたいなと思っています。

                   (裂田溝と安徳台につづく)




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by lunabura | 2011-05-11 19:19 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(4)

高良下宮社(1)ここも御祭神に異伝あり


高良下宮社(1)
久留米市御井町
ここも御祭神に異伝あり

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高良大社の一の鳥居の脇から右へ。昔のたたずまいを残す参道を
100mほど入ると、高良下宮社の脇に着きました。

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広い境内は二段になり、拝殿が三つも並ぶ大きな神社でした。
このブログでは、このような構造は初めてです。
なんだか江戸時代にタイムスリップしたようで、わくわく。

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中央の拝殿です。昔はここに参拝してから上宮に向かったそうです。
御祭神について、説明板があったので、まずは書き写します。

高良下宮社
祭神(中央)高良玉垂命 (右)孝元天皇 (左)素盞鳴尊(スサノオ)
高良下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400)あるいは天武天皇の白鳳2年(664)の創建といわれています。
上宮を遥拝する位置にあり平安時代には国司のつかさどる名社で「高良宮下宮」と呼ばれていました。  (略)
高良山の自然と史跡を守る会 昭和58年2月

さて、この中央の御祭神は謎多き高良玉垂命(こうら・たまたれのみこと)でした。
この神さまについては上宮でまた考える事にして、
今回は左右の神さまについて見て行きましょう。

左にはスサノオの命が祀られていました。
スサノオの命は、流行り病や、牛馬の病などを助けてくれるので、
よく祀られています。ここもそうなのでしょうか。

驚いたのは右の孝元天皇です。なんで驚いたのかと言うと
神功皇后仲哀天皇の共通の先祖だからです。
しかも、竹内宿禰の先祖にもあたります。
系図を書いてみると、三人は孝元天皇から別れた親戚筋だったのが分かります。

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仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰が三韓征伐の為に筑紫に集まったのも
共通の利益を持っていたからだというのが分かります。

神功皇后が久留米の高良山神籠石味水御井神社で祈った伝承から、
彼女がこの地に来たようすが伺えるのですが、
それには竹内宿禰の軍事的な背景があってこその移動でした。
何しろ、彼女は筑紫の事は何も知らないのですから。

それに弥生時代の話です。この辺りは筑後川がしょっちゅう氾濫していて、
川の流れは一晩で変わり一夜川とも呼ばれていました。
船旅とはいえ、簡単ではなかった。野営をしながらの旅です。
この高良山の麓には武内宿禰の居城があって、
一息つけたのではないかと考え始めました。

歴史論を見ると、大和政権が九州を制圧した歴史のように捉えてあるのを
よく見かけるのですが、この時代はそうではないのが分かって来ました。
竹内宿禰こそ、筑紫の大王のような存在で、
仲哀天皇を招いて迎えたのではないかと考えるようになりました。

と言う事で、ここに三人共通の先祖の孝元天皇が祀られているのは
衝撃に近かったです。

孝元天皇の名前を古事記で調べると
大倭根子彦国玖流命(おおやまと・ねこ・ひこ・くにくるのみこと)でした。
都は軽の堺原の宮。ざっと見積もって弥生時代中期の人。

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弥生の中期って日本の遺跡はどうなってるんだろと、
2010年出版の、『邪馬台国 九州と近畿』の年表を見てみると、
考古学的な賑やかさは福岡が圧倒的で、近畿には大きなムラやクニがないよ…。
朝廷が近畿にあったというのは思い込みだったんだ。
福岡と大和地方の地名は重なり合ってるから、勘違いしてた。
これまでは孝元天皇の時代って、近畿の歴史だと思ってたけど、
思い込みだったんだ…。(けっこうショック)

御祭神はこの辺りで切り上げよう。念のためにと「御井町誌1」を
見ておこうと読んでみて、またまたオドロキ。

下宮杜の祭神は、高良玉垂命を中心にして、左右に物部膽咋連命武内宿禰命である。
平安時代には国司のつかさどる名社で「高良宮下宮」と呼ばれていた。

と書いてあったのです。そんなあ…。話が違う…。
気を取り直して、物部のイクヒを日本書紀から探すと、いたいた。
香椎宮で仲哀天皇が崩御した時に、その事後処理の会議に参加したメンバーで、
宮中警固に当たった人でした。
そうすると、左右に祀られる物部のイクヒと竹内宿禰は同時代の人。
じゃあ、中央の玉垂命は誰?
ああ、やっぱり高良の神さま探しは泥沼だ…。
御祭神についてはこのくらいにして、境内を見て回りましょう。
なんと、そこにも謎だらけ…。(汗)(面白すぎる…)

ブログ内お散歩
この話の背景を確認するには、神社なら香椎宮へ。
『古事記の神々』なら、竹内宿禰神功皇后へ。

今のところ神功皇后は未完成です。



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by lunabura | 2011-04-16 13:37 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(2)

鏡山稲荷神社(2)異世界は磐座の世界だった/イナリと鉄と悲恋


鏡山稲荷神社(2)
異世界は磐座の世界だった
イナリと鉄と悲恋



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細い山道の古びた赤い鳥居が私を誘う。
異世界への入口のように人の気配がない。
鳥居の扁額を見ると、鏡山神社、白玉神社、そして、荒熊神社。
ええ?なんと色んな名前がついている…。

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道は舗装されているけど、ずっと昔から信仰の対象になっている気配にドキドキ。
そして、参道がどんどん下り道になっていく。ええ?参道が下り坂?
途中、右の高台にも鳥居があったけど、今日は下へ下へと行ってみた。

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とりあえず荒熊神社と書かれた鳥居から左に入ると、またもや下り。え?急坂を下る?
祠が見えた。そして懐かしい巨岩を発見!盤座だ!

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祠の前に立って見上げると、「白玉稲荷大神」と書いてある。
でも、寸前の鳥居には「荒熊神社」って書いてあったんだよ。どうなってるの。
それに、この祠の建つ場所が半端じゃない。巨岩と巨岩の上に、またがって建てられているのだ。

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ガラス越しに覗くと、お稲荷さん。幟には、荒熊稲荷大明神と書いてある。
白玉なのか荒熊なのか、よう分からんけど、同じものを指しているのだろう。
ここはまさに稲荷信仰。
でも、みんなに見てほしいのは左右に迫る岩。磐座信仰の上に稲荷信仰が重なっているのだ。

稲荷と磐座…。同じ組み合わせがあった。そう、大嶽神社。
あの時、磐座の上に神社が建ってるんじゃないかと推測したけど、同じパターンだ。
ここはさらに原形を残してる…。

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あちこちのめぼしい岩の上には祠が置いてある。祠だらけと言っても過言ではない。

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斜度はかなり厳しい。石段が置かれていなければ、手をついて上り下りするような所なのだ。
下界を覗くと立岩が二つ、急斜面に立っている。人工的な気配がある。
巨石研究会のメンバーならあの岩を調べるだろう。
でも、完全装備で降りないと無理…。一人じゃやばい。
かつて、西日本各地の巨石・磐座を見て回った記憶が蘇って来た。
自然の造形を巧みに利用して、人の手をさりげなく加えた祭祀遺跡の数々。
ここも、そんな所だ。

前回の鏡山の写真を見直してほしい。私はあの台形の山の急斜面にいる。
下からはずっと風が吹いて来て、顔が冷たくなった。
上昇気流が絶え間なく吹きつけるのだ。
風とイナリ。ここは古代のたたら製鉄の場所だ!
そうか。こんな所なんだ。

今は分かる。
「イナ」は鉄の事。たたら製鉄には風が必要で、風の神を祭る。
でも、ここに祀られるのは白玉。「白玉」ももう分かる。「隕石」の事なんだ。

これは秘中の秘だったので、もう誰も分からなくなってしまって、
キツネを祀るようになったけど、キツネの口にくわえている
「宇伽のみたま」が隕鉄のシンボルで、「巻き物」は暦の事。
キツネという単語だって、語源は「日経」(ひつね)つまり「暦」のことなんだ。
平安時代にすでに狐と稲荷という形に変わってしまった。
成長したな…。我ながら。(涙)難解な眞鍋大覚さんの本が少し分かって来た。

魏志倭人伝にある。「倭人が伽耶に行って、鉄を買いあさる」と。
伽耶から倭国に帰って来るとしたら、この唐津・松浦か志賀島・新宮にまず
船をつける。そのどちらにも古代製鉄の痕跡があった。
特にこの鏡山の断崖絶壁は一般人を寄せ付けず、製造した武器の盗難の心配がない。
これが志賀島あたりでは、島に隠すしかなかった。

松浦佐用姫狭手彦を慕って涙の日々を送ったけど、
狭手彦は新羅と戦い、次には高句麗と戦った。その時の兵の数は数万と書いてある。
数万と言う数字がオーバーだったとしても、
準備する船と武器の数は少々のものではない。
それを支えたのが、この鏡山の可能性が高い。
誰か、ここの古代製鉄所を調べていないだろうか。
鉄滓で山になった所があるはずだ。

狭手彦は高句麗に勝って、宮殿の豪華な品々を持ち帰り、
二人の美女を連れて帰って、蘇我の稲目に貢いでいる。
彼は勝利に酔いしれて、佐用姫にはもう興味を失った事だろう。
戦に向かう時には鏡をくれるような優しかった男が、
戻って来ると佐用姫には目もくれなくなった。
そんな狭手彦の心変わりが理解出来なくて、佐用姫は泣き続けた。

と、ルナは想像するのでした。

帰りは、車道から浮嶽が見えるのを確認して一安心。
唐津もまた古代史の風景がそのまま残るいい所でした。

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向こうの山の富士山のような形の山が浮嶽です。


この物語を理解するために
狭手彦の訳はしていませんが、「蘇我の稲目」を読むと、「狭手彦」が出て来ます。
「鉄とイナリ」は大嶽神社へ。
「隕石」の話は古物神社へ。だったっけ…。
浮嶽神社もレポートしてます。


地図 鏡山





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by lunabura | 2011-03-03 13:34 | 鏡山稲荷神社・佐賀・唐津市 | Trackback | Comments(3)

穂掛神社 にぎはやひの降臨した笠置山の麓 美しい渓流に聖地はあった


穂掛神社
ほかけじんじゃ
福岡県宮若市宮田 (いこいの里・千石キャンプ場)
ニギハヤヒの降臨した笠置山の麓の神社
古代の人は渓流を遡って、
この美しい聖地を発見したんだ

一度目の穂掛神社探しは失敗したけど、戻る途中にやっと見つけた人に尋ねて、
大体の場所が分かり、再びトライしました。
飯塚方面から入り、八木山川を力丸ダムに向かって行くと、
美しい渓流があり「いこいの里 千石」として整備されているキャンプ場があります。
その中に目指すニギハヤヒを祀る穂掛神社はあると言います。

12月半ばというのに、半袖シャツ姿でバーベキューをする人たちを発見。
幸いにも管理棟の人が落ち葉を掃いてるのに遭遇しました。
「穂掛神社を捜しているのですが。」
「ここの対岸にありますよ。」
「車はどこに置いたらいいでしょうか。」
「この駐車場に置いたら、橋がありますよ。」
という事で、管理棟からすぐ対岸にあるのが分かりました。
橋があるという意味がよく分からず、対岸の駐車場へ。
細い細い橋を車で渡りました。
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駐車場を降りると、桜並木が。枝ばかりですが、もうつぼみを付けていて、
木がほんのりピンク色に染まり出しています。
花が咲く前に幹が色づく時も魅力的です!
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橋が見えました。これが教えてもらった橋だったんだ。
歩いて渡れるようになっていました。向こうの木々は落葉樹。
夏はさぞかし青々としているのでしょう。
その橋を左に見ながら川岸を進むと鳥居がありました!
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なんと趣のある…。
美しい渓流の岸からすぐに上がった所に、目指す穂掛神社がありました。
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石段を上がると小さな川がありました。
山から流れ出た支流が八木山川に注ぐ場所でした。
山際にしては珍しく開けた場所です。小さな橋を渡って神社へ。

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これが拝殿と神殿です。
ここで、前に紹介した天照神社の由来を思い出しましょう。

天照神社の由来は、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に降臨し、同77年に笠置山頂に奉仕した事に始まります。その後、千石穂掛谷、明野(脇野)と移り、延慶元年(1308年)に、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、西国探題惣政所(そうまんどころ)玄朝(げんちょう)の造営により、現在地に移されました。

(崇神-垂仁―景行―成務―仲哀―応神―仁徳)
ニギハヤヒが笠置山頂に降臨して、千石穂掛谷に移ったとありますが、
ここがその「千石穂掛谷」になります。
この近くに笠置山の登山口があり、一時間ほどで登る事が出来ます。
それにしても、何と奥深い所でしょうか。
現代は道も整備されて、車で難なく来られますが、
かつては、渓流沿いに数日歩かないと辿り着かないような場所です。
その為に神社が麓へ麓へと降りて行きましたが、その事情を貝原益軒が書いています。

この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所です。

その後60年過ぎて、同じ帝77年の春、笠城山の上に初めて神殿を作って崇めました。秋ごとに初めて刈り取った稲の初穂を大神に奉納しました。秋の収穫の頃、民は暇がなくて峰の上まで登山するのに困っていたので、麓の谷に稲の穂を掛けて奉ったので、その谷を穂掛谷と名付けました。今佛谷というのは訛っているのです。

その後、允恭天皇の御世にこの社(頂上)が野火に焼けてしまいました。人里から離れているのでこんな災いがあるのだろう。老人や子供たちが高い山に登るのも難行だしと言って、麓にある穂掛谷にあらためて作って移しました。その時、数千の石を集めてその上に神殿を建てたので、千石原と言うようになりました。

今いる所は稲の穂を掛けた事から穂掛神社と名がついて、
数千の石を集めて神殿を建てたと言い伝えていました。
今でも千石の地名が残っているんですね。

水田を作るような地形はずっとずっと麓に行かないと見当たりません。
やはり稲の穂でなく、葦の穂の可能性が高いのではないかという思いを
捨て切れませんでした。
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盤座信仰でもあったのではないかと、神殿の裏をのぞきました。
左脇に30センチほどの鏡岩と榊のための竹筒がありました。
こんな形が祈りの本来の姿かもしれません。
裏の岩盤そのものは普通の崖のようで、盤座ではなさそうです。

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左右に古い祠がありました。この祠の御神体は石でした。
他の祠にも石英を含んだ神体石などがありました。

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神殿を背中にして境内を撮りました。バンガローになっていました。
こんな聖地に泊まって見る夢はどんな夢だろうと思いましたが、
あと数十年すればこれらは朽ち果ててしまいます。
その時、もとの聖地に復元出来るのだろうか。
ここが日本の神話の謎を解く重大な手掛かりを持つ聖地だと考える人なんて
私ぐらいなんだろうかと思うと、さみしい感じがしました。

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拝殿から渓流へ戻る道です。

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神社の前には沈下橋がありました!
橋を渡ってから再び神社を振り返りました。
ここが古代から聖地として祀られた理由がよく分かります。

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真冬でこの渓谷美です。新緑の季節はさぞかし美しい事でしょう。
何度でも訪れたい所、見つけました!



いこいの里“千石”キャンプ場 宮若市公式HP
http://www.city.miyawaka.lg.jp/hp/page000001200/hpg000001181.htm



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by lunabura | 2010-12-25 19:01 | 穂掛神社・ほかけ・宮若市 | Trackback | Comments(6)
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