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天照神社(3)九州の物部氏の分布図・日本の太陽神は二系統ある


天照神社(3)
九州の物部氏の分布図
日本の太陽神は二系統ある


さて、この鞍手郡や宮若市の神社と物部氏については、奥野正男氏が詳しく書いてあります。
(『日本の神々―神社と聖地―九州編』谷川健一編)

今日はそれを道しるべに、忘れ去られた物部氏を見て行きましょう。
福岡県の物部氏の分布
ニギハヤヒは『先代旧事本紀』で物部氏の祖とされ、その同族は全国にひろく分布する。九州北部では筑後国の三瀦(みづま)・山門(やまと)・御井(みい)・竹野・生葉(いくは)の各郡を中心として、筑前国では嘉麻(かま)・鞍手(くらて)両郡・西には肥前国の三根(みね)・松浦・壱岐(いき)へとひろがり、東には豊後国まで分布する。
さらに海を渡って伊予・讃岐を経て紀伊・大和にひろがる。

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さて、本に出て来た地名を赤い丸で描いてみました。
筑後平野を見ると筑後川を中心にしてその微高地にその地名があります。
(有名古墳群と結構重なってない?)
遠賀川(おんががわ)水系は丸が二つですが、面で捉えて下さい。
今回の天照宮は北九州市に近い赤丸の所です。
こうして見ると、福岡県では物部氏は遠賀川水系と筑後川水系を
中心にして集落を営んでいた事が分かります。

佐賀県からさらに長崎県に目を移すと、松浦市に赤丸です。
ブログで紹介した梶谷城があります。
このあたりの海が全部見渡せる、松浦党の根拠地でした。
左上にある壱岐も長崎県です。百済や新羅に渡るときには必ず泊まる所です。

こうして見ると物部氏が船舶と湊を掌握していたのがよく分かります。
葛城襲津彦があんなに簡単に伽耶なんかに行き来した時も、この航路を通っている訳です。
面白い事に、博多湾あたり、那の国には赤丸がありません。
阿曇族とは住み分けてたのかな。

地図の緑の▲ニニギの命の降臨の伝承の馬見山、
ニギハヤヒの命の伝承の笠置山です。いずれも遠賀川水系です。

太陽神は二系統ある
続きを読みましょう。
ニギハヤヒを祀る天照神社は、アマテラス大神を祀るものとは別な系統に属している。しかし、両者は日神(太陽)を祀るという天神系共通の性格をそなえており、弥生時代に鏡祭祀を発達させた九州北部に、その発祥の源を求めることが可能であろう。

また、古墳時代に入ると、近畿を中心にして鏡祭祀が新しい発展をみせ、それにともない、日神を祀る天照御魂神社が畿内に祀られるようになる。

大和国城下郡鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにます・あまてるみたま)などがそれで、いずれもホアカリ(=ニギハヤヒ)を祀るという伝承をもっている。

確かに、アマテラス大神が男か女かという問題を聞いた事があります。
古事記では女神になっていますが、世界中で見ると、太陽が男神で、月を女神とするほうが一般的です。
いろんな所から渡来人が来た事を考えると、日本における太陽神を男女のどちらかに決めるのではなく、
単に氏族によって、日神の性別が違ったという歴史があるだけだという事が分かります。

日神は男神だ、女神だと決めつけずに、文献や神社史を読めば、
氏族別の宗教観、自然観があるがままに受け取れるはずです。

さあ、続きを読みましょう。
また、谷川健一氏は『白鳥伝説』のなかで、神武天皇の東征軍を難波の日下(くさか)で苦戦させた長髄彦の背後には物部氏がおり、日下の地を中心に日神ニギハヤヒを奉斎し、ここを太陽信仰の拠点にしていたことを論証している。

さらに谷川氏は物部氏の祖神ニギハヤヒやその末裔が多く金属精錬にかかわる伝承をもつことから、金属工人集団を率いた物部氏が瀬戸内海を東に進み、摂津の三島に入り、そこから河内・大和に勢力をひろげていったことを(略)論及し、次のようにのべている。

「もともと遠賀川の流域に居住した古い物部がいったん東遷したのち、数世紀をへて磐井の乱の前後また故地にもどったと考えることもできる。」

まさにこの通りの世界が見えて来ました。
物部氏は鉄のみならず、金なども扱っていたと思われます。
それは笠置山に向かう途中に金生という地名があり、その山塊の向こうには金出という地名があるからです。
「人に災いしたナマズ」というのは「鉱毒の被害」の可能性がないかなと思っています。
高倉神社の話と同様に、水銀中毒の知識がないために工人たちが倒れ、
その害への対策を指南したのが長屋山筒男の可能性はないかと考えています。

物部氏は一元では捉えられなくなった
ただ、「長髄彦+物部氏 vs 神武天皇」という対決図には問題が残ります。
それは、この遠賀川系には神武天皇の皇祖を祀り続け、
駿馬を連れて迎えに行き、軍備を支えた物部氏の伝承があるからです。
日若神社、馬見神社
「長髄彦+物部氏 vs 神武天皇+物部氏」というのが近いかと思います。
すると、物部氏の中に内部分裂があったのかな…。
う~ん、一筋縄ではいかないな。

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広い境内の黄葉。木々の向こうに犬鳴川の土手が見えています。

さて、元宮大好きのるなは笠置山の穂掛神社を見てみたい、と早速探しに行きました。
場所は千石峡キャンプ場の中です。熊本の菊池渓谷を彷彿とさせる、
渓流沿いの自然道があって、その美しさに興奮。
そこを行ったり来たりして探しましたが、見つかりませんでした。
少し下流の人里で、やっと人を見つけて尋ねると、やはり渓流沿いにあるとの事。
鳥居はないそうです。「天照宮の元宮ですよ。」と聞いて、「やったね!」
今では稲穂は掛けないそうですが、大きなしめ縄を掛けるそうです。
とにかく、またトライします。
そして、その途中で、あの有名な装飾古墳に行っちゃいましたョ。次回はそれです。




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by lunabura | 2010-12-11 17:17 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(4)

高倉神社(3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣を合せて八剣神社とも呼ばれていた


高倉神社(3)
草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣を合せて
江戸時代までは八剣神社とも呼ばれていた


露天の遥拝所
さて、もう少しこの土地が知りたいな…そう思いながら駐車場に戻りました。
そこから見えた景色です。
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鳥居の正面に、(1)で紹介した神奈備山がどんぴしゃり。
この鳥居がまるで山へ向かう参道のようにも見えます。
三輪山にそっくりだなあ。
そう思いながら神社を後にして広い道に戻ると、斜め右に白い鳥居が見えました。
もしや、まさか…念の為に車を近付けると、高倉宮と書いてありました。
ここは神奈備山の遥拝所?
長方形の敷地だけで、周りは大木が囲んでいます。
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奥の方には何やら祭壇石のようなものが三つ見えます。
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近づいて見ました。しっかりと石で作られています。
誰かが祈ったのでしょう。新しい丸い石が置かれていました。
ふと、この高倉宮の女神・莬夫羅媛(つぶらひめ)のつぶら
丸いという意味だという事を思い出しました。
「つぶらな瞳」という言葉で今なお残っています。

位置関係からすると、やはり先ほどの神奈備山を向いています。
大木があって、直接見る事は出来ません。
伊賀彦はこの高倉宮の初代神主として祀られています。
この地に金採掘の技術をもたらしたとしても、まずはその地の神を奉斎し、
金属の神々を祀ったはずで、ここがその場所なのかも…と想像しました。
今でも、おまつりのときにはここで祭儀があっているのかな。
また、別の機会に神社にお尋ねする事にしましょう。

草薙剣が取り戻された
町誌を見るとその地の人しか書けない情報が書いてあります。
この高倉神社はかつて八剣神社と呼ばれていた事が分かりました。
天智天皇のころ、新羅国の沙門(僧)道行という者が、尾張の国熱田宮に祀られていた草薙剣を盗み取って、逃げようとした。筑前博多まで逃げたものの、ここで取り押さえられた。このとき奪い返した神剣を送り返すまでの間は、再び盗まれるようなことがあってはという配慮から、高倉神社が清浄で、とくに堅固な土地だからということで、剣はこの神殿に安置された。それとともに鍛冶工に命じて神剣と同じ剣を七振り作らせ、神社に別殿を建てて、八剣を納めた。そのため高倉神社のことを、八剣宮ともいったと書かれている。  (岡垣町誌)

あれ、ここにも草薙剣の盗難事件が書いてある。
以前紹介した鞍手郡の八剣神社古物神社とほとんど同じ内容ですね。
やはり、本州から九州へは船に乗らないといけないので、
この辺りに関所があったのでしょう。恵蘇神社でも書いたように、
ここも名乗りを上げないといけなかったのかも知れません。
道行はこの遠賀川流域で捉えられたのですね。

新しい情報としては、「草薙剣と同じ剣を七振り作らせた」とあります。
これが八剣(やつるぎ)の謂われでした。
地元に剣を作る技術があったのがこれでも分かります。
草薙剣って、鉄製かな…。
わざわざ別殿を立てて、八本の草薙剣が並んで置かれたようすは
壮観だったでしょうね。

物部氏とタカクラジと神武天皇
「ここは物部二十五部人のうちの嶋戸物部の居在地と見られ、」(奥野正男氏)
祭神の大倉主は「島門物部の奉斎する神が大倉主であった」(谷川健一氏)。
また高倉でタカクラジと読むことが出来る事から、
神武紀との関わりも示唆されています。(神武天皇はすぐ近くに滞在しました。)
この地は古墳がとても多く、かなりの出土品があるそうです。
まだ未公開のようですが、日本書紀と地名が一致する土地なので、
これからの公開が待たれます。
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左の丘の中腹に本殿はあります。
楠や杉・桜・銀杏の巨大な古木に癒されます。

高倉神社公式ホームページ
http://www.takakura-jinjya.com/


草薙剣の伝承を辿るコース
古物神社⇒八剣神社




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by lunabura | 2010-12-01 12:36 | 高倉神社・遠賀郡 | Trackback | Comments(2)

大嶽神社(3)おおたけ・立花山と古代祭祀―香椎宮と志賀海神社と春分・中東から来た人たちの邑


大嶽神社(3)

立花山(二神山)と古代祭祀―香椎宮と志賀海神社と春分
中東から来た人たちの邑があった

この大嶽神社の祭神・シナツヒコ風の神である事が分かりましたが、
シナツには他にも季節を分ける「中日」の意味があり、
古代の新年である春分や秋分の日を告げるスピカ
の意味もある事が分かりました。
今日はその事が書かれている『儺の国の星』の前後
(一年前には理解出来なかった部分)にチャレンジです。
では、意訳しながら紹介します。
二神山とは春中峯山(つくしねやま)とも書き、山頂が二つに見える山を指す。
古代人は春分秋分の日、二神山に太陽が出入りする場所を探し出して、その西や東に邑(むら)を作り、都を作った。
国王を証明する金印が出た志賀島からも、二神山(立花山)が東の方に見えるので、そういう邑があった。
立花山の西の麓に橿日宮(香椎宮)があるが、「かし」とはスピカの古語で、春分と秋分の象徴としてこれを祀る祠があった所が古宮即ち日振宮(ひふりのみや)だった。

橿(かし)の木や椋(むく)の木もその昔は陽光がさんさんと降り注ぐ砂漠のオアシスに茂る常緑樹であった。古代に中東や近東から日本に移り住んだ人たちは、それを見て、古里に茂る常緑樹を偲んだ。(椋の実は正月の羽根つきの黒い実)椋の木には黒く固い実が成るのであるが、それを空から降る隕石の化身と信じた。
という内容です。
ではこの文の流れを追いながら眞鍋氏の説を見て行きましょう。

●志賀島から立花山が見える。
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これは志賀海神社の遥拝所から東を撮ったものです。
飛行機の下に二神山(立花山)が写っています。
肉眼ではもっと大きくはっきりと見えるんですよ。
(自分のデジカメの限界をつくづくと感じます。)
この山の右手前ぐらいに香椎宮があります。

春分の日を新年としていた中東の氏族は、
山の間から朝日が昇るのを観測出来る場所を求めて邑(むら)を作る人たちで、
この志賀島がまさしくそれに該当する場所であるのを彼らは発見しました。
だから、この志賀島には当時の都があったはずだというのが眞鍋氏の説です。
その証しが金印なのですね。
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(志賀島歴史資料館所蔵のレプリカ。志賀島の山の岩の下から出て来た。
漢の委の奴の国王と書いてある。)

香椎宮を橿日宮と書く由来は「カシ」が古代語でスピカだった事から。
そして、この志賀島から見える二神山(立花山)の麓に
それを祀る祠を丘の上に作った。そこが香椎宮の古宮である。


一年前、この一文に心のざわめきを覚えて福岡県の香椎宮に行きました。
実際に行ってみると、古宮には仲哀天皇神功皇后の伝承が残っていました。
そこでその時代の春分と秋分の天文現象を調べて、
確かにスピカが太陽の後を追って昇るのを天文ソフトで確認しました。
たった三行を理解するのにずいぶん調べましたねえ。
そして一年たって、ようやくその前後が理解できるようになりました。
香椎宮に詳細記事)

春分の日の古代祭祀線は立花山―香椎宮―大嶽神社―志賀海神社
全体で捉えるとさらに具体的に分かるのではないかと思いました。

ちなみに古代の新年は春分の日と秋分の日が当てられて、
現在の一年をかつては二年と数えた時代があったそうです。
(日本書紀の年代の計算で、よくこれが出て来ます。)

椋の木には黒く固い実が成るのであるが、
それを空から降る隕石の化身と信じた。


これについては眞鍋氏はこう説明しています。
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。
2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。(古物神社に書いています。)

この話は、実は私はまだよく理解出来ていないのですが、
たまたま、くじらさんから面白いコメントをいただいて、ずいぶん理解の助けになりました。
そのやりとりの一部を紹介します。(古物神社の記事にて)
「るなさま、いつも貴重な情報、示唆を与えてくださり、ありがとうございます。
古代物部郷のひとつ浮羽物部氏の末裔の方のはなしによれば、中近東で栄華を極めていたソロモン王国を支えていた氏族が物部氏とのことを伺いました。
彼らはインド洋から東南アジアまでの海域で、ある特定の砂浜から採取した砂鉄から鉄の精錬を行い、現地人と交易をおこない、見返りとして膨大な量の胡椒を積み込み、王国に富をもたらしたということです。これをソロモンの知恵というそうです。
糸島の弥生中期の製鉄遺跡 元岡遺跡群や、出雲の斐伊川流域 製鉄遺跡群も、あるいはそのなごりかもしれないと現在調査中です。
また、世界ではじめて鉄の生産を行ったヒッタイト以前は、隕鉄を原料と為し鉄器の製造にあたっていました。そのため当時(シュメール)は鉄の価格は金の5倍、銀の40倍だったそうです。日本の古代史にオリエント文明の名残が残されている可能性は、否定できない事実かもしれないとわたしは最近では考えています。」

「はじめまして。浮羽物部氏の情報をありがとうございます。お話がとても分かりやすくてありがたいです。
この話は那珂川町に伝わる暦法の眞鍋家と補完し合います。
ヒッタイトはハッティーとも言い、それがハチマンとなったという事です。宇佐八幡と関連します。いよいよ、古代鉄を頑張んないといけないかなあ。
宮地嶽古墳の近くの丘は鉄を採った後のカナクソで山になっているそうです。
名島神社に書いていますが、三笠宮もオリエント研究に向かわれました。」

「少々説明を付け加えますと、「物部が中東出身という説話」は浮羽物部氏族に繋がる家系の中心となる人物が、過去商社マンとして世界各国を渡り歩き得た体験から基づいた私見として話してくれたものであります。浮羽物部に口承伝承されているわけではないということをお伝えさせていただきます。物部本家に関しては、現在進行中という段階です。補足説明させていただきます。」

「補足説明ありがとうございました。本家の伝承と、ルーツを調査した方のお話と二つあるのですね。よく分かりました。
でも、その世界各国を回った方、是非本にしていただきたいですね!だって九州の古代人は9割が渡来人です。そのルーツを外国で探さないといけないんですから。
本家の調査は困難でしょうが、形になる事を願っています。」
この浮羽(うきは)物部氏というのは、福岡県の筑後川流域の浮羽郡の物部氏のお話です。
日本書紀には生葉(いくは)と出て来ます。
王塚古墳の所にも少し書いています。)

やっぱり数行理解するのに、これだけの知識が必要でしたね。

この物部氏についても古物神社の所でちょっとだけ勉強してます。
その一部を書きます。
物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。
物部氏については、福岡県と佐賀県の県境にある背振山の南、佐賀県側にいて、
南天の星座を観測していたと書いています。
福岡県の那珂(なか)の中臣(なかとみ)氏と和睦したり争ったりしています。
彼らは中東がルーツで、倭人に星占を教えています。

まだまだ謎が多くて、阿曇族と物部氏とはどうなっているのか、
シュメール人とケルト人はどうなっているのか。ルナは分からないのです。
        
次の写真は二枚とも立花山です。
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志式神社から見える立花山は三上山です。
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大嶽神社から見える立花山は二上山です。
見る方角によって全く違う山に見えます。
二上か、三上か。これは海から湊を目指す船人にとっては、
航路を教えてくれる、まさしく神の山ですね。

ブログ内で那の国の古代祭祀の旅
 香椎宮⇒志式神社⇒志賀海神社⇒名島神社⇒大嶽神社

地図 志式神社 大嶽神社 志賀海神社 立花山 香椎宮 





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by lunabura | 2010-10-18 17:58 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(13)

宗像三女神の元宮を辿る旅・六獄神社(1)宗像三女神の降臨した六獄の下宮


《宗像三女神の元宮を辿る旅》
六獄神社(1)
むつがたけじんじゃ
福岡県鞍手郡鞍手町室木
宗像三女神の降臨した六獄の下宮

西川を遡りながら町の一番大きな山に向かって行くと、田んぼの中にぽつんと鳥居が見えて来ます。
そこが六獄神社です。
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両脇の植え込みを過ぎるといよいよ石段です。
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ひと登りすると、さらに石段と鳥居が迎えてくれます。
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だんだん古代の世界にいざなわれるようです。
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ここちよい杜の中を抜けていきます。
足元は松の落ち葉がふわふわと気持ちいい昔ながらの道。ずっと奥にお宮が見えて来ました。
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とても古い趣です。古来、賑わった華やかな残り香がそこかしこに漂っています。
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陽光が降りそそぐ、拝殿前に出ました。参拝を済ませて、案内板を読んでみましょう。
六獄神社由来
紀元前700年のころ、皇女三神 霊山六獄崎門峰に御降臨あり、この地を上宮と定め室木の里に下宮を建立し、安産交通安全の守護神として鎮守の杜とす。
御祭神 田心姫の神 湍津姫の神 市杵島姫の神
大祭日  春季大祭  4月8日 秋季大祭  10月17日
六獄神社社務所
今から2700年前に、宗像三女神が霊山・六獄(むつがたけ)の崎門峰(さきとやま)に降臨されて、
そこを上宮とし、ここ室木の方を下宮とした、という事です。

そう、三女神といえば、田心姫の神、湍津姫の神、市杵島姫の神
(たごりひめ・たぎつひめ・いちきしまひめ)
現在は宗像市に祀られていますが、降臨の地はこの鞍手町の六獄だと言われています。
鞍手町自体も、古くは宗像郡だった時代があり、この山は特別な山として崇敬を集めていました。

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正面が六獄(六ケ岳)です。
最高峰から左へ、旭岳(あさひだけ)、天冠(てんがい)、羽衣
高祖(たかす)、崎戸(さきと)、出穂(いずほ)。

この山にはニニギノ命の御陵があるとも言われています。
伝説によると、旭岳になきがらを、天冠岳に冠を、羽衣岳には衣を埋葬したそうです。
左手前の方にはヤマトタケルの住まいがあった八剣岳が見えます。

この六獄神社は右下の方にあります。降臨した宗像三女神を祀る古いお宮です。
境内は巨木に囲まれて、森厳な趣に包まれていますが、木がなければ六獄を遥拝できたと思われます。

もう一つ説明板がありました。
六岳(むつがたけ)神社と室木(むろき)神楽
町指定無形文化財

六岳神社は三女神を祀る近郷で最も由緒古い神社である。
筑前風土記逸文の中に「宗像の大神、天より降り、崎戸山(さきとやまー六岳の古称)に居ましし時、云々」とある。

室木神楽は江戸に直方多賀神社宮司青山雅楽頭(うたのかみ)が京都より宮中に伝わる神楽を伝え帰り、鞍手地域に拡めた優雅な神楽である。
はじめは神社人が舞い奉納していたが、明治以降は別に神楽座が組織されるようになり、郡内に3,4座あったが今日は室木のみに残っている。
歴史を守る会(くらじの会)
この室木の里の室木神楽の由来は
直方市の多賀神社の宮司の青山氏が京都の宮中に伝わる神楽を学んで、各地で教えたのが始まりです。
今ではここだけに残っているそうです。
子供神楽座を作って継承しているという話ですが、どのような音楽が奏でられているのでしょうか。
聞いてみたいものです。
(つづく)
さあ、今日から、宗像三女神の元宮の移動ルートを辿ってみましょう。



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by lunabura | 2010-08-09 13:52 | 六嶽神社・むつがたけ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

六嶽神社(2)御神体は玉と鏡・十握剣から生まれた三女神と物部(もののふ)たち

《宗像三女神の元宮を辿る旅》

六嶽神社(2)
御神体は玉と鏡だった
十握剣から生まれた三女神と物部(もののふ)たち

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神社の始まり
『福岡県神社誌』を見てみましょう。
六嶽上宮としていて、由緒は宗像三女神が影向(ようごう)された霊地である。
成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。
これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、御神体を下宮に移してその後、社殿が再び作られる事は無く、今わずかに石殿が一宇あるだけである。
                              影向(ようごうー神が一時姿を現すこと)
                              神籬(ひもろぎー神が降りる所)
六ケ岳(むつがたけ)は宗像三女神が降臨された霊地で、成務天皇の御世に、長田彦に神示が降りて、
六ケ岳の山上にヒモロギを作って、お祀りをしました。これが神社の始まりです。
昔は山上に社殿が建っていたのが、戦国時代に火災に遭って、無くなってしまい、
石の祠だけが残りました。御神体はこの下宮に移されました。

成務天皇と言えば、ヤマトタケルの兄弟です。
と言う事は、そばの八剣岳でヤマトタケルをもてなした記憶が
まだ新しい頃のお話だという事になります。
(詳しくは八剣神社を見て下さいね。)
そんな時代に、この神社の祭祀が始まりました。

私もずいぶん前ですが、二度ほどこの六ケ岳に登った事があります。
植物相が豊かな山で、最後の急斜面は綱を頼りに登りました。
頂上は大変眺めが良かったのを記憶していますが、社殿らしきものを全く覚えていません。
あったのかも知れませんが…。(今どうなっているのか、登った方教えて下さい。)
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御神体は玉と鏡だった
続きを読みましょう。
『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って、崎門山にいます時から、
青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
八咫(やた)の鏡」を辺宮の表において、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。
これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』

「奥宮、中宮、辺宮」という三つの宮のそれぞれに御神体が置かれた事が書いてあります。
それはどんな姿だったのでしょうか。具体的に見て行きましょう。

「青蕤(ずい)玉」
「蕤(ずい)」を調べると「垂れさがる花・実」の意味でした。
「青」は古代では「青」も「緑」も青と呼びました。
さらに「灰色がかった白」を指すこともあるので、青か緑が白か決められません。
形は垂れさがるイメージから勾玉っぽいですよね。

「八尺瓊(やさかに)の紫玉」
「八尺」は長さの単位です。
「八尺の長さの紐に通した」とか「大きい」という説があります。
「瓊」は玉。
「大きな紫玉」という事でしょうか。

「八咫鏡(やたのかがみ)」
「八咫」も古代の寸法ですが、「大きい」という意味で解釈されています。
天の岩戸に出て来るので有名ですね。三種の神器の一つです。
普通の鏡のサイズはCDの大きさに近いです。
46,5センチの巨大な鏡が出土したので、これを八咫鏡だという人もいます。
平原遺跡に関連記事。)

次の写真は地元の古墳から出土した玉です。
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(鞍手町歴史民俗資料館)
勾玉がちょうど三色並んでいます。これらの色を古代の人は何色と呼んでたのかな…。
白い勾玉は珍しいです。

御祭神の三女神はこうして生まれた。

古事記を見てみましょう。高天原にスサノオの命がやって来たので、天照大御神が武装して、
迎えるシーンです。
アマテラス大御神は「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。

そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、
タキリビメの命。またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。   (古事記)

なんと、この女神たちはから生まれています。
スサノオの命の十握剣が三つに折られて、
噛みに噛んでふっと吹き出した息吹の中から生まれました。三人の女神は剣の化身でした。
沖ノ島を中心として、沖つ宮、中つ宮、辺つ宮と、三か所に祀られているのは、
この剣が三つに折られた事から来ていたのですね。

この三女神はアマテラスから天下りするように言われました。
日の神(アマテラス)はスサノオの命に本当に悪い心がないのを知って、日の神から生まれた三柱の女神を、筑紫の洲(くに)に天下りさせました。
その時、
「そなたたち、三柱の神たち。道の中に降って、天孫を助け奉って、天孫の為に祭られよ。」
と言われました。
(日本書紀)
こうして三女神は筑紫の国・鞍手の六ケ岳に降臨しました。
日の神の言葉は
「これから先、天孫・ニニギの命が降臨されるので、その前に、ここで人々に祀られよ」と解釈されています。
祀る人々とは誰か。
まだ平野が海だった頃に、この山の麓に住んでいた人たちです。


その一部に物部氏がいます。

「物部」の「物」は「武」であるとともに、「祭祀」を象徴します。
「もののふ」とは「武士」「物部」と書きますが、
「祭祀をする者」の意味も含みます。



物部氏と天皇家との関わりがわかる伝承が、いくつかの神社に残っています。
神武天皇、ヤマトタケル、仲哀天皇、神功皇后、聖徳太子一族などの名前が出て来ます。

物部氏は星を観測し、暦を作った。馬を育て、武器を作り、馬具を作らせ、戦った。
剣を神格化して祀った。

そんな、古代日本の礎となった一族だったのが見えて来ました。

そして、三女神を祀るのは水沼族。
ここには水摩姓が多く伝わっていると聞きます。



この六嶽神社と六ケ岳の伝承はあまり人々に知られていないようです。
この神社の持つ歴史的な価値を多くの人に知っていただけたらと思います。

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地図 六ケ岳 六嶽神社 神興神社 宗像大社


ブログの中で「物部氏」を時代順に逍遥するコース
馬見神社⇒日若神社⇒八剣神社⇒鞍手歴史民俗資料館⇒古物神社⇒六嶽神社

さあ、それでは宗像三女神の伝承を追って神興神社に行ってみましょう。


追記
物部氏に関して、記事を書いた時点(2010年8月)より研究が進んだので、
記事の一部を変更しています。2015年12月28日





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by lunabura | 2010-08-08 21:09 | 六嶽神社・むつがたけ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

古物神社(1)宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった


古物神社(1)
ふるものじんじゃ
福岡県鞍手郡古月村大字古門字西山(旧名)
原初の神気を今なお残す宮
宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった


国道三号線、富地原から猿田峠を通って鞍手に入ったら最初の信号、新延(にのぶ)で左折します。
伊藤常足翁旧宅」の案内板を目印に左へ左へと曲がって行きましょう。
古物神社への案内板はないのですが、
伊藤常足が古物神社の神主さんだったのでそれを目指せばOKです。

この人は国学者で、『太宰管内志』という本を書いた事で有名なのです。
途中の道は人家もほとんどありません。山脈の中腹を横ざまに走って行きます。
なにせ山の中です。いつものように、こんもりとした杜を目指しても、駄目です。
案内板のおかげで、そこが古物神社と分かりました。
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桜の青葉とアジサイの青い花に迎えられて、参道を歩きます。
古木の作り出す、しっとりとした空気に心が躍ります。
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ここは山であり、里である。人々と神社の始まりを思わせる趣が残っています。
いくつかの石段を登りつめると、古き宮の前に出ました。
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形容しがたい重厚さです。
神霊と土地の融合したエネルギーが古代からそのまま残っているような聖地でした。

参拝を済ませて、境内をぐるりと回ると、古い祠がたくさんあって、それぞれに立札が掲げてありました。
とても分かりやすく、どうやってここに勧請されて来たのか、歴史が偲ばれます。

特に境内の右側は一段高くなっていて、そこにもずらりと祠があります。
祠の中の御神体は大体、楕円の石でした。
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では、早速、『福岡県神社誌』を見てみましょう。
祭神
天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、
神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神

ずいぶん沢山の祭神ですねえ。
でも、よく見ると神功皇后の八幡グループと、八剣神社のグループがありますよ。
まずは、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
    香椎宮からずっとお馴染みの「夫と妻と子」の組み合わせです。
続けて日本武尊、スサノオの命、ミヤズ姫の神
    これは八剣神社の三柱と同じ組み合わせです。「草薙の剣の継承者たち」でした。
残りは天照大御神布留御魂神です。
どうやら三つの神社が合体しているようです。
では続きを読みましょう。
由緒は不詳。
祭神・布留御魂神は大正時代に布留神社から合祀している。
社説に曰く、当社は、もと剣神社、八幡宮、二つの産土神だったのが、文政11年に九州一帯の暴風で剣岳の剣神社の神殿などがことごとく倒壊した。よってこの西山に鎮座の八幡宮に合祀した。
明治4年に神祇官の依命が村の名前の旧号を取って、古物神社と改めた。

これを年代順に置き換えると、もともと剣神社、八幡宮だったのが、
江戸時代に台風で剣山の上の神社が倒壊したために、ここに合祀し、
大正時代に布留神社からも合祀したとなります。そして、明治時代に古物神社と改めました。

だから、こんなに沢山の御祭神となった訳ですね。
八幡宮の縁起に曰く、
古門村は神代の昔、スサノオの命が高天原より出雲国に行く時の旧跡である。
十握(とつか)の剣スサオノの命を昔から祀る神社で、剣神社と号す。

これは?なんと!
スサノオの命が出雲の国に行く途中、ここを通ったって?
高天原から出雲に行くルートにこの神社があるというのです。
たった二行の文になんと沢山の情報が織り込まれている事でしょう。

ここと関わる『古事記』のあらすじはこうです。
スサノオの命は父親から追放されて、姉のいる「天」に行って、ウケイをします。
その時、十握剣を持っていました。それをアマテラスが三つに折って、そこから、宗像三女神が生れました。
ウケイに勝ったスサノオの命は、暴れまくって、ここも追放されます。そして、出雲へと向かいました。

この宮はこの十握剣と、その持ち主のスサノオの命を最初に祀っていました。
この祭神の組み合わせのポイントは、三女神がこの十握剣から生まれているという事です。

これに気づいてドキドキです。
何故かと言うと、この三女神は、この鞍手町の六ケ岳(むつがたけ)に降臨しているからです。
そして、移動しながら、現在の宗像大社に鎮座していきます。
「スサノオの命が高天原から出雲に行く途中」という事は、三女神は生まれたばかりになります。

ですから、縁起を言い換えると、この宮は宗像三女神の父親とその十握剣が祀られていて、
今、父親はここを通過して出雲に向かう途中の宮だという事になります。
勧請して来たのではないのですね。しかも宗像三女神のお膝元の話です。

ここは大変古い縁起を持つ宮でした。それだからでしょう。
この神社には幾世代にも渡って、剣に関わる歴史が刻まれて行きました。

次回は、さらにその後の由緒を追って行きましょう。

この話を理解するために、スサノオの命
『古事記の神々』に訳を始めたので、そちらも見て下さいね。
(つづく)

地図 古物神社 六ケ岳 宗像大社 八剣神社


右上の飛行機のアイコンを押せば、
灰色の所が昔の海だと分かりますよ。



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by lunabura | 2010-07-04 11:38 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(5)

古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇


古物神社(2)
草薙の剣がこの近くに降って来たという。
天智天皇は前年まで筑紫にいて何をしていた?

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神社誌を続けて読んで行きましょう。

剣神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。
みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

さて、この剣神社には、道行が盗んだ剣が落ちて来たという縁起が伝わっていました。
さすがに神剣らしく、空を飛んで来ています。
(草薙の剣の歴史と盗難事件の詳細は八剣神社の方に書いています。)

この由緒によると落ちた所を「降るもの」と呼び、「古物」の字が当てられて、
それがなまって「ふるもん」「古門」という地名になっていったようです。

この縁起には見逃せない背景がいくつかあります。
1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
2)「ふる」とは隕石を指す古語である。
3)奈良の石上神宮の地名も布留であり、どちらも物部氏の祭祀する所である。
という事です。一つずつ見て行きましょう。

1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
天智天皇(中大江皇子)の母は斉明天皇です。
斉明天皇は新羅と闘うために筑紫に来ていました。その流れを追ってみましょう。

        661年 母君の斉明天皇が福岡県朝倉で突然崩御される。
        662年 36歳の中大江の皇子は天智天皇となり、
              筑紫の那の津長洲の宮に遷都する。
                         (現在の博多港周辺) 
        663年 白村江で大敗する。
        667年 大津へ遷都する。
        668年 草薙の剣が盗まれる。

この時代の筑紫では日本と百済の連合軍vs新羅と唐の連合軍の戦いがあり、
日本が敗北した上に、百済からの難民があふれて、大変慌ただしい時代でした。
しかも、その間に天皇の突然の死と天智天皇の即位がありました。
WIKIでは、その当時の事は謎だと書いてあるのですが、筑紫の方では話が伝わっていました。

眞鍋大覚氏によると、
天智天皇は即位後、磐井氏が作った水城(みずき)に手を加えて、
筑紫の南北を通す運河にするために、大工事をしていたそうです。
このブログに何度も登場する針摺の瀬戸(はりずりのせと)の事です。

さらに、時計磁針づくりに取り組んでいました。
磁針とは細い磁石の事で、細戈(くわしほこ)と言います。
これで羅針盤が出来る訳です。
また、背振(せぶり)の葵祭を京にもたらしたのも、天智天皇だそうです。

こうして、天智天皇は敗戦後に、新たな文明を取り入れて、強固な国造りに取り掛かっていたのが伺えます。
新羅に対する防衛の基盤を整えてから、大津に遷都しました。草薙の剣が盗まれたのはその翌年です。

新羅へ逃走するにはここを通らずにはいられない?
さて、剣を盗み出した道行の話に戻りますが、彼は新羅へ逃走するのですが、どこを通ったのでしょうか。
船路にしろ、陸路にしろ、九州に上陸して博多方面に行かねばなりません。

さて、昔の遠賀川のイラストを見て下さい。
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(鞍手町「古月横穴」の資料を一部改変)
これを見ると現在の平地はほとんど海没しているのが分かります。
左下に古物神社があります。その北の虫生津がありますが、
神功皇后たちはここから上陸して、この古門神社に移動します。
昔はこのルートがあった訳です。この古門は、交通の要衝です。
道行もここを通らずにはおかれなかったはずです。

ところが、この地は天皇の軍隊であり、警察でもある物部氏の本貫地です。
敗戦した後ですから、まだ警備は厳しかったでしょう。

だから、道行がここで捕まった可能性は高いなと思いました。
そして、取り返された剣の保管地に剣神社が選ばれた訳です。
それを神剣らしく、光って降って来たと色付けされて伝えられました。

蛇足です。
奈良時代をあなどるなかれ!

この当時は平城京から全国へのまっすぐの道が作られていて駅家(うまや)が16キロごとに整備され、太宰府から都まで、「4日」で情報は伝わった。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)

奈良時代に、驚きの道路網がありました!

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境内の左奥にある「旧剣神社拝殿跡」です。

(つづく)



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by lunabura | 2010-07-03 11:34 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)

古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?


古物神社(3)

「ふる」は「隕石」の古語。
ここは石上神宮の元宮かもしれない

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それにしても、剣が空中から落ちて来て光ったとはねえ。ちょっと無理があるなあ。
その謎を解くヒントは「ふる」にありました。

2)「ふる」とは隕石のこと。

眞鍋氏によると、
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、
布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。
という事です。
この辺りの地名を「門、月、物」と並べると、
光が数里四方にまで見えたというのは、「ふる」すなわち隕石の落下を描写していると推測しました。

御神体が隕石だという神社は近くにもあります。
合祀する前には久保にあった剣神社も、もともと隕石が落下した場所だった可能性があります。
その隕石と、草薙の剣の事件が融合して、「剣が落ちた時、光が放たれた」という話になったんじゃないかな…。

3)奈良の石上神宮の地名も「布留」であり、
どちらも「物部氏」の祭祀する所だよ。


さて、最後の一文に注目!
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。
これがその一文です。
布留魂大神の上に石上(いそのかみ)が付きましたよ。石上布留魂大神…ここの神の名です。
石上って、奈良にあるのと同じだ!

石上神宮を辞書で引きました。
石上神宮
祭神は布都(布留)の御霊の剣。
この剣は神武天皇の大和平定に先立ち、天照大神が天皇に授け、物部氏がこれをまつって氏神としたと伝える。かつて本殿はなく、拝殿の奥の禁足地が神聖な霊域とされていた。社蔵に七支刀がある。
物部氏が代々祭祀に当たっている。後に石上と改姓した。

御祭神の名前については「布留と布都」と両方ありました。

「ふる」と「ふつ」が材料の違いなら、その違いは一般の人には分かりません。
だんだん混乱して行って、「ふるの御魂」とも「ふつの御魂」とも、なって行ったと考えられます。

注目するのは御祭神が鞍手も奈良も「布留御魂」であり、
物部氏が祭祀し、地名が布留だと言う点です。
明らかにこの鞍手郡の古物神社と奈良の石上神宮は深くつながっています。
ルーツはこの古物神社の方と思われます。

物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。

神社誌はさらに、仲哀天皇と神功皇后の事も書いていました。
「宗像記」に、古物村にある西山八幡宮は仲哀天皇神功皇后、共に熊襲及び三韓征伐の時の行在所(あんざいしょ)である。

天皇、皇后が筑紫の岡湊から香椎宮に行かれた時、遠賀郡芦屋から船に乗って、同郡虫生津に御上陸、鞍手郡古門村にみ輿(こし)を留められた。
そこから白山嶺を越え、省木村三坂峠を過ぎて、宗像郡に移動された旧跡という事で、村民はここに祠を建てて奉斎している。

大変具体的に二人の辿ったルートが書かれています。
前回の地図に岡湊と虫生津と古物神社を書いているので見て下さい。
当時はこれが一番安全で確実なルートだったのでしょうね。
ここは筑紫と本州を結ぶ重要な邑だったのが分かります。

この神社は旅の貴人たちを泊める所でもあったのかもしれません。
その中から祭神として祀られる人も出て来ました。
後に、ここの神主になった伊藤常足が、この人里離れた宮に、
天皇たちが訪れた伝承があるのを不思議に思って、日本書紀の研究をし始めたのではないかと思いました。

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拝殿前の狛犬。

(つづく)



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by lunabura | 2010-07-02 13:42 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(8)

古物神社・物部氏は中東から来た星見の氏族


古物神社(4)

物部氏は中東から来た星見(ものみ)の氏族
物部氏を勉強しなきゃ…。(でも、ちょこっとだけね)

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物部氏と言う名はよく歴史の本に出てくるのですが、ルナはよく分かっていません。
そこで、この『ひもろぎ逍遥』で伺える姿だけ時代順にまとめてみることにしました。

馬見神社日若神社で分かった事は、
馬見物部氏が天皇家の祖先を祀り続けていて、
神武天皇が古遠賀地方にやって来た時に迎えに行って、
馬を提供して家に連れて行って、馬見神社まで案内したという事です。
神武天皇は東征の準備のためにやって来たと推測しました。

八剣神社ではヤマトタケルに行宮(あんぐう)を建てて援助しています。
この古物神社では、仲哀天皇と神功皇后を留めています。

これらはすべて戦争がらみなので、天皇家は物部氏に対して、
船、馬、武器、武人などの軍備を要請したと思っています。

物部氏と天皇家には深い関わりがあり、
祭祀、軍事力、水準の高い連絡網などがあるのが見えて来ました。
物部氏の天皇家を支える信念は半端じゃありません。

しかし、辞書を見ると、そんな深いつながりは見えて来ません。

広辞苑
物部
古代の大豪族。姓(かばね)は連(むらじ)。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴の連氏と共に最有力となって、族長は代々大連(おおむらじ)に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍とたたかって敗死。
律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。

同じ物部氏でも、大和地方と、この本貫地ではずいぶん違う顔に見えます。
忘れてならないのは彼らが祭祀をしていたという事です。
物部氏の流れである真鍋大覚氏が、本来の姿を書いています。

物部とは星見の氏族
物部氏と鞍手族について、一部現代語に変えています。
唐戸(からと)の星(ケフェウス座 アルデラミン)
肥前では韓比(からこ)と言い、肥後では倉戸(くらど)という。また、筑前で唐門(からと)と言い、豊前では鞍手(くらて)と言う。

水門・井堰の管理をして、昼夜をおかず水神に仕え、また舟運・灌漑の利をもって、その余沢に薪炭魚藻を納める氏族である。これを記紀では国栖(くず)、あるいは葛生(くず)と書いている。

曽我稲目
(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。

吉野は国栖(くず)の故郷であった。国栖は倭人に星占の方策を口授した氏族であった。歴代の天皇が吉野に行幸するときには、必ず国栖の長老が伺候して、講義をした。

物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。

あちこちに散らばっている文章を集めたので、理解しにくいのですが、びっくりする事ばかりです。

「くらて」「からと」とはケフェウス座・アルデラミンの和名で、
その星を信仰する氏族たちは、水利を管理する技術があった集団で、
それぞれの地でこのアルデラミンの和名を名乗り、それが地名となったという意味です。

「物部氏」については、福岡県と佐賀県の県境にある背振山の南、
佐賀県側にいて、南天の星座を観測していたと書いています。
福岡県の那珂(なか)の中臣(なかとみ)氏と和睦したり争ったりしています。
彼らは中東がルーツで、倭人に星占を教えています。

これらから、思うに、物部氏は背振山の南から、山沿いに馬見山の方に向かい、
遠賀川が奥深い入江であった時代に、馬見神社あたりに下りて来て
入江が陸地化するにつれて、下流に広がって行ったと思われます。
(馬見の縄文遺跡は彼らの遺跡かも知れません。)

何のために?
それはスズ鉄という古代鉄を生みだす葦の宝庫だったからです。
(これについては、また別項で検証しましょう。)

物部氏とは、本来は星を観測して、暦を作ることで天皇家をサポートする氏族で、
古代鉄の製造の技術もあることから、軍事的な力も持っていたと考えました。

物部氏が石上神宮で祭祀をするのも、それが本来の姿であるからなのですね。
物部氏が「軍事や刑罰を司る」という見方だけでは正しく理解していない事が分かります。

Wikiで物部氏を引くと「鞍手」の文字がありません。
これが物部氏論が迷路にはまっている理由だと思います。

物部氏の真の姿を研究をするには、この鞍手地から始めるべきであるし、
天文の研究と古代鉄と、縄文馬背振山の伝承。
これらを追求する事で実像に迫る事が出来ると思いました。
(古代馬は馬見神社・日若神社に少し書いてます。)

物部二十五部人と出身地 

『日本の神々 神社と聖地 九州』の奥野正男氏の文章にも
鞍手郡を中心とした地名と物部氏の関わりが書いてあったので、
ちょっと抜き書きしておきます。

          若宮町の芹田(せりた)    芹田物部
                都地(とち)      十市(とおち)物部
          小竹町の小竹(こたけ)    狭竹物部
          鞍手町の新北(にぎた)    贄田(にえた)物部
          飯塚市の新多(にいだ)    二田物部
          遠賀町の島門(しまど)    嶋戸物部
          宗像市の赤間          赤間物部
          北九州市の旧企救(きく)郡  物部
など物部二十五部人の居住地と見られる地名が残されている。

彼らの名前が出身地にちなんで付けられて、古里を離れて、日本の歴史の深い所で活躍したのが伺えます。

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次回は古代鉄にチャレンジするかな…。


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by lunabura | 2010-07-01 12:52 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(42)

八剣神社(1)ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった


八剣神社(1)
やつるぎじんじゃ
福岡県鞍手郡鞍手町中山
豊かな里山の神名備山に
ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった


宗像の国道三号線沿いの富地原信号から、鞍手町への案内板に従って行きます。
峠道に入るとすでに里山の風情。
名前もゆかしい猿田峠を出ると、そこは別世界。
山々に囲まれた、古代の香がそのまま残るような鞍手町に入ります。

町の中を走っていると、とにかく目に入るのが、剣岳。
里山の人を見守るような独立した低山は125メートル。
如何にも古代からの信仰の対象となるような神名備山です。
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ここの中腹に八剣神社があります。

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駐車場に車を止めると、すぐそばに鳥居があります。
巨木が生い茂っていて、いかにも古代からの聖地の趣きです。
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参道の両脇はお祭の時に提灯を灯すのでしょうか。
ずらりと瓦屋根の付いた、棚が続きます。
夜祭りにこの石段を上って行く、晴れやかな気持ちの人々の息遣いが聞こえて来そうです。
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拝殿に出ました。

境内には灯篭や狛犬、記念碑などが沢山あります。
いにしえから、崇敬の篤いようすが伝わって来ます。

さあ、今回は『福岡県神社誌』から、ここの歴史を紐解きますよ。
祭神 
日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命

由緒
当社は人皇二十七代、安閑天皇の御代に田部人麿という者の神託によって、
この山の上に斎き祀っています。

昔は近郷に比べるものがないほどの御社で、ご神徳はあまねく知られていました。
又、足利尊氏がこの国に没落の時、
左兵衛督直義が当社で武運を祈ったのち、正殿を再建しました。

ここのご祭神は、あの有名なヤマトタケルの命と后のミヤズ姫
スサノオの命でした。
いったい、どのような事情でこの三柱が祀られているのでしょうか。
由緒では田部人麿という人に神託が降りて、祀るようになったと書いてあります。
また、足利尊氏がここで武運を祈っています。

これだけではよく事情が分からないのですが、神社誌を読み進めると詳しい話が載っていました。
祭神の日本武尊豊日別神社に祭祀してあったのを
明治時代に合併しています。その社説にこう書いてありました。

日本武尊が熊襲ご征伐の時、当国を経歴されました。
酋長の今朝麿(けさまろ)は皇子が来られたのを聞き伝えて、手厚くお迎えしました。

日本武尊は広野の石に腰かけて、この国の風俗や地理などをお尋ねになりました。
今朝麿はつぶさにお答えしたので、尊(みこと)は大変喜ばれました。

程なく熊襲を平定して、都に帰る時、再びこの地に留まられたので、
今朝麿は仮宮を建てて守護し奉りました。

尊は剣岳に登って、よくよく四方の風景をご覧になって、言いました。
「この山は他の山より勝れている。
私が今熊襲を平定して国民が帰服して、おのずから静かになった世の中山かな。」
(世の中・中山…掛けことば)
と。ここから中山の名が起こりました。

いよいよ都に戻ろうとして、この山を降りた時に、雷雨が激しかったので、
尊は御供の人たちと木の陰に休み、八つの雷の神を祀ると、雷雨がたちまちに止みました。
(この場所を八雷社と言います。)

雷雨が晴れたので尊は神前原を通って、しばらく(滞在して)休息したしるしを残そうと、
今の日吉神社のある所から三町ほどの所に、弟彦公に松の木を植えさせたので、
ここを植木の森と言って、その邑(むら)を植木の里と言うと伝え聞いています。

それから月日が経って、安閑天皇の御代に,今朝麿の遠孫の人麿に神託が降りて、
この剣山上に創立して奉斎しています。

豊日別神社の方に詳しい話が伝わっていたのですね。ずいぶん具体的です。

伝承のあらすじは
ヤマトタケルがこの里に来たのを、長の今朝麿が手厚くもてなし、
帰路に立ち寄った時には仮宮まで建てた。
剣山の上で、ヤマトタケルはその山を称えて、中山の地名が起こった。
記念に松の木を植えた所は植木の里と言うようになった。
それからずっと後、
今朝麿の子孫の人麿に神託が降りて、剣山の上にも祭祀するようになった。
という事です。地名の中山も植木も今に伝わっています。


この由緒書によって、ヤマトタケルが熊襲征伐に行った時の、ルートが見えて来ました。
遠賀川からここで上陸して、さらに南下して行ったと見えます。
この鞍手町は物部氏の本貫地という話ですから、
ヤマトタケルがここに来るのも軍事的な援助を得る為の可能性があります。

さあ、神社誌の続きを読んで行きたいのですが、この神社の御祭神を理解するために、
『古事記の神々』でヤマトタケルの命について現代語訳しておきましたよ。もう、びっくりする事ばかりでした。

高校生ぐらいの年齢のヤマトタケルがどうして、この八剣神社の里までやって来たのか、
そして、后のミヤズ姫との関係について、是非読んでおいて下さいね。

(つづく)






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by lunabura | 2010-06-20 14:14 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)
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