ひもろぎ逍遥

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八剣神社(2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ


八剣神社(2)
三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ

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それでは、『福岡神社誌』の続きを読んで行きましょう。
また、天智天皇七年十一月、新羅の沙門・道行が草薙の剣を盗んで帰る途中、筑紫まで着いた時に風雨に遭って、その剣は日本の境を出る事はなく、この山にしばらく安置していました。
昔は近郷に並び無い御社で、神徳はあまねく知られて、植木の庄・本社と称えられました。

おお、有名な草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)の話が出て来ました。

草薙の剣って盗難事件があったんですね。
取り返された後、しばらくこの神社に安置されたという事です。

この背景を調べてみました。

熱田神宮の御神体である草薙の剣を新羅の僧侶が盗み出すという事件が起こっています。
その僧の名前は道行で、途中で捕まって、草薙の剣は無事に戻って来ました。

この道行がどうなったのか、ネットで調べると、
大阪で剣を手放した。
牢屋に入れられたが、許されて、近くで寺を創建した。
博多で死刑になった。
新羅で死刑になった。

といろいろありました。 
この鞍手町の古物神社の由緒には「草薙の剣が古門に落ちて来た」
というのがありましたよ。

もし、道行が北部九州で捕まったとしたら、その剣の保管場所が必要です。
その時には、ここに届けられた可能性は十分にあります。
この鞍手町は物部氏の本貫地だったのですね。
物部氏は、代々、天皇家を補佐する役職についていたので、連絡網があったのは間違いないです。
(古物神社で少し調べてみましょう。)

祭神のミヤズ姫にこめられた暗号
ヤマトタケルには6人の后がいました。
ヤマトタケルの配偶神を選ぶとしたらオトタチバナ姫かなと思いましたよ。
だって、彼の為に命を投げ出したんだし、この人しか知りませんでしたし…。

ところが意外にも、この八剣神社ではミヤズ姫が選ばれていました。
なぜ、ミヤズ姫なんだろうと、理由を探しました。

そこで、ミヤズ姫とヤマトタケルの関係を思い出して、あっと驚きました。
ヤマトタケルはあの草薙の剣を彼女に預けたまま、亡くなっているんですね。

草薙の剣の歴史ってどうなってるの?
太刀っていろいろあるから、どれがどれか区別がつかなくなりました。
そこで草薙の剣に絞ってその運命をたどってみたいと思います。

草薙の剣を中心にストーリーを書き変えます。
ヤマトタケルの命は伊勢神宮で斎宮をしていた叔母のヤマト姫から草薙の剣を授けられました。
それから、東国を廻るのですが、相模の国で、国造の罠にはまって、野原で火を点けられます。
その時、太刀で草を刈り取って火打ち石で火をつけて、助かりました。
これでこの太刀を草薙の剣と言うようになりました。

そののち、尾張の国に行って、ミヤズ姫と結婚します。
それから、草薙の剣を彼女に預けたまま、伊吹山の神を討ち取りに行って失敗し、
だんだん病気がちになって、死んでしまいます。

最期に「乙女の 床の所に 私が置いた つるぎの太刀。その太刀はどうなっただろう。」
と、草薙の剣を詠んでいます。

古事記ではここまでしか書いてありませんでした。
この後、どうなったんでしょうか。
ミヤズ姫はこの剣の謂われ を知る事になります。
この草薙の剣はもともとスサノオの命が出雲でヤマタノオロチの腹の中から発見したものであり、天照大御神からニニギノ命に降ろされて、歴代天皇が所持していた由緒のものだったのです。
それを知って、ミヤズ姫は剣を熱田神宮に納めました。こうして草薙の剣は御神体になりました。
その後、それを新羅の僧・道行が盗みましたが、無事取り返されました。
ここまでが共通のお話です。
その後の事は、先ほど書いた通りです。
その草薙の剣がこの山に一時期保管されたという話が神社に伝えられていた訳です。

八剣神社の御祭神を思い出しましょう。
日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命 です。
この神社の御祭神たちに共通のもの、それは草薙の剣でした。
昔の人はこの三柱の神を見ると、草薙の剣が、
スサノオの命 ⇒ 日本武尊 ⇒ ミヤズ姫
と渡っていった事を容易に思い起こしていたのでしょうね。(ですから、暗号でなくて常識でした…。)

この鞍手町には剣の字のつく神社が沢山あります。
調べて行くと、記紀に書かれていなかった歴史がいっぱい残されているようです。

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神殿の写真です。光が虹色に写りました。しかもカーブしているように見える?
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同じ神殿です。なんだか、ヤマトタケルの白鳥の翼のように見えました。

では、次回は、この上宮に行ってみましょう。


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by lunabura | 2010-06-19 13:07 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

八剣神社(3)上宮・ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ


八剣神社(3)上宮(剣岳城)
ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ

舗装された一本道を登っていくと、広い駐車場があります。
そこからいくつもの道が頂上に向かっています。どれをとっても大丈夫です。
廻りの木々は桜がいっぱい。ここは桜の名所なんだ。

ゆるやかな遊歩道に導かれれば、ほどなく頂上に出ます。
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眺めが抜群です。なるほど、ヤマトタケルの命が褒め称えたはずです。
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六ケ岳方面を撮りました。
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頂上には見晴らし台があり、剣岳城の説明板がありました。
ここには山城があったんですね。
なるほど、これまでも360度の展望の地なら山城がありました。

だれのお城なのか、ちょっと読んでみましょう。
剣岳城
剣岳城の歴史は、言い伝えによると応仁年間(1467~1468年)、梅野土佐が築城したことに始まります。その後、文明年間(1469~1486年)宗像氏の下城となり、野中勘解由が城代として、宗像氏の防衛にあたりました。

1500年代、秋月氏の支配下におかれ、跡部安芸守が城代となりますが、戦乱の世となり、度重なる合戦ののち、天正年間(1573年~1592年)豊臣秀吉が九州を平定したころに落城したと伝えられています。

発掘調査の結果、この城の本丸に、建物跡、井戸の跡が確認されました。そのほか、防衛設備として、本丸の四方に石垣、北東側を除く三方に竪堀(たてほり)南東側に土塁、北東側に二重の土塁、空掘が築かれています。

また、敵が一勢に攻め込まれないように、出入口がコの字状(虎口)に造られています。このように、剣岳城はその歴史や城の構造から、居城ではなく、防衛設備が整った戦略的な城だったと考えられます。

頂上にはもちろん八剣神社の祠もありました。
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ヤマトタケルの命田部今朝麿が建てた行宮(あんぐう)でしばらく休息しました。
この地を去る時に雷雨に遭い、その時祀った雷神も八雷神社として残っていますが、
新幹線が通るために、この八剣神社に合祀されています。

地図 八剣神社 



では、次回は同じ鞍手町の古物神社に行ってみましょう。



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by lunabura | 2010-06-18 11:25 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)

高良大社(7)九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』

高良大社(7)
九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』


本殿の裏手にまわると高良御子神社がありました。

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摂社 高良御子神社
御祭神 高良玉垂命の御子神九柱(九躰王子
由緒 阿志岐(山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治六年に勧請)
例祭 11月13日
月次祭り 毎月13日
御神徳 無限の勝利、厄除け、農産牛馬守護、安産、病気平癒

九躰皇子。この不思議な名前。
「くたいおうじ」と読んで、九人の王子という意味です。
高良玉垂神の9人の御子の事です。
今回はこの九躰皇子についての伝承を調べましょう。

その手掛かりは、くじらさんが教えてくれた『高良玉垂宮神秘書』
という本の中にありました。
その本の冒頭の部分だけ読んだのですが、
内容は高良玉垂宮の神の系譜と縁起を書いたもので、
古事記と同じように、天神七代から書き起こしていました。
が、そこにはあのタカミムスビの神(高木の神)の名前はありませんでした。
そして、古事記や日本書紀とは少し違う神話が語られていました。

今回はこの「九躰皇子」の出生に至るまでの部分だけ、
るな流に解釈してまとめたものを紹介します。
(解釈に間違いがあったら、どんどん指摘して下さいね。)
ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊住吉大明神であり、明星天子の垂迹である。
(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)

叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。
内訳は女子が二人で、男子が三人である。
女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。

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普通は「表・中・底筒男の神」の事を住吉三神と呼びますが、
ここでは少童(わだつみ)2姉妹を含めて住吉五神と呼んでいます。

この住吉五神の父はウガヤフキアエズで、この神が住吉大明神です。
彼が明星天子の垂迹という事は、星の化身という事です。
明星といえば、普通は金星を指しますが、ここでは一般的な星なのか、
金星なのか、あるいは他の星なのか分かりません。
(ちなみに、高良山の隣に明星山がありますョ。)

「九躰皇子」を理解するために、ここで押さえておきたいのは、
高良の神は高良大菩薩と呼ばれ、底筒男神であり、月の神だという事です。

さて、続きを読みましょう。
15代神功皇后の時、イルヰが日本を責め立てた。
その時、神功皇后は筑前国の四王寺の峰に登り、虚空に向かって祈った。
東の空に白雲が現れて、四方に開き光をはなち、月神が20歳の若者の姿で現れた。
四方に分かれた白雲には四天王が現れ、四つの鉾が見えた。
月神の次に、明星天子の垂迹である住吉の神と、日神の垂迹・表筒男の尊が現れて、
三人で皇后の前に立った。
そして、月神と住吉神は大将軍となり、日神は両副将軍となって力になる事を約束した。
ほどなく三韓を降伏させたのち、住吉神は虚空に戻った。

『神秘書』では突然、神功皇后の話になりました。
「イルヰ」が国の名か、人の名前かが分かりません。
(別の縁起には新羅軍5万人が襲来とあります。新羅はハングルでは「シルラ」です。)

このイルヰと戦うために、神功皇后は太宰府の四王寺山に登って祈ったのですが、
その時、月神が出現し、その四方には四つの鉾とともに、四天王が出現しました。
続けて、明星天子、日神が出現し、皇后を助ける約束をしました。
戦に勝利すると、明星天子だけが去り、二人の若者は留まりました。

神功皇后の祈りに応えたのは住吉の神々でした。
両者の深い縁はここから始まっています。

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(「筑前国四皇寺山」=四王寺山の写真のストックを探したら、
ちょうど太宰府政庁跡がドンピシャと来ました。これって?!!!)

さあ、続きを読みましょう。
嫡男の日神・表筒男の尊神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という。
(玄孫って「やしゃご」と読むのが正解。ひまごは「曾孫」と書きますよね。)

三男の月神・底筒男の尊神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連藤大臣。高良大菩薩
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。

皇后には九人の御子がいた。
四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。

残った月神と日神は、神功皇后姉妹とそれぞれ夫婦になったんですって。
なるほど、だから20歳の若者の姿で現れたんだ。

この二組の夫婦は仲が良くて、一緒に皇宮に住んだそうですよ。
場所はどこだろ?文脈からは、高良山の麓なんでしょうね。
それとも、四王寺山の麓?(どちらも九州王朝の都の候補地だ!)
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長男の日神は豊姫と結婚して、生まれた子供に大祝日往子という名をつけました。
この大祝家は神官を務める家系です。物部氏なんですね。
この日往子のお墓が、祇園山古墳だという伝承もあります。

さて、メインの月神は神功皇后と夫婦になり、二人の間には5人の子供が生まれます。
仲哀天皇との間の4人の子供と合わせて九人を九躰の皇子と呼びます。

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どれもこれも、記紀とは全く系譜が違っています。
記紀に洗脳された頭には、何が描かれているのが理解に苦労しました。

この九人の御子の名前は『神秘書』には書かれていませんでしたが、
宝物殿に、それを書いた縁起書がありました!
1 斯礼賀志命(しれかし)     
2 朝日豊盛命(あさひとよもり) 
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

9人の名前が伝わってるとはスゴイです。

さて、これも系図にしてみようとして、はたと困りました。

これが生れた順に書かれているなら、最初の四人は仲哀天皇の御子たちになります。
高良大菩薩の子供じゃないんです。
単純に考えるなら、シレカシ命は仲哀天皇の嫡男になってしまいます。
(宇美神社で生まれたホムタワケの命はどうなる?)
どうしよう。辻妻を合わせられない。そうだ。
神功皇后は元夫の子供を4人連れ子にした。
だから、高良大菩薩にとっては、子供が9人になった。
そうだ、別に変じゃない。それで、いいのかな…。
(違う気もする…。とりあえずスル―しよう…。)

神功皇后はこの後、東征をせずに、高良山の麓で幸せに暮らした?
そうなると、記紀とはかなりの違いですね。むむむ。
続きを読まなきゃ。          (つづく)




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by lunabura | 2009-12-30 15:44 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

高良大社(8)印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』


高良大社(8)
印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』

『高良玉垂宮神秘書』のつづきを読んで行きましょう。
17代仁徳天皇の時に神功皇后は崩御。
夫の高良明神玄孫大臣、豊姫、大祝日往子尊、武内大臣皇宮を一緒に出た。
武内大臣は因幡の国で靴と衣を残して、山の奥に入って行方不明。
豊姫と玄孫大臣は皇宮からはるばると肥前の国に留まり、豊姫は河上大明神となった。

高良大明神と大祝日往子尊は9月13日に高良山に戻り、三種の神祇をはからった
(はからうの訳、不明。取り扱う。相談する。処置する。など)
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていた。
宝剣は神功皇后が持っていた。
内侍()は玄孫大臣が預かっていた。

16代天皇は短命だったようです。彼がホムタワケの命か、シレカシの命か、
あるいは同一人物なのか、文脈からは分かりません。
しかし17代は普通に仁徳天皇になっています。
神功皇后が生きている間に、天皇が変わったというのは、
16代が短命だった事になります。

さてその後、神功皇后が亡くなると、高良明神たちは
皇宮にいられなくなったようにも読めるのですが…。

唐突に出て来た武内宿禰は鳥取県で行方不明…。
豊姫・玄孫大臣夫妻は佐賀県へ。
高良大明神は甥っ子の日往子尊を連れて高良山に戻ります。
この部分の皇宮は何処だったのだろうか。文脈がつながりません。

高良大明神は三種の神器を持ち帰ったのでしょうか。
肝腎の「はからう」の訳が分かりません。
仁徳天皇が持つべき神璽を高良大明神は預かったままなのか。
玄孫大臣は鏡を持っているのか。
三種の神器を持つ者が天子なのです。

いったいどうなってる?????
途中が欠落していて、ストーリーが分かりません。
神秘書を読んで、謎がまた増えた…。

それでも、手掛かりを探しました。
そうだ。本殿の裏には印鑰神社がある。

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末社 印鑰神社(いんにゃく)
御祭神 武内宿禰命 (高良山祠官家の祖神)
由緒 山麓宗崎鎮座の印鑰社を昭和6年(1875)に勧請
例祭 11月13日
御神徳 延命長寿 厄除け 盗難除け

この「印鑰神社」は「いんにゃく」と読みます。
「印」は印鑑。「鑰」は鍵という意味です。

この「印」が神璽なのか、単なる役所のハンコなのか分かりません。
高良大社に伝わる印鑑は宝物殿で直接見る事が出来ます。
不思議な模様で、文字ではありません。
(掲載の許可を貰い忘れたので、出せません。ごめんなさい。)

「鍵」と言えば、くるま座さんが、
「太宰府天満宮の祭りには、二か所の神社の黄金の鍵を持っていくようになっていたのが、近年途絶えた」と言っていたのを思い出しました。

ネットで印鑰神社を調べると、久留米市や壱岐、熊本、佐賀、石川などに見られ、
国の役所が置かれていて、国の印鑑や倉庫の鍵の保管場所だったのが由来のようです。
那の国の金印が中国から与えられた事情などを考えると、
古代日本では「三種の神器」以外に「印鑑と鍵」という権威のシンボルの二本立てで見ていく必要があるんだなと思いました。

この印鑰神社の御祭神は竹内宿禰ですが、
他の印鑰神社でも竹内宿禰を祭神とする所があるのが謎解きの鍵のようです。
『神秘書』の中では竹内宿禰は高良の神ではありませんでした。
「高良の神」は物部の保連(やすつら)でした。

『神秘書』の本文はまだまだ続くのですが、
「神部物部を秘密にせよ。」という文もあり、さらに背景の研究が必要でした。
(るな的にはこれ以上は力不足です。)
ただ、気になる部分があったので、少し書き出しておきます。
40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。

やはり、高良大明神は天子の印を持っている時期があったととれるし、
玉垂宮と書いたのは高良山での事のように思われます。

アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という。

アントン・イソラなんてカタカナで書かれると、異国の名前のようですね。
ずっと考えたら、「安曇磯良」だった。(例。曇天はドンテンと読む)
アズミは安曇と書いたり阿曇と書いたりするけど、この例から「安曇」と書くのが原型に近いみたいです。

神功皇后の妹は二人いる。一人は宝満大菩薩。一人は河上大明神(豊姫)

神功皇后の妹は二人というのは、初めて知りました。

さらに、大問題が!
10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。

う~ん。これは見逃せない力学関係ですね~。
筑後国は、諸国と立場が違ってる!

出雲に日本の神々が行くのは、
「翌年の暦を貰うためではないか」という仮説を持っているのですが、
高良の神が行かないのは、独自の暦を持っているからではないかと解釈しました。

物部氏って自分たちで精確な暦が作れるから、出雲なんかに行く必要はない。
そんなプライドが感じられます。つまり独立国であったという事。
これが世に言う「九州王朝」なのだろうか。

以上、『高良玉垂宮神秘書』の一部を読んで見ました。
四王寺の部分で垂迹説を唱えて粉飾してしまったのが、実に惜しいです。
この為に、虚と実と振り分ける作業が必要になってしまいました。
しかし、ここには当事者しか書けない真実の部分も見え隠れしています。

皇宮の場所は、どこか書かれてないけど、
三種の神器が一時期高良山にあったのを示唆しているようです。
記紀の中でも矛盾している3~4世紀を補うような予感がします。

そろそろ高良山を降りましょう。また、ここに舞い戻って来れますように。




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by lunabura | 2009-12-29 20:55 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(13)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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