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三女神の伝承の宮々(3)英彦山神社編


三女神の伝承の宮々(3)
英彦山神社編

英彦山は何回も登った山ですが、ブログを書き始めてからは一度も行っていません。
気になる伝承はあっても、まだ手つかずです。

ブログの記事も書く時間が取れないピンチの時に、
桜もちさんが、コメントを下さいました。

それをまずはUPしますね。


桜もち

彦山修験道の縁起の原文抜粋です。

『鎮西彦山縁起』
此三女神奉日神之勅降宇佐嶋、後移此山焉。
爰大己貴神更娶田心姫命・瑞津姫命為妃鎮座此山北嶺、因称北山地主也。

市杵嶋姫命鎮座于山之中層也。
于時天忍穂耳尊霊為一鷹自東飛来為止于峯。(中略)

於此大己貴命献北嶽於忍穂耳尊、自率田心・瑞津二妃降居山腹日子号。(中略)
爾後三女移宗像宮大己貴神遷許斐山。

『彦山流記』
甲寅歳震旦国天台山王子晋旧跡東漸。(中略)
其乗船舫親在豊前国田河郡大津邑、今号御舟是也。

著岸之当初香春明神借宿、地主神称狭少之由不奉借宿。(中略)
即時権現攀登彦山之曰、地主神北山三御前我住所権現奉譲之間。

暫当山中層推下後、後移許斐山給。
金古七年丙申歳敏達天皇之御宇也。


『豊之前州彦山縁起』
此山中宮市杵嶋姫与安芸厳島神同体、本地弁才天(以下略)

この英彦山から許斐山(福津市八並と宗像市王丸の間の山)の途中に『日王山』があります。
…日若神社の記事に書かれていた場所です。

※携帯で入力したので…誤字脱字があるかもしれません。


るな

桜もちさん、やばい。
ここにも鷹が飛んで来たって?
これはオープンで行きましょう。
でも、あと一週間手が付けられません。 (+_+)
その間に、解説と意見を入れてくださいませ。訳も。
編集して、記事に出して、みんなで考えましょうよ。



桜もち

では!『公開討論』ということで。

ご存知の通り、私の文章力で『訳』は無理ですっ!
原文のまま記事にされた方がダイレクトに伝わると思います…(涙)
その代わりに、問題提起をさせて頂きます。
…これなら私の拙い文章でも大丈夫ではないかと。…たぶん。

ところで!他にも『鷹』の話があるのですか?
田川の古称は『鷹羽』ですよ。
因みに、英彦山の隣は『鷹ノ巣山』…豊前坊(高住神社)のある山です。

では1週間かけて(笑)…私の個人的意見と、討論すべき問題点をコメントさせて頂きますね!



るな

桜もちさん、それではこの上の非公開コメントを記事にしてUPするので、
その下にコメントを入れて行ってください。
討論にはならないと思いますが…。




ということで、よろしくお願いします。 るな




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by lunabura | 2015-01-19 20:01 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(16)

三女神の伝承の宮々(4)英彦山神社2 大己貴と二女神の結婚と鷹


三女神 伝承の宮々(4)

英彦山神社2 大己貴と二女神の結婚と鷹


さて、気になって仕方がない桜もちさんのお題を訳してみましょう。
でも英彦山をやり出したら、半年は下界に戻って来れなさそうなので、
今回、ちょっとだけ。
そう、ちょこっとだけね。

英彦山の祭神は「天忍穂耳尊」。「忍骨耳尊」(おしほねみみ)とも書きます。

彦山修験道の縁起の原文抜粋です。 『鎮西彦山縁起』
此三女神奉日神之勅降宇佐嶋、後移此山焉。
この三女神は日の神の勅命で宇佐嶋に降臨した後、英彦山に遷ってきました。

爰大己貴神更娶田心姫命・瑞津姫命為妃、鎮座此山北嶺、因称北山地主也。
そこで大己貴の神はさらに田心姫命(たごりひめ)・瑞津姫命(たぎつひめ)
をめとって妃(きさき)にして、北嶺に鎮座しました。これにちなんで、北山地主と呼ぶようになりました。

市杵嶋姫命鎮座于山之中層也。
市杵島姫命は山の中腹に鎮座しました。

于時天忍穂耳尊霊為一鷹、自東飛来為止于峯。(中略)
ある時、天の忍穂耳尊の神霊が一羽の鷹となって東から飛んで来て、峯に止まりました。

於此大己貴命献北嶽於忍穂耳尊、自率田心・瑞津二妃降居山腹、日子号。(中略)
そこで、大己貴命は北嶽を忍穂耳尊に献上して、タゴリ姫とタギツ姫を連れて
山腹に下り、その山を日子山と名付けました。

爾後三女移宗像宮、大己貴神遷許斐山。
そののち、三女神は宗像宮へ、大己貴神は許斐山へと移りました。
(訂正のアドバイスがあったら、どんどんコメントしてくださいね。)

大己貴と二姫
大己貴と宗像姫の新婚の宮が英彦山にあったとは…。
大己貴命と二姫との結婚は、けっこう有名だったんですね。
市杵島姫だけ、ここでは独身?

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そんな、大己貴と三女神の鎮座する英彦山に天の忍穂耳尊が鷹となって飛んで来たので、
大己貴は北嶽を譲って、それぞれ遷座したということですね。
しかも、別々の宮へ。

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これを福岡の地図で見ると、こんな感じ。

こうして、地図に描いてみると、ずいぶん壮大な動き。
これが暗示しているのは、何だろう。
水沼族と出雲族の通婚。そして、天孫族の侵入。
そんなストーリーが浮かんでくるけど。
そして転居先には異敵との戦いの伝承が…。

大己貴命と宗像姫が一緒に異敵と戦った話。(サイドバー たてざき神社)

許斐山(このみやま)
さて、許斐山が大己貴の宮だったとは、全く想定外でした。

許斐山で思い出したのは、入山してすぐ右手に神社があったこと。
ずいぶん古い宮でしたよ。
複数の扁額が掛かっていて、確か一つは熊野神社だったような…。
海人族系か、出雲系だったか、四拍手した記憶があります。

前のコメントに書いたように、頂上を目指すと
途中に灯台のように巨大な不動岩タイプ(円柱型)の磐座があるのですが、
その岩の頂上は山の頂上と同じ高さでした。
そして、山からジャンプしてその岩の上に飛んだ人が、
頂上には油を入れるような穴が穿ってあったと言ってました。

写真を探したけど、見つからなかった代わりに、
糸島の浜からこの許斐山がくっきりと見えた写真が出て来ました。
その浜には古代の船着場のような跡があって、正面にその許斐山が見えていたので、
不動岩の上の穴に油を入れて灯を焚けば夜の目安になっただろう、
と感想を書いてました。


神武天皇と天忍穂耳尊
最近気になっているのが、「天忍穂耳尊と神武天皇」の関わりです。

八幡東区の一宮神社で聞いた話ですが、
一宮神社は神武天皇が東征前に一年ほど滞在した岡田宮跡で、
かつて王子宮と称していました。
神武天皇がまだイワレビコという皇子だったからです。
往時の磐境神籬(いわさかひもろぎ)が残っています。

神武天皇はそこで祖神を祀ったのですが、何故かそれが「天忍穂耳尊」なのです。
ニニギノ命ではないんですね。
しかも、「天忍穂耳尊を祀る宮々があって、そのラインは英彦山に向かっている」
と聞きました。  (サイドバー ⇒ 一宮神社)

途中の一か所を、のらさんが見つけてくれたけど、まだ行ってません。
(のらさん、どこの神社でしたっけ…。せっかく教えてくれたのに…)

天忍穂耳尊はアマテラスから降臨するように言われたけど、言い訳をして降臨せず、
子のニニギノ命に降臨させた神。
これもまた…ナゾ。
そして、いつのまにか英彦山に降臨していた…。(・.・;)

ニニギノ命の方は糸島にやたら出て来る…。

このナゾナゾをいったい、どう解くんだい…。

(つづく)





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by lunabura | 2015-01-19 20:00 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(32)

三女神 伝承の宮々(5)英彦山神宮3 天台山王子晋がやって来た


三女神 伝承の宮々(5)

英彦山神宮3 天台山王子晋がやって来た

それでは、もう一つの縁起を訳して行きましょう。

『彦山流記』
甲寅歳、震旦国・天台山・王子晋旧跡東漸。(中略)
甲寅の年、中国の天台山の王子・晋が旧跡を離れて東に向かいました。

其乗船舫親在「豊前国田河郡大津邑」、今号「御舟」是也。
晋が乗った船は「豊前国田河郡大津邑」に繋ぎとめられました。
今「御舟」というのがこれです。

著岸之当初、香春明神借宿、地主神称狭少之由、不奉借宿。(中略)
着岸した当初、香春明神に宿を請いましたが、地主神は狭いのを理由に貸しませんでした。

即時権現攀登彦山之曰、地主神北山三御前我住所権現奉譲之間。
ただちに権現は彦山に登って、「               」


暫当山中層推下後、後移許斐山給。

しばらく、当山の中腹に降りたのち、許斐山に移られました。

金古七年丙申歳、敏達天皇之御宇也。
金光7年丙申の年(576)、敏達天皇の御代のことです。
さて、「  」の中がよく分からないです。
中味は地主神に譲れと言っているようですが…。
全体的に見ると、漢文も一部、日本語の語順で書かれた雰囲気があるので、
難しいのですが、とりあえず強引に訳しました。
(ばってん博多さん、この辺りどうですか?)
あとは、皆さんのアドバイスを待ってます。

分からなかった点として、
「二カ所の地主神」は、香春明神と英彦山と、別の神のことだろうか?
「権現」とは「王子晋」のこと?
「地主神北山三御前」とは「大己貴と三女神」?
全体を見て見直す必要がありそうですね。
また大津邑は特定されているのでしょうか。

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取り敢えず、分かった所だけ、前回の『鎮西彦山縁起』に
『彦山流記』を重ねてみました。
何だか時代が幾層か重なってる感じで、
誰かが権威づけをしたかったようにもみえます。
香春岳経由だということは、鉱山の問題もあるんですね。

最後の一行、「金古」について、愛読者さんのコメントで、
「金光」のことで九州王朝年号だという紹介がありました。
576年の話なので、意外に新しい時代の神々の交代劇となるようですね。

「彦山流記」の成立はどんな意味を持っているんだろう。
「神の山」を「仏の山」にするために、新たなストーリを創作したのかな。
今は、そんな理解です。
でも、一部分だけの訳で結論を出そうとするのが問題じゃね…。
いつか全体をちゃんと読んでみましょう。
今日は、メモ程度。
ビッグネームはや変遷が多くて難しいですね。

同じ英彦山神宮について『福岡県神社誌』の方を見たら、大己貴も三女神の名もなく、
天忍穂耳以外はイザナギ・イザナミが祀られていましたよ。
三女神の名前がようやく中宮にありました…。

いったい、どうなってる?

『豊之前州彦山縁起』
此山中宮、市杵嶋姫与安芸厳島神同体、本地弁才天(以下略)
英彦山の中宮は市杵島姫が祭神で、安芸の厳島の神と同体で、本地は弁財天である。
これによると、やはり中宮はイチキシマ姫でした。

以上、分かる所まで。

ところで別件だけど、大発見だったのは、『福岡県神社誌』に、
「英彦山が高千穂と呼ばれていた」と書いてあったこと。
これまた、記憶に留めておきましょう。







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by lunabura | 2015-01-19 19:59 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(14)

三女神 伝承の宮々(6)神々の降臨の地とオンガ様信仰圏


三女神 伝承の宮々(6)

 神々の降臨の地とオンガ様信仰圏


遠賀川流域の各地の山々には、神々が降臨した伝承があります。
これだけの広範囲に配置したのは誰だろう。
どんな信仰圏の人たちだろうと、ずっと考えていました。

英彦山神宮を前回まで考察しましたが、
今回はその地図に、描きたかった神々の降臨地を落としてみます。

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「三女神 伝承の宮々(5)」の地図に書き足しました。

大己貴命
大己貴は英彦山で三女神のうちの二姫神、タゴリヒメとタギツヒメを娶って、
英彦山の北嶽に住んでいましたが、天の忍穂耳が鷹となって飛んでくると、
その山を譲って許斐山へ遷宮します。
さらに北西にある楯崎神社には宗像姫と共に異敵と戦った伝承があります。

三女神
三女神は英彦山から宗像宮へと遷りますが、
途中の六ケ岳に降臨したという伝承があります。
そののち神興神社で神威をあらわして、宗像神社へと遷宮したと伝えます。
それを付け加えて書いて見ました。

黄色は神武天皇です。
①神武天皇は勅使を英彦山に出して、天の忍穂耳を祀らせます。
一方、一宮神社に磐境神籬を作って、祖神として天の忍穂耳を祀ります。

②神武天皇社では、松林の中の小さな泉で三女神を祀ります。

③日若神社では日王山越えをしようとする時に、イザナギの命の神に助けられました。

④馬を連れて迎えに来た物部氏の駒主の命の案内で
神武天皇は馬見山まで出掛けて参拝します。(祭神、イザナギ命・ニニギノ命・木花開耶姫)

ニギハヤヒ命
ニギハヤヒは笠置山に降臨しました。
三女神の一人、市杵島姫はニギハヤヒの子・天照日孫と結婚します。

以上がこれまで分かった伝承です。

オンガさま信仰圏
この遠賀川流域の中心は岡縣主・熊鰐の一族でしょうか。
熊鰐の一族は岡族・遠賀族と呼ばれていました。(オカ・オンガ)
熊鰐の祖神は大国主神と少彦名神。出雲の神々です。
つまり出雲族。
そして神武天皇の祭祀場を守り続けます。
熊鰐が出雲族だったとなると、どうして神武天皇や仲哀天皇・神功皇后を、
全力で支援するようになったのか、いきさつが分からず不思議です。

山を越えて朝倉市に出るとその麓に大己貴神社があります。
オオガ様・オンガ様と呼ばれている事から、
大己貴の信仰圏が遠賀川~筑後川流域で山を通じて繋がっているのではと
時々、つぶやきましたが、
その結合点として英彦山の伝承に手掛かりあるのが今回分かりました。
(これまでは、結合点は馬見山かと考えていた)

遠賀川流域には出雲という地名も現存していますが、
どうやら古い地層に古代出雲文化圏が眠っているように見えます。

英彦山縁起は何かのイベントのシンボルです。

「大己貴と二女神の通婚」は、筑後川や遠賀川が陸地化していく少し前の時代に、
三女神を奉斎する水沼族が大己貴信仰圏と通婚し、
お互いの流域に交流していったというシンボルで、

「鷹となった天忍穂耳の飛来」は
そんな古代筑紫に「五」の民が進出したというシンボルでしょうか。
しかも戦の匂いがあまりしない。

あれ?何だか、出雲の国譲りに似てる…。





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by lunabura | 2015-01-19 19:58 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(11)

宇佐・安心院トレッキング(6)香春神社 謎の神々たち 

宇佐・安心院トレッキング(6)  
香春神社 
謎の神々たち

香春神社(かわら)は集落の中にありました。
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私は日傘も帽子も忘れて車を飛び出しました。

c0222861_22385179.jpg

石段は遥か上の方まで続いています。
たぶん、この石段の長さはブログの最長記録を更新。
でも、ところどころでフラットになるので、それほど険しくはありませんでした。

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境内に出ました。正面の建物は廻廊のようになっていて、
まるで平安時代のような雰囲気です。

森の上の方、左寄りに白っぽく見えるのが二の岳のようです。
ということは、かつてはこの正面には一の岳が聳えていたんでしょうね。

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拝殿もかなり大きい宮です。
御祭神は
第一座 辛国息長大姫大自命(からくにおきながおおひめおおじのみこと)
第二座 忍骨命(おしぼねのみこと)
第三座 豊比賣命(とよひめのみこと)
です。

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神殿の作りも豪奢です。

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左右に控えるのは隋神というのでしょうか、二体の木彫の像は時代が違います。
こんな隋神が置かれた神社はこれまでに、糸島市の宇美八幡宮しか出会っていません。

一の鳥居のそばにあった由緒書には
古代の多くの謎を解く手掛かりがたくさん書かれていました。
まずは書き写しましょう。カタカナは平仮名に直します。

縣社 香春神社御由緒(略)
1.祭神及び創立
第一座 辛国息長大姫大自命(からくにおきながおおひめおおじのみこと)
    神代に唐の経営渡らせ給ひ、崇神天皇の御代に御帰国、
香春一の岳に鎮まり給ふ。

第二座 忍骨命(おしぼねのみこと)
   天照大神の第一皇子にして、二の岳に鎮り給ふ。

第三座 豊比賣命(とよひめのみこと)
    神武天皇の外祖母住吉大明神の御母にして三の岳に鎮り給ふ。

当神社は前記三柱の神を奉斎せる神社にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、角神霊を香春岳山頂三か所に奉祀せんが、元明天皇の和銅2年に一の岳南麓に一社を築き、三神を合祀し、香春宮と尊称せらる。
延喜式神名張に在る、豊前一の宮六座の内の三座なり。明治4年9月、郷社に列せられ、香春神社と改称。明治6年7月15日県社に列せられ、今日に至る。
                             香春神社

いかがですか?研究する方のために、今日は訳をしませんでした。
古文が苦手な方も、大体分かると思います。

香春岳を理解するのに重要な宮が当社です。
これまで、町誌などを読んで祭神を調べたりしたのですが、
神社がずばり、その神の謂われを書いてあるので驚きました。

これを見て、かなりの謎が解けそうなのですが、今回はメモだけ書いておこうと思います。
古い神から見て行きましょう。

第二座 忍骨命
この神は英彦山に降臨した神として、福岡では知られています。
普通は忍穂耳命と書きます。
天孫降臨の神として最初に指名されたのですが、その子ニニギノ命に譲っています。

忍骨命が英彦山と香春岳に深く関わることを伝える文があります。
「香春神社縁起」によると(略)
忍骨命の和魂は南山(彦山)に鎮まり、荒魂は二の岳(香春岳)に示現した。
(木村晴彦「香春・英彦山の歴史と民俗」)

忍骨命の荒魂(あらみたま)が二の岳に現れたということです。
和魂(にぎみたま)が「彦山」とありますが、「彦山」とは「英彦山」のことです。

この縁起から英彦山と香春岳はセットで捉えられているのが分かります。
宇佐八幡宮で教えていただいたのですが、英彦山でも銅が採れたそうです。
この二山には「銅山」という共通点がありました。

忍骨耳が天孫降臨をニニギノ命に譲った事情を古事記から見てみましょう。
次はブログ『古事記の神々』で訳した「天の忍穂耳の命」の一部です。
天照大御神は、
「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の
長五百秋(ながいおあき)の水穂(みずほ)の国は
私の御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治める国である。」
と命じて言われ、天忍穂耳命が天降りされました。

天忍穂耳命は天の浮橋にお立ちになったのですが、
「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国はひどく騒いでいるなあ。」
と言って、戻って来て天照大神にその事を申し上げました。

そこで、高御産巣日神と天照大神は命じて、天の安河の河原に八百万の神を集めて、
思金(おもいかね)の神に考えさせて、言われました。

「この葦原の中つ国は私の御子が治める国で、私が委ねて与えた国である。
しかし、この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。
そこで、どの神かを使わして、帰順させてほしい。」と。

(こういう事情で、天の菩比(あめのほひ)の神、天の若日子(わかひこ)、
雉(きじ)で、名前が鳴女、建御雷の神、
と次々に使者が派遣されて、ようやく出雲の国は降伏しました。)

そこで、天照大御神と高木の神の命令で、
太子(ひつぎのみこ)の天の忍穂耳命に言われました。
「今、葦原の中つ国を平定したとの報告がありました。
だから、以前にその国を与えた通りにして、天降りして治めなさいませ。」
と。

すると太子の天忍穂耳命が答えて申し上げました。
「私めが天降りしようと支度をする間に、子供が生まれました。
名前は天ニキシ国ニキシ天津日高日子番(あまつひこひこほ)のニニギノ命です。
この子を降臨させましょう。」

この御子は高木の神の娘の萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきづしひめ)と
結婚して生まれた子供で、長男が天の火明命(あめのほあかり)、
次男が日子ホノニニギの命です。

こういう事で、天の忍穂耳の言葉が受け入れられました。
忍穂耳の命はニニギノ命に勅命を伝えて、
「この豊葦原の水穂の国はそなたが治める国であると言ってお与えになった。
だから、命ぜられた通りに天降りしなさい。」
と言われました。

こうして、天の忍穂耳の命の天降りは次男のニニギノ命に譲られました。

地元に立ってこれを読むと、急に歴史がリアルに見えて来ました。
「騒がしい国」とはこの古遠賀湾周辺のことですね~。
「豊葦原の」とありますが、この辺りの川は葦が今でもよく繁っています。

ニニギノ命の降臨地といえば馬見山。(サイドバー馬見神社)
この地における宇宙観が少しずつ明らかになってきました。
詳しくは別の機会で掘り下げましょう。

第三座 豊比賣命 
神武天皇の外祖母住吉大明神の御母にして三の岳に鎮り給ふ。

この文の切れ目が分かりません。
「神武天皇の外祖母 すなわち 住吉大明神の御母」と解釈していいのでしょうか。
そうすると、豊比賣は神武天皇の母方の祖母ということになります。
この解釈が合っていれば、大変な情報です。

少し話が逸れますが、宇佐八幡宮の「比売神」は謎の神です。
宇佐を理解する事はこの女神を明らかにする事でもあると言って過言ではありません。

宇佐が謎めいているのは比売神とは誰か、分からないからです。
比売神=三女神=宗像三女神と普通は言いますが、
多分、歴史を探究するフクオカの人たちは、何故か首をかしげます。
この感覚は説明できないけど、不思議な現象なのです。

当社の豊比賣と同じなのか、違うのか。
それは大事な問題になります。

縁起に戻りましょう。
「豊比賣」が「神武天皇の外祖母」で「住吉神の母」とすれば誰が該当する?

母方を調べて行けばいいんですよね。
神武天皇の母は玉依姫。その母は「海神・豊玉彦の后」です。
その后の名前が豊比賣ということになります。

そして、その子供が住吉神ということになります。
豊玉彦は安曇族です。
豊比賣は住吉族だったのでしょうか。
住吉の神は現人神社に祀られています。(サイドバー 現人神社)

もしかしたら、安曇族の豊玉彦と住吉族の豊比賣が結ばれた?
まさかの、展開です。
(皆さん、検証してくださいな)

三年前に安曇族と住吉族の神話における深い関わりに気づいてから、
いよいよこの謎に取り掛かりたいと思っていた矢先でした。

まさか、香春神社にそのヒントがあるとは思ってもいませんでした。
系図とか書いたりして、先々もっと調べましょう。
次に行きます。

第一座 辛国息長大姫大自命 (からくにおきながおおひめおおじのみこと)
    神代に唐の経営渡らせ給ひ、崇神天皇の御代に御帰国、
香春一の岳に鎮まり給ふ。

この姫は崇神天皇の御代ということなので、ラストになりました。
「大自命」とありますが、「自」の字が判別しにくく、調査中に
「大目命」「大白命」「大日命」と、いろいろ出て来ました。
「自」一つで意味がずいぶん変わります。
神社が「自」としていることで間違いないと思いますが、まだ気がかりが残っています。

前掲書(木村晴彦)にこう書かれているんです。(一部分かりやすく改変)
香春神社の「縁起」に、
韓地における大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。
しこうして、この三山は、白石幽妙の神縁なり。
けだし、上古より、この山に臨座あり。
然る後、彼の土に渡り経営終る故、また帰座か。

この白石とは、まさに一の岳で採掘されつくしたものなのです。

c0222861_2245039.jpg

この「山王石」は一の岳から昭和14年、6月30日午後三時に
一の岳の山頂から落下して来て、そのまま鎮座しているのだそうです。

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これはその周囲に置かれた白い大理石。
キラキラしていて綺麗でしょ。一の岳はこの白い石で出て来た山だったのです。
航空写真でも真っ白に写るからすぐに分かります。

この白き神山を神格化して「大白命」とされた可能性が捨てきれないのです。

そして、もう一つ、「唐」「韓」「辛」の示す「カラ」の国。
特定されていないそうですが、異国に行って戻って来た女神とツヌガアラシトの話が重なって来ます。
(まだこれは紹介していませんね)

しかも、この周囲には現人神社がいくつもあるのです。
平安時代だったでしょうか、秦姓が多かったとも。
神功皇后伝承に出て来るキーワードがいくつも重なっています。

これらについては後日ゆっくり考察したいと思います。

ということで、今日は駆け足で祭神を調べました。

さてこの日、結局予定の2時間は4時間以上かかり、
るなは集合時間に遅刻してしまったのでありました (+_+)

地図 香春神社




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by lunabura | 2013-08-03 22:51 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

 若八幡神社(5)女神たち 神夏磯媛と速津媛

宇佐・安心院トレッキング(5) 

 若八幡神社(5)
女神たち 神夏磯媛と速津媛


今朝、目覚めながら「彦山川よ」というマーサの声が蘇りました。
  そうか。彦山川が流れていたんだ。

c0222861_21585882.jpg


それは、旧道を峠越えして若八幡神社に辿りつくかなと不安になった頃でした。
車は大きな川に出ました。
その時、マーサが「彦山川よ。最近来たばかり」と言ったのです。
それから、間もなく若八幡神社に着きました。

祭神はこの地区を開発したという神夏磯媛
神夏磯媛が香春岳の向こうにある採銅所とはどう関わったのか謎のままでしたが、
この言葉で謎は解けました。
川がヒントでした。

地図 若八幡神社 金辺川 彦山川 採銅所




若八幡神社の前には金辺川が流れているのですが、それが彦山川と合流するのです。
古代の道のメインは川です。
二つの川の合流点を押さえる事は銅の道を支配する事になるのです。
香春岳の銅は二つの川を下って響灘沿岸へ、
あるいは銅の道を通って春日市へと運ばれて行ったのです。
ここは古代の要衝の地でした。

地図 香春岳 若八幡神社 鏡山大神社



金辺川は香春岳の麓を通って鏡山大神社に通じます。
香春岳の両脇に控えた二点を押さえることは銅山を守る事でした。
神夏磯媛はそんな場所にクニ作りをしました。
しかも、たぶん不本意に。


この地区は神夏磯媛が開発したと一言書いてありますが、
弥生時代にどれほどの苦労があっただろうか、想像もつきません。


そこで、『日本書紀』から神夏磯媛が書かれた部分を抜き出してみましょう。

景行12年秋7月に熊襲が叛いて朝貢しませんでした。
8月15日に天皇は筑紫に向かいました。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。

その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに
「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。
そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。

神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八束の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。

「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くようなものではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、ウサの川上にたむろしています。

二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。

四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを京(みやこ)と呼ぶようになりました。

桜もちさんは、この地形から姫は行橋辺りにいたのではないかと推測しています。
のらさんは、佐波では神夏磯媛は
「美人は不幸になるから、ここには美人が生まれませんように」と言ったと教えてくれました。
(福岡なくて良かったぁ…)

神夏磯姫は天皇の使者が来ると聞いて三種の神器を船の舳先に掲げて迎えに行きますが、
これは服従の意味ではなく、正装だということが和布刈神社の社伝から分かりました。

同様に三種の神器で迎えた熊鰐五十迹手もみな天皇家を支えてきた人たちだったので、
神夏磯媛ももともと古来から支えてきた人たちと思われます。
『日本書紀』の姫のセリフは捏造でしょう。

神夏磯媛は佐波で生まれ、周防灘沿岸のクニを治める女王となったと思われます。
行橋を中心とした古墳文化の華やかさを思うと、かなりの繁栄していたことでしょう。

しかし、香春岳の近くに居を移さねばならなかった。
行橋を中心とした古墳文化の華やかさを思うと、かなりの繁栄だったことでしょう。

しかし、香春岳の近くに居を移さねばならなかった。
それは景行天皇の命令だったのではないでしょうか。
天皇は神夏磯媛の都を乗っ取ったのかも知れません。
神夏磯媛の人生は景行天皇によって狂わされたようです。


景行天皇の子供は80人と書かれています。
これが誇張だとしても、いったいどれだけの女性が天皇の意に従ったのでしょうか。

意に従って身を委ねるか、従わないか。
従わなければ死が与えられる。

葛築目(くずちめ)は殺されてしまいました。
筑紫や豊の女王たちは命懸けの選択を迫られたのです。

景行天皇の九州制覇にはその問題が常に付きまとっていたと思われます。
弥生時代、九州は女王たちの治める小さな国々が沢山あったからです。

神夏磯媛は生きる事を選んだ。
そう思っています。

c0222861_2214328.jpg

(若八幡神社 神夏磯媛を祀る神社)

さて、景行天皇の欲望については仮説に過ぎなかったのですが、
思いがけず、今朝、そらさんが、宇奈岐日女神社をブログに掲載してくれて
立証されました。
偶然だとはいえ、すごいタイミングです。

まずは、『日本書紀』の神夏磯媛の続きを読みましょう。              

冬10月に碩田(おおきた)の国にやって来ました。その国は広くて大きくて美しくもありました。そこで、オオキタと名付けました。速見の邑(むら)に着きました。女人がいて、速津姫と言いました。クニの首長でした。速津姫は天皇が来られたと聞くと、自ら迎えに出て言いました。

「この山に大きな石窟があり、ネズミの石窟(いわや)と言います。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人は青といい、もう一人を白と言います。

また直入(なおいり)の県(あがた)の彌疑野(ねぎの)には三人の土蜘蛛がいます。一人を打猨(うちさる)と言い、二人目を八田(やた)と言い、三人目を国マロと言います。

この五人はみな力が強く、仲間も多いのですが、みな「皇命には従わない」と言っています。もし強引に召せば、兵を挙げて手向かうでしょう。

天皇はそれは良くないと思って進みませんでした。そこでクタミの邑に留まって、仮宮を建てて住みました。それから群臣たちと話し合って、
「今、一挙に大軍を投入して土蜘蛛を完璧に討とう。もし我らの軍勢の勢いに恐れをなして、敵が山野に隠れてしまえば、後の憂いとなる。」
と言いました。そうして、椿の木をツチ(ハンマーの類)に加工して武器にしました。

それから強い兵士を選んでそのツチを授け、山を穿ち、草をはらって、石室の土蜘蛛を襲って、稲葉の川上で破り、ことごとく一党を殺しました。血が流れて、くるぶしまで浸かりました。のちに時の人はその椿のツチを作った所を、海石榴市(つばきち)と言いました。また、血が流れた所を血田(ちた)といいます。

次に打猨を討とうとして、彌疑(ねぎ)山を通りました。その時、敵の矢が横から打ち込まれました。官軍の前に矢が雨のように打ちこまれました。

天皇はいったん城原(きはら)に戻って、占って川のほとりに陣を構えました。そして軍隊を整えて、まず八田を彌疑野で撃ち破りました。すると打猨は、これは勝てないと思って、「服従します。」と言いましたが、天皇は許しませんでした。打猨たちは皆、谷に身を投げて死にました。

その速津媛が祀られているのが宇奈岐日女神社です。

wikiから。
神社の名称となっている宇奈岐日女の名は祭神の中にはない。宇奈岐日女はかつて湖であった湯布院を盆地に変えた女神であると伝えられている。「うなぐ」とは高貴の巫女がうなじに飾った勾玉の飾り物の意味で宇奈岐日女は 豊後風土記に登場する当時この地を統治した速津媛(祈祷師)で景行天皇の寵愛を受けたこの媛の愛称と考えられる。
Wikipedia.ja


寵愛を受けたと綺麗事で書かれていますが、その心境はいかばかりか。
神夏磯媛も速津媛もクニの民の為に涙を呑んだ。
『日本書紀』に書かれていない女神たちの苦悩を知る事になりました。

それでも弥生の女神たちはきっと前を向いて生きたことでしょう。

宇奈岐日女神社の訪問記はブログ「空 sora そら」にあります。
http://sora07.exblog.jp/20800042
◆宇奈岐日女神社 大分県由布市湯布院町


湯布院なんですね!




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by lunabura | 2013-08-01 22:20 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(11)

若八幡神社(4)神夏磯姫の哀しみ

宇佐・安心院トレッキング(4) 

若八幡神社(4)
神夏磯姫の哀しみ

日若神社から神武天皇などが山越えしたように、
私たちも山越えをするのですが、ナビが二つの道を示したので、
麓の道は古い道だろうと選んだところ、これがやたら狭い道で、
住宅街の中をくねくねと登るような大変な道でした。

ロスタイム20分は間違いなしと気にしたのですが、そこを抜けると夏吉に出ました。

「夏吉」こそ、夏羽が焼き殺されたために「夏焼」という地名になったのを
江戸時代の殿さまが好字に換えてくれたところ。
そこには若八幡神社があります。

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左の緑の丘が若八幡神社。主祭神は神夏磯媛(かむなつそひめ)。
神夏磯媛は夏羽から見たら、母か祖母に当たると思っています。
正面の山が香春岳の三山です。

さて、るなにはよく分からない謎がありました。
神夏磯姫は夏吉地区を開発した女神なのだけど、
採銅所は香春岳の向こう側にあるので、
姫が銅開発に関わったのかどうか、分からないままなのです。

多分、神夏磯姫は佐波出身の姫で、景行天皇に無理矢理、
この地域の長に据えられたのだろうと考えるようになっています。

景行天皇は筑紫の女王たちを複数、殺しているらしく、
夏羽の妹の田油津姫の終焉地とされる山門郡(みやま市)では、
葛築目(くずちめ)という女王を殺しています。

神夏磯姫が景行天皇をまつろわなかったら、
多分、葛築目と同じ目にあっていたことでしょう。

そんな背景があるから、夏羽は朝廷に恨みを持ったし、
田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。

『日本書紀』に、神夏磯姫が他の土蜘蛛を景行天皇に訴えたように
書かれているのは、男性社会による捏造であって、
真実はそんなものではなかったと思っています。
きっと姫は真実を知ってほしいと思っていることでしょう。

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この日は参拝する時間がなく、鳥居前でおいとまです。

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ほどなく香春岳三山が見晴らせる場所へ。
一の岳は何とも無残です。
地元の人が麻生セメントに山を売却した時、
まさか山そのものを削り取るとは思わなかったらしいです。
そうだよね。山を売ると言ったら、普通は表面の木を売ることを意味しているもんね。

さて、香春岳の周囲に並ぶ三つの宮。
若八幡神社と香春神社と鏡山大神社
この三つを結ぶルートを走ってみれば、何か分かるかもしれない。

ということで、まだ参拝していない香春神社に行く事にしました。
目指す神社は一の岳の麓にあります。
車は集落の中に入って行きました。   (つづく)

下は過去記事です。

若八幡神社
http://lunabura.exblog.jp/i138/

若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた
        (2) 神夏磯媛と香春岳と新羅
        (3)夏羽と田油津姫は


鏡山大神社http://lunabura.exblog.jp/16767388/

神功皇后は御霊を鏡に鎮めた

老松神社(みやま市)
http://lunabura.exblog.jp/16895784/

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か




地図 若八幡神社



宇佐・安心院トレッキングは下の#からどうぞ。


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by lunabura | 2013-07-31 21:01 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(6)

鏡山大神社・神功皇后は御霊を鏡に鎮めた


鏡山大神社
かがみやまだいじんじゃ
福岡県田川郡香春町鏡山南原705
神功皇后は御霊を鏡に鎮めた
 
福岡市と行橋市(ゆくはしし)を東西に結ぶ201号線。
今回は行橋市の方から福岡に向けて走りました。
途中、仲哀トンネルという長いトンネルを通って行きます。
この「仲哀」という名前が何故ここにあるのかずっと不思議でした。
仲哀天皇は香椎宮で亡くなっているので遠いのです。
しかし、このトンネルを抜けると香春岳が見えたことで、
謎が解決しました。
仲哀天皇と神功皇后は筑紫入りしてすぐに遠賀川を遡って、ここまで来ていたのです。
ですから、ここに仲哀天皇の名が残ってもおかしくなかったのでした。

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201号線沿いに銅の鳥居が立っています。さすが採銅所のそばです。銅製です。
正面の小さな丘の上に目指す鏡山大神社があります。
左に見える山裾が香春(かわら)岳です。

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丘の麓に着いてみると長い石段が待っていました。

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さあ、何回休憩したら着くのかな。
ところが、数歩登ったとたんに、あれ?この石段何だかすごい。
ちっとも疲れない!
見ると表面はデコボコのノミの跡を残してすべらないようにしています。
段差がちょうどよくて、スッスッと助けられるのです。
極上の登山靴を履いている感じ!もしかしたら、休憩なしで登れそう…。
そして、本当に楽々と一気に上ったのでした。
すごい。石工の技術がすごい。
これまで経験したことのない人体工学に基づくような石段だ!
日本中の石段がこうなると楽ちんだ!
と、感動しながら最後は小走りで境内に着きました。

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風雪に耐えるようにコンクリートでできた神拝殿です。

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これが正面。しめ縄が一直線で独特です。

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神殿を裏側から。
この広さでこの斜度はやっぱり製鉄か鍛冶のあと?

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ところが、もしかしたらと思って香春岳を探しました。
ここは香春岳の遥拝所じゃない?
樹木が茂っているので、このアングルだけ香春岳が見えました。
木がなかったら三山が見えて遥拝するのに最適の場所でした。

ここの神社の始まりは仲哀天皇と神功皇后でした。
石碑に書かれていた由緒書きです。現代語に直します。
仲哀天皇神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲が叛いて服従しないのは新羅の後援によるものであるとして、みずから男装して舟師(船長)をひきいて、新羅に向かわれた。

その途中で此の岡に天神地祇を祭り必勝を祈願し、皇后の御魂を鎮めた御鏡を祀り、崇めたのが御社の草創と伝えられる。祭神は神功皇后を主神とし、後に仲哀天皇を併祀された。

皇后御鎮座(西紀270年)より此の方1700余年を閲する御宮居である。
昭和63年1月吉日 宮司 鶴我盛仁

この鏡山大神社は神功皇后の御魂を鏡に鎮めて祀ったことが始まりでした。
私が驚いたのは、彼女が鏡に自らの御魂を鎮めたという点でした。

皇后はあちこちで天神地祇を祀っているのですが
奉納するのは剣や鉾、甲冑などの武器のたぐいです。
鏡を奉納したのは他に知っているのは唐津市の鏡山ぐらいかな。
唐津の方では神社の裏手の急坂の盤座群と稲荷社から鉄器製造の地と見ました。

そして、こちらの香春岳は銅山です。
新羅からの渡来人が採掘を始めました。
この話、前にも書いたのですがそれは若八幡神社の所でした。
夏磯姫と夏羽と田油津姫の神社です。
その若八幡神社こそ、香春岳の向こう側にあるのです。

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仲哀天皇と皇后は地図の左の方から船でやって来て、
一の岳を南を廻ってこの鏡山大神社まで来たという事になります。

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これは東から見える香春岳の三山のようす。
山の向こうは古遠賀湾。左の方に神夏磯姫の若八幡神社があります。
(この神社は後に現在地に移動しています。)
神夏磯姫がこの一帯を治めていました。その子孫が夏羽や田油津姫です。

仲哀天皇がここに来た時に出迎えたのはこの二人でしょう。
この時天皇側は出兵や武器の提供などを要請したと思われます。
そして田油津姫が神功皇后を暗殺したいと思うようになった
何らかの事件があったのだと思われます。

三の岳から銅が産出されました。
銅を溶かすのに必要な坩堝(るつぼ)の産地は
松浦郡と久留米市の高良山にあるのが分かりました。
どちらも皇后の伝承が残る所です。
戦うためには武器や船が必要なので、
その生産地を巡るあらそいが更に戦いを呼ぶのでした。

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知れば知るほど古代史の闇の部分も見えてくる哀しい気分の時に、
遭遇した狛犬くん。元気だな~。曲芸してる?

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一の岳を背景にこちらはポーズ。
癒してくれますね~。

地図 鏡山大神社 若八幡神社





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by lunabura | 2011-08-24 22:53 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

位登八幡神社・神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した


位登八幡神社
いとうはちまんじんじゃ
福岡県田川市位登681
神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した

ここにはナビに電話番号を入力して行きました。
何と簡単なのだ。古墳探しとは別世界。
県道458号沿いに一の鳥居があって、灯籠などがあります。
そこから鳥居の示す方向へ進むとすぐに神社に着きました。
福岡県神社誌を見ていたら
社記に曰く、
「太古から豊日別神社があるのに、神功皇后は三韓凱旋からこの神社に年の半分も滞在された。」

この書き方がおかしくて、どんな所か見に来ました。

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真夏の昼下がり、緑陰を見てほっとしました。

c0222861_17282325.jpg

おおお。狛獅子の何と大きいこと!ライオンそのもの。
なんだかギリシアの宮殿みたい。
行った事もないのにそんな感想を持ったのは、
この石段の幅広さとゆったりとした勾配のせいでした。
そして日向から緑濃き杜の中を通って

c0222861_17284641.jpg

まぶしい本殿前に出ました。
茅の輪くぐりの祭りがあったばかりのようです。

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迫力のある注連縄です。
参拝すると自分の姿を巨大な鏡が写し出します。
平原遺跡の巨大な八咫鏡を思い出しました。
手を合わせるのは自分自身へ、なのですね。
参拝を済ませると、頭上の巨木がさわさわと音を立てました。
気持ちがいいな。
神功皇后が半年もここに滞在した気持ちが分かる感じがしました。

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周囲の森です。

さらに
欽明天皇31年誉田天皇(ほむた)の神霊宇佐の里に降りられた。その翌年8月25日、この位登(いとう)の里神瑞を顕わされた。時の官吏がその事を奏上した所、敏達帝3年に命令があって、八幡大神を位登宮に合わせて祭り、宮殿を新たに造った。

とあります。要約すると、
宇佐の神である誉田天皇がここに神のしるしを表わしたので、祀るようになったという事です。誉田天皇こそ神功皇后の皇子で、後の応神天皇です。

皇后は皇子が生まれてしばらくして移動を始めたので
この頃は皇子はハイハイを始めたでしょうか。可愛いさかりですね。
確かに子育てにはいい感じの場所です。
神社誌を書いた人が、
「なんでこんな所に半年もいたんだ。もっと由緒がある神社があるのに」、
と言っているのがおかしいんだけど、滞在した理由は
以前に記事にした川崎町の正八幡神社の伝承と組み合わせると見えて来ましたョ。

正八幡神社と言えば田原麿です。
仲哀天皇が遠賀川にやって来たのを聞いて馳せ参じた武将です。
天皇亡きあとも神功皇后と共に闘い、ここまでお伴をして帰国しています。

正八幡神社の方の伝承をまとめたものを再び書いてみます。
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って、(2年後には)戻ってきた。

それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇(誉田天皇)の神霊からのもので、
「私は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」
という内容だった。
そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。

ここは田原麿の屋敷でした!
物資ともに豊かな屋敷で、共に戦ってきた戦友とも言える田原麿に
皇后は絶対の信頼を置いていたのがよく分かります。
だから安心してここで子育てして、心休まる時を過ごしました。

ここは宇佐八幡宮にずいぶん近い場所です。
誉田天皇(応神天皇)を八幡神として信奉する勢力が
こんな神霊降臨の神話をつくって、
地主神の神社を八幡神社に変えていくようすが具体的に分かる所でもありました。

そして、皇后がここに半年も居たのは、
豊浦宮へ帰るための旅程の手配の為だったろうと思いました。
何しろ遷都です。香椎宮へ向かう時も大人数だったので、海路は取れませんでした。
この帰り道はさらに大人数になりました。
兵糧、宿泊地の設定など、多くの準備が必要です。

ここまで来るために野営につぐ野営。
ここでゆっくりと休養して、次なる政治的課題への準備もした事でしょう。
一番の課題は、仲哀天皇の崩御の布告のタイミングです。
いとし子を皇位に付けなければならない。
仲哀天皇にはすでに皇位継承権のある皇子たちがいる。
彼らとの次なる戦いの準備も並行して行われたことでしょう。

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帰り道、二の鳥居からの眺めです。

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これは参道からの眺め。いいでしょ。空気も澄んでいます。
次は皇子が初めて立ったという生立神社へ行きましょう。

田原麿を祀る正八幡宮
http://lunabura.exblog.jp/16615951/


地図 位登神社 正八幡宮






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by lunabura | 2011-08-19 17:41 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた


若八幡神社(1)
福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は…
ここには日本書紀の続きが伝えられていた


日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。
20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。

仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。

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青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。

わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。


でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。

それについて日本書紀には何も書いていません。

しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。

それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。
気持の良い田園地帯を走ります。

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川の向こうにこんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
一の鳥居は川に向かっていました。道路拡張の為に少し下がったそうです。

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かなり古そうな趣です。

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杜の緑陰の深さが、歴史の古さを思わせます。

c0222861_026969.jpg

すぐに拝殿に出ました。
まるで江戸時代の寺子屋か武道場のような趣で、
大勢で参籠出来るような造りです。


この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。
人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。

年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)

それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。

夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?

それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?

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(つづく)

御勢大霊石神社

老松神社




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by lunabura | 2011-07-26 00:34 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
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