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赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫


赤司八幡神社(5)
神功皇后と蚊田宮と豊姫

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次に伝承が出てくるのは神功皇后です。
気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫を神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。
醍醐天皇の御代に誉田の神霊武内の神霊住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)
三女神を祀る筑紫中津宮に神功皇后が訪れて、豊姫を天皇の代行者として残しました。
これは景行天皇に倣ったのでしょうが、
これがキッカケで止誉比咩神社という新たな社号となりました。

神功皇后はどの段階でこの宮にやって来たのでしょうか。
それはネットに出された「大城(おおき)村誌」で分かりました。
神功皇后が西征の途に於いて中つ海(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(かだのあんぐう)(稲数村)を建ててこれに迎えました。

皇后三韓退治後、ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。

皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。

皇后は縁故ふかい道中の当社に妹の豊姫命道主貴としてとどめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。
そのために当社を豊姫之宮と称するようになったが、神名帳には止誉比咩神社とあります。
旧大城村(おおき)は南へ約一キロ。益影の井がある所です。
伝承をまとめると、中つ海の中央に位置するこの地は船が付けやすい地形で、
江戸時代には米、その後は砂利を積んだ船が出る良港だったそうです。
今は護岸工事のために川の流れがすっかり変わっています。

古代には水沼の君の船が停泊して、有明海まで自由に往来していました。
神功皇后の時には蚊田に行宮(あんぐう)を建てて歓待しています。
軍船は小郡市の津古(つこ)まで迎えに行ったのでしょう。

この時代には国乳別(くにちわけ)皇子が統治していました。
仲哀天皇に熊襲が朝貢しないという情報をもたらしたのは
この国乳別皇子ではないかという考えを持つようになったのですが、
それに応じて仲哀天皇は小郡市までやって来たのに、急逝。

この先を案じていた時に、その皇后が戦いを続行するというのですから、
国乳別皇子も水沼族も諸手を挙げての大歓迎だった事と思います。

天皇と皇后を迎えるために造った蚊田の行宮跡は、
日比生(ひるお)という所にあるもう一つの豊比咩神社の近くにあったそうです。
かつてはそこに石碑が立っていましたが今は無いという事です。

田油津姫攻撃の途中なので、滞在は一晩だった事でしょう。
軍船は高三潴の弓頭神社を経由して、一気に田油津姫の根拠地の前を過ぎて下流に下り、
柳川市の鷹尾神社に大本営を敷きました。
この時、地元の人たちはごちそうと舞で皇后軍を迎えたという伝承は既に書きました。

神功皇后の足跡は新羅攻撃の後にもここに出て来ます。
安曇磯良(あずみいそら)が船長となった御座船は
大川市の風浪宮から久留米市の大善寺玉垂宮へ。
そこから再びこの筑紫中津宮へと戻ってきます。

この時、神功皇后は蚊田の行宮で出産したと縁起は伝えています。
その時に使った産湯(うぶゆ)はあの渟名井(ぬない)の井戸の水でした。

なるほどね~。
これなら行きと帰りと両方に神功皇后の名前が出て来ても矛盾がない。
と一人で納得するのでありました。

それから神功皇后は妹の豊姫を三女神の祭祀のために道主貴として残しました。
その豊姫の名から「筑紫中津宮」は「止誉比咩神社」と呼ばれるようになりました。
豊姫の墓所は近くの塚島遺跡にあると言われています。

「止誉比咩神社」は後にキリシタン大名の大友宗麟の害を避けるために
「八幡神社」と名を変え、水沼姓を藤原にしました。
さらに「屋わた八幡宮」と変わりました。
現在「赤司(あかじ)八幡神社」の正式名称は「八幡神社」です。

祭神
道主貴 三女神なり (みちぬしのむち)
止與姫命 與止姫命 息長足姫尊 (とよひめ よどひめ おきながたらしひめ)
相殿 八幡大神 高良大神 住吉大神


ブログ内の伝承散歩コース 
田油津姫攻撃の順路
老松神社(小郡市) ⇒ 赤司八幡神社(久留米市) ⇒ 弓頭神社 烏帽子塚古墳(久留米市) ⇒ 鷹尾神社(柳川市) ⇒ 車塚古墳(みやま市) ⇒ 老松神社と蜘蛛塚古墳(みやま市)⇒ 権現塚(みやま市) この先は佐賀県へ

新羅から帰国後の順路
風浪宮(大川市) ⇒ 大善寺玉垂宮(久留米市) ⇒ 赤司八幡神社(久留米市)


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さて、赤司八幡神社について五回ほど書きましたが、いつくか疑問が出て来ました。
解けません!二つの謎。いや三つの謎。みなさんのお知恵を借りたい!

一つ目の謎 豊姫は誰?
豊姫は神功皇后の妹だというのですが、まだ腑に落ちていないのです。
神功皇后の妹って誰だろう、実家を調べれば分かるかなと、
仲哀天皇と神功皇后が最初に一緒に暮らした気比の気比宮をネットで調べると、
妹の名前が出て来ました。虚空津姫(そらつひめ)でした。

虚空津姫を調べて行くと、神功皇后は虚空津姫を
広島県の福山市の沼名前神社(ぬなくま)に祭主として残していました。
現地では別名は淀姫だと伝えています。

二つの伝承を比較すると、神功皇后は妹の豊姫を赤司八幡神社に、
あるいは妹の虚空津姫を沼名前神社に置いてきた事になります。
妹が二人にもなってしまった…。

福岡県の八幡古表神社では虚空津姫の別名は玉妃命・豊比売命となっています。

そこで、視点を変えて、「豊姫は竹内宿禰の妻だ」という話を調べて見ました。

ネットを調べると、壱岐真根子に豊子という娘が出て来ました。
壱岐真根子は竹内宿禰と姿がそっくりで、宿禰の代わりに自害した人です。
両者の深い関わりから、豊子は竹内宿禰の妻ではないかという
気持ちがしてならないのです。豊子を豊姫と呼んだのではないか。
彼には子供が9人という事なので、妻は沢山いたことでしょう。

竹内宿禰は虚空津姫を妻にしたのでしょうか。
壱岐真根子の娘の豊子を妻にしたのが、豊姫と伝わっているのではないでしょうか…。

皆さんはどう解きますか?

二つ目の謎 出産地の蚊田は宇美八幡宮か?赤司八幡神社か?王子宮か?
八幡信仰の始まりである応神天皇の出生地なので、
何カ所かあるのは仕方ないなと思うのですが、何とかなりません?

三つ目の疑問 誉田天皇と応神天皇。
この二人は同じ人と言う事になっていますが、
天皇の諡号(しごうー死んだ後に付けられる名前)って、一人に二つも付けるんだろうか。
変だ~。怪しい~。
と思うのであります。

以上、皆さんのアイデアを教えてください、ませませ。

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当社に伝わる「竿例し」という特殊祭事については、下記に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/18322463/

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by lunabura | 2012-01-10 21:38 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(2)

松尾宮と永岡八幡宮・神功皇后はお腹が痛くなった

松尾宮と永岡八幡宮
福岡県筑紫野市永岡587
神功皇后はお腹が痛くなった

ここは宝満川の右岸。筑紫野市の丘陵地帯に目指す松尾宮があります。
ここは二度目のチャレンジで見つかりました。
住宅街の中にあるので、わかりにくいのですが、隣に「永岡公民館」というよい目印がありました。

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分かりにくい原因はもう一つ。「松尾宮」は「永岡八幡宮」の中に合祀されていたんです。
地図で探す時は「永岡八幡宮」で探して下さい。
正面の鳥居にも「永岡八幡宮」と書いてあります。

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境内に入ると、この楠!! でっかいな~。
ここにはかつて城があったので展望も抜群です。背景の右に見えている山は宮地岳です。

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参道の正面にある拝殿は永岡八幡宮です。
まずはその由来を。
永岡八幡宮
祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命
   応神天皇 第14代仲哀天皇の第四男。母は神功皇后。第15代天皇。
   神功皇后 いわゆる三韓征伐のあと、現在の粕屋郡宇美町で応神天皇をお産みになられた、と言われている。
  玉依姫命 豊玉姫命の妹で、初代天皇神武天皇の母。(以上は『日本書紀』による)
社格村社(明治5年に定められる)
由緒 不詳 当社がいつごろ建立されたかについては、分かっていませんが、古くから永岡村の産土(うぶすな)神として祭祀されていたようです。 (略)
八幡宮なので応神天皇が祀られていますが、皇后軍がここを通った記憶があって、
神功皇后も祀られ続けたのかも知れませんね。

さて、目指す「松尾宮」は、すぐ左にありました。

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これがその神殿です。

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カメラを挿し入れてみると、男神が祀られていました。
その由来が書かれていました。
松尾宮由来
祭神 大山咋命(おおやまくい)別名を山末之大主神という。大年神の子。須佐之男神の孫。
社格 無格社(永岡八幡宮の境内神社)
由緒 不詳 現在の地に祭祀されたのは大正9年で、それ以前は裏側の道路を隔てたお茶畑のある所にあったそうです。

江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記付録』には
「松尾宮 マツヲヤマ 神殿方5尺・拝殿2間三間半
           祭礼 6月29日・奉祀福生坊
産神也。大山咋命を祭る。鎮座の初詳ならず。社地に神木の松一株有り。」
と記述されています。

この本以外は、永岡村の産土神を八幡宮にしていますが、ここでは松尾宮が産土神となっています。

由緒は不詳ですが、明治初期に編纂された「福岡県地理全誌」には、
   村の北一町。木殿(きのどん)山の上にある。
   里伝に、大変古い社で、神功皇后が熊襲征伐の時、ここで腹痛したので、
   この神に祈られて癒えたと言う」(口語訳・るな)
と、その当時この地に残されていた伝説が紹介されており、松尾宮がかなり古い歴史を持つことをうかがわせています。

 この松尾宮の宮司をしていた「福生坊」は宝満山の山伏です。石段の上にある鳥居は福生坊が寄進したものです。安永3年(1774)の銘があります。 (略)
松尾宮の元宮はここから一町(約100m)北の木殿(きのどん)という山の上にあったのですね。
神功皇后が来た当時は大山咋命が祀られていた訳です。
神功皇后が腹痛を起こしてその神に祈ったというのですから珍しい伝承です。

熊襲征伐の時にここを通ったというので、どの時点で通ったのか、考えたのですが、
ここに立つと羽白熊鷲攻撃のルートは「中つ海」(ここでは古宝満川)の向こう側に見えました。
だから、ここは「津古」へ行く途中、田油津姫攻撃の時になるのが分かりました。

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これは神社のある丘陵から下りた所から撮影しました。
向こうの山々の麓を通って羽白熊鷲の拠点に行軍しています。
手前の田んぼが当時は海で、かつて層増岐野とも呼ばれていた所です。

左は宝満山。右は宮地岳
くるま座さんの調査で、どちらも三笠山だったことが分かりました。
確かに笠を伏せた姿をしています。現在は宝満山だけを三笠山と呼んでいます。

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境内を歩いていると、東側に「松尾宮」の鳥居を見つけました。
ここは入り口によって鳥居の名前が違ってますよ。

さて、神功皇后の移動ルートに戻ると、皇后軍はここから津古の湊に行き、船で老松神社に向かいます。

老松神社はすでに下記のページに書いています。
  http://lunabura.exblog.jp/16567541/

老松神社から南下すると赤司(あかじ)八幡神社に伝承が出て来ます。

次回は赤司八幡神社(久留米市)に行きましょう。

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地図 松尾宮(永岡八幡宮)







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by lunabura | 2012-01-08 23:07 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(2)

太刀八幡宮・神功皇后は太刀を磨かせて奉納した


太刀八幡宮
たちはちまんぐう
福岡県朝倉市大庭
神功皇后は太刀を磨かせて奉納した 

寺内の美奈宜神社から下って来ると広い平野に出ます。
太刀八幡宮はその中の集落の一角にあります。

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こんもりとした森に一本だけそびえる大木。
これがくるま座さんが教えてくれた神社の見つけ方。

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左に廻り込むと鳥居がありました。
(後で分かったのですが、右に廻ると駐車場があります。)

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いかにも古社の風情で、大木の根が石段を持ち上げています。

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参道には沢山の灯籠や狛犬が並んでいます。
御祭神は 神功皇后、応神天皇、三女神です。

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神殿です。一部に彩色が施されているのは珍しいです。

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境内には大木が沢山あって、木陰と光が心地よい空間を作り出しています。

ここにも神功皇后の伝承がありました。
今回は福岡県神社誌を読んでみます。(現代語に改変します。)
由緒
神功皇后の勅命により、熊襲討伐のため、西国に軍兵を進められた時、羽白熊鷲と土蜘蛛田油津姫などの頑強な敵を討伐するために、大庭村上の原で軍兵を訓練し、また刀剣を磨かされた。

この時、皇后は帯びていた御剣を抜いて磨かせて「この太刀を天神地祇に捧げてお祈りしよう。」と言われて、太刀を納めてその上に大石を置き、これを太刀塚と称し、今も境内にある。碑には摂政元年辛巳年(201年)と記している。

御奉納の太刀の銘は乙王丸との古老の口碑により、この地を乙王丸村と名付けた。皇后が剣を抜かれた所を上原村の内抜剣区と呼んで、剣を磨かせたところを磨次と言い、どちらも今は人家が建っている。
「太刀」という神社の名前は神功皇后が太刀を奉納した事から付いていました。

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その太刀塚を捜すと参道の右側にありました。

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正面です。石は平べったく見えますが奥行きがある大きな石です。

いつ神功皇后はここに来たのでしょうか。
いくつかの伝承と位置関係を考えあわせると、
羽白熊鷲を滅ぼしたあと、次なる田油津姫攻撃のために軍勢を整えて、
刀剣を磨かせた事が分かって来ました。

そして自分が帯びていた太刀を抜いて磨かせると
それを天神地祇(天地の神々)に捧げて、次なる戦いの戦勝を祈願しました。
剣を納めると大石を積み上げてそのしるしとしました。
今なおその現場が残っている事に驚かされます。

戦いの前に刀剣を磨かせたという話は砥上(とがみ)神社にもありました。
ここでも兵卒たちは石剣を、武将たちは鉄剣を磨いたことでしょう。
そして漆を塗ったという話も伝わっています。

刀剣に漆
変な話だと思ったら、たまたま韓国ドラマの「キムスロ」で、
「黄漆」が「錆び止め」だというワンシーンを見ました。
前後は見ていないのですが、それは大きな情報でした。

「漆・刀」で検索すると、日本でも刀剣に漆を塗っていました。
薄く塗れば錆び止めとなり、切れ味は変わらないとか。
弥生時代にも刀剣に塗った例があるそうです。

日本刀を持つ人に尋ねたら「真剣」は手入れが大変で、
特に梅雨時は錆に対して気を使うそうです。

この太刀八幡宮にはそんな古代の「太刀」の手入れについての伝承が
地名にもなって残っていました。

乙王丸は太刀の銘。
内抜剣区は皇后が剣を抜いたところ。
磨次(もしくは徳次)は剣を磨いたところ。
ほかに、塗器は漆を塗ったところ。
上に並べてみると、伝承が混乱しています。
地元の方でないと分からない古い地名です。どなたか教えて下さいませ。

さて、
もともと「太刀社」だったのが「八幡宮」になった事情も伝わっていました。
土民らは小祠を造って太刀塚を祀っていたところ、嵯峨天皇・弘仁の世になって、村人らが集まって協議して、八幡神をお祭りしようと豊前国宇佐宮に御分霊を謹請し、弘仁14年に宮殿を建てて、応神天皇、神功皇后、三女神の三座を斎き祭った。皇后の神剣にちなんで社号は「太刀八幡宮」となった。(略)

天正15年、豊臣秀吉が九州平定に軍馬を進めた時、当社は兵火にかかり、社殿一切を焼失したので、文禄元年氏子中で社殿を再建した。
これを読むと、神功皇后と三女神を祀っていたのが、
皇后の子であり八幡神である応神天皇を後に加えたのが分かります。

三女神とは宗像三女神の事です。
ここに宗像三女神というのが意外だったのですが、
筑後川流域を廻っていると、古くから各地に祭られているのが分かって来ました。
今は広大な平野ですが、入り海だった時代の祭神なのでしょう。
明らかに宗像市の宗像神社より古い時代になります。

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さて、境内をぐるりと廻ると正面には福岡には珍しい「子持ち鳥居」がありました。

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黄金の稲穂の向こうは、かつて入り海でした。
ここから見える範囲は沼地だったのかも知れません。
一日に二回は波が洗った事でしょう。

次なる敵、田油津姫の根拠地「山門」はこの向こうです。

調べて行くと神功皇后は近くの福成神社に参拝していました。
準備の合間を縫って訪れたのでしょうか。
そこは忙しい合間でも行くべき神社だったのです。



地図 太刀八幡宮





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by lunabura | 2012-01-06 17:30 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(0)

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か


老松神社と蜘蛛塚
おいまつじんじゃ と くもづか
福岡県みやま市瀬高町大草311
女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か

田油津姫(たぶらつひめ)の古墳と言われる蜘蛛塚を目指しました。
老松神社の境内にあるというので、杜を探しながらです。
田園の中の集落の曲がりくねった道の所にありました。

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いかにも古社です。

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みごとな楼門が建っています。

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内側から。

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拝殿は新しく建造されたばかりのようです。


さて、目的の蜘蛛塚の方は一の鳥居のすぐ左にあり、その上に御堂が建っていました。

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石段の高みがそのまま墳丘の高さになります。
古墳の名は「蜘蛛塚」と言いますが、もともとは「女王塚」と言われていたそうです。

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御堂の真裏に廻ると墳丘の姿がまだ残っています。
雨が降ると血が流れると言われている事から、
石棺の中の朱が流れ出していると考えられています。

町指定文化財 蜘蛛塚(大塚) 瀬高町大字大草字大塚
昭和56年2月23日指定
この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
瀬高町教育委員会

説明板を見ると、被葬者には二人の候補がありました。
一人は景行天皇に殺された首長で、葛築目(くずちめ)と言う名も伝わっています。
もう一人は神功皇后に殺された田油津姫です。

葛築目は男か女か
「葛築目」の「目」は「め」で「女」の可能性があるのですが、
蘇我の稲目と言えば「男」なので、男女どちらかは表記からは分かりません。
しかし、ここが女王塚と呼ばれていた事、子安観音が祀られている事から
被葬者はこのクニの女王の可能性が高いと思われます。

いづれにしろ、この古墳には「天皇家に殺された女王の記憶」が残されています。

またこの古墳が前方後円墳だったとすると、通説の論理で行くと、
この地域を支配するようになった畿内の権力者が権力を誇示して
前方後円墳を作ったという事になって、時代は下がります。

どうも、伝承と古墳の形式が合いません。

神功皇后の時代を古墳時代に引き下げるか。
前方後円墳の始まりを引き上げるか。(大胆すぎる?)
結論は将来の発掘を待たねばなりません。

同時代の人たちの古墳を見回すと、
国乳別命(くにちわけ)の前方後円墳(久留米市)の周りからは
弥生時代のものが出土してましたが、
仲哀天皇の古墳(藤井寺市)は5世紀後半の築造。
息子の応神天皇陵(藤井寺市)は5世紀初頭の築造と、親子で逆転しています。
まだまだこの世界は研究の途上にあるようです。

熊襲や土蜘蛛って誰なんだ?
そもそも、この戦いの発端は何でしたっけ?
そうそう、熊襲が朝貢しなかった事が始まりでしたよね。

日本書紀では「熊襲」については、鴨別(かものわけ)に攻撃させたら
おのずから降服したと、チョコっとだけ書いています。
流れからは不自然で、辻妻合わせに後で挿入した印象を受けます。

そこで、これまでに登場した国々の場所を書いて見ました。

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神功皇后軍に殺された王・女王たちを青色で書いてます。

関西で生れて関西で育った日本書紀の編者が考える熊襲の実態は、
羽白熊鷲や田油津姫など、「敵対した国々」を総合した漠然としたもののようです。

「土蜘蛛」とは、かなり早くから入植した渡来人で、
山の中で鉱山を掘っていた人たちで、中東系だから手足が長いので、
イメージから蜘蛛の漢字を当てられました。
田油津姫もそんな種族の誇り高い姫だったと思われます。

この田油津姫の国の呼び方を考えました。
ここは数年前まで山門郡だったので山門(やまと)の国と呼びたいとおもいます。

この山門の国の朝貢品は何だったのでしょうか。
香春岳は銅、羽白熊鷲は鉄だったので、この山門国も金属関係と予測しました。

手掛かりは、この神社の名前が老松神社という事にあります。
老松神社といえば菅原道真(すがわらみちざね)です。
もちろん平安時代の人なので、関係ないと思ったのですが、
道真公の祖は天穂日命(あめのほひ)で、熔鉄の神です。
もともとここは鉄の神が祀られていて、
のちに悲劇の道真公もまた祀られるようになったのでしょう。

ここは有明海と筑後川に近く、豊かな葦原だったので
スズ鉄の生産をしていた可能性があります。
そばの女山(ぞやま)あたりの鉱物なども調べると全容が見えてくるでしょう。

るなの推理コーナー
景行天皇は帰順しなかった山門の国の女王・葛築目(くずちめ)を殺して、鉄製品を朝貢させるようにすると、それを支配、管理するために子供の国乳別命を近くの高三潴に封じた。国乳別命は地元の豪族と結びついて水沼(みぬま)の君の祖となる。

一方、葛築目を殺された山門の国では、次の王、もしくは二代目かに香春岳の田油津姫を迎えて女王か妃にした。

こうして再び力を取り戻した山門の国は国乳別命に朝貢するのが理不尽で、朝貢を取りやめた。

その報告を国乳別命から聞いた仲哀天皇は下関に遷都して、景行天皇が残した筑紫の支配権を確立するために乗り出した。

こんな感じかな…。
手に入ったコマを並べると、こんな仮説が生まれました。

調べて行くと、この老松神社はクニの聖なる場所というのが分かって来ました。
山門国の都造りについて興味深い記事があったので、資料が揃ったらまた報告します。

さて、続けてもう一つ有名な権現塚古墳に行きましょう。

地図 蜘蛛塚・老松神社






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by lunabura | 2011-09-25 16:35 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(0)

鷹尾神社・皇后軍をハムヤ舞とブリ料理で迎えたムラ人たち


鷹尾神社
たかおじんじゃ
福岡県柳川市大和町鷹ノ尾
皇后軍をハムヤ舞とブリ料理で迎えたムラ人たち

筑後川流域をさらに南下して、柳川市へ。
柳川と言えば北原白秋の古里です。
彼の詩の「ギヤマン」の不思議な言霊の響きに触れて
異国情緒に憧れた子供のころを思い出しました。

有明海をゆりかごとするこの町に異国からの船が直接乗り付けられるのは
今も古代も変わりません。

柳川には何度も行ってるのですが、目的が違うと全く別の町に見えます。
今回は神功皇后のゆかりの鷹尾神社に参拝するのが目的です。

この鷹尾神社は田油津姫攻撃の時の上陸地で、大本営地とも言われています。

今回の筑後川流域の探索には、私も無駄のないコースを練って南下したのですが、
はからずしも皇后の進軍ルートを辿っている事に気づきました。

古代の船でも現代の車でも、人が考える事は、そう変わらないのですね。

久留米市大善寺から大川市、柳川市と移動すると、
田油津姫の拠点をターゲットとして正面を避けて、
半円を描いて側面から進軍しているのが肌で分かります。
弓頭神社国乳別命と挟み打ちをしているのかも知れないな。

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この鷹尾神社に皇后の足跡は残っているのでしょうか。

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神社は県道に面していましたが、
昭和時代にこの道路拡幅の為に後ろに下がったという事です。
その時移動した石の鳥居が大和町の文化財に指定されていました。

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鳥居をくぐるとすぐ脇に「神功皇后行啓遺跡」と石碑がありました。

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大きな楼門があって、狛犬と神像が中にあります。

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これは珍しい木彫。赤一色の狛犬と赤と青の二色がペアでした。
尻尾がバルカットのように広がったデザインなので、どっしりとした印象を与えます。

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朝の竜巻や雷雨も治まって日が差して来ました。

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扁額に八幡宮と書いてあります。
祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后です。
平安時代貞観11年(869)に清和天皇の命によって祭られたと社伝にありました。

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平安末期には、筑後一の宮「高良神社」の別宮(べつぐう)だったそうです。
社の造営や修造は、朝廷や鎌倉幕府などの下知で行われたというので、
格別な宮だったのが分かります。

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本殿の右脇に小さな摂社がありました。

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その後ろに神功皇后の腰掛石がありました。
神功皇后は子安の神として崇敬されています。
この宮には「風流」という舞の神事がある。
神功皇后が筑前の香椎の宮より、筑後の宮に移る時、時の漁人は皇后を海上にお迎えして、鰤魚(ぶり)を献上して舞曲を奏した。これが今日伝わる当社の反耶舞である。 尚、皇后の上陸地は当社から4,5町の道祖の御瀬という所で、そこには猿田彦神と海龍神を祭る小祠がある。
郷土研究筑後 一部改変


神功皇后の記憶は、反耶舞・破牟耶舞(はむや舞・はんや舞)にも残っていました。
西風流といわれ、「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」とはやしながら
太鼓と笛を鳴らすといいます。
歓迎して舞曲を奏するほどなので、
田油津姫のクニとは、よほど対立していたのでしょう。

伝承ではここからは車駕に乗って行ったと言います。
「車駕」という言葉はこの大和町から使われ始めます。
「くるま」の事です。
車に乗ったとすると、道路が整備されていなければなりません。

くるまが弥生時代にあった?

韓国について『魏志倭人伝』では車がないように記述されていますが、
当時の車が出土してしまっています。
馬と車については『魏志倭人伝』を妄信してはいけないな~。
中東や中国大陸から逃げて来た貴人たちが、地元での暮らしを
再現しようとした可能性を考慮する必要が出て来ました。

この柳川も伝承どおりだとすると、すでに大陸から車が直接入っていて、
港と都邑の間に数キロ程度の、馬車が通る道が狭い範囲で
整備されていた可能性を考えてもよいのかもしれません。

この大和町から田油津姫の陣営まで直線であと8キロ。
私たちも車で田油津姫の伝承を追って同じルートで向かいました。

地図 鷹尾神社 みやま市





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by lunabura | 2011-09-20 16:45 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(3)

弓頭神社(1)景行天皇の皇子・国乳別皇子を祀る宮


弓頭神社(1)
ゆみがしらじんじゃ
福岡県久留米市三瀦町高三瀦521
景行天皇の皇子・国乳別皇子を祀る神社

大善寺玉垂宮から2キロほど南下して行きました。
楽勝と思ったのですが、道を何度も曲がるので、地図から目が離せません。
弓頭神社とは一本道で繋がっているだろうという思い込みが
心の隅にあったのでしょう。
両者にはどんな繋がりがあるのか、果たして分かるのでしょうか。

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田んぼの向こう、右の方に杜が見えだしたので、あれだろうと、ようやく安心。
「高三瀦」と「高」がついているので、
政治的にも中心地ではなかったかと思ったのですが、
田んぼばかりだし、神社は高台にあるような様子でもないし、
川が氾濫したら大丈夫だろうかと、都としての地形に疑問。

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しかし平地ながらも、この立派な石垣を見ると歴史の重さを感じました。

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参道がなく、路地に入って左手にいきなり鳥居がありました。
左右の建物は倉庫に見えますが、廻廊です。

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境内に入ると、瀟洒な隋神門が迎えます。

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龍の彫り物があります。格式の高い宮です。

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景行天皇の皇子が祀られていると知っていたのですが、
ここまで豪華な神社だとは思ってもいませんでした。
唐破風の向拝に、重ねられた千鳥破風には菊の御紋が金色に。

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神殿を見ると色彩はさらに豊かに残っています。
このような豪奢な神社があるとは…。
これまでの田んぼののどかな風景と違和感…。

ちょうど氏子さん方がいらっしゃって、拝殿に上がって参拝する事が出来ました。

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天井の曲線が見事です。

境内に書かれていた石碑を読んでみます。(古文は現代語に変えます)
弓頭神社(旧郷社)
本社は水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とする。
成務天皇紀で「吾が国造(くにのみやつこ)を任命する時には必ず楯矛を授けてあかしとする。」とあって、

第12代景行天皇の皇子、国乳別皇子が「古式にのっとり、弓矢楯矛をいただいて下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた」と書かれた部分に由来するものと思われる。

この高三瀦は水沼の君累代の政治の地であり、古代の行政と文化の中心として繁栄した所である。

古伝説には「神功皇后韓攻撃の時、弓大将だったために、弓頭大明神と称えられた」と言い伝えたとの説もある。

国乳別皇子のお墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚ともいう)と称し、本社の西北3町(約300m)ばかりの所にある。
明治6年6月、郷社に定められる。

なお、神社が所属する銅剣、石包丁、石戈、耳環は町の文化財に指定されている。
平成10年3月 三瀦町教育委員会

出ました!神功皇后と主祭神の国乳別皇子には接点がありました。
景行天皇の皇子なので、仲哀天皇から見たら叔父に当たるんですね。
それなら、絶対的な味方です。

日本書紀に書かれた記事そのものが現存すると言う貴重な宮です。
水沼の君の累代の政治の地という事で、大善寺玉垂宮ともやはり関わりがあります。
皇子の墓まで残っている。

幸運にも郷土史家による弓頭神社の資料集が作られていて、
氏子さんから頂戴しました。
次回はその資料集を紐解きます。
(つづく)
地図 弓頭神社










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by lunabura | 2011-09-08 00:04 | 弓頭神社・ゆみがしら・久留米市 | Trackback | Comments(0)

弓頭神社(2)襲の姫と、水沼国や火の国の租になった皇子たち


弓頭神社(2)

襲の姫と、
水沼国や火の国の租になった皇子たち


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この主祭神の国乳別皇子は日本書紀に名前が出ている人です。
まずは読んでみましょう。
次の妃、襲(そ)のタケ姫国乳別(クニチワケ)の皇子国背別(クニソワケ)の皇子(=ミヤヂワケ皇子)とトヨトワケの皇子を生みました。長男のクニチワケの皇子は水沼(みぬま)の別(わけ)の始祖です。次男のトヨトワケの皇子は火の国の別(わけ)の始祖です。
以上天皇の男女の御子は前後合わせて八十柱います。

しかし、ヤマトタケルの尊ワカタラシヒコの天皇イホキイリビコの皇子以外の七十余人は皆、国郡に封じて、それぞれの国に行かせました。こうして今の世に諸国の別(わけ)というのは、この別王(わけのみこ)の末裔です。
              
景行天皇と言えば、田油津姫の祖の神夏磯姫が恭順した相手でした。
神夏磯姫以外の周囲の長たちはみな殺されてしまいました。
何とも恐ろしい天皇だ…。

その天皇に子供が各地に80人もいるのは
恭順のあかしに、クニの長たちが娘を差し出したからでしょうか。

この国乳別皇子の母、武姫は襲の姫です。
「襲」と言えば、すぐに「熊襲」を連想するのですが、
この場合は背振山の南の方にあった国ではないかと考えています。

この「背振山(せぶり)」の語源は「そほり」と言って、
「襲」とは「山に雪がまだらに残っているようす」で、
「北の方を指す」ようになり、
「ほり」とは「目もくらむほど真っ白に光輝く形容詞」だと、
眞鍋大覺氏が伝えています。

背振山脈はかつては雪深い所でした。
弓頭神社あたりから見ると、冬には北の方に真っ白に輝く峰々です。

この事から「襲」とはこの背振山系の南にあると考えるようになりました。

「襲ほり山」の南の「襲の国」で、
景行天皇はその姫を妃に迎えて数年滞在し、三人の子供が生まれ、
子供たちに水沼の国(福岡南部)と火の国(佐賀県~熊本県)に分けて
治めさせたと考えられます。

そして、それらに挟まれた国が「ヤマトの国」です。
これは新説でなくて、地名がそうだったのです。
そこに田油津姫がいる。

山門(やまと)郡の場所を確認しようと、新しい地図を見てびっくり!!
「山門郡」「大和町」など、「ヤマト」の地名が消えている!
えらいこっちゃ。

「三輪」や「出雲」も平成の合併で福岡から消えちゃいましたが、
こんな由緒ある地名がことごとく失われてショック。

みんな、ふるさとの歴史に興味が無くなって、
地名を失う事の重大さに不感症になったのかな。
古代は地名を付ける事が支配権を表すほどなのに。

ま、ぼやきはこれくらいにして
襲の武姫の子供達の支配するエリアを調べてみないと。

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旧山門郡のエリアを「やまと」、旧三潴郡のエリアを「みぬま」としました。
火の国は佐賀~熊本でかなりアバウトに描いています。

こうして見ると、有明海沿岸は景行天皇の子供たちが治めた事になります。
天皇家や物部氏の支配が及ぶのが水色や緑のエリア。(吉野ヶ里は未調査)

そうすると、黄色で描いた熊鷲とか田油津姫は
かなり目障りに見えたのが分かって来ました。

景行天皇の西征後、落ち付いたかに見えた筑後川沿岸諸国も、
天皇が筑紫を離れると、国乳別皇子の代には、もう不穏な空気が流れました。

その後、下関の豊浦宮に遷宮した仲哀天皇も、
新羅の塵輪(じんりん)に襲われてからは、
もう一度、筑後平野をまとめ直す必要に迫られたのが地形から読み取れます。

国乳別皇子こそ、SOSの発信者の一人だったのかも。

「別(わけ)」というのは星を羅針盤にしてやって来た氏族たちの総称で、
のち、「別」のいる「湊(みなと)」も「わけ」と言うようになったと
眞鍋大覺氏は書いています。

襲の武姫も異国の氏族の湊のある国の姫だったのかも知れません。
子供たちに皆「別」の字がついています。

中東から、あるいは中国、韓国から異なる氏族が辿り着く有明海では、
まだまだ民族も言葉も違っている時代の話です。
「別」という港を目指して次々に後続隊が到着します。
常に緊張関係にあったと思われます。


この弓頭神社が平地にあるので、都としての地勢の要件を満たすのか、
疑問を持ったのですが、資料を見ると
ここ一帯は丘陵地帯で、古墳が50基近くあった事が分かりました。
度重なる氾濫による沖積と、圃場整備で平地になったのでした。

(つづく)

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by lunabura | 2011-09-07 17:33 | 弓頭神社・ゆみがしら・久留米市 | Trackback | Comments(0)

若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた


若八幡神社(1)
福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は…
ここには日本書紀の続きが伝えられていた


日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。
20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。

仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。

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青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。

わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。


でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。

それについて日本書紀には何も書いていません。

しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。

それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。
気持の良い田園地帯を走ります。

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川の向こうにこんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
一の鳥居は川に向かっていました。道路拡張の為に少し下がったそうです。

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かなり古そうな趣です。

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杜の緑陰の深さが、歴史の古さを思わせます。

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すぐに拝殿に出ました。
まるで江戸時代の寺子屋か武道場のような趣で、
大勢で参籠出来るような造りです。


この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。
人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。

年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)

それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。

夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?

それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?

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(つづく)

御勢大霊石神社

老松神社




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by lunabura | 2011-07-26 00:34 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(4)

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅


若八幡神社(2)

神夏磯媛と香春岳と新羅

この神社の伝承を読んで疑問だらけになってしまいましたが、
まずは御祭神を調べましょう。
神夏磯媛(かむなつそひめ)
仁徳天皇
応神天皇
神功皇后
小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)

祭神は本来は「神夏磯姫」を祀っていたのが、
子孫の夏羽たちの怨霊鎮めの為に八幡神が勧請されました。

今回はこの神夏磯媛と夏羽の二つの時代を考えてみます。

景行天皇と神夏磯媛の時代
主祭神の神夏磯媛について、日本書紀の景行天皇の巻で確認しましょう。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを(みやこ)と呼ぶようになりました。
                    
これを読むと、この神夏磯媛のクニの周辺の山岳地帯に
四つほど小国があった事が分かります。
高羽は田川で、莵狭は宇佐だといいます。

まつろわぬ者たちが山岳地帯に住んでいるのは、
鉱山を中心に集落を作っていたのがクニとして発達したのであって、
彼らが人をさらうのは、鉱山の働き手を確保するためだと思っています。
事故が多いため、里人を拉致して働かせるのが手っ取り早い。

景行天皇が来たといっても、彼もまた小国の首長なので、
服従する気などさらさらなかったでしょう。

各国それぞれに鉱山を持っていて、それなりに均衡がとれていた時代に、
神夏磯媛だけが景行天皇に帰順した していたという状況です。
それでは神夏磯媛はどんな鉱山に関わっていたかというと、
この若八幡宮の前に立てば一目瞭然でした。

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神社の鳥居の向こうに、香春岳があったのです。
香春岳と言えば、先に書いたように銅山です。

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これは香春岳の全容です。
右の台形に削られた山が一の岳。祭神は辛国息長大姫大目尊
中央が二の岳。祭神は正哉吾勝々速日天忍骨尊
左が三の岳。祭神は豊比売尊。銅はこの三の岳から採れます。

香春岳の銅山は「辛国(からくに)」が象徴するように、
新羅系渡来人が開発したと伝えられていて、
その末裔に神夏磯媛の系統があった可能性は高いと思います。
神夏磯媛は彼女なりにクニの安泰化を図って天皇に帰順し、
豊かな国造りをしました。
これが景行天皇の時代です。

仲哀天皇と夏羽の時代
次にやって来た仲哀天皇は景行天皇の孫にあたります。
夏羽田油津姫兄妹も神夏磯媛の孫か曾孫に当たるのでしょう。

仲哀天皇と神功皇后が筑紫入りしたあと、この一の岳の向こう側に廻って、
鏡山大神社で鏡に皇后の御魂を鎮めて祀ったと伝えられています。
彼女が奉納するのは大体は銅剣などの武器ですから、よほど重要な山です。
他に鏡を奉納した所は、今のところ私が知っているのは唐津市の鏡山稲荷神社です。
(どちらにも白石信仰があります。)

神夏磯媛の時代は景行天皇が来ても、何とか丸く収めて、
この銅山の実質的な権利をそのまま継承して朝貢で済ませていたのが、
今度は仲哀天皇が来て銅山の権利や朝貢額を確認した上、
今度の戦争への負担を要求されたと思います。

この時応対したのが、夏羽だと思われます。
この時、夏羽側に不利で納得出来ない交渉があったと考えました。
ポイントは仲哀天皇の皇后もまた新羅の王統の血を引いているという点です。
その御霊を目の前で鎮められたのですから、
夏羽側は良い思いはしなかった事でしょう。

銅山経営者から見たら、仲哀天皇は利潤を掠め取るような存在です。
田油津姫がこの現場にいたかどうかは不明ですが、
神功皇后を暗殺しようという気持ちが生じたとしたら、
この香春岳についての利権の問題が絡んでいると考えられます。

田油津姫の暗殺未遂現場として、
「古賀市の小山田斎宮であり、そこで捕えられて殺された」という伝承もあります。
小山田斎宮と言えば、神功皇后が一週間祈祷をして神意を尋ねた所です。
ここに田油津姫がいたとしたら、かなり近しい関係になります。

小山田斎宮で殺されたとすると山門での田油津姫討伐は無いことになります。
山門での戦いの伝承もまた、かなり濃厚にあるので、
仮に暗殺未遂事件が小山田斎宮で起こったとしても、
彼女は山門に逃げて、そこが戦場になったと想像しています。

考えてみると、神夏磯媛から田油津姫にかけての時代は、
佐波から山門まで、かなり広い地域に影響力が及んでいた事になります。

物部氏と土蜘蛛たち
物部氏の分布図に「夏羽と熊鷲と田油津姫」を重ねてみました。
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赤い丸が物部氏です。黒い■が夏羽や熊鷲たちです。
こうして地図を眺めていると、
物部氏は遠賀川や筑後川流域で発展していき、隕鉄やスズ鉄を生産していたのが、
川が堆積して陸化して行ったために原料確保が出来なくなって行き詰まり始めた
状況が読み取れます。

一方神夏磯媛や鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折、羽白熊鷲たちは
山の方に住み分けして金や銅を生産し、
あるいは買い付けた鉄原料などを鍛冶生産していました。

川が陸地化して行く事が両者のバランスを崩し、
軋轢が大きくなって行った原因の一つになったと思われます。

しかも、韓半島ではすでに鉄鋼石を製鉄する時代に入っていて、
どんどん鉄製品が流通していきます。
庶民の農機具まで鉄製品になって行きます。
その人たちの一部が筑紫に入って来る時代です。

その韓半島では、紀元1世紀の首長の中には、
古墳の床に鉄の延べ板をびっしりと並べる者まで現れました。
(慶尚北道 舎羅里(さらり)130号古墳)

鉄は貨幣の代わりを成すようになり、
あらたな経済の枠組みが生まれようとしていました。
神功皇后が奉納して廻った青銅の武器は時代遅れになろうとしていました。

そんな時代の変化のうねりの中で、夏羽と田油津姫は殺されました。
倭国が香春岳の支配権を新羅から完全に断絶したとなると、
新羅本国との戦いは避けられない状況が生まれて来ます。
それまでにも豊浦宮では、仲哀天皇が新羅の襲撃を受けている事も
忘れてはなりません。

夏羽が妹を助けるために軍を起こした事は
物部軍に夏羽討伐の格好の口実を作ってしまいました。
そして夏羽軍が滅びた事は、天皇家の筑紫~筑豊の金属生産の
完全制圧という結果をもたらしました。
そして視線は海を越えて鉄の豊かな韓半島へと向けられました。

仲哀天皇を亡くして暴走する物部軍をもう制する事は出来ない。
神功皇后は新羅攻撃を拒否できない状況に立たされました。
このあと、神功皇后は筑紫の西の方の那珂川町へと連れられて行きます。
(現人神社、裂田神社・伏見神社)

(注。仲哀天皇9年を西暦200年として考えています。新羅がまだ辰韓だった時代です。
新羅は「社局」が母胎だと言われています。)

参考
舎羅里(さらり)130号古墳 紀元1~2世紀
新羅の母胎「社局」の近くで発掘された慶尚北道「舎羅里(さらり)130号古墳」
の記事と副葬品(韓国のサイトです。)
鉄の延べ板が63枚敷き詰められている。
 http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=ko%7Cja&u=http://www.yeongnam.com/yeongnam/html/yeongnamdaily/culture/article.shtml%3Fid%3D20100526.010200807020001
(つづく)




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by lunabura | 2011-07-25 16:22 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(20)

若八幡神社(3)夏羽と田油津姫は


若八幡神社(3)

夏羽と田油津姫は

さて、神社の由緒に戻りましょう。

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後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に、宇佐より八幡宮が勧請されましたが、(光仁年中1173~4年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長13年2月3日(375年前)の事です。

う~。夏羽は亡霊になったんだ。宇佐から八幡宮を勧請か…。
夏羽、納得したんだろうか…。八幡って、仇だよ。

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これは別の所から見つけた由緒書き。
この田川郡誌の中に、夏焼村は夏羽及び田油津姫の霊が崇りを成すので、最澄が香春宮参籠の折、八幡大神ニ座及び若宮を創造して神夏磯姫と合祀し奉り、六ヶ寺(慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺)を置き、祭祀を司からしめたところ、怨霊が鎮まったと言うことである。

田油津姫も一緒…。
最澄がこの二人を鎮めたんだ。ここの近くの香春宮で参籠してる。
祖先の神夏磯媛と合祀して、六つもの寺で供養されて、鎮まったんだ。

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神社の由来書に戻ります。
現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に「若八幡」と、となえますが、これは平清盛が香春岳鬼ケ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後、いかなる理由でか当社に鎮座されたのです。

へえ~。平清盛も香春岳を重視してたんだ。
仁徳天皇を祀ったのが、合祀されたんだ。
「いかなる理由でか」という気持ちもわかるな。仇同士だもんね。
郡誌の方では、合祀したのは最澄だったみたいだけど…。

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江戸時代、小笠原藩祖・忠真公の巡国の折り、当社に参詣され、困窮のどん底にあった村民を救うため、色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。

この夏焼の人々は首長が殺されてから、困窮してたんだ。
忠真公が施政をして、名前も夏吉と改称してる。
なるほど。名前は大事だよね。

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村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後、若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、享和元年(182年前)朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。当社の神紋が小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。   宮司 原田丈路  謹識

よかった。
政治をするって、こんな風にありたいものだな。

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鳥居の向こうには豊かな水田が広がっていました。



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by lunabura | 2011-07-24 19:55 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(2)
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