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老松神社(小郡市)羽白熊鷲に勝った神功皇后は田油津姫攻撃に取りかかった


老松神社
福岡県小郡市上岩田
羽白熊鷲に勝った神功皇后は
田油津姫攻撃に取りかかった

時には勘違いが思いがけない所へ導いてくれることがある。
この老松宮に来たのもそんな勘違いからでした。

媛社神社天忍穂耳神社が七夕さまなら、その間には白鳥座があって、
中心付近に盤座(いわくら)でもあるんじゃない?
そう思って地図を眺めてみるけど、よく分からない。
少し北に上岩田老松神社というのがある。とりあえず行ってみよう。

その程度の考えでした。白鳥座の場所は後で見直すと見当違いでした。

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国道500号線を走ると、こんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
神社の脇から入ってしまったので、改めて正面から撮り直しです。
勢いよく流れる用水路にかかった小さな橋を渡ると、うっそうとした杜の中。

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夕暮れの雨の中とはいえ、かなりの異世界の趣。

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デジャヴでも起こりそうな、夢の中を彷徨うような世界でした。

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参拝を済ませて、真っ暗な拝殿に向かってフラッシュ焚いてみると、左右に木像。
老松神社と言えば、普通は菅原道真公を祭っています。
これらの神像もそれに関する木像でしょうか。

祭神
由緒書きがありました。
老松神社(老松宮)
祭神 菅原眷族神 高良玉垂命 住吉大神
由緒 この老松宮はもと、上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は神磐戸と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変わったのであろう。

菅原眷族神とあるのは、菅原道真公そのものでなく、側近を祀っているのでしょうか。
「昔の社殿は1070年、上岩田の庄領家菅原氏の造立」とあるので、
末裔がいたのかな…。まっ、よく分からない。

次の祭神は高良玉垂命。こんな所に、例の謎多き神が。
次の住吉大神と一緒なので、高良玉垂命は竹内宿禰の事かも。
各地の神社で「高良の神」とあれば、今のところ何処でも竹内宿禰を指していました。
筑紫の国では高良玉垂命は竹内宿禰と考えるのが一般的だったようです。
ただ、これが真実かどうかは分かりません。
最近、るなは疑(うたぐ)り深い。(御勢大霊石神社でのショックが大きかった。)

ところが、由緒書きを読み進めると、あれ?
大昔、神功皇后が秋月の羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐せられ、次いで、筑後国山門県の田油津姫(たぶらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。

今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦(ちゅうれん)の折、武内宿禰に御剣を祀らせられた。その不動岩が境内にあったが、現在は不明。又、境内に大岩窟があったが、正保年間(1644)これを破壊し、その巨石を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。  (略)

神功皇后がここにも来てる。しかも、これは仲哀天皇の崩御後だ。
そして既に羽白熊鷲とは戦った後。
次のターゲットは山門県(やまとのあがた)の田油津姫。
その為の陣営を整え直して、ここに行在所(あんざいしょ)を作ったんだ。

仲哀天皇は軍卒を励ますために廻っている時に流れ矢が当たったと
御勢大霊石神社で伝えているので、敵はずいぶん近くにいる。
すると、この時点での敵は羽白熊鷲しかいない。
流れ矢ではなく、狙われたのではないか。
この時は宝満川を挟んで戦ったのではないか。

天皇が負傷したあと、親衛隊の物部軍は血相を変えて川を渡って攻撃したはず。
その勢いに、さすがの羽白熊鷲も本拠地の秋月に押し戻された。

竹内宿禰が仲哀帝の遺骸を香椎宮から豊浦の宮に送り届けると、
神功皇后は羽白熊鷲と戦うのに躊躇しなかった。
皇后の指揮のもと、物部軍は宝満川を渡り、松峡宮、大己貴神社へと進軍した。

ここに来て、るなはこんなストーリーを考えるようになりました。

新羅(辰韓?)との戦いを決断するのに、
あれほど占いばかりした彼女とは全く様子が違う。
神功皇后はこの時は無我夢中だったんだ。報復なのだ。
夫を殺された怒りのために、彼女に迷いはなかった。
戦いの先頭を切る彼女に、親軍は頼もしささえ感じただろう。
新たな主上の誕生だった。
そうして、ついに羽白熊鷲を討った。

でも、山門(やまと)の田油津(たぶらつ)姫は何故?
何故、田油津姫をいきなり殺したのだろう。


この時の陣地と敵方の本拠地を地図に書き込んでみました。
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仲哀天皇は御勢大霊石神社で羽白熊鷲と対峙したので、宝満川を挟んでの戦いだと思われます。
「松峡神社は神功皇后の行在所」という伝承があるので、
仲哀天皇の崩御後に、皇后軍は川を渡って歩を進めたと考えます。
それから、敵をもう一歩追い詰めて、大己貴神社に出ました。
地図では朝倉市と書いてあるところのすぐ北に大己貴神社はあります。
そして、ついに羽白熊鷲を滅ぼしました。

その後の攻撃目標は田油津姫。彼女のクニはかなり下流です。
皇后軍はこの老松神社に陣営を構えました。
津古(つこ)から船で」と書いてあることから、ここは岬か島だったようです。(標高18m)

この先、物部の本営たる高良山までは、皇后を連れて行っても大丈夫です。
しかし、彼女を南下させたかどうかは疑問。
戦場に皇后を連れて行って、主上を再び失う失態など、もうあり得ない。
神功皇后はこの老松宮に留まったのかも知れない。

(と、空想にふけっていたルナは、はっと現実に帰る。)

という訳で思いがけず
神功皇后の田油津姫攻撃の陣営跡に来てしまったのでした。

不動岩と古墳
由緒書きでは、神功皇后の時代には不動岩があったという。
やったね。まさか、盤座があったとは。
神磐戸とまで呼ばれていたので、ここは聖地だったんだ。
竹内宿禰に剣を祀らせたというから、いつものように銅剣だろう。

「大岩窟があった」というのは、古墳の石室ではなかったかと思いました。
というのも、境内にはこのように石が並べられていたのです。

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半サークル状に並べてあるので、独特の雰囲気を醸し出しています。
後で小郡市誌を開くと、やっぱりこの境内には二つの古墳がありました。
老松神社古墳(上岩田古墳群)
一号墳は規模が直径15m。見かけの高さ1.5m。
二号墳は直径12m。見かけの高さ3m。時期は不明。

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これは境内右手の猿田彦の石碑です。加工した岩もごろごろとしています。
その裏手の少し高くなっている所が、古墳だったのかもしれませんね。
ここは宝満川の近くなので、大きな洪水があれば川に洗われてしまい、
表土が流れて石室が露出した可能性があるかもとおもいました。

「1644年に大岩窟を破壊して巨石を稲吉の堰に再利用した」とあるので、
あの媛社神社の近くに運ばれたようです。

上岩田注連ねりそうそう、ここの「人形しめ」を忘れちゃならない。
正式には「上岩田注連(しめ)ねり」と言うそうです。
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ここだけの注連縄で、代々その創り方が受け継がれています。

それに加えて、神殿には鬼面が。
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う~。私のカメラではこれが限界。
これまで見た鬼面の中では、高良下宮社に一番近い感じ。
この神社は江戸時代後期に再建されています。

帰ってから地図を見直すと、あれ?
ここは筑紫の飛鳥のそばでした。

まいった。御原国は面白い。
遺跡がやたら多いので、少しずつ訪れて行きたいと思います。

飛鳥
御勢大霊石神社
大己貴神社

地図 上岩田老松神社 飛鳥 
  





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by lunabura | 2011-07-07 14:00 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(2)
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