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ひめちゃご42 「7」はシュメールの聖数 



ひめちゃご42


「7」はシュメールの聖数 
 


神功皇后が「七日七晩」籠って祈ったという話が『日本書紀』に書かれているが、
この「7日」という日数を他でもいくつか採取した。

「七日七晩」

これを聞くと現代人は「ああ、一週間か」と簡単に脳内変換するが、
紀元200年(日本書紀説)ごろに「七日」という単位があることが
ずっと不思議だった。

「七曜」は平安時代に空海が唐から密教とともに「宿曜経(すくようきょう)」として日本へ持ち帰ってきたという。

神功伝からは、すでにその前から「七」という数字が
祈願成就の単位として存在していたということになる。

この「7」は聖なる数と言えよう。

どの民族かが自分たちの文化と共にその概念を倭国にもたらした。

この「7」について、真鍋は
シュメールの聖数が「7」だ、と書き遺していた。

以下、『儺の国の星』p20より。(読みやすく変更)

<古代中東のシュメール帝国(前2900~1955)は
天変地異の輪廻の明けを七百七歳としました。

七はシュメール民族の聖数でありまして、
現行の七曜はその遺風であります。

始元の数を一とする文化の発祥地であり、
零を始元とする印度アーリア民族とは異なり、
数え年(かぞえどし)の式例を日本にまで及ぼしました。

この値の由来は太陽暦706年と、太陰暦8732月の差が
わずか0.11354日であり、日食月食の会合周期として
暦書作成の基本としたからであります。>

これによると、
シュメールは707年ごとに天変地異が繰り返すという思想を持っていて、
「7」を聖なる数字としていた。

彼らは数字を数える時、「1」からカウントするが、
それに対してインドのアーリア人は「0」から数えた。

(インドの「0の発見」は仏教の「無の思想」と結びつけられている。)

これに対して「1」から数え始める思想は
私たち日本人が人生の年数を「数え」で表すことに反映されている。

これは胎内にいる10月10日(とつきとおか)を一年と数えるため、
生まれた時には既に一歳児となっているという考えが元になっている。

これでは不便なので、「0歳」からスタートする「満」を並行して使用している。

つまり、私たちの日常に始元を「0」、あるいは「1」とする二民族の思想が入り込み、
使い分けをしているということになる。


シュメールが「7」を聖数とし「707」を天変地異の輪廻とする理由は
暦の計算から来た。

太陽暦と太陰暦を併用すると、端数がずっと出て、
累積されると季節感もずれるために調整していくのだが、
約706年後に再び二つの周期が一致する。

この太陽太陰の会合周期と天変地異の周期が連動するというのが、
「7」を聖数とする理由となる。

言い換えれば、シュメールにとって「7」とは
災害警鐘の暗号が込められている鎮めの祈りの数なのだ。


さて、この「707」年の災害周期に関して、
日本でも「性空上人」(しょうくうしょうにん)によって確認されたということが
同書に書かれている。


<花山院(968~1008)の御意を承りて、
地震噴火の動静を会得した性空上人(91~1007)は、
筑紫の伝説でありました山焼(やまやけ)、山燃(やまもえ)、山篝(やまかがり)
即ち噴火の年代が678年8497月ごとに起こる事実を確かめました。

その差はわずか0.02683日でありますから、日本人はいつの頃か、
大陸より遥か程度の高い暦数を知っていたことになります。>

性空上人は脊振山でも修行しているので、筑紫の伝説に接したのはこの時だろう。

噴火が約700年ごとに起きているということを計算したようだ。

有明海の津波も「夜渡七十」すなわち70年ごとに起こっていた。

「7」は、天変地異のサイクルとして畏れられていたのだろう。


さらに、この本は「スバルとシュメール」についても触れている。

<儒波屡(すばる)とは、
源順(911~983)の倭妙類聚抄にある万葉仮名であり、
中東では七星で描写されておりました。

シュメールの聖なる星が春分点に輝いた時代からの名が
伝えられたのかもしれません。>

倭妙類聚抄に「スバル」という読みが書かれていた。
つまり、平安時代には既にプレアデスを「すばる」と呼んでいたことになる。

スバルは六連星(むつれぼし)とも言い、後には六星と捉えられるようになるが、
古代には「七星」で描かれている。

シュメールはスバルを「七星」の聖なる星としていた。

さて、現代。

七色が七回登る「七面山」という意味には
災害を鎮めるというシュメールの聖数「7」の意味が
込められているのかもしれない。







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by lunabura | 2016-12-17 20:23 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

天智天皇と水城の話なぞ



昨日は歴史カフェ。
ご参加の皆さまありがとうございました。

テーマは、天智天皇の筑紫における事績で、
即位問題、太歳、長津宮、水城、観世音寺などでした。

『日本書紀』と真鍋大覚の記録を比較していったのですが、
地形・地理を知ることが歴史を知るためには重要な事だなと
つくづく思いました。

例えば、
水城は473年に博多平野で大洪水があったために平野が干潟化し、
また、裂田の溝の水量が減ったために農業用水に困るようになり、
筑紫君磐井がダムとして着工したものだと伝えています。

水城が農業用のダムである証しとして、
水城を貫通する何本もの木樋が挙げられます。

冬に蓄えた水をイタドリ(スカンポ)の葉が青くなる季節に
板樋の仕切りを取って下流に流したと伝えています。


ところが、百年後、573年に再びの大洪水が福岡を襲いました。

蓄えた水が水城を破ってしまい、濁流が平野を流れ、
箱崎では水害に遭った人々の生活用品が玄界灘に流れ出したと伝えます。

たまたま現代でも、二日前に博多駅前の大陥没が起き、
その地形を見ることになったのですが、駅前は入り海でした。

岩盤が深部にあるといえども粘土質のもので、上部に砂が堆積。
洪積平野としての博多を目の当たりにしました。

水城の構造内部に謎の砂の層があるのは、洪水の跡と考えています。


この水城に天智天皇は疎水(運河)を通したそうです。

水城と三笠川の交点に謎の石畳が出土しましたが、
それが疎水の痕跡ではないかと考えています。

斉明天皇の亡骸を船で筑後川から那珂川町に運ぶとき、
水城では棺を降ろさねばならなかったはず。

中大兄皇子としては色々考えることがあったのでしょう。

中大兄皇子は加茂氏に梵鐘を作らせて、太陽暦の時刻を鳴り響かせたそうです。
その梵鐘が観世音寺に移されたといいます。

通行税を観世音寺の経費に充てたそうです。
その責任者が加茂氏の満誓です。

そういえば、「針摺の瀬戸」の質問が出ましたが、
博多湾と有明海が繋がっていたことを証明するために、
真鍋はボウリングを私費でしています。
海の貝殻が出土したことから、古伝が証明されました。

中大兄皇子時代に新羅沖で津波がにあって福岡を襲った
という話も書かれているのですが、
先日の韓国の慶州の地震を福岡で体感した結果、
今では納得できるようになりました。

いろいろな災害があるたびに、真鍋の記録が説明できるようになることに、
畏怖の思いも抱きます。

さて、今日はバスハイクの資料作りをしました。
意外に早く終わったので、
お題の「物部とヒメコソ神」に取り掛かりました。

物部氏の研究はネットにたくさん出ているんですね。

それを見ているうちに、しなくてはならないことは、系図などではなく、
物部の具体的な天文祭祀を伝える真鍋の研究だと分かりました。


がんばるべ。




                     2016年11月11日



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by lunabura | 2016-11-11 23:09 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

地名を聞けば、港の大きさが分かるそうだ



地名を聞けば、港の大きさが分かるそうだ



「悲劇の好字」の著者の黄 當時(こう とうじ)氏は
中国語と日本の古代史を理解している方で、
日本で邪馬台国や倭奴国の読み方など、大きな課題となっていることに
驚かれたそうです。

「倭奴」の「奴」は中国語では「大きい」という意味で、
「大きい倭」となることを話されました。

「倭奴」は「倭大」と置き換えられるんですね。

これを聞いて、これが「倭大」=「和大」とすると、もしかしたら
修辞がひっくり返って「大和」となったのではと考えるようになりました。

「倭奴」の発音は現代では「ウェイヌ」という感じです。
「倭奴国」は「ウェイヌコウ」。

これを早く発音すると「わぬ」と聞こえたり「ゐぬ」と聞こえたと思います。
「わな」にも聞こえますね。

あくまでも、日本人でなく、中国の皇帝が読んだ発音を考えなくてはなりません。


前回「とお」は「船」だと真鍋の本から紹介しましたが、
「悲劇の好字」にも同様の事が書いてあります。

中国や台湾から船に乗って日本に来るとき、
湊の地名を聞けばどの大きさの船が入港できるか分かるそうです。

ためしに「叶ケ浜」(かのうがはま)という志賀島の地名を言うと、
「大きな船が停泊できる所」と言われました。

そう、そこは神功皇后の船が凱旋したとき、
「わが願いが叶ったり」と言われたことから付いたと言われる地名です。

もちろん、それは後付けでしょうが、皇后の外洋船が泊まった所ですから、
黄 當時氏の話と一致します。


「室見川」(むろみがわ)と聞けば、
「もろた」という双胴船が入る川と答えられました。

こうして、地名が入港できる船の大きさを知らせているということを知りました。

ポリネシアの船に関する言葉が、日本の古語にかなり残っていると、
驚いてありました。
 
さて、
思いがけず「遠野」という地名についてコメントが入りましたが、
「遠野」を「とお・ぬ」と考えると、「船大」となり、
大きな船が入れるところという意味かもしれません。

如何でしょうか、船運が盛んな所、ということで当たっているでしょうか。








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by lunabura | 2016-11-06 23:01 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

地名 古賀・通古賀・遠朝廷 こが・とおのこが・とおのみかど



地名 
古賀・通古賀・遠朝廷 
こが・とおのこが・とおのみかど






筑紫(ちくし)では海浜の水路を古賀(こが)という。
渚(なぎさ)に平行に水を通すところから通古賀(とおりこが)の名があった。

察するに網引(あびき)がはげしく海底の土砂を汀に打ち上げるから
疎水はいつも汀線(みぎわせん)に沿うことになり、
これが自然に溝の海側の岸を高く積み上げ、
ついには巨大な砂丘を形成して松原が育つことになるのである。
『儺の国の星拾遺』p58



【古賀】こが
福岡県古賀市は玄界灘に面していて、
松原を抜けると防波堤があり、すぐ近くに波が寄せている。

渚に沿った水路は思い浮かばないが、
段丘の形成前にはそんな水路があったのかもしれない。

このような地形の名称は何というのだろう。
「海岸段丘」かと思って調べると、これは断層による段丘を指すらしく、
うまく名称が見つからない。






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思い起こせば、志式神社裏手の奈多の浜や










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福津市・年毛宮(としもぐう)の裏手の弓ケ浜の砂の段丘と松原は

どちらも防波堤がなく、自然のままだ。


特に年毛宮の宮司の話によると、
昔は海藻が子供の背丈ほど積み上がったというので、
寄せる波の強さが想像できる。

年々、砂が打ち寄せて段丘が形成された。


この時、年毛宮もまた安曇族だと言われた。
また、宗像族とも通婚しているとも聞いた。

沖ノ島に向かう船が立ち寄り、水を汲んでいったという。
それには、安曇族も宗像族も関係なかったのだろう。

沖ノ島祭祀に関しては、宗像族だけで論考すると見落とすものが多い。


【通古賀】とおのこが

さて、通古賀(とおのこが)は太宰府市にある。
陸地奥深い所にあるが、「とお」とは「船」のことだ。

そこまで船が入る水際という意味になる。
「ありなれ川」の時代のことだろう。

「たぶ」「だぶ」も船を指す。
「タブの木」は「船の木」という意味で、
船材になることから付いたと思われる。

「とお」に「唐」の漢字を当てたケースもある。

「唐ケ崎」の地名が鞍手にあるが、
船が停泊する湊があったと考えられる。

遠賀川左岸にある「唐ノ松」神社の場所もかつては島だったことから、
「とう」(船)が泊まることのできる小島だったのだろう。
伝承では「渡海の松」が始まりだという。




【遠の朝廷】とおのみかど

「遠の朝廷」は「とおのみかど」と読むが、
「船が行き交う」朝廷という意味から来ているという。

通説は「近畿から見て遠い朝廷」というが、
改めて見直すと不自然な説明だ。
日本に二つ、朝廷があったという前提になってしまう。

倭王朝と日本王朝があったとすれば一応説明はつくが。







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by lunabura | 2016-11-05 22:51 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

榧星 かやのほし ベガ 伽耶とはベガを祀る天壇



榧星 かやのほし ベガ


伽耶とはベガを祀る天壇


天の川を挟んで輝く織女と彦星。
織姫星はベガ。

そのベガについて、今日は『儺の国の星』を読んでみます。
今日は、その一部の抜粋です。p156

<榧星 かやのほし> ベガ

古事記神代記上に曰く、
野の神、名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。
またの名は野椎神(のづちのかみ)という。

榧星は織女ベガの古名である。

地中海の神話には榧(かや)を神女巫人の化身として
崇(あが)められているときく。
幹の中心部が女人の血液に似て、朱赤に染まっているからと説かれる。


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                画像出典 ウィキペディア
(略)


織女の古名をガリヤと言う。

トロヤ人は母なる大地を女神とした。
そしてエトルリア人は色女として、
冬至の夜に大地に接する彼方をガリヤと呼んだ。

今のライン川とローヌ川あるいはドナウ川のあたりで、
ローマ皇帝ユリウス・カエサルが太守としてその植民地に開拓した地方である。


(略)

韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた。
遠く離れた地中海のガイヤに遡る古語である。


ベガを榧の木の精と見たのは地中海の人々。
それは女神の姿で語られました。

トロヤ人もエトルリア人も大地を女神としました。
同様に日本の神話でも野の神は女神でした。



私たちは七夕の時だけ、織女を意識しますが、
時代ごと、季節ごとに方角と時間を変えて姿を見せていました。

古代ヨーロッパで見えたベガは
冬至の夜に大地近くで冷たく輝いていたといいます。

あと少し、寒さを乗り切れば春が到来することを教えてくれる
「春の女神」でもあったそうです。



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           左 彦星 右 織女ベガ


凍り付いた北欧の大地近くに春の女神・ベガが輝く頃は夜も長いことでしょう。

短い昼に凍えた手をふところから出して、食事の支度をしたのでしょうか。

星を仰いでたくましく生き抜いた人間の強さが、心に浮かびます。


「伽耶」(かや)ということばはそんなベガを祀って祈る天壇だったといいます。

その語源がガイヤから来ているということは、
倭人の記憶の中に、遠い西の果ての祈りの心が残っているということでしょうか。




そのベガを志賀星(しがのほし)とも呼ぶそうです。
                          p166p156






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by lunabura | 2016-11-01 21:32 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

日向星(ひむかみぼし)スハイル星 冬至、春分の目安星



日向星(ひむかみぼし)

帆座 アル スハイル アル ワズン
冬至、春分の日の目安の星
 




太陽を観測するだけではどの日が冬至か、夏至か、あるいは春分、秋分か、
目測では決め難い。

暦があるからこそ、観測できるものだ。

特に、太陽がUターンする夏至や冬至は振り子が止まって見えるように、
留まってみえる(だろう)。

(だろう)というのは、寝坊助には観測の経験が無いから(^^;




古代の人はどうやって見定めたのか。

星見の物部はこれに星の観測を組み合わせていたという。
その時を告げる星を日向星と呼んだ。

学名でアル スハイル アル ワズン。
略してスハイル星という。

以下、『儺の国の星拾遺』から


<冬至>
神代の昔、遠い祖先は暁方にこの星が南の果てに上がるのを見て
冬至の日を見定めたと語られている。

やがて朝日が上がるのを家屋の左端に望んで、
春を待つ心によろこびを感じたと語られている。

今は赤緯歳差で南天の彼方に去ったが、
古今和歌集の頃は大寒厳冬の最中になっていた。

氷上星(ひかみのほし)、或いは氷室星(ひむろのほし)
日甦星(ひのかわりぼし)、氷川星(ひかわのほし)がこれであった。

<春分>
また暮れ方のまだ明るい春霞の彼方に
彼岸の中日に眺めることが出来たところから、
中日星(なかびのほし)、或いは日拝星(ひおがみぼし)、
日向神星(ひうがみぼし)などの名もあったという。

<道真公>
延喜式以降、筑紫では天神星(てんじんのほし)の名が
いつとはなしに出来上がった。
菅原道真の命日に見えたと伝えられる星であった。

<立冬>
今から1994年昔は、
明け方にこの星が有明の干潟の彼方に上がる日が立冬であった。

その頃は立冬を元旦とする氏族も多かった。
因りてこれを冬日星(とうひのほし)、なまって登志星(としのほし)と
呼んでいた。

以上『儺の国の星拾遺』p202

< >は綾杉が追加したもの。


まとめ

スハイル星
冬至 明け方、南から昇る。 氷上星。
春分 暮れ方、明るい春霞の彼方(西?) 中日星、日拝星、日向神星、
立冬 (太宰府から見て?)有明海の方角から昇る。 冬日星、登志星
旧2月25日 道真公の命日にちなんで 天神星



星が季節によって時間と方角を変えて姿を見せる。
ダイナミックな宇宙の動きを古代の人は感じていたんだな。

「日向」の地名を地図で探すと次々に出てくる。
案外、天体観測に関連する地形だったのかもしれない。

日向神(ひゅうがみ)は地名だが、星の名でもあったとは興味深い。
人々は辿りついた地に星の名を付けていったという。
美しい話だ。


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                     画像出典 ウィキペディア 
帆座 λ(ラムダ)が スハイル星




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by lunabura | 2016-10-31 21:03 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

白鳥座 規矩星 きくのほし



白鳥座

規矩星(きくのほし)






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<「さきくさ」は聖書の百合であり、天文学でいう星座の白鳥キグナスであった。

古事記允恭記には木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と
衣通郎女(そとおしのいらつめ)の名が見える。

白鳥座の古名は十薹星(そとうのほし)、木梨星(きなしのほし)、
軽子星(かるのほし)などがあった。

機久(規矩・木魂)星(きくのほし)。物干し竿を衣透(そとほし)といった。

星は記紀の頃にはすでに古人の心に身に溶けてしまって、
表にはもはや出てこなかったのである。>

『儺の国の星』p188


白鳥座もまた見る人によって異なる物語を持っていました。

『古事記』の衣通姫、軽大郎女は同じ人で、
白鳥座の名を持った人ということになります。
でも、『古事記』の時代には星の意味は忘れ去られたようですね。




c0222861_2023073.png

(画像出典 ウィキペディア)

白鳥座を規矩(きく)の星とも言ったそうです。

確か、規矩の星と言って北斗七星を指すという話も載っていたと思います。

さて、企救(きく)国は白鳥座なのか、北斗七星なのか。
どっちかな。



以下はウィキペディアから。

衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)は、記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。

『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。




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by lunabura | 2016-10-29 20:06 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

準備中



今年はキンモクセイの花がびっしりと咲いて、
家中に香りが漂いました。

撮った画像を見たら、空っぽ。
なんだ、バッテリー無しで撮ったんだ。

わずか一週間で散ったけれど、
今日は土の上に黄金色の小花の重なりがびっしり。
その間から水仙の芽が出ています。

キンモクセイはもうすぐ二番花が咲いて、
もう一度、甘い香りを漂わせてくれます。





さて、昨日から歴史カフェのテキストに画像を入れる作業をしています。

文字ばかりの資料にカラーの画像をたっぷりと入れていくと、
ワクワク楽しくなってきます。

自分で天智天皇紀を読んでみると、知らなかったことばかりでした。

人の考えを通さず、自分の目で見ると
ウロコがびっしりと付いてたんだなあ、とよく分かりました。(^_-)-☆

難しいけど、今回もやっぱり原典を読みましょう。

今回は真鍋大覚の資料と突き合わせるので、
ほぼチーム・アンドロメダです。

「チームア・アンドロメダ」とは、
アンドロメダを大覚星とも呼ぶことから勝手に付けた研究会の名前です。

さて、このアンドロメダ星雲を「太歳の星」とも呼ぶそうです。


神功皇后の時代、太歳の予定の日に日食が起こって空が暗くなり、
アンドロメダが日中に黄金色に輝いたことから付いたそうです。







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人々は驚き、その神秘性を心に深く刻んだのでしょうね。


ということは、神功皇后は即位したんだろうな。
田川の位登八幡で。
筑紫の資料では「十五代」と書かれたものを見かけるもんね。
中国の史料にも。

そして、天智天皇もまた「太歳」した年に即位したんだろうね。

以上、これも歴史カフェの予習編でした。






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by lunabura | 2016-10-27 23:05 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

天豊財重日足姫天皇の名に星の名が込められていた



天豊財重日足姫天皇の名に

星の名が込められていた





天豊財重日足姫天皇
(あめのとよたからいかしひたらしひめ)
とは斉明天皇の名です。
皇極天皇とも言いますね。

この長い名前の一部「重日足」は「いかしひたらし」と読みますが、
これはシリウス星を指しているそうです。

「古代エジプト人は夏至の東の空に上がるシリウスを
ソティス、あるいはコプトと崇めた」
と真鍋は書いています。

ソティスとは豊穣の女神で、イシスの化身ともされています。
コプトとはプタハとも言い、鍛冶や職人の守護神だそうです。




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(左 ソティス 右 コプト)

シリウスを見て、豊穣を祈る氏族と、
鍛冶の成功を祈る氏族がいたということになります。

後者については、
シリウスはそのプラチナのような、ダイヤモンドのような輝きから
坩堝の職人たちが生み出した結晶とも例えられ、
その達人は石上(いそのかみ)、あるいは五十師(いそし)、
あるいは伊覩率(いとし)とも呼ばれていたそうです。

そう、この名前は五十迹手(いとて)の所に出てきます。『日本書紀』にね。
拙著『神功皇后伝承を歩く』では上巻28高祖神社p85に書いています。

伊都の県主の祖である五十迹手(いとて)を仲哀天皇が「いそいそし」とほめますが、
これは「坩堝の達人」という意味だと言うことになります。




また、前者については、
「古代エジプトでは夏至の正午を一年の中日」としたそうです。
つまり、夏至の朝、シリウスの出を見て、
その日を一年の折り返しと認識したわけです。
これは暦を作る人たちの考えになりますね。

シリウスはナイル川の氾濫を知らせる星でもあるので、
豊穣をもたらす女神だったということになります。


さて、タイトルの斉明天皇の名前ですが、
天豊財重日足姫天皇の「重日足」を「いかしひたらし」と読むののですが、
「いかたらし星」もまたシリウスを指しているそうです。

「斉明」も、「最明」と同じ「さいめい」ということから、
夜空で一番明るい星、シリウスを指しているとか。
「恵蘇星」(えそのほし)もまたシリウスのことです。



そうすると、斉明天皇のモガリの宮だった朝倉の「恵蘇八幡宮」の「恵蘇」もまた
シリウスを指していると読めます。

これは天武天皇が命名した社号だそうですが、
天武天皇もまた夜空のシリウスを見るたびに母帝斉明天皇を思い出し、
「最明の星」シリウスの別名として「恵蘇」を
モガリの宮に付けたのかもしれませんね。



以上、次回の歴史カフェの予習編でした。^^





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by lunabura | 2016-10-24 21:19 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)八咫烏



賀茂神社(3)

八咫烏
 

神殿の裏に廻ると絶壁になっていて、
その真下では急な流れが飛沫を見せていた。




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水だ。
水こそ冶金の民に必要なものだった。



急斜面にある参道は川から吹き上げる季節風の道でもあったのだろう。
ここで賀茂の民は汗を流して金属を作り出した。
地形から確信した。



真鍋によると、賀茂の神は蹈鞴の名人だったという。
高温の火を見つめる時、片目で見ていた。
それが一目(ひとつまなこ)の神と呼ばれるゆえんだった。

彼らは八咫烏を伴としていた。
八咫烏とはカササギの一種で、
それを見ては干潟の冠水のようすを観察していたという。

のちに八咫烏が賀茂氏のトーテムとなり、
「八咫烏といえば賀茂氏だ」という共通認識が出来たということになる。

日本書紀の時代は「八咫烏」といえば賀茂氏を暗示し、
「海童」(わたつみ)といえば滅びた安曇族を指すのを
共通の認識としていたのだ。

八咫烏は鉱山を渡り歩き、奥深い山の道を知っていた。
だから、神武天皇が霧に迷って困っていたとき、山道を道案内したのだ。

そこで出くわしたのは、光る井戸から出てくる尾がある人、
岩を押し分けて出てくる尾がある人たちだった。

井戸も押し分ける岩も、坑道があったことを暗示している。

尾がある人。
鬼のパンツは虎の皮でできているが、鬼と呼ばれた鉱山従事者たちは
獣の皮を腰に巻いてどこでも座れるようにしていたのだろう。







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山伏もまた然り。








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ツタンカーメンもまた尾のついた皮を纏っていた。



・・・しっぽがあるほうが個人的には好きだ(´・ω・`)




「鬼」という言葉は、当時は「神」と同じ意味だった。
「卑弥呼が仕えていた鬼道」という例があるように。






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賀茂神社の長い参道を下っていくと「七ツ枝川」の標柱があった。

東京から来ていたMさんからの知らせでは
地元の人に、「七山の七は北斗七星だ」と教わったそうだ。


そうか。

七支刀が物部氏の神社にあり、雷神の神力を仰ぐもので、
そのデザインの元が目に薬効のあるヒカゲノカズラだと分かったが、
何故七つの枝なのか、理由が見つかっていなかった。


これが答えではないか。

七支刀は北斗七星の精霊もまた宿す物だったのだ。


北斗七星は横になると「一目」となり、
縦になると「足一騰」となる。
まさしく賀茂氏の姿そのものだ。

物部氏と賀茂氏の深いつながりをここに見た思いがした。







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by lunabura | 2016-07-26 21:33 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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