ひもろぎ逍遥

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古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇


古物神社(2)
草薙の剣がこの近くに降って来たという。
天智天皇は前年まで筑紫にいて何をしていた?

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神社誌を続けて読んで行きましょう。

剣神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。
みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

さて、この剣神社には、道行が盗んだ剣が落ちて来たという縁起が伝わっていました。
さすがに神剣らしく、空を飛んで来ています。
(草薙の剣の歴史と盗難事件の詳細は八剣神社の方に書いています。)

この由緒によると落ちた所を「降るもの」と呼び、「古物」の字が当てられて、
それがなまって「ふるもん」「古門」という地名になっていったようです。

この縁起には見逃せない背景がいくつかあります。
1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
2)「ふる」とは隕石を指す古語である。
3)奈良の石上神宮の地名も布留であり、どちらも物部氏の祭祀する所である。
という事です。一つずつ見て行きましょう。

1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
天智天皇(中大江皇子)の母は斉明天皇です。
斉明天皇は新羅と闘うために筑紫に来ていました。その流れを追ってみましょう。

        661年 母君の斉明天皇が福岡県朝倉で突然崩御される。
        662年 36歳の中大江の皇子は天智天皇となり、
              筑紫の那の津長洲の宮に遷都する。
                         (現在の博多港周辺) 
        663年 白村江で大敗する。
        667年 大津へ遷都する。
        668年 草薙の剣が盗まれる。

この時代の筑紫では日本と百済の連合軍vs新羅と唐の連合軍の戦いがあり、
日本が敗北した上に、百済からの難民があふれて、大変慌ただしい時代でした。
しかも、その間に天皇の突然の死と天智天皇の即位がありました。
WIKIでは、その当時の事は謎だと書いてあるのですが、筑紫の方では話が伝わっていました。

眞鍋大覚氏によると、
天智天皇は即位後、磐井氏が作った水城(みずき)に手を加えて、
筑紫の南北を通す運河にするために、大工事をしていたそうです。
このブログに何度も登場する針摺の瀬戸(はりずりのせと)の事です。

さらに、時計磁針づくりに取り組んでいました。
磁針とは細い磁石の事で、細戈(くわしほこ)と言います。
これで羅針盤が出来る訳です。
また、背振(せぶり)の葵祭を京にもたらしたのも、天智天皇だそうです。

こうして、天智天皇は敗戦後に、新たな文明を取り入れて、強固な国造りに取り掛かっていたのが伺えます。
新羅に対する防衛の基盤を整えてから、大津に遷都しました。草薙の剣が盗まれたのはその翌年です。

新羅へ逃走するにはここを通らずにはいられない?
さて、剣を盗み出した道行の話に戻りますが、彼は新羅へ逃走するのですが、どこを通ったのでしょうか。
船路にしろ、陸路にしろ、九州に上陸して博多方面に行かねばなりません。

さて、昔の遠賀川のイラストを見て下さい。
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(鞍手町「古月横穴」の資料を一部改変)
これを見ると現在の平地はほとんど海没しているのが分かります。
左下に古物神社があります。その北の虫生津がありますが、
神功皇后たちはここから上陸して、この古門神社に移動します。
昔はこのルートがあった訳です。この古門は、交通の要衝です。
道行もここを通らずにはおかれなかったはずです。

ところが、この地は天皇の軍隊であり、警察でもある物部氏の本貫地です。
敗戦した後ですから、まだ警備は厳しかったでしょう。

だから、道行がここで捕まった可能性は高いなと思いました。
そして、取り返された剣の保管地に剣神社が選ばれた訳です。
それを神剣らしく、光って降って来たと色付けされて伝えられました。

蛇足です。
奈良時代をあなどるなかれ!

この当時は平城京から全国へのまっすぐの道が作られていて駅家(うまや)が16キロごとに整備され、太宰府から都まで、「4日」で情報は伝わった。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)

奈良時代に、驚きの道路網がありました!

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境内の左奥にある「旧剣神社拝殿跡」です。

(つづく)



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by lunabura | 2010-07-03 11:34 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)

古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?


古物神社(3)

「ふる」は「隕石」の古語。
ここは石上神宮の元宮かもしれない

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それにしても、剣が空中から落ちて来て光ったとはねえ。ちょっと無理があるなあ。
その謎を解くヒントは「ふる」にありました。

2)「ふる」とは隕石のこと。

眞鍋氏によると、
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、
布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。
という事です。
この辺りの地名を「門、月、物」と並べると、
光が数里四方にまで見えたというのは、「ふる」すなわち隕石の落下を描写していると推測しました。

御神体が隕石だという神社は近くにもあります。
合祀する前には久保にあった剣神社も、もともと隕石が落下した場所だった可能性があります。
その隕石と、草薙の剣の事件が融合して、「剣が落ちた時、光が放たれた」という話になったんじゃないかな…。

3)奈良の石上神宮の地名も「布留」であり、
どちらも「物部氏」の祭祀する所だよ。


さて、最後の一文に注目!
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。
これがその一文です。
布留魂大神の上に石上(いそのかみ)が付きましたよ。石上布留魂大神…ここの神の名です。
石上って、奈良にあるのと同じだ!

石上神宮を辞書で引きました。
石上神宮
祭神は布都(布留)の御霊の剣。
この剣は神武天皇の大和平定に先立ち、天照大神が天皇に授け、物部氏がこれをまつって氏神としたと伝える。かつて本殿はなく、拝殿の奥の禁足地が神聖な霊域とされていた。社蔵に七支刀がある。
物部氏が代々祭祀に当たっている。後に石上と改姓した。

御祭神の名前については「布留と布都」と両方ありました。

「ふる」と「ふつ」が材料の違いなら、その違いは一般の人には分かりません。
だんだん混乱して行って、「ふるの御魂」とも「ふつの御魂」とも、なって行ったと考えられます。

注目するのは御祭神が鞍手も奈良も「布留御魂」であり、
物部氏が祭祀し、地名が布留だと言う点です。
明らかにこの鞍手郡の古物神社と奈良の石上神宮は深くつながっています。
ルーツはこの古物神社の方と思われます。

物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。

神社誌はさらに、仲哀天皇と神功皇后の事も書いていました。
「宗像記」に、古物村にある西山八幡宮は仲哀天皇神功皇后、共に熊襲及び三韓征伐の時の行在所(あんざいしょ)である。

天皇、皇后が筑紫の岡湊から香椎宮に行かれた時、遠賀郡芦屋から船に乗って、同郡虫生津に御上陸、鞍手郡古門村にみ輿(こし)を留められた。
そこから白山嶺を越え、省木村三坂峠を過ぎて、宗像郡に移動された旧跡という事で、村民はここに祠を建てて奉斎している。

大変具体的に二人の辿ったルートが書かれています。
前回の地図に岡湊と虫生津と古物神社を書いているので見て下さい。
当時はこれが一番安全で確実なルートだったのでしょうね。
ここは筑紫と本州を結ぶ重要な邑だったのが分かります。

この神社は旅の貴人たちを泊める所でもあったのかもしれません。
その中から祭神として祀られる人も出て来ました。
後に、ここの神主になった伊藤常足が、この人里離れた宮に、
天皇たちが訪れた伝承があるのを不思議に思って、日本書紀の研究をし始めたのではないかと思いました。

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拝殿前の狛犬。

(つづく)



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by lunabura | 2010-07-02 13:42 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(8)

古物神社・物部氏は中東から来た星見の氏族


古物神社(4)

物部氏は中東から来た星見(ものみ)の氏族
物部氏を勉強しなきゃ…。(でも、ちょこっとだけね)

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物部氏と言う名はよく歴史の本に出てくるのですが、ルナはよく分かっていません。
そこで、この『ひもろぎ逍遥』で伺える姿だけ時代順にまとめてみることにしました。

馬見神社日若神社で分かった事は、
馬見物部氏が天皇家の祖先を祀り続けていて、
神武天皇が古遠賀地方にやって来た時に迎えに行って、
馬を提供して家に連れて行って、馬見神社まで案内したという事です。
神武天皇は東征の準備のためにやって来たと推測しました。

八剣神社ではヤマトタケルに行宮(あんぐう)を建てて援助しています。
この古物神社では、仲哀天皇と神功皇后を留めています。

これらはすべて戦争がらみなので、天皇家は物部氏に対して、
船、馬、武器、武人などの軍備を要請したと思っています。

物部氏と天皇家には深い関わりがあり、
祭祀、軍事力、水準の高い連絡網などがあるのが見えて来ました。
物部氏の天皇家を支える信念は半端じゃありません。

しかし、辞書を見ると、そんな深いつながりは見えて来ません。

広辞苑
物部
古代の大豪族。姓(かばね)は連(むらじ)。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴の連氏と共に最有力となって、族長は代々大連(おおむらじ)に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍とたたかって敗死。
律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。

同じ物部氏でも、大和地方と、この本貫地ではずいぶん違う顔に見えます。
忘れてならないのは彼らが祭祀をしていたという事です。
物部氏の流れである真鍋大覚氏が、本来の姿を書いています。

物部とは星見の氏族
物部氏と鞍手族について、一部現代語に変えています。
唐戸(からと)の星(ケフェウス座 アルデラミン)
肥前では韓比(からこ)と言い、肥後では倉戸(くらど)という。また、筑前で唐門(からと)と言い、豊前では鞍手(くらて)と言う。

水門・井堰の管理をして、昼夜をおかず水神に仕え、また舟運・灌漑の利をもって、その余沢に薪炭魚藻を納める氏族である。これを記紀では国栖(くず)、あるいは葛生(くず)と書いている。

曽我稲目
(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。

吉野は国栖(くず)の故郷であった。国栖は倭人に星占の方策を口授した氏族であった。歴代の天皇が吉野に行幸するときには、必ず国栖の長老が伺候して、講義をした。

物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。

あちこちに散らばっている文章を集めたので、理解しにくいのですが、びっくりする事ばかりです。

「くらて」「からと」とはケフェウス座・アルデラミンの和名で、
その星を信仰する氏族たちは、水利を管理する技術があった集団で、
それぞれの地でこのアルデラミンの和名を名乗り、それが地名となったという意味です。

「物部氏」については、福岡県と佐賀県の県境にある背振山の南、
佐賀県側にいて、南天の星座を観測していたと書いています。
福岡県の那珂(なか)の中臣(なかとみ)氏と和睦したり争ったりしています。
彼らは中東がルーツで、倭人に星占を教えています。

これらから、思うに、物部氏は背振山の南から、山沿いに馬見山の方に向かい、
遠賀川が奥深い入江であった時代に、馬見神社あたりに下りて来て
入江が陸地化するにつれて、下流に広がって行ったと思われます。
(馬見の縄文遺跡は彼らの遺跡かも知れません。)

何のために?
それはスズ鉄という古代鉄を生みだす葦の宝庫だったからです。
(これについては、また別項で検証しましょう。)

物部氏とは、本来は星を観測して、暦を作ることで天皇家をサポートする氏族で、
古代鉄の製造の技術もあることから、軍事的な力も持っていたと考えました。

物部氏が石上神宮で祭祀をするのも、それが本来の姿であるからなのですね。
物部氏が「軍事や刑罰を司る」という見方だけでは正しく理解していない事が分かります。

Wikiで物部氏を引くと「鞍手」の文字がありません。
これが物部氏論が迷路にはまっている理由だと思います。

物部氏の真の姿を研究をするには、この鞍手地から始めるべきであるし、
天文の研究と古代鉄と、縄文馬背振山の伝承。
これらを追求する事で実像に迫る事が出来ると思いました。
(古代馬は馬見神社・日若神社に少し書いてます。)

物部二十五部人と出身地 

『日本の神々 神社と聖地 九州』の奥野正男氏の文章にも
鞍手郡を中心とした地名と物部氏の関わりが書いてあったので、
ちょっと抜き書きしておきます。

          若宮町の芹田(せりた)    芹田物部
                都地(とち)      十市(とおち)物部
          小竹町の小竹(こたけ)    狭竹物部
          鞍手町の新北(にぎた)    贄田(にえた)物部
          飯塚市の新多(にいだ)    二田物部
          遠賀町の島門(しまど)    嶋戸物部
          宗像市の赤間          赤間物部
          北九州市の旧企救(きく)郡  物部
など物部二十五部人の居住地と見られる地名が残されている。

彼らの名前が出身地にちなんで付けられて、古里を離れて、日本の歴史の深い所で活躍したのが伺えます。

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次回は古代鉄にチャレンジするかな…。


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by lunabura | 2010-07-01 12:52 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(42)

日若神社(5)姫の名前には古代鉄の暗号が。

日若神社(5)

イスケヨリ姫との結婚の背景
姫の名前には古代鉄の暗号が。


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さて、神武天皇には、アヒラ姫という后がいました。
が、そののち大后を求めて、イスケヨリ姫とも結婚しました。
今日はそのイスケヨリ姫の実家の事情を見て行きたいと思います。

古事記に書いてある彼女の実家。
イスケヨリ姫の家は狭韋(さいがわ)のほとりにありました。
イワレビコノ命はイスケヨリ姫の元にお出ましになって、一夜、共寝をなさいました。
その川を狭韋河と言う訳は、その川辺に山百合の花がたくさん咲いていたからです。
サイとは山百合の花の事です。

のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、イワレビコノ命が歌を詠まれました。
「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、
菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ。」


古事記の岩波体系本の注釈では、
この「サイ河」の場所が分からないと書いてあります。

神武天皇が東征したのが45歳と言われています。
大和を制圧した年齢を単純計算しても60歳を過ぎています。
ですから、サイ河を大和でなく、
東征前の九州で探してもいいと思いました。

面白い事に、この日若神社の山を越えた15キロ位の所に
犀川(さいがわ)」があります。
京都(みやこ)郡・犀川町として地名が残っています。

そこは豊前の国です。地図は日若神社(4)で出しています。
(ピンクのアイコンです。)

さて、古事記では、その続きで
大久米の命が彼女の実家の説明をしています。
「この近くに良い娘がいます。この娘を神の子と言います。
何故かと言うと、三島のミゾクイの娘でセヤダタラ姫という人がとても美しい方で、
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見染めたそうです。
その姫が川の上に作った厠(かわや)に行って、用を足していると、
大物主神は、赤く塗った丹塗りの矢になって、川から流れて来て、
その人のホト(女陰)を突きました。その姫は驚いて、逃げて狼狽しました。

その矢を床の所に置くと、たちまちに麗しい男になって、
セヤダタラ姫を妻にしました。
こうして生まれたた子供の名前はホトタタライススキヒメの命と言い、
また、ヒメタタライスケヨリ姫とも言います。
これはホトという言葉を嫌って後に名前を改めました。
こう言う事で神の御子と言うのです。」

イスケヨリ姫の名前って何?

彼女の本名はホトタタライススキ姫。
この中に製鉄の言葉が入っています。
ホトは女陰の事ですが、坩堝(るつぼ)の事でもあります。
タタラはフイゴや製鉄炉の事です。
ですから、彼女の名は鉄造りの坩堝のイススキ姫という意味になります。
イススキは狼狽するという意味ですが、
五十鈴の字が当てられています。

彼女の母の名前も坩堝!

彼女のお母さんはセヤダタラ姫です。
これにもタタラが入っています。
『儺の国の星 拾遺』にこう説明がありました。(訳)
泥石といった風化石でなく、金石といった結晶石でもなく、
蝋石(なまりいし)を広く底を浅く彫り出してつくった平皿の、
セヤ(中心をはずした所)に穴を開けた坩堝がセヤダタラである。

蝋石(ろうせき)は、印鑑や灰皿に加工される石です。
セヤとは不安定な状態を指す言葉だそうです。
で、セヤダタラとは、「不安定な部位に穴を開けた坩堝」となります。
御母さんの名前も坩堝姫でした。

三島族の名はオリオン

         その父の名が「三島のミゾクイ」です。                                     
この「三島」も、「ミゾクイ」も、真鍋大覚氏によると、
オリオンの星の事だそうです。
オリオンを三島星、あるいは三諸星と呼んだ、はるかな昔があった。
「しま」あるいは「すま」とは船人の渇きを癒す湧水・井泉のあるところを指した。
「し」は元来は透明な無色の水を表現する胡語(西域民族の言葉)であったが、
倭人は「し」+「みず」で、清水という言葉を造り出した。

ミゾクイ(みそくひ)もオリオンの古称だった。
「そくひ」は栄井(さくい)、すなわち「砂漠の中のオアシス」の事だった。
砂漠の民族には泉が無限の生命の発祥であるという信仰を
天上の星に託して、オリオン座にも同じ名前を付けた。
それを初代の天皇(神武天皇)の后の出身の民族の名にあてた。(意訳)

平たく言うと、
「シルクロードを辿って日本に来た民族にとって、
オリオンの三ツ星は道しるべであり、心の支えでもあった。
オアシスの水もまた心の支えだった。
そこで彼らは、オリオン座にもオアシスの名をつけた。」
それが三島であり、ミゾクイであったという事です。

すると、三島のミゾクイとは、渡来人であり、
オリオンの三ツ星をシンボルとする民族だったと言う事になります。
シルクロードの向こうから来たなら、
ウィグル自治区や、もっと向こうの人たちとなります。

眞鍋氏はオリオンの別の呼び方も覚えていました。
このオリオン座には天秤星(かさみのほし)という名もありました。
その形が昔の工人が仕事の成就を祈って
薪炭と砂鉄の分量を正確に計測していた頃の術語でありまして、
量検星(かさみのほし)とでも書いていたものかとも思われます。
これを約して「かさほし」の名が生まれました。

これは
オリオンの三ツ星を「三笠の星」とも呼んでいた理由を説明したものです。
その「みかさ」は「製鉄の材料のカサを量った事」から来る名前でした。
やはり、製鉄とオリオンは深い関係を持っています。
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オリオン座

こうして、
イスケヨリ姫はオリオンの三ツ星族のるつぼ姫という事になりました。

彼女の実家はシルクロードの彼方から、
製鉄の技術を持って日本に移住してきた民族だという事になります。

神武天皇の一族がこの鉄の技術をもつ一族と手を結ぶには、
その姫と結婚するのが一番穏やかな方法でした。

でもそうすると、鉄の歴史はどうなる?

もし、日本書紀の通りに神武天皇が2600年前の人だとすると、
それより前に製鉄が存在したという事になります。

鉄については稿を改めましょう。
そう、今日は神武天皇の結婚の話なんです。

で、この結婚によって、神武天皇は鉄の武器を手に入れました。
これは政略結婚であり、異民族の融合でもありました。

姫を紹介した大久米の命

イスケヨリ姫はこの男の目を見てびっくりします。
目の周りに入れ墨をしていたのです。
イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、
変わってるなあと思って、歌にして、返事をしました。
   「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
   どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」


眞鍋氏はミイラのアイラインと同じだと書いています。
そうすると、クレオパトラやツタンカーメン王のアイシャドウのようなデザインです。
かれは海人族の長でした。
まぶしい海の照り返しを避けるためのデザインかなとも思いましたが、
これも、彼の故郷の中東の風習を残したものと言います。

神武天皇の軍備

こうして、神武天皇は海兵を手にいれました。
東征するのに必要な軍備を周到に準備していたのが見えて来ました。
イスケヨリ姫との結婚もその為のものだったのですね。
でも二人は結婚してからも、仲良さそうですよ。

(『古事記の神々』で、「神武天皇」を訳しました。
天皇の崩御後、彼女は義理の息子と結婚することになります。
それについては「イスケヨリ姫」で見て下さい。)

さてさて、
この神武天皇の足跡は、まだまだこの近くに残っています。
そのうち、神武日記も書けそうですね。

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左が神社入り口。奥の山が日尾山と鳥尾山です。


      ブログでお散歩   さあ、里山を逍遥しましょう。

妻を亡くした後のイザナギの命の伝承を辿るコース
     志賀海神社 ⇒ 多賀神社 ⇒ 日若神社 
神武天皇の足跡をたどるコース
     馬見神社  ⇒ 日若神社 ⇒ 八所宮
神功皇后の帰り路をたどるコース
     大分宮 ⇒ 日若神社 ⇒ 綱分神社 
     (だいぶ)  (ひわか)  (つなわき)


                          (次回は綱分神社に行ってみましょう。)
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by lunabura | 2010-05-04 23:34 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(8)

馬見神社(4)うまみ・白馬大明神とは彗星のこと?・日本に隕石が落下していた

馬見神社(4)

白馬とは彗星の事かなあ
日本に隕石が落下した記事を発見

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縄文時代に馬はいたのだろうか
このあたりは、やたらに馬が出てくるよ


地名や伝承、神社に奉納された馬、など、
この遠賀川流域には馬がよく出てくるのが気になりました。

日本の馬がいつからいるのかについては、神功皇后が新羅から連れて帰ったというのが
定説だと書いた文を読んだ事ガあります。

定説は書き換えられる事になりそうだ。

ところが、新宮町町史には、仲哀天皇と神功皇后が、騎馬訓練をした場所が掲載されています。
その地名を的野(まとの)と言います。これは当然新羅に戦闘に行く前の訓練です。
ですから、神功皇后が新羅から連れて帰ったという定説とは符合しません。

同時代を記す魏志倭人伝には「日本には牛馬がいない」と書いてあるのですが、
昨年でしたか、壱岐(いき)の島の遺跡から馬が一頭まるまる出土しました。
これで、日本には古くから馬がいた事が証明されました。

(ネットを検索すると、縄文時代に馬がいた事を証明するサイトがあります。)

縄文時代から日本には馬がいたと考えてよいようです。

念のため、地元の歴史愛好家にも聞いてみると、この辺りは古来、馬の飼育が盛んだったのだそうです。

なぜこんな事を確認したかと言うと、三千年前に白馬大明神が降臨したという伝承を考える時に、
その時代の人が馬を知っていないと、話にならないからです。

古代の人たちは馬をよく知っていました。これを前提にこの先を考えていきます。

白馬大明神とはなんだろうか。

3000年前に馬見山山頂付近に降臨した神。それを白馬と人々は名付けた。
これを考えていたら、ふと、星の事も知れないと思いました。

考えている間、何度も心に蘇るシーンがあったのです。それはヘールボップ彗星です。

飛行機に乗っていた時、「彗星が見えます」とアナウンスがあって、窓から見る事が出来ました。
大阪あたりの大きな山塊の上空に白い斜めの筋が見えました。動かない白い筋の光
とても不思議な光景でした。

馬見山の上に彗星が現れたら、これを人は白馬と呼ばないだろうか。


彗星は接近しながら同じ所に夜な夜な現れます。そして、いつか消えてしまいます。
その彗星が山頂にかかったら、白馬大明神が降臨したと言うのではないだろうか。

そこで、『儺の国の星』を開くと、流れ星を白馬に例えた記事が載っていました。
日本に隕石が落下した記事でした。

隕石の古語は「かたいし」でありました。「かた」とは「かかち」の略で、星の事であります。
昔、大隕石が落下して破片を地上に散らせたところを「かたかす」と呼びます。
博多の堅粕(かたかす)もその地であったらしく、推定2663年前の隕石が地下から発見されております。

「九州治乱記 巻7 
1465年9月13日夜
明月だといって、老若月を眺めていると、
西の空に大きな星が流れて、東の空に飛んで行き、
落ちた音はもう、雷のようで、
これを見聞きした者はみな地に倒れて気を失った。
近年は(隕石の落下が)続いていて、
こんな天災は古今聞いた事がないと、人々は話していた。」
(綾杉が現代語訳しました。)


これは九州島の近くに墜落した大流星の記述であります。
隕石口は「かさをり」と呼びます。奄美笠里(かさり)がこれであります。

流星が落下する時のすさまじい閃光と轟音と風圧を、
昔の人は千頭の白馬が疾駆するさまにたとえました。
奄美の伝説は、その時、天から白馬がおり、
一瞬にして天地が燃えたと語りますが、今も焼け焦げた根株が残り、
その場所は、5メートルも海の底に沈んでいると聞きますから、
今から500年昔の実話であったとききます。


中国での、彗星の記事も載っていました。
紀元前2279年、紀元前1098年と、彗星の記録が紹介されています。
彗星を鳳凰に例えていたそうです。

日本でも、11世紀に、記録がありました。(漢字がよく読めないので省略します)

昔は彗星の尾がかかる山を観と定めて、ここに天神地祇を祭った。
その観のあるところが国府であり、日振(こふれ)の略だった。

やはり、彗星が現れて、山に尾がかかると、ここに天地の神々を祀っています。
(観と国府については、よく分かりません。)

『儺の国の星』には、計算法が詳しく書いてあります。
天子のみが暦を支配できるのですが、この記録は天子というより太子の仕事だったそうです。

これらを踏まえると、やはり、馬見山に降臨した白馬とは、彗星か、流れ星ではないかと思いました。

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ニニギノ命がいた時代に彗星が現れたのが伝承となったのでしょうか。

いずれにしろ、ここに天孫を祀った氏族がいたのは、間違いありません。
それが誰なのか。意外にも他の神社の記録に見つける事ができました。
現地に行ったら、紹介したいと思います。

と言う事で、それまで、別のところを逍遥しましょ。

追記
その答えが日若神社で分かりました。
右のカテゴリからどうぞ。
 
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by lunabura | 2010-03-26 17:31 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(4)

多賀神社(2)ここは北斗七星を祀る宮だったよ


多賀神社 (2)
ここは北斗七星を祀る宮だったよ

多賀も妙見もイザナギ夫婦も
みーんな同じ星座の事だった

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今日も由緒書きをひも解いて行きましょう。

御祭神 イザナギの大神とイザナミの大神
寿命の神である多賀大神は天照大神のご両親で、この宮は古く日の若宮と言いました。
奈良朝の養老三年に再建し、天平八年に妙見(みょうけん)大明神と称えました。
この由緒書きにはこの宮が日の若宮とも言っていたと教えています。
なんともゆかしい名前ですね。

また、奈良時代になると妙見大明神と称えたとも書いてあります。
すると、イザナギ・イザナミ夫婦を妙見大明神と呼んだんだ。
どういう関係があるんだろ。今日はその由来を考えてみました。

辞書で確認すると、妙見とはもともとは北極星の事でした。
のちに北斗七星とごちゃまぜになったそうです。

その原因は歳差運動のせいじゃないかな~
もともと5000年前の中国では天子のシンボルが北極星でした。
当時は竜座のツバーン星が北極星として真北に輝いていました。
ですから、天子のシンボルは竜とツバーン星になりました。

ところが、歳差運動のために北極星は移動して行き、数千年たつと真北には星が無くなりました。

そんな時代に、北極星の信仰は、言葉だけは残っているのに実際に星が見当たらないので、
人々は近くにある北斗七星を当てはめるようになったのではないかと考えました。

それから、さらに数千年たった現在、私たちの夜空にはポラリスが北極星となって輝いています。

こんな事情で、妙見は北斗七星でも北極星もOKになっちゃったと考えました。
(歳差については、高良大社でも少し書いてます。)

それじゃあ、この多賀の地に祀られたのは
北斗七星かな、北極星かな?


その手がかりはイザナギとイザナミにありました。
『儺の国の星』によると、北斗七星のうち、四角い枡(ます)がイザナギで、
三つの星の柄(え)がイザナミだと言い伝えていました。

柄が、はまる所がタガ(多賀)です。
こうして、北斗七星を多賀の星と呼んでいました。

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(ついに星座が作れるようになりました!)

まとめてみると、北斗七星をイザナギ・イザナミの神に例えた氏族がいて、
多賀の星と呼んでいたけれども、仏教が入って来たので、新たに妙見とハイカラに呼び方を変えた
と解釈しました。

いずれにしろ、ここは北斗七星を祀る聖地でしたよ。
氏族によって、聖なる星が違うので、ここの里人は北斗七星。
覚えておかなくちゃ。
(つづく)

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by lunabura | 2010-03-09 17:54 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(4)

高天原(1)志賀島の海に高天原があった


高天原(1)
福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった

なぜ海の中に高天原がある?

2000年前の博多の姿

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ここが福岡県の志賀島の高天原の海です。博多湾に面しています。
海の向こうに見えるのは福岡市内です。
(デジカメのオートで撮ったために、暗く写っていますが、これはお昼に撮りました。)

こうして情報が入ったよ。

志賀海神社の宮司さんが
「志賀島には高天原という所がありますよ。」
と言って、地図を示してくれました。
確かに高天原と書いてあるのですが、そこは海でした。
「なぜ、そこを高天原というのかは分かりません。」とも。

高天原といえば、宮崎県の高千穂あたりかと思っていたので、
福岡県にそんな地名があるとは、驚きです。
それじゃあ、行って来なくっちゃ。

という事で、志賀島の勝馬の沖津宮からの帰りに寄ってみました。
時計とは反対回りです。
さっきまで、あんなに綺麗な沖津宮の所にいたのに、
再び、車を止めてみたくなるような景勝の地です。

その浜に降り立って驚きました。正面に玄海島が、大きく見えます。
福岡沖地震の後、テレビに何度も映し出されたので、
見ると、すぐにそれだと分かりました。

地震で破壊された町には、真っ白なビルが建っているのが、
こちら側からもよく見えます。こんなに近いんだ。
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この玄海島の向こうの方にも大きな島が見えます。
しかし、よく見ると、島ではなくて半島でした。
糸島あたりの半島がすぐそこに見えていました。
博多湾の奥には、町が見えます。

船で博多湾に入港する時には、たくさんの緑の島々の間を
縫って入って行くので、その変化にわくわくしますが、
ここ高天原からは、それが一望できました。

それにしても、この海になぜ高天原の名前が?
確かに綺麗な海ですが…。

そこで天原の意味を調べました。 

この海が高天原だという謎を解くヒントはやはり、『儺の国の星』にありました。

その本には、「高天原」は載っていませんが、「天原」について、何箇所か書いてありました。
いくつか抜き出しましょう。

あまのはらとは船に泊まる氏族の邑(むら)のことであった。
筑紫の西の多島海であった。

古代の筑紫の西側はまだかなり海の中で、島がたくさんありました。
そこには、船に泊まる氏族がいて、その一帯をあまのはらと呼んだという事です。
昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、
南から有明海の荒穂(あらほ)、即ち滔々たる海流が貫いていた。
東なるを宇佐島と言い、西なるを天原(あまのはる)と言った。
―略―
宇佐島を昔は右佐島と呼んだ。
そして天原左佐島とした。
今、大分県豊後宇佐(うさ)にそのままの郡名と、長崎県肥前松浦左左(さざ)に郷名が残る。

筑紫(ここでは北部九州全体を指す)では、中央を海流が南北に流れていました。
北は玄界灘から、南は有明海から海流が流れ込んで、太宰府辺りで、ぶつかりあいました。
その二日市水道の東側を宇佐島、あるいは右佐と言い、
西側を天原あるいは左佐と呼んだという事です。

右佐と左佐の由来は星の名前から来ている。
「右佐」とは竜座のツバーンのことで、「左佐」とは大熊座のポラリスのことです。
北極星がツバーンからポラリスに変わる間、北極を示す目星がありませんでした。
ですから、当時はこれらのツバーンとポラリスが北を教えてくれました。

この地の人々は星空の大切な星の名を、東西の島に名付けたという事です。
(そう言えば、高良玉垂宮や志式神社に出て来た
二つの玉がこのツバーンとポラリスでしたね。)(⇒詳しくは高良大社に)

実際に宇佐と「ささ」という地名は、大分県と長崎県に現在も残ってます。
天原を「ささのうみ」と言った。
弦月型の葦舟(ささらぶね)が往来する多島海、古人のいう千顆海(ちかのうみ)であった。「ささなみ」は「しか」の冠辞である。
『儺の国の星・拾遺』より

(天原を「ささのうみ」とも呼びました。
それは、三日月形の「ささらぶね」が往来していたからです。
海域には沢山の島があって、それを古語で千顆海と言っていました。
枕詞の「ささなみの」は志賀にかかりますが、それはこの地名から来ているという事です。)

志賀島の語源は近い島と言われたりしますが、そうではなくて、
昔は多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていて、
それがしかの島と変わった訳ですね。

枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。
暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。

葦舟は本当にあったのだろうか?

それにしても、古代の日本に葦舟があったとは、考えたこともありませんでした。
そこで考古学の本を見ると、竹舟があったと書いてあります。
竹舟なら、『古事記の神々』で、「豊玉姫」を訳した時に、
山幸彦が、それに乗るシーンが書いてあります。その部分を書き出します。

 私はどうしようもなくて、海辺で嘆いていたら、塩土の神がやって来て、
『どうして日の御子さまが泣いていらっしゃるのですか。』
と聞いてきます。
それで事情を話すと、塩土の神は
『よい考えがあります。』と言って、
竹で編んだ小船を作って、私を乗せてこう言いました。
『私がこの船を押し流します。
日の御子さまはそのまま潮の流れに乗って下さい。
すると、綿津見の神の立派な宮殿に着くでしょう。

実はこの時、訳しながら、「ん?竹舟があったの?」と驚いていました。
今、考古学の本にそれが書かれていたのを確認して、やっと納得です。

でも、葦舟の記述はまだ見つけていません。
それでも、竹の舟があるなら、十分可能性があります。
腐れやすいので、発掘される事はないのでしょう。

南米のチチカカ湖の葦舟なんかは今でも現役です。
あれを見ると、葦舟でも博多湾を島から島へと行き交うのには
十分なんだろうなと思いました。

古代の天原を、まとめてみるとこうなりました。

福岡県には、かつて二日市水道(針摺の瀬戸)が南北に流れていた。
その海流が南北から流れ込んで、太宰府辺りでぶつかり合っていた。
そのために筑紫は東西の島に分かれていた。

東側を宇佐島とか右佐の島(うさのしま)と呼び、
西側を天原(あまのはる)とか左佐(ささ)の島と呼んだ。
そこには、葦のささら舟が行き交っていた。そこで、ささのうみとも呼んでいた。
それをアマのハラと呼んだ。
また、古代には船に泊まる氏族がいた。かれらの村もアマのハラと呼んだ。
(そう言えば、アマは海人、海女に通じますねえ。)

 「天原」は分かったけど、「高天原」は? 

福岡県の地図を見ると、「高天原」のある志賀島は天原(博多地区)の最北端に位置していました。
「高」は美称や敬称に使います。
「天原」の北端、あるいは聖地という意味で、「高・天原」と言ったのではないかと思いました。

これらの事から、「高天原」は、「沢山のささら舟が行き交う多島海の聖地」
というほどの意味ではないかと、思いました。


地図   高天原  二日市の針摺  佐々  宇佐




次回は浜辺でできる地震予知法を紹介します。


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by lunabura | 2010-02-04 17:50 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(10)

高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法

高天原(2)
福岡県福岡市東区志賀島弘
真鍋大覚に学ぶ地震予知(1)

「地震とナマズの伝承」は、
浜が砂鉄で真っ黒になる事だった。


福岡市の志賀島の高天原の海です。
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この浜には荒磯があって、ごつごつした岩が波に洗われています。
砂の色は、黒みがかった灰色です。砂鉄が行く筋も走っていました。
「砂鉄だ。」
懐かしいなあ。子供の頃は磁石で遊んだっけ。

そう思いながら帰ったのですが、その夜、真鍋大覚氏の本を読んでいると、
浜辺の砂鉄と地震予知についての記述を見つけました。

「地震とナマズ」の伝承は、浜辺の砂鉄が真っ黒になる事だった!
日本は太古から噴火が多い。降り落ちた灰は地熱と日射で分解して砂鉄となる。
これを駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

波打ち際に沿って、干潟の浜に行く条もの縞模様が、或いは濃く、或いは淡く、えんえんと連なる。
漁師はこれを見て、海が荒れるか、和らぐかを見極めた。

特に地震の直前は、海底からの無数の気泡が間断なく噴き上がるので、思い砂鉄の粒はいつもより多量に海水の中に浮き上がり、これが長い波に大きく寄せられて、浜に上がる。
浜は一面に炭の屑を厚く固めたかの如く黒く敷かれる。

かつて、漢人が日本の西海に如墨という国名を記録した理由はこの青黒い海の色を見ての事ではないか。

地震鯰(なまず)のことわざは上流の火山を水源とする大河の口に(住む)漁師であれば(分かっていて)、日本のいたる所で(起こる)津波の、地磁気の(観察)から生まれたことわざであった。

鯰の黒い背の色はまさに「ぬち」の塩水にぬれた色そのものであった。漁師は水の底に巨大な鯰を空想して、これが地震の前になると里人に教えていると考えていたのである。

砂鉄を肥後で「なぎ」、伯耆で「のぎ」、越後で「ねぎ」、美濃で「なへぎ」という。
地震即ち「なゐ」(地震の古語)で、ゆり動いて煽り出るからと説かれている。

『儺の国の星・拾遺』より  (一部、読みやすく追加、変更しました)

地震の前にはナマズが暴れる」ということわざの由来が
現代では分からなくなっていたのですが、地震雲の大家、真鍋氏は
「地震の前には、浜辺が砂鉄で真っ黒に埋まり、それが海水に濡れて、
ナマズの背中のように黒く光る現象だ」
と説明してくれています。

それは地震の直前には、海底から無数の気泡があがって、
砂鉄を舞い上げて、それが浜に打ち上げられるからだという事です。

地名に込めたメッセージ
これ(砂鉄)を駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

筑前の「はまを」は「浜男」と漢字で書きます。香椎宮のすぐ近くです。
かつてはそこまで海だったと、いろんな方から聞きました。
浜のラインに沿って、鉄道が通っています。

浜男」とはその浜が真っ黒になるほど、砂鉄が上がって来た事を
伝えるためについた地名の可能性が出て来ました。そこには、浜男神社もあります。

よど姫神社や姫神社も70年に一度の津波を知らせるための
神社だという事を「高良大社」で書きました。

地名は歴史を物語ります。これらの地名は、津波が押し寄せた事を
後世に教えようとしている先人からのメッセージなのです。

福岡県の国道3号線の古賀市の所に「」という変な名前の交差点があります。「ながれ」と読みます。
江戸時代にここまで津波が来て、家が流れたと言い伝えています。

浜辺の砂鉄。

これは誰でも観察できる地震の予兆です。
全国のビーチ・コーマーの皆さん、また、浜辺を散歩する皆さん、
浜歩きの時には砂鉄を観察してください。
そして、検証して行こうではないですか。浜辺の砂鉄ほど分かりやすいものはありません。

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この日の高天原の砂浜の砂鉄です。薄い砂鉄の筋が何本か走っていました。
まだ、この砂鉄の重要さを知らなかったので、ちゃんと写真に撮ってませんでした。

それにしても、ここの砂浜が黒いのは、砂鉄が多かったからなのですね。
同じ砂鉄でも、小戸(御手洗)の方では、筋にならずに、50センチの塊の状態でしたよ。

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by lunabura | 2010-02-03 20:37 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(5)

高良大社(2)玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅱ)
こうらたいしゃ  (こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神  
高良山にはカペラの伝承があった


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「玉垂(たまたれ)」について気になる事があって社務所に電話で尋ねた事があります。
それは合気道の開祖の植芝守平の本『合気神髄』に「高良の神」の事が載っていたからです。

植芝守平氏はNHKドラマの『坂の上の雲』とちょうど同じ時代の人です。
明治から昭和を生きた人です。
その人の語録集に合気道の呼吸について述べる時の象徴として「玉垂」が出てくるのです。

玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。


このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、
やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
ほんのこの前まで、玉垂のことについては、常識だったのでしょうか。

玉垂」が干珠満珠だとすると、高良玉垂命とは
潮の満ち引きを司る神と言う事になります。

人は潮が引くときに、息を引き取ります。潮が満ちる時に生まれます。
潮の満ち引きは月のなせる技です。
ですから、月の神様とも言われる訳です。これが御神徳の「延命長寿」にもつながってきます。


「玉垂」をよく考えると「玉を垂れる」という事ですから「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。
では、それは誰でしょう。
海神です。志式神社の神楽でそれを見て来たばかりです。

高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(わたつみ)神という事になります。

志式神社の神楽の「磯良舞」、覚えてますか?

あの、インパクトのある白髪の神さまが出て来た舞です。同じ話をもう一度書きましょう。

 磯良舞   (いそらまい)   ( 武内神 豊姫神 磯良神 海神 )  
神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
48艘の船団でいよいよ新羅へ。
その時、武内神が干珠満珠を貰い受けようとしました。

磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。

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いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。

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すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。

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豊姫はそれを武内神に渡す。
でした。

ね、ほら干珠満珠が出て来たでしょ。
珠を授けている赤い髪がモシャモシャした神が海神です。
(同じような話は海彦山彦にも出て来ます。⇒豊玉姫)

玉を授ける神は海神なのです。
これが、タイトルの「玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神」の理由です。

干珠満珠は星空にもありましたよ。

今の北極星はポラリスです。『冬のソナタ』でぺ・ヨンジュンがチェ・ジュウに
雪の玉に隠してプレゼントしたネックレスがポラリスンでした。

えっ?そんなの関係ない?
いえいえ、ポラリスは現在の北極星だと覚えやすいでしょ。

しかし、5000年前の北極星は龍座のツバーンでした。(そう、北極星は変化するのです!)

北極星は徐々に場所を変えてしまい、2500年前は北天には目立つ星がなくなって、
ポラリスとツバーンが暗黒を中心にぐるぐると回っていました。神功皇后の頃もそうです。

このポラリスとツバーンを干珠満珠だと言い伝える氏族がいたのです。

ポラリスは白い星…白い干珠
ツバーンは青い星…青い満珠

海の神は青玉と白玉を祭壇に供えて、船人の海路が無事でありますようにと祈ったそうです。

北極星がない時代には、この白い星と青い星が北を教えてくれていたという事なのですね。

ですから、植芝氏の言う赤玉白玉はもっと昔は青玉白玉だった訳です。
ちなみに、神楽では金玉銀玉でしたよ。

干珠満珠は海神の持つ珠で、水と命を司り、それは星空にもあった。という事です。

そして、これらは背振山でも祀られたそうです。すると、高良山と背振山と、筑紫の主な山々では
海神が祀られていた事になります。

海から遠い久留米に海神?

久留米は盆地で海は近くにありません。そんな所に何故、海の神?

不思議に思ったのですが、手掛かりが奥宮にありました。
そこには水分(みくまり)の神が祀られています。
水を司るのは海神です。宝満宮竈門(かまど)神社の上宮でも同じでした。

玉垂宮と竈門神社は似た祭神の組み合わせです。並べて比べてみましょう。
高良玉垂宮                 宝満宮竈門神社
 高良玉垂命  海神              玉依姫命(海神の娘)
 八幡大神 (応神天皇の別名)       応神天皇      
 住吉大神 (神功皇后の旅の守り神)   神功皇后  
 
このように高良玉垂宮と宝満宮竈門神社の主祭神は「海神の父と娘」でした。
応神天皇は名前を変えて、どちらの宮にも祀られていました。
ただ、住吉大神については裏の日本史では武内の宿禰ではないかとも言われています。

この神社の御神徳が「延命長寿」という事から、それらが混同して伝えられて、
高良玉垂命が誰だか分からなくなってしまったものと思われます。

高良の星はカペラ星だった。

真鍋大覚氏によると、
銀河はカペラのある所で細く縊(くび)れて、漢人は上を北河、下を南河に区分する。(別名として)韓門(からと)の星、高良星の名がきかれた。

有明海と玄界灘の潮高を見合わせて往来(やりくり)する水城(みずき)を筑紫のひとびとは「からとぼし」と言った。

カペラは極東に来て、記紀の天の御中主の神になり、カイベラの神になり、カワベラの星になったと語られている。
真鍋氏の文章は難しいですねえ。言い換えると、
夜空の天の川の細くなった所にカペラ星があります。

古代中国ではその上下を北河と南河と呼んだそうです。
そして日本では、カペラを高良の星とも呼び、神話では天の御中主の神となったという事です。

古代の人は、その天の川を地上に反映させました。
福岡県の筑紫の真ん中を縦に走る水路を天の川に見立てたそうです。
針摺瀬戸(はりずりのせと)と名付けられました。

今ではもちろん陸地になっていますが、古代日本では玄界灘と有明海が水路でつながっていて、
潮の高さを見合わせてやりくりした所が水城でした。
水城にも広い湖が広がっていたそうです。

天の川のように水路が細くなった所にあるのが高良山。

ですから、空から写し取って高良の山にカペラ山と名付けました。
それがなまってカウラ、コウラと変化しました。

カペラなる高良山の北が玄界灘、南が有明海。
そして、カペラとは天の御中主の神だと言う事になります。

そんなロマンチックな話を誰が言っていたかというと、それが、海人族の人たちです。
それを、暦を作る真鍋家が伝えていたのでした。

地図を見てみましょう。高良山、針摺瀬戸、水城、宝満宮竈門神社の位置関係です。
(地図をクリックしながら動かすと写真が出て来ます。)



市街化した灰色の平野部がかつてはかなりの所まで海だったという事です。
高良山がかつては海と縁が深く、海神族の人たちが海の神を祀ったのもうなずけます。
天の川に見立てるとは、なるほどですねえ。

そういえば、小郡市には彦星と織姫の神社があるのを思い出しました。


(Ⅲ)につづく

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by lunabura | 2010-01-04 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(5)

高良大社(4)高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ


高良大社 高良玉垂宮(Ⅳ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
アンドロメダ星雲と暦の変化 


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高良山をネット検索したらウィキペディアの説が目に止まりました。
それにはこう書いてありました。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、
高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、
高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになった
という説もある。
現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

この話の出所が分からないのですが、気になってさらに調べてみました。
すると、地元の人がブログで同じような伝承を書いていました。言い伝えがあるようです。

そこで、今回はこの伝承の謎にチャレンジする事にしました。
「結界」は神護石を指している?
まず、「結界」という言葉に注目しました。
これは高良山にある神籠石(こうごいし)の事ではないかと思いました。
神籠石とは謎の列石で、高良山の山中にぐるりと置かれている石積みの事です。

これについては目的も時代も分かっていません。
しかし、同じような神籠石が西日本の各地に十カ所ほどあります。
この謎の列石を神話的に言い換えて、ここでは結界だと言っているのかなと思いました。

高木の神とは?
それでは、もともと高良山の氏神だった高木神とはどんな神様なのでしょうか。

高木神は何かのを暗示しているのではないかと思って
『儺の国の星』を調べると、やはり出て来ました。
高木星という星がありました。
これはあの有名なアンドロメダ星雲の事でした。
文中にこう書いてあります。
日本人も蒙古人も、その遥かな祖先はアンドロメダ大星雲を拝していた。
神代紀に出る高木の神がそれである。これを大嶽(だいがく)と名付けていた。

このアンドロメダ星雲を崇拝していたのが「日本人も蒙古人も」と言っているのには訳があります。

それは1264年の出来事です。
モンゴルと日本で同じ年に元号が変わったというのです。
日本は文永元年となり、蒙古は至元元年となりました。

その理由がこのアンドロメダ星雲に関わっていたという事なのです。
これを理解するために、本には暦法の説明が書かれています。
おおよそこういう事です。

「太歳」について
天皇が変わると暦法を選定する儀式があって、それを太歳と言いました。

これは天皇一代のうちには変更できない暦ですが、治世が長くなると、
「星による暦」と「太陽による暦」のずれが溜まってしまって、
現実と合わなくなるので、適当な時期に改元をしてそのずれを調整していたそうです。

ところが基準とする日に日食が重なる事があったそうです。
それが起こったのが、1264年でした。

日本は文永元年、蒙古は至元元年と改元したその年は、
春分の正午にアンドロメダの中心が重なった。西暦1264年であった。


これはどういう事かと考えたのですが、日食のときには空が暗くなって、昼なのに、星が見えます。
その時、アンドロメダが暦の基準線の所にいた(例えば南中したとか?)のではないかと、考えました。

当時の人々はこの気象現象を観測して日食を畏れ、またアンドロメダが昼間に輝いたのを畏れて、
日本も元の国も改元したらしいのです。

アンドロメダの華麗な渦巻きの中心には、昔はまばゆくきらめく超星があった。
昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。

と、真鍋氏は書いています。

当時はアンドロメダ星雲は夜空で今よりもずっと輝いていたというのです。
そして、太陽と並んで崇敬されていたというのです。

真鍋氏の本を理解するのには歳差運動の計算を理解する必要があるので、
この「日食とアンドロメダの関係」については難しくて、文面からなんとかここまで解釈が出来ました。

この現象は神功皇后の時代にも起こったそうです。201年と220年と228年です。
そのために彼女は太歳を三度も行ったそうです。
アンドロメダ星雲が昼間に観測される事は古代の一大事だったようです。

遷都する理由
さて、太陽と星は日々にずれて行き、70年もすると、素人の目にもそのずれが明瞭になってしまいます。
当時は山の頂上や峠が観測の基準になっていました。

目印の山と、ずれてくるのです。
そのために、星や日月を見定めるにふさわしい土地を新たに求めて遷都をしなくてはならなくなりました。
それが神武天皇から天武天皇の時代の事だそうです。

星の暦から太陽暦へ 
その後、地勢に頼らずに太陽の観測で時を計る方式に変わりました。
それが持統天皇から現在です。

暦法の話が神話になった? 
以上の事から古代の人たちが暦を作ろうとする時には
アンドロメダ星雲を代表とする星たちと太陽を観測して作っていることが分かりました。

ですから、アンドロメダ星雲を高木の神と崇敬し、太陽を天照大御神と呼んで、崇敬した訳です。

天照大御神は有名だけど。高木の神か…。別名、高御産巣日神。
高い所で次々に星々を生みだす神?
アンドロメダ大星雲。
いったいどんな神なのだろう。

高木の神がどんな神だったのか、想像もつきません。
そこで『古事記』を訳してみました。そして、二度も驚きました。

高木の神は神話のナンバー2だった。
まず、神話の冒頭に特別な五柱の神々が出てくるのですが、
高木の神はなんと、二番目に華々しく登場しているのです。
日本神話の第二番目ですよ。

これでこの神はどれほど重要な神かと言う事が分かります。これが最初に驚いた事です。

高木の神はしかし、独神(ひとりがみ)として、そのまま身を隠してしまいました。

高木の神は本当に身を隠した?
神話を読み進めていくと、高木の神がさらに何箇所も出て来ました。

高天原で出雲を征服しようと相談が起こった時です。その時に高木の神とアマテラスは一緒に出て来ました。

話はこうです。

高天原では、出雲征服を工作するために神々を送るのですが、出雲の居心地がいいらしく、
二度も失敗してしまいます。

それに対して次々に対策を練るのですが、その時に、この二柱の神はいつも一緒に出て来ます。
いつもいつもです。
二人はペアで行動する神なのです。
まるで一心同体と言えるほどです。
二人は一緒に高天原の秩序を守っていたようなそんな印象を受けました。共同経営者です。

冒頭に身を隠したと書いているのに、高木の神は隠れてなんぞいませんでした。
大活躍です。これが二つ目の驚きでした。

この二柱の神は何故いつも一緒なのだろうか? 
二人がいつも一緒に出てくる理由を考えました。

ここで先ほどの暦の話に戻りますが、暦を作る時に、昼には太陽を、夜にはアンドロメダ星雲を
観測していた事を象徴化したのではないかと思いました。

アマテラスは太陽で、高木の神はアンドロメダ。
この二人の神が昼と夜とを分かち合って、運行しているのです。
高天原の昼と夜の秩序を二人の神が作り出していました。

なるほど…。だから、二人はセットで出て来るんだ。

暦法の変化が崇敬する神を変化させた?
アンドロメダは暦法が発達していくと、その地位を太陽神に譲ることになりました。
アンドロメダへの崇敬は天照大御神重視へと移行して行きました。
だから、現代の私たちは高木の神なんて噂もしない。

これで、アンドロメダ(高木の神)のおおよその姿が分かりました。
ここでようやくタイトルに書いた「神々の交代」の神話にチャレンジできます。

アンドロメダからカペラへ変わった事情を探る
前回までの話をまとめると、古代はこのようだったと思われます。

アンドロメダ(高木の神)が崇拝されていた時代、筑紫を縦に貫く二日市水道の中央の聖なる山に、
暦の基準となるアンドロメダが輝くのを見て人々はアンドロメダを祀り、その名を取って、
高牟礼山(高木山)と呼んでいた。

しかし、歳差運動のためにかつてのように、アンドロメダはその山頂を通らなくなってしまった。
そうするとアンドロメダを祀っていた人々は、ふさわしい地形をよそに見つけて去って行った。

時代は朝鮮との戦いなどが続いて、人々は戦いの勝利を願うようになった。
すると脚光を浴びるようになったのは、かつて新羅討伐に勝利を導いた海神の神玉垂命(カペラ)だった。
人々は聖なる山にその神を祀るようになった。

これを踏まえて、冒頭の伝承を解いてみます。もう一度書きます。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

この伝承を「星の神話」に置き換えると、こうなります。
高良山にはもともとアンドロメダが祀られていてアンドロメダ星雲山(高牟礼山)とも呼ばれていた。しかし、時代が変わり、戦が起こったりした。

すると、海人族たちは戦勝祈願と航海の安全のために、干珠満珠を司る海の神(カペラ)も共に祀るようになった。
戦争に勝利すると、そのまま海の神(カペラ→カウラ玉垂神)が祀られて、高良山と呼ばれるようになった。

そして、アンドロメダ(高木の神)は下の方で祀られるようになった。
のちに 神籠石の列石も作られた。これを人々は玉垂神の結界と呼んだ。

人々の崇敬の念は次第に太陽神に変わって行き、アンドロメダ星雲のことは忘れ去られていきました。

アンドロメダの名は、高木星、太歳星(たいさいのほし)、太宰星(だざいのほし)、千歳星(ちとせのほし)千年星と(ちほせのほし)と変わって行きました。

そう言えば、高良山の麓を流れる筑後川は千歳川と言いました。その名を留めているのでしょうか。

高木星の名は長崎に地名として残っています。
筑紫の果てにある肥前の高来(たかき)彼杵(そのき)の両郡を東西と南北に並べた四つの半島の形は、まさにこの巨大なアンドロメダ星雲の姿を地上に映した渦巻き模様と同じであります。

昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。これが神代紀の天照大神と高木神の由来でありました。
古代の長崎県は海がかなり進出していて、沢山の島々が海中に浮かぶ地勢だったそうです。

八幡とは元来は風にひるがえる衣装の靡きを言う胡語であって、この発祥はアンドロメダ大星雲の旋回を表現した。   『儺の国の星』


高良山の八幡神はもともとここに、縁があったのもこれで分かります。
         (「高木の神」の現代語訳は『古事記の神々』に書きました。
         サイドバーからリンクしてます。)
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by lunabura | 2010-01-02 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)
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