ひもろぎ逍遥

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新月のいざないは



10月20日は新月でした。
なんだか、大きな節目の「新月」だったようですね。

今回の「新月」は
「新しい体験が始まる」のと、「根気のいること」がセットらしい。

わたしもまたまた新しいことを思いついたのですが、
さすがに根気が要る(´・ω・`)

そういう点では新月の占いは当たっているなあ(;^_^A

何を思いついたかというと、
「真鍋の本の単語帳を作る」というアイデアです。

これまでも何度も単語帳を作りました。

手書きやワード打ち込みなどなど。

でも、利用しにくいのです。

最終目標の渡来人の読解に関して、
言葉が重複したり、難解だったりして理解が進まないのです。
誤植もあります。
「カン人」が「韓人」か「漢人」か、分からないのです。
「漢字」が「韓字」となっているのを発見したからです。
「展開」が「転回」となったり。

真鍋が盲目になったため、校正が出来なくなったのがその理由です。

ですから、根本的に読んで理解しないと、
誤植のまま解釈する危険性があります。

そのためには、単語帳を作って正誤表も要るなあと。
いったいどれだけの労力が必要だろうか。


大体、言葉にすると「思い」は消えてしまいます。
だから、普段は「形」になるまで発表しないのですが。
今回は書いてみようと思います。

書いて消える思いなら、大したことはありませんね。




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by lunabura | 2017-10-22 20:47 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

歴史とスピリチュアル




歴史とスピリチュアル


昨夜は床につくなり、
来年の講演の概要が浮かんできてびっくりしました。
(まだお知らせしていない分です)

スピリチュアルの極みである『ガイアの森』を出しながら、
今の私は学問のような歴史を書いています。


神社を参拝するうちに
神話は歴史だったことに次第に気が付いてきました。

その神々を祀った人々がいます。
その歴史が日本の歴史でもあります。
わたしにはこれを学ぶことがとても大切なことでした。

今思えば、歴史カフェやお話会では、
スピリチュアルな話を求めてきた方も多かったのでしょうね。

なのに、ガチガチの歴史の話をしました(;’∀’)


このブログに初めてアクセスした方の中には
神社や神々に惹かれる謎解きがきっかけだった方もあるでしょう。

『ガイアの森』というスピリチュアルな世界が
展開しているのではないかと思う方もあったことでしょう。


しかし、分かったのです。
神話と歴史は密接につながっていることが。


沖ノ島関連遺跡がすべて世界遺産に登録されたのは
スピリチュアルだったから。

まさに、地に着いた歴史の学びがあってこそ、
このスピリチュアルな価値観も理解できると思うようになりました。

気が付くと、このブログももうすぐ丸8年。

8年間の歴史の学びをしてきました。
基礎を勉強したのですね。

スピリチュアルな世界と歴史が融合していきますように。


この数日、執筆に戻るために真鍋大覚を精査していますが、
今朝、ふと思いたって、
「那珂川町 儺の国の星 復刻版」
で検索したら、すでに復刻版が出ていました。
「拾遺」の方はなんと初版本が出ています。

うれしい旧価格1000円と1500円。

チーム・アンドロメダ。
この指止まれ。
一緒に学びましょう。




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by lunabura | 2017-10-19 21:01 | にっき | Trackback | Comments(2)

上大利小水城3 悠紀田・主基田の原型

【真鍋ノート】


上大利小水城 3

悠紀田・主基田の原型




悠紀田・主基田(ゆきでん・すきでん)といえば、
大嘗祭の時に卜占される二か所の水田のことだが、
真鍋によると、
原型は瀦水塘(ちょすいとう)を利用した耕作時代にあるという。

すると、瀦水塘とは小水城や水城のことなので、
川を堰き止める土塁や下流にあるプールの存在は
寒冷な時代の倭人の知恵によるものだったということになる。


『儺の国の星 拾遺』p40

<天皇即位の大典に献上する新米を作る所を
悠紀田および主基田という。

昔の瀦水塘耕作時代の名残りである。

悠紀田が上田(うえた)であって、
「ゆき」は冬の間に降り積もった雪とその溶水・湧水を
瀦水するからである。

主基田は下田(すけた)、即ち夏の間の水を受け敷(す)けて
熱水を貯めるからである。>

寒冷の時代、山に積もった雪が川を流れてくる。
その災害を防ぐために土塁で止めて、水を蓄えた。
それを上田といった。

田植えの頃になると、
溜まった水を土塁の下流の下田に流し込み、
太陽熱で温めて田園に流す仕組みだ。

確かに、米作は水温が低いと作れない。
私は水田跡を借りて畑にしたことがあるが、
貸主に水田を放棄した理由を尋ねたら、
水温が低くて収穫できなかったということだった。

福岡でも少し標高があると、このような水温の管理の問題があったのだ。
この体験から、稲作が朝鮮半島から渡ってきたという学説は
妄想だと理解するようになった。

古代の筑紫では雪解け水をいったんプールして
温めてから灌漑していたのだ。
この仕組みが小水城であり、
のちに巨大な土木工事となった水城と考えられる。

悠紀田(ゆきでん)とは雪水の上田が原型で、
主基田は下田(すけた)が「すき」田になったということになる。



古代は不作を考慮して、多種な品種を揃えて、
気候に合わせて何種類も植えたという。
上田と下田は当然品種が異なっただろう。

水城や小水城の一部には土塁を貫通する「木樋」が発見されている。
それを「根太扉」(ねだび)と言ったという。



上田から下田に水を落とすのは寒食から立夏の頃で、
菜種の花や実がついたころだという。
イタドリの葉の色が変わるのもこの頃か。

瀦水塘の閘門(こうもん)の上で渡水が厳粛に執り行われたという。
これを歳祭(としまつり)といい、
百姓が年(とし)すなわち米稲の収穫の平安を
牛飼い座のγ星・セギヌスに祈ったという。

ウィキペディアによると、
牛飼い座は日本では春から夏にかけて見られるそうだ。

牛飼い座といえば、アルクトウルスなら知ってるぞ。
春の星だ。


過去記事

上大利小水城 現地説明会



上大利小水城 2






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by lunabura | 2017-10-18 20:27 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

地名の由来 宇陀野 有年野 有智野 内野 宇都野 宇佐野 加茂


【真鍋ノート】 

地名の由来 


宇陀野 有年野 有智野 内野 宇都野 宇佐野 加茂



今日は地名の由来について。
「ウチ・ウヅ・ウダ」系の地名が
山麓に展開する扇状地につけられ、
そこには鉱物を求めて加茂氏が移り住んだようすを
『儺の国の星 拾遺』からみていきたい。



P10
<山麓に展開する扇状地を、万葉の頃までは
宇陀野(うだの) 有年野(うねの) 有智野(うちの)
内野(うちの) 宇都野(うつの) などといった。

大和、近江、筑前、駿河などの諸国に今も郷名として生きている。
昔は宇佐野ともいったらしい。

万葉集巻一 間人(はしひと)連老作
  たまきはる 宇智(うち)の大野に 馬並めて
  朝踏ますらむ その草深野

伊都の北、葛城の南五條のあたりの風景である
中世からは津江(つや)の邑が開拓された。>

ウチ系統の地名は山から運ばれた土砂によって
形成された扇状地につけられるという。

津江に「つや」とルビが振ってあることから、
砂鉄関連の地名だということも見えてくる。

伊都の北は加布里山からの土砂崩れをさすのだろう。
葛城とは福岡の犬鳴連邦から宝満山の山系を指すと思われる。
すなわち、太宰府の五條の地のことか。


上記の万葉歌については「ウチ考」というタイトルで
すでに過去に考察した。

古田武彦氏の著書に啓発されて、現地調査したのだが、
氏の指摘する地名「内野」は江戸時代まで存在しなかったことが
証明されるという残念な結果となった。




今日のテーマはこれではない。



この扇状地に加茂氏が好んで集落を形成したという話だ。

<加茂の氏族はこの「うづみの」即ち山が崩壊して沢を
押し潰したところを選んで部落を形成した。

鉱脈が粉砕され、これが土地の下敷に沈殿しているからである。

橐師(たくし)を石上(いそのかみ)といい、
石を打ち金を鍛(う)つから、
その常用必携の団扇(うちわ)や扇子(せんす)を
その地形に見立てたものと考えられる。
(橐=ふいごう)

沼沢地であるから、水鳥がよくそばまで泳いできた。
特に鴨や加茂なる氏名に採られて今も京都に残っている>
<前述の万葉集の歌は、その狩場の描写であった>

うきは市、唐津市七山、京都市の
賀茂神社系を思うと、どれも清流のそばに鎮座する。

特に唐津市七山の地形は急斜面だ。
加茂氏が日本に入植してきて、
険しい山の麓という、あえて土砂災害の危険な地域に住むのは、
その下に沈殿する鉱物の存在を知ってのことだという。

「加茂」の地名も
山―川―扇状地
という地形で見ていくと、
全国に分布している理由がわかるのかもしれない。



                       <2017年10月17日>
                    <加茂氏><地名>




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by lunabura | 2017-10-17 21:11 | <地名の由来> | Trackback | Comments(0)

【真鍋ノート】南十字星と大宰府

【真鍋ノート】


南十字星と大宰府


真鍋大覚の星に関する史料は『石位資正』といい、
漢名の星宿の項目に対し、日本の古い和名を列記したものだという。
中国の星名と日本の星名の照合表のような感じなのだろう。

この『石位資正』が書かれたきっかけは、
刀伊の入寇という侵略事件だった。
この時、異国の天文知識に接した藤原隆家が編纂したものという。
隆家はこの時、大宰権帥だった。

当時は太宰府から南十字星がまだ見えていたという。
南十字星が将来見えなくなるにつれて、
星の和名が消えることを案じたことからの編纂だった。



緒言より(改変)
<『儺の国の星 拾遺』の原本は『石位資正』で、
藤原隆家が1039年に大宰権帥に再任された時、
九州で星暦についての古今の見聞録を編纂したものである。

執筆の契機は1014年から1019年の任期中に
刀伊の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の
偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝える。>

ウィキペディアによると、
藤原隆家が大宰権帥になったのは
眼病(突き目)の治療のために筑紫行きを望んだからだという。
この時に、刀伊の入寇に遭い、応戦している。
刀伊とは満州の女真族と考えられ、
壱岐・対馬を襲い、筑前まで上陸したという。

この時に隆家は敵ながら天文知識の豊富さに感銘したのだろう。

この頃は太宰府から南十字星が有明海のかなたに沈むのが見えていたが、
将来、この星座が見えなくなるとともに、
世人の関心が星空から離れていく気配を察してこの本を企画したという。

太宰府から最終的に見えなくなったのは明治15年(1882)だそうだ。

真鍋大覚の父、真鍋利市は明治43年(1910)3月27日に
脊振山頂から南十字星のγ星(一番上の星)を有明海上に見たという。

今年(2017年)、脊振山系から南十字星のγ星が撮影されて、
話題になった。
まだ、年に数回は観測することができるらしい。

済星(さいせい)
韓人は南十字星を「済星」と呼んだ。
巨済島や済州島はこれに由来する地名で、
昭和60年から換算して35年~309年前に出来た名である。

わたしの星

倭人は南十字星を「わたしの星」と呼んだ。
「済」が菱形の川瀬舟をさすことからついた。
「済」(さい)がなまって「さやのほし」と呼ぶこともあった。



真鍋の本は文章だけなのに、色彩があふれている不思議な本。


<2017年10月16日>



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by lunabura | 2017-10-16 20:56 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご97「鷹取山結界」と脊振山と代々の筑紫君



ひめちゃご97

「鷹取山結界」と脊振山

代々の筑紫君
 


「鷹取山結界」についてブログに挙げると、
それに関する電話が複数あった。

糸島~脊振山に形作る龍を教えられていた人の話とか。
また、酔っぱらうと物部が出る人が「鷹取は三つある」と言った話とか。
いったい何が始まったのやら。

チェリーが、結界の中心を作図してくれた。









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明星山の頂上から南西に下がった所にある。
陸上自衛隊の正面から国分寺跡を結ぶ道路にも赤い垂線が重なっていた。
かなり古い道だったのだろう。

南への垂線にも道が重なる部分があるようだ。

さらに、中心部を拡大してくれた。







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中心点は明星山からの尾根の﨑に当たり、視界が良さそうだ。
東~南は急峻で守り易い。

飛岳も視界が効くということで、物見の砦でも置きたいところだ。
代々の筑紫君の山城を探すにはこの中心点からが目安になるだろう。

江戸末期の記録には山中に「社地」があったという。

磐井君はカマ谷から石を採って強固にしたので、
磐井の名がついたとも言われている。
「社地」には何らかの石垣が残っているはずだ。

三つの鷹取山によって結界を築いたと考えてよいだろう。


【脊振山】(せふりさん)
その龍を思わせる脊振山系について、昨日、真鍋を読んでいると、
脊振山は金龍山(からやま)とも言ったと伝えていた。
徐福関連の地名の金立(きんりゅう)はそこから付いたという。

神功皇后が登頂して神々を祀り、航路の説明を受けた。
また、
<行基、最澄、空海、栄西に至るまで唐土で修業した名僧智識は
韓泊(からどまり)で船から上がるとまず
脊振山頂に詣でて四方を拝し、
それから大宰府に下りて帰朝の手続きを済ませたのである。>
(『儺の国の星』)
と記す。

今は自衛隊のレーダーがあるが、
駐車場の近くの池は「龍ケ池」というそうだ。

鉱物の金も採れ、薬草が多彩だという脊振山系は
私たちが思う以上に神の山として崇敬されていたようだ。

八女の飛形山から見ると、脊振山を中心に両翼が控える形に見えた。


やはり脊振の龍脈と鷹取山結界と代々の筑紫君は深い関わりがあるようだ。






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by lunabura | 2017-09-18 21:52 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

「興玉」と猿田彦神



真鍋ノート

「興玉」と猿田彦神


「おきたま」とは月日を並べる暦作り


「甲斐」の由来は「夏日」


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興玉神

これは北九州市八幡西区の一宮神社の境内の「興玉神」の石碑だ。

駐車場から上る坂道の道端に鎮座している。

一宮神社は神武天皇の磐境・神籬を熊鰐一族が守り続けた宮である。記紀の岡田宮はここにあった。



この「興玉神」について、真鍋を紐解こう。



<「おきたま」とは、月日を置き並べる暦作りの意であった。

「た」は月でThala(ターラ)なる古代地中海語の略であった。



「ま」は胡語のMutso(ムツオ)、Mutesa(ムテサ)、Massa(マサ)なる日神あるいはMuruhなる星神の略と思われる。>(『儺の国の星』序p4~ 一部改変)




元来、「碁盤と碁石」は暦日算定の器であったという。

黒と白の碁石を「た」(月)と「ま」(日・星)に置き換えて、

それを並べて暦を作っていたという。




この「た」と「ま」の語源は地中海や中近東の

「ターラ」(月)「ムツオ」(日・星)などから来ている。




この「興玉神」は合祀されたのかもしれないが、

暦作りの痕跡を残す神ということになる。




神社での祭祀の日取りを決定するのに暦は欠かせない。




猿田彦

一方、「興玉神」とは猿田彦神のことでもある。

道端にあるのは道祖神として鎮座しているのかもしれない。




「興玉神社」はもう一つ、同市八幡西区木屋瀬(こやのせ)にもあり、

その祭神は猿田彦神だ。




また、伊勢二見「興玉神社」の祭神も猿田彦神である。




伊勢二見が浦から見る日の出は有名である。

これは夏至の日の出で、

運が良ければその朝、はるか向こうの富士山から日が昇るという。




夏至を元旦とする「かひ族」の象徴的光景であるらしい。




『古事記』猿女(さるめ)の君の条に

猿田毘古の神、阿耶詞(あざか)に座し時に、

漁(すなどり)して、比良夫貝(ひらぶがい)に

その手をはさまれて海水に溺れたまいき。

とある。




<「あざか」とは潮が引いて地肌があらわに出た干潟である、

「さるめ」とは衣裳を脱いだ空身(そらみ)の海女(あまみ)、

あるいは日に焼けた赤裸(そほみ)のことであった。>




猿田彦が干潟に出て漁をしている時、

貝に手を挟まれて海に引きずり込まれたという不思議な話だ。




<これは甲斐の峯(富士山)を凝視する神の姿を貝にたとえ、

夏日(かひ)に例えた古人の諧謔(かいぎゃく・ユーモア)が

秘められているのかもしれない。>



「貝」とは「甲斐」と「夏日」のことで、

猿田彦神が富士山からの日の出を見て夏至の日を確認する姿を

面白く描写したものとする。



なまよみの甲斐

<「なまよみ」は甲斐の冠辞である。

この「なま」は即ち「たま」と同義であるから

「なまよみ」とはまさに日月星辰の動向、或は方向を観測して

月日を読みとることであるから、

富士山はまさに日本人が暦日を見定める唯一の象徴であった歴史が

推察されるのである。

夏至を「かひ」、冬至を「とひ」と言った。

甲斐の国名の由来はまさに夏日(かひ)にあった。>



「なまよみの甲斐」の「なま」は「たま」がなまったもので、

「たまよみ」と同じだという。

甲斐の国名の由来は、この興玉神社から「夏日」(夏至)が

観測できることからついたということになる。



伊勢暦は太陰暦と太陽暦を重ね合わせて編纂されてきたもので、

今も「神宮暦」として、広く利用されているが、

その日月星の観測地に「興玉神社」があるということだ。




そこで、碁盤と碁石のような「暦日算定の器」を利用して

「た」と「ま」を計算していた氏族がいたことになる。



<倭人は春分秋分より、夏至冬至を重視する民族であったらしく、

古代の住居も陵墓も夏至冬至の朝日夕日に正対するか、

左右に見通す方向に設計築造した。>



倭人は夏至冬至を重視していたという。

そういえば、吉野ヶ里や周囲の神社のラインは夏至冬至が多かった。



伊勢二見のカエル

<夏至冬至を「日還」と書き「ひがえり」と訓じた。>

伊勢二見の興玉神社にはカエルがいっぱい奉納されているらしい。




これも夏至や冬至を境に日がUターンして昇る「日還」「ひがえり」が

「ひきがえる」になったためという。

(『儺の国の星』p38)

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一宮神社(神功皇后伝承を歩く上巻2)

今日の台風18号は風も無く、雨も少ししか降らず、

穏やかに過ごすことが出来ました。

この先も被害の無いようにお祈りします。

※ エキサイトブログのプレビュー画面と実際の画面が同じにならず、
読みにくくなってしまいました。どうしよう。



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by lunabura | 2017-09-17 21:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する


上大利小水城 2

積雪による洪水を防ぐ堤として
形成された話に納得する

 

福岡には『日本書紀』に書かれた水城(みずき)という
古代の土塁が実存しているが、
ほかに「小水城」(しょうみずき)が複数存在する。

このたび、大野城小水城の現地説明会に参加したが、
それは真鍋の記録の検証のためだった。

人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は氷河期以前にあったらしい。肥前三根で2万3500年前と推定される。今も堤を水城という。昔は「みなつき」であって、「つき」は築ではなく雪であったはずになる。

氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であった、その勢いは一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。

祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。   『儺の国の星拾遺』p141


氷河期が終わったのは1万年ほど前のことらしい。
真鍋は氷に閉ざされた時代の話をよく書いている。


脊振山系では、近年まで雪で道路が不通となる話をよく聞いた。

積雪が崩壊して洪水となると、
山麓離れたところまで洪水に没したと真鍋はいう。

私たちはこの現象を今夏、まざまざと見た。
雪が木に変わっただけだ。
朝倉の水害ははるか有明海まで及んだ。

はるか遠い昔、積雪が山津波を起こすのを止(とど)めるために
人々は堤(水城)を造ったという。

のちにはこれが池や田、畑となって「天に至る景観」になったということは、
段々畑の形成は積雪の山津波を食い止めるための営みだったことになる。

佐賀側ではこの堤が円形になってウロコ状に発達したものを見られるが、
福岡側の小水城や水城は直線構造だった。


水城は瀦水塘(ちょすいとう)と呼ばれた。
瀦水塘はほかに、上田(かみだ)、水雪田(みなつきた)、水盡田(みなつきだ)
といった。
「つき」とは「雪」の古語だったという。
積雪のイメージから来たらしい。

夏になると上田から下田(しもだ)に水を送る。
上田に水がなくなったために、「水無月」(みなつき)の名が起きたという。


万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。『儺の国の星拾遺』p140

水城の築造場所は山の麓で平坦になった所、谷間の狭くくびれた所を選んだ。
そこに堤を築造して、閘門を設置したという。

閘門(こうもん)とはコトバンクによると、
水位差のある水面間で船を就航させるための構造物。
上流端と下流端に扉 lock gateをもつ長方形の一種の部屋 (閘室) である。
とある。

水城には土塁の下に木樋が四本以上敷かれていて、水を通すようになっている。
木樋にあるL字型の構造が閘門に当たるのか。

板で開閉するようになっていたのだろう。
これをイタドリと呼んだ。

谷は水城で仕切られ、冬には上手に水が張られ、下手に麦が蒔かれた。
夏になると、上手の水が下手に貼られて水稲が植えられ、
空っぽになった上手には陸稲(おかぼ)が植えられたという。

1・2キロもある水城ではなく、小水城の形成ではないかと思われた。


この話から、上大利小水城を見てみよう。


c0222861_2251342.jpg

この土手が小水城で、全景だ。
約90mで、やはり谷の狭い部分に築造している。

土塁は本来もう少し高く、手前にせり出していた。

土塁の右手は自然丘陵を利用して形成している。
さらに右手には現代の川が流れていた。

全体は左手(奥)の方に傾斜していて、
現在、上流から下流に水を通すパイプが設置されている。

手前が下流で、この前まで田んぼがあった。


閘門や木樋は確認されていない。
閘門を設置するとなると、奥が良いだろう。

今は9月だが、古代の様子を想像すると、
土手の向こうでは水稲が実り始め、
手前では陸稲が育っているということになる。





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これが奥の方の第一トレンチ。
水たまりがあるが、基盤まで掘り下げると、
雨が降らないのに自然と水が出てくるという。

トレンチ左手に版築が出ている。
版築とは種類の違う土を段々に重ねる工法だ。
ここから古墳時代の土器の破片が出土している。

しかし町の見解では、665年の築造のはずだから、
この土器片は土取場に古墳時代のものがあったのだろうということだった。

ほかに、飛鳥時代の土器片も出ている。

外敵を防ぐための土塁だが、外濠の存在は無かったという。

この上大利は大宰府からみたら、川の反対側に当たる。
何故、離れた所を防御するのかと尋ねたら、
大宰府に通じる道があったからということだった。


感想としては、小水城は真鍋の話をよく説明していると思われた。


前文の続きを載せておこう。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。

天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。
『儺の国の星拾遺』p140








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by lunabura | 2017-09-07 22:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

高祖(たかす)の語源



高祖(たかす)の語源



【真鍋ノート】

白鳥座の十字の中心に、昔は赤い高津星があったという。
今はない。

いにしえの人はこの赤い高津星が銀河の中心を示し、
万物の生命の発祥として尊崇していた。
この祭壇があった所を「高祖・たかす」「鴻巣・こうのす」と呼んだ。

糸島の高祖山の語源がこれである。

のちには「託社(たこそ)」とも呼んだ。
倭人が巫女の神託を求めたことからくる。

倭人は上古は神産(かみむすひ)に祈り、
それから高麗系の南林を拝すようになった。

南林とは地中海の天地創造の二神のうちのガリヤという地の女神を
燕文に書き改めた神名である。

さらに次の時代になると、倭人は妙見や普賢や観音を唱えるようになる。

高津川とは、天の川のことである。


メモ 
鞍手六ケ岳の高祖も同じ由来か。   
高倉神社の神山は「高津の峯」という。神々が降臨した神奈備山。
「赤間」の語源も、この高津星が神武天皇の前に現れた赤馬に乗った神、
 ということからだと考える。





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画像出典
http://www.kvision.ne.jp/~ktmksdkh/14houkoku.html




『儺の国の星』p91

高津星

古今和歌集巻九羇旅 在原業平(825~880)
  名にしおはば いざこととはむ 都鳥 
  わが思ふ人は ありやなしやと
都鳥とは嘴(くちばし)と脚が赤いカモメである。 

空飛ぶ姿をみあげると、頭と腹に各々紅一点があり、
これが昔の白鳥座のありし日の姿であった。

眼光の位置には今も赤色巨星デネブが輝いているが、十文字の交点に
もっと赤く淀んでいた高津星は今はない。

高津星は夏の夜空に銀河の中心をしめす星であって、
万物の生命の発祥としての尊崇が古人にあり、
この祭壇があったところが怡土高祖(鷹巣)山(416m)、
那珂鴻巣(こうのす)山(100m)などとして、
名だけが残っている。

平安の頃は託社(たこそ)とよんでいた。

そして、わが心に思う女人の胸の内を告げる巫女が
里人の求めに応じて託宣(のりごと)を伝えていたときく。

倭人は天の川を「たかつがわ」とも称していた。
 




<2017年8月25日>

高祖山 上巻28 高祖神社
高津の峯 上巻11 高倉神社



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by lunabura | 2017-08-25 19:38 | <地名の由来> | Trackback | Comments(0)

中原遺跡のスズリは卑弥呼より200年程前のもの



中原遺跡のスズリは卑弥呼より200年程前のもの

 朝倉郡筑前町は国際都市だった



2017年7月3日付けの西日本新聞。




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福岡県朝倉郡筑前町の中原遺跡から出土していた石片が
スズリと鑑定されました。


1世紀のものというので、
卑弥呼より200年ほど前のことになります。

筑前町は神功皇后が羽白熊鷲攻めする時に通った邑です。

砥上神社(上巻40)では武器を研がせています。

松峡八幡宮(上巻41)は大本営で夜須という地名でした。
羽白熊鷲討伐のあと、この大本営に戻って来て、
「こころ安し」と言った所です。

そこから二キロ程の所に大己貴神社(上42)があります。
ここでは軍士たちが熊鷲を恐れて逃げたした所です。

この古代の道沿いに、粟田遺跡や仙道古墳があります。

粟田遺跡の祭祀土器は美しい赤色。
磨き込まれた赤色の足の着いた土器は優美な巫女たちの姿を彷彿とさせます。
とても洗練された祭祀文化を持っている人たちがいるのです。

朝倉へと流れ込む文化は中国大陸からの可能性が高いです。
有明海の満ち潮がここまで容易に届いていました。

特に、松峡八幡宮の近くについて、真鍋は
大宰府の前身があった所と伝えています。

各国から来た人たちが自分たちの国の歌を
順番に歌っていたと伝えています。

筑前町で銅鏡が出ていますが、同じものがシルクロードでも出てましたね。
今は内陸部にあるように見えますが、
古代には船が沢山入って来ていた国際都市です。

砥上山の古墳の壁画は船ばかり描かれていますね。



弥生時代のすずりは
松江市の田和山遺跡で1個、
福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で2個出土。
これが4例目だそうですよ。

古くから文字文化があった証しですね。


拙著『神功皇后伝承を歩く』をお持ちの方は
上巻40砥上神社 神功皇后が軍衆に武器を砥ぎ磨かせた
上巻41 松峡八幡宮 神功皇后が羽白熊鷲と戦うために宮を建てた
に古墳と遺跡などを少し紹介しています。

上記三社と粟田遺跡や仙道古墳は
当ブログ内で「検索」に入力すると過去記事があります。
(リンク貼る時間がなくてゴメン)



中原遺跡の具体的な住所がどうしても分かりませんでした。
ご存知の方、コメントくださいませ。

追記
住所を知らせていただきました!

朝倉郡筑前町東小田2062にある
JA筑前あさくら平成カントリーエレベーター南側

だそうです。
教えてくださった方、ありがとうございます♪


コメントの返事も少しお待ちくださいね。





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by lunabura | 2017-07-04 21:15 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(5)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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