ひもろぎ逍遥

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今年はキンモクセイの花がびっしりと咲いて、
家中に香りが漂いました。

撮った画像を見たら、空っぽ。
なんだ、バッテリー無しで撮ったんだ。

わずか一週間で散ったけれど、
今日は土の上に黄金色の小花の重なりがびっしり。
その間から水仙の芽が出ています。

キンモクセイはもうすぐ二番花が咲いて、
もう一度、甘い香りを漂わせてくれます。





さて、昨日から歴史カフェのテキストに画像を入れる作業をしています。

文字ばかりの資料にカラーの画像をたっぷりと入れていくと、
ワクワク楽しくなってきます。

自分で天智天皇紀を読んでみると、知らなかったことばかりでした。

人の考えを通さず、自分の目で見ると
ウロコがびっしりと付いてたんだなあ、とよく分かりました。(^_-)-☆

難しいけど、今回もやっぱり原典を読みましょう。

今回は真鍋大覚の資料と突き合わせるので、
ほぼチーム・アンドロメダです。

「チームア・アンドロメダ」とは、
アンドロメダを大覚星とも呼ぶことから勝手に付けた研究会の名前です。

さて、このアンドロメダ星雲を「太歳の星」とも呼ぶそうです。


神功皇后の時代、太歳の予定の日に日食が起こって空が暗くなり、
アンドロメダが日中に黄金色に輝いたことから付いたそうです。







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人々は驚き、その神秘性を心に深く刻んだのでしょうね。


ということは、神功皇后は即位したんだろうな。
田川の位登八幡で。
筑紫の資料では「十五代」と書かれたものを見かけるもんね。
中国の史料にも。

そして、天智天皇もまた「太歳」した年に即位したんだろうね。

以上、これも歴史カフェの予習編でした。






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by lunabura | 2016-10-27 23:05 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(3)八咫烏



賀茂神社(3)

八咫烏
 

神殿の裏に廻ると絶壁になっていて、
その真下では急な流れが飛沫を見せていた。




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水だ。
水こそ冶金の民に必要なものだった。



急斜面にある参道は川から吹き上げる季節風の道でもあったのだろう。
ここで賀茂の民は汗を流して金属を作り出した。
地形から確信した。



真鍋によると、賀茂の神は蹈鞴の名人だったという。
高温の火を見つめる時、片目で見ていた。
それが一目(ひとつまなこ)の神と呼ばれるゆえんだった。

彼らは八咫烏を伴としていた。
八咫烏とはカササギの一種で、
それを見ては干潟の冠水のようすを観察していたという。

のちに八咫烏が賀茂氏のトーテムとなり、
「八咫烏といえば賀茂氏だ」という共通認識が出来たということになる。

日本書紀の時代は「八咫烏」といえば賀茂氏を暗示し、
「海童」(わたつみ)といえば滅びた安曇族を指すのを
共通の認識としていたのだ。

八咫烏は鉱山を渡り歩き、奥深い山の道を知っていた。
だから、神武天皇が霧に迷って困っていたとき、山道を道案内したのだ。

そこで出くわしたのは、光る井戸から出てくる尾がある人、
岩を押し分けて出てくる尾がある人たちだった。

井戸も押し分ける岩も、坑道があったことを暗示している。

尾がある人。
鬼のパンツは虎の皮でできているが、鬼と呼ばれた鉱山従事者たちは
獣の皮を腰に巻いてどこでも座れるようにしていたのだろう。







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山伏もまた然り。








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ツタンカーメンもまた尾のついた皮を纏っていた。



・・・しっぽがあるほうが個人的には好きだ(´・ω・`)




「鬼」という言葉は、当時は「神」と同じ意味だった。
「卑弥呼が仕えていた鬼道」という例があるように。






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賀茂神社の長い参道を下っていくと「七ツ枝川」の標柱があった。

東京から来ていたMさんからの知らせでは
地元の人に、「七山の七は北斗七星だ」と教わったそうだ。


そうか。

七支刀が物部氏の神社にあり、雷神の神力を仰ぐもので、
そのデザインの元が目に薬効のあるヒカゲノカズラだと分かったが、
何故七つの枝なのか、理由が見つかっていなかった。


これが答えではないか。

七支刀は北斗七星の精霊もまた宿す物だったのだ。


北斗七星は横になると「一目」となり、
縦になると「足一騰」となる。
まさしく賀茂氏の姿そのものだ。

物部氏と賀茂氏の深いつながりをここに見た思いがした。







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by lunabura | 2016-07-26 21:33 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

チーム・アンドロメダも



チーム・アンドロメダも



明日の「八咫烏」の資料、今回は三分の一を真鍋大覚の記述が占めています。

これまでは神社の縁起を理解するために、真鍋の資料を引用していましたが、
今回は真鍋の資料から「八咫烏、賀茂氏、一目神」に絞って
分類し、整理しました。

これが、以前からやりたかった「チーム・アンドロメダ」の
端緒にもなりそうです。



「チーム・アンドロメダ」とは真鍋大覚の研究チームです。
まだ発足はしていませんが(^^;

「アンドロメダ」は倭名で「大覚」とも言うので、
チームにその名を付けた訳です。



真鍋の口碑が真実かどうか、検証しなくてはならないのですが、
その前にその内容を明らかにする必要がある訳ですね。



いろいろと悩んで、辞書のように単語から引けたら便利だなと
先日思いついた話を書きましたが、
今回、その単語集が「八咫烏」の三分の一を占めることになったので、
歴史カフェで育っていってる資料の中で、
チームアンドロメダの資料も出来ていくことになるかもしれません。





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『古事記』の中の単語で、従来解明できていないものが含まれているので、
るな的にはかなりの嬉しさです。


「七支刀」で物部氏、「八咫烏」で賀茂氏。
これら、古代の鉄の民の姿がうっすらと見えてきました。(^^♪






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by lunabura | 2016-07-23 21:00 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

リラとベガの和名・ リラは伊豫・ベガは志賀


リラとベガの和名

リラは伊豫・ベガは志賀

琴座はリラ。
この美しい発音を倭人は上手く出来なくて、イヨと発音したといいます。

また、織姫星はベガ。
天の川のほとりに輝くベガも倭人が発音するとチカ、シカとなったと
真鍋は言いました。

志賀星 ベガ
 北辰が左枢(さすの)星(ほし)と右枢(うすの)星(ほし)を双方に立てた時代は、垂仁帝三十七(後八)年であった。伊勢神宮御遷座は同二十五(前五)であったから、何かこの前後に日と星の天文観測があったらしい。かつての井澗(しかの)(志賀)星であった織女が、北天に燦爛と輝いていた時代は一四〇〇〇年前のことであった。そして織女(※ベガ)が最も遠く北天から離れた時代は、一條帝正暦三(後992)年の頃であった。『儺の国の星拾遺』p154


北辰とは北極星。左枢星と右枢星とはポラリスとツバーン。
「阿氐良」(アテラ「麻氐良」(マテラ)と同じ意味ですね。

弥生時代は北極を示す星がなくて、ポラリスとツバーンを見て、
北を決めていたという話は何度か書きました。

じゃあ、何にもない、真っ暗な北を何と呼んだか?
「天御中主」と言ったそうです。
そう、志賀島の元宮三宮の沖津島。
ここには「天御中主」が祀られています。

さて北極星は時代によって変わります。
現代はポラリス。縄文時代のころはツバーン。
そして、14000年前の頃、(旧石器?)の北極星はベガでした。
「ベガは氷河を煌々(こうこう)と照らしていた」ことになります。(p157)

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 榧(かやの)星(ほし)は織女ベガの古名である。(略)
 琴座リラを倭人は伊豫とよんでいた。

 魏志倭人伝に伊邪(いや)なる国名は、何か西域の遥か彼方の神話を千七百年昔まで保存していたかのごとき響きをあたえていたものと感ぜられる。

所はいずれも肥前松浦の地で太(おほ)身(みみ)の氏族が青海原を前に逞しく生きていた地である。又の名を千顆(ちくわ)の里という。無数の島々が碧潭(へきたん)に連なる地でもある。

 昔はv,w,b,t,nは音が交って聞きとりも書きとりも難儀した時代があった。これは近東民族のきわめて珍しい先天的素質であった。

前述のベガは、この方式に則して倭人に伝えられた訛をさがすと、値(ち)加(か)、志賀或は千岩(ちいわ)などの地名を挙げることができる。

そして又l,r,yが言い別けられぬ倭人にあってはリラは伊豫(いよ)などの地名として昔生きていたことにもなるのである。 『儺の国の星』p156  榧星 ベガ


あれあれ、魏志倭人伝に出てくる「伊邪」国は松浦にあったと言ってますね。
松浦=末廬が通説ですが、これもまた見直しか…。

太身族については、他所にもいくつか見られます。
断片を繋ぎ合せて、いつか紹介できたらと思っています。

異国の人の発音は難しいですよね。
中近東の人の発音を聞いたら今でも難しい。

ベガ (vとtが混乱)→ チカ・シカ → 値加・志賀
リラ (l、r、yの区別がつかない) → イヨ → 伊豫

思いっ切り変わったもんですな。

「魚」の発音が上手くできないことを思い出します。
(ユー・イユー・イオ・イヲ)

日本人はlとrは今も区別が苦手です。
中国語のリーはジーと聞こえる時があります (^_^;)
2000年以上経っても、耳は弥生人のままの、るなでした。(´・ω・`)

それにしても、伊豫の国がリラの国だったとは、
星の名が地名になって行くのですが、これは想像つかなかった。


2015年1月6日



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by lunabura | 2016-07-05 09:01 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

脇巫女 24 ミルザム


脇巫女 24
WAKIMIKO
ミルザム


ミルザム星はシリウスと同じ大犬座にあり、
シリウスよりほんの少し先に昇ってくる。

初めて聞く星の名だったが、真鍋はその倭名を伝えていた。
それは鐸石別星(つくしわけのほし)という。

鐸石別の名の皇子がいた。

『古事記』に出てくる伊登志別王(いとしわけのきみ)のことで
筑紫(ちくし)では鐸石別命と言ったそうだ。

この命は垂仁帝(すいにん)(前29~後70)の皇子で、
筑紫の人々は蹈鞴(たたら)の元祖として敬っていたという。

鐸石別命は豊前足立山(あだち・北九州)に祀られていたそうだ。
足立山は龍体だと、友人が言っていたことを思い出した。
実際に登ってみると、ところどころに露出した岩は
まるで龍のウロコのように見えた。

足立山の名の由来は、そこで和気清麻呂(わけのきよまろ)が
追っ手に足を切られたが、幸いに治ったことからついたと聞いた。

この和気清麻呂こそ、
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の天皇即位を阻んだ人だ。

宇佐での託宣事件は当ブログでも紹介した。
そこでは占星術が行われていたという。
脇巫女たちが逃れた先で伝えていたのだろうか。


さて、タタラの元祖・鐸石別命は和気清麻呂にとって祖に当たるという。
和気氏の拠点は備前国藤野で、鉱産氏族であり、医家でもあったという。

ゆえにだろうか、鐸石別命は工人や医人の元祖として拝まれていたが、
天平の世から薬師如来になり、
行基菩薩の石像が祠に安置されるようになったと真鍋は言う。


冬の凍てつく夜にオリオンの後を追って昇ってくるミルザム星を見て、
工人たちは仕事の出来を祈ったのだろう。
その直後、全天一の明るさを誇るシリウスが昇ってくる。
その輝きは工人が作り出した鉱物の輝きと重ね合わされたのかもしれない。

ふと、そう思った。

そして和気氏の活躍を知る人は「医術」の神としても祈ったのだろう。


このミルザム星を見て「ささらのほし」という人たちもいた。
「さざれいし」の古語だ。
「さざれいし」は「細石」とも書くように、砂鉄(磁鉄鉱)のことである。

これを鉄に還元する名匠は伊迹師(いとし)、五十氏(いそし)、
後に万葉の頃は石上(いそのかみ)と呼ばれた。

そう、糸島の五十迹手(いとて)の話の時にもよく出て来た名だ。
あのシリウスの輝きが込められた名でもある。

そうすると、ミルザムは砂鉄。シリウスはその結晶。
そう見立てて仕事の成功を祈ったというストーリーも生まれてくる。


思えばここ、鞍手は石炭が採れる所だ。
「燃える石」に関しては古文書に登場するのは中世頃らしいが、
当然ながら古代人たちはそれを知っていたことだろう。
物部たちがこの地を制したのはこの「燃える石」も一因だったのかもしれない。


ミルザム星にはさらに真金星(まがねのほし)という名もあったという。

   真金吹く 丹生(にふ)の真朱(まそほ)の 色に出て
   言はなくのみそ 吾が恋ふらくは
                (万葉集巻14 詠み人しらず)

「まそほ」の色はサイドバーにある下巻の帯の色だ。
デザイナーが私のために、日本の色から選んでくれた色だった。


ミルザム星にはさらに吉備星、気比星という名もあった。
ここで再び「吉備」の和気清麻呂にループした。


他にミルザム星は相模星(さがみのほし)、さねさしの星とも言った。

  さねさし さがむのをのに 燃ゆる火の
  火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

  (古事記景行紀 弟橘比売(おとたちばなひめ)の御歌)

「さねさし」とはタタラの火の勢いを加減調整する名匠のことだと真鍋は伝える。
そうすると、意味不明とされた初句二句には
産鉄の名匠の見つめる炎のような熱い恋が詠み込まれていたことになる。

まさか、ここでヤマトタケルのために海に身を投じた姫の歌が
出てくるとは思ってもいなかった。


そして、今回は行基の名も出て来た。

鞍手には長谷寺がある。
奈良より古いこの古刹(こさつ)の十一面観音が行基の作とも言われている。

この長谷寺が長遠寺別院(じょうおんじべついん)の真北6キロの所にあるとなると、
ここにも解き明かされることを待つ謎が残されているようだった。



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by lunabura | 2015-12-24 22:25 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(5)

高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


高句麗壁画(1)
八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


今日は高句麗の装飾古墳壁画です。
その中に八咫烏がいくつか出ていたのでそれを紹介します。
ヤタガラスーそう、日本サッカーのシンボルマークです。三本足が特徴です。
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この絵は「日神・乗鳳凰図」です。
「太陽神が鳳凰に乗っている図」という意味なので、左右の人物の乗り物を見てみましょう。
左は龍ですね。右側は鳥です。ですから右の方が日神です。
この日神は笛を吹いています。ヘアースタイルを見ると男の神です。
高句麗の太陽神は男の神です!
中央の円を見るとカラスがいます。
羽根を広げて、笛の音に合わせて舞っているかのようです。
そして、足を見ると、三本だ…。ホントにこれは八咫烏です。

この古墳は「輯安(しゅうあん)5塊墳4号墓」と言い、
中華人民共和国―集安地方にあります。6世紀の古墳です。
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「日神・月神図」これは同じ輯安5塊墳の5号墓。
男女の神が舞っています。八咫烏を頭上に差し上げているのは男神です。
左が月神で女神です。神さまらしく衣の袖が羽根です。
とても軽やかな描写で、自由な筆遣いに驚きます。

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「舞踏神」これも同じ5号墳です。
朱雀か鳳凰に乗って天女が踊っています。
その向こうに八咫烏の足が三本だけ見えます。なんだか大胆な構図ですね。
八咫烏の顔は見る人の想像にお任せ。なんだか嬉しそうな顔が浮かぶんですけど…。
鳥や天女の躍動感がすごいです。

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真坡里(しんはり)7号墳
これは少し時代が後で、6世紀後半の金メッキの銅の透かし彫りです。
中央の円の中を見てください。鳥がいて三本足です。
また上の方にも鳥が彫られています。
下に帯があるので、冠ではないかと言われています。

これら4点の八咫烏は6世紀のものです。日本とはどう関わりがあるのでしょうか。
6世紀だという事は日本も古墳時代に入っています。
日本での八咫烏の話は、神武天皇の時に出て来ていて、道案内をしています。
日本の神話はずっと古いです。
ですから、この高句麗古墳からの日本への直接の影響は考えられません。

それでは二カ国に八咫烏が伝わっているのは何故か?と考えると
もっと、前の時代に八咫烏の伝承があったと想定できます。
検索すると「三本足の烏」の思想は中国で生まれていました。
すると、こういうストーリーが出来ます。

中国辺りに八咫烏神話を信奉する氏族がいて、北部朝鮮に辿り着いた。
その一部は南下して日本まで辿りついた。
北部朝鮮に残った人たちはそこで高句麗の建国に関わって栄えた。

では、その人たちはどんな氏族だったのでしょうか。
そのヒントが同じ古墳(5号墳)に描かれていました。

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「燧(ひうち)神と鍛冶(かじ)の神」
左の神は火打ちの神です。右は鍛冶の神。
これから、この八咫烏を信奉しているのは鉄の民族である事が分かります。
この高句麗の装飾古墳に埋葬された人は、八咫烏をトーテムとした鉄の民です。

一方日本では「八咫烏は賀茂氏の祖」だと言われています。

賀茂氏については真鍋大覚氏の本にいくつか記述があるので、
言葉を補いながらまとめて見ました。
南冠座(コロナ アウストラリス θ)
賀茂の氏族は、日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、
むしろ百姓の鋤鍬(すき・くわ)の方を主としていた。
その祖が来た時代を考えると、海幸山幸の時代に釣り針が出てくるので、
そのころには渡来していたはずである。
「冠座」を「かまのほし」とも言うが、この起源は鎌の形の半円形から由来する。
鎌の形は当時の舟の形にも似ていて、それで水を渡る時には、
葦草を切り払いながら漕がなければならない。
そんな沼沢池を渡って来た氏族・北方系の胡人が賀茂氏である。
彼らが鉄を作る時、片目で坩堝(るつぼ)火の色を見ていたので、
冠座には要目星という名もついていた。
坩堝の底の反面に析出した金銀の粒を星の配列にみたてていたともいう。

鳩座 (コルンバ β ウズン)
烏鵲は干潟の冠水の有無遠近を見定める鳥として、
昔は旧約聖書のノアの洪水の神話の時代から知られていた。
縄文弥生の祖先は烏鵲と共に干潟の開拓に努めて来た。
神代には賀茂の氏族は八咫烏を伴として日々をすごしていた。
今、肥前にすむカチガラス即ちカササギは
まさにその生きた化石というべきものである。
有明の干潟にいるムツゴロウをカチガラスは餌としていたが、
干潟が稲田と変わった今日では全くムツゴロウとは無縁になった。
干潟が陸地化するまでに3500年の以上の歳月がかかった。

タタラで鉄をつくる賀茂の氏族は火勢を見つめる仕事をするようすから、
「隻眼一目の神」と崇められて来た。

賀茂の星
『淮南子』などには大陸の西北方、或いは北方、さらには東北方に
一目国があったと語り伝えている。
「一目」を高麗の古語でカナムリと言う。一目は「タタラの神」となった。
常に高温の金属蒸気を見るために視力保護の目的で片目をつぶって
物を眺める習慣が身についている工人の氏族の事である。
福岡県那珂川ではこれを称して「八丁様」と言い、
京都山城では「加茂の神」と崇め奉った。

天智天皇は662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、
筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「背振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に
生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。
そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。
これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。
玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。
ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を
模した品にほかならないのと同じです。
これはあちこちにあった文章を集めました。

これをまとめてみます。
有明海が陸地化する3500年以上前に賀茂氏は八咫烏を連れてやって来た。
当時は葦原だったので、船を進めるには鎌で葦を払いながらであった。
その時の鎌の形が「冠座」の形と同じなので、「かまのほし」と名付けていた。
また、当時の船の形は三日月のように両端が上がっていた。
八咫烏には干潟が陸地になるかどうかを見極める力があったので、
賀茂氏はそれを連れていた。
賀茂氏の出身地は「一目国」で、中国大陸の北西から東北にあった。
「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、
閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからである。
それを、筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言った。
「賀茂神社の葵祭」の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、
天智天皇がご覧になって、京都でも真似をして始めたことにある。
葵祭は京で神社と共に栄えているが、
ルーツの方では寂れてしまって、忘れ去られてしまった。

この話は高句麗と日本と両方に八咫烏が伝わっているのを
よく説明してくれていると思いました。

古事記では神武天皇を助けるために天から八咫烏が使わされています。
その続きを読むと、地下で働く不思議な人々と出会って行きます。
これは、鉄の民の描写だと思っています。
神武天皇も鉄の民の協力を得て、力を付けていった事が婉曲に描かれています。
(⇒神武天皇
そしてこれが日本のサッカーのシンボルマークになりました。古くて新しいヤタガラスです。

参考文献
『高句麗文化展』 高句麗文化展実行委員会 (写真転載)
『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』 真鍋大覚 那珂川町発行



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by lunabura | 2015-08-10 08:10 | 高句麗壁画・八咫烏 | Trackback | Comments(10)

水城の地下の木樋・ イタドリ


水城の地下の木樋

 イタドリ

1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。

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東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。



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これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。

真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。





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水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。

この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。

土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。





これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105


イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
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(画像出典 ウィキペディア)


閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。

これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。




瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。

夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。

そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。



「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。



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これは大土居小水城の木樋です。


この使用法が具体的に分かるのが次の文です。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。

唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。

その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140

この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。





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大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。






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by lunabura | 2015-07-16 19:11 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

志登神社3・ハレー彗星とカノープス


志登神社3
ハレー彗星とカノープス


志登神社は北に柑子岳、南に雷山が見えるという特殊な位置にあり、しかも夏至ラインには今山の二上山が乗るという驚きの位置でもあります。


糸島市 志登神社




「志登」の意味は「海淵」。波が立たない日には星の観測にもってこいでした。星の観測には空を直接見る方法と、プールに映して観測する方法があります。

ティオティワカンでしたか、ピラミッドにプールがあるのは星の観測のためと考えています。水鏡に写る星は、ステラナビゲータなどとは違う軌跡を描くのを見た事があります。


さて、「志登星」(ハレー彗星)は76年ごとに到来しますが、19年を四度(しど)重ねると76年になることから、「四度」→「志登」となって、ハレー彗星を志登星と呼ぶようになりました。

19年って、メトン周期でしたね。(※メトン周期とは19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期)

昨年末、朔旦冬至に志賀島に行ったのも、もう遠い過去のようです。ブログに書かなかったら、記憶に留まらなかったかもしれません。

今年、志賀島のお膝元の志式神社では19年に一度のお祭りがあったそうです。お潮井があった事も重ね合わせると、どうやら志式神社にもまた天文観測官がいたのではと思うようになりました。(ガイドブック下巻72)

さて、糸島市志登は単なる湊ではなく、安曇族の天文観測官がいた可能性が出て来たのですが、tatsuさんが、志登から見える志登星(ハレー彗星)の画像を作ってくれました。

すごく感動したので、ご紹介します。


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これを見ると、以下の真鍋の文がよく理解できます。

 
彗星を志登星という。十九歳を四度かさねるを言う。その大なる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星(しそのほし)というから、その一つの方言でもあった。(拾遺p51)


ハレー彗星が本当に北斗七星を覆っていました。

画像を見ると、星空を6月1日に固定してあります。固定しないと背景の星は動きっぱなしになって分かりづらくなるんですね。グッド・アイデア!


姫古曾神社の所で考察しましたが、「彗星」を倭人はオオゲツヒメ、燕人系は姫子星と呼んでいました。そこに祀られているのが市杵島姫です。市杵島姫は物部氏と通婚しているので、基山の辺りは物部の天文観測となるのかもしれません。


安曇の星祭祀と物部の星祭祀、いつか区別が分かるようになると面白いですね。



さて、tatsuさんはカノープスの画像も造ってくれました。雷山に沿ってカノープスが動いています。


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「這うように」と描写されるカノープスは、諏訪星と呼ばれ、スサノヲの化身とされました。荒ぶる神です。

以上、志登から見えるハレー彗星とカノープスでした。
Tatsuさんのお蔭で解読が進みました。ありがとうございます ^^







 




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by lunabura | 2015-07-11 18:37 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(2)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた

針摺の瀬戸と水城
古代、玄界灘と有明海はつながっていた


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(大野城市で発行されているパンフレットです。
1.2キロの大堤が築かれていて、日本書紀にも書かれています。
その目的が分からないと言われていますが、眞鍋家ではその歴史が伝えられていました。)

昨日、初めて講演をしました。

このブログを始めて一年と四か月になりましすが、、ブログを通しての御縁で、講演を依頼されました。
・『儺の国の星』の存在と真鍋 大覚氏について。
・かつて古代において、有明海と博多湾は海峡で結ばれていたこと。
・ふたつの海の潮汐の差を調節するために初期の水城が築かれたこと。その他。

こんなお題なのですが、本を調べると、
古代の福岡の地形を抑える事が正しい歴史の把握に繋がると思い、
お引受けする事にしました。
あちこちに散らばっている話探し出して、構成しなおしました。
その結果、構成は
1 真鍋大覚 略歴 暦法家としての眞鍋家 星の観測法 
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
3 ありなれ川とハリチ 針摺(はりずり)
4 瀦水塘と水城(大水城 小水城 上津土塁)
5 ありなれ川と水城の歴史
6 ありなれ川の風景と地名 舟 遠の朝廷 国栖(くにす) 太陽暦 鎮西 やす 三並 古賀・通古賀 中大江 板付 三笠・三原・御井・三潴・三池 三井郡 三原の潟 あさつま 夜渡七十 有明

としました。

ありなれ川とは、銀河、天の川の事です。
これを地上に映して、滔々と流れる大河もありなれ川と呼んでいました。
古代の筑紫にもそんな大河が真ん中を流れていました。
洪水や土砂の堆積などとの戦いの連続でした。
この話を世に残して下さった真鍋大覚氏と、
治水工事に取り組んだ先人たちへの敬意をこめて、

2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
5 ありなれ川と水城の歴史

を紹介します。
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
昭和57年・60年出版 那珂川町 原本は『石位(せきい)資正』(星暦)
「高松宮宣仁親王殿下が昭和のはじめに、日本人の祖先が空に輝く星々に向かって懐(いだ)いていた心と、その呼び名について調べることを、香椎宮宮司木下祝夫博士に指示されたが」、当時、木下氏は古事記のドイツ語訳で忙しかったので、真鍋大覚氏に依頼された。

本の内容は、300程の星の和名とその由来や歳差運動の計算、地名の由来、各渡来人の風俗や聖数や暦などの背景、古代鉄(隕鉄、スズ鉄、砂鉄)、暦(金星暦、土星暦ほか多種。)神の名の由来などなど、星暦を以って天皇家を支え、星辰を祀った物部氏に伝わる伝承が書いてある。

天皇の遷宮の理由、太陽の観測、銅鏡の使用法など門外不出とされた内容も含まれる。また日本書紀を補う文化背景が豊富に書かれている。

失明されたので、口述筆記。昔の記憶を辿りながらなので、難解な文脈になっている。

地図 針摺 と ありなれ川(灰色の市街地がそれに近い姿です。)

☆地図は拡大して行くと見えるようになっています。

5 ありなれ川と水城の歴史
氷河期 2万3500年前。肥前三根で水と雪を堰き止める堤の工事跡から炭が出土。瀦水塘の痕跡。この時代から灌漑と耕作を始めていた。

前255年 高来山(2987m)が爆発して現在の雲仙岳(1360m)に山容を変えた。
147~167 倭国はその領有権をめぐって大乱となる。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路(しおじ)見山(みやま)、或いは四(し)明山(みょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

248年 卑弥呼死去。
________________________________________
473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我の稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我の稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂(さく)田(たの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。
________________________________________
628頃 網代跡が出土。早春に海の魚が上って来るのを捕える木組で、汀線にはどこでも出土。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

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恵蘇八幡の拝殿にある羅針盤

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恵蘇八幡 時の公園にある、水時計
恵蘇八幡宮は 斉明天皇のモガリの宮です。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させ た大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

(講演後、福岡の南部にある「広川」を「ありなれ川」と今でも言う事を教えていただきました!感激です。)

講演デビューという事で、
久留米地名研究会の皆さまたちには暖かく迎えていただいて、
なごやかな雰囲気の中で話させていただきました。
ありがとうございました。

本は完売してしまっていますが、アーカイブに取り組む提案もあったりして
どなたでも手に出来る可能性も出て来ました。
実現したら、またお知らせします。


この話に関連するお散歩コース
『ひもろぎ逍遥』
高天原(1)志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
              2000年前の博多の姿

恵蘇八幡宮と木の丸殿 (1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
                  中大兄皇子はここで喪に服した
          (2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
          「高市郡越知岡村」は牽牛子塚か?車木ケンノウか?
          (4)こんな所に大きな漏刻(水時計)があった

牽牛子塚古墳 八角形の古墳はまるでピラミッド 斉明天皇陵に確定か?

『古事記の神々』
筑紫の君・磐井
斉明天皇




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by lunabura | 2015-05-17 22:16 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)

八幡の謎(1)水星と御許山の磐座


八幡の謎(1)
水星と御許山の磐座

今回から、真鍋大覚の著作を通して八幡の謎にチャレンジです。
これまで八幡は、るなにとって漠然とした世界でしたが、
宇佐と安心院という現地に立つと、
物部氏の伝える星の伝承がいくらか理解出来るようになりました。

さあ、誰も知らない古代の日本にご招待。
                         (『儺の国の星・拾遺』一部改変)
宸位星(水星・マーキュリー)      p67
(略)
祖先は人間の生命の発祥を星に求め、日に求め、広くは空にあると信じた。天の聞こえざる声を聴くに、山頂に三個の巨石を安置し、もって神域と定めた。水星の太陽を周(めぐ)るに三月を要する所以であった。豊後宇佐の御許山(647.0米)の遺跡がこれである。

九州でも各地に巨石が置かれた所がありますが、三石は天の声を聴くための神域だと真鍋は言います。

あいにく、御許山(おもとやま)の神域は立ち入り禁止ですが、
熊本の三石を並べた遺跡に行ったことがあります。

それは山頂から少し下った所にあり、三つの巨石が並んでいました。
そこに連れて行ってくれた人が言うには、
「大中小それぞれ、世界、国、個人の祈りを捧げる所だ」と夢で教えられたそうです。

その三石は東を向いていたので、三人それぞれ磐座を背にして
昇ってくる太陽の光を受けました。
太陽と、太陽の光を受けた磐座の波動に挟まれるという特殊な空間に感激しました。

こんな使い方もありかな、とも思っているのですが、
そのアイデアを得たのは、押戸石山の磐に座った時でした。
押戸石山の山頂には磐座があって、不定形のストーンサークルを描いているのですが、
私がひそかに王者の椅子と呼ぶ石があります。

座れるようになっていて、ちょうどリクライニング椅子のように、もたれかかる事が出来ます。
しかし、大き過ぎてつらいです。
その横にちょっと小さい玉座があり、そちらの方が人間には良いサイズでした。

そして、その夜、玉座の正面には冠座が輝いたのです。
それを見て、私は、王になる人が儀式を受ける岩ではないかと妄想したものです。
星と星の光を受けた岩の波動の間の人間、てことですね。


このような椅子は他の山中にもありました。

磐座って、サイズの基準が普通の人間よりも、当然大きいのですが、
与那国島海底遺跡が出て、石段を見た時、
ああ、このサイズの人たちがやはりいたんだと思ったものです。
今では、2m以上の人骨が世界各地から出土していますね。


おっと、話がそれました。もとに戻りましょう。

御許山の磐座が三個の理由は、水星が太陽を周回するのに三か月要することに起因すると真鍋はいいます。
ウィキペディアを調べると「水星の公転周期は約88日である」とありました。
確かにほぼ三ヶ月ですね。

真鍋の本には
「太陽をめぐるに87.98784日を要し、これを約三朔望月に達するところから、三圍(みゐ)の星の名もあった。やがて水星の名の発祥と倭人は解し、御井(みゐ)の星の名を脳裏に浮かべていたらしい」とありました。

太陽の近くにあるので、黎明の時、そして日没時に見るため、晨星(しんのほし)、略して辰星(しんのほし)とも言ったそうです。
(晨とは「あした」とも読み「早朝」という意味です)

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(今日の夕方5時ごろ。水星は金星より太陽の近くに)

御許山の三石を聖地とした人たちは、水星が太陽を三か月かけて公転するということに
意義を見出す人たちということになりますね。

つづきを読みましょう。

小熊座を手長星(てながのほし)、大熊座を足長星(あしながほし)と言った。

極東に移り住んだTroya(トロヤ)民族は斗極の形を見ては直ちに水汲み水すくいの仕事を連想し、これがいつしか水星を辰星と重ね合わせる信仰に到達したものらしい。

黄河は北から南に流れる水域があって、これが秦嶺に当たるところに漢人が周(前1122~250)以来、唐(618~975)に至るまでの文明を形成した。

漢人は北が即ち水源であったことになる。ここに玄武なる沙漠の海無し沼の神格を与えて、水星を配したのである。

清少納言の随筆でしたか、「手長・足長」と出て来ますが、これは小熊座と大熊座の名だそうです。

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(上のイラスト、足長を書き間違えてます <(_ _)>)

トロヤ民族は日本に来て、初めて北斗七星が水を汲む姿を見たのでしょう。
北斗の水汲みは玄海灘から響灘の現象でしたね。
「これがいつしか水星を辰星と重ねわせる信仰に到達した」という意味はよく分かりません。

黄河の中でも北から南に流れる流域に周から唐の文明があったために、
「北といえば水源」というイメージが出来て、
玄武(北の聖獣)の坐す北の星として水星を配置したということになります。

玄武とはちなみに、亀に蛇が巻き付いた形をしています。
奈良県明日香村のキトラ古墳や、韓国の装飾古墳にも見られますね。

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亀と蛇か…。キダとも読めるな…。
佐田神社の亀蛇がこの玄武だとすると、るなの亀蛇考は水泡に帰すかも。

(つづく)




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by lunabura | 2015-05-12 22:47 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(13)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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