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八幡の謎(2)「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金


八幡の謎(2)

「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金

水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった。水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った。これを「みつくり」と呼び、近世は箕作(みつくり)と書いた。百姓は水を遣り繰りする神を見ていた。

天台の儀式華やかに三位一体の神仏たがいに垂迹の教えが普及する頃は、天竺(てんじく)の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあったが、八幡の本地なる宇佐だけは、あえてこれを許さなかった。
 (『儺の国の星・拾遺』p67)

<水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった
これで思うのですが、源氏の「みなもと」って、御許山信仰から付いた名なのでしょうか。
八幡信仰の聖地は御許山(おもとやま)ですよね。
のらさんにコメントいただいてから、気になっていました。

以前、こんばんわんさんが指摘されたように、元宮の件も
宇佐八幡宮は御許山を遥拝していて、大分八幡宮との縁に出会うこともありませんでした。

地図 赤 御許山   青 宇佐八幡宮 

(写真モードに替えると地形がよく分かります)


<水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った>
「水星三囲」とは水星が太陽を一周するのに約三カ月かかるという意味と思われ、
水源に三つの石をあげるのは、それが由来でした。

何故、八幡はそんな天文現象が重要なのだろうか。
水星は金星と同様に、明けの明星と宵の明星に分かれるので、
その周期と関係あるのだろうかと、プラネタリウムに尋ねました。

今年2013年の例でいくと、
水星が明け方によく見えるのは 4/11前後 7/30前後  11/18前後
夕方によく見えるのは  2/17前後 6/13前後 10/9前後
だそうです。
今日10/5は夕方に見えたはずですが(雨だった…)、しばらくはこの現象が続く事になります。

その後、明け方に見えるようになって、再び夕方に見えるのは来年。
この周期は約115日ということでした。
約四か月サイクルなので、公転の三か月とは無関係です。

るなが知りたかったのは
「水星が三か月で太陽を回る事と、水星が朝か晩に見えることは関係があるのか」
ということで、結論は「関係なし」でした。

三石に込めた水星の公転周期とはいったい何なのか、謎のままです。


次、行きましょう。

<垂迹の教えが普及する頃は、天竺の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあった>
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。(Wikipedia)


神々の国に仏教が入ったとき、神と仏とどう折り合いをつけるのか、
当時の誰もが疑問を持ったことでしょう。
神々への信仰を捨てて仏だけに帰依する事はできなかったと思います。
そこで、神々は仏の化身として先に現れていたんだと、上手く説明したわけですね。

「水の神」はインド(天竺)ではサラスワティー、中国で弁財天といいます。
日本では市杵島姫と、名前が変わります。
弁財天の真言「オン サラスバティ エイ ソワカ」に「サラスワティ」が出て来ますね。

c0222861_23325159.jpg

水の女神の持つ琵琶というアイテムは日本にも伝わりました。
でも、市杵島姫とサラスワティーでは微妙に違いますね。
そこが垂迹説の苦しいところかな。

また、水を祀るシンボルとして、他に「妙見」が挙げられていました。
「妙見」とは妙見菩薩であり、北極星や北斗七星の信仰でもあります。
これらは各地で融合されて行ったわけですが、宇佐だけはこれを許さなかったというのです。
いったい、どういうことでしょう。

先を読んで行きましょう。
(中略)
蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という。
「ささ」とは月齢三日の朔の月形の形容であるが、時には朝、すなわち朝晨あるいは黎明の空をも言った。
「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。
「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていたのである。

胡人は「土よく気を放せば石を為す」のことわざを心にしていた。石は結晶水を得て風化した果てに土になり、土は結晶水を解離すれば金を産む道理を数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである。

太陽の至近距離を巡って、朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない。山頂に立てられた三石、即ち「ささくり」は風を呼び、雨を招く三種の神器であった。


<「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。>
この蹈鞴(たたら)とは蝋石(ろうせき)という柔らかい石で加工された坩堝(るつぼ)のことで、
出雲のタタラとは別のものです。

この坩堝には穴が開いていたのですが、それが中心でなく偏った所に開けられていたそうです。
ですから「虚にして偏」とは、坩堝の中が空っぽで、穴が偏った所にあるという意味になります。
その状態を「あさ」と言ったということですから、
夜が明けて星々が消えて空っぽになった空に太陽だけがあって、
そのかたわらに水星がポツンと見えるようすを「虚にして偏」と言うのでしょう。

<「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていた>
私たちは鉄の材料として砂鉄や鉄鉱石を思い浮かべますが、
古代人は葦や隕石からも鉄などを取り出していたそうです。
坩堝から取り出した金や鉄の粒(つぶ)を見て、それは星の化身だと思ったということになります。
そういえば、隕石って星のかけらだから化身と言えますね。


c0222861_2333933.jpg

この写真はちょっと違う例だけど、隕石を彫って造られた仏像です。

日本の仏像とはずいぶん姿が違いますね。
2012年の記事を引用します。

1938年にナチス親衛隊(SS)の探検隊がチベットから持ち帰った仏像は、隕石(いんせき)を彫って作られていたという論文が26日、科学誌「Meteoritics and Planetary Science(隕石学と惑星科学)」に発表された。

   アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の「第三帝国(Third Reich)」と宇宙からの「財宝」の結びつきを示した独オーストリアの合同研究チームによる調査結果は、まさに映画『インディ・ジョーンズ(Indiana Jones)』を地で行くような話だ。

 鉄分を多く含む岩石で作られていることから「アイアンマン(Iron Man、鉄の男)」と呼ばれるこのチベット仏像は、動物・民俗学者エルンスト・シェーファー(Ernst Schaefer)が率いるSS探検隊がドイツに持ち帰ったもの。

(c)AFP 2012年09月27日 12:04 発信地:パリ/フランス 引用
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2904113/9587885?ctm_campaign=txt_topics


この像を見て、隕石って意外に加工しやすいんだなと思いました。
鉄を多く含んでいると書かれているのをみて、
古代人が隕石から鉄を取り出したというのも、あり得るんだと思った例でした。


<蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という>
これについて、他の所に椿の種に例えた話が出て来ます。

c0222861_2334273.jpg

これは庭の椿の実の今朝の状態です ^^ グッドタイミング ♪
赤い椿の実は、熟すと皮が三つに割れて、中から三つのクリが出て来ます。
これが「ササクリ」のイメージです。

「蹈鞴の産物の金石」も「山頂の三石」も同じように「ささくり」と呼ぶ理由について、
真鍋は次のように考えました。

<太陽の至近距離を巡って朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を、
蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない>


水星が朝見える時には、太陽に近いので次第に光を失います。
その様子と、燃え盛る炎の中にポツンと生じる金と重ね合わせているのではないだろうか
という意味でしょうね。

(つづく)


アイデアをくださいな。
<数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである>の「風姓呂氏」が分かりません。


コメントとメールをくださった方へ。
少し返事が遅れています。待っててくださいね。




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by lunabura | 2015-05-12 22:46 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(13)

八幡の謎(3)風姓呂氏


八幡の謎(3)

風姓呂氏

前回、分からなかった「風姓呂氏」について、コメントで教えていただきました。
助かりました (^o^)/
関連する部分だけ、掲載させていただきます。

桜もちさんより。
「風姓呂氏の頃から知っていた…」とは、呂不韋の『呂氏春秋』のことを指しているのでしょうか。
内容に関しては殆ど無知なのですが…当時最高水準の百科事典だと始皇帝関連の本で読んだような…。
記憶が曖昧なのでスルーして下さい…。

いえいえ、スルーできませんぞ。
私も、たまたま資料を見ていたら、『呂氏春秋』が出て来たので、
これかも!と思ったところでした。
秦の始皇8年(紀元前239年)に完成したそうですね。

こんばんわんさんより。
風氏呂氏は「古代中国(春秋時代以前?)」といった意味ではないでしょうか?
風氏は中国建国神話に出てくる有名な女禍などが風氏であったとあります。
呂氏は桜もちさんの言う春秋時代の呂氏(秦の宰相)などしか私も思い浮かびません。。。

 参考:『中国姓氏事典』
「上古、三皇の一人伏羲氏(太昊)がこの姓を伝えた。また女媧氏も風姓であり、
春秋時代、宿、須句、顓、臾等四国を治めた者は、すべて風姓を名乗ったという。」

 ちなみに、私もにわか勉強してみたところ、この風氏はシュメール人の風の神「エンリル」に通じるものがあり、エンリルの神の秘数(トーテム)は「50」だそうです。

このエンリルも黄泉の国に行かされたり、戻ったりしており、日本の神話との相似性も伺えます。また、シュメール人の暦(古代バビロニア)は、日本との旧暦と似ている点があるそうで一日は日没から始まるそうです。

日が暮れて政務をしていた古代日本もそうだったのかもしれませんね。

なるほどですね!
興味深い話ばかりです。女媧(じょか)に姓があったとか想像もしませんでした。

女媧とは。

中国神話の女神。半人半蛇の姿。伏羲の妹であり、夫婦であるという。三皇(伏羲、女媧または黄帝、神農)の一人。

女媧は伏羲のあと王になった。人間を土(黄土)から創ったという。はじめは丁寧に、疲れてくると縄を泥につけ、ぐるぐる回し、泥がはねて人間になったという。できの良い人間と悪い人間の差はこのせいだという。
http://www.jiten.info/dic/asia/joka.htmlより

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伏羲(ふっき、ふくぎ)
二人の持ち物を見てください。コンパスと定規を持っています。
周囲にあるのは星座ですね。時代は古いぞ。
兄の伏羲の方を調べてみました。

伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi、紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。

三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(凤)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、中華民族人文の始祖として崇拝されている。  wikipedia





これで時代が分かりました。
春秋時代は紀元前771年~前403年。
風姓の時代になると紀元前3350年~紀元前3040年。

この時代の技術。金星の和名の再掲です。
c0222861_2218363.jpgc0222861_22185728.jpg


これは鐘ですが、左が紀元前9世紀のもの。右が紀元前3世紀のものです。
左の物とか、女媧より古い (@_@;)
古代の技術はどうしてこうも高度なんだい。

なるほど、真鍋大覚もこれを背景にして、風姓呂氏を古代中国という意味で使っているんですね。

それにしても、のらさんのコメントに、「黄帝社が須佐にある」とあったのも、
気になります。
須佐は良く読む作家さんの本の中に広島の三次を囲むように三角形が出来る拠点の一点が須佐の高山と言う事で興味を持っていた位です。
高山は昔は『神山』と言われていたらしいですね。
黄帝社なる神社があるそうですが、ココも神様の変換があったようです。

黄帝という名前は日本的じゃないので、どうしてこんな名が?
と気になったのです。
そうしたら、上で引用した中に、
三皇とは「伏羲、女媧または黄帝、神農」とあるではないですか。
祭神は誰だろう。

気になるシンクロニシティですね。

さあ、とりあえず、これで続きを読む準備ができたぞ。^^v





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by lunabura | 2015-05-12 22:45 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(0)

八幡の謎(4)八幡とは星占なり


八幡の謎(4)

八幡とは星占なり


前回、文中の「風姓呂氏」が伏羲と女媧の時代~春秋時代を指していることを確認しました。
それを踏まえて真鍋大覚のつづきを読みましょう。p68

占星術は春秋の頃、すでに王室で主に君子の運命をはかる方策であった。晉代(265~420)続いて魏代(220~265)には毎晩の星座をみて、くる日くる日のなすべき仕事を案じていた。

倭人は(占星術を)唐代(618~975)には辰方(しょうほう)、宋代(960~1179)には正法(しょうぼう)とよんだ。貴族のいわゆる方違え(かたたがえ)なる訪問の道順、旅程にはすべて辰位(=星)によって選んだのである。

称徳帝(718~770)と弓削道鏡(712~772)の真意を糺す(ただす)べく和気清麻呂(733~799)は宇佐八幡宮に下向した。葛城一言主(ひとことぬし)は星占の祈祷を特に濫用して、事あるごとに平城京を譎詐権謀(きっさけんぼう)の渦中に入れ、多くの氏族をたがいに殺戮させていた。

その頃の宇佐は、日本における世界教の中枢的存在として日本の国運を太宰府の背景のもとに客観的に展望していた。

昭和16年(1941)大東亜戦争の可非をめぐって羅馬(ローマ)法王に特使を派遣する提案が下された事実は、まさに天平の昔によく対応するところである。


紀元前3000年以上前の「伏羲と女媧」の絵には定規とコンパスと星座が描かれていましたね。
古代中国では占星術は王室で使われ、倭人はそれを辰法、正法と呼んだそうです。
日本の貴族の方違えが星占いで決められていたとは想像もしませんでした。

宇佐八幡宮に和気清麻呂が来たのは、弓削道鏡の件のためですが、
文脈からは、その当時、平城京でも占星術が行われていたという事になります。
葛城一言主が星占いをしていたというので、「一言主大神」をネットで調べたら、
賀茂氏なのですね。八咫烏。

賀茂氏といえば、製鉄の技術を持っていましたが、製作するのは主に農具などでした。
その賀茂氏が、占星術の知識もあって、平城京で濫用していたというのですから、チョー驚きです。

奈良では渡来人たちが各地に集落を作ってバランスを保っていたのでしょうが、
互いに殺戮させていたとは。
何だか、小説のネタになりそうな…、新情報です。

その頃の宇佐もまた占星術が行われていて、国際性を失わずにいたと解釈できますね。
昭和になって、大東亜戦争の可非をめぐってローマ法王に特使を派遣する提案を下した件が、
奈良時代と対応するというのですから、
宇佐が特別な立場を保ち続けた背景を垣間見る思いです。



次は「磯城星(しきのほし)ヘラクレス座 ラス アルゲーチ星」
の所に出て来る文です。   『儺の国の星・拾遺』p69

八幡とは星占(からまに)、すなわち辰方(しょうほう)のことであった。
(略)
八幡の神術は人類の歴史と共にはじまり、八百万の星の数だけあったはずであるが、今はその全容を知る人はない。そして、八幡信仰の発祥や由来を唯物弁証法的に解明する学者はいない。


ずばり、八幡とは占星術のことだと言います。
宇佐が謎めいて見えるのも、このような背景があったのを、
私たちはどこか深い所で感知していたのでしょうか。
それは日本人の集合意識の深みで感知するような感覚です。

この話を読んで、ああ、そうだったのかと、どこか腑に落ちるのが不思議です。
皆さんも、そうではありませんか?



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(宇佐神宮)


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これは宇佐神宮の境内にある弥勒神宮寺あとです。
写真に写っている説明板を写します。

弥勒神宮寺の成立
宇佐神宮関係の史料によれば、725年に八幡神を現在の小椋山に遷した時、東方の日足の地に弥勒禅院を建てたことが記されています。
(略)

八幡神の成立
八幡神は応神天皇のことであり、西暦571年に宇佐の地に現れたと伝えられています。朝廷が編纂した「続日本紀」にはじめて登場した737年以降、八幡神は中央政府との関係を急速に深めていきました。

そして、740年に聖武天皇が進めた東大寺大仏建立に協力する託宣(おつげ)を行うなどの功績があったことから、国家神としての地位を持つようになりました。

やがて八幡神の託宣は朝廷から庶民にいたるまで広く信頼されるようになり、769年の道鏡事件でも大きな影響力を示しました。


この託宣を占星術の結果と読み替えると、なるほど、よく当たるはずだと思っちゃいました。


(つづく)




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by lunabura | 2015-05-12 22:44 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(6)

八幡の謎(5)八幡は太白暦だった


八幡の謎(5)

八幡は太白暦だった

今日は、『儺の国の星』「羽白星(金星)」p175より。(一部改変)

八幡の由来について、昔から今に至るまで国学者は誰一人語りません。八幡とは太白暦の氏上(うじのかみ)でありまして、金星暦五年が太陽暦八年に満つ ところからその名が付けられたとの口碑がありました。

春秋左氏伝昭公十(前541)年から数えて暦数の大貳(たいに)千二年後の雄略帝6(462)あたりから八幡信仰が豊後宇佐の地で一斉に勃興しました。八幡の祠大月氏族の礼拝堂、霊廟あるいは耶蘇の教会の類を、後の人が神社に祭り上げたとこのことです。

なお採金錬金のところを馬上(まかみ)とよんでおります。豊前宇佐にその地名が残っております。後には宿場町として江戸駒込(こまごめ)のようになりました。※1


<八幡とは太白暦の氏上(うじのかみ)>である
「太白暦」とは金星暦のことです。金星暦といえば、マヤ暦が有名ですね。

「氏上」とは「古代における氏のかしら。氏を代表して氏神をまつり,氏人や部民・奴婢などの私有民をひきいて朝廷に仕えた」(学研キッズネット)

これらから、「八幡とは金星暦を持つ氏族の族長だ」ということになります。

<金星暦五年が太陽暦八年に満つところ>
私たちは太陽暦なので、一年は365日ですが、金星暦の一年は584日です。
太陽暦の8年と金星暦の5年は奇しくも同じ日数になります。
      365日×8年=2920日。
      584日×5年=2920日。
「八年に満つ」→「八 満つ」→「八満(まん)」→「八幡(まん)」と変化したというのですが、
これは金星暦でない人がそう呼んだということになりますよね。
太陽暦族とか太陰暦族が金星暦族をそう呼んだというのでしょうか。

この金星と太陽の現象を「五條八旗」と言ったそうです。

これについては、『儺の国の星』P241に書かれていました。

太白暦の五歳と太陽暦の八年は一致する。これを昔は五條八旗といった。後の方を八歳(はっせい)と写して八旌(はっせい)、あるいはその意を還して八幡と書いた。胡語のbag(バン)を倭約したものとみえる。

八旌の「旌」は「旗」という意味です。少しずつ言葉が変化するようすが分かります。
(こんな言葉が生活に関わる古代人って、なんだか想像つかない…よ)

更に天神八幡の信仰が合体すると、天満なる言葉が舟の集う湊の祠の在所の地名にあてられるに到った。

天神さまといえば、菅原道真公のことですよね。
天満神社がときおり摂社として見かけられるのですが、天神と八幡の合体なんですか。(驚)
「太宰府天満宮」とか、天神信仰に八幡信仰も重なっているということ?
(今は言葉の理解で必死です)


さて、冒頭の文に戻り、※1の続きを写します。

春秋左氏昭公十(前541)年から数えて暦数の大貳(だいに)千二年後の雄略帝(462)年あたりから八幡の祠は大月氏族の礼拝堂、霊廟あるいは耶蘇の教会の類を後の人が神社に祭り上げたとこのことです。

う~む。
文脈からは、八幡の祠とはもともと大月氏の礼拝堂やキリスト教の教会の形式だったのを、
神社の形式に変えて行ったということですよね。
つまり、八幡の祭祀はもともと大月氏やキリスト教の教会の形態だったということです。
(頭がヒートしそう)

大月氏と月氏を調べるか。

【大月氏】
匈奴(きょうど)に追われて西遷し、バクトリア(大夏)を支配した月氏の主力。のち、この地方に起こったクシャン(貴霜)朝をも中国では大月氏とよんだ。→月氏

【月氏】
中国の戦国時代から漢代にかけて、中央アジアで活躍した遊牧民族。民族系統は不詳。前3世紀ごろモンゴル高原の西半から西域、甘粛西部にまで勢力をのばしたが、前2世紀ごろ匈奴(きょうど)に追われ、主力はイリ地方へ、さらに烏孫に圧迫されてアム川北方へ移動し、大夏を征服して大月氏国を建てた。黄河上流域に残ったものは小月氏という。       (コトバンク)


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これはその当時の地図。(ウィキペディアより)
左上に「月氏」が書かれています。遊牧民族だけど、民族系統は不明…か。

今回の分をまとめると、
八幡の氏族は北方中国の遊牧民やキリスト教会の祭祀形態を倭国に持ち込んでいたと解釈できますね。
確かに、渡来人たちは自分たちの宗教を持って倭国に来る訳ですが、
5世紀ごろまでは、独自の形態を保ち続け、その後神道式に変化しということになります。

金星暦を持ちながら、倭までやって来た八幡族。
彼らは宇佐で星占いをして、倭人の心を掴んで行きました。
(つづく)




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by lunabura | 2015-05-12 22:43 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(2)

金星の和名(2)金星暦とミネルバ

金星の和名(2)
金星暦とミネルバ

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                  (http://www.nationalgeographic.co.jp/より)
今回押さえておきたい金星の特徴は?
  金星は月のように朔望(満ち欠け)がある。
  太陽暦の一年は365日。金星暦の一年は584日。
それでは眞鍋大覺氏の本の抜粋のつづきです。(改変しています。)
金星が三日月に見える日を年始めとする暦法があった。金星の周期は583.916日(約584日)で、金星暦の満1年は地球の1.59871年である。

この暦法はかつて地中海のエトルリヤ民族が完成させたと聞くが、ローマ人によって喪失した。今は中米のマヤ民族の遺跡がわずかに語るだけだ。

マヤの金星暦は有名で、2012年の12月で地球が終わるような終末論が出ていますが、
疑問に思っています。
このマヤの金星暦が紹介され始めた頃は
単に天文の知識を証明するものとして挙げられていましたが、時間が経つにつれて、
おヒレがついて、終末論に変化して行きました。

暦にはかならず年末の日があり、マヤンカレンダーにも末日があります。
末日が終われば翌日は元日です。
マヤンカレンダーも暦なので、淡々と次の周期に入るだけではないかと思うのですが。

話がそれちゃいました。もとい!

金星暦は地中海のエトルリヤ人たちが完成させたという事なので、
彼らの時代を調べると紀元前8世紀から紀元前1世紀でした。
日本なら弥生時代ですね。
(弥生時代は紀元前10世紀からと最近なってます。)
彼らは海の民だったそうです。

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写真はエトルリアの陶棺です。教科書で見ますね。
テレビでもあっていましたが、心の豊かな暮らしをしていたようです。
エトルリア人はローマ人に同化されて行きますが、
金星暦は完全に消滅した訳ではなく、人々の流れと共に東へと向かいます。

さて眞鍋氏の本では、金星の話もあちこちに散らばっています。
金星を、暦日を決めるものとして、月に準じて拝んだ民族がいた。新大陸のマヤ民族は有名だが、旧大陸ではエトルリヤ民族がそうだった。

金星を女神化したのを「ミネルバ」と言い、その美しい姿を彫刻にしたのがポンペイの「ビーナス」だ。一見して体つきがローマ人とは異なり、むしろ東洋人に近いことに注目せねばならぬ。双六の賽は彼らが観天望気を判断する最後の手段に使っていた。

ミネルバは元来は「金工の技芸の女神」だったが、やがては「染色織物の女神」ともなって、女人が腕が上がるように拝んだ。日本の西海では昔から皆形(みなかた)御名方(みなかた)と言って崇めていたから、ミネルバの倭名かもしれない。

頼山陽が「天草に泊まる」という詩の一節に
 太白船に当たり  月に似て明らかなり
とあるのは、その頃まで金星を月と同格に祀る民族が天草にいた事実を賦したものだ。
金星と言えば「ビーナス」ですが、そのもとは「ミネルバ」なんですね。
眞鍋氏の本にはこのミネルバの豊かなひだを持つ衣裳の話がよく出てきます。
夜空に輝く星たちの光のうねりと重ね合わせたのでしょうか。
左の写真はミネルバです。(wikiより)

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右は「ミロのヴィーナス」です。
(レプリカなので、顔が本物とは違います)
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もともとは「金工が祈る女神」だったのが「織物の女神」に変わりました。
日本でも西海で金星を「みなかた」と言っていたのは
「ミネルバ」が語源ではないかと考えてあります。

「みなかた」の女神と言えば「むなかた三女神」を連想したのですが、
「むなかた」の女神は「水の女神」ですから、同じなのか、違うのか、
まだ探究していかなければなりません。

頼山陽が天草地方で詠んだ詩は
「金星の光が水に反射して船に当たる様子が月のように明るい」
という美しい光景です。とても静かな水面のようすが伺えます。
ここに金星と月を祀る民族がいたことを反映していると氏は言います。

日高見星 ひだかみほし
金星を「日高見星」と名付けていた。
「日が高い時に見える星」―白昼に星光が見える事からついた名である。

日本書紀の景行紀に日高見国の名が出てくるが、今の陸奥北川(きたかみ)および蝦夷日高の地である。昔は金星暦を守った民族がいたのかも知れない。耶蘇教伝来以前の景教の伝説の多い地方である。
太白小白を木菟子(つくし)ともよび、「にとこ」とも読んだ。これが「ひたか」に転じたのかもしれない。
耶蘇教とはキリスト教。
景教とはキリスト教のネストリウス派で、異端とされていました。
景教は唐での呼び方で、大秦寺という教会が建てられています。

地名や神の名の痕跡から、日本にキリスト教が正式に伝来する以前に
東北や長崎あたりに景教と金星暦が入っている可能性を示唆しています。
(つづく)







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by lunabura | 2015-05-03 08:33 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(4)

金星の和名(3)ゆふづづ、ゆばりほし


金星の和名(3) ゆふづづ、ゆばりほし

清少納言(964~1924)の枕草子に
 ゆふづつ ゆばりほし
とあるのが金星の事である。
この星の名前は両方とも金星を指しているんですね。
それぞれに由来があるので、一つずつ見ていきます。
(内容が少し難しいので枠の中をパスしても大丈夫です。)

1金星が夕方に出る事から付いた名
ゆふづつ 
太白(金星)を「ゆふづつ」という。一番星は「宵の明星」のことであるが、この星が夕空に最初に輝く時期は、又朝空に暁の明星の姿を見上げる時期でもある。

昔は「あさづつ」の名もあったがついに消えた。今わずかにその名残を面影をとどめているのが、未だ夜の明けやらぬ時刻を「つと」と言い、「夙」と書く例である。

星は夜の代表である。従って朔初を重くみる暦法が普及するにつれて、いつしか一番星の観念だけが固定し、平安の世に入ると、「ゆふつつ」だけが取り残されることになった。

しかし、別の見方をすれば黄昏、即ち夜の始めこそは、来たるべき翌日の昼の初めなりとする式例が日本の民族の大半に守られていたことは事実であった。
金星は夜明けに出ると「あさづつ」、日暮れに出ると「ゆふづつ」と
呼び分けていたけれど、「ゆふづつ」だけが残りました。
「ゆふづつ」の方が注目されたのは
「夜」を「一日の始まり」とするようになったからという事です。

一日の始まりはいつか?
古代には、日没を一日の始まりとする氏族と
夜明けを一日の始まりとする氏族がいました。
それぞれのルーツが違うためです。

それでは現代人は?
私たちは一日の始まりを「夜中の0時」としていますね~。

いったい何の根拠で決まったのでしょうか。
よく考えると不思議な事です。

古代には
「日の出」を見て「一日の始まりだ~」と思う氏族と
「日の入り」を見て「一日の始まりだ~」と思う氏族がいた。

そして2012年。
元旦の日の出を見て「一年の始まりだ~」と思った人は前者のタイプかな。

眞鍋氏の文章は難しいけど、繰り返し言葉にするとあでやかな光が見えて来ます。
今回は研究したい方のために出来るだけ単語を残しています。

2「ゆばりほし」は弩(ど)の形状から来たもの。
私はかつて、枕草子の「ゆばり」は「尿」だから「彗星だ」と
習った気がするんですが…記憶が薄れました。

眞鍋氏は「ゆばり」は「弓張り」からだと伝えています。
これなら清少納言も平安のお姫様に読ませられるな…。
弩星(ゆみはりほし)石見星
朔望の光環を描写した名である。又の名を石見星という。石弓を張った形に見立てたのであるが、石見(がらみ)とは熔金の品質を鑑別する名人のことであった。なお「がら」とは星の胡語でもあった。

ゆみのほし
呂昧(ゆみ)又は盧微(いび)と書いていたらしい。
いずれも爐(ろ)の火加減を調整する達人のことであった。筑紫では特に呼子(よびこ)と俗にいっていたらしい。金星が盈虚(えいきょー満ち欠け)を繰り返す姿にあわせて風雨の有無を慎重に見はからっていた姿を思い出させる。
弩(ど)は勉強したばかりでした!(サイドバー → 弩)
金星が満ち欠けするので、その形から弓張りという名が付いた訳です。
金や鉄の工人たちは金星を観察して雨風を予測し、
少しでも品質がよいものを作ろうとしました。
そしてその暮らしの中から、いろいろな言葉が生まれました。
佐賀県の呼子(よぶこ)という地名も工人の言葉だったんですね。

ところで、金星の満ち欠けを肉眼で見える人いますか?
私は視力が悪いので、想像もできない世界です。
     (つづく)



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by lunabura | 2015-05-03 08:32 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

金星の和名(4)三本足…鼎と八咫烏の謎


金星の和名(4)
三本足…鼎と八咫烏の謎

今回は難問なので、皆さん一緒に謎解きして下さい。
金輪星 かなわほし
羽白星の別名を金輪星という。日の中に三つ足の烏が紅唇火をはき、以て世界を照らすと信じており、これを象徴して日暦を掌る天子の祭器としました。
どうですか?
「太陽の中に三つ足の烏がいて赤い口から火を吐いて世界を照らす」って
八咫烏の事ですよね。
それを象徴したものが「太陽暦をつかさどる天子の祭祀用の器」だというのです。
天子といえば中国です。中国の器で三つ足と言えば鼎(かなえ)です。
すると、殷の鼎は八咫烏と同じように世界を照らすという天子の象徴?

鼎―かなえーかなわー金輪と変化して、金星を金輪星と呼んだ氏族がいたとなります。
これを氏は金星と書かずに羽白星と書いています。
氏は何を言いたい?

ここで思い出す絵があります。高句麗壁画です。
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写真は中国にある高句麗壁画「集安5塊墳4号墳」の壁画に描かれた八咫烏です。
円は太陽です。太陽の中の黒い烏とは黒点の事です。黒点は飛鳥とも呼びます。


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これは同じ壁画の「燧(ひうち)の神」です。右手に火を持っています。
ヘアースタイルから女神だと思っています。その顔は兵馬俑で見かける顔に近いですね。

近東では火の加減を未婚の女性が扱う事になっていたそうです。
オリンピックの採火の儀式で神殿の女官が行っているのもその名残です。


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これは鍛冶の神。
右手に金づちを持って鉄の道具を作っています。
髪を頭頂でまとめるのは男性のヘアースタイルです。
この古墳の被葬者は「八咫烏と鍛冶の神々」を信奉している氏族だと分かります。
被葬者は6世紀に生きた人です。

それで思い出すのが日本にも八咫烏が神武天皇の時代に出て来る事です。
神武天皇は紀元前の人ですから、八咫烏は日本の方が古い事になります。
その謎については「高句麗壁画(1)」で考察してみましたが、
簡単に書いてみます。

中国の北部に「一目国」という冶金の民がいるので、
その一部が日本にまでやってきて、
残りは地元に留まって高句麗を建国したのではないか。
そうすれば日本の方が古い理由が説明できるのではないかと仮説を立てました。
高句麗壁画(1)
http://lunabura.exblog.jp/15054896/


そして「金輪星」の話に戻りますが、八咫烏に加えて新たに鼎の話が出て来ました。

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鼎は殷の時代のもので、
煮炊き用から権力者の器に昇格しています。

こうして鼎も八咫烏も三本足ですが、
私にはそのつながりが分からないのです。



いったい何だ?と思いながら本を探すと別の部分からこんな文も出てきました。
太陽の黒点、即ちサイゲリヤに移住したケルト民族の三つ趾の烏は、正しく28日の周期で現れることを知っていた。殷人は28日を一ヶ月、一年を13ヶ月と定めた。
殷人は太陽黒点の周期を知っていて、1年を13ヶ月で計算していた!
(マヤンカレンダーと同じですね!)
氏の文が理解しにくいのは、何度か書きましたが、
途中で失明されたために口述筆記になっているためです。
ですから誤植もあって、とまどう所も出て来ます。

この文を読むと三つ足の烏(八咫烏)はケルト民族の象徴となります。
太陽の黒点を指していて、
殷人はその28日周期を観測して暦にしていたという事です。
ケルトと殷人とどうつながるのだろうか?

金星暦と太陽黒点と八咫烏と鼎
ケルト、エトルリヤ、殷の天子、羽白。金工たち。

新たなピースがいくつも出て来たのですが、皆さん、これをどう嵌め込みますか?

新年そうそう、気になる謎が生まれました。
何かアイデアがあれば教えてくださいませ。

さて、金星には他にもたくさん呼び方があるのですが、
また別の機会に学ぶことにして、そろそろ神社の伝承に戻る事にします。

高句麗壁画(1)
http://lunabura.exblog.jp/15054896/





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by lunabura | 2015-05-03 08:32 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(12)

(10)姫古曽神社3 彗星の化身・市杵島姫

佐賀県東部(10)

姫古曽神社3

彗星の化身・市杵島姫

荒ぶる姫古曽神の名が市杵島姫だったとは。
驚かずにはいられない。

実は、真鍋からの引用でよく分からなくてスルーした部分があります。

それは(6)媛社の鄕「荒ぶる神」で引用した文です。前回、触れなかった一文を赤字にしてみます。

姫子星(きしのほし)
 肥前風土記 基肆郡姫社の鄕の条に曰く
珂是古、即ち、幡を捧げて祈祷みて云ひしく、「誠に吾が祀を欲(ほ)りするならば、此の幡、風の順(まにま)に飛び往きて、吾を願(ほ)りする神の辺に堕ちよ」と。

太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。
 (略)
 彗星は最初にその姿をみせる所は、水平線に近い赤道上空である。倭人は彗星を大気都比売(おおげつひめ)とよんでいたかと思われる。「おほ」は長大と同時に形だけでなく、人間の呼吸、即ち「いをき」と通ずるところから伊吹星(いぶきのほし)とも呼ばれていた。
 (『儺の国の星拾遺』p78 姫子星)

今回は
「太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。」を解読したいと思います。

「太宰府から見るとこの中空あたりに彗星が出てくる。」という文は、真鍋の祖先が太宰府の天官であり、常に太宰府から天体を観測していたことを意味し、基肆郡はそこからは南に当たるという地理関係を理解する必要があります。

南の空低く現れるのがカノープスでした。気象を占うのに、カノープスの出現は洪水の前兆を示していました。

しかも、76年に一度の彗星が姿を表すと、夜な夜な角度を変えながら拡大し、カノープスの光を隠す時、古有明海(中つ海)は荒れ狂うのでした。

その彗星を姫子星と呼んだ人たちがいました。またオオゲツヒメと呼ぶ人たちもいました。オオゲツヒメの長く白い尾を見て、冬の白い息を思い浮かべる倭人だったのでしょう。


「宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、」
という部分は三女神が剣を三つに分けて噛んで吹き出した「息吹」から生れた神々ということを示しています。

剣というものは細長く白々としているので、彗星を見て剣と息吹を連想する人もいたということです。

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これを見て、女性の下着を思い浮かべるか、幡を思い浮かべるか、白い息を思い出すか、白い剣の刃(やいば)を思い出すかで、呼び方が姫子星、風子星、息吹星と変わったということでした。

『日本書紀』には三女神が生まれたのは十握剣に限らず、九握剣、八握剣から一柱ずつ生れたとする神話も紹介されていて、驚いたことがあるのですが、彗星の姿の象徴だったと考えると、ナルホドですね。

「宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、」
という一文は、三女神が彗星の象徴で、紀元前903年に既に観測されたということを示しています。

紀元前903年。
これもまた、物部氏にとっては引照とする年だったのでしょう。

「いちきしま」姫(市杵島姫)の語源は「斎く」(いつく)から来ているとするのが一般的ですが、それでは三女神が剣から生まれたことを説明できません。

剣のように冷たい白い輝きの彗星が爆発して三つに分かれて飛び散った時の輝きを神格化したのが三女神だとすると、神として崇められ、荒ぶる神として畏れられた理由を良く説明してくれます。


これまでの女神像、何だったのかと思ってしまいました。

市杵島姫とは彗星のことで、その白く長い輝きを冬の白く吐く息になぞらえ、息吹の女神として畏れられた女神でした。この原形を良く伝えるのが姫古曽神社の荒ぶる神だったということになります。

星の名をつけた人物がいます。
例えばシリウスの名をつけたのが安曇の長・磯良。
彗星の名がついたのが市杵島姫。
ちなみに獅子座流星群は稲目星と呼ぶそうです。そう、蘇我稲目もまた星の名前が付けられた人でした。


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◆ 『神功皇后伝承を歩く 下巻』が天神エリアでもうすぐ店頭に並ぶそうです。帯の色が二種類あり、古代の朱色と山吹色のものが出ているそうです。画像と印象が違うので、びっくりしないでくださいね。

また、予約の方からは到着したという連絡がそろそろ届いています。ありがとうございます♪


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by lunabura | 2015-04-15 20:25 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)

スサノヲ(1) カノープス 諏訪星


スサノヲ(1)

カノープス 諏訪星
 
カノープスは地平線すれすれを通るため、めったに見られない星ですが、
それを見たら長生きできるということで老人星と呼ばれています。

そのカノープスをスサノヲに例える古代の文化がありました。

スサノヲはアマテラスとツキヨミの弟神。
アマテラスとツキヨミは目から生まれ、スサノヲは鼻から生まれた。

空ではカノープスは太陽と月に比べてずっと下の方を進んだ。
そのカノープスはナイルの氾濫を告げる星、スハヒル星(諏訪星)だった。

スサノヲは佐太大神、諏訪大神、草木の神、蹈鞴の神。雨風の神。
(諏訪大社の祭神とは違っています)

マミさんがスサノヲに御挨拶に行かれたということが心に残り、
過去記事から真鍋大覚のスサノヲ関連をまとめてみました。

古事記神代記に曰く、
天照大御神に「そなたは高天原を治めなさい」と言ってお与えになりました。次に月読命には「そなたは夜の食国(おすくに)を治めなさい」と言い、次に、建速須佐男命には「そなたは海原を治めなさい」と言われました。(るな訳)

月と星は夜に光を相争う存在であったから、月読命と須佐男命の永遠の仲違いは当然であった。

目は眼窩のなかで自由に動いても音はない。しかるに、鼻はイビキと鼻水を出し入れする。そのかしましい音を古人は「星、風を好むあり。星、雨を好むあり」の諺に則して、世の中に災いを残した須佐男命に見立てたのである。

そして、更に佐太大神或は諏訪大神の別称を奉って草木の神、或いは蹈鞴の神と祭ったのである。

日月が天空を通る道筋を黄道、白道と言う。鼻は目より下にあるから、古事記の須佐男命は地平線を徘徊する運命を背負わされた諏訪星、或いは大陸の言う老人星Canopus(カノープス)即ち雨風を司る神のことになる。

蒼穹の中枢たる北極星には永久に月日に隔てられて近づくを得ぬ存在であった『儺の国の星』「根堅洲国」p26
イザナギの禊から生れた三貴神。
アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ。
アマテラスとツキヨミは目から生れましたが、スサノヲは鼻から生れました。

スサノヲが音を出す鼻から生れたことと
カノープスが雨風を司る神だということと重なっていました。


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志賀島 伊邪那岐の禊の場




サハラ沙漠の遊牧民族は、南の地平線の彼方にスハヒルの光芒を見出すと、たちまちにして駱駝と共に高所に居を移す。満々たるナイルの洪水が氾濫するからである。

スハヒルは水魔の象徴であった。そして永遠に天極から見放されて、大地の果てを放浪する運命を背に負わされた呪われた星であった。

何故に過去の宿業に悩まされているのか、近東の神話はその理由を語らない。しかしその鬱積した憤まんが天地晦冥(かいめい)のなかに暴水と怒涛をもって人類を漂没する悪神として敬遠されてきた。

前二十六世紀および前三十八世紀の二度にわたるノアの洪水も又、スハヒルの為すところと信ぜられている。
ナイルの氾濫を知らせる星としてはシリウスが有名ですが、
カノープスもまたその時を告げる星でした。
シリウスとカノープスは同じように南に出ます。

しかし、シリウスは道しるべのように天高く夜空を渡るのに対して、
スハヒル(カノープス)は地を這うように進んで、すぐに沈んでしまいます。

しかも、その星が出ると人々は肥沃な土地を捨てて、
水から逃れる旅に出なくてはなりませんでした。

自分たちの情けない姿とスハヒルの鬱屈した姿を重ね合わせたのでしょうか。
スハヒルは呪われた星という宿命を背負わされました。
日本神話でも同じ宿命を負った神がスサノヲでした。

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『古事記』神代記にいわく、
(こうして、それぞれがお言葉に従って、授けられた国を治めておいでになる中で、)スサノヲの命は授けられた国を治めないで、ヒゲが胸のところに伸びるまでひどく泣きました。その泣く様子は、青い山は枯れるまで、川や海は干上がるほどでした。そのために、悪い神の声はハエがワンワンとたかるように満ちて、いろんな災いが起こるようになりました。

そこで、イザナギの命がスサノヲの命に尋ねました。
「どうしてそなたは授けた国を治めないで泣きわめくのだ」
「わたくしめは亡き母の国、根の堅洲国に行きたくて泣いています」
とスサノヲの命は答えました。すると、イザナギの大神は大変怒って言いました。
「それなら、そなたはこの国に住んではならない」
と言って、そのまま追放されました。(るな訳)

須佐男命はまさにスハヒル即ち諏訪星を神格化した存在であったかもしれない。天照大神は日神であり、月読命は月神であり、そして須佐男命は星神であった。遠い祖先が人間の生活に時間の区切りを教える空間的存在の一つであった。星暦は今はない。 
『儺の国の星』p78
スサノヲは父から追放され、姉からも追放されます。
ナイルの氾濫を告げるスハヒルと、ナイル河畔から出て行かねばならない人々。
そして追放されるスサノヲ。すべてが重なるのですね。

毎年の洪水のために、ナイル流域の人々は家を建てることも出来なかったことでしょう。その地を捨てて東を目指した集団が出た理由はここにあったのかも知れません。






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by lunabura | 2015-01-26 20:20 | スサノオ | Trackback | Comments(0)

「阿知女作法」と磯良のつながり


「阿知女作法」と磯良のつながり


志賀島での質問に、「阿知女作法」に関するものがありました。

まずは、阿知女作法について、Wikipediaを見て見ましょう。
阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう、等々)とは、宮中 及び神社等で歌われる神楽歌の一つ。本来は、神の降臨を喜び、神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文。

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)、お~けー(一度)のフレーズを阿知女作法と呼び、これが2組(本方・末方)に分かれて唱和される。

神楽歌は、庭燎(にわび:夜の準備)、採物(とりもの:神迎え)、前張(さいばり:神祭り)、明星(あかぼし:神送り)の段階に大きく分けられるが、阿知女作法で有名なものは庭燎の後に、また、採物、前張 等でもフレーズを変えて繰り返される。鎮魂祭の歌(下記)にも使用される。
平安中期には儀礼として完成していた。延喜末年頃に譜の統一が行われている。


これは検索すると動画で、神楽演奏を視聴することができます。

詞は「あちめ」「お~」だけの神楽ですが、
神秘的で遠い世界に呼ばれるような趣の演奏です。

Wikipediaでは、「あちめ」=「安曇磯良」説を紹介しています。
「あちめ」とは、男神と考えられている安曇磯良を指すといわれ、「お~お~お―」とは、安曇磯良が返答している声との説(太平記等)がある。しかし、後世に当て字したものだろうか、「阿知女」と、「女」の漢字がついており、詳細は不明である。また、「うずめ」の転訛との説もある(愚案抄)。
「あづみ」という言葉は次のようにさまざまに変化しています。
アヅミ
アドべ 
アドン    
アントン(アンドン)
アド 
アジム
アヅマ 
アヅチ
アツミ
アヅサ

「あちめ」もその一つと考えられます。

また、「うずめ」と解釈するのも、連想できるものがあります。
それは、志賀島に、磯良だけが「アメノウズメの舞」を舞えたという伝承が
あるからです。

これは、神功皇后が志賀島の勝馬まで出かけた時の話です。
神功皇后が側近を連れて、志賀島の北端まで行ったのは、
安曇の祖神即ち皇神たちに参詣するためでした。
ところが、肝心の磯良が来なかったのです。

それでも天の岩戸の神楽を奏上しようとすると、
アメノウズメの舞を知る者がいませんでした。
「磯良なら知っている、演奏していれば必ずやって来る」という話になり、
磯良抜きで神楽を奏上していると、
やはり、志賀の皇神(磯良)が金の亀に乗って舞いながら登場したという話です。

ですから、磯良の舞う神楽にはウズメの舞が含まれているのです。


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(その現場・志賀島大戸小戸)


さて、紹介した話の中で磯良を「志賀の皇神」(すめかみ)と表現しています。
「皇」は皇統にしか使えない文字なので、安曇族の立場を考えるのに大事な表記です。
何故、「皇」が許されるのか。
それは安曇族が神武天皇の祖先に当たるからです。

そう、神武天皇の母・玉依姫は安曇の姫なのですから。

さて、話を戻しましょう。
質問は、阿知女作法の「阿知女」が磯良を指すなら、
何故、宮廷に伝わるのかという内容だったかと思います。

この時、自分がどう返事したのか、記憶が曖昧なのですが、
一つは傀儡舞で磯良が登場する時にも祝詞が挙げられているという話をしました。
磯良と祝詞には切っても切れない深い関わりがあることを示しています。

また、志賀島が禊に厳しい島だったことも手掛かりです。
それはイザナギが黄泉の国から戻って勝馬(志賀島)の小戸で禊をして
神々が生まれたことから、禊に厳しい島なのです。
ここは神話の始まりの地なのです。

神話の始まりの神、天御中主神は沖津島に祀られています。

これらは安曇族が神道の始まりに深くかかわっているということを暗示しています。
宮廷の祭事に安曇族の神楽が残っていても、それほど不思議ではありません。
こんな話をしたかな。(つもり)


で、真鍋大覚(だいかく)を昨夜も見ていると、タイミング良く、
安曇族が船を出す時の宣言(のりと)の話が出てきました。

今日はそれを引用します。

その前に。
「あへ」とは「北」です。
「胡人」とは「中近東付近から渡来してきた人」です。
「七つ星」は北にある星、即ち「北斗七星」と解釈して読んでみてください。

胡人は「N.T.V」の三音はよく紛れていましたから、「ななつのほし」は素直に「わたつみのほし」になりました。海を渡る舟人に七星は目をそらすことの出来ぬ存在でありました。

 「わたつみのほし」を略したものか阿曇(安積)星の名がありました。「あへのかたのよみのほし」、即ち北位を看取る星の意を舟人が短くまとめた名かとも考えられます。安住なる氏族は舟人として上古に知られた家系でありまして、北辰を氏神として祈ってきました。

その子孫は後に倭寇となりますが、元寇の後は日蓮(1222~1282)の宗教に吸収されて維新の後までも西海の重鎮たる一代勢力を維持しました。

察するに前述の長い名は、倭人が海北道即ち玄界灘に舟を出す時の宣言(のりと)の一節にあった句かと思われます。

現在の神官の読み挙げる祝詞は、延喜式更に千年後にこれを統一した内務省神社局が、型に嵌めたものでありまして、昔はもっとのびのびとしたおほらかな大和言葉が氏族伝来の調子で語られていたと香椎宮司木下祝夫(1894~1980)が述べておられます。
『儺の国の星』p60


今回、注目する一文は
「察するに前述の長い名は、倭人が海北道即ち玄界灘に舟を出す時の宣言(のりと)の一節にあった句かと思われます。」
です。

安曇族が玄界灘に舟を漕ぎ出す前に、
祈りの言葉を捧げていたことがこれで分かります。
北の星々に祈ったわけですね。

同じ安曇族の風浪宮では「火清鳴弦御祈祷」(ひきめんごきとう)といって、
船出の前に弓を鳴らして魔を祓います。

安曇族と天皇家との関わりを考えると、
神武天皇が安曇の姫・玉依姫から生まれているので、
神武東征のとき、船を提供したのは母方の安曇族以外には考えられません。

神武天皇は北部九州の各地に姿を現していますが、
移動手段は安曇族の船だったはずです。

安曇族は出航するたびに祝詞を捧げ、弓を鳴らして魔を祓っていた。
これを神武天皇は毎回見ていたはずで、
これらの儀式が宮廷に伝わるのも自然な流れだと思いました。





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by lunabura | 2015-01-13 21:23 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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