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タグ:磐座・巨石 ( 10 ) タグの人気記事

磐座の作りだす空間の使用法?


磐座の作りだす空間の使用法?

自然体の懇親会の中での過去世の話。

坂本さん自身は過去世を夢の中で見せられるそうです。
また、モンローさんからは、ギリシア時代に洞窟で瞑想していた仲間だと言われたとか。

それは海のそばにある洞窟で、波の響きが洞窟内で反響し、
声を出すと倍音になってヘミシンク効果が生まれていたという話でした。

その記憶があったので、モンローさんは現世で、
機械的にヘミシンクの状態を作ることになったのでしょうね。

ヘミシンクとは、右耳と左耳で周波数が少し違った音を聞くことで幽体離脱を促すものです。

この洞窟の話が一番心に残ったのですが、これを聞いて思い出したことがありました。

現世の話ですが、私もかつて波打ち際のテトラポットの穴に座って、
波が反響するのを楽しんでいた時期があったのです。

目の前で波が寄せては引いて潮騒が響き、
足元ではその波がテトラポットの下を音を立てて流れます。

そして、後ろと左右からはテトラポットの作り出した空間に反響する波の音が響き、
全方位から音が聞こえるのを楽しんでいたのです。

あれって、一種のヘミシンク効果だったのかも。

そうして、「石の作りだす空間」というキーワードから、
私の連想は神社にある磐座の空間へと連なりました。

今、佐賀市の與止日女神社の話が中断していますが、
その近くに巨石パークがある事を書きました。

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裏から見ると、ノミの跡があります。

風土記にすでに書かれている、由緒の古いものですが、
その磐座群の巨大さはハンパでなく、しかもあらゆるスタイルの磐座が次々に現れます。


その中には、組み合わさった巨石の真下の空間に祠が祀られているものがあります。

祠の存在から、その巨石の空間は祈りの場として現在も使われているのが分かるのですが、
巨石の真下という重圧感はかなりのもので、落ち着かずに早々と退散しました。

瞑想どころではありません。

でも、そこでトーニング(一定の声を出すこと)をしたら、
音響効果で面白い経験が出来たかもと今、気付きました。


これは楯崎神社(福津市)

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木々が生い茂っていますが、その隙間から見える磐座の大きさ、想像つくと思います。


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これはその巨岩の真下のようす。
祠が近年、置かれましたが、その奥には人が入って座れるスペースがあります。
多分、そこに入って人々は祈って来たのでしょう。

神功皇后がここまで来て祈り、最澄もやって来て祈ったといいます。
巨岩の下の祈りという点では、この形式が原点に近い磐座ではないかと考えるようになりました。
(ガイドブックの下巻でも紹介します)


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これは、天草トレッキングで訪れた圧巻の姫戸の巨石群。
ドルメン状の磐座です。

一見、小さく見えますが、天井石の長さは13m。
石の厚みは1.5m。人間の背の高さほどあります。
天上石の下にもぐることができ、2~30人が座れる広さがあります。
世界最大のものです。

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中には空間があり、ベッドに利用できるようなフラットな岩もありました。
声を出す実験をしてみたらどんな感じだったかなと、今になって思いました。

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天井石の上に這い上ると杯状穴が穿(うが)たれ、不知火海が見えます。
すごい立地ですよね。
どんな文明を育んだ人たちでしょうか。
日本の考古学界では対象になっていないようですが、世界では研究されているようです。

そういえば、グラハム・ハンコック氏はクフ王のピラミッドの王の部屋に置かれている石棺の中に入って寝ころんでトーニングしたと書いてました。
そんな使用法も有りかも!

音とは波動なので、ピアノの鍵盤が無限に高い音を出すと光が出ると、
シャーリー・マクレーンが例えていました。

思えば、彼女の本には「音」の使用法について太古の情報がいくつか書かれていました。
そういう点では、「音と磐座」という発想で研究する人が現れてもいいのかも!





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by lunabura | 2014-02-05 19:00 | ◆ガイアの森◆ | Trackback | Comments(8)

丸ノ口古墳公園(2)これは磐座?


丸ノ口古墳公園(2)
これは磐座? 

広大な那国の景色を眺めたあと、後ろを振り向くと、山の上に岩がいくつも見えました。

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い、磐座(いわくら)じゃない?

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登って行くと、頂上付近の岩群れが怪しい。
さらに近づくと岩群れの頂上に方向を示す石が見える。
写真を撮ろうと尾根に出ると、だ、断崖絶壁 (@_@;)

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採石か採土の為に切り通された崖になっていました。
かろうじて頂上の方向石が残っている状態。
ここまで近づくのが限度…。

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船石というのかも知れないけど、組んだ石に違いありません。
どこか、方向を示す強固な意志を感じます。
本来はこれを中心に磐座があったのだろうけど、もう全容は分かりません。

そこで思い出したのは、この近くに[後野神ノ前遺跡]という磐境祭祀跡がある事です。

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これは町で貰える冊子『那珂川町の文化財』の一部。
左上の写真は何気ない岩の集まり見えるけど、祭祀場です。
左下の土器群は岩のすぐ近くで出土したもの。
右の写真には、先程と似た石があります。

町の話によると、ここは大宰府のための祭祀場ではないかという説があるそうです。
これは面白い。

現在地はこの後野神ノ前遺跡から、さほど離れていません。

だから、現在地の岩の集まりが磐座だという可能性は充分で、
発掘すれば何か出るのではないだろうかと思いました。

後野神ノ前遺跡が大宰府鎮護の磐座説は魅力的ですが、
磐瀬宮のための祭祀場の可能性がないかなとも考えました。
そうすると、北西部に当たり、いい感じなのです。
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(龍頭遺跡群の近くが磐瀬宮推定地)

那珂川町の磐瀬宮説についての検証はまだ手つかずですが、
その近くの龍頭遺跡群ではこんな掘立遺跡が出ています。

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(町で貰える『那珂川町の古代・中世遺跡』より)

う~む。那珂川町は面白い。

そうして、頂上から下り始めると、巨大な岩盤が見えました。

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で、でかい。
これは御神体だったのだろうかと思ったのですが、祠らしきものは見当たりません。

この岩盤がどうしてこんな所にそそり立つのか、
思い出したのは阿蘇山の9万年前の大噴火です。
阿蘇山の火砕流がこの町まで流れて来たのを知ったのは
裂田溝(さくたのうなで)の所です。
(⇒ 裂田神社)
安徳台の特異な地形はその火砕流によるものですが、
これも同様にして出来たものではないかと思いました。

すると九州の各地で見た同様の岩盤が思い浮かんで来ました。

三郡山登山ルートの途中、あるいは熊本の山の中や
鹿児島の慈眼という名のついた公園でも、同じようなものがありました。
その成り立ちが不思議で仕方がなかったのですが、
今私の記憶の中でつながりました。

阿蘇山の大噴火による火砕流は九州を覆い尽くしたのです。
そして、山容が崩壊する時の地震で津波が起こり、
北アメリカの東海岸まで届いたというホピ族の言い伝え。

想像するだけで、寒くなる…。
(つづく)






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by lunabura | 2012-07-23 22:42 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

楯崎神社(1)半島の絶壁に立つ巨大な磐座に神功皇后は祈った


楯崎神社(1)
たてざき
福岡県福津市渡
半島の絶壁に立つ巨大な磐座に神功皇后は祈った 

この神社に初めて訪れたのは、地図を見ていて、ここに磐座があるはずだと推測したからでした。
そして行ってみると、実際に巨大な磐座がありました。

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ここは渡半島の突先です。そこには神社がありました。駐車場は道路を隔てた所にあります。

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楯崎(たてざき)神社です。周囲には全く人家はありません。

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祭神 大己貴命 少彦名命
相殿 飛龍権現
由緒書きがあったのですが、その当時はその意味を理解出来ませんでした。
その時探していたのは盤座です。

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境内の右の方に踏み分け道があって奥へ奥へと進みました。
すると半島の崖ぞいに山道がついていました。
これは振り返って撮ったのですが、右は山。左は絶壁です。

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覗くとこんな感じ。

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数百メートルで、神社の参道になって来ました。

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これが楯崎神社の元宮(奥の院)だと後で分かりました。
現在は薬師神社といい、不動明王が祀られているといいます。
赤い鳥居の左上には、想像以上の巨岩がありました。

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木が生い茂っていて、その全体を撮ることが出来ません。

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この巨岩の根元は石が組み合わせられて、隙間があります。
最近祭壇が置かれたようですが、この中に入ると意外にゆとりがあって、
ゆっくりと座ることができます。
異空間です。
岩陰祭祀場です。

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周囲を調べると、このような80センチほどの岩が
不規則に並べられながら、これまた独特の静けさのある空間を作っています。

落石があったらしく、これ以上は入れません。
すごいスポットもありますが、危険なために紹介できません。

磐座の表面を見ると石と泥で出来たような組成です。
山道に転がっていた火成岩とは全く違っています。
このタイプの組成は熊本や鹿児島の巨石群でも見られるもので、
その姿もまた熊本や福岡の八女、鹿児島のものと近い姿でした。
これを巨石研究会では縄文セメントと呼んでいました。
このような岩は意外に簡単に作れる実験も本に出ていました。

何年かたって不思議な縁で再びここを訪れたのですが
その時は、ここで初めて人のオーラをカラーで見ました。
(二度とそのような事はありませんが…。)

それからまた数年たって、神功皇后の伝承地を調べていて、またもやここに訪れる事になったのでした。
ここに祀られている飛龍権現とは神功皇后の事でした。
皇后はここでも祭祀をしたそうです。
京泊(きょうどまり)から上陸してここに楯を奉納して神の助けを願いました。
別伝には、凱旋後に楯と弦を切った弓を奉納したともあります。

凱旋後にお礼参りをした話は各地に伝わっていて、皇后自身は産後、間もないので、
中臣の烏賊津使主(いかつおみ)などが代参したのだろうなと思っています。

さて、神功皇后がわざわざここまで祈願しに来たのは、さらに古い歴史があるからでした。

                       (つづく)

地図 楯崎神社 京泊




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by lunabura | 2012-03-17 10:40 | 楯崎神社・たてざき・福津市 | Trackback | Comments(2)

妙見神社・平成の夢枕に龍神が現れた


妙見神社
福岡市西区小戸
平成の夢枕に龍神が現れた 

小戸大神宮から東の駐車場に戻る途中、岬に鳥居が見えました。

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鳥居を見れば見過ごせない…。

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近づくと真新しい鳥居です。
すぐに山道になりますが、コンクリートで最近整備されたようすです。

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頂に出ると、露天の祭祀場がありました。
岩は直方体に近い形で、中央に突起があります。
(小戸大神宮の突起の岩と関係あるのでしょうか。)

盤座(いわくら)には注連縄(しめなわ)が張ってありました。
後ろの立札には「御祭神  北辰明神(天之御中主神) 北辰妙見菩薩 青龍王神
と書いてあります。
筑前国続風土記の「小戸の西を妙見崎という  則妙現の社あり この地 平らなる岩なり」
というのがこれでしょうか。

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祭祀場の上に「小戸 妙見神社」がありました。
石祠が祀られています。写真がいっぱい飾られています。

この宮の由来が書かれていました。
小戸 妙見神社の由来小戸の西を妙見崎という  則妙現の社あり この地 平らなる岩なり 
(筑前国続風土記巻20)
小戸の西の山を妙見山という 山上に石祠あり  (筑前国続風土記巻43)

 今を去る千数百年前、奈良、平安にかけ庶民の間に親しまれ、全国的に熱烈な信仰を記録したのが妙見信仰である。しかし、時の流れに衰微し、往時を偲ぶよすがもなく、数年前まで御名を残すだけのありようであった。

 さて、この聖地にあって、今年(2003年)より十数年前、或る人の夢枕に龍神が瑞験し、霊告により導かれ、地中に埋没していた現社殿の屋根である古石を掘り出したのが発端である。

しかし、事情あって、地面に放置されたままであったのが、2002年の1月、心ある人々の手によって再建され、更に本年(2003年)4月の改築となり、現在、妙見神社として御鎮座なさっている次第であります。

御祭神
 北辰明神(天之御中主神)
 北辰妙見菩薩
 青龍王神


そもそも北辰妙見とは北辰北斗の星辰信仰に発した菩薩で、奇瑞の霊徳を示現する神妙星とされ、この神を祭れば災厄を免れ、長寿富貴に恵まれると云われる北半球中心の神であり、又、人の善悪の行為を見、禍福を分け、生死を定めるという。

  再建以来、数々の霊験奇瑞あり、念ずれば願い叶う強い霊力を顕現される神であります。 心よりご祈願下さい。
                       畏敬記す  合掌
「妙見崎」という地名が示すとおり、古くから北極星信仰があって、
祠も置かれていたのが、いつのまにか忘れられ、
平成になって再び復興したもののようです。

今、生き生きと神威を発動されている神様のようです。
平成にもこのような奇瑞があるのは本当にありがたいですね。


その周囲を見渡すと周囲の海域が手に取るように見渡せます。
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能古の島が見えます。

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糸島も見えます。

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これは左の絶壁。

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突端から海を見下ろしたもの。

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そしてひときわ聳える大松。
踏みしめられた地面は長年、見張り所として活用されたのがよく分かります。
ここからも北極星を眺めた事でしょう。

紀元前には龍座のツバーンが連星を従えて輝いて、その不動の位置を示したでしょうが、
時が経つに連れて、ツバーンは中心から離れて行きました。
私たちの北極星・ポラリスがその位置に移動するまで北極星はありませんでした。
その間北極星への熱烈な憧れが失われるのにはそんな事情もあったのかも知れません。

今、こうして再び北辰の神が現れる事は有り難いです。
神々が降臨される聖域を何としても守りたいなと思います。
伝承とともに。

地図 妙見神社








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by lunabura | 2012-03-06 20:09 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(2)

雷神社・盤座と記紀にはない歴史の記録


雷神社
いかづちじんじゃ
福岡県糸島市雷山
記紀にはない歴史の記録があった
盤座の聖地
 

前回の三坂神社から、雷山(いかづちやま)へ向かう登山道路があります。
ぐんぐんと高度を上げながら車を走らせると、休憩所が左手に。
次に出て来るのは雷山千如寺大悲王院
それを通り過ぎてしばらく行くと右手に雷神社が出て来ます。
駐車場があります。

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車を降りると目に入ってくるのは巨大な杉たち。
その間を通って参道に向かいました。自然と人間が作り出した聖地です。

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ここはパワースポットです。
石段の左にある巨木はイチョウの木。一本でこの大きさです。
今から黄色に染まろうとしていました。

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石段を上がるとすぐに拝殿です。参籠出来るような広い拝殿です。

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拝殿の右にまわって正面付近を撮りました。
人々が見上げているのは先程紹介したイチョウの木。

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そばに立つとこんなふうです。樹齢900年。県指定天然記念物です。

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拝殿前から参道を撮りました。
どのアングルでも、深山のしめやかな趣に満ちています。
神功皇后たちがここに滞在したと麓の宮々で伝えていました。

由緒を福岡県神社誌で見てみましょう。(口語訳。一部変更)
祭神 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
社記によれば、第6代孝安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国から我が国に襲来する事が何度もあり、当社の神が大雷火となり異賊を降伏させられた。垂仁天皇がこの御神徳を畏こんで社殿を建てて、敵国降伏の神として尊崇された。

神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣宝鏡を供えて祈願された。
それより代々の天皇は勅願所として綸旨(天皇の命令)を賜い、将軍家は祈願所として御教書を下して数十町の神領を寄付された。

下って文永公安の役(元寇)にも御教書を下して敵国降伏を祈られた。永禄天正の際、九州は大いに乱れ、干戈日夜を継ぐに及び、神領はことごとく将士が略奪した。
(後略)
ここには孝安天皇の時代からずっと異国の襲来があったと書いてあります。
孝安天皇などは欠史八代と言って、具体的な歴史が書かれていない時代の天皇だそうです。
その謎の時代についてこの宮では異敵と戦っていたことを伝えています。

この異敵の襲来については、忌宮神社で新羅の塵輪が襲撃していた事が
記紀に書かれていないことが分かりましたが、
ほかに楯崎神社(福津市)や高良玉垂宮の「神秘書」にも書かれています。

「神秘書」にはイルヰという敵の具体的な名前まで書かれていました。
山口県の土井が浜の戦闘跡などはその名残だと思っています。
弥生時代の二重環濠もまた戦いの連続だった事を教えています。

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香椎宮に出した系図に孝安・孝霊天皇を追加してみると、
オレンジの丸に囲まれた天皇たちの世代は
ずっと海からの襲撃に備えていたという事になります。

仲哀天皇の時代は遂にこちらから海を越えて戦おうという展開だったのです。
彼の時代になって唐突に新羅と戦うのではない事が分かります。
だから仲哀天皇は先代の例にならい、この山に祈りに来ました。

祭神を見ると、
 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
となっていますが、香椎大神とは神功皇后です。
ですから、当時の神は火雷神と彦火火出見尊になります。

彦火火出見尊は高祖神社の祭神でもありました。
五十迹手(いとて)はここも守り続けたのでしょうか。

伊都国は天孫降臨の候補地としてよく名前が出ますが、
糸島の中心的な山、雷山と高祖山の神がニニギの命でないことが
心に引っ掛かりました。
ニニギノ命を祀る山はこの地方の何処かにあるのでしょうか。
現地の方教えて下さいね。

神域の素晴らしさに酔いしれながら、一の鳥居の前に出ると、
舗装道路を隔てて急に下がっていく石段を見つけました。
下りて行くと盤座がありました。

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岩陰(いわかげ)祭祀の痕跡があります。

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横から撮りました。このようなカーブは盤座の特徴で、よく見かけます。
この盤座こそ雷神社の奥宮で、
神功皇后が祈ったとしたらこの盤座なのだと思いました。
近くには清らかな小川が流れています。
古代祭祀跡として大切にしたいものです。

雷山は層増岐岳ともいいます。
「ソソキ」という山名から、羽白熊鷲と戦うための陣営の地という説がありますが、ここには羽白熊鷲はいません。
「ソソキノ」は朝倉市の「層増岐野」が該当する土地だと確信しました。
(⇒砥上(とがみ)神社・松峡(まつお)八幡宮にて詳細)

仲哀天皇の一行はこの雷山で過ごしたあと、
不動池や雷山神籠石を廻って下山したそうです。(糸島の宇美八幡宮伝承)
次回はその通り道の雉琴神社に行きましょう。

地図 雷神社







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by lunabura | 2012-02-21 17:55 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

和布刈神社(1)福岡の最果てに巨大な磐座があった

和布刈神社(1)
めかりじんじゃ
福岡県北九州市門司区
福岡の最果てに巨大な磐座があった 

高速道路のパーキングエリアに「めかり」があるので、そこは利用するけど、
その大元の和布刈神社(めかり)に行くのは初めてでした。
和布刈公園だって行ったことあるのに、神社は…。

その和布刈神社は門司の最奥にありました。
国道3号線と分かれて海岸寄りの道を走ると、巨大な鳥居があって
崖と海の間の道を走るようになります。

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神社入り口のようす。

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左は海。正面の山は海を隔てた本州の火の山です。

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関門橋が真上を通っていて、騒音が半端ではありません。
まさか神域の上をガタンガタンと音を立てて走っていたかと思うと…。
ちと背中が寒い。

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しかし境内はそんな事をものともせずに神秘性を保っていました。
社殿は壇ノ浦、下関港の方を向いて建っています。
もう絶壁と浜の隙間にいます。

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左に廻り込むと、火の山が美しい台形で見えています。
目の前の関門海峡は早鞆の瀬です。

そして、振り返って神殿を写そうとして、何これ?!
い、盤座(いわくら)!!!
し、しかも巨岩!!!
お懐かしや…。巨石にこんな所で会えるなんて…。
ここは海抜0mの所ですぞ。山の中ではないのに…。
まさか、まさかの御対面。

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よく見ると、神殿は盤座に食い込んで建てられています。

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全容が分からない。

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穴が刻まれているので、アップで撮ったら、
後の岩はまるで人面石みたいになってしまった…。

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右の方はどうなってる?
神殿の右側に廻って撮ってみると、おお、注連縄が張られている。

ここは盤座信仰の神社だ!
和布刈(めかり)神事が有名だけど、もともと盤座信仰の神社なんだ。

この岩は九州の岬の果てに置かれている。
楯崎神社と同じだ。(すんまっせん。まだ紹介していない。)

と想定外の盤座に、テンションが上がりっぱなしでした。
(つづく)


というところで。
カレンダーを見ると今日は2周年の記念の日です。
いくつかの神社の四季と祭事でも書こうと思って始めた『ひもろぎ逍遥』ですが、
いつのまにか福岡中を走り回っています。
神功皇后のおかげ?で知らない町にも沢山行きました。

2年目は思いがけず、人さまの前でお話をする機会を与えていただいて、
古代の福岡が博多湾から有明海まで海でつながっていた話や、
神功皇后の移動ルートのようすなどをお話ししました。

多くの方との出会いもあって、
ブログで発信して本当によかったなと思っています。
マイペースでぼちぼちと書いて行きます。
これからもよろしくお願いします。 (^-^)/
                            綾杉るな





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by lunabura | 2011-10-25 09:23 | 和布刈神社・めかり・北九州 | Trackback | Comments(7)

日天宮(1)三つの天体を祀る宮


日天宮(1)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈

太陽と月と星を祀る宮

UFO騒動まであったって?
それなら行くしかないでしょ。

星岩宮と月読宮


電話でくるま座さんが教えてくれました。
「太陽と月と星を祀る珍しいお宮がありますよ。」
「ええっ?星もですか。それは珍しいですねえ。」
天体の三つとも祀る神社はまだ聞いた事がありません。

くるま座さんは福岡県の春日市JR春日駅近くで
玄米定食など、自然食を出す店を経営しています。
そして、裏の顔は古代祭祀線地震雲の研究家です。

ルナとくるま座さんとが顔を合わせると、何をしてるかというと、
国土地理院の地図を貼り合わせた、1メートルほどの地図を広げて、
あちこちに引いた線を見ては、どうだこうだと話してます。

二人とも、天体と山と、神社の関係が知りたくて仕方がないのです。
日本に残されている巨石文化を調べています。

さて、そのくるま座さんが送って来てくれた新聞のコピー。
タイトルは日天宮
読んでいて、あれ?これと同じ切り抜きを私も持ってる…。
十年以上も前の新聞記事ですが、やっぱり気になる所は同じでした。
二人が同じ記事を大切に持ってたなんてねえ…。

その新聞記事のさわりだけでもざっと紹介しましょう。

日天宮 『太陽、月、星を祭る神社』
「なぞめく天体信仰」太陽、月、星。いわば三点セットを祀った珍しい神社が嘉穂町にある。
「日天宮」という。
その由来は「農作物の豊作、凶作を左右する天体を神としてあがめた」という見方があるが、
地元住民もその起源は分からず、伝説、伝承もほとんどない。

同町にはもう一つ、「北斗宮」という、文字通り星を祭り、星占いをする神社が存在する。

かつてこの町では「UFO騒ぎ」があったと聞けば、何やら静かな農村もどこか、宇宙的な信仰の広がりを伴ってなぞめいてくる。



そんな嘉穂町で「UFO騒動」が起きたのは1975年秋のことだった。場所は甘木市との境界にまたがる八丁峠。
「空をジグザグに動くなぞの物体が見える」
うわさを聞きつけた人たちが各地から集まり、たちまち露店がでるほどの大騒ぎとなったという。

「もともと、この土地は宇宙との交流があった場所だから、天体信仰があってもいいじゃないですか」とは、
地元の一人。なるほど、ここはUFO伝説にふさわしい町なのかもしれない。
(1999年9月西日本新聞)
さて、この新聞記事を見て、一人で日天宮を探しに行ったくるま座さんですが、簡単には見つからなかったそうです。
記事を書いた記者に尋ねても、うまく説明できないとのこと。
数回探して、見つけ出したそうです。

碓井町の道の駅で待ち合わせて行ってみました。

福岡県嘉麻市牛隈の県道211号線のコンビニから脇道に入ったのですが、
その先のルートの説明が出来ません。(なんと、道がない!)

話によると、神社への道は産業廃棄物の会社が買い取ったために、参道が無くなったとか。
一般の民家の庭を通るしか、ルートがないようになりました。
挨拶をして通らせてもらって、車で坂を登り切ると、開けた丘陵地帯にでました。

そこは、流木や倉庫などが山積みで、本当に廃棄物処理場の中です。
トラックのつけた道があるのみ。
「あれ、変わったなあ。こっちかな。」
くるま座さんの勘頼りで、草むらの中の神社への入口に辿りつきました。

小さな石柱があって、日天宮と分かりました。

イノシシの足跡がくっきりと残る山道を歩くと、星岩宮と書いた立札がありました。
緑のもみじの向こうに、磐座(いわくら)がありました。
手前には小さな祠があります。
岩には直径50センチほどの丸が浮き彫りしてありました。

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この岩の後ろにも二つほど岩があって、ためつ、すがめつしていると、
「ここは序の口ですよ。この先、もっとすごいですから。」
と、促されて、奥へと進みました。

次の磐座は少し大きめ。月読宮と立札が立っています。
ここにも、祠がありました。

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岩の側面にいくつかの穴があります。
近寄って見ると、それは人工というより、海岸で自然に出来たような形状です。
ここは山の中です。
「なんだか、海から運んだ岩みたい。」
そんな話をしながら裏の方に登って見ると、垂直に切り出したような岩もあります。

c0222861_15424736.jpg

岩の配置に法則性は全く感じられません。

ここも、ほどほどにして、さらに奥へと進みました。自然歩道を歩くような参道です。

まもなくして、奥深くに石の鳥居が見えました。見て下さい。この鳥居のたたずまい。
いかにも古いお宮の風情です。

c0222861_15441351.jpg


ひっそりと、誰にも知られずに。しかも、知る人ぞ知る。

手すりがあることから、こんな人里離れていても、地元では大切にされているのがよく分かります。
鳥居から先は急坂になっています。廻りは原生林。
腐葉土がとてもいい雰囲気です。

(つづく)




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by lunabura | 2010-02-12 16:01 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)

日天宮(2)御神体は巨岩でした・出たのはUFOでなく


日天宮(2)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈
謎の巨石文明
日天宮、月天宮の御神体は巨岩でした
出たのはUFOではなく、恐怖の…


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鳥居を過ぎると、坂の途中から、すでに巨岩が見え隠れします。
「すごいねえ。大きいねえ。」と言いながら、上って行きました。

全く人里離れた山の中なのに、石段や境内が掃き清められています。
「ほうきの痕(あと)があるよ。」

くるま座さんが教えてくれました。
「ここで会った人がね、仕事を辞めて実家に帰ってたら、あんた、ブラブラしてるなら、
一週間ぐらい神社に泊って掃除をしなさいって言われてね。」
「へえ。それで?」
「一か月ここに寝泊まりしたんだって。」
「へえ。こんなとこに?。」
そんな話をしながら、石段を上がると正面に簡素な拝殿がありました。

その拝殿の後ろに日天宮の御神体の巨岩があります。

c0222861_15493986.jpg

これが御神体岩。
この磐座の割れ目は自然に割れたのではなく、いくつかの岩が組み合わされて出来ています。
それぞれの岩の目が違っていたり、割れ目の接合面が合わなかったりしています。

正面から見ると、岩の上の方に巨大な丸い浮き彫りがくっきりと見えました。

下宮の星岩宮で見た丸の浮き彫りとほぼ同じ大きさです。
でも、よくよく見ると、周りにも彫り跡が見えて、全体では眼にみえます。
写真でも、丸の周りに瞳らしき彫り跡が分かると思います。

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これが太陽なのか眼なのか、また、盤座(いわくら)を置いた人たちが彫ったのか、
別の時代の人が彫ったのか、全く分かりません。

修験道時代の人たちもよく岩に彫りものをしていますが、その時代は結構きれいな形をしています。
この荒削りな彫り方は、なんとなく、もっと古い時代を思わせます。

さて、境内は右の方に開けています。
山の斜面の一部が平たんに整地されている感じの境内です。
ずらっと巨岩が並びます。
その中でも、独立してひときわ目立つのが月天宮の御神体岩です。

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一緒に行った人が、その御神体岩を見上げています。
左上方に丸いのが見えるでしょう。それが岩の頂上に当たります。

下の写真は同じものを右側から撮ったものです。

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この風化の仕方は、波で出来たものではないかと、思われるような穴のあき方です。
外宮の月読宮と雰囲気が似ています。岩そのものが堆積岩のような印象です。
先ほどの日天宮の岩と質が全く違うので、ここにもともと自然に存在した物ではない事が分かります。

ここから、まだ先に巨岩が百メートルほど連なり、
富具永大明神塩釜宮と立札がある磐座(いわくら)が次々に現れます。

この日天宮の構成は、
日天宮、月天宮、富具永大明神、塩釜宮、星岩宮、月読宮の、
六つの磐座で構成されていました。

日天宮、月天宮、富具永大明神、塩釜宮は上宮にあり、
星岩宮、月読宮は麓の下宮にあります。

たしかに、日、月、星、という珍しい組み合わせです。
印象としては、盤座が古代からあって、それを再発見した後の世の人が、名前をつけたような感じです。

さて、この六つの盤座の先に進と、道が終わって崖になっていました。
これで終わりと思ったら、くるま座さんが山を登り始めました。道なんてありません。
(え~っ、登るの?)

ついていくと、裏にもまた巨石群。だれかが祭祀した気配があります。
こんな雰囲気の巨石群、どこかに似たのがあったなあと思いながら
ついて行くと、まもなく巨岩列の上に出ました。

道なんてない、林の中を蜘蛛の巣と枝を避けながら、さらに進むと、日天宮の頂上に出ました。
岩から下を覗くと拝殿の屋根が見えます。

知らない間に御神体岩の上に立っていました。その岩には杯状穴が6個ほどありました。
祭祀跡です。

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穴の大きさが分かるように靴と一緒に撮りました。靴のサイズは24センチです。
液体を入れるのにちょうど良い大きさです。

別の所ですが、巨岩の頂上で火を燃やしていたケースを確認した事があります。
それは、灯台代わりのものでした。ランドマークと言います。
ここはどうなのでしょうか。地形からすると、平野の奥まった所の丘陵地帯です。
あとで、地図を出します。

さて、後方の腐葉土を払いのけると、深い切れ目が現れました。

c0222861_15574138.jpg

溝の接合面が揃っていません。これで、御神体岩が割れたのではなく、組まれたことがよく分かります。
また、さっきの月天宮と違って火成岩です。

この境内の巨岩たちのいくつかは、全く違う所から移動させたのが分かります。
どうやって?
これがまたまた謎です。

この岩を降りると、振り出しの拝殿に戻ります。

腐葉土のふかふかした坂を下り始めました。
とても気持ちがよくて、立ち止まって話をしていたら、黄と黒の縞の大きなハチがやってきました。
スズメバチ?
さ、三センチ!?
ホバリングしてる!
明らかに警告です。
(あれっ、どうしたらよかったっけ。騒ぐといけないけど、死んだふりしたら逃げられないし。)
一瞬、背中をボコボコに刺されているシーンが浮かびました。
コワッ。

次の瞬間、足もとの腐葉土の中から、応援のハチが二匹飛び出して来ました。
「うわ、巣がある。逃げろ。」
と、走り出しましたが、
「刺された!」
と、先を走る、くるま座さんの声。本気モードで腐葉土の坂を駆け下りましたよ。
さいわい、ハチは追いかけて来ませんでした。

くるま座さんの肩甲骨あたりがみるみると腫れて来ました。
「ハチにはアンモニアがいいけど。」
「おしっこを掛ける?」
「そこは無理だよ。」
「いえ、大丈夫。子供の頃にも刺されてますから。」 (;一_一)

「それじゃあなおの事。この前、友達が二度刺されて、救急車で運ばれたばかりよ。」
「そう、ハチは二度目が危ない。」
「とにかく、水筒の水で冷やそう。」
「ちょうど、ツボの所が刺されてるから、元気になったりして。」
とにかく、持ってきた水で冷やしました。翌日恐る恐る電話をしたら、元気な声で電話に出てくれました。

という訳で、出たのはUFOではなく、恐怖のスズメバチでした…。
UFOは日天宮とは関係なかったです。

それでも、ガセネタではない?
UFOについては、新聞記事では、出現地が八丁峠(はっちょうとうげ)とあります。
地図を見ると日天宮とは場所が離れていて、直接関係ないようでした。

ただ、この町からはその峠の山がよく見えます。
露店が立ったほどだから、けっこう派手に何日も飛んだんでしょうね。
でも、1975年という事ですから、ずいぶん昔の事です。残念。

それでも、10年ほど前、この大きな山塊の反対側から、UFOを見た話を聞いた事があります。
警察署に事務で勤める友達から聞いたのですが、パトカーで夜中にパトロールした警察官の人たちが、
UFOを見たと言ってたと教えてくれました。けっこう深刻な表情だったらしいです。

まだまだ、期待できそうですね。

(つづく)

地図 日天宮  UFO出現地?
 



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by lunabura | 2010-02-11 16:30 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(2)

日天宮(3)御神体岩はランドマークだった?


日天宮(3)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈
御神体岩はランドマークだった?

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この松の木が神社の入口の目印でした。

さて、この神社の由来ですが、新聞記事に書いてあったのを紹介します。
天体をあがめ、信仰する日天宮。数少ない資料を手がかりに由来などを調べてみた。
 まず、1857年ごろに書かれた「筑前国続風土記拾遺」には、こう記されている。
「山犬谷という所に日天社とてあり。大岩を神体という。境内奇石多し。」と。

さらに、明治時代に残された「福岡県地理全史」には「星のような小さな穴がある巨石があり、近くで清水がわいている」との記述。しかし、その起源や由来が記された資料は現在まで見つかっていない。」
なるほど、江戸時代から明治にかけては、結構知られていたんだ。

いったいいつ頃建てられたんだろう。
弥生時代ではないのは明らかなので、それより古いとすると、縄文時代?旧石器時代?
だんだん、可能性が低くなりますよねえ。

でも、世界を見回すと、縄文時代には、エジプトではせっせとピラミッドを造っています。
古代が今より進歩していないとは言えない分野もあるんだろうな。

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前回、知らない間に御神体岩の上に立っていたと書きましたが、
正面から見たら、独立して立っているように見えています。
なのに、頂上を含む尾根はフラットだったんです。
計算されて置かれていた印象でした。

なかなかやるな。設置者よ。
さて、年代も設置法もお手上げです。そこで日天宮の標高を調べてみました。

古代には海が迫っていた?
ちょうど100メートルほどの高さでした。岬のように出張った地形の上にあります。
思ったより標高が低い所でした。

縄文海進期という言葉があります。
縄文時代は今より平均気温が高くて、氷河が融けていたので、
今よりずいぶん海面が高かったらしいです。
ですから、縄文時代の貝塚遺跡も、今の海岸線より高い所にあります。 

この日天宮は遠賀川の上流にあります。
遠賀川も古代はずいぶん奥まで海が入り込んでいました。
この巨石のに火を灯したとすると、これはランドマークになります。
舟や徒歩で旅をする人たちの、陸の目印です。

これらの事から、この日天宮は超古代のもので、当時はランドマークとして使われ、
後に神話時代になって神社として祀られるようになったと仮説を立てました。

くるま座さんにも話を聞きました。

独自の嗅覚と熱心さで、面白い情報を持っていましたよ。
「この近くに荒穂(あらほ)神社があって、日天宮はその奥宮だそうです。」
「何か書いてあったのですか?」
「先生をしている地元の郷土史家から聞きましたよ。」
「荒穂神社は他に、筑紫野市の天拝山(てんぱいざん)と佐賀県の基山(きやま)の宮浦と長崎県の太良(たら)町にあります。」

「全部で四つ?」
「そうです。その荒穂神社が四つとも馬見山を見ているそうです。」
「え?みんな離れてるのに。」
「そう、天拝山のは確かに東を向いているのを確認しましたが、基山の荒穂神社は方向が違いました。」

「でも、頂上は360度なので、OKでは?」
「頂上ならそうですね。長崎の太良の方は何度か行ったけど、元宮が無くなっていて、分かりませんでした。
でも、なんで、こんな遠い所にと思いましたけどね。」

「ああ、それなら、ちょうど、志賀島の高天原を調べていたら、
二日市水道の右の島を宇佐、左の島を左佐と言っていた時代の地名が
今も残っていて、
宇佐は大分県、左佐は長崎県でしたよ。
古代では、そのスケールで見ても大丈夫みたいです。」

(かつて、宝満山に登った時、山頂から噴煙が二か所見えて驚いた事を思い出しました。
南は熊本の阿蘇山、西は長崎の雲仙の普賢岳でした。
頂上からは思いがけず近くに見えるものです。)


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                 富具永大明神の御神体

くるま座さんはもう一つ教えてくれました。
荒穂神社は馬見山にある馬見神社(宇麻美神社)から分霊したものです。」
「頂上にピラミッド型の巨石がある?」

「それは、9合目あたりです。そのずっと下に馬見神社があります。」
「すると、おおもとは馬見山の祭祀があって、下に馬見神社が出来て、
そこから四つの荒穂神社が分霊されたという事ですか?」
「そうなりますね。」

「すると、この日天宮は地元の荒穂神社の元宮だから、
馬見山―日天宮―荒穂神社のラインがあるのですか?」
「そうなりますね。」

「御祭神は?」
「それが、荒穂神社と言えば、普通は五十猛(いたける)の神なのですが、
ここではニニギノ命とも言われているのです。
馬見神社にはニニギノ命とコノハナサクヤ姫が祀られているとも。」

こんな所でニニギノ命の名前が出てくるとはちょっと驚きです。
(神様の名前が出て来ると訳が分からなくなるので、とりあえずパスしちゃお。)

ふうん。
馬見山を見る四つの荒穂神社のネットワークか。面白そうだな。

とりあえず、馬見山―日天宮―荒穂神社の信仰のラインがあるらしい事が分かりました。
御神体岩は馬見山へのランドマークだったのかも。

地図 馬見山 日天宮  荒穂神社  荒穂神社  荒穂神社 


それでは、次は話題の荒穂神社に行ってみますか。



古代祭祀線や古代の大宰府、地震雲のお話をしたい方
くるま座でティータイムに手が空けば、話が聞けますよ。
福岡県春日市千歳町1丁目24
092-592-8903

玄米定食や天然酵母パンのヘルシーなお店です。



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by lunabura | 2010-02-10 15:36 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(2)

高良大社(9)高良山神籠石


高良山神籠石
こうらさんこうごいし
久留米市御井町高良山

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前回の高樹神社から少し登ると、高良山の二の鳥居があり、そこからは登山道です。
鳥居の上が苔むして良い風情です。
登って行くと、ほどなく巨岩が現れ、何やら石の柵に囲まれたものが。

c0222861_958519.jpg

近づいてみましょう。

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有名な馬蹄石です。穴が二つ窪んでいます。
馬の足跡のように見える事からついた名前です。
この穴を踏むと足が速くなると言われているそうで、
地元育ちの元少年はこれを踏んでリレーの選手になったと話してくれました。

立札を読んでみましょう。
馬蹄石(ばていせき)
この大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)あとを残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼ぶ。しかし中世の縁起書『高良記』には、この石こそが「神籠石」であり、「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。付近の字名も「神籠石」という。おそらく古代の盤座(いわくら)の一種であろう。

おお、なるほど。現在、「神籠石」(こうごいし)と言っている列石は、
かつては「八葉の石畳」と言っていたのですね。
高良山をぐるりと囲む列石を「蓮(はす)の花」に見立てたのでしょうか。
そして、この巨岩全体こそが「神籠石」と呼ばれていたそうです。

そうすると、この馬の足跡のような穴は杯状穴の可能性が出て来ました。
祈りを捧げた場所の名残です。
そこから斜め上の斜面を見上げると、三角形の盤座がありました。

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これも有名な「背比べ石」です。
背比べ石
神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がある。古代の石占(いしうらない)の習俗を伝えるものであろう。
菱屋平七の『筑紫紀行』(享和2年1802年)には「勢比石」と見える。

おっと、こんな所にまで神功皇后の伝説がありましたよ。
現在の高さは1mもないのですが、どんな風に比べたのでしょうか。
さきほどの馬蹄石と背比べ石がセットになって、祈りの聖地を形成していたようです。

ここで振り返ると、反対側にもう一つ説明板がありました。
史跡 高良山神籠石

筑後国一の宮高良大社が鎮座する高良山の山腹を広くとりめぐらした列石で、我が国の古代遺跡として、最も規模雄大なものである。古くは「八葉の石畳」と呼び、高良大社の縁起の中で、結界の表示として語られているが、古代の山城の一種とするのが通説である。

明治以降学界で問題となった同類の遺構は、最初に紹介された高良山の例にならい、神籠石と総称されるようになった。

列石は1m内外の長方形の切石を一列に並べたもので、高良大社社殿背後の尾根(海抜251m)を最高所とし、南側の尾根にそって下り、西裾の二つの谷を渡り、1300余個、延々1600mに及ぶ。ここ南谷には、水門の基底部の石組みが残っている。

これに対して、北側の列石は確認されていないが、天武天皇7年(678)の「筑紫国大地震」によって崩壊したのではないかとの説がある。

築造の目的、年代、築造者などについても諸説があり、正史に記載を欠くことと相まって、この列石をめぐる謎は深い。
昭和28年11月14日、国の史跡に指定された。

これを読むと、本来、「神籠石」とは「馬蹄石のある巨大な盤座」を指していて、
山を巡る列石群は「八葉の石畳」と呼ばれていたという事ですね。
これが明治以降、学術用語となって、日本各地の列石群をも含めて「神籠石」と
呼ぶようになったという事です。

やはり、この高良山で原信仰を探るなら、この馬蹄石と背比べ石の盤座の存在を
抜きには考えられない事が分かりました。
登山道の脇にさりげなくありますが、ここに社が建てられていてもおかしくない祈りの場でした。
(でも、こんな風に自然のままが大好きです。)

神籠石については、現在「山城」説に落ち付いているようですが、まだまだ謎を秘めています。

c0222861_1031480.jpg

これは、本宮の境内にあった「八葉石」(はちようせき)です。
この二の鳥居の所にあったのが、明治初年の廃仏毀釈によって、割られたものだそうです。

では、列石を見て行きましょう。
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これは大学稲荷前の列石です。バス停のすぐ上にあって、車道から見る事ができます。

c0222861_104416.jpg

これは本殿の左裏にある列石群です。この先はもう頂上で、
そこからは右にカーブしながら下って行って、大学稲荷前の列石に続きます。

久留米地名研究会の方が歩いて行ったそうです。でも、途中で迷ったとか。
傾斜は緩やかそう。と言う事は、ずいぶん長いルートなんでしょうね。

さて、この写真の場所から下ると神籠石がさらに続くはずなのですが、
この地点で消えています。これまではそれが謎だったそうです。

c0222861_1063084.jpg

角度を変えて撮りました。道路の左に見える斜面が列石の終点です。
本来なら、この道路を越えてずっと下に続くはずなのにありません。
どうなったのでしょうか。
右の斜面を見ると急激に下がっています。実は斜面が崩落したのです。
地震の為にずり落ちてしまったそうです。

それについて説明板がありました。
これより北方の列石線は確認されていない。従って列石自体が未完成ではないかとも疑われていた。

しかし最近、地震考古学の発達によって、神籠石の見い出せない北側尾根の真下に並行して、水縄(みのう)断層系追分断層が走ること、その上部の北側面には地震動による大規模な斜面崩壊の痕跡が認められることが判明した。

この大規模な斜面崩壊は山麓周辺の発掘調査から、水縄断層の最新の活動すなわち、日本書紀に見える天武天皇7年(678)の「筑紫国地震」である可能性が強く、この時の斜面崩壊で列石の断層寄りの部分が崩落したとすれば、列石が北側尾根に認められない理由も説明できる。こうして高良山神籠石の築造年代の下限が678年以前であることが、ほぼ推定されるに至ったのである。

1400年以上も昔に、この福岡県で大地震があり、断層が県の南北、そして東西に
走った事実があり、日本書紀にはこの時のようすが書かれているそうです。

この678年の筑紫の大地震の断層の差は数mの高さがあって、
今でも各地にその地形を見る事が出来ます。
この600年代は地震による津波や断層、戦争が相次ぎ、筑紫は大変な状況でした。
その時代に生きていたのが天智天皇や天武天皇です。

c0222861_1075785.jpg

これは高良山神籠石の全体図です。(歴史散歩#20久留米市教育委員会より)
赤い実線が現存する列石で、点線になったところが、地震で崩落した部分です。
吉見岳そのものがずるっと滑り落ちたそうです。信じられない激震です。
神籠石を追っていて、まさか地殻変動の歴史を見せつけられるとは思いませんでした。

それにしても神籠石って、どこの石を切り出して来たのでしょうか。
神籠石はこの近くの山にもいくつもあるので、どこかに石切り場があったはずです。
神社や祠があるかも知れません。
祭神が分かれば、どんな集団が祀ったのか見えてくる可能性があります。

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これは、日本に分布する古代山城です。(『あつまれ!!古代山城』より)
赤い丸は朝鮮式山城で、青い丸は神籠石系山城とされています。
神籠石は現在16カ所で発見されています。
これからの研究が大いに期待される遺跡群です。




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by lunabura | 2009-12-28 10:20 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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