ひもろぎ逍遥

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タグ:神功皇后伝承地 ( 258 ) タグの人気記事

行って来ました(^^)/ 香椎~古賀


バスハイク第6回

香椎・古賀



バスハイク、行って来ましたよ!
とても良い天気でした。





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香椎宮参道。







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香椎宮拝殿。









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神殿。
朝の神社はとても素晴らしいですね。
朝日に輝いています。










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これは綿津見神社の横の三苫海岸。

初めての時と、こうして改めて参拝するときとでは、
神社の様子が全く違って感じられます。

どの表情もそれぞれに感じ入る所があります。

「自然と歴史をまもる会」主催のバスハイクで、6回目でした。

次回は久留米と小郡です♪



画像を撮った場所は『神功皇后伝承を歩く」

上巻24 香椎宮 仲哀天皇は香椎宮で天下を治めた
下巻75 綿津見神社 海神に捧げられた苫が三枚ここに流れ着いた




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by lunabura | 2017-06-23 21:19 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

歴史講座、ありがとうございました。




今日は香椎東公民館での歴史講座、
「香椎が都だった頃」というタイトルで、
仲哀天皇、神功皇后、そして安曇磯良を柱にお話ししました。

沢山のご参加ありがとうございます。


香椎宮の周辺には神功皇后の史跡が特に多く、
謎に思っていた方も多かったと思います。

講座を終えて、「点が線になりました」
と話してくださる方もありました。



今朝は香椎参道を通って行きましたが、
楠の並木道が美しくて、感動しました。

運転手席でないと味わえない光景です。
つまり、道路の中央付近からの景色が素晴らしいのです。

車の通行量が多いので、道路からの撮影は無理なんですが、
明後日、またここを通るので、バスの中からトライしてみようと思います。





昨日は久しぶりに雨が降って、カラッカラの大地の恵みとなりました。

雨天の湿りにほっとしながらも、バスハイクの日は晴れてほしいと、
都合の良いことを考えています。

今日は夏至でしたね。
「カヒ」の民にとっては、日本では曇り空が多いので、
ちょっとあいにくです。

そろそろ真鍋の研究に戻りたいなあ。




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by lunabura | 2017-06-21 21:40 | にっき | Trackback | Comments(0)

万葉集「いざ児ども 香椎の潟に」の歌はココ 香椎潟での玉藻刈りはミソギ



万葉集
「いざ児ども 香椎の潟に」の歌はココ

香椎潟での玉藻刈りはミソギ







香椎廟参拝後、この香椎潟に大伴旅人が馬でやってきて、
玉藻を刈る歌を詠んでいます。






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(御島神社と香椎潟)


6巻 957番
 冬11月、大宰の官人ら、香椎廟を拝し奉りおえて、まかり帰る時、
馬を香椎浦にとどめて各々思いを述べて造る歌
 帥大伴卿の歌一首
いざ児ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ

(さあ、みんな、香椎潟で白い衣の袖も濡らして 朝菜を摘もう)

ここが神功皇后が海に入って禊をした海だということを承知のうえで
朝菜摘みすなわち、玉藻刈をしているんですね。

冬の11月。香椎廟に参拝しての帰りです。

大宰帥が赴任する時、必ず香椎宮に参拝して、
神官から冠に綾杉の枝を挿してもらうといいます。

それに加えて、別の機会にも参拝したのでしょうか。


万葉集では連番で、小野老(おゆ)の歌も載せています。

958番
 大弐小野老朝臣(あそん)の歌一首
時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな

(冬の季節風が吹く頃になった。香椎潟の潮干の浦で玉藻を刈ろう)

ここは北向きの浜。
北風が吹き付ける寒さ厳しい玄界灘です。
大弐とは副長官の身分。
小野老は「青丹よし 奈良の都は~」を詠ったことで有名ですね。

この人も、香椎潟に出て、玉藻刈りをしています。

この「玉藻を刈る行事」とは単なる食材採りの行為ではなく、
禊(みそぎ)のことと考えています。


福津市の年毛宮(としも)の拝殿前の石の棚に
砂混じりのワカメが置いてありました。

同じ福津市の風降天神社でも見かけました。

そこで、年毛宮の宮司に伺うと、
氏子さんが海に潜って禊をした証しとして、
海藻を二つ採って神社に参拝し、
一つは神社に奉納、一つは自宅に持って帰るそうです。

これはお汐井取りと同じ思想ですね。

和布刈神事とも根底は同じです。

和布刈神事は安曇磯良が神功皇后に
干珠満珠の秘法を伝える様子を現しています。

干珠満珠を海神(わたつみのかみ)から貰う姿が、
磯に入って海藻を採る姿になっているわけです。

志賀海神社でも、沖津宮で今も行っています。

干珠満珠は筥崎宮では「玉せせり」の二つの木玉に変化します。

形が変わりながらも、「ミソギ」という思想が通底しています。


太宰帥だった大伴旅人が香椎廟参拝後、わざわざ香椎潟に立ち寄って
みんなで禊をする情景を詠んだものでしょう。

あの岩礁の石祠に祀られているのは綿津見神ですから、
まさにミソギの神様にその姿を見せている訳です。


「朝菜」については、
朝餉の材料としてワカメを摘むと習ったのですが、
そうではないと思います。
太宰府の長官が朝餉を準備するのは何だかねえ。(´・ω・`)


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万葉集には連番でもう一首出てきます。
959番
 豊前守宇努(うのの)首(おびと)男人(おひと)の歌一首
行き帰り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁(よし)も無し

(行き帰りに常に見ていた香椎潟も 明日から後は 見ることもない)

豊前守の宇努首男人を調べてみて、驚きました。

宇努首男人は養老4年(720年)に隼人の乱を征圧しています。
この時、大伴旅人が隼人征圧軍の大将軍なのです。


これが薦神社の創立と関わっていました。
薦神社について、ウィキペディアより。

<養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で
大伴旅人が率いる大和朝廷軍
および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、


薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、
薦枕(こもまくら)を神体に、
神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。>

波豆米はこのあと、鞍手の六嶽神社に三女神の優位性を説きに来ていましたよね。
その年、六嶽神社の神官の家系は断絶します。
何とも不気味に思ったことを思い出します。

香椎潟からここに繋がるとは思いもしませんでした。

また、大伴旅人の五世代前が大伴金村です。
筑紫君磐井を滅ぼした人ですね。

大伴旅人には万葉歌人としての側面と
磐井一族や隼人を滅ぼした武人の家系という側面があります。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言いますが、
歴史もまた、縒り合わせた縄のように、
表裏一体となっているのでしょう。

光と影。

歴史を学ぶということは、両面を学ぶということでもあるんですね。



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『神功皇后伝承を歩く』
下巻67 御島神社 神功皇后は髪をすすぐと美豆良に結った






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by lunabura | 2017-06-16 20:17 | 日本書紀・万葉集の風景 | Trackback | Comments(2)

『日本書紀』に書かれた「神功皇后の美豆良結い」の場所はココ 海の中の御島神社 

 


『日本書紀』に書かれた

「神功皇后の美豆良結い」の場所

海の中の御島神社





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香椎イオンに行く途中の橋の上に細長い公園があります。

そこから見える海の中の鳥居が御島神社♫

海ですねえ。
ええ、岩礁が神社なんです。
かつては大きい岩だったらしいですが。

向こうには照葉の新しい街が出来ましたが、ちょっと前までは海でした。

昔、この岩は船の人にとっては
香椎宮へ向かうための良いランドマークでした。

ここが『日本書紀』に書かれた有名なシーン、
神功皇后が海に入って
「戦いに勝つなら髪が二つに分かれますように」
とウケヒをした所です。

二つに分かれた髪を美豆良に結ったといいます。

それまでは海を渡っての戦いに躊躇していた皇后が
男装をして決意を示すパフォーマンスをした訳ですね。

このあと、御島崎(みしまざき)の浜に上陸して
香椎宮へと戻って行きました。
その続きの道のりが今も伝わっています。

この場所の話が『日本書紀』に書かれているので、
訳して紹介します。

※※ ※

皇后は橿日浦に帰還すると髪をほどいて海に臨んで言われた。

「私は天つ神、国つ神の教えを受けて、
皇祖の御霊(みたま)の助けを頼みとし、
青き海原を渡って、みずから西を討とうとしています。

今から頭を海水ですすぎます。
もし霊験があるなら髪が自然と分かれて二つになりますように」

海の中に入ってすすがれると、髪は自然と二つに分かれた。

皇后は男の髪型の美豆良に結われると、群臣に仰せになった。

「そもそも軍隊を興し、衆人を動かすのは国の大事である。
戦いが容易でも危険でも、勝ち戦さでも負け戦さでも、
軍隊に掛かっている。

今、征伐する国がある。戦いの指揮を群臣たちに命ずる。

しかし、もし勝つ事が出来なければ群臣たちが罪に問われる。
それは私に取って不本意である。

私は女で戦には慣れていない。
しかし、しばらく男の姿になって雄々しく戦おうと思う。

上は天つ神、国つ神の御霊の助けを頼み、下は群臣たちの助けを頼り、
兵士を奮い立たせて険しい波を渡り、
船隊を整えて財宝の国を手に入れよう。

勝利すれば軍功は皆と共にある。
勝利しなければ罪は私だけが引き受ける。
私はそう決心した。皆はどう考えるか、協議するがよい」

群臣たちは皆、
「皇后陛下。天下の為に、国家の安泰の為に全力を尽くします。
負けて罪を問われるような事態は決してありません。
謹んで勅命を承ります」と申し上げた。


※※ ※

『日本書紀』が饒舌な部分は作文だな、とよく思いますが、
それはそれとして、なかなか臨場感がありますね。

現地に立つと、群臣たちは浜辺に待たせたことが分かりました。
何故なら、ここは小舟でないと来れない場所だからです。

群臣たちは御島崎(みしまざき)の浜で
神功皇后のパフォーマンスを見ていたのでしょう。

浜から岩礁は良く見えています。


さて、ここはなかなか良い写真を撮るのが難しい所でした。






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こんなとか(´・ω・`)
いや、人の大きさがよく分かりますがね。

撮り直しに行ったのですが、Pm2.5 でモヤがかかっていて・・・

私の画像が黄色味がかっている時は、そんな時です。

今度のバスハイクでいいのが撮れたらいいな。
え?
来週は北部九州も梅雨入りですって?





『神功皇后伝承を歩く』
下巻67 御島神社 神功皇后は髪をすすぐと美豆良に結った





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by lunabura | 2017-06-13 20:20 | 日本書紀・万葉集の風景 | Trackback | Comments(0)

最澄と神功皇后



最澄と神功皇后


神功皇后関連で時々、最澄が出てくるので、
ちょっと整理しておきましょう。

楯崎神社(下巻70)楯崎寺 福津市
「桓武天皇の御世、最澄師、求法のために唐国に赴かんとして
ここに詣で、宿願を達せんことを祈り、
自ら薬師阿弥陀観音像を彫刻して安置し、楯崎寺という。」


最澄は遣唐使の直前に福津に滞在して、
薬師阿弥陀観音像を彫ったんですね。

巨大な磐座がある宮で、時々紹介していますが、
今も病気平癒祈願の宮として人々が祈っています。


綿津見神社(下巻75) 福岡市東区

神功皇后が海上で嵐に遭った時、綿津見神に祈って難を逃れました。
その時の苫が流れ着いた所に綿津見神を祀りました。

拝殿の右手に社があるのですが、
そこには唐から帰着した最澄が彫ったという
虚空蔵菩薩の木像が祀られています。


最澄が上陸した場所は古賀市の花鶴(かづる)浜です。
皇石神社(上巻25)の近くですね。

そこは仲哀天皇と神功皇后が軍事訓練を見守った宮で、
神功皇后はドルメン石でウケヒをしたと言われています。

そこには三山が並ぶ神名備山がありましたが、昭和になって削られて、
わずか鹿部山(ししぶ)だけが残っています。

ほんの数十年前までは、海から筑紫に上陸するとき、
立花山の三山を目指し、次にこの三山を目指せば、
安全に入港できる灯台代わりの聖山でした。

最澄はこの花鶴浜から投げた独鈷が落ちた所に
独鈷寺(とっこじ)を建てました。
新宮町です。延暦24年(805年)のことでした。

近くに千年家(横大路家)があり、最澄の法燈の火が伝わっています。
(伝えるのが難しくなってよそ(太宰府天満宮?)に預けられたといいます)



風治八幡宮(下巻89)田川
 暴風雨が起こったために、神功皇后が太刀を献上して
天神地祇と伊田大神に祈願したら風が治まったといいます。

伊田大神もまた綿津見神です。

弘仁五年(814)6月、大旱魃が起きた時、
郡司が最澄に伊田大神への祈願を依頼したところ、
潤雨があって五穀は豊かに実ったといいます。


若八幡神社(下巻60)田川 
慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺

『田川郡誌』に、
「夏焼村は夏羽及び田油津姫の霊が祟りを成すので、
最澄が香春宮参籠の折、八幡大神二座及び若宮を創造して
神夏磯姫と合祀し奉り、

六ヶ寺(慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺)を置き、
祭祀をさせたところ、怨霊が鎮まったと言うことである。」
とあります。

神功皇后軍に殺された夏羽と田油津姫の怨霊鎮めのために、
最澄は香春宮に参篭し、六ケ寺を建立しました。

最澄は神功皇后の各地の足跡で祈り、
また皇后の業も鎮めたようですね。


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         最澄



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by lunabura | 2017-06-07 19:52 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(6)

広瀬アリス主演映画は宮地嶽神社で



広瀬アリス主演映画は
宮地嶽神社で



二年前に完成した「宮地嶽神社と磐井の末裔たち」の原稿ですが、
この二年間に新たな情報も多々出て来ました。

3月、金星が逆行する時に、この原稿を書き直す、と決心して
大幅に書き直し始めました。

この数日は集中して推敲をしています。

副題には九州王朝の名も入れていましたが、
これは古田氏の造語だし、
正面切って「倭王朝」の名を使うことにしました。

『日本書紀』は安曇磯良の名も、磐井の姓も、
また鞍橋君の姓も隠し切って、
私たちの真の歴史を奪ったんだなあと、つくづく思っています。

あと少しで一度目の推敲が終わりますが、
今月はまだ公表してない歴史講座もあって、
資料作りに取り掛からねばならないタイムリミットと競い合っています。

そして、ふと思い出した映画の話。

広瀬アリスの映画の舞台が宮地嶽神社なんですね。
今年の夏に公開されます。

私の本も間に合うように、と頑張っておりましたが、
もう6月だから、間に合わんちゃけんど。

映画のタイトルは「巫女っちゃけん。」








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この画像の後ろが「光の道」ですねえ。




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by lunabura | 2017-06-04 20:19 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(5)

玉垂命は安曇磯良(アントンイソラ)




今日は久留米大学公開講座でした。
参加の皆さま、ありがとうございました。

3時間の講座のために12ページの資料を準備しましたが、
無事、最後まで読むことが出来ました。

あとで何人かの話を伺いましたが、
高良山の歴史は深く、広大な地域に影響を与えているのが
よく分かりました。

古くて、かつ今も歴史が生きているのが高良山です。

さて、準備した画像の一枚です。






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拙著『神功皇后伝承を歩く』からも画像を集めてみましたが、
なかなか面白いです。

左上から干珠満珠の形は15センチの勾玉と伝えています。

上中は高良玉垂宮の正面の龍と波。海の波と龍神の組み合わせは綿津見神ですね。
綿津見神は志賀海神社の祭神で、志賀島は龍の都(たつのみやこ)。


高良山と志賀島の繋がりを示唆しています。


上右は門司の和布刈神社の和布刈神事ですが、これは
安曇磯良が神功皇后に干珠満珠の秘法を授けた(玉垂)ことを示す神事です。

左下は志式神社の「磯良舞」。
海神(わたつみのかみ)が豊姫(神功皇后の妹)に干珠満珠を授ける場面。

どれもが「玉垂」(たまたれ)を表しています。
こうして、正史からは消されたアントンイソラですが、
今でも各地で伝えられています。

玉垂命は安曇磯良のことです。






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by lunabura | 2017-05-27 22:42 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご76 高良山―英彦山 香春岳を巡る争い



ひめちゃご76

高良山vs英彦山 香春岳を巡る争い

 「高良玉垂宮神秘書」より
 



前回まで英彦山の話だったが、
今回は高良山に伝わる謎の本「高良玉垂宮神秘書」に
出てくる英彦山の話を紹介しよう。

142条 彦権現、異国人ニテマシマスノ間、彦権現ハカリコトヲ ナシ玉フ、
(略)高良ノ、彦権現ハ、モツハラノテキ神ナリ


高良にとって彦権現は異国人で「もっぱらの敵神なり」
という、珍しい話が書かれている。

こうなった理由は彦権現がはかり事をしたからだが、
その事情はずっと後の212条に出てくる。


それは豊前国の香春岳を巡る争いだった。
意訳をしよう。

212条

香春岳に異国から異国人が攻めてきたら、
三の岳に高良三所大菩薩が降臨して異類を退治しようと誓いを立てた。

異国征伐の時、高良大菩薩が三の岳に登って
異国のようすを視察したことから、
(香春岳)を高良峰と名付けた。

彦権現がはかりごとをして、高良峰を洗い崩そうと、
横に並んでいた山から樋を掛けて水を流したのを、
高良大菩薩が神通力で知って、樋を蹴ってのけたため大洪水になった。

また、仲哀天皇の崩御のあと、薫香が香春岳に垂迹して留まったので、
香春岳ともいう。

というものだ。

これは三韓征伐の直後、神功皇后や安曇磯良、武内宿禰の時代にあたる。

田川の若八幡神社の縁起によると、ここは神夏磯姫が開発した所だ。

その子か孫の夏羽の時代に仲哀天皇、神功皇后たちがやってきた。

そのあと、田油津姫と夏羽の兄妹は朝廷側に滅ぼされた。

その結果、香春岳は朝廷を支える安曇族の支配下になったことが
この二つの条から伺える。

高良大菩薩とはこの時代は安曇磯良を指している。

この香春岳を彦権現が奪おうとしたとき、
大洪水があったことが神話的に描かれているのが面白い。

二つの条から、かわら岳(香春)の地名由来として、
1 こうら(かうら)が支配したので「高良(かわら)峰」といった。

2 仲哀天皇が亡くなったあと椎の木に立てかけた棺から
良い香りがした(香椎・かしひ)という故事があり、
その香りが垂迹したから「香春」となった。

という、二つの話を述べている。
この本の成立は秀吉や家康の時代の頃なので、
それを考慮にして読まねばならない。

そんな中で、分かるのは
香春岳の銅山が古代から争奪の的になったということだ。
とれるのは銅だけではない。多くの種類の鉱物が採れていた。
金ももちろん。

九州に渡来人が各地からやって来て、この宝の山を発見して、
渡来人同士、争いながらも棲み分けをしていく過程が見えるような条文だ。

人間はロケットを飛ばしてまでも新しいミネラル(鉱物)に好奇心を持つ。

古代から、どんだけ鉱物好きなのか、と時々思う。
この話もそんなことを思わせる話だった。



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一の岳は山が削られてしまって、土台だけになっている中央部分。
三の岳は削られた山の左二つ目。




『神功皇后伝承を歩く』下巻60 若八幡神社 皇后軍は夏羽を滅ぼした



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by lunabura | 2017-05-09 20:36 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご67  連玉ビーズは幼な子の胸に



ひめちゃご67

連玉ビーズは幼な子の胸に
 


ロッキーが高三潴の連玉ビーズの公開の画像を送ってくれた。

多分このようなものはネット上でも見ることは出来ないだろう。
貴重な画像を載せて記録としておきたい。

そこには新聞に書かれなかった重要な情報がある。
なんと、連玉ビーズは子供のために副葬されたものだったのだ。

糸島では王墓かもしれないが、
高三潴では幼な子の胸にかけられたものだった。

何故これが新聞には書かれなかったのだろうか。
重要な情報ではないか。












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経年変化のために白濁しているが、見事に姿を留めている。

41基の甕棺があり、何も出なかったと思われたが、
持ち帰って調べて連玉ビーズが確認されたということだ。








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しかも朱の中から出て来た。
水銀朱か単なる赤色顔料かは不明だ。














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これを見て目を疑った。二重構造ではないか?
甕棺の中に甕棺が入れられている?

見間違いだろうか。間違っていたら指摘してほしい。
二重構造の甕棺は初耳だ。












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これが連玉ビーズが副葬されていた甕棺だ。
サイズが書かれていないが、
これでは乳飲み子ぐらいしか入らないのではないか。

パネルのサイズから推測するしかないが、
大人用なら驚くほど大きいのだ。


これはよほど身分の高い人の子供だ。

時代は弥生時代後期(1~2世紀)だという。
景行天皇の没年が西暦130年とされている。

何度も書いているが、
その皇子が国乳別皇子(くにちわけのみこ)で
ここから西に130mほどの所の前方後円墳に埋葬されている。

実はその長さは東西258mもあるという。
それはひっそりと掲示されていた。


岩戸山古墳が135m。
測量の基準が違うかもしれないが、それでも相当の大きさなのだ。





明治時代の弓頭神社の神官の船曳鉄門(ふなびきてつもん)にょると、

〈高三潴地域には山陵が三か所あり、皇子から三代がここに埋葬されて、
その後は大善寺の宮本山に埋葬するようになった。

そこにはおよそ47、8か所の墳墓があり、国造家の数十世代の墳墓だった。〉
(拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻57弓頭神社より)
とあり、高三潴には国乳別皇子から三代の山陵があることが分かっている。


今回出土した甕棺墓群は水沼一族のものの可能性もある。
水沼一族で夭逝(ようせい)した子だと想像することは許されよう。

連玉ビーズがその身分の高さを証明している。














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画像はレプリカ。












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これは拙著『神功皇后伝承を歩く』に掲げた高三潴付近の地図だ。
出土地は赤い星の右下、「い」と「信」の間付近だそうだ。
持っている方は参考にしてほしい。

烏帽子塚古墳が国乳別皇子の古墳だ。

何とも縁(えにし)を感じさせる位置にあるのだ。



ロッキーに感謝。
                         <2017年4月17日>

画像の著作権はロッキー氏に所属します。
連絡の中継ぎとして、画像には当ブログのサインを入れています。


連絡
04月16日 23時10分にメールを下さった 〇中〇 さま。
返信が戻ってきます。
何らかの手段を考えますね。



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by lunabura | 2017-04-17 21:41 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

第五回バスハイク鞍手・宮若2




第五回バスハイク鞍手・宮若2




神功皇后の伝承を辿るバスハイクの続きです。







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これは鞍手の古月横穴から見える山並み。→の所が六ケ岳です。
この古墳群は正面に六ケ岳を見ていました!
(上巻60ページ)









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鞍手を離れて宮若へ。
春日神社です。この神紋は撃鼓神社と同じもの。
榊でしょうか。
(上巻20番)









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トヨタ工場を抜けてすぐに笠松神社。
丘を越えて百官百寮も、ここで休憩です。
(上巻21番)









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山口川に出ました。ここは沼口の若八幡宮。
桜並木が道案内してくれます。
神社を背に犬鳴連峰を撮りました。
(上巻22番)



この山の手前に竹原古墳が。
壁画はとても綺麗に見えました。
出土品がどこに収蔵されているのか、やっぱり不明です。
写真だけでも見たいですね。
(上巻64ページ)









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最後の山口八幡宮。最後の石段を振り返ったところ。
どの神社も少し高台にあり、た~くさん石段を上りました。
仲哀天皇と神功皇后の一行も、このあとは厳しい見坂峠越えです。
(上巻23)

万歩計は一万歩越えでしたよ^^


明日は歴史カフェです。
この鞍手のお話も出てきます。
磐井ファンの方も、新情報をご紹介。
飛び込み参加もOKです。






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by lunabura | 2017-04-15 16:51 | バスハイク | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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