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志賀海神社(5)山誉漁猟祭・「波が途絶えるまで伝えよ」と神功皇后は言った


志賀海神社(5)
山誉漁猟祭
やまほめかりすなどりのまつり
「波が途絶えるまで伝えよ」と神功皇后は言った  

志賀島には神功皇后の伝承が沢山あるのですが、
今回は皇后に披露したという「山ほめ祭」の神事を紹介します。
(2011年11月15日の祭)
資料は祭の時に渡された神事の次第書きで、青色で書き写します。

山誉(種蒔)漁猟祭 
やまほめ(たねまき)かりすなどりのまつり

「山ほめ祭」は古く「かりすなどりの御祭」と称され、
旧暦の2月15日と11月15日に執り行われており、
現在は春の4月15日にその年の五穀豊穣・大漁・事業繁栄・商売繁盛を願う「山誉種蒔漁猟祭」と、
秋11月15日には一年のご加護と収穫に感謝する「山誉漁猟祭」が行われています。


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本殿で社人(しゃにん)三人が祝詞を奏上する。左に控えるのは八乙女(やおとめ)四人。

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本殿の前に立てられた「事無し柴」を清める。

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神殿の扉が開かれて、宮司と社人によって、神饌が献上された。
祭神は
左殿 仲津綿津見神 (相殿 神功皇后)
中殿 底津綿津見神 (相殿 玉依姫命)
右殿 表津綿津見神 (相殿 応神天皇)

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八乙女の舞の奉納。
八乙女は八軒の家だけが代々受け継ぎ、しきたりは今なお厳しいという。
今回は四人によって舞われた。

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宮司の吹く笛に合わせて八乙女が鈴と太鼓を鳴らす。
簡素な四拍子のリズムが刻まれて、
舞手は歌を歌いながらその場で足踏みをして、ぐるりと廻る。
繰り返される歌とリズムは古代の日本の歌謡そのものだ。

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一連の神事が終わると、摂社の「今宮神社」でも同様に繰り返される。
祭神 宇都日金析命・住吉三神・阿曇磯良丸をはじめ神孫阿曇諸神

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その間に本殿前の事無柴に弓と矢、杖と犬の綱が置かれた。

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その前にはムシロが広げられ、櫓と稲ワラが置かれた。
いよいよ「山ほめ神事」だ。
春には宮司が籾種を育民橋より四方へ蒔く。今回は秋の祭。

社人(しゃにん)
神社に奉仕する古老。
大宮司・禰宜・別当・検校・宜別当・楽座の座があり、
それぞれ一良から四良と人数が定められている。
禰宜の座だけがエンジ色の装束を着ている。


「山ほめ神事」の流れ

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大宮司一良・禰宜一良・別当一良、
事無き柴の一枝を採り、志賀三山を三度ずつ払う。


(志賀三山とは本殿うしろの勝山・北側の衣笠山・西側の御笠山)
事無き柴の枝はその場で手で折り取られ、力強く払われた。

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大宮司一良・禰宜一良・別当一良、扇を執り、三山を誉めるが如く三度ずつ合わせうつ。

三人の社人によって同じ所作が繰り返される。

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別当一良、三山へ
「あゝらよい山 繁った山」
「あらふれる 正木のかずら いろまさる このこまに 水をかい はみをあたえよ」


別当は三山を誉め、
「荒ぶれる 正木の蔓が 紅葉した 馬に水を飲ませて、ハミを噛ませよ。」と告げた。

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禰宜一良・二良・杖・犬の綱を持って
一良「山は深し 木の葉はしげる 山彦の声か 鹿の声か
聞分けたりとも 覚え申さず」
二良「一の禰宜殿には 七日七夜の おん祭り ごしゅに食べ酔い ふせって候」
   「五尺の鹿 七かしら 八かしら まぶしの前の通る鹿 何となさる」
一良「その時は 志賀三社 志賀大明神の 御力を以て 一匹たりとも逃しはせぬ」
  (弓を執りて鹿を三度煎る)
  「エーイッ」「エーイッ」「エーイッ」


七日七晩の祭りの酒に酔っ払って寝込んでも、
志賀大明神のお蔭をいただいて鹿を一匹たりとも逃さない。
その意気込みで、弓は事無し柴の根元に向かって三度射られた。

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禰宜二良・別当一良は艪を執り対面し、他の社人は藁の鰭を持ち「ともがり」に鯛の形となる

禰宜二良「君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」
    「あれはや あれこそは わが君の御舟なり うつろうがせ みがいに命 千歳という」
    「花こそ咲いたる 沖のおんづの 潮早にはえたらぬ つるおにくわざらぬ 潮は沖のむれんだいほや」

別当一良「志賀の浜 長きを見れば いくよへぬらむ
     香椎路に向いたる あの吹き上げの浜 千代に八千代まで」
    「今宵 夜半につき給う 御船こそ たが御船なりけるよ
     あれはやあれこそは 阿曇の君のめし給う 御船なりけるよ」
    「いるかよいるか 潮早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな」

禰宜二良「いくせで釣る」
別当一良「よせてぞ釣る」
禰宜二良「いくせで釣る」
別当一良「よせてぞ釣る」
禰宜一良「いくせで釣る」
別当一良「よせてぞ釣る」


最後の場面は「山ほめ神事」の代表的な場面としてよく紹介されている。
社人が二人で櫓を漕いで鯛釣りに出かけなら上記の対話をし、
手前に座る三人の社人はヒレに模したワラを後ろ手で盛んに震わせて、
鯛の豊漁のようすを演技する。

有名な「君が代」もこの対話の中に出て来る。
これら全体は口語体で節も無く語られた。
この「君が代」が香椎宮の木下美重宮司によって採取された。
また同様の歌が名島神社にも伝わっている。

山ほめ神事の起源は明らかではありませんが、
そのむかし神功皇后が三韓出兵した時、皇后の御前にて志賀の海人たちが
この古くより伝わる山ほめ神事をお見せしたところ、
実に面白い儀式であるとして皇后はこの神事を
「志賀の浜に打ち寄せる波が途絶えるまで伝えよ」
と厚く庇護され、今に伝えられています。


これによると、神功皇后がこの志賀島に立ち寄った時には
すでにこの神事が行われていたのが分かる。

阿曇氏についてはwikiでは
律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務める。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来する。
という。

この神事は阿曇氏が内膳司の長官を務める背景を推察させるものである。
これ以外に、対馬の豊崎の浦で志賀の白水郎が皇后の御膳に奉仕した故事、
志式神社での早魚神事など、安曇族が皇后の食事に関わった伝承がいくつかある。
     (つづく)

地図 志賀海神社 






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by lunabura | 2012-03-07 23:10 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(3)

筥崎宮・若鷹たちよ。名古屋で暴れて来い!


筥崎宮
はこざきぐう
若鷹たちよ。名古屋で暴れて来い!
 
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八幡さまも応援してるよ!
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by lunabura | 2011-11-15 00:01 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(2)

忌宮神社(5)秘祭「御斎祭」


忌宮神社(5)

秘祭「御斎祭」


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御斎祭(おいみさい) 12月7日~15日
忌宮神社には殿様にも教えられない神事がありました。御斎祭(おいみさい)です。
しかし時代の変遷によって厳格な神事が困難になったため、
また原点を重んじる意義を人々に理解してもらうために、
その祭祀の内容が公開されています。

私たち一般人は神殿の中での神事を拝見する事が出来ないので、
古式を伝えるこの神事を知る事はとても有用だと思います。

今回はそのあらましを紹介したいと思います。
御斎祭は秘祭のために、一般の参列や取材は許されていません。

●起源
仲哀天皇崩御のあと神功皇后が三韓征伐に際し、斎宮を立て自ら神主となり、
七日七夜斎戒沐浴して斎宮に入られ、天神地祇を祀って
神の託宣を乞われたことに始まる。  

●御斎始め
12月7日 夕刻6時。
拝殿に黒白の鯨幕を張り、神門を閉じ、鳥居および境内の通路に注連縄を張る。
そして境内のすべての外灯を消すと神域は浄闇の中にひっそりと包まれる。
宮司以下全員白衣白袴で、禁酒・禁煙・髭剃り禁止。
一日三度の白粥と白湯で物音をたてずに慎んで過ごす。

●日供(にっく)
毎朝神前にお供え物をして神拝することを日供(にっく)という。
御食(洗米)、御酒、塩、水の三台で、毎年新調される御斎祭用の神器を用いる。
祝詞は心中で奏し、拍手は音を立てず、朝神楽の太鼓は奏さない。

●板神楽の神事(いたかぐら)
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8日の午前2時より守宮司神社(しゅぐうじ)で板神楽の神事を行う。
神饌と紙の人形(ひとがた)を備え、修祓、大祓詞奏上に続いて祝詞奏上があり、
そのあと笛と板神楽を奏する。
板神楽とは縦24センチ、横25センチ、厚さ2.2センチの松板を左手で持ち、
長さ30センチの槍のバチを一本右手に持って打ち鳴らし、それに合わせて笛を吹く。

楽譜はなく、「感応のおもむくままに奏すること」となっている。
深夜、笛の音と板を打つ音が静寂の中に響きわたるとき、
古代へ引き戻されたような素朴な感動を覚える。

●神衣・神宝の移動
新しい神衣と神宝を調製して奉る神事があるが、
それに先立って古い神衣・神宝が移動される。
三年前の神衣・神宝は14日早朝の海潮潔斎の際に、御船手の浜で焼却される。

●三朝神事
最も重要な神事で、10日、11日、12日の未明に行われる。
満ちて来る潮をくみ取る神事があり、年により、日により、三朝神事の時刻は変わる。
海岸が埋め建てられたので、現在は豊功神社下の海岸を選んでいる。
長府に残された唯一の砂浜で、豊功神社(とよこと)の関係者たちが
竿竹を立て注連縄を張って清浄にしている。

宮司はムシロの上で白衣白袴を脱ぎ、ふんどし姿になって新しい草履をはき、
満珠干珠の両島に向かって秘行事を行ってから海に入り、心ゆくばかり禊をする。
一つの心境に至り得たとき手桶に真潮を汲み、真砂(まさご)を三度手にすくって
カゴに入れ、波打ち際に草履を脱いでまた秘行事を行う。

新しい草履をはいて海に入るのは、海の神様のところへの旅立ちを意味していて、
真潮と真砂を持ち帰ることは古代における神迎えの神事の型を伝えるものである。
神殿に戻り、神秘な口伝の神事を行う。

三朝とは夜半から早朝にかけて、この神事が三日間行われるからで、
「御斎荒れ」といわれる風雨の強い日やみぞれが降る日もある。

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(豊功神社境内から見える満珠干珠島)


●御衣・御神宝の調製
11日に広間に祭壇をしつらえ、ひもろぎを立てて、神饌と五色の絹布を供える。
裁女(たちめ)が小忌衣(こいみぎ)を来て、30数点の御衣裁ちを行う。
12日に縫姫により御衣縫が行われる。御衣は縮尺の小さなものである。
以上、「御斎祭」を簡単にまとめてみました。
詳しい内容は「『忌宮』長府祭事記」宮崎義敬著をご覧ください。


さて、るな的に興味を持ったのは二つ。
まず「板神楽の神事」で、板を感応のままに弾くという事です。
香椎宮で神託を受ける時、琴を弾くのは仲哀天皇でした。
小山田斎宮では竹内宿禰でした。
当時、琴を弾くのは男性の役目で、埴輪にもその姿が残っています。

その時のメロディーを知りたかったのですが、手懸かりがこれだと思いました。
神に感応するために雑念を消していくためのもので、
メロディーやリズムは決まっていなかった。

下手な人が弾く時は「ミ」だけ弾けば形になるという話もあります。
この「板神楽」の奏法は古代の演奏法をよく残していると思いました。

もうひとつ興味を持ったのは「三朝神事」です。
この神事を読んでいると、豊姫のミソギを思い起こされてなりません。
豊姫は海神から干珠満珠の珠を貰うために、その前で神楽を舞います。
豊姫とは深夜の海に入って天候や地震などを占う巫女の事でした。

高良大社 高良玉垂宮(Ⅲ)
70年に一度の大津波を伝える豊姫  シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた
http://lunabura.exblog.jp/13419445/


宮司が身を清めて満珠干珠の島に向かって海中に入る神事こそ、
海神から干珠満珠の珠を受ける神事で、海人族の祭の神髄だと思われます。

この神事は地元の広い地域社会でも参加しているとか。
一宮生倉、吉見、吉母、室津、黒井、吉永など穴門の中心部、遠い美祢の別府までで、
もっと広い範囲で行われていたのではないかと地方史に書かれています。

縁の深い住吉神社でもほぼ同様の忌籠りがあるそうです。
昔は8月15日の放生会に両社の御神輿が出会う習わしもあったとか。

う~ん。長府の古代を明らかにすると、日本の古代史の見通しがかなり良くなるなァ。

次回は仲哀天皇の殯斂地に行って見ましょう。

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by lunabura | 2011-10-06 13:31 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(6)

大善寺玉垂宮(1)日本三大火祭りの鬼夜はここ


大善寺玉垂宮(1)
だいぜんじたまたれぐう
福岡県久留米市大善寺町宮本1463-1
日本三大火祭りの鬼夜はここ


大善寺町は福岡県の南部にあります。
県道47号線(久留米城島大川線)沿いで、
筑後川に八女市から流れてくる広川が合流する所です。
神社に寺の名前がついているのも珍しいのですが、
これは久留米市の「高良玉垂宮」との区別のための名称らしく、
神社誌では「玉垂神社」となっています。
この二つの宮は深いかかわりがあります。
古代史的にも重要な場所。さあ、どこまでアプローチできるかな。

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朝から竜巻に大雨にという日、辿りつくと雨がやみました。
おお、これは大きい。

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大きな楼門です。

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境内が広々としています。

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拝殿に着きました。酒樽がいっぱいです。古式豊かな拝殿です。

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参拝するために近づいて見ると半蔀(はじとみ)ではないですか。
戸を上下に分けて、上の戸を吊り上げています。
平安時代に出て来る古式の建築様式!
十二単(ひとえ)の女官でも出て来そうな風情です。
いったいいつ頃の建築でしょうか。

福岡県神社誌を見ると、「弘仁5年に嵯峨天皇の勅命で
本社・末社・楼門・廻廊・神幸橋、その他の諸堂を造営した。」
となっています。この時大善寺と言う名前が付きました。

弘仁5年って西暦814年です。火災にあった記録は書いてありません。
すると、へ、平安時代の建築そのもの?本当に?
これまで行った神社の多くは戦国時代に焼かれているので、これは奇跡!

本当だとすると紫式部より200年も前のものになるんです…
諸堂の配置なんか独特の雰囲気があります。
京都まで行かなくても平安時代にタイムスリップできる…。

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拝殿の左手に廻ると、竹がいっぱい立て掛けてありました。
そばでクスノキの剪定をしている方に尋ねました。
「この竹は鬼夜に使うために干しているのです。
燃えやすくするために、3月には切ってこうして乾燥させます。
長い方は化粧の竹で松明(たいまつ)の一番外側に巻く分で13mあります。
奥の方にあるのが枝で、燃える分です。
三本の大きな竹を芯にして枝を巻き付けて、この化粧竹を最後に巻きます。」

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これが松明の芯になる大竹です。楼門の横に置いて乾燥させています。
瓦屋根で絵になりますね。
「1月7日の鬼夜の為に1月の4日ごろに松明(たいまつ)を作ります。
その頃来られたら見られますよ。」
「何本ですか?」
「6本です。」
「どこに並べるのですか。」
「向こうです。」

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教えられた所はクスノキの杜。❤❤
歩いてみると雨の後だったので、祭りの松明の残り香がしました。
この「鬼夜(おによ)」は「日本三大火祭り」の一つですが、
私はまだ見た事がありません。
この大きな松明に人が乗っている写真をよく見ます。
燃えて短くなって行く松明の縄を切って行くためでした。
それを細いカシの木で、みんなで支えるのですから命がけです。

ネットで調べると祭りの映像が年々UPされていっぱいありました。
「大善寺玉垂宮 鬼夜」で検索してみてください。動画もありますよ。
今回は
由緒が書かれていて迫力ある写真  「和田フォトギャラリー」
http://wadaphoto.jp/maturi/oniyo.htm


神事の流れを写した 「あじこじ九州」
http://www.ajkj.jp/ajkj/fukuoka/kurume/kanko/oniyo/oniyo.html

をリンクしておきます。

こういう浄化の火は動画を通してでも感激しますね。
                             (つづく)

地図 大善寺玉垂宮 




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by lunabura | 2011-09-04 11:38 | 大善寺玉垂宮・だいぜんじ久留米 | Trackback | Comments(0)

大善寺玉垂宮(2)桜桃沈輪(ゆすらちんりん)と追雛(ついな)


大善寺玉垂宮(2)
桜桃沈輪(ゆすらちんりん)と追雛(ついな)


鬼夜の火祭りの由来について説明板が境内にありました。
この火祭りは「鬼夜」と言い、その起源は古く、
仁徳天皇56年(368年)に、肥前桜桃沈輪(ゆすらちんりん)という悪徒がいて、これを伐つため、藤大臣が勅命を受け、大松明をかざして打ち亡ぼした故事からのもので、昭和29年には県の無形民俗文化財、平成6年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。 久留米市観光振興。


桜桃沈輪(ゆすらちんりん)
一度聞けば忘れられない名前です。
「桜桃」とは中国原産のバラ科の植物で、白か桃色の花が咲いて赤い実がなります。
全国で植えられているそうです。

この「桜桃」を「ゆすら」と読むのは
朝鮮語の「移徒楽(いさら)」がなまって「ゆすら」となったとか。

[肥前の悪徒]と書かれていますが、
「桜桃」は桜に似た美しい花が咲く木の姓をもつ人でした。
「沈輪」は後に悪字が付けられたのでしょうね。

「ゆすら」の出典はこちら(花と実の写真もあります)
http://www.hana300.com/yusura.html

実はサクランボそっくりですね。食べられるそうです。

ネットで調べるとこの男がいたのは「肥前国水上」とあります。
この地名を探すと「佐賀県大和郡水上村」というのが
明治時代まで存在していたというのが分かりました。
現在の川上峡の近くだそうです。
そうすると、筑後川を挟んで対峙していたクニの可能性があります。
位置関係だけを地図に書いて見ました。

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やはり桜桃沈輪大善寺玉垂宮は筑後川を挟んで対峙しているようです。
伝承をいくつも読み合わせると、時代や関わった人たちや
戦闘場所が錯綜していました。
このために原因は分からないけど、戦いの記憶が祭に残されていたのですね。

地図に書いた「吉野ヶ里」のクニはもう消滅していますが、
有名な場所なので、位置関係が分かるように書き添えました。
神崎の「物部氏」というのは、真鍋大覚氏によるもので、
この時代に存在したのかは未調査です。
(尚、地名の調査については、久留米地名研究会の古川氏と
古代史研究家の福永氏に協力を頂きました。ありがとうございます。)

追雛(ついな)
この鬼夜の火祭りは追雛という神事の最終日の神事です。
大晦日の夜から1月7日まで神事が行われます。
この一週間、神官によって火が守られるそうです。

この祭りの真の意味について古賀寿氏の文があるので転記します。
神さまは一年間(神社に)居られると、その地方の人々の罪・穢れなどを全部引き受けてどろどろに汚れてしまわれる。そこで神聖な水で禊(みそぎ)をして神格を再生しなくてはならない。 ―略―
 
これは大善寺の場合もそうでありまして、大善寺の玉垂宮の鬼夜の行事があります。これは太宰府の鬼会などと全然違うのです。

というのは、鬼が阿弥陀堂に籠っているのを子供等が追い出して、その間に大松明に火をつけて、大松明がずっと移動して行って観光客がいなくなったところで、鬼がパッと出て来まして、子供等に守られて前の川の禊場に行き、そこで口をすすぎ、手を洗い顔を洗い、鬼は子供等に守られて玉垂宮の神殿の中に飛び込んで、内々陣の扉の前に手をついて祭が終わる。

これはどうしてかと言いますと、鬼を追い払うのでなくて、鬼に禊を勧めて神殿に帰ってもらう。この事から鬼というには神様だという事がわかる。神様が一年間人間が犯す罪穢を皆引き受けてしまうので、どろどろに汚れて忌籠りをなさっている。

それを引き出すために大松明の行事があるわけで、大松明だけを見てあの祭りは火が大きいなというだけでは祭の本質が分からないのであります。これは秘事なのです。語ってはならないことだったのです。(高良山文化研究所発行)

神社で「払いたまえ、清めたまえ」と人間はお参りするのですが、
神がその罪、穢れを一身に引き受けてくれていたのですね。
一年たつと汚れきってしまって引き籠ってしまわれた神に禊を勧めて、
再び新生してもらう神事でした。

これこそ日本の神道の基本的なあり方です。
罪穢れを背負う神には他に
さすらい姫や瀬織津姫、スサノオの命など、いろんな神様がいます。

再生の神事は神社によって異なるのでしょうが、
この大善寺玉垂宮には「鬼」と言う名で原型が伝わっています。
天照大御神が岩戸に籠るのも、このような意味合いがあるのかも知れませんね。

それにしても、語ってはならない秘事を書いてしまいました。(・.・;)
(古賀寿氏が書いた事だし…。)

祭の本来の意味が忘れられて
付属する夜店や花火の華やかさに祭の姿を求める事も多い時代、
原点に立ち戻り、神事の意味を理解して真の祭を取り戻せるようにという
神計らいだと思いましょ。
(この資料は久留米地名研究会の大石氏に提供いただきました。
ありがとうございます。)

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これが神社の前を流れる広川です。大雨のあとなので水量が多いです。
石段があって、川に入れるようになっています。
1月7日の神事の夜は真っ暗でとても冷たそう。
まさにミソギですね。
 (つづく)


シャグマ役の子供たちと神事の流れ
大善寺玉垂宮の鬼夜

http://kurumenmon.com/daizenji/oniyo/oniyosetumei.htm


大迫力で神事の全容を撮った
若草写真館 鬼夜

http://wakakusa.a.la9.jp/HP8163.htm






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by lunabura | 2011-09-03 20:57 | 大善寺玉垂宮・だいぜんじ久留米 | Trackback | Comments(2)

風治八幡宮・暴風雨を止めた神さま


風治八幡宮
ふうじはちまんぐう
福岡県田川市魚町
筑豊一之宮
暴風雨を止めた神さま
 


ナビに従って行くと、彦山川を渡って商店街に。
キョロキョロすると、左手に杜が見えるので、とにかく行って見ました。
アプローチが難しい神社は、お宮を中心に町が発展した印象があります。

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神社の入口は道路の角にありました。

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ひ、広い!
境内の写真はハレーションを起こして、真っ白です。

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拝殿です。
筑豊一之宮という事で、その風格は堂々たるものです。

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参拝を済ませて神殿の方にまわると、伊勢の神殿がありました!
当神社御神殿は、伊勢神宮より、第61回式年遷宮による、別宮「土宮」の古殿舎一棟を賜り、このたびの御造営に当たり、復元建築を致したものです。
平成8年9月 竣功 風治八幡宮(一部変更)

と立札に書いてありました。
この「風の宮」に「土の宮」が置かれたとは、陰陽バランスを取ったご配慮でしょうか。

広い境内にはいくつもの摂社もあり、ぐるりと廻ることができます。

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高台にあるので周囲の眺めがよく、香春岳が見えるスポットもありました!
香春(かわら)岳の一の岳は削られて台形になっていますが、
その向こうの二の岳と三の岳は三角形の姿を留めています。
香春岳と言えば古代から神が宿る三連山として、信仰を集めた神山です。
しかも古代には採銅所があり、奈良の大仏を作る時には、ここからも運ばれて行きました。

さて、この神社を参拝したのは、神功皇后の伝承があったからでした。
風治八幡宮由来
御祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
    海津見神 豊玉姫命 玉依姫命

御祭神の初めの三柱は、親子三人が揃ってますョ!
親子三柱の組み合わせは案外珍しいかも知れませんね。

そして、残りの三柱は海の神と女神たち。
豊玉姫と玉依姫の姉妹が一緒に祀られているというのも珍しいです。
(すると、海津見神とは、二人の父の豊玉彦命かも…。)

さて、つづきを読みましょう。現代語訳します。
風治八幡宮は古くは伊田大神と言って、海津見神(わたつみのかみ)を祀っていた地主神だったが、神功皇后が征韓する時に、筑紫から穴門(山口県下関)の豊浦に戻る途中、にわかに暴風雨が起こったため、この神社の前の大石に腰を掛けて、身につけていた太刀を献上して、天神地祇と伊田大神に祈った所、暴風雨がたちまち治まって、つつがなく穴門に着いた。

それから後、弘仁5年6月、大旱魃(かんばつ)になって、五穀がすべて枯れようとした沖に、郡司が伝教大師に伊田大神に祈願してもらうと、雨が降って五穀が豊かに実った。

弘仁8年、伊田宮山の地に社殿を造営し、霊験あらたかな奇瑞を後世に伝える為に、風の一字を加えて「風宮」とし、蓮台寺・長松寿院の両院を開いて神宮寺とした。
のち「風治」と改称した。 (略)

伊田の神様は暴風雨を止め、また慈雨をもたらして人々を守っているのですね。

ところで伝教大師って最澄のことだよね。最澄も陸路を通って帰っていったのかな。
昔はいくつもルートがある訳ではないので、
神功皇后と同じ道を通った可能性があります。


腰掛石
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一の鳥居のすぐ左に「神功皇后御腰掛石」があります。

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近寄って見ると、座るのにほどよい石です!
昔は地面って、雨が降れば泥んこ道だったでしょうから、
このように石があると、ほっとして座った事でしょうね。

それにしても、こんな平べったい岩を見ると、
ついついドルメン石か古墳の石かと思ってしまうのは私くらいかなあ?

川渡り神幸祭
リーフレットを見ていたら、「川渡り神幸祭」の写真が!

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この神社の祭りだったんですね!
これは熱いぞ!
5月第3土・日曜日のお祭りだから、彦山川の水はまだ冷たい。
熱気がすごいですね。

祭の写真は[公式サイト]と[歴史散歩]から。
写真を見るだけでも熱くなります。

風治八幡宮 公式サイト
http://fuuji.net/

九州あちこち歴史散歩★風治八幡宮・川渡り神幸祭(1)
http://www.kyushu-sanpo.jp/matsuri/fukuoka/kawawatari-a/kawawatari-a.html


地図 風治八幡宮


さて、筑豊の逍遥は香春岳の近くの若八幡宮へ向かいます。




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by lunabura | 2011-07-21 11:15 | 風治八幡宮・ふうじ・田川市 | Trackback | Comments(2)

幣立神宮(1)ホピのメッセージ(1)


幣立神宮(1)
熊本県上益城郡山都町
ホピから日本人へのメッセージ(1)
6000年ぶりの幣立神宮の五色神祭に寄せて


1995年は幣立神宮の大祭の年でした。
その年には五色神面の開帳があり、木製の仮面を拝見する事が出来ました。
大きさや手法がそれぞれ違っていて、同一製作者によるものではありませんでした。
どの仮面も現代の日本人の顔を連想させるようなものはありませんでした。

五色人とは黄人、白人、赤人、青人、黒人の五種の人類を象徴するもので、
この年は世界の各地から五色人がこの宮に集う約束の年でした。

白人の代表となったジュディス・カーペンター女史は、オーストラリアで手に入れた二つの石の奉納先を探し求めて、この熊本の幣立神宮に辿り着き、石を奉納しました。もう一つの石はホピ族に奉納しました。

赤人で導かれて来たのはラルフークレイグ・カーペンター氏でした。
彼はアメリカでホピの長老と出会い、ホピのメッセンジャーとしての使命を教えられて、日本にやって来ました。その時の使命は、仲間である熊族と太陽族を日本で見つけることと、ビッグフットの足跡を見つけた人を探す事でした。そして幣立神宮に辿り着いたのでした。

たまたま私はこの二人がそれぞれに幣立神宮へと導かれる状況を傍から見ることが出来ました。

8月23日。約束の祭りの日に二人のカーペンター氏が白人と赤人の代表として集いました。黄人の代表は幣立神宮の氏子さんでした。あとの青人と黒人はやって来ませんでした。

拝殿から三人はそれぞれ参集者にメッセージを伝えました。

そして、数ヵ月後、ホピからのメッセージが幣立神宮に届けられたと聞いて、
再び訪れました。大晦日か、その前日でした。
それは日本人への特別なメッセージでした。
もう16年も前のメッセージですが、
これからの日本人の未来の創り方へのヒントが書かれています。

今回から、それを全文紹介したいと思います。

6000年ぶりの幣立神宮の五色神祭に寄せて
     ラルフークレイグ・カーペンター

 参拝された皆様には、特別なインスピレーションに従って参拝の労をいただき感謝申し上げます。皆さまの守護霊にも感謝申し上げたいと思います。

 こうして皆様の歴史上特別な本日の祭典に参列されたことが、お一人、お一人にとって重要であり、必然の出来事があったろうと思われます。

 母は私にラルフークレイグ・カーペンターと名付けましたが、年月を経て別の名が新たに与えられました。ラルフとは一匹で動き回る狼にちなんだ名で、クレイグとはごつごつした岩または人を寄せ付けない崖にちなんだ名前です。

カーペンターは木を使って道具や品物を作る大工さんを意味しています。特に家族や家畜を守るための家を作る人のことを指します。

 私の属するクラン(族)は熊ですが、父は水蛇または竜に属しています。沢山の鳥や動物や爬虫類、水辺の生物や虫たちが私をかわいそうに思ってくれて、メッセンジャーとしての私の仕事を支援してくれました。

 私の仕事はコロラド川近く、グランドキャニオン西側に住んでいる平和な人々ホピ族のメッセージを世界に伝達することです。

 5500年の人間の歴史のなかで、今のこの時は最も危機的な時代です。戦争勃発の恐怖、飢餓や病気、家庭崩壊などさまざまな不安があります。

ホピ族が生存しているという事実そのものが、平和というものが実現可能なものであり、本当に機能する真の民主主義が存在できるのだという事を、おのずと明らかに証明しています。

 私は混血のモホーク族で、モホークの言葉ではモホークのことをカナンヘヤーガといいます。北アメリカ(Amel-Rika=神々の国)のことをインディアンは「亀の島」と呼びます。私の出身地は五大湖の東の端にあります。

ホピは人間の歴史のなかで一度も戦争をしたことのない唯一の民族です。ホピの歴史は最後の洪水の時期やそのさらに先までも遡ります。

第二次大戦中、投獄されていたアメリカ人の良心的兵役拒否者は300人でしたが、その内、40人はホピ・インディアンでした。当時アメリカ市民の人口は5000万人でホピ族は7000人しかいなかったことを考えれば、ホピの人たちが精神的・倫理的に高い基準を持っていたことがわかると思います。

当時、日本の人口はアメリカの半分でしたが、日本では良心的兵役拒否者は30,000人でした。       
 (つづく)

※ホピ族の「ホピ」は「平和な人」という意味で、一切の戦いをせず、毎日四方に向かって平和の祈りをしています。戦わないという教えを守るために、兵役も拒否したために投獄されました。


幣立神宮 「あしこし九州」へ
http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/soyo/kanko/heitatejingu/heitatejingu.html




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by lunabura | 2011-05-16 12:40 | 幣立神宮・へいたて・ホピ予言 | Trackback | Comments(0)

幣立神宮(2)ホピから日本人へのメッセージ(2)


幣立神宮(2)

ホピから日本人へのメッセージ(2)
6000年ぶりの幣立神宮の五色神祭に寄せて


ホピ族が平和的で精神的な人たちであるという例をもう一つ挙げさせて下さい。投獄された良心的兵役拒否者として記録に残っているのが、ホピ族のトーマス・バニヤッカです。

トーマス・バニヤッカは過去50年間ホピ族の伝統派およびスピリチュアル・リーダーたちの通訳をつとめてきました。大変信仰心が篤く、メッセンジャーとしても活動的でした。現在および過去のホピ族の歴史について、またホピの道を私に教えてくれました。

この「花の国」または「日の昇る国」と呼ばれる日本が、この世界の始まりから今日に至るまで、役割を全うしてきたことに対して、見えない精霊たちに感謝を捧げたく思います。

この日本と言う国の大地と生命は、不安や利己的な欲望、殺人などの否定的なエネルギーに屈せず、このように完全に守られ導かれてきました。

見えない精霊たちのたゆみない誠実なる守護なくして、今日のこの素晴らしい日本を迎えることは出来ないことでした。

この美しくて素晴らしい日本と言う国に私を招き入れてくれたことに対して、見えない精霊たちに感謝したいと思います。

カラス、はと、きつつき、猿、かまきり、蛇、とんぼ、くも、スズメバチ、蝶などの生き物が協力してくれました。またインスピレーションの強い人たちが上手に私を導いてくれました。

こうしてこの地において熊族であり、私の親戚である熊襲の人たちに会えたこと、また、蛇族、クモ族、亀族、火族、太陽族、猿族など、今だに最初の教えを忠実に全うしている人たちに会えたことに対して感謝したいと思います。

インスピレーションを受けた人たちが、この最も神聖なる場所へ私を導いてくれたことに対しても見えない精霊たちに感謝したく思います。この大地と生命の精霊たちに感謝の供御を捧げたいと思います。

ホピの長老と出会って、ホピ族のメッセンジャーとして、日本にやってきたラルフ氏は、
『ホピの予言―大いなる浄化の日』という映画を製作した宮田雪監督と共に、
日本を移動し、福岡に来て、熊本の幣立神宮へと導かれて行きました。

その時は熊本は熊襲祭りで盛り上がっている年でした。
「熊族や太陽族に出会ったかどうかは、帰ってから分かるものです。」
とラルフ氏は言っていましたが、熊族と言えば誰でも熊襲を連想します。
まさしくその通りだったんですね。

ラルフ氏は「日本の見えない精霊たち」に感謝をしてくれています。
この精霊たちこそ八百万の神々の事で、神社や大自然の中に営んで、
私たち日本人の精神構造の形成に大きく関与してくれました。
それに気づくことは、ホピの文化もまた精妙な意識世界の上に成り立っている証しです。

思いがけないことですが、この熊本の地の熊の神は私の崇拝する神であり、この地の太陽の女神は私の崇拝する神であることが分かってきました。

最も崇高で最もパワフルな太陽の女神について言及するとき、わたしたちは恐れ畏み隠喩的な表現を用いますが、この大変古い社では、その女神の名が明らかに示され、公に祈り奉られていることに目を見張る思いです。

※幣立神宮の祭神の一柱に「天照大御神」がありますが、それを「太陽の女神」と言っています。
ホピ族は「あのお方」と言う風に隠喩で呼んでいます。
私たちは祖先による最初の聖なる教えに戻って間違いを正さなければいけません。最初の祖先の与えた質素で謙虚で、地に足のついた平和な生活方法に戻らなければなりません。

地面の中から貴重な鉱物資源を取り出す事を止めなければなりません。そうしなければ生命を支えてくれている水、土を汚してしまうのだという警告をすでに与えられていました。また太陽の光と熱も汚してしまうとも警告されてきました。 

※「貴重な鉱物資源」とは「ウラン鉱石」です。
ホピ族は現在、インディアン居留地に住んでいますが、本来住んでいた土地があり、
強制移動させられました。かつて住んでいた土地の地下にはウラン鉱石がありました。

そこは不毛で痩せた土地ですが、ホピ族を導く精霊マーサウによって、
そこを守るように言われて住んでいました。
「ここは地球の背骨である。人間が安全な使い方が分かるまで、決して掘ってはならない。」
という教えと共に。

白人が現れてそれを掘り出し、ひょうたんに詰めて、広島・長崎に投下しました。
ホピたちは自分たちの守って来た土地から奪われたものが爆弾となって
大地を焼き尽くした事に心を痛め、予言の警告する時が来たことを知り、立ち上がりました。

掘りだされた鉱屑は山となって放置され、現地は放射能汚染にさらされています。
彼らもまた放射能汚染の被害者なのです。
     (つづく)




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by lunabura | 2011-05-15 00:59 | 幣立神宮・へいたて・ホピ予言 | Trackback | Comments(0)

幣立神宮(3)予言が示す日本の理想の未来社会とは


幣立神宮(3)

ホピから日本人へのメッセージ(3)
予言が示す日本の理想の未来社会とは


最終的な結果として、すべての火の内で「一番強くパワフルな太陽の火」という見えない神性が働き、私たちを正そうとして浄化をもたらします。大地と生命の破壊行為を阻止するために私たちを滅ぼします。

それは「上空から層をなして降りてくるたくさんの稲妻で、その下に生きているものをすべて灰にしてしまう」のです。

そのあとに太平洋と大西洋は「かつてそうであったように再び一つとなって」大地を完全にきれいに洗い流します。そして天地が全く逆さまとなり、今上にあるものは下に沈み、今下にあるものは上に上がります。

この地に人間が住んでいたことを示すものはあとかたもなくなります。天地のひっくり返りが始まると、2・3回はゆさぶりが続きます。これらは昔にもあったことです。もしそれが起こってしまうと、この大地に人間がもう一度暮らすことが許されるかどうかは大変疑わしくなります。

私たちが幾度も繰り返し、やり損なってきたために、その権利を剥奪されてしまうでしょう。そしてその後には村単位の生活を営むアリたちがこの地球を受け継ぐでしょう。

遅すぎることのないように、地球の生命を破壊し続けている貴重な鉱物資源を掘りだすことを止めましょう。再び間違いを犯さないようにしましょう。トーマス・バニヤッカの言うように、地球の生命を破壊し続けている貴重な鉱物資源を掘り出すことを止めましょう。

工場や街、拝金主義的な考えを捨てて、食べ物、着る物、家屋、道具を自給自足できる村単位の生活に戻りましょう。隣人たちと相互扶助の行える生活をしましょう。村全体が一つの家族であるような生き方をしましょう。

平和と統合という大きな波のうねりを、この幣立神宮から押し出していきましょう。そして、地球全体がかつて始まりの時、そうであったように、真の平和、真の兄弟愛、地上天国での「永遠の命」の中で生きていけるようにしましょう。

(1)増加し続ける狂気および戦争
(2)不治の病の増加
(3)家庭崩壊の増加
(4)風、水、火、土の4元素による災害の増加
などで私たち自身を滅ぼさないようにしましょう。堕落しすぎないようにしましょう。
さもないと、阿蘇山の力が働いて火と水の力で大地や山が水浸しとなり、その高さが1600mにまで達してしまうでしょう。これは過去にもあったことなのです。

この地に奉斎されている崇高な太陽の女神に浄化を起こさせないようにしましょう。太陽の女神は「目には見えないが一番パワフルで決してきえることのない火」なのですから。

そうしたみっともない終わり方を迎える替わりに、1995年8月23日の11:30、こうしてここにいる私たちの「6000年ぶりの五色神(人)様の集まり」から「立ち止まってよく考え、自分を正し、変えて」行きましょう。過去の誤りを正して行きましょう。
「前に進み、幸福でいましょう。子供たちを養って行きましょう。」

以上です。
この阿蘇山はかつて富士山よりはるかに高くそびえていましたが、
大噴火のために山容を失いました。
その時大地震が起こり、1600m高さの津波となって、
ロッキー山脈を越えて東海岸まで達したという伝承をホピ族は持っていたので、
こうして、メッセンジャーを日本に送りました。

ホピの予言の中では、人類は今、分かれ道に立っていて、
一つは月にまで達する発展的生き方による破滅への道。
もう一つは大地を耕す循環的生き方をする平和への道
のどちらかを選択する時だと言っています。

私たちが今、消費によって成り立つ社会を見直し、それぞれが大地の暮らしに戻る時、
この悪い方の予言は成就しないのです。
ホピたちは日本人が大きな役割を担っていると伝えています。

私たちが目指す未来社会のヒントは
「工場や街、拝金主義的な考えを捨てて、食べ物、着る物、家屋、道具を
自給自足できる村単位の生活」
「隣人たちと相互扶助の行える生活」
「村全体が一つの家族であるような生き方」
です。

ダッシュ村のあり方はそのモデルだったなあと思っています。
一日も早く原発問題が終息しますように祈ります。
美しい日本を子供たちに残したいです。

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ララミー砦の協定
シャイアン族とスー族の長老たち 1868年


ホピ族は日本と同様に雛型思想を持っています。
(ホピで起こる事は、世界でも起こるという思想)

次のリンクは、阪神淡路大震災の後に出された日本人へ向けたメッセージなどが
書かれています。興味のある方はどうぞ。

ホピ族の長老マーティン・ガスウィスーマから日本人への伝言
「神戸地震について、日本の人たちへ伝えたいこと」 ほか
http://www.aritearu.com/Influence/Native/Nativeword/Word28.htm#1




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by lunabura | 2011-05-14 00:15 | 幣立神宮・へいたて・ホピ予言 | Trackback | Comments(2)

第3、4回地震雲教室のお知らせ


地震雲教室の開催のお知らせ

真鍋大覚氏の「日本地震雲研究会」を受け継ぐ「新地震雲研究会」会員による
「地震雲教室」の第三回と第四回です。

日時 第3回 5月14日(土) 午後6時~9時
         内容 地震と虹 ムクヒラ・アークを知っていますか

    第4回 5月21日(土) 午後6時~9時
         内容 地震と火山

会場 自然食と喫茶 くるま座 (人数が多い時は変更があります。)
    福岡県春日市千歳町1-24 (JR春日駅から歩いて3分)

講師 中島 茂 (新地震雲研究会会員)
会費 500円

申し込み 電話で予約の上、お越しください。
 092-592-8903 (くるま座)

駐車場がないので、春日市 クローバープラザの駐車場や、
春日駅前100円パーキングを利用して下さい。

変更がある時には、当ブログに出します。最終確認をしてお越しください。
当ブログのカテゴリでは「地震雲教室」とします。

地図 くるま座






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by lunabura | 2011-05-07 11:08 | <地震雲教室> | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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