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徐福と弓月の君・竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた


徐福と弓月の君

竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた


本日の妄想


佐賀県には徐福伝説が深く根付いていて、
上陸地の話や、当時ぬかるんでいた話など、
けっこう具体的な話が今でも話題になる。

福岡県でも筑紫野市の宮地岳、福岡市の名島など、枚挙にいとまがない。
秦の始皇帝から逃れた徐福は3000人の童男童女を連れて、
日本に向かった。
生殖能力を重視したのだから、新たな国造りを意図した事がみてとれる。
船の数だけでもたいそうな数だ。
各船はばらばらに日本に到着したのだろう。

佐賀県の吉野ヶ里には中国の影響があると言われるが、
徐福のもたらした文化を指すのではないかと思っている。

ばらばらになった徐福の船団は長い時間をかけて互いの居住地を発見して、
連絡を取り合うようになっていたと思われる。

徐福の死後、約400年。

竹内宿禰が生まれた。
父が武雄市で祀られている。母も同様。
母の墓は小郡市の竈門神社に伝わっている。
小郡市のすぐ隣は基山(佐賀県)だ。
竹内宿禰は佐賀生まれだろう。

基山(きやま・きざん)は「キ」の国でもある。
竹内宿禰は和歌山県の紀の国の湊も利用していて、そこにも徐福伝説がある。
同じ「キ」の国なのだろうと思っている。


つまり竹内宿禰には徐福関係の血が流れているのではないか。
それがずっと気になっている。

宗像市の織幡宮は「シキハム」様と呼ばれている。
主祭神が竹内宿禰だから、彼の名が「シキハム」というのだろうか。
まだ、確証はない。
しかし、神功皇后をそこまで連れて来て、近くのハツでハタ織りを指示していることから、
秦氏の関連性が見られる。

竹内宿禰は神功皇后を旗頭にして新羅攻撃をした。

それから、しばらくして、
新羅によって足止めを食らっている弓月の君たちを
息子の葛城襲津彦に迎えに行かせた。(日本書紀)
弓月の君はもちろん秦氏だ。

一方、新羅では『晋書』辰韓伝に、
「辰韓は馬韓の東にあり、苦役を避けて韓に逃げて来た秦人が住んでいる。」とある。
この秦人も秦の始皇帝の時代の人たちだった。

そうすると、秦の始皇帝から海路で逃れた徐福たちと、
陸路で逃れた秦人たちがいたことになる。
後者が弓月の君とはいえないだろうか。王族とはいえ、王位争奪に負ければ命はない。
1~2万人を連れていたので、陸路でないと移動できなかった。


ふと、そう思い付いて弓月の君についてwikipediaを調べた。

弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。

渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(wikipedia)

葛城襲津彦と平群木莵宿禰は竹内宿禰の子。

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イメージとしては上の感じ。
「弓月の君」=「秦人」であれば、妄想は結実する…。

ということで、久し振りの妄想コーナーですぞ。

徐福は言った。
「扶桑の国(日本)に先に渡って、平和な国を創っておきまする。
貴殿(弓月の君の祖)は陸路で人々を連れて東の果てに行ってください。
必ず迎えに行きます。」
「分かった。東の果ての湊で待とう。扶桑の国にて必ず会おうぞ。」
そう言うと、弓月の君の祖は海路で行く徐福を見送った。

徐福は有明海から入って行き、ありなれ川の右岸に着いた。
近くの倭人たちに技術をもたらしながら、
倭人と通婚して溶け込んで行った。
その一方で、弓月の君たちの居所を確認するために
使者を何世代にもわたって中国に送り続けた。

それから数百年後。
佐賀で生まれた竹内宿禰は成長して、弓月の君からの連絡を知った。
「ついに約束の時が来た」
息子の襲津彦を呼び出すと、加羅に迎えに行くよう命じた。


今日は、こんな妄想が浮かんでしかたがない。
取り敢えずメモしないと、次に進めない。

という、るなさんでした。

リンクはサイドバーからどうぞ。

竈門神社 玉母宮 小郡市
織幡神社 宗像市
葛城襲津彦 『古事記の神々』




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by lunabura | 2015-01-31 21:58 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(10)

佐田神社1 ここで大砲を鋳造したという 別名は善神王宮

宇佐・安心院トレッキング(31) 

 佐田神社1

 ここで大砲を鋳造したという 
別名は善神王宮

前回の妻垣神社から北西へ約四キロ。すぐに佐田神社に到着しました。

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標高の低い丘陵に鎮座しています。

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いかにも古社らしい風情で、一の鳥居は「佐田神社」と書いてありましたが、
二の鳥居には「善神王社」と書かれていました。

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これが拝殿ですが、それと気づかずに裏に回り、その神殿の趣に驚いてしまいました。

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これほどの彫刻がなされた神殿はそれほどお目にかかれません。

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高い所に縁があり、この建築様式に、ふと糸島市の宇美八幡宮を思い出しました。
「雲が彫られているのは位の高い神さまですよ」
と隣の人が教えてくれます。

御祭神は?
武内宿禰・素盞嗚尊・大山祇命でした。

武内宿禰が何故ここに?

この二年、ずっと取り組んできた神功皇后のガイドブックの世界が
筑紫でなく、安心院にも展開している…。
謎の手掛かりを求めれば、導かれるように次々に出会う伝承の宮々。
次々と嵌まっていったパズルのピース。
たった一人の孤独な作業の日々は誰も知らない日本の歴史を私に教えてくれた。

「竹内宿禰」
こんな遠い所で出会うと古来の知己に会えたような懐かしさがこみ上げて来ます。

そう、こんな感情は下関市の住吉神社でも起こった。
いや、住吉神社では共に戦ってきた神功皇后と一緒に祀られていることに感激したのだけど、
ここは、素盞嗚尊・大山祇命という、想像もつかない顔ぶれ。

地形は明らかに誰かの居城の跡のようで、説明板にもその旨が書いてありました。

佐田神社
祭神は、武内宿禰・素盞嗚尊・大山祇命で、昔は善神王宮と称し、佐田郷の総鎮守社でありました。
鎌倉時代に大友能直によって再興され、以後正中二年(1325)安心院公、文正元年(1466)宇都宮大和の守、丈亀三年(1503)に検断所により再興されています。
神殿は元治元年(1864)に改築し現代に至っています。

境内には、県指定有形文化財の板碑や、幕末に賀来一族が建設した反射炉の記念碑や、反射炉に使用した耐火レンガによる塀、大分の先哲帆足万里の書を刻んだ両部鳥居があります。
この神社の東にある標高309メートルの青山は、中世佐田氏の山城で、県内屈指の規模を誇る町指定の史跡です。境内はこの佐田氏居館跡の推定地の一つとされています。

当地は幕末に大砲が鋳造された場所でした。


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神殿のすぐ後ろの塀にはその耐火レンガが再利用されています。

いったいどうして幕末にここで大砲の鋳造が出来たのか。
まったく基盤がない所で作られる事はないのではないか。
ここには古来の製鉄の技術があったのではないか。
そう思わずにはいられませんでした。

ここに素盞嗚尊が祀られているのはやはり古い製鉄の民の名残ではないか。


佐田とスサノヲ。
この名に思いがけない繋がりがあったことを真鍋の本に見つけました。
(つづく)


地図 佐田神社





佐田神社1 ここで大砲を鋳造したという 別名は善神王宮
佐田神社2 カノープスの和名(1) 諏訪星 
佐田神社3 カノープスの和名(2) 諏訪星
佐田神社4 カノープスの和名(3)諏訪星 スハヒル スサノヲ
佐田神社5 カノープスの和名(4)須賀星 話題は逸れてイクシスと魚のはなしに
佐田神社6 星の和名 亀蛇考1
佐田神社7 星の和名 亀蛇考2
佐田神社8 古代の安心院 水沼と蹈鞴の民の入植地



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by lunabura | 2013-09-16 22:25 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(20)

織幡宮(6)竹内宿禰は異敵の襲来から守ろうと言った


織幡宮(6)

竹内宿禰は異敵の襲来から守ろうと言った


今日は原稿をメール便で送付。
ちょっと一息ついています。
山笠が終わるとついに夏本番か!というイメージですが、今日、ようやくワシワシが鳴き始めました。
ニイニイゼミからワシワシへという循環は無くなって、最近は、いきなりワシワシからです。

今日は、久し振りに織幡宮へ。
手前で湊が見えたので、寄ってみました。
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鐘崎漁港から織幡宮のある山を見て、そうだったのか!!
竹内宿禰がここをとても気に入ったという理由が分かりました。
見事な神奈備山だったんですね!!
海から戻る時、この山はまさしくナビゲーション。

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ここから織幡宮はすぐそこです。一の鳥居に着いて、あれ?
光景が変わっている?
新しく石段が付いています。
向こうに見えるのがさっきの神奈備山。

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この宮についていろいろ学んだ後に撮る写真、すっかり視点が変わりましたよ。


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かつて見えていなかったものが見えるようになりました。
それは、右端に見える小さな石囲い。
沓塚です。
竹内宿禰が沓を残したまま昇天したと言われる聖地のしるしです。


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シキハムさま。
これは宿禰の名前なのでしょうか。

分かっているのは、竹内宿禰がここに御魂を鎮めて日本を守ると誓ったということ。
まさか三年前は、こんな時代になろうとは思ってもいなかった。

祭神の意味を知って、今日は参拝に来ました。
我が国を守ってくださいと。

そして沢山の縁をいただいて、ガイドブックが書けたお礼を。

神功皇后は自分の支援者の聖地におもむいて祈りました。
どんな山でも島でも厭わなかった。
そして事が成就すると、お礼参りをしました。
自分が行けない時には代参をたてたのでしょうね。

皇后と竹内宿禰の生きた時代とその前の時代、異敵が日本に上陸しようとして、
玄界灘沿岸では各地で戦いがあっていたことを知りました。
それを筑紫の国々の人たちは連合して守り抜いたのですね。
こんな大事な歴史を知る事ができた。

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沓塚で参拝すると太陽がキラリと光りました。
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下りて行くと、再びキラキラと輝きました。


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こちらでも。




今日の木漏れ日はすごい。


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ありがとうございます。


織幡宮




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by lunabura | 2013-07-14 21:44 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

ウチ考(3)内の一族


ウチ考(3)
内の一族
 

竹内宿禰が特別扱いされているなあと思われるのが『日本書紀』。
景行天皇の記事の中に、何故か竹内宿禰の出生話がさらりと挿入されています。

それがこの部分。
景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀をさせました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で神祇を祭祀しました。

そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。

この前後は普通の文脈です。
興味のある方はサイドバーの「景行天皇」で確認して下さい。

竹内宿禰はタケオココロ命が景行天皇の代わりに祭祀をした柏原で影姫との間に生まれました。
「柏原」の場所はまだ特定されていません。

「紀伊」の国での話となっていますが、同じ発音で「基肆」と書くと佐賀県です。
父親のタケオ・ココロ(武雄心)命はその佐賀県の武雄(たけお)市に祀られています。
母親の山下影姫は「基肆」の隣の小郡市に祀られています。
竈門神社と言って、影姫の墓所だと伝えられています。

過去記事は以下。
   竈門神社(玉母宮)かまどじんじゃ 福岡県小郡市力武宮の脇
   竹内宿禰の母・山下影姫の墓所だった
   http://lunabura.exblog.jp/16421532/


父も母も有明海~筑後川流域に痕跡を残しています。
紀伊国は基肆国の書き換えの可能性があります。

「紀伊」で思い出すのは徐福伝説です。
有明海~筑後川流域もまた徐福伝説に満ちています。
「キイ」というのは徐福たちの拠点だったのではないかと最近考えています。
それと重なる竹内宿禰の両親たちの伝承。
ウチ家が徐福のもたらした先端技術に触れている可能性は高いです。

さて、『日本書紀』の中でもう一カ所竹内宿禰にこだわった所があります。
それは更に古い時代、孝元天皇の所です。
ここは系図だけが書かれている短い章なのですが、竹内宿禰へ導かれて行くような文脈です。
彼につながる事が当時のステイタスだったのでしょうか。

それらを組み合わせて書いた系図が次の図です。

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孝元天皇はウツシコメ命とイカガシコメ命の二人を后にしています。
二人はウツシコオ命からみると妹と娘です。
妹からは天皇たちが生まれ、娘の系統はは竹内宿禰へと繋がっていきます。

このウツの字は古事記では「内」・日本書紀では「欝」が当てられていて
「欝」は「ウチ」とも「ウツ」とも読めます。
私はこの一族をとりあえず「ウチ家」と秘かに呼んでいます。

孝元天皇は「ウチ家」に妻問いして、経済的基盤を得たようです。
兄妹の「ウツシコオ」と「ウツシコメ」という名前の付け方はいささかアバウトな感じがしますが、
その「ウチ」の名が竹内宿禰に引き継がれたのではないかと考えているのです。
(竹内宿禰の異母兄弟に味師内宿禰という名もみえる。)

系図を見ると竹内宿禰の先代までは「命」がついていますが、
彼の世代になって宿禰に降格しています。
古事記に至っては、タケオココロの命の名前が消滅しているのです。
何か異変が起こったのでしょうか。ちょっと気になりますね。

さて、上の系図に神功皇后の系譜を加えてみました。

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仲哀天皇と神功皇后は開化天皇から枝分かれしています。
さらに一世代上の孝元天皇で竹内宿禰の系譜と分かれています。
要するにこのブログで御馴染みの三人、仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は同じルーツなのです。
三つの系譜はそれぞれ天皇・王・命という流れです。

仲哀天皇と神功皇后の婚姻によって、ウチ家の結束が強まっています。
竹内宿禰が仲哀天皇と皇后を支えたのは同族だからです。

この三者が一堂に会して戦ったのが新羅です。
新羅との戦いは「天皇家」というより「ウチ家」の事情と言った方がよいかも知れません。

「ウチ家」が天皇家の経済的基盤だとすると、当然ながら経済を支える産物があったはず。
当時の宝物は鉄と銅と金、水銀などの鉱物だと思っています。
ここに、先述の徐福の先端技術が関わっている可能性はないかな。

「ウチ家」の人が住んだ所には「ウチ」という「地名」が残っているかもしれない。
そこには何らかの金属鉱山などの痕跡があるのではないか。
弥生の集落もあるだろう。

「ウチ」と「鉱山」「弥生」が組み合わさったものが私の探す「内」の都かも知れませんね。

竹内宿禰にしか用例のなかった「たまきはる うち」が
古田武彦氏が言われるように飯塚市の内野で詠まれたものだとすると俄然、期待は大きくなります。
(つづく)


ウチ考(4)天神社 出雲神と道真公を祀る宮
http://lunabura.exblog.jp/18539365/





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by lunabura | 2012-10-04 23:14 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(2)「たまきはる 内の朝臣」とは竹内宿禰なんだけど

ウチ考(2)

 「たまきはる 内の朝臣」とは竹内宿禰なんだけど

神功皇后の神社巡りのガイドブックの地図を描いている内に、
文章の推敲をし始めて、すっかり夢中になっていました。
文章が下手なので、いったい何十回推敲したらいいのか…。

福岡県内に300以上伝わる伝承の中のわずか100社だけど、
彼女の存在感が生き生きと描き出せる上に、
約3年間という限られた古代の筑紫の状景が切り取られる奇跡。

そんな中で、まだ謎が多いのが竹内宿禰
彼の両親や、陣営地、出城、末裔たち、などはかなり具体的に分かったのですが、
何故か私は彼の全体像をつかんだという印象がないのです。

私が「竹内」という表記を選ぶようになったのは、
彼が「竹斯(筑紫)」の「内の朝臣」だから、というシンプルな理由から。
「武内」とか「建内」と書くのは、単にカッコよくするためですね。

「内の朝臣」が竹内宿禰だと書くのは、今回が初めてかな。
『日本書紀』なんかにそう書かれているんです。

そして、この「内」とは地名ではないか。
ずっとそんな思いがしていました。
それは「中臣の烏賊津使主」が那珂出身ではないかというのと同じ理由です。
(⇒ 審神者神社)

あれほど自由に物部軍を操るくせに、つかみどころのない竹内宿禰の事を
もっと知る決定打はないか。
そう思って「内」の地名を各地に見つける度に、心に掛けていたのだけど、
どうしても飯塚市の内野が気になる。

その近くには「出雲」があるし、王塚古墳があるし、
羽白熊鷲が逃げ込んだという別伝を持つ老松神社までもある。
何よりも「大分宮」(だいぶぐう)がある。

大分宮は筥崎宮の元宮で、かつ宇佐八幡宮の本宮。
宇佐八幡宮の本宮となると、そのすごさは計り知れない。
宇佐は何せ、日本中にある八幡信仰の総本山なのだ。

応神天皇の神霊が毎年、大分宮に通っていたのが分かったのは
正八幡神社、位登八幡宮伝承から。

正八幡神社 田原麿は仲哀天皇軍に馳せ参じた

位登八幡神社 神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した
http://lunabura.exblog.jp/16746001/


古代筑紫の地図を双六(すごろく)に例えると、
大分宮が分かれば「アガリ」だなと思えるほどで、
ここに迫るのには何故か勇気が要る。

「内」と大分宮が関わりがあるのかどうか、全く予想がつかないけど、
今回は「内の朝臣」という表現がある『日本書紀』の神功皇后紀を、
読んでみましょう。

この中に出て来る「たまきはる 内の朝臣」は「魂の極まる 竹内の朝臣」という意味で
「霊力の極まった」と訳しています。
敵が彼を謗って「腹は小石」と言っています。

腹の中の「たま」とは丹田(たんでん)力と言うイメージが近いでしょうか。
霊力がある人は それが大きいんです。
実際に目に見えるほど。

神功皇后は3月5日に、武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖・武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王を討たせました。

武内宿禰らは精兵を選んで、山背(やましろ)から出ました。菟道(うぢ)に着いて、川の北に駐屯しました。忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。

その時、熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。(熊の凝は葛野城首(かづののきのおびと)の祖で,他の本には多呉吉師の遠祖という。)自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。
  かなたの あれ、あの松原 
  松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に まり矢(音の出る矢)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、 
  親友(いとこ)は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘うぞ。
  霊力が極まっているという 内の朝臣と。
  やつの腹のは 小石だらけさ。
  さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦を髪の中に収めよ。また木刀を腰につけよ。」
と言いました。

そうして、皇后の仰せだと言って、忍熊王をだまして言いました。
「吾は天下を取ろうとは思っていない。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけだ。どうして、戦おうなどと思うだろうか。
願わくは、共に弦を絶って武器を捨て、ともに連合して和睦しようではないか。そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして安んじて、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように、軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して、再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。

忍熊王の軍勢は逃げました。武内宿禰はささなみの栗林(くるす)で追いついて、大勢を斬りました。そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。

こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。その時竹内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。

こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

うむ。だまし討ちか。
この戦術。いただけませんな。
でも、戦いのシーンはこんなのばっかり。(;一_一)

ま、それはさておき、
歌謡を訳してみて、竹内宿禰が「たまきはる 内の朝臣」だという事が分かりましたが、
他に出て来る数例とも竹内宿禰を指しています。

そして、前回の(「ウチ考(1)に書いたように、万葉集の冒頭を飾る数種のなかに、
この「たまきはる ウチ」が出て来たのですね。

たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野」

これは地名だけど、もしかしたら竹内宿禰と何らかの関わりがあるのかな?
と期待した訳です。
関係無かったら残念ですが、行ってみないと分からない。(つづく)

ところで私は近畿地方の地勢が全く分かりません。
この話はいったい何処の話なのか、誰か教えてくださいな。



飯塚市 内野


  






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by lunabura | 2012-10-01 14:33 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

旗頭神社・ 竹内宿禰の陣営地だった


旗頭神社
はたがしら
北九州市八幡西区陣原
 竹内宿禰の陣営地だった

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北九州市を通る国道三号線は大変交通量が多いのですが、
その道沿いに旗頭神社はありました。

c0222861_14384224.jpg

地名が陣原(じんのはる)という事で、戦国時代の頃の陣営だろうかと思っていたのですが、
これがなんと竹内宿禰の陣営跡というので、とても驚きました。
珍しく石段が無く、平地に建っています。車の喧噪は全く聞こえません。

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御祭神は武内宿禰 志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 麻生興春神霊です。

この宮は主祭神が竹内宿禰でした。加えて志賀・住吉・出雲の神々。
ずっと共に戦ってきた海人族たちの神々が祀られていました。
これで内の大臣(うちのおとど・竹内宿禰)を総大将とした
水軍の一大拠点がここにあった事が伺えます。

c0222861_1440670.jpg

それほどの大軍勢が駐屯できるのだろうかと境内の裏に廻るとけっこう広いです。
由緒書きを読んでみましょう。(一部改変)
旗頭神社由緒 
創建 大永2年(1523)
祭神 武内宿禰
志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 
麻生興春神霊

二千余年の昔、応神天皇は武内宿禰に筑紫路の人民視察を命ぜられた。命を奏した武内宿禰が洞(くき)の海を過ぎるとき、西北の方に怪しい声がするのでこの地に陣を構え警戒を厳にした。陣原(じんのはる)の地名はこれによると言い伝えられている。

明応・永正の頃(1492~1520)黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城に移るとき陣原の里でしばし憩い、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬るよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標(しるし)とした。大永2年(1523)興春の遺志によって旗指社が創建された。

慶長11年(1606)黒崎城山の城主井上之房は敬神の念が篤く特に武内宿禰の徳を敬慕していたので社殿の再興が行われ、之房が住いを陣原に移す頃、旗頭社と呼ばれ、陣原の産土の社として広く尊崇された。

その後、長年の風雪と共に老朽も加わったので幾度か加修改築が行われたが文久2年(1862)の社殿造営で今日に至った。
この由緒書きでは竹内宿禰が陣営を構えたのは応神天皇の時代になっています。
応神天皇は神功皇后の皇子です。
前回の熊野神社で皇子としばらく別れる決意をした神功皇后ですが、
その皇子を預けたのが竹内宿禰でした。

皇后の亡きあとも竹内宿禰は生き続け、筑紫の国々の視察を命ぜられて、
再び筑紫に戻って来た時に、ここに陣営が継続していたとすると
ストーリーがつながってきます。
武内宿禰はこの時、若松恵比須神社でも松を植えたと伝えられています。
伝承をつなぐと古代の交通の要衝や陣営地などがだんだん姿を表して来ました。

さらにこの陣営に関する別の伝承が『福岡県神社誌』に書かれています。
社伝にいわく、神功皇后が西夷を討とうと武内大臣を施主にして新羅に至った。新羅の王は戦わないで降伏した。高句麗・百済の二王も畏れて和平を申し入れた。

皇后は凱旋の時にここで陣を構えた武内宿禰の軍令が厳整としていたので、「いくさばる」と称した。その後、社廟を建てて旗頭神社と名が付いたのが当社の起源である。
これを見ると神功皇后の時代に既にここに陣営を構えていたのが分かります。
ここは軍事的に重要な所でした。

それから1000年以上も経って城主・麻生興春がここに来た時
その眺望のよさに自分の墓所として選び旗指社となりました。
最初に石段がなくて平地だと書きましたが、
全体が高地にあって眺望が確保された立地だったのがこれで分かります。

江戸時代になって城主・井上之房が武内宿禰を敬慕していて
住いをここに移して旗頭社となりました。
武内宿禰の活躍は武将たちの崇敬の的だったのですね。

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神殿です。こんな身近に武内宿禰が祀られていたとは。

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周囲に古木が残っていて、とても大きいです。

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梅の木かなあと思ったけど、何の木かなあ。

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裏の方に出るとタギツ宮の鳥居がありました。宗像の姫神です。
奥津神社(タギツ島比売命、伊須岐依姫命、大己貴命)です。
これはかなり古い組み合わせのようですね。
タギツ姫と大己貴命は楯崎神社によると夫婦神です。

伊須岐依姫はイスケヨリ姫でしょうか。
そうだとすると神武天皇の大后で、三輪と三島の通婚で生まれた姫です。
鉄の民の姫です。

周囲の地名を眺めると、穴生に鉄竜、鉄王。これはすごい。
考古学的にたたら跡の出土を調べる必要がありますね。
(誰か八幡の古代製鉄を調べていないかな…。)

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境内にある稲荷神社と椋の木です。物部氏の鉄の暗号です。

う~む。このタギツ姫の宗像族が加わると、志賀安曇族・住吉族・出雲族+宗像族という
そうそうたる海人族たちの顔ぶれとなります。
これに前回の熊野神社の熊野族を加えると五大海人族になる。
(あれ?熊鰐さんの熊族が熊野族だ…。)
武内宿禰はこの倭国の水軍をすべて掌握していたんだ。なかなかのものだ。

考えるに、この近くに古代製鉄所があって、
それを守る陣営がもともと、ここにあったのではないでしょうか。
神功皇后と朝廷の百官が北九州に滞在中に海軍はここに拠点を置いた訳です。

皇后の滞在が長引いたのは、香坂王との戦いの為の準備に加えて、
皇后の乗る船の帆柱が折れて、修理をしなくてはならなくなったという事情が絡んでいました。
その修理所が中宿八幡宮(なかやど)です。次回はそこへ行きましょう。


地図 旗頭神社








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by lunabura | 2012-03-30 14:49 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(2)

宇美八幡宮(2)武内宿禰の子 平群の木菟の末裔が祀る宮


宇美八幡宮(2)

武内宿禰の子 平群の木菟の末裔が祀る宮


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「先祖は武内宿禰の第四子と聞いて来ます。」
その言葉に、思わず宮司さんを見上げてしまいました。
大変背が高く、堂々とした体格です。

この宇美八幡宮は代々、武内宿禰の子孫が祀っていました。
第四子って誰だろ?
家に帰ってUPしていた系図を引っ張り出しました。

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古事記の系図ですが、右から四番目は「平群の都久」です。
この「ヘグリのツク」には不思議な名前交換の話があります。
父親たちが子供たちの名前の交換をしているのです。
父親たちとは応神天皇竹内宿禰の事です。

子供たちが同じ日に誕生していました。
応神天皇の子供は仁徳天皇です。
平群のツクの「ツク」は仁徳天皇に付けられるべき名前だったのです。

『古事記の神々』に口語訳したものがあるので、そこだけ抜粋します。
〔仁徳天皇〕
始め、仁徳天皇が生れる日には、ミミズクが産殿に飛び込んできました。
その翌朝、(父親の)応神天皇は大臣・武内宿禰を召して
「これは何のしるしだろうか。」と尋ねました。大臣は
「吉祥です。たまたま、私の妻が出産したのですが、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これまた不思議な事です。」
と言いました。

この時天皇は言いました。
「今、我が子と大臣の子と、同じ日に生まれたとは。どちらも吉瑞があった。これは天の表(しるし)だ。思うに、その鳥の名を取り換えて、お互いの子に名付けて、後の世の契りとしよう。」と。

そこでミソサザイ(サザキ)の名前を太子(仁徳天皇)に付けて、オオサザキの皇子としました。ミミズクの名を大臣の子に付けて、ツクの宿禰としました。これは平群臣の始祖です。この年、太歳がありました。(日本書紀)
少し変な気分です。
だって、壱岐真根子が竹内宿禰の身代わりで死んだ原因は、
応神天皇が竹内宿禰の殺害命令を出したからでした。

ところが、今度はお互いの子供が同じ日に生まれたから、名前を交換して契ろうという訳なのです。
ずいぶん信頼関係が変化しました。応神天皇はもちろん神功皇后の御子です。
系図を出しましょうね。

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このあたりは話も年代も一貫しないので、私は「捏造しているな」と疑うようになっています。


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それはさておき、書紀によれば
ミソサザイは竹内宿禰の妻の産屋に飛び込んできました。
そして仁徳天皇の名前になりました。




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ミミズクは応神天皇の妃の産屋に飛び込みました。
そして竹内宿禰の子の名前になりました。
ミミズクの古名はツク。ズクとも。


これはいったい何の暗号なのでしょうか。まだ手掛かりは掴めません。

取り敢えず「平群のツク」について事前準備が済みました。

それでは本題の宇美八幡宮の縁起の続きを読みましょう。
本宮 
古名を長野八幡宮という。

神功皇后、三韓御渡航の折、船上に神あり。「吾は新羅の神、清瀧権現なり」と「皇后の国土を守護せん。」よって、神功皇后が無事御帰朝の際、当山にて報賽の祭りを執り行ったという。

その後、第16代仁徳天皇の治天10年、平群木菟(つく)の宿禰の子、博公を神主として、この霊蹟に神社を建立し、気比大神(天日鉾尊)を祀らせたのが本宮の起源である。
古名を長野八幡宮というのは、所在地が長野という地名だからです。

縁起では神功皇后の渡航の船に新羅の神が現れて守護してくれたので、
凱旋後、ここで報賽の祭を行い、
平群のツクの子が気比大神を祀ったのが起源だと書いてあります。

気比大神はアメノヒボコだと書かれています。
(気比神宮ではイザサワケです。)
新羅攻撃なのに新羅の神が現れて、倭国の方の応援を約束したという事になります。

古事記によると、このあと13年後には応神天皇と気比の大神の名前交換も行われています。

二代にわたって行われた名前の交換と混線する神の名前。

しかもこの話が西暦200年頃の話だとすると、実は新羅はまだ建国前です。
便宜上新羅と呼んでいるだけです。辰韓、シャグク、サログクのどれでしょうか。
まだまだ、分からないことだらけです。

それでも、ここに来て分かったのは、
アメノヒボコの伝承のある雷山神籠石を通って仲哀天皇と神功皇后が雷山から降りてきた。
そして、その直後、重大な変事が起こり、竹内宿禰の末裔が今なお神社を守っているという事です。

ここに気比の神が祀られている事は、古代史の謎を解く手がかりになる事でしょう。
伊都国は解かれるのを待つ謎がたくさん残っています。

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一の鳥居の前の川です。この話の舞台となった雷山などが一望できました。

(つづく)

なお、竹内宿禰を祀る織幡神社にある、
気比と筑紫に共通する沈鐘伝説の話を書いています。

織幡神社(5)沈鐘伝説と海女
http://lunabura.exblog.jp/14829157/





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by lunabura | 2012-02-26 22:41 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(0)

壱岐神社・壱岐真根子を祀る宮・九州王朝三階松


壱岐神社
福岡市西区下山門1―9-3
壱岐真根子を祀る宮
九州王朝の三階松があった

福岡市は北が海なので住宅がひしめいていても開放感があります。
大都会に残る松林「生の松原」は「いきのまつばら」と読み、
それに接して壱岐神社があります。

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祭神は壱岐真根子。(いきのまねこ)

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そう、竹内宿禰の身代わりになって死んだ人です。
その経緯は織幡神社(3)に詳しく書いていますが、
織幡神社は玄界灘の東・宗像市の岬にあります。
そこには壱岐真根子も祀られていて、その末裔が代々宮を守っているそうです。
そして、壱岐真根子を主祭神として祀るのは玄界灘の懐(ふところ)にあります。

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驚いたのが手水舎の「三階松」の紋です。
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これは九州王朝の紋だそうです。
これまでに見たのは宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・
松崎天満宮(小郡市)です。そしてここで五社目。
松崎天満宮以外は竹内宿禰の名が見え隠れします。
この五社だけでも地図上にプロットすると、大変広範囲だった事が分かります。

九州王朝は神功皇后が立ち去った後の話になると思っていますが、
彼女の移動ルートを押さえると
彼女を援助した筑紫の豪族たちがどこに居たのかが分かるので、
こうしてコツコツと歩いているのです。
そうすれば九州王朝の基盤が見えて来ると思っています。

それでは、この神社の由緒を見てみましょう。(一部現代語へ変更)
壱岐神社
御祭神 壱岐真根子命
創立 延宝8年 明治梧5年11月3日村社
御神徳 仁愛開運
例祭 10月15日・9月1日・7月28日
由緒 壱岐真根子命は武内宿禰の身代りとなり、無実の罪にて死亡。信仰篤き黒田藩主はその忠魂を称え、松林4128坪を安永4年5月寄附された。近くに神功皇后さまの植えられた逆松は有名である。(戦勝祈願)
鳥居 安永年午正月 従四位源朝臣継高公寄附
壱岐神社宮司 菊池友久

延宝8年は1680年。江戸時代です。この宮は黒田藩主によって創建されました。
この広大な松林もその時に寄進されたものだと分かりましたが、
その前にはここには何もなかったのでしょうか。

この生の松原という地名の由来は神功皇后が逆さに植えた松が生きたと言う事から
ついた名だといいますが、この神社には「壱岐」の漢字がついているので、
長崎の壱岐との関わりがないのか、疑問が出て来ます。

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境内は不思議に古木がなく、この松だけが時代を語ってくれています。

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御神木ですが、神功皇后のゆかりの松なのかどうかは分かりません。

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古式の鳥居に惹かれてそのまま松林の参道を辿ってみました。
ここの松は元気ですね!

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そして、海!この宮は海から参拝するようになっていました。

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浜に立つと能古島(のこのしま)が見えます。
右の岬は妙見崎。岬の根元には小戸(おど)があります。
神功皇后の船が出港した湊です。ここからはわずか2キロ。
この距離からすると、あの湊を経営していたのは壱岐真根子でしょうか。
ここは壱岐真根子の息がかかった場所?

伝承ではこれ以上は分からず、永井功氏の「神功皇后の戦略」を見てみると、
「姪の浜町の鷲尾山(蒙古襲来以後北條氏が築いた鷲尾城址があり、今愛宕山という)の東側浦山に、武内宿禰の出城があったという伝えがあり」
と書いてありました。

愛宕山の東に竹内宿禰の出城が?!
そうするとこの湊は竹内宿禰が経営していた?

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緑色の都市高速道が愛宕で曲がっているのは愛宕山を避ける為で、
計画では愛宕神社の上を通るようになっていたのが住民運動のお蔭で迂回するようになりました。

愛宕神社はもともと鷲尾神社と言い、景行天皇の時代に祀られた所だそうです。
その麓、川と海が接するあたりに竹内宿禰は出城を持っていたというのです。

竹内宿禰は壱岐真根子の娘の豊子を妻にしたという系図があります。
(妻はもちろん何人もいたはずで…)
そうすると二人は舅と婿の関係になり、壱岐真根子が見かけがそっくりだったというので、
同族の結婚ではないかとも思ったりしています。

近畿で竹内宿禰殺害を命じられた使者はどうやって彼を見つけ出すのでしょうか。
やはり出城や居城をまずは目指すでしょう。

壱岐真根子の死の現場を見つけると、そこに竹内宿禰がいたことがわかります。
その伝承は武雄市若木町の伏屍(ふし)神社(伏尺神社)にあります。
壱岐真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが遺体が重すぎてそこに葬ったのだそうです。

竹内宿禰の本拠地で事件があったのかも知れません。
地図で確かめると「御所」という地名もあります。
この辺り、なかなか面白そうですね。またいつか探索したいと思います。

壱岐真根子は壱岐の直(あたい)の真根子。
壱岐真根子は壱岐国から百済や倭国(小戸や武雄)を自由に往来していた人で、
竹内宿禰は彼の情報を頼りにしていたと考えています。
愛宕山の麓の出城は留守の間は壱岐真根子に貸していたかも知れませんね。

織幡神社(3)祭神・壱岐真根子の悲劇
祭神・竹内大臣と壱岐真根子臣

http://lunabura.exblog.jp/14790197/



地図 壱岐神社 伏屍神社








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by lunabura | 2012-02-17 17:25 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

若松恵比須神社・竹内宿禰は海の底に光る石を祀った


若松恵比須神社
北九州市若松区浜町
竹内宿禰は海の底に光る石を祀った 

洞海湾の入口に若松南海岸というレトロな港の風景が残る通りがあり、
そこから区役所の裏手に向かうと若松恵比須神社があります。

神社は境内の三方向から入ることが出来て、
車は右側から入って許可を受けて境内に止める事が出来ます。
ここへ向かう目印は赤い若戸大橋です。

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「若戸」の名は「若松と畑」の文字を組み合わせたもので、
前回の戸畑から若松に行くにはこの橋を通らずにはいられず、
こうして境内に立つと、神社の境内を削って出来たのかなあ、
お世話になってるんだなあと思いました。

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これは正面のようす。橋の下から撮っています。

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これは左側にある一の鳥居です。

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かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せていたそうです。
埋め立てが進んでいますが、それでも海のそばに来た開放感があります。
砂利の色が蜜色で、海の砂のように丸いです。

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恵比須神社の名の通り、拝殿には恵比須様の絵が。
本来の名前は事代主(ことしろぬし)です。

「若松」と言う地名は竹内宿禰がかつての美しい松林を愛でた事から付いた名だそうです。
あるいは手植えしたとも言われます。
そう、竹内宿禰は仲哀天皇一行と一緒に来ているのですね。

立札があったので、由緒を読みましょう。
由緒
当社は約1650年前の創建と伝えられ、往古、仲哀天皇・神功皇后が熊襲征伐のため、筑紫の国へ行幸啓された折、洞の海へと向かう皇后の船が進まず、武将・武内宿禰が漁夫に海中を調べさせたところ、「海底に光る石」が見つかり、「是は海童(えびす)神の心なり」という天皇の仰せによって、神祠に祀ったことに由来する。

武内宿禰はその後、再び当社近くの美しい海浜を訪れ、若々しい松が連なる姿を愛でたことから、この地を「若松」と呼ぶようになったと伝えられています。
この由緒をもし3年前に読んだとしたら、あまりよく分からなかったのだろうなと思います。
今では、御馴染みの三人組という感じで、な~るほどという印象です。

前回の飛幡八幡宮で、
戸畑の北の海にあった千曳(ちえい)の岩を仲哀天皇が祀った話が出て来ましたが、
そこで天皇と皇后は別の船に乗り換えて、広い洞海湾の入口を渡ったのでしょうか。
皇后の船が進まなくなって、船を寄せると、海の底に光る石を見つけて、
それを恵比寿神(事代主神)として祀りました。それが御神体となっているそうです。
他にも伝承がいくつかありますが、海の中の石を祀ったという骨子は同じです。

このような由来から御祭神は
事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命
大山咋神、大物主神(だいこく様)
天照大神、豊受大神、素盞鳴大神
となっています。
恵比須神社に日吉神社が合祀されたそうです。

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拝殿横には「若松」の名にちなんで松が植えられていました。

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これは境内社「笠森稲荷神社」。
御祭神は宇賀魂神、イザナギ、イザナミ神、椎根津彦神、猿田彦神

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もう一つの境内社「天満神社」
御祭神は菅原道真公、応神天皇、恵比寿幸魂
ここは交通の要衝だったのでしょう。
菅原道真公の伝承もちらほらと出て来ます。

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厳しい環境の中で御神木は命をつないでいます。

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珍しい方位石がありました。
境内の一角の波打ち際に置かれていたものを移設したそうです。
江戸時代末期のものと推定されています。

さてさて日本書紀によると、不思議にもここから天皇と皇后は別行動を取ります。
仲哀天皇は外海を通り、皇后は洞の海(くきのうみ)を通ります。
これについては、女性は波の穏やかな内海を通ったのではないかという説がありますが、
別の事情が見えて来ました。
さあ、次回からその航路を辿って行きましょう。
 

地図 若松恵比須神社









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by lunabura | 2012-01-29 17:19 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(2)

宇美八幡宮(3)応神天皇と竹内宿禰


宇美八幡宮(3)

応神天皇と竹内宿禰

再び境内に戻って来て、時計回りに廻りました。

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これは武内宿禰社
御祭神 武内宿禰(たけのうちのすくね)
神功皇后応神天皇の母子を大臣としての補佐をはじめ、五代もの天皇に仕えて、さらに長寿を誇ったという伝説より、延命長寿、武運長久、厄除の神としてお祀りされています。

竹内宿禰神功皇后が筑紫で過ごした3年間、つねに力になった人です。
300歳以上長生きしたと言われ、白髪と白髯のおじいさんの姿で描かれる事が多いのですが、
他の人もみんな100歳200歳です。
この時代は竹内宿禰だけが長寿ではないのですね。
(日本書紀の捏造の失敗とにらんでいる。)

白髪の竹内宿禰が赤ん坊のホムタワケ皇子(応神天皇)を抱いて、
神功皇后と共にいる絵をあちこちで見かけますが、彼はその頃はまだまだ若かった。

社の向こうから、「いいかげん老人にするのはやめてくれ」と聞こえてきそうです。

不可思議なのは応神天皇との関係。

噂では二人は親子です。神社の奉納絵にはそう解釈できるものがたくさん。
(でも、本当の事は誰にも分からない。)

神功皇后が亡くなった後に即位したホムタワケ皇子(応神天皇)は
竹内宿禰が筑紫で謀反を企てていると聞いてあっさりと殺害を命じます。
(こんなにフクオカでは君のために苦労したのに、知らないの?)

この誤解は解けたのですが、代わりに佐賀の壱岐真根子が亡くなりました。

そののち応神天皇の子供と竹内宿禰の子供が同じ日に生まれるという偶然が起こると、
「これは吉兆だ」と言って、互いの子供たちの名前を交換したりしています。
応神天皇の子供って、あの有名な仁徳天皇だよ。
(う~ん。どうなってるの?)

竹内宿禰について、これまでの逍遥で分かったことを並べてみます。

竹内宿禰の和魂荒魂は宗像市の織幡神社に祀られている。
竹内宿禰の母は山下影姫で、小郡市の竈門神社に祀られている。
竹内宿禰屋敷が香椎宮の裏手にある。

宮地嶽神社の近くにも竹内一族がいて、
宮地嶽古墳と手光古墳はその一族と関連があるという伝承がある。

高良の神とは竹内宿禰だという伝承がたくさんある。
(高良の神と高良玉垂神は別の神)
などなど。
竹内宿禰については日本書紀の現代語訳をしています。
読んでみるとやっぱり、日本書紀さん、しっかりしてよ、と言いたい。
(サイドバー『古事記の神々』武内宿禰)

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韓石(からいし)
神功皇后が向こう(朝鮮)から持ってお帰りになったものだと古老から言い伝えられているが分からない。石の質が変わっているので、いずれにしてもこの地方の石ではないことは分かる。

船のいかり石でしょうか?
このような石はあちこちの神社にあるので、比較すると分かるかも知れませんね。
この石に岩刻文字(ペトログリフ)があると言われますが、それは分かりませんでした。

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左の祠は恵比須社です。
御祭神 事代主命
「事を知る神」として、善悪を判断する力があるとされ、一般的に「えびすさま」と称されて、商売繁昌・開運の神としてお祀りされています。正月には「宇美三日恵比須まつり」が斎行されます。
事代主命が神功皇后社に寄り添うように祀られています。

小山田斎宮での神託の時にも現れた神です。
気になるけど、またいつか。

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聖母宮(母の社)です。
御祭神 神功皇后
主祭神・応神天皇の安産にちなむ信仰から、その「母后・神功皇后」に対する特別の崇敬を以って、宝永3年(1706)当時の藩主・黒田綱政公により寄進されました。
今から約600年前の室町末期の作と伝えられ、県下の代表的秀作とされる。福岡県指定文化財(民族資料)聖母宮御神像が奉安されており、「25年に一度」御開帳の神事が斎行されています。
次回は平成30年に行われます。

黒田の御殿様が寄進したんだ。江戸時代の拝殿です。かやぶき屋根が美しいですね。

なお、宇美八幡宮の祭神は
応神天皇、神功皇后、玉依姫命、住吉三柱大神、イザナギ尊です。

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湯蓋(ゆがい)の森
御降誕の時、このクスノキの下で産湯(うぶゆ)をお仕えした時に、枝葉が茂って湯槽(ゆそう)の上を覆った事からこのように名付けた。

思う存分枝葉を広げて見事な姿です。
このクスノキの下で産湯をつかったんですね。そうすると、この樹も2000歳?

石垣を見ると、これがまた、どうも珪化木の囲いなんです。
巨木の化石がずらりと並んでいて、なんだかすごいんです。

クスノキは腐りにくくて浮力が得やすいので、船の材料にもなりました。
古代の日本の森はこんな巨木がいっぱいだったんでしょうね。

では、そろそろ宇美八幡宮を後にして、下関市に行きます。
神功皇后が出産する2年前に住んでいた所です。
いったいそこで何が起こったのでしょうか。




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by lunabura | 2011-10-01 15:02 | 宇美八幡宮・うみ・粕屋 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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