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女神巡礼








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たかす









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さくらい










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さくらい








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ふたみがうら








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ふたみがうら









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by lunabura | 2016-03-06 20:34 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

平原遺跡は卑弥呼より少し古い


平原遺跡は卑弥呼より少し古い


資料を片づけたり、整理したり、
あるいは柔らかな春の草を抜いたりして、
グラウンディングの一日を過ごしました。

歴史は研究がどんどん進んでいる分野もあれば、
江戸時代の説のままの分野もあります。

文献が一般人にも手軽に手に入る時代になったので、
考古学的な資料と文献史料が相互に補完し合うようになるといいですね。


3月3日の歴史カフェの遠足バージョン、時系列に回りたかったのですが、
時間の制約があったので、バラバラになりました。

わずか二キロ四方の中でしたが、行ったり来たりしたので、
広い範囲に思えたかもしれませんね。

30分ほどで歩いて行ける範囲だったのです。

そこに歴代の妃、
木花咲耶姫、磐長姫、豊玉姫、玉依姫、奈留多姫が祀られていました。
そして、三雲南小路遺跡も三雲井原遺跡も平原遺跡も、です。

ですから、3月12日の座学では、神社や遺跡も時系列に見て
マップ攻略の時間も取ることにしました。

そうすると、意外にも平原遺跡が一番新しい時代になりました。
中国では後漢が滅ぼうとする頃の墓です。


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平原遺跡の被葬者については、「卑弥呼の時代ですか?」と、
何人からか質問を受けたのですが、
卑弥呼から見ると母か祖母の世代になります。

卑弥呼の死は248年(あるいは247年)とはっきりしています。
お話ししたように、この年を暗記しておくと便利です。
これを以って弥生時代の終わりとする方もいます。
中国では魏の時代となります。

この時代には神功皇后を支えた怡土(いと)国の五十迹手(いとて)もいて、
考古学と中国文献と日本文献がどう結びつくのか、興味深いエリアです。


魏志倭人伝は倭人の風習について、「棺はあるが、槨は無い」と書いています。
ちょうど平原遺跡がそんな感じですが、卑弥呼の墓には盛り土があるのです。

平原遺跡の盛り土は最近、施されたもので、
もともと平坦で果樹が植えられていたそうです。

発掘後は、しばらく木棺のくぼみがそのままだったので、
雨水で消失しないか、心配したものです。

とても広々とした環境でよく整備されていて、とても心地よかったですね。

それでも標高が35メートルほどもあったということで、
弥生人がいかにも好みそうな地形でした。






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by lunabura | 2016-03-04 20:43 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(4)

糸島の女神巡礼


糸島の女神巡礼


ありがとうございました




2016年3月3日。





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約束の日に集った皆さま。






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沢山の笑顔をありがとうございました。








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言葉が生まれてこないほど、喜びに満たされています。








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糸島の女神さま。ありがとうございました。









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かんながら たまちはえませ





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by lunabura | 2016-03-03 21:28 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(16)

志登神社3・ハレー彗星とカノープス


志登神社3
ハレー彗星とカノープス


志登神社は北に柑子岳、南に雷山が見えるという特殊な位置にあり、しかも夏至ラインには今山の二上山が乗るという驚きの位置でもあります。


糸島市 志登神社




「志登」の意味は「海淵」。波が立たない日には星の観測にもってこいでした。星の観測には空を直接見る方法と、プールに映して観測する方法があります。

ティオティワカンでしたか、ピラミッドにプールがあるのは星の観測のためと考えています。水鏡に写る星は、ステラナビゲータなどとは違う軌跡を描くのを見た事があります。


さて、「志登星」(ハレー彗星)は76年ごとに到来しますが、19年を四度(しど)重ねると76年になることから、「四度」→「志登」となって、ハレー彗星を志登星と呼ぶようになりました。

19年って、メトン周期でしたね。(※メトン周期とは19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期)

昨年末、朔旦冬至に志賀島に行ったのも、もう遠い過去のようです。ブログに書かなかったら、記憶に留まらなかったかもしれません。

今年、志賀島のお膝元の志式神社では19年に一度のお祭りがあったそうです。お潮井があった事も重ね合わせると、どうやら志式神社にもまた天文観測官がいたのではと思うようになりました。(ガイドブック下巻72)

さて、糸島市志登は単なる湊ではなく、安曇族の天文観測官がいた可能性が出て来たのですが、tatsuさんが、志登から見える志登星(ハレー彗星)の画像を作ってくれました。

すごく感動したので、ご紹介します。


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これを見ると、以下の真鍋の文がよく理解できます。

 
彗星を志登星という。十九歳を四度かさねるを言う。その大なる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星(しそのほし)というから、その一つの方言でもあった。(拾遺p51)


ハレー彗星が本当に北斗七星を覆っていました。

画像を見ると、星空を6月1日に固定してあります。固定しないと背景の星は動きっぱなしになって分かりづらくなるんですね。グッド・アイデア!


姫古曾神社の所で考察しましたが、「彗星」を倭人はオオゲツヒメ、燕人系は姫子星と呼んでいました。そこに祀られているのが市杵島姫です。市杵島姫は物部氏と通婚しているので、基山の辺りは物部の天文観測となるのかもしれません。


安曇の星祭祀と物部の星祭祀、いつか区別が分かるようになると面白いですね。



さて、tatsuさんはカノープスの画像も造ってくれました。雷山に沿ってカノープスが動いています。


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「這うように」と描写されるカノープスは、諏訪星と呼ばれ、スサノヲの化身とされました。荒ぶる神です。

以上、志登から見えるハレー彗星とカノープスでした。
Tatsuさんのお蔭で解読が進みました。ありがとうございます ^^







 




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by lunabura | 2015-07-11 18:37 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(2)

志登神社2・志登=海淵・北斗七星 志登星=ハレー彗星


志登神社2

志登=海淵・北斗七星 志登星=ハレー彗星


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志登神社に再び舞い戻って来ました。

志登神社は現在、田園風景の真っただ中、360度が見渡せ、しかも、今山(かつては二上山だった)を夏至ラインに見ているといいます。


豊玉姫が上陸できたのですから、もちろん湊があり、綿津見神が祭られているので安曇の息が掛かった所ですが、太陽祭祀ラインがあるということは、ただの湊ではなく、天文祭祀の観測地点の可能性も出てきました。




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これは神社の前の水路ですが、波がないのでまるで水鏡のようです。

これから思い出したのですが、「志登」(しと)という単語が真鍋の本に出ていたので読み返してみました。「志登」と「志登星」の二つが出てきます。

まずは「志登」から読んで見ましょう。

潮の空間(からま)即ち、海面が静止した時にシリウスが水平線から離れる瞬間に上下互いにとけ合ったように連なる時は必ず地震津浪が現れると語られておりました。仲哀九(200)の時も又然りと伝えられます。

昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津、或は志登と呼び、星影のゆらめきを見て海の異変を察しておりました。やがてこれが倭語の鯰(なまず)即ち漢名の鮎魚(せんぎょ)と結び付き地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。

山田伏見宮の絵馬には、松浦の鮎の故事を語るかの如く遠い昔の素朴な観天望気が事寄せてあるかと思われます。(儺の国の星p49)


「志登」や「沼津」は海淵のことだと言います。これは火口の跡で、海の中の場合、外で波が立っていても、そこだけ波が生じないという特殊な海面となります。


志登神社の位置は今では田園のど真ん中ですが、かつての糸島水道の中にあります。
大型の船が泊められるなら、そこは火口湖だった可能性もあります。これで「志登神社」と呼ぶようになったのかもしれません。

なお、糸島水道に関しては、かつて水道はなかったという論文が出ているそうですが、この広い地域で、水路が無かったことを証明するのは困難ではないかと思っています。

わずか3メートルほどの水路でも船の航行には十分です。
縄文海進期や弥生小海進期などで水深が確保できたら船は十分通ります。やはり伝承どおりに水道はあったと考えられます。また、いつ、ふさがったのか、その時期について真鍋家では具体的に伝えています。(何処かに書いたと思う)

引用文に出てくる山田伏見宮とは那珂川町の伏見神社のことですが、「伏見」は観星台の上で水平線から出てくる星を観測するために、伏して見ることから出来た言葉だそうです。(ガイドブック下巻64)

神功皇后が馬に乗っていてナマズが飛びついたり、松浦で鮎(あゆ)占いをしたのも、実は観天望気のようすを民話化したものだということです。


古人は時刻を計るに水平線を出入りする星影を見遣った。この種の星を伏見星と言った。これとは別に四季を教える頭上の星を天津星と区別した。

たしかにシリウスは冬の真夜中に天頂までのぼるのであったが、古人は早く臥し、つとに起きるを務めとしていたから、シリウスは宵星(せうのほし)であり、又暁星(けうのほし)であり、要するに伏見星の類であったことになる。(儺の国の星)p48


水平線に掛かる星で時間を計り、頭上を通過する星で季節が分かったといいます。シリウスは民間にとっては、時計代わりの星でした。

天津星という言葉も、神話ではなく、観測用語の一部ということになります。

以上のことから、現在地に「志登」という名の神社があるのは、観星台(伏見殿か隈本)があった可能性が高いと思います。

さて、別の本に「志登なる社」について書いてありました。
斗極をともに七等星(ななつならびのほし)と呼びました。和名類聚鈔には筑前志摩郡の条に登志(とし)の鄕名が見えます。舟人の守護神なる七星になぞらえて、昔は巨石を配列した遺跡がありました。

 図七(とし)或は七斗(しと)を万葉仮名で写した地名であり、怡土もその派形であります。志登(しと)なる社は妙見の祠が建つ天平以前の昔の信仰の存在を示しております。(儺の国の星p50)


志登神社の東の方に「登志」という地名が残っています。そこには巨石を配列した遺跡があったそうです!もう名残もないでしょうが、そこには登志神社があります。

空さんのブログ記事を見ると、登志神社の社殿の後ろに石が並べてありますね。もしかしたら、それらの石が巨石だったのかもしれません。



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こちら志登神社にも正面にこんな大石がありました。支石墓とは趣が違うので、これもストーンサークルだったのかもしれません。

「とし」も「しと」も北斗七星から来た言葉で、怡土(いと)もまたそれから派生したものだそうです。妙見信仰が入ってくる前から、糸島には北斗七星の信仰があったということです。

海人族ならみな北斗七星を崇敬していたことでしょう。


もう一つ。
 彗星を志登星という。十九歳を四度かさねるを言う。その大なる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星(しそのほし)というから、その一つの方言でもあった。(拾遺p51)


彗星を志登星と言いました。19年×4=76年。これはハレー彗星のことですね。それが最大になった時には北斗七星が隠れてしまうほどだったことから、北斗七星の名が重ねられたようです。

北斗七星は四+三で、「しそ」のほしと言い、それが訛って「しと」となったと言います。小郡に「四三」と言う地名がありますね!
まとめると、
志登=海淵(星を観測した)
志登=北斗七星の言葉の一部から生じた
志登星=ハレー彗星 北斗七星を覆うようすから。
こんな感じでしょうか。「しと」には北を示す星の印象が色濃いようです。

続きにこんな文がありました。
 筑紫の人々は二千年以上も昔から、よく近東の文化を心得ていたらしい。(拾遺p51)


糸島は近東からの渡来人の時代のち、朝鮮半島からの渡来人の時代を経ているので、ルーツを考える時、北の方だけでなく、もっと多面的な方向からの考察が必要ではないかと思っています。

真鍋はそれをかなり具体的に伝えているので、少しずつ紐解いていきたいのですが、もう少し古代史の知識が必要です (/・ω・)/ .


 






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by lunabura | 2015-07-09 21:36 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

志登支石墓群・倭は朝鮮半島まであったみたいだけど


志登支石墓群

倭は朝鮮半島まであったみたいだけど



志登神社の近くに志登支石墓があります。志登神社から歩いていったはずの豊玉姫の岩の近くに支石墓があったことを記憶していたので「志登支石墓」のことばに引かれていったのですが、結果的には違っていました。

せっかくですから、ご紹介。
近くで農作業している方から志登神社からは一キロほどと聞きました。その時点で探している所ではないと分かったんですが ^^

川の向こう岸にありました。




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全景です。田畑の間、少し盛り上がった地点が耕されずに残っていました。






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何を撮ったのかよく分からない画像(^_^;)
多分、探しているものではなかったので、ほどほどに撮ったみたい。







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で、志登神社の真裏から見える山をここでも発見。皆さんから今山だと教えていただきました。今山は遺跡もあるから、いつか行ってみたいですね。





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反対側は糸島富士、可也山が見えています。この日はpm2.5がひどくて、かすんでいます。最近の画像は晴れていても、こんなのしか撮れません(/・ω・)/




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説明板に出土品の写真がありました。分かりやすくていいですね!
で、気になるのが右下の石鏃です。

「柳葉形磨製石鏃」というそうです。かなり高度な磨き込みですが、説明板にはこうありました。


「柳葉形磨製石鏃」は朝鮮半島で出土するものと良く形が似ており、支石墓と一緒にこの地に伝来してきたことがわかります。志登支石墓群は、大陸・朝鮮半島からもたらされた弥生文化のはじまりを知るうえで重要な遺跡といえます。


で、何が気になるのかというと、「支石墓と一緒にこの地に伝来してきた」という部分です。

朝鮮半島には[倭]があったことが『三国志』に書いてあるんですね。

『三国志』といえば「魏志倭人伝」が載っている本ですが、邪馬台国ばかりが話題になりますが、「韓」を何気に読んでいると、こんなことが書いてあるんです。



韓は帯方郡の南にあって、東西は海まで続いている。南は倭と境を接している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓、濊(わい)、倭の人々はみなこの鉄を取っている。

弁辰の瀆盧(とくろ)国は倭と隣り合っている。

どこにどの国があるのかよく分からないのですが、韓と倭は隣あって接していると書いています。

これって、もともと倭国が日本列島と朝鮮半島の南の範囲にあったということを意味していませんか?

任那(みまな)をあれほど取り戻そうとしたのは、倭国の一部があったからではないかな?



また、出土品の何もかもが朝鮮半島から南下したのでしょうか。
文化は双方向で交流したのではないか、という発想はないのでしょうか。

ある考古学者は数が多い方が中心地だと言われましたが、そうでしょうか。

福岡では出土しながら葬られてしまった遺跡を山ほど見てきました。福岡にはカウントされない遺跡や古墳がどれほどあるのか。出土品はどれほど失われてきたことか。

先日も岡本遺跡の所から多紐鏡の鋳型が発見されて、文化南下説の見直しが迫られました。

支石墓も別の所では倭人が埋葬されていたものがあるといいます。

素人だから言います。
これまでの学会内の因習を乗り越えて、科学的な分析を国民に提供してください。

と、思いながら帰路に付いたのでした。



あ~あ、言っちゃった (´・ω・`)





糸島市志登





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by lunabura | 2015-07-07 22:36 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

志登神社の今 焼失した豊玉姫の宮


志登神社の今

焼失した豊玉姫の宮

 
「志登神社が燃えています!」
と悲鳴にも似たコメントが入ったのは2014年7月15日でした。

「福岡県警糸島署によると、15日午後7時20分ごろ、福岡県糸島市の志登神社で出火。 本殿と拝殿の計130平方メートルを全焼し、約1時間後に消えた。けが人はいなかった。 同署が火災の原因を調べている。」

志登神社は「しと」神社と読みます。

糸島に伝わる豊玉姫を祀る宮。
豊玉姫が上陸した伝承を伝える宮です。勧請したものではないので、とても貴重です。

再訪しようと思っていたのですが、全焼したと聞いてさすがに気力を失ったことを思い出しました。

しかし、建物は失っても、人々の思いさえ残っていれば、必ず再興されると信じていました。歴史上、多くの神社が戦火に遭いながらも今に伝えられているのは「心」のお蔭だと思います。

しかし、現代と言う時代は神の事も分からなくなり、人の移動も激しく、神社を支える力が衰えている時代です。どうなるだろうと思っていたのですが、再建が始まったことを聞いて一安心しました。

先日、櫻井神社参拝の帰りに志登神社にも参拝してきました。気付くともう一年が経っていました。





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田園風景の中、こんもりとした杜は何処からでも見えました。


















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鳥居の向こうに、今は拝殿はありません。光が降り注いでいます。










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コンクリートの基礎が出来ていました。まもなくまっさらな神殿が出来ます。









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鳥居付近はこのように昔のままです。


伊勢神宮が二十年に一度は新たな神殿で神霊を迎えるように、この宮も新しい神殿で豊玉姫の神霊を迎えます。


相殿には和多津見神、彦火火出見尊、息長帯姫命、武内宿禰命が祭られています。
安曇の神々の宮ですね。湊があったのでしょう。


豊玉姫は夫の彦火火出見尊が共に祀られていました。
そして、神功皇后もまた武内宿禰と一緒に祀られています。
ガイドブックの世界そのものですね。


風が水田からそよそよと吹いて、神の杜は変わりなく清らかでした。









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この画像は社殿の裏から見える山を撮りました。地図を見るけどどの山か分かりません。
また、今回も豊玉姫の伝承の岩が分かりませんでした。今思えば、左手から出た所にあったのかなあ。
御存知の方、教えてくださいね。




思えば、豊姫の神社(久留米)そして、市杵島姫の神社(姫古曾神社)と、女神の宮々が続けて炎上しています。このようなことはあってはならないことですが、起こってしまっても、不死鳥のように蘇るのが日本の社(やしろ)だと思います。


そして、女神たちのこと、もっと知って皆さんと共有しようと思いました。






志登神社




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by lunabura | 2015-07-06 21:17 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(7)

櫻井神社 岩戸開き


櫻井神社 

岩戸開き


7月2日は毎年櫻井神社の岩戸開きがあります。御神事は早朝4時に行われ、午後七時まで拝観できるということで、参拝してきました。

その前に、自分のブログで復習^^。




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まずは二見が浦で禊(みそぎ)の参拝をしてから、櫻井神社へ向かいました。






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黒田長政の二代目黒田忠之の創建になる與止姫神社が明治二年に櫻井神社と改称しています。







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今日は参拝と同時に、岩窟とは古墳ではないかという自分の予想を確認してまいりました。

実見しまして、古墳に間違いありませんでした。写真はもちろん遠慮しました。当てずっぽうで、目測しました。

入り口は高さが160センチほど。ひさしになる石は見事な石が選ばれていました。幅は二人が並んで肩が触れる程度です。

羨道は長さは120センチほど?

玄室は左右が二メートル弱?奥行きは布が下げられていて不明です。左右には巨大な一枚岩がそれぞれに設置されています。これほどのものは初めて見ました。

天井は持ち送りで、畳を縦に半分にしたような岩を少しずつずらしながらドーム状にせり上げています。とても高い所に天井石が長方形に見えました。

貝原益軒の記録、「高さ二間半(460センチ)」というのは、玄室の高さを示しているのが分かりました。桜井神社(1)で私が推測した「奥行きと高さとが入れ違っているのでは?」という点は私の間違いだと判明しました。

古墳の開口は慶長15年(1610)旧暦6月1日で、これによって黒田忠之公が社殿造営を発願しています。副葬品はどのようなものだったのか、漏れ聞くことも有りません。黒田家に奉納されたかもしれません。





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これは墳丘のようすです。石段の下から右手を見ると、まだ封土があり、前方後円墳だったのではないかと思われました。ホタテ貝式程度の前方部だったのかもしれません。

石室はとても丁寧な造りでした。被葬者に関しての想像は全くつきませんが、専門家なら石室の形状から時代が推測できるでしょう。

信仰の対象はここから出現された霊験新たな神さまです。
神社のHPには櫻井神社は神直日、大直日、八十枉津日(やそまがつひ)とあります。

『福岡県神社誌』によると、岩窟の方の祭神は大綿津見神となっています。龍宮への神扉として信仰されていたと思われます。

龍宮、龍の都と言えば、志賀島。安曇の聖地です。


一度書きましたが、忠之公はこの櫻井神社も含め、領地の各地で神社を創建したり、再建したり、鳥居を奉納したりしています。福岡の繁栄のための結界を張られたのではないかという思いが今日もしました。

古墳の被葬者は、当地の豪族の長です。死してもなお、この地を守ると誓われたのでしょう。黒田公が筑紫に来るのを待って再来されたのかもしれません。

私たちはその恩恵を今でも受けているのだと思いました。






櫻井神社 糸島






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by lunabura | 2015-07-02 22:38 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(3)

製鉄で倒れた人たち


製鉄で倒れた人たち


今日は「玄海灘の海上気象」(真鍋大覚)のp131を読みます。

古代人は粒子の砂鉄を高温状態にしさえすれば、これが冷たく光る鋼(はがね)に融合固化するものと信じていた。

しかしもっとも酸化度の強い磁鉄鉱から強力に結合している酸素を剥奪するには猛毒の一酸化炭素によって還元せねばならない事実を発見するまで、数十万の犠牲者が中毒のため、或は不具不随になり生命を失ったはずである。

一つの窯に燃やす炭は優に三~四百俵を越している。一酸化炭素を猛烈に吐き出す窯ほど多量に鋳鉄が生産されるという奇妙な矛盾は、決死的作業であり、仕事に熱心な優秀な技術士など生命を落とす危険に曝(さら)されているのであった。

砂鉄からハガネを作りだすには、一酸化炭素が必要で、それは人間には猛毒だったということから、製鉄は命懸けの作業でした。

だから、羽白熊鷲など山の中で鉄や銅に関わる民は作業員確保のために里に下りて人さらいをして、鬼と恐れられていたという事がよく分かります。

一回で炭が三~四百俵もいるのですから、炭焼き人もまた大勢必要でした。
海で採れる砂鉄を急な山の上に持って行って、風の吹くのを利用するため、
犬鳴(いぬなき)など山の上に製鉄跡があるのもこれで理解できます。

神功皇后のガイドブックで旅をされた方は、稲荷社が必ず急な小山のピークにあり、
意外にも狭い境内だということを肌で体験されたと思います。

そんな所には古代の有力者がいて、有名な古墳なども近くにあり、
仲哀天皇や神功皇后を安全に招いた古代豪族がどんな暮らしをしていたのか
想像がつきそうな気がしてきます。

つづき。
同じ爐(ろ)の温度でありながら一酸化炭素の包有濃度と高熱状態で、なめらかな黒い肌で幡居する鋳鉄と、何の変化もなく閃(ひらめ)く砂鉄が接する。

古代人の合点のゆかぬ不思議な顔、不審と不満と無念を混合した表情が想像でき、型ばかりの真似事では絶対に理解できぬ技法が門外不出として厳秘にされていたはずである。

優秀な技術者は、工夫の途中でつぎつぎに斃死して後人に伝わらなかった。千慮の一失で落命した練達者もあった。これが今、累々として残る鉱滓の山である。爐の跡に接して建てられた無数の古墳群は供養塔でもあった。
鉄を作るには砂鉄と炭を交互に入れて燃やすだけでは駄目なんですね。
真似事では出来ないし、命を落とす者も多く、いったん熟練者が死んでしまうと、
その技術は失われてしまう。

そのために戦って手に入れようとする状況が生まれたのかも知れません。

先日、糸島の巨石探査に誘われて、行けなかったのですが、
あとで聞くと、山の中は古墳だらけで凄かったといいます。

小さな古墳だらけ。
人の命の数だけ古墳はあるわけですが、
このように製鉄で倒れた人の古墳もまた多かったのですね。


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(福岡市埋蔵文化財センターにて)


廃棄されたおびただしい鉱滓の群落を見て、徒労に帰した失敗の厳しい現実を背の負籠(ふご)にになって片付ける百姓の悲痛さを想う。

「御破算になる」ことを「反古(ほご)にする」と言う。これは稾カマスに入れてきれいさっぱり棄却することである。モッコ「ふご」の形は真っ四角なムシロを二枚重ねて三方を縄で綴り併せてつくる。

四足を切り取って空剥(うつはぎ)にした鹿の皮の袋がフイゴに利用された。「ふご」は「負籠」と同音であり、また、竹を編んだ長方形の籠をも言う。
百姓は冬になると各自で鉄を作った時代があったそうです。
そのために山に入って木を切って炭を作る。
それから窯で砂鉄を燃やしても、失敗すれば一年は無駄になる。

真鍋は鉄滓を見ると、その苦労がよく分かるようです。

「ホゴにする」が製鉄用語だったとは知りませんでした。
鹿の皮の袋については、「アマテラスVSスサノオ」に書きましたね。


下の図は筑紫の鉄滓が出た古墳(白丸)の分布です。
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画像出典「福岡市元岡・桑原遺跡群の概要」より
http://www.kuba.co.jp/syoseki/PDF/3274.pdf

山際ばかりですね。
失敗作が副葬されるのはどういう意味を持っているのか、
上の文を読んでからだと、いろんなメッセージが受取れそうです。







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by lunabura | 2014-08-29 21:53 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

糸島の地名に残された製鉄の記憶


糸島の地名に残された製鉄の記憶


糸島水道の話の続きには地名の由来が書いてありました。
そこで、今日はそれを写して行きたいと思います。

「玄海灘の海上気象」真鍋大覚 p130

渡良瀬 度会(わたらい)

秋落ちの早い、砂利の多い水田がつづく怡土(いと)の谷には、初秋の風が志摩の方から吹き渡って来る。水はきわめて清冽澄明で絶え間ない渓流の音を爽やかに立てている。

渡良瀬川、五十鈴川の名が自然に雰囲気となって環境をこめてくるのが感ぜられる。渡良瀬、あるいは度会(わたらい)は、大垂(おおたらし)の転訛で、いかにも伊勢神が大和から渡御遷座まします印象を与えるが、古代人には銅や鉄の鋳造製錬の際に粘稠(ねんちょう)な熔融物が大きく垂れるほど苦心惨憺の成果であり、技術の的確さを示す神技の象徴でもあったからである。

五十鈴とは拝殿の鈴ではなくて「ずく」の転訛で、固化したばかりの玉(生)刃金(はがね)の意である。

語源は、爐(ろ)の内に重く沈んでいるまだ熱い鋳鉄を突き出す操作にも繋がる。やがては鋳造された直刀の刺、衝(つく)の行ないにもなる。

生(壱岐)の松原は、鞴(ふいご)の呼吸(息)であり、周船寺の古い港名が示すように、これが舟で積み出されて行く意味でもある。

初秋の怡土に吹き渡る風か…。
ちょうど今頃の季節でしょうか、真鍋の自然の描写を読むと、
忘れ去った季節を感じる感性が呼び戻されます。

糸島には有名な櫻井神社や二見が浦があり、伊勢との繋がりを思い起こさせますが、
五十鈴とはもともと銅や鉄の関連の言葉だということです。

そういえば、伊野天照皇大神宮の前も五十鈴川が流れていますが、
伊野の山では製銅をしていたとかで、川の汚染があった時代がありました。

褐鉄鉱の作りだす器状の形もまた自然な鈴を作りだすことがあり、
スズ鉄という言葉の由来と聞きます。

大垂(おおたらし)とは銅や鉄が真っ赤に流れ出るようすを表し、
それがワタラシ、ワタライと変化したといいます。

生の松原という言葉も考えれば不思議な言葉ですが、
「息」や「行き」という言葉から来たものだということです。


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(壱岐神社から今津湾に出て、糸島半島を見る。五十迹手の船団はここから出航した。)




可也(かや)芥屋(けや)
建物の新築祝の行事を「こけらおとし」と言う。これは鋳物の本体の表面に固着した鉱滓を削り落す作業から出たもので、「ずくおし」「けらおし」という職人の用語がこれである。

可也、芥屋などは、「けら」が転じたものである。

今山、今宿、今津などは鋳間(いま)すなわち江戸の銀座のごとく、鉄製品の販売生産地である。開拓した鋳鉄は「す、じゅ」で、「ずく、じゅく(宿)」にも転ずる。
可也山の地名はよく伽耶国由来などと言われますが、そうではなく、
「かや」も「けや」も「けら」から来ていたとは!

「こけらおとし」が鋳物職人の用語だったとも知りませんでした。
元岡などで生産された鉄が流通していくさまが目に浮かぶようです。


ついでにp129から。


桜井 小桜

馬肉の事を俗に「さくら」というが、色が桜色という事に起因しているよう伝えられるが、これは「早鞍」「さくら」のことか。

早馬「はやうま」すなわち駿馬を鞍に託して言ったのであろう。駅のころを昔は「はゆま」と訓じていた。

志摩郡桜井村桜井、那珂郡三宅村小桜など山犬、狼から保護した放牧場の跡か。
なるほどですね。
馬肉を「さくら」っていうのは、早馬、早鞍から来ていたとは。
古代では駅ごとに馬を置いて、どんどん乗り換えていた。
大きな鈴を着けて駈けて行ったんですよね。

桜井神社あたりも、馬の放牧などを考えて地形を見直すと、また別の世界が見えるのかもしれません。

地名はやっぱり歴史の化石です♪




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西から糸島半島を見る。





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by lunabura | 2014-08-28 21:20 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)
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