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金星の和名(1)


金星の和名(1)


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http://www.nationalgeographic.co.jp/より)
金星を中国語で「太白」と言うのはよく知られています。
それに対して日本語では「宵の明星」「明けの明星」などが思い出されます。
金星は太陽に近いために、日の出前か日没後すぐに見られる特徴から付いた名です。

今回も眞鍋大覺の『儺の国の星・拾遺』を紐解いて、
古代の日本での金星を見て行きましょう。

端白星・羽白星(はじろほし)
羽白星は金星の古名だった。その「羽白」を名に持つ羽白熊鷲について日本書紀はこう語る。
  その人となり、強く、健し(こわし)。
  また身に翼ありて、よく飛びて高く翔ける。
髪に鷹の羽を挿すのは胡人の飾り方だった。胡人の部落を「ふれ」と称した。中国の呉越の地に多い「埠(ふ)」がこれである。
羽白熊鷲の姓は「金星」でした。
彼らには鷹の羽の髪飾りをする習慣があるのを、
日本書紀では「翼を付けて空を飛ぶ」というように神話的に超人化したと思われます。

熊鷲の本拠地は「のとりたのふれ」ですが、
その「ふれ」には「渡来人のムラ」というニュアンスがあるという事です。
胡人という言葉は眞鍋氏の本によく出てくるのですが、
特定の地域を指しているのか、漠然としたものかはまだ掴めていません。

辞書で「胡」を引くと、漢民族が西部や北部あたりに住む民族を呼ぶ名で、
シルクロードの西部から北部あたりがイメージされます。

シルクロードと羽根飾りと言えば「楼蘭の美女」のミイラを思い出すのですが。
彼女はまつ毛まで残っているのですが、
金髪に帽子を被り羽根を挿していたことで知られています。

ミイラと復元写真
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/31588833.html
このように「楼蘭の美女」は羽根飾りを三本、帽子に挿していましたが、
羽白熊鷲は自分の髪にどのように挿していたのでしょうか。

をしろぼし
「太白」を倭人は「をしろぼし」と読んだ。景行天皇の名は「大帯日子オシロワケの天皇」なので、(金星の名が入っている)、この頃、筑紫は呉越の民族が大いにその勢力を競っていたものとみえる。

肥前風土記 藤津郡能美の郷の条に
  この里に土蜘蛛三人ありき。兄の名は大白(あしろ)、
  次の名は中白(なかしろ)弟の名は少白(をしろ)なり。
とある。氏姓は熊子(ゆうし)で、熔鉄の業に卓抜した技能を継承する家系だった。遠く神代の昔からその名が出る土蜘蛛や熊襲はその子孫とみることが出来る。

「オシロ」が金星だと言う事は
「太白」をそのまま「おゝしろ」→「おしろ」と読んだということですね。

羽白熊鷲と神功皇后の戦いのもとをたどっていくと、
景行天皇の九州制圧が出て来ます。
その景行天皇の名前「オシロワケ」に金星の名が入っている事は、
羽白熊鷲と同様に金星をシンボルとしている人だという事です。
敵対するクニの人同士に金星の名がついていたというのは何か暗号めいています。

肥前風土記に出てくる土蜘蛛たちにも「しろ」という金星の暗号が付いています。
「土蜘蛛」というのは手足が長い渡来人たちを蜘蛛のイメージで呼んだもので、
熊襲と同様、山に分け入って製銅や製鉄を行う人たちの総称です。

福岡市の「和白」は「わじろ」と読みますが、やはり製鉄をしていました。

私は「はじろ」も「わじろ」も、もともと金星を信奉する同じ部族で、
倭国に入植してそれぞれに鉄製品を作っていて、
神武天皇以来、武器生産を支えていたのだろうと思うようになりました。

時代が経っても福岡市和白の「わじろ」の部族は仲哀天皇に朝貢を怠らず、
秋月の「はじろ」の部族は反抗し始めたのではないかと考えています。

福岡市の「わじろ」は朝鮮半島への門に当たるので
新たな文化が常に流入して時代の流れに乗ったけれど、
秋月の山の中で生産していた「はじろ」の方は変化に取り残されたのではないか。
そして要求される朝貢品を作るのに疲弊していったのではないかと考えています。
この時代はもちろん天皇制など存在せず、小国群を形成していた時代です。

鉄を「造る人」と「使う人」に分離して行って、
その理不尽さに羽白熊鷲は独立しようとしたのではないか。
そう思うようになりました。

羽白熊鷲の根拠地である秋月に行ってみると分かるのですが、
山の中なので米などの食料生産が出来ません。
イノシシやシカなどの狩による食糧では十分でないので、
彼らは麓で生産している米や食糧を略奪しに行き、
労働者などの確保の為に拉致を繰り返し、人々を恐怖に陥れていきます。
毎年の朝貢品の生産に明け暮れる日々が馬鹿らしくなった事は十分に考えられます。

ついに羽白熊鷲は仲哀天皇に反旗を翻して朝貢するのをやめました。
すると数年後に天皇は軍勢を従えて川向こうの小郡市までやって来ました。

その天皇を得意の矢で倒したまではよかったけど、
その后・神功皇后が大勢の軍隊を連れて本気で攻め込んでくるとは
全く想定していなかった。
そんな光景が浮かんできます。

この戦いはいったい何日、かかったのでしょうか。
日本書紀によると、
層増岐野(そそきの)の本営地である松峡(まつお)宮に着いたのは20日。
25日には田油津姫攻撃のために山門県(やまとのあがた)に到着しています。
この間わずか5日。
移動に要する時間を差し引くと実際の戦いは1~2日間という事になります。
(日にちについては地元には別の資料が出てくるので、またその時検討します。)

いとも簡単に戦いは終わりました。
羽白熊鷲を強そうに書いてあるけど、
実は彼らは工人集団であって、武人集団ではなかったのです。
                
眞鍋氏はさらに書いています。
呉越の地は天然産の磁鉄の結晶が多い事で早くから西域に知られていた。
「越」をwikiで調べると紀元前334年に秦に滅ぼされていました

越では銅の生成技術に優れており、1965年に銅剣が湖北省江陵県望山1号墓より出土したが、その銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆っておりさびてない状態で出土し現在も保管されている。
荘子によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたという。
wikiより
越の銅の技術は高度で、かれらが入れ墨をしていたというのは
魏志倭人伝に倭人が入れ墨をしていたというのを思い出させます。

次の写真は紀元前の中国の銅製品です。

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これは鐘ですが、左が紀元前9世紀のもの。右が紀元前3世紀のものです。

国が滅んだ時にこの技術を持った人たちはどうなったのでしょうか。
彼らの一部が技術を持って日本に逃げて来たと考えても問題ないでしょう。
吉野ヶ里の高度な銅の製造技術や祭祀線には中国の影響があると聞きました。

眞鍋氏はさらに書いています。
羽白熊鷲は、まさにその特技の産物たる刀剣で百姓を殺戮して蛮勇をふるった氏族であった。そして前述の記録は大和朝廷が韓国特産の馬鞭(まべち)、馬梳(まそう)という褐鉄鉱石の買い付けを妨害しようとしてあらゆる手段を使って狂奔した事実を物語っているのである。

100-1=99である。「九十九」を筑紫では「つくも」と読ませる。昔は土蜘蛛を尊敬して親分を太白、子分を小白と呼んだ。「つくも」とは九を重合対立させた形で「つちくも」の略だった。
倭人たちは必死で朝鮮半島の褐鉄鉱を求めていた時代背景は魏志倭人伝に書かれています。

羽白熊鷲たちのルーツを探ることは、
朝貢を当然とする天皇家のルーツを探ることにもなると思われます。
   (つづく)





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by lunabura | 2015-05-03 08:34 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(8)

やっぱ、弩じゃね




昨日は垣生(はぶ)神社の所の推敲をしていて、
壁画の男をもう一度見直した。



武人が立ったまま馬に乗って、矢を射ている壁画だ。


弓を持っているのに弦を引いていない、変なイラストだなと思っていたけど、
よくよく見ると、これ「弩」じゃない?

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真中に心棒があって、弓もかなり小さい。

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やっばり、弩だ。
中間市の歴史民俗資料館で見られます。

最近テレビで見たけど、秦の時代の弩(ど)は200m以上は飛んだという。
これは、衝撃。

羽白熊鷲が雑木山から矢で射られたという話があったけど、
射程距離が離れすぎていて、地元の人も変だと言っていた。
でも、弩が数百メートルも飛ぶなら、話が合う。

羽白熊鷲も、まさかあんな遠い所から矢が飛んでくるとは…。
と驚いたに違いない。

遠賀川流域の武人たちは
仲哀天皇がやってくると聞いて勇んで集まった。
きっとこの中間市の武人たちも参軍しただろう。
そうすると、この弩を持って朝倉まで行った可能性はかなり高い。
弩はきっと古墳時代より前に入っていた。

昨日はそんな事を考えました。
女神から武人と、話は飛びますね~。

ところで、羽白熊鷲と言えば、るなさん、いつもこの人を思い浮かべてしまうんだ。

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照英で~す。
そっくりでしょ。 (^-^)





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by lunabura | 2013-02-20 23:18 | 弩(ど) | Trackback | Comments(2)

ウチ考(6)老松神社1・内野・羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して

ウチ考(6)
老松神社(1)
福岡県飯塚市内野
羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して

前回の土師の老松神社を通って王塚古墳方面に下り、「出雲」の交差点に向かいました。
山越えのルートが土砂災害の為に通れないので、
遠賀川方面から内野宿に向かうことになります。

土師の老松神社は泉河内川沿いにありましたが、
内野の老松神社は穂波川水系の奥にあります。
道は200号線。長崎街道が並行して走っています。

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「阿恵」の信号です。「阿恵」は「北」という意味ですが、朝鮮語だとも聞きました。
(本当かどうか知ってる方、教えてね。)

ここが「北」なら「南」があるだろうし、「中央」もあるのではないか。
そう考えて南を見ると弥山岳(377m)があり、さらに南には前々回の天神社のある内山田があります。
「中央」にふさわしい所は見当たらないなあ。

これから向かう「内野宿」は、南西方面になります。
大まかに見て、この「内野宿」あたりが「中央」になるのかも…。

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「阿恵」を過ぎて「内野宿」方面へ。穂波川を遡って行く形になります。
この地の標高は200m弱で、正面の山々は400m級。
穂波川沿いに発達した穏やかな平野の奥に、目指す内野宿があります。

その先は「冷水峠」。トンネルが出来る前は急カーブの連続で、
冷や汗をかくから着いた名前かなと幼な心に思っていましたが、
冷水が湧く事から付いた名前だと『筑前国続風土記』に書かれていました。

上の写真では長崎街道は道の右を走っていて、左の方に穂波川が流れています。
古代人が住むとしたら、山あり川ありで、出入口の防衛もしやすい良地です。

合併前の地図を見ると、穂波・筑穂・嘉穂・稲築(ほなみ・ちくほ・かほ・いなつき)
と古代鉄に関するかもしれない名前がずらりと並びます。
「ホの一族」と名付けた一族をふと思い出しました。
あの頃は暗闇の古代史を手探りで歩く状態で、却って大胆な事を書いていたなあ。(汗)
サイドバー → 馬見神社 (うまみじんじゃ)

さて、今回、目指すのは「内野の老松神社」です。
それはここに羽白熊鷲の終焉地があるという話をネットで見かけたからです。

「羽白熊鷲の墓」が「甘木の寺内ダムの施設内」にあって、伝承も残っているのは紹介済みですが、
この老松神社に逃げ込んだ話を見かけたのです。
記憶が曖昧なので確認したくてネットでもう一度探しましたが、見つかりませんでした。
(なんと私のブログばかりがヒットする…。(大汗)検索の得意な方、情報をお願いします。)

老松神社は内野宿の近くなので、まずは内野宿を目指したのですが、
どこかな、とキョロキョロするうちにあっという間に通り過ぎて、冷水峠にたどり着きそうになりました。
慌てて、Uターン。
あ、大根地神社の鳥居がある!!
でも、今日はパス。行ったら、満足して、そのまま帰ってしまいそう。
今日は老松神社なのだ。

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内野宿の奥まった位置に老松神社はありました。
この左には天満神社の鳥居もあって、

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どちらから入っても、境内は一緒です。

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老松神社といえば道真公ゆかりと聞くし、天満宮もまた道真公ゆかり。
いったいどうして二つの宮が共存している?
合祀したのかな…・


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こちらは老松神社。やはり祭神は菅原神。

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右脇には珍しい子を抱いた狛犬。

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左脇の狛犬。ユニークな表情ですな。元祖ゆるキャラ?

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その左に鎮座する天満神社の拝殿。祭神は同じく菅原神。

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一番右に鎮座する大神社。祭神は大日靈命。(おおひるめ)
天照大御神の別名と言われています。

さて「福岡県神社誌」を訳しながら写しましょう。
村社 老松神社 嘉穂郡内野村大字内野字関屋
祭神 菅原神
由緒 不詳 明治5年11月3日に被定。
社説に曰く、後深草天皇・宝治2年の創建で、昔太宰府の神領だった事からここに勧請されたと伝えている。
元字古宮という所に鎮座されていたのを、天正元年現在地にお遷しした。神宝に古鏡が8面ある。また宝永2年、藩主黒田綱政公が寄進した絵馬が1扁、及び天保8年藤原義実公が奉納した額が一面ある。
後深草天皇(1243-1304)は鎌倉時代の天皇。
この時代に大宰府の領地だったという縁で勧請されたのが、現在地に遷宮したという事です。

これを見ると比較的新しい時代の創建だけど、これまでの逍遥から考えると、
創建とは、縁もゆかりもない所に唐突に神社が造られたのではなく、
もともと古代からの祠などの祭祀があったのにかぶせて、
正式に神社として建築したというニュアンスがあるように感じています。

ここもまた羽白熊鷲の伝承があるとしたら、
ずっと古代の土蜘蛛たち?の史跡の上に建ったのかも知れないという気持ちが拭いきれず、
とにかく宮司さんに話を聞きたいと、やって来たのに、
出会った氏子さんが何かただならぬ様子。

お話を伺うと宮司さんの初盆だと…。
一年、いや半年遅かった…。

氏子さんに熊鷲伝承がないか尋ねましたが、やはり耳にした事はないようす。
もう羽白熊鷲の飯塚側での伝承はこれで永遠に消えてしまうかも知れない。
そんな後悔の念を抱きながら、墓か石があるかも知れないと境内を廻りました。

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これは宮中で行われる新嘗祭の斎田として穂波町が指定されて、
奉仕した記念碑です。

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道真公ゆかりらしい狛牛。

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屋根が作られて大事にされている石。
一番左には梵字らしき跡。

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拝殿前から見た境内の様子。しっとりとした美しい山里です。
羽白熊鷲の事はあきらめました。

最後に通りかかった内野宿の資料館を訪ねる事にしました。
雨がまた降り出しました。
もう一つ、心に残ったのは大根地神社の鳥居。
思いがけず、ここから近い所にあったけど…。   (つづく)








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by lunabura | 2012-10-22 00:48 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(7)

羽白熊鷲塚・熊鷲は矢で倒された


羽白熊鷲塚
 

福岡県朝倉市矢野竹
羽白熊鷲は矢で倒された 

ついに羽白熊鷲の墓にやって来ました。
そこは前回の矢埜竹神社からわずか400mの所でした。
墓は寺内ダムの付属施設「あまぎ水の文化村」の敷地内にあります。

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「あまぎ水の文化村」は広大な公園。その中にある「せせらぎ館」に向かいます。

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流れる水をデザインした広大な長い階段を上って行きます。
ゲート前で既にテンションが上がったのに、この壮大さに感激。

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次々に現れる水のモニュメントを楽しみながら高みに登って行きます。

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そしてラストのゲートに入ると円墳らしき塚がありました。
これが「羽白熊鷲塚」です。
ただし、これは最近、移転されて造られたものです
説明書きがあるので読んでみましょう。(一部 変更)
羽白熊鷲の碑
仲哀天皇御代、木免(きづ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり。その長(おさ)を羽白熊鷲(はじろくまわし)という。荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す。
 
神功皇后 新羅征討の途次、橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣中なりしが、かかる形勢を関知し、まず内患を断つ事の急務なるを悟り、従駕の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)等と審議の末、巨魁羽白熊鷲を征討する事に決せり。

神功皇后ただちに軍容を整え、仲哀天皇9年(西暦391年)3月橿日宮を経て松峡宮に至り、激戦死闘の結果、ついに層増岐野において強敵羽白熊鷲の軍勢を殲滅(せんめつ)、この時聡明かつ沈着な神功皇后、左右を頼み「熊鷲を収得し我が心即ち安し」とのたまう。

羽白熊鷲の覇権の強大さここに歴然たり。
おもうに古代、我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず。いま彷彿として羽白熊鷲の勇姿脳裏に去来す。われらはここに永遠に不滅の羽白熊鷲をねんごろに顕彰し碑を建立して辞となす。
平成14年12月  山本辰雄 謹選

引用文献
「日本書紀」「太宰管内志」「第二本時代志」「古事記」「延喜式」「筑前志」「筑前国続風土記」「考証三代実録」「筑後志」「朝倉風土記」など
香り高い文語体で書かれていました。
そう、羽白熊鷲は郷土の誇りなのです。
日本書紀なんかに、さんざんに書かれているのは、負けた者の宿命。
この矢野竹の地に散った弥生の王を愛さずにはいられません。

このクニは二度と立ち上がれないよう徹底的に滅ぼされたのでしょう。
地元の神社の伝承にわずか名を残しただけで、
日本書紀にも書かれた強大な王が居たということも忘れ去られていました。

この「あまぎ水の文化村」建設にあったってその墓が再発見され、
世に出て来たのも、不思議な流れです。
説明板の裏に由来が書かれていました。(一部変更)

羽白熊鷲の塚 由来記
「水の文化村」建設時、ここに羽白熊鷲の遺跡あり。
せせらぎ館の建設地と重なりし為に70m南に移転せり。
平成14年4月 甘木商工会議所施設運営の委託を受けし後、羽白熊鷲の存在を知る。
仲哀天皇の御代、領土を統治せし豪族 羽白熊鷲の塚とは余りに貧弱、不敬に亘るとし、ここに再度移転せるものである。
これを読むと「せせらぎ館」を建設する時に熊鷲の墓が見つかって南に移転したが、
郷土の皆さんが羽白熊鷲の存在を知って、郷土の豪族として改めて認識し、
移転した墓を問題視して、この目立つ場所に再度移転したのが分かります。

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彼の墓は、もともと何処にあったのだろう?
スタッフや地元の方々に伺ってその様子が分かりました。
写真に「せせらぎ館」と熊鷲塚を同時に撮りました。
本来の場所はプールの下辺りだという事なので、この写真の範囲内かも知れません。

もともと、ここは畑だったそうです。
墓は丸い石が置かれているだけだったそうです。
塚はなく、発掘した時も何も出て来なかったそうです。

建物の下になるので墓は一旦、上の写真の右奥の方に移転されました。

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この写真は塚の奥を撮ったもので、遊歩道があってアズマヤがあります。
その裏手に枯山水があって、さらにその裏側に廻り込み
榊が2本植えられた所に移されました。

現場の写真も撮ったのですが、これは一時期に移転された場所なので、
後の混乱がないように、写真は掲載しません。
確かに裏の裏というさみしい場所でした。

だから今のような堂々とした場所に移されたのは本当に良かったと思います。
本来の墓は無くなったのですが、開発のために再発見されて世に出たのは
多くの遺跡と同じように不思議な運命を感じます。

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このロケーションこそ、熊鷲の墓にふさわしいものでしょう。
墓石は塚の上に置かれたそうですが、写ってませんね。

「熊鷲の最期の場所」というのも伝わっていました。
それは「せせらぎ館」の裏の階段あたりだそうです。
熊鷲は矢で射られたそうです。
「近くの雑木山から矢で射られたと言うが、あんなに離れていて、
はたして矢が届いたのだろうか」と地元では話したりしているそうです。

電話だったので、その雑木山がどれかは分かりません。

「はたして矢が届いたのだろうか」という言葉がずっと気になっていました。

そして先日、忙しい中に無理して行った吉野ヶ里の出雲展で、思いがけない矢を見たのです。
  (つづく)

地図 羽白熊鷲塚










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by lunabura | 2011-12-20 22:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

矢埜竹神社・皇后軍は矢の竹を切った


矢埜竹神社(田神社)
やのたけじんじゃ
福岡県朝倉市矢野竹
皇后軍は矢の竹を切った

矢埜竹神社は喰那尾神社から900mほどしか離れていません。
喰那尾(くいなお)神社は山の頂上にありましたが、
矢埜竹(やのたけ)神社は谷に下って行く所にあります。

ケンポナシの古木があるので有名らしいのですが、どの木かな。
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ガードレールの切れ目から入って数軒で目に入るのがこの巨木。これが神社の目印です。
このまま道を進むとすぐに突き当たるので右に曲がると境内の駐車場に出ます。

正面が何処か、よく分からず、きょろきょろして鳥居を見つけて
扁額を見ると「…埜竹…」という字が辛うじて読めました。

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このように時を経た物が好みなのでついつい写真を沢山撮ってしまいます。

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参道の長さはわずか10mほど。

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石灯籠が残っています。
石灯籠ってずっと昔の時代は一つだけだったそうですね。

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参道を終えて振り返るとこのように「下がり宮」になっています。
ここが「下がり宮」だというのは地元の方に教えてもらいました。
この特殊な形に特別な宮の思いがします。

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本殿です。

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本殿正面です。御祭神を隣家に尋ねたりしましたが、分かりませんでした。

この神社は何故か、あれこれと尋ねるのがはばかられて、
踏み込む気持ちになれません。

そして本殿の裏手に廻って驚きました。石の祠が真裏にあったのです。
隠れキリシタンのように、本殿でお参りすると
この祠を参拝するようになっていました。

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これがその祠です。
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神紋を見ると2本の矢が彫られています。「並び矢」です。

後で、紹介していただいた方に電話で尋ねると、現在ここは田神社というそうです。

羽白熊鷲の伝承がないかと尋ねたのですが、それは分からないという事でした。
皇后軍が竹を切って矢竹にしたという伝承は伝わっていました。
その特殊な竹は川の方、少し登った遺跡の所に今も生えているという事です。
遺跡がある?!と思ったのですが、具体的には尋ねそびれました。

矢は消耗品です。
皇后軍の兵士たちは矢じりだけは沢山所持していて、
矢竹は現地調達だったのでしょう。
矢に使える特殊な竹をここに見つけて、必死で矢を造ったのを
村人は見ていて、今に言い伝えたのではないかと思いました。

地図 矢埜竹神社









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by lunabura | 2011-12-19 17:36 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)

喰那尾神社・皇后軍の陣営地

喰那尾神社
くいなおじんじゃ
福岡県朝倉市三奈木
皇后軍の陣営地 

前回の粟島神社から直線で約3キロ。
山見川ぞいを走ると緩やかな勾配です。
秋月カントリークラブを目指して曲がるとゲートの正面に鳥居がありました。

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鳥居が無かったら神社がそこにあるとは、とても分かりません。
鉄の階段を上って草むらをかき分けると、

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山道を発見。

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その先は草むらですが、道はあります。

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すぐに人の手が入った参道になりました。
木に掛けられた竹が結界を示しています。

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神祠の脇から境内に入りました。

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美奈宜神社上宮と書いてあります。
ここは喰那尾(くいなお)神社であり、美奈宜(みなぎ)神社の上宮です。
祭神は天照皇太神宮 住吉大明神 春日大明神。

この話は小山田斎宮から話が続いていました。
神社の伝承を写します。
創設
第14代仲哀天皇は山口県長門一の宮から筑紫方面へ軍を進めておられた。しかし、天皇は急に病気になって亡くなられました。神功皇后はこのことを秘めて武内宿禰等を従えて敵対する羽白熊鷲を討つために小山田邑を軍立ちされた。

当時熊鷲は、白髪山(古処山)を本城として良民を苦しめていました。皇后等は喰那尾山に陣を布き、武内宿禰の軍略を用いて之を討ちとられた。

そこで賊の大将を討つことが出来たのは、出発の時小山田邑でお告げをうけた「三神」のお助けによるものとして、三奈木川のほとり「池辺」の地に「ヒモロギ」を立て、神を招いて戦の勝利を奉告された。
美奈宜神社に尋ねたところ、
この池辺の宮(本宮・元宮)にあった神祠をここに遷したそうです。
池辺の元宮で神功皇后が祈ったのは羽白熊鷲を滅ぼしたあとの事で、
この喰那尾山はまだ戦争中の話です。
ここにヒモロギを立てて、神功皇后は神々に勝利を祈ったそうです。

ここに陣を敷いたという事で、辺りを見回すと、樹木が茂って視界は利かないけれど、
木が無かったら戦場が見渡せるような小峯のピークです。
しかし、かなり狭いので、
選(え)り抜きの親衛隊が少数で皇后を守っただろうと思われます。

元々ここは羽白軍の見張り台があったのではないでしょうか。
皇后軍はこの見張り台の存在を知っていたのでしょう。
ここを狙い、奪う事で有利に立つ作戦だったと思われます。

ここに至るまでに何度か戦いがあったようで、皇后軍は矢の補充をします。
それを伝えるのが次回訪れる矢埜竹神社です。

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帰りながら鉄の階段から一の鳥居と秋月ゴルフ場のゲートを写しました。
向こうの山々は戦ってきた秋月の方面です。

地図 喰那尾神社






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by lunabura | 2011-12-18 19:55 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

粟島神社・神功皇后の鎧かけの松


粟島神社
あわしまじんじゃ
福岡県朝倉市日向石
神功皇后の鎧かけの松の伝承があった 


私たちはいったん駐車場に戻り、秋月の城下町の中の道を通って移動しました。
秋月は「杉の馬場」から路地に入ると、江戸時代の空間が残っていて
武家屋敷などが店になったりしてとても面白い所ですが今回はパスです。
(皆さん是非探検してね。)

城下町を出ると秋月八幡宮のある山を廻り込みながら寺内ダム方面へ。
「秋月から寺内ダムに抜けられるの?」
「うん。もちろんよ。」
「そうなんだ!」
私が想像した羽白熊鷲の逃走ルートを車は走って行きました。

小石原川が緩やかに流れて、小さな盆地を形成しているような地形の中を走ります。
標高は高いまま、フラットな土地が開けていました。
右に左に、気になる形のいい山が。
「ほら、あそこ。」
「え?どこどこ?」
「山の所。」
示された左の丘を見ると石段が見えました。

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近づくと車道には大きな石碑もありました。

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舗装してあるけど農道みたいでそのまま畑に入り込む道です。
車で入ると、延々とバックで戻ることに。

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歴史ある石段!

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すぐに御堂があって、覗くと歩けないほどの急な石段が。
あれ?ここには何も祀られていない。
正面を上るのが、はばかられて見回すと左に石段があったので、そちらを上りました。

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振り返るとこんな景色です。
石段に手すりがついているのでここを上ってよかったんだ。
そして先を見るとまた御堂。そして左右にも石段。
どうなってる?

結局どれを通ってもよかったのです。
でも、地元の人にだけ分かる参拝の仕方があるんでしょうね。

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拝殿に出ました。
ここは神仏混淆の神社のようで、信仰が盛んなようすです。
由緒書きがありましたよ。
粟島神社の御神体である粟島大明神はその昔、神功皇后ゆかりの鎧かけの松の根元に祭られていたと言われ、寛政10年頃、石造りの神殿に納められ拝殿は嘉永年中に建立されたと言い伝えられ、霊験あらたかな神として今日まで永く信仰を集めてまいりました。
 近年拝殿の老朽化が激しくなりその左上方の土地を隣接者の御協力を得て造成を行い、又多くの方々の御寄附を頂き、ここに新しい神殿の建立に至ったところであります。

粟島大明神は女神にして腰より下の病に特に利玉有り子宝、安産の神と言われております。
又粟島神社は少彦名命大己貴命を共に祀り諸病平癒、商売繁盛を祈る神社であります。粟島神社の大祭は3月3日で毎月3、13、23日が成願日となっております。
この新しい神殿を期に御参拝の皆様がさらに大成願成就される事を祈ります。

 平成12年(西暦2000年)12月吉日

神功皇后の鎧かけの松の伝承が書かれていました。
場所は拝殿の下の古い境内のようです。

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少し探したのですが、場所は分かりませんでした。

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帰りながら境内から川の方を撮りました。日本の原風景のような光景です。
神功皇后もさすがに鎧を身に付けていたのですね。
同じ光景が見えたでしょうか。

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下りて山の方を撮りました。この山のどこかに羽白熊鷲がいます。
そして、皇后軍の別動隊も佐田川を遡ってあの山に向かっているはずです。

古代は敵の居場所も味方の居場所もどうやって分かったのでしょうか。
ここに立つと、皇后軍には地理が分かる案内人がいただろうと思えました。

マーサに尋ねました。
「帰りは寺内ダムを取ってもいい?地理関係が知りたい。」
「いいよ。すぐそこよ。」
こうして、皇后軍のルートをそのまま走って行きました。

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これは境内にあった石。地名は日向石
古代祭祀線が気になる場所でした。





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by lunabura | 2011-12-16 11:13 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

秋月八幡宮・ここは羽白熊鷲の聖地か


秋月八幡宮
あきづきはちまんぐう
福岡県朝倉市秋月
ここは羽白熊鷲の聖地か
 

秋月のメインストリート「杉の馬場」に下りて来て、さらに奥に進むと鳥居がありました。
山の中に入っていく車道があります。
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歩いて行くと、まもなく右の下の方に湖が見えて来ました。
山の上に水がある…。

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と思う間もなく神社に着きました。
私たちは裏手から入っていました。

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これが裏の入口のようす。神殿の裏側です。

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正面に廻って驚きました。
こんな山の中にこんな大きな神社が建っていようとは。
私は既に入り口で由来書きを読んでいました。
秋月八幡宮由来
秋月八幡宮の歴史は古く、平安時代中期の940年、朝廷に謀反を起こした藤原純友の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神功皇后の旧地とされる宮の丘(現在の社のある周辺)で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することが出来たことから、946年、この地に武人の守護神として神社を建立したのが始まりだと記されています。(神布皇后と書いてあるのですが、神功皇后と思われます。るな)

その後、鎌倉時代に遷り、1203年、秋月氏の祖といわれる秋月種雄公(大蔵春美の八世孫)が秋月の地に移り住むようになり、現在の社の本宮を造営したとされています。
社は秋月氏によって400年にわたって代々修造が加えられて多くの信仰を集めて来ましたが、秋月氏の高鍋への移封によって久しく退廃していったとあります。
藤原純友については、時々伝承に出くわします。
昔は道が沢山あった訳ではないので、移動ルートが重なったりしています。
ここの場合は純友と戦う大蔵春実が神功皇后の旧跡という事で、
この場所にやって来て祈願したという訳です。

純友の乱を平定した後に神社を建立しているので、
大蔵春実が参拝した頃は石が祠かがあったのでしょう。

江戸時代に入り1624年、秋月藩初代藩主黒田長興公が就封されてからは、
15年ごとに数次にわたって社の本宮、拝殿の改修が行われて、
施設が完備されると共に、夏秋二度の祭事が賑やかに行われるなど、
近隣の住民の信仰が大変厚かったと記されています。
現在も7月の夏祭り、10月の御神幸の御降りなどが行われています。

歴史のある郷土秋月でも由緒ある建造物として800年にわたって現在まで受け継がれている八幡宮は数少ない歴史的建造物となっています。
黒田長興公は前回の垂裕(すいよう)神社の祭神として祭られていましたネ。
長興公はこの八幡宮を守護神として信仰し、何度も修復を重ねています。

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この拝殿は鎌倉時代の建物なのですね。
拝殿の正面には「武徳門」と書かれています。
「武」の字は「戈(ほこ)を止める」=「戦いを止める」という意味なので、
この宮には「戦いでなく徳で治世する祈り」が込められています。

気になったのは、ここは山上なのに、とても広い事です。

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本殿の前の方です。

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これは本殿の左にある敷地です。石碑は忠霊塔でした。
本殿より少し低くなっています。
ここは大きな屋敷があってもよい広さです。
かなりの人数が生活でき、水は裏にある湖から得られる。
そして神功皇后軍の陣営「宮園の森」があった。

羽白熊鷲の居城はここなのだろうか。
それとも、非常事態のために造られていた山城?
この広さは何だろう。

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神木は古く、巨大でひたすら美しい。
その左下に写った鳥居は別の方向を向いていました。

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これは廻り込んで撮ったものです。

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そして本殿の方に歩いて行くと、まるで城壁のような構えです。
正面に立って参道を見下ろすと、

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絶壁に石段が付けられていました。
写真でも分かるように途中の階段が見えないほどの急斜面です。
さすがにこの石段を下りて再び戻ってくる気にはなりませんでした。

ここは山城だった?
水があり、広い敷地があり、二段になっている。
正面からはとても攻撃出来ない。
でも正面の石段は後世のものの可能性が高いし。

境内の端の変な向きの鳥居も気になって、一緒に行ったマーサに、
「さっきの鳥居の方が古いよね。」
「そう。もとの参道はそっちだったと私も思う。」
「今の拝殿はその後に造られた?だから祭祀線が違う。」
「そう。」
「ここが遥拝所ならどの山を遥拝する?」
「やっぱり古処山(こしょさん)でしょ。古い参道が古処を向いていると思う。」
「なるほどね。本殿あたりが聖域で、古処山を遥拝し、
左の敷地が祀り事をするための施設があった。
そして、いざと言う時の籠城用のものだった。」

ここは羽白熊鷲の祭祀場で、遥拝所だったのではないかという結論を出しました。
後談ですが家に帰って神社誌を読んでびっくり。
「社の南下向道の傍らの土中に、
古代の神供を盛る土器がいくらともなく今なお出てくる」と書いてありました。

やっぱりそうだ。祭祀用の土器が沢山出土している。
南下向道とは上の写真の石段の廻りだろう。
考古学的な調査資料が見たい。発掘調査されただろうか。

この土器を供えたのは羽白熊鷲の一族で、連綿として祭祀していた聖地だ。

敵の聖地を奪取することは、勝利を意味する。
この地を抑えた皇后軍は勝利宣言をしたに違いない。

しかし、戦いはここでは終わらなかった。
何故なら皇后軍の足跡はこの急な石段の向こうに続いている。
熊鷲たちはここを捨てて敗走して行った。
そして寺内ダムのそばで最期を迎える。

しかし、その間はどこを通って行ったのだろう。
もうこれ以上は分からない。

そう思いながら、
「マーサ。これで今日の予定は終わり。今日はありがとう。」
「そう?神功皇后の鎧掛けの神社なら、もう一つ知ってるけど。」
「え?鎧掛けの神社?そこ、そこ。
もう探せないとあきらめてたんだけど。近くにあるの?」
「うん。近いよ。行く?」
「行く。行く。連れてって。」
こうして、私たちはもう一か所の神社に廻りました。

地図 秋月八幡宮





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by lunabura | 2011-12-14 21:03 | 神社(ア) | Trackback | Comments(4)

垂裕神社(1)秋月のとりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」


垂裕神社(1)
すいようじんじゃ
福岡県朝倉市秋月野鳥
筑前の小京都・秋月野鳥
のとりたのふれに皇后軍の駐屯地「梅園の森」がある


今日から再び神功皇后の話に戻りましょう。
羽白熊鷲を攻撃する皇后軍が
いよいよ敵地の見える老松神社まで進軍したところまでお話しました。

伝承はこの後、秋月の城下町で見つかりました。
秋月は小京都と呼ばれるように、しっとりとした城下町です。
大人の秘密のデートスポットにお勧めしようと思ったのですが、
久し振りに行くと観光客が多くてびっくり。
「大人のデートスポット」と変更しましょ。

この町が神功皇后の伝承を辿ると全く別の表情を見せてくれました。

何だったっけ?
そうそう、デートコースでなく、「荷持田村」(のとりたのふれ)探しでした。

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秋月は車でしか行けないのですが、近くに有料駐車場が沢山あります。
車を止めてからメインの「杉の馬場」の通りを歩きましょう。
入り口のバス停です。(あっ。なんだ、バスが通ってるんだ。)
ここは「郷土館前」です。「野鳥(のとり)」は次のバス停ですね。
でも、この場所の地名を調べると「秋月野鳥」(あきづきのとり)です。

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すぐ橋を渡ります。

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この橋の名前が「野鳥橋」。(のとりばし)

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この川の名前が「野鳥川」。(のとりがわ)
とても水質がよくて、染色家がここに引っ越して染め始めたら、
一際美しく染まるようになったと言っていました。

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ずっと桜並木が続きます。今は初冬なので、葉も散りました。

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ずっと歩いて行きましょう。

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武家屋敷が見えます。

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そうして桜並木が終る所に垂裕神社の鳥居が見えて来ました。

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石段を上ると黒門です。
人気スポットなので、人が写らないようにするためにずいぶん待ちましたぞ。

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この黒門あたりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」があると伝えています。
秋月城からここまでがフラットな地形なので、
もともと羽白熊鷲もこの辺りに居城を構えていて、皇后軍と一線交え、
敗戦して逃走した後に、皇后軍が駐屯したのではないかと思いました。

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この地図で見ると、左から右に歩いてきたことになります。
野鳥橋、杉の馬場、秋月城趾、現在地です。
そして右下に秋月八幡宮と書いてありますが、
皇后軍の次の陣営がそこにあります。

その秋月八幡宮に行く前に、この垂裕神社も見て置きましょう。(つづく)








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by lunabura | 2011-12-13 14:02 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)

垂裕神社(2)黒田長興公を祀る宮だった


垂裕神社(2)
黒田長興公を祀る宮だった


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黒門から先の参道はゆるやかな勾配ですが、

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次に待つのは急で長い石段です。
自然石で作られたこの石段の起源は意外と新しく、
明治時代に士族たちが総出で作ったもので、「士族坂」と言います。

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かなり長い石段を上り終えると境内に出ました。

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山の中の神社です。とても緑豊かな所でした。
山の頂上部にあるので、光が射し込んでいます。

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拝殿正面です。

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明治時代に造営されたものです。

境内に由来書きがありました。
垂裕神社由来記 (すいようじんじゃゆらいき)
ここは旧筑前の国秋月である。
当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主 黒田長興公(1610~1665)を奉祀する。
長興公は福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚 毅にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。

1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)

福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。

1638年(寛永15年)島原の乱に際しては(公は時に28歳)幕命に従って諸藩と共に出陣。原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。

1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主長元公(土佐山内家より養子)は藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。

1873年(明治6年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり、旧御館裏の空谷杉や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者多く崇拝の社となっている。

時がうつりて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。

参道の黒門は秋月氏時代(1202~1587)の古処山城の搦手門(からめでもん)であったものを、長興公の秋月城築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財)
1999年10月
垂裕神社維持委員会
この神社は黒田長政の三男で、わずか14歳で城主となった長興公を
没後200年経って垂裕大明神として祀った社でした。
明治維新を経てここに神社が造営されました。
その時に士族たちが台地を開いて道を作り、士族坂を作っています。

この由緒書きにはもう神功皇后の名も羽白熊鷲の名もありません。
城が作られると、かなり広範囲に整地されるので、
弥生の遺跡も残っている可能性は低いでしょう。

この近辺に羽白熊鷲が居城を構えていて、
皇后軍と戦った事はもう時のかなたに消え去っていました。

しかし、砥上神社から松峡神社、大己貴神社、老松神社と、
点と点を結べば伝承がつながって行きます。
更にそれは羽白熊鷲の臨終の地へと続いて行きます。

ここがやはり日本書紀に書かれている「荷持田村」(のとりたのふれ)なんだ。
ここは少し前まで野鳥村でした。

そんな事を考えながら境内を歩いて見ると、
小峯のピークを整地しているのが分かります。
境内の端に立つと風が下の方から顔に当たって来ます。
ああ、上昇気流だ。
ここで羽白熊鷲たちは鉄の武器を作っていたのだろうか。
そうだとすると、武器が山積みされていた事だろう。

「攻めて来たぞ~!」
皇后軍が野鳥川を渡ってなだれ込んで来ると、
この村に住む人々はここを捨てて山城に逃げ込んだ。
皇后軍は案外簡単にこの地を手に入れのではないか。

決戦はここではなかったようだ。

敵が逃げ、まだ生活の跡のある黒門あたりに皇后軍は陣を敷いた。
残党を探してこの小ピークに向かう踏み分け道を上ると、
残された武器があり、兵士たちは歓声を上げた。
そんな想像がされました。

ここに神社を建てたときには
1000年以上も経っているので森に戻っていた事でしょう。
それでも熊鷲たちの整地した名残があっただろうと思いました。

そんな想像をしながら次の陣営地へと
私たちも追って行きましょう。

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地図 垂裕神社








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by lunabura | 2011-12-12 15:55 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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