ひもろぎ逍遥

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タグ:資料館・博物館・美術館 ( 23 ) タグの人気記事

明日までだけど 行った?


「倭国創生」展

明日までだけど 行った?


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ビフォア。志賀島から見た糸島半島。

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アフター。糸島で見た雷山。

前回までは志賀島から眺めた糸島半島を紹介しましたが、
昨日はその伊都国へ行っちゃいました。
雷山には雪がうっすらと積もり、いよいよ冬化粧の始まり。
コスモス畑と冠雪というシュールな季節感は福岡ならではの風景。

伊都国歴史博物館で「倭国創生展」を見て来ました。

神功皇后の実年代を考えるとき、いろんなアプローチ法が考えられるですが、
皇后が祭祀する時に鏡や剣、銅剣、太刀を奉納した記録が数か所で見られるので、
青銅器を少し勉強したいと思っていました。

そんな時、卑弥呼の時代の銅剣は90センチほどの大きさだと聞いて仰天。
歴史資料館に尋ねると、古墳時代にはもう銅剣はないとのこと。

そこで剣の歴史を知りたいと、関係資料を教えていただいていると、
机の上に重なった本の下に銅剣の冊子が。
「こ、これは?」

開くと、福岡で出土した銅剣が沢山載っているではありませんか。
そのタイトルには「倭国創生」と書かれていました。


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伊都国歴史博物館で開催中。
え?
12月1日まで?
まだ間に合う!!!

ということで、早速行って来ました。
この展示はとても良かったです。
紀元前の物に絞ってあった点がとても理解の助けになりました。
邪馬台国より、数百年前のもの。
銅剣も鉄剣も紀元前にあったんですね。
エリアも唐津市から宗像市にかけてと、南は筑後川流域。

魏志倭人伝よりずっと古い時代のイメージ作りの助けになりました。

銅剣は時代が経つと、だんだん薄くなっていくようすが分かりました。
鉄剣でさえ、実用的でないものもありました。
銅鏡も、三角縁とか関係ない時代なので、論争がなくてすっきり。

小郡では銅戈が9本も埋納されていたとか知らんかった。
寺福童遺跡。
まるで出雲の銅剣出土地みたいじゃないの。
どうして、これが話題になっていない?
とか、楽しめました。

吉野ヶ里遺跡の銅鐸もこちらで見られましたよ。

何と言っても欲しかったのは、そのカタログ。
明日、12月1日に行けない方も、カタログは通販で買えるのでお勧めです。(^-^)






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by lunabura | 2013-11-30 13:02 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(0)

ミウラ折とか、シルクロード展とか



「あの~。古墳の場所と地形が分かるような地図が欲しいんですけど」
カウンターで尋ねたら、
「これがあります」と手渡しながら「ミウラ折ですよ!」と言われた。
「あっ、知ってます、一発で開けられる」

それは大きめのトランプのような固めの表紙二枚に挟まれて折りたたまれた地図。
表紙と裏表紙を持って左右に開くと、パーっと、一枚の地図が広がる。
そのまま両表紙を合わせると一発で閉じた。(@_@)“

「知ってます」と言ったけど、それは言葉だけ。
その機能(?)の素晴らしさを実際に見て、よけいなこと言うんじゃなかったと後悔。

ジャバラに畳んでるだけと思ったけど、ネットで調べると、枡の角度が微妙に違う。
「ミウラ折りとは、宇宙科学研究所(現宇宙航空研究開発機構)の三浦 公亮 名誉教授が考案した面の折りたたみ方法」
宇宙でパネルを開いたり閉じたりするために開発された技術とか。

こりゃあ、すごいもんなんだ。

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で、その地図をいただいたのが「道の駅 むなかた館」(旧玄海アクシス)。
宗像大社の前にあった物産館が今は博物館になっている。

「宗像族はいったい何処にいた?」
何人に言われただろう。

私は、宗像族は宗像の丘陵地帯にいて、
その奥津城もそこにあるのではないかと思い始めている。
宗像族は宗像(市)にいたのではないか。

当たり前の事と思われるかもしれないが、何故か
宗像から見えない山の向こうの津屋崎(福津市)が宗像族の奥津城とされている。
しかし津屋崎を調べてみると、磐井の関係の地域ではないの。
(これまで津屋崎の記事に書いた宗像族の奥津城という言葉を
みんな訂正せにゃならん…(+_+))

宗像市には古墳群がないのだろうか。
そう思って、戴いた地図を見ると沢山あるではないの。
丘陵地帯はベッドタウンとして開発されて、多くの古墳が失われたようだけど、
残っている大きな古墳もあるみたい。

出土したビーズには金や銀が入っていた。
遠くシルクロードを旅してきたビーズで身を飾ったのはどなた?

これぞ宗像の姫君ならん。


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さてさて。
この地図を見ていると、神武天皇軍が騎馬隊で古賀、福間、赤間と、
駆け抜けて行ったルートが浮かんでくる。
いや、JRの快速電車が止まる駅の名前を書いたのではない。
古賀、福間、赤間には神武天皇の伝承が連なっているのだ。

やっぱり、地図は楽しい。

古墳は尋ね尋ねしながら、行くのは大変だけど、
見晴らしのいい所にあるから、行くと報われる。
桜京古墳への途中の道の面白さは今でも忘れられない。
そこから見た景色も今はどうなっているだろう。

原稿書きが終わったら、ぼちぼちと廻りますか。

秋の特別展
シルクロード ~オリエントの世界~
平成25年11月24日(日)まで

会場 福岡県宗像市深田588 海の道むなかた館
0940-62-2600

(宗像大社の駐車場のそば プチ展示です。参拝の帰りにどうぞ
行ったら、蛇行鉄器もお忘れなく )




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by lunabura | 2013-11-12 20:57 | にっき | Trackback | Comments(0)

コーンヘッド・狗邪韓国とナスカとネフェルティティ


コーンヘッド

狗邪韓国とナスカとネフェルティティ

(今日もまた頭蓋骨がいっぱいです…苦手な人、ごめん)

先日、M氏の発表を伺っていて、誤解されている件があったので、
今日はちょっと書いておこうと思います。

韓国の加耶諸国の中の狗邪韓国に不思議な頭蓋骨が発掘されています。
頭が尖っているんですね。
その遺跡は礼安里(れいあんり)遺跡と言いますが、
写真の六つの頭がい骨のうち、下段の左がその頭蓋骨です。

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画像出典 http://e-asia2.board.coocan.jp/?t_id=9
東アジアの古代文化を考える会


釜山大学の博物館所蔵で、扁頭人骨が10例確認されているそうです。
その中で7例が女性。

これは嬰児の時に板を挟んで矯正するもので、南米に多く見られます。
この矯正法について、M氏が2枚の板で矯正するという話をされました。
それはOKなのですが、
顔の前と後ろとサンドイッチのように挟んでいるイラストを紹介されました。

それではいくらなんでも窒息するし、それが卑弥呼の顔と同じだと話してあったので、
それもちょっと無理かな…と、困惑した次第で…。
僭越ながら、今回のテーマにしました。

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画像出典
http://mizu-clutch.at.webry.info/200609/article_7.html
Fishermans caravan ナスカ博物館

この頭がい骨はコーンヘッドと言って、中南米でよく見られますが、
2枚の板をV字型にしてそこに頭を挟みこんで矯正するそうです。
これは水中考古学者のフランク・ジョゼフ氏から直接聞いた話で、
そのビデオもあるので、いつか映像も探し出したいと思います。

で、その時、私はエジプトのネフェルティティの頭と似ているなぁと思って、
ジョゼフ氏に質問したんです。
「ネフェルティティの頭も同じですか?」
答えは「イエス」でした。

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これも矯正したものだそうです。
エジプトにしろ、中南米にしろ、これは首長の血統にみられるもので、人為的につくられる形なのですね。
広範囲に分布しているらしい。

で、そのコーンヘッドが韓国の南部から発掘されたというのですから、驚天したのです。
時代は何と卑弥呼の時代なんです。

狗邪韓国(くやかんこく)のその人は当地で生まれて矯正されたのでしょうか、
あるいはエジプト辺りからやって来たのでしょうか。
多分、調べれば簡単に分かると思うのですが。

そう思いつつ、『三国志』韓伝で確認すると、弁辰の風俗として、
「子供が生まれると、石でその頭を圧迫し、平らにしようとする。
それで、今、辰韓の人はみな扁平な頭をしている。」
って書いてありました。 

扁平な顔の理由はそれじゃないと思うけど…。
それにしても石を使うなんて強烈すぎ…。  (・.・;)



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by lunabura | 2013-07-06 21:24 | 韓国 | Trackback | Comments(10)

綾羅木郷遺跡(2) ここも命懸けで守られたのか


綾羅木郷遺跡(2)
ここも命懸けで守られたのか


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下関市立考古博物館に入ったとたん面白い光景にぶつかりました。
あれ?
あれあれ?
良く見るとリアルな人形が、発掘をしている!
洗いざらしのシャツや、動きが本物そっくり。
と面白がっていると、左の方はナ、ナント、弥生人じゃないの。

そうか。
弥生人たちが貯蔵していたものを現代人が拾い上げているんだ。

一階と地下の高低差を巧みに利用した再現ドラマにしばし見入ってしまいました。


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目を引く大型壺。線画が繊細。
筑紫では資料館といえば甕棺のでかさに圧倒されるけど、当館では見当たりませんでした。


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陶笛。
手前中央は宗像市光岡の出土ですよ!その右が綾羅木郷遺跡出土。
どんな音が出るのか、レプリカがあったけど、上手く音は出なかった。


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おお、これなら筑紫でも出ているぞ。



そして、すごいものがあった!

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高さ数センチの人形です。
美豆良だ!
これこそ、一番知りたかった姿。
まさしく倭人のヘアースタイルです。
古墳時代より高い位置で結ってませんか?
意外に面長ですね。
これは貯蔵庫から発見されたそうです。

平成25年度 企画展 2013年6月30日まで
響灘沿岸の遺跡 -海に生きた人々―
観覧無料
この企画展は、各遺跡の出土品が展示されていましたが、
遺跡ごとにデザインや焼成温度などが違って、ここまで個性の差があるんだと驚きました。
土器に詳しい人はそれぞれの集落がどこから来た人たちなのか、分かるんだろうな…。
その中でもひときわ瀟洒で美意識が高い土器群があったのですが、
それが次の訪問地の中ノ浜遺跡のものでした。
企画展は撮影禁止だったので、残念。
(美術展のように、カタログがあればいいのに…)



私がこの綾羅木郷遺跡を知ったのは、銅鐸の鋳型に含まれる珪砂を検索していたとき。
下関に産地があって、その珪砂の下から遺跡が出て来たという話を見つけて、
ずっと気になっていたのです。

この遺跡はブルドーザーで破壊されようとするのを、必死で発掘したのですね。
最終日は11台のブルドーザーが集結して、一挙に破壊しようとする寸前、
ついに国指定がなされ、その破壊が止められたということです。
う~ん。飯塚市の王塚古墳を思い出す。
(なんで命を懸けないと先人の遺跡を残せないんだ)
関係者のみなさん、守ってくれてありがとう。

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(綾羅木郷遺跡への招待より)


地図 下関市立考古博物館





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by lunabura | 2013-06-08 19:27 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(2)

綾羅木郷遺跡(1)若宮古墳は鬼が城山を見ている?


綾羅木郷遺跡(1)

若宮古墳は鬼が城山を見ている?


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この古墳の前に立った時の強烈な印象を忘れないうちに書き留めておきましょう。
下関市立考古博物館で見学したあと立ち寄りました。
もしかしたら、うっかりと見過ごして帰ったかもしれなかった。(冷汗)

いかにも清浄な地に営まれた前方後円墳。
環境の素晴らしさに興奮しながら正面に立つと、思いがけない景色が展開しました。

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古墳の向こう側に山がある!
この古墳はあの山から気脈を取っている。

古墳を建造する時、中心線は山や祖先の古墳など、何かを基準にして決めていると思われますが、
これほど分かりやすいものを初めて見ました。


この古墳は「若宮古墳」といいます。
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この説明板を見ると、中心線は真北を向いていず、
やや東にブレています。
このブレは北でなく山の頂上を
意識したからではないだろうか…。















次は説明板の記事です。

若宮古墳 年代5世紀中頃

古墳の長さ39.7m
前方部の高さ2.3m、先端の幅15.1m
後円部の高さ 4.0m直径21.0m
周濠の幅4.3m

この古墳は、綾羅木郷遺跡北西隅近くに位置を占める南西向きの前方後円墳です。
墳丘は、後円部が3段、前方部が2段に築かれています。

墳丘は表面は葺石で覆われ、墳頂や段には円筒埴輪や壺形埴輪が並べられていました。
後円部中央には白色の粘土で密封された組合式箱式石棺が納められ、南には墓道の痕跡がありました。

この石棺の大きさは長さ2.85m、幅1.11m内外。中には2体以上の人骨が埋葬され、勾玉・管玉などの装身具、鉄製の刀や剣なとの武器、斧などの工具が副葬されていました。
墳丘の裾には、幅4.3mの濠がめぐらされていました。

この古墳は昭和33年から5回にわたる発掘調査の結果に基づき、昭和60年度に大きく復原し、斜面に芝を植え、周濠には砂利を敷いて整備しました。埴輪列の復元については、資料が少ないため今の調査をまつことにしました。

文化庁・山口県・下関市 昭和62年3月
古墳の周りの白い囲いがそのまま周濠だったようです。
水をたたえていたとしたら、さぞかし美しい古墳だったことでしょう。
やや小振りのサイズなので前方後円墳の形状を把握しやすくて魅力的です。

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これが「下関市立考古博物館」の中にあった復元レプリカ。
美しいな。
石棺の大きさは「長さ2.85m、幅1.11m」で、2体以上が埋葬されていたので、
ぎゅうぎゅう詰めだったみたいです。

(ぎゅうぎゅう詰めで思い出すのは久留米市の祇園山古墳。
男女の遺体が埋葬されていたはずなのに、報告書から消えているという謎の古墳。
しかも石棺は墳丘の上にあった。
くじらさんが、普通は石棺は墳丘の下にあるのではと言われた。
頂上部にある石棺は二次使用ではないか。
そんな事をこの数日思い出していたが、
この若宮古墳を見ていると、やはり祇園山古墳は変だと分かる)

おっと、話が逸れて来た。
もとい。

この若宮古墳がある古墳公園の中には他にも古墳や弥生住居などがあって、
見学していると、移動して復元したものもあったので、
もしかしたら、若宮古墳も移動したのかも知れない。
(そうすると、私の仮説はもろくも崩れ去る。)

そんな疑問が湧いたので、博物館に戻って確認しました。
学芸員が不在で分からないとのことでしたが、何としても確認したかったので
無理を言って、分かったら教えてくださいとお願いして博物館を後にしました。

ラーメン屋さんに寄った時、電話がなりました。
「若宮古墳は発掘当時から全く移動していません。そこにあったものです。」
(わざわざ連絡していただいてありがとうございます。)

この古墳は全く移動していませんでした。

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地図を見てみると、鬼が城山と竜王山のピークが見えているようだけど。
これは地元の人にしか分からない。
(Massyさん、まだ訪問してくれてるかな)

私の頭の中はまたぐるぐると廻りはじめました。
この古墳が5世紀半ばだって?
百済の前方後円墳は5世紀後半から6世紀前半だったよ。
周防灘沿岸の人たちも関連していると書いていたはず。

それに、豊浦宮の近くじゃないの。

(つづく)

地図 下関市立考古博物館

山口県下関市大字綾羅木字岡454
083-254-3061








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by lunabura | 2013-05-30 22:33 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(10)

やっぱ、弩じゃね




昨日は垣生(はぶ)神社の所の推敲をしていて、
壁画の男をもう一度見直した。



武人が立ったまま馬に乗って、矢を射ている壁画だ。


弓を持っているのに弦を引いていない、変なイラストだなと思っていたけど、
よくよく見ると、これ「弩」じゃない?

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真中に心棒があって、弓もかなり小さい。

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やっばり、弩だ。
中間市の歴史民俗資料館で見られます。

最近テレビで見たけど、秦の時代の弩(ど)は200m以上は飛んだという。
これは、衝撃。

羽白熊鷲が雑木山から矢で射られたという話があったけど、
射程距離が離れすぎていて、地元の人も変だと言っていた。
でも、弩が数百メートルも飛ぶなら、話が合う。

羽白熊鷲も、まさかあんな遠い所から矢が飛んでくるとは…。
と驚いたに違いない。

遠賀川流域の武人たちは
仲哀天皇がやってくると聞いて勇んで集まった。
きっとこの中間市の武人たちも参軍しただろう。
そうすると、この弩を持って朝倉まで行った可能性はかなり高い。
弩はきっと古墳時代より前に入っていた。

昨日はそんな事を考えました。
女神から武人と、話は飛びますね~。

ところで、羽白熊鷲と言えば、るなさん、いつもこの人を思い浮かべてしまうんだ。

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照英で~す。
そっくりでしょ。 (^-^)





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by lunabura | 2013-02-20 23:18 | 弩(ど) | Trackback | Comments(2)

ウチ考(7)内野宿・日本で屈指の貴重な宿場だった

ウチ考(7)
内野宿
日本で屈指の貴重な宿場だった

老松神社を出ると再び雨が激しくなりました。
ここに来るには江戸時代の街並みを通らねばなりません。
参勤交代があった道で、くねくねとして狭く、両脇には古い家屋。
車ではもったいないような風情のある道です。

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行きがけに撮った写真が数枚ありました。撮っておいてよかったな。

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先を歩く人の様子から道幅が分かると思います。
左の角の家の二階の窓がおしゃれで気になって、近寄ると展示館でした。

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「長崎街道 内野宿展示館」です。
走って飛び込むと、中は新しく改築されていて、心地よい空間になっていました。

そこに展示されていた絵地図を見て、老松神社を発見。
大根地神社も描かれていました。

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中央の☆マークが現在地の「内野宿展示館」。左の赤丸が老松神社。左上が大根地神社。
あれ?大根地神社はこちらの文化圏なんだ。
これは驚き!

例の調子で展示館の方をつかまえて質問攻め。
内野宿の町並みの展示館なのに、羽白熊鷲や大根地神社などオタクな質問ばかり。
大根地神社は神功皇后が熊鷲と戦う前に戦勝祈願をしたと伝える神社なのです。

展示館の方がついに歴史に詳しい藤俊さんを呼んで下さいました。
藤俊さんは最近、内野宿に残る1800年前頃の道、神功皇后の時代の道を発見した
という話をしてくれました。
それは上に掲載した地図の緑の点線で描いたルートです。

さらに話を伺うと、
この内野宿を調査するうちに、この宿場の貴重な価値を発見。
大学の先生たちを招いてシンポジウムを開く準備をしている所だそうです。

「こんな雰囲気の宿場は福岡にはまだ各地に残っていますが。」
そう伝えると、
「いえいえ、この内野宿は江戸時代の線引きが全く変化していないという、
極めて貴重なものなのです。
どこも、いくらかは変化しています。
ここは何度も大火に遭いながら、全く変化していない。
唐制一里760mを残しているのです。
こんな貴重な宿場は全国のどこにもありません。」

大江戸〇〇館からこちらに来られたという藤俊さん。
いろいろと面白い話を聞かせて貰いました。

その中で菅原道真公の話も出て来ました。
道真公についても研究されているのですが、ビッグスターはどうしても伝承が変化しやすいので、
その父や妻など、周囲を調べているのだそうです。

この研究法は私も同じ。
私はそれを密かに「ビッグスターと星座たち」と呼んでいるのですが、
周囲固めをすることで、揺るぎない世界を構築しようとしているのです。(一応ね。)

道真公に関しては、師匠の娘を妻にしたと言う事なので、
師匠の方を調べているということでした。
師匠の名は「島田忠臣」というそうです。
京都の天神さんにその忠臣公を祀る福部神社があるとか。
筑後市の水田天満宮にも祀られていて、それは母の縁だそうです。

伊賀の助という地位にあったという話も。
「あれ?私、それ知ってます。
泉河内に島田家の集落があって、そこは平家の落人で、伊賀の助の末裔です。
壇ノ浦で負けて山の中に逃げ込んだそうですが、
援助者がいないと決して入り込めないような山の中なのです。
畑仕事をする時でも、必ず矛を立てていたそうですよ。
反対側に逃げ込んだ平家一門は全滅しています。」

そんな話をすると、藤俊さんはまさにそこに調査に行ったばかりとか。
このタイミングに、こりゃあ、私が呼ばれたのかなと思いましたョ。
御縁とは不思議ですね。

このブログの訪問者の中にも二人ほど道真公を研究している人がいます。
みんな切り口が違うから、一度報告し合ったら面白そうだな。

で、肝心の大根地神社については、年に2回、4月8日と10月8日に
老松神社まで御神幸祭があるのだそうです。
のらさんが調べてくれたサイトによると、
老松神社の宮司さんが大根地神社の宮司も兼ねているとの事。
両社には深い縁がありました。

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館内でいただいた古地図を見ていると、老松神社が地図の中心になっています。
左に小根地、上に大根地と描かれています。
今でもこの神社はつながっています。

宿場は右下の方に描かれています。
位置関係から、両神社が宿場の精神的な中心地だったことがよく分かります。
(追記 あとからよくよく眺めると、この地図トリミングしてあるみたい (・.・;))
緑の点線は神功皇后時代の古道。
これは飯塚市の立岩遺跡の石包丁を求める道だろうとの事でした。
石包丁は100キロ離れた所からも出土しているそうです。

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この宿場から街道を下っていくと、すぐに山家宿です。
阿志岐の近くに出るんですね。
どんどん下ると、本当に長崎に出ます。
長崎街道だから当たり前と言えば当たり前ですが。

(つづく)







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by lunabura | 2012-10-27 01:25 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

新羅の積石木槨墓―天馬塚古墳―


新羅の積石木槨墓
―天馬塚古墳―

福岡県の嘉麻市に弥生時代の「木槨墓」があると聞いた。
「土壙墓」なら糸島市の平原遺跡でよく知っている。
木槨墓とはどんなものだろうか。
木で枠組みを作ったのだろうか。

早く見たいと思っていたら、新羅にも木槨墓があると分かった。
それがあの天馬塚古墳だ。
その豪華な宝飾品は韓国歴史ドラマ、「善徳女王」で再現された。
善徳女王は斉明天皇と近い時代を生きた人なので、この宝飾品は200年ほど古い時代のものになる。
(韓国の歴史ドラマの時代考証は当てにならない…)
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この副葬品が埋納された古墳が「木槨墓」だというのだ。
今回は木槨墓を追って、ネットサーフィン。

12の小国をまとめた斯蘆国(さろ・しろ)。これが新羅(しるら)へと発展する。
都は金城。今の慶州市。
その頃の墓はどれもが木槨墓で、4世紀から6世紀初めごろの間に造られた。

平地を少し掘って石を並べて床のようにして、木枠を置いて、そこに木棺を安置。
そして石や土で塚を作って円墳にする。

積み石で木槨を覆うと「積石木槨墓」となる。
積石といえば高句麗の墓制だが、それとは系譜は異なるそうだ。

木槨墓を見たいと思ってネットをサーフィン。
新羅・慶州市の天馬塚は積石木槨墓で見学できるように保存されているので、
圧倒的に映像が出ている。
この黄金の塚は、もともと、隣にある更に大きな古墳を掘る前の事前準備として、
保存方法などを研究するために試し掘りしたのが、大発見につながったという。
副葬品は1万点に及ぶ。

「天馬塚」の名は副葬された馬具の所に書かれた「天馬」の絵から付けられた。
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馬具の一部(白樺)に描かれた天馬
(画像出典)
http://www.busantabi.com/content/basic.asp?m_idx=12&s_idx=64

もともと新羅の古墳は日本人の考古学者によって調査研究が始められた。
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これが木槨墓。
画像出典 http://www.lieto.co.kr/?document_srl=170581

中央に王か女王が安置され、身に着けたアクセサリーがそのままの位置に残された。
この木槨墓を覆って石が積まれた。

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画像出典「忘れへんうちに」より
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/01/blog-post_27.html
(考古学的なアプローチがされている、お勧めのページ。)

石の重みでさすがに木槨墓はつぶされていた。
土を取り除いて出現したのが下のような宝冠のたぐい。
メッキでなく、純金。これには勾玉が沢山ぶら下がっている。

c0222861_856982.jpg


副葬品の画像出典
http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=217

これは5世紀後半のものだ。日本ではこんな時代。
451 倭王済が遣宋使
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任ず
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現


外観はこのような円墳。
c0222861_8562618.jpg

画像出典
http://www.pusannavi.com/miru/1069/
内部は見学出来るようになっていて、その様子は最初に挙げたサイトが詳しい。

副葬品の豪華さに目を奪われるが、
これが「積石木槨墓」だというのを記憶しておきたい。
その後、新羅では「横穴式石室」が作られるようになる。

今コメントで話題になった嘉麻市の木槨墓はどのようになっているのだろうか。
保存されているのだろうか。
新羅の木槨墓と比較出来る日が楽しみだ。
嘉麻市の方は弥生時代だから、もっと時代が遡るのだ。

さて、新羅にこだわるのには訳がある。
日本書紀のこの一文の真実が知りたいのだ。
秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。
この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。
もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」
と言いました。天皇は神託を聞いて、疑いました。
(日本書紀 仲哀紀)

これは8世紀の日本人の新羅観に過ぎないのだろうと思っていたが、本当に金銀財宝の国だった。(・.・;)
そして、この仲哀紀の辺りは読みこむと矛盾に満ちている。

それを解くヒントが吉野ヶ里の近くに一つある。早く行きたいのに時間がない。
まだまだ仲哀紀の謎解きの旅の目的地は遠い。

るな探偵は気が多過ぎて、二兎以上を追っている…。チョーやばい。

古墳(王陵)公園・天馬塚 -伽耶・新羅の旅-
http://inoues.net/korea/korea_tenma.html







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by lunabura | 2012-06-29 08:59 | 新羅 | Trackback | Comments(6)

瀬戸第14号装飾横穴・馬上に立つ武人像 消滅した装飾壁画


瀬戸第14号装飾横穴
福岡県 中間市歴史民俗資料館
馬上に立つ武人像 消滅した装飾壁画に出会った

今回は垣生(はぶ)羅漢百穴のリベンジ編のつもりが、凄い装飾横穴古墳に出会ったお話です。

埴生(はぶ)神社を含む広大な公園に垣生羅漢百穴があり、
線刻画がたくさん残されていて、いくつも写真を撮ったので、
専門的な評価を知りたくて歴史資料館を探しました。
その日は見つからず、HPを見たり、地図を見たりしても分からないので
ついに電話をかけました。

すると、埴生神社のすぐ前の「さくらの里」の敷地内にあるではないですか。
電話番号を変えずに移転したのでナビに入力しても、違う所に案内される事が判明しました。
(資料館に行く人は、「さくらの里」を目指して下さい。)

しかし、やっと行けた資料館には線刻画の写真が一枚もなく、
パンフレットもなく、論文もありません。
まだ本格的な調査がされていないとパネルに書いてありました。(哀)

あえなく退却かと帰りかけて、何?これ!!!

装飾古墳の復元模型があるではないですか。そこには見た事もない壁画が…。
撮影OKだったので、ブログ上で再現します。

c0222861_17195660.jpg

資料館のコーナーを利用して斜めから観察できるようになっています。
説明板を引用します。
「瀬戸大14号装飾横穴は、昭和31年9月に発見されましたが、
翌昭和32年2月の採土工事によって崩壊しました。」

c0222861_17203025.jpg

「墓室は天井より屋根を示す垂木(たるぎ)・棟木(むなぎ)を彫り込み、
最奥に死床台を配置したもので、正面奥壁に矢を放たんとする馬上武人の姿、
その左に鳥獣、その下に日輪、右側上に船と月輪が見られ、」

c0222861_1720527.jpg

「東壁には鹿らしきものに矢を構える狩猟図、空間を朱線の格子状文様でうずめています。
 壁画は周囲を外から削り込み、
絵の部分を赤色でうずめ浮彫りとみられる技法がとられていました。
 奥壁の騎馬武人図は、墓の被葬者の生前の勇姿をあらわしているのでしょうか。
しかし、その左右に日輪と月輪を配してあり、
現世の生活と黄泉の世界への船旅を意味するものとも考えられます。」

天井の線彫りを見ると、家の屋根を再現したものだというのですから、凝ってます。
壁の格子状文様は大胆に描かれていて、その形状が単なる斜めの線ではないことから、
現実の壁の構造などを描写しようとしたのだろうと思いました。

このように格子を壁に描いた例として、
古月横穴古墳(鞍手郡)や花立山穴観音古墳(小郡市)を思い出します。
総合すると、斜め格子は装飾というより、
当時の建築様式を再現したものとして考えられるなと思いました。

c0222861_17213126.jpg

正面奥壁の武人は馬上に立って射るという、凄い技量をアピールしています。
主たる被葬者の特技だったのでしょう。
ゴンドラはこの遠賀川で使われた船でしょうね。

見逃せないのは「太陽と月」です。当然普遍的なモチーフですが、
日本でこのように対照的に描かれているのは意外と珍しい?
(私はまだ沢山見ていないので、当てになりませんが…。)

c0222861_17222338.jpg

床にある穴は枕?そうすると、左右にずらりとファミリーが埋葬されている?
そう思って測量図を見ると、かなりぎゅうぎゅう詰めの状態。
1m強に3人も並べられるのだろうかと、自分の肩を壁にぎゅうっと押し当てて図ると40㎝強。
まあ、ギリギリOK。埋葬された人たちは小柄な人たちのようです。

私の田舎の親戚のおばあちゃんたちを思い出すととてもちっちゃいし、
エジプトのミイラなんかも130~40㎝ほどだったのを思うと、
この配置はそう無理はないのかも。

各室を見て、左奥に一人だけ埋葬されているのはは馬上の武人なんだろうけど、
他の3人×3はどんな血縁関係なのか気になる所です。

場所は写真で教えて戴いたのですが、よく分かりませんでした。(汗)
「瀬戸」という地名は垣生公園の南側にあります。

中間市歴史民俗資料館所在地〒809-0001 中間市大字垣生660番地1
開館時間午前9時30分~午後6時
休館日毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日休み)、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料無料
交  通JR福北ゆたか線 筑前垣生駅から徒歩約5分
西鉄バス 垣生駅バス停から徒歩約3分

お問い合わせは…地域交流センター(資料館)TEL093-245-4665



このページはシリーズで散歩してね。

埴生神社 埴生神社/桜の名所は古代の島?ここもまた神功皇后が…
http://lunabura.exblog.jp/i101/


垣生羅漢百穴(1)線刻画は開口前からあるのだろうか。
http://lunabura.exblog.jp/16261371/


垣生羅漢百穴(2)ツインの墓にも線刻画?
http://lunabura.exblog.jp/16266719/


地図 中間市歴史民俗資料館 









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by lunabura | 2012-02-04 17:32 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

勾玉の作り方/出雲 玉作湯神社ほか


勾玉の作り方
出雲 玉作湯神社ほか


前回は石のビーズの作り方を出しましたが、今回は勾玉の作り方です。

勾玉って弥生時代から古墳時代のものかなと思っていたのですが、
縄文時代のものを資料館で見た事があります。
それは1cmほどの、大変小さなものでしたが、角ばりながら曲がっていました。
まだまだ原初的な形ではありましたが、
こんな昔から勾玉が愛されていたのを知って驚きました。

ずっと昔の教科書で勾玉は日本固有のものだと習ったのですが、
伽耶展で王冠にジャラジャラと勾玉がついているのを見て衝撃を受けたのを覚えています。
(今の教科書はどうなってるのかな?)

このように古代の環日本海で愛された勾玉ですが、
ある時から出雲の勾玉が大流行しました。その理由が「穴」だったのです。

そんなお話がNHKテレビで放送されていました。

石に穴を開けるには片方から開けて突き通すか、両側から開けます。
両側から開けると穴がずれて、貫通させるのは難しいんですね。
穴がずれた勾玉を実際に見たことがあります。
それをきれいに貫通させた点で、出雲の勾玉は一躍ブランドになったそうです。
(もちろんその石の美しさも!)

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その具体的な資料が出雲の玉作湯(たまつくりゆ)神社にありました。
テレビで玉作湯神社の宝物殿が紹介されました。

c0222861_1411151.jpg


これが勾玉の「荒作」です。すでに少しカーブが生れています。
これがあんなにピカピカになる?どうやって磨くの?
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工房跡から出た出土品を並べると、その謎がよく分かります。
手前の一番の左に勾玉があります。
それを見ると左から、「荒作」「完成」「仕上げ」となり、最終的には半分の大きさになっています。

中央にあるのは管玉。右は丸石です。
奥の左には砥石があります。これで手作業でコツコツと磨いたんだ!
中央には石の棒がありますが、これで凹カーブを研磨したそうです。
根気がいりそうですね~。
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これは穴を開ける為の道具です。
上の方にある、十字になっているものが錐(きり)で、先端は鉄です。
縦横の棒に糸を絡めていますが、これがバネのような働きをします。

右の板の上の勾玉を見ると、荒削りの段階で板の穴に
半分沈めて固定しているのが分かります。(これがポイントみたいだな。)
手前の器には研磨剤が入っていて、穴に箸(らしき棒)で入れます。
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これは資料館の人形です。左手で石を押えて、右手で棒を上下させます。
その土台を見ると、丸太で、穴が開けてあるのが分かります。
なるほど、こうしたら勾玉が動かないので効率よく穴が開けられます。
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石に穴を開けたらいよいよ成形と研磨。
これが砥石です。磨かれて筋が出来ていますね。
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これも砥石ですが、側面を磨いたためにハート型のカーブの溝が出来ています。
こうして全体が磨き込まれました。
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見事ですね!深い色に光沢があります。
右下の分なんか穴開けの最初が失敗してますよ。(つなげば見えないさ。)
やっぱりかなり難しいんだ。
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これは青森県の丹後平21号墳から出土した勾玉群です。
すごいですね!赤色がきれいだし、緑も白も極上。
手にした時の質感が、想像するだけでも、ずっしりとした重みとして伝わって来ます。

7世紀後半という事は、天智天皇の時代ですね。
倭国が新羅と戦っている時代です。
青森にはすごい大王がいたんですね!(もう大王とは呼べない時代か…。)
全国の支配階級の人たちがこの出雲の勾玉を愛した証に、
筑紫でもやはり出雲製の勾玉が出土していますよ。(伊都国歴史資料館)

この石の産地はすぐ上流にありました。
c0222861_14195827.jpg

花仙山です。約200mの山で、勾玉の赤や緑の石が採れます。
産地と工房がそばにあるんですね。7世紀から10世紀の製鉄所跡もありました。
出雲には鉄の文化があるから、キリや箸など良い道具が作れた訳です。

勾玉製作を支える背景が探れる興味深い地域です。
今でも、この地では勾玉が作られて、毎年皇室に納めているそうです。
玉作湯神社は有名なパワースポットですが、古代史を楽しむのにも魅力的な神社です。

松江市立 出雲玉作(たまつくり)資料館
http://www.town.tamayu.shimane.jp/shiryoukan/index.html


地図 花仙山 出雲玉作資料館

地元の方、お勧めコースを教えて下さいね!
また、製鉄所は意外と新しいのしか出ていないのですね。
出雲全体ではもっと古いのが出ているのではないでしょうか。




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by lunabura | 2011-03-20 14:42 | 勾玉作り方・玉作湯神社 | Trackback | Comments(8)
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