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金山たたら製錬所跡・江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入


金山たたら製錬所跡
福岡県福津市津屋崎町渡
江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入

渡半島を訪れるきっかけとなった「つやざき」町誌にはもう一つ気になる名前がありました。
「金山製錬所跡」
恋の浦の北端、楢の葉浜の南端、金山国有林内にあって、松林の中に精錬による鉱滓がうず高く積まれて、一つの丘陵をなしている。

丘になるほどの鉱滓とは…。
いったいどこ?

これも福津市の文化財課に尋ねて、場所が特定出来ました。
示された昔の地図を見てびっくり。
四つの池があり、かつては砂鉄を選別するための池だったというのです。
まさか、こんなものまで残っていたとは。
グーグルアースで確認すると、地図通りに、みごとに残っていました。
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現地の地形を肌で感じたかったので、その足で行こうと思ったのですが、
スズメバチ、ヘビ、はては落石の恐れありと聞いて、ちょっとビビりながらも
恋の浦のそばとあっては、是非現地へ行きたい。

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恋の浦です。
最近は中国からの飛来物質で福岡はこんなふうに霞んでいます。
だから美しい海の色は撮れませんでした。(涙)
この写真の左の方に現場はあります。
しかし道路が封鎖?されているようなので、航空写真で迫りましょう。

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先ほどの四つの溜め池が上の方に見えます。金山1号~4号池です。
現在は水田を潤します。鉄滓はその下の方で見つかりました。
その横のピンクで囲んだ所に炉があったと推定されています。

これについて、たたらの専門家の論文があって、江戸時代のものと分かりました。

「津屋崎町恋の浦の鉄滓『鉄の考古学』」 窪田蔵郎 (一部改変)
樹齢100~150年程度の松の根の下に鉄滓の集合体がある。これは操業中に生じた鉄滓の捨て場である。鉄滓のようすから、相当高温で精錬し、よく鉄分を抽出して、経済的な操業をしていたことが判る。

炉壁の破片から、原料は真砂土に近いものであり、練った土を長方形の大型レンガ程度のものに木ベラで荒く成形して積み上げるようにして築炉していたことが推定される。この方式は出雲の江戸中期以降のタタラ製鉄における築炉法で、出雲地方から技術導入があったことを裏書きできる。

付近には松の木が非常に多く、燃料に欠く事はない。また砂鉄は近傍の海砂鉄も採集できるが、古老の話では子供の時、(明治年間)に近くの川に砂鉄船があったというから、余り遠くない地点で採集し、小舟で運んでいたものであろう。

炉跡は背後の山が土地造成で切り崩されているので、すでに破壊されたものと思われる。

この鉄山は黒田候が上八(こうじょう)金山をみて、カゴで、勝浦の鉄山をみて帰城したと伝えられているから、北九州の真名子鉄山と同時代かそれより少し以前に操業されたものであろう。

黒田藩の御殿様がカゴで岡垣の金山と津屋崎の鉄山を視察したんですね。
すごい行列だった事でしょう。
藩の経営に金と鉄は重要だったのが推察されます。

タタラについて、この文から読み取れるのは、
鉄滓を観察すれば、タタラの操業状況が推測できること。
タタラの築炉法で、時代や技術を提供した地方が分かる事。
燃料が近くに必要である事。
ここでは近くの砂鉄を材料としたこと。
などです。

津屋崎の砂鉄
この津屋崎の砂鉄はとても良品だったそうです。
ここの砂鉄が船で遠賀川をさかのぼって真名子川に運ばれて、
そこから牛馬で鉄山へと輸送されていたとも書いてありました。
鍛冶が行われたのは嘉穂郡の犬鳴の里だったそうです。
(おお。犬鳴で鍛冶をしていた!思いがけない所から傍証を手に入れたョ。
「イヌナキーイナキは製鉄の工人の隠れ里」などについては天照神社で
少し書いています。)
天照神社1~3 http://lunabura.exblog.jp/15581560/

「筑前続風土記」にも
玄海灘(遠賀郡~奈多)の海辺の砂の中に鉄砂が出る。これを鋳て鉄にする。当国の鉄砂は大変良質である。この鉄砂を博多の職人が京・江戸の釜屋に持って行って見せると、大変称賛して、「このような鉄砂で鋳たのなら、古作の芦屋釜が素晴らしいのも納得だ」と言った。鉄砂は小刀や包丁を磨くのにも使う。 

とあります。(意訳)

金山池
池をどのように利用したのかについては、
「鉄穴流し」(かんなながし)には「採取」と「洗鉱」の二つの工程があるそうです。
ここは砂鉄なので「洗鉱」の作業だけが必要です。(選鉱の字もある)
大池、中池、乙池、洗樋と順に下流に移送して行く時、各池では足し水を加えてかき混ぜ、軽い土砂を比重の差で砂鉄と分け、バイパスで下流へ吐き出しながら砂鉄の純度を高めて、最終的には80%以上の砂鉄純度にした。(和鋼スポット解説より)

これを金山池に当てはめると4-3-1-2号と流して行ったのでしょう。
各池には栓があります。
2号池が「ショウケ堤」と呼ばれて水が漏れる池になっているのも、
砂鉄を集めやすい構造にしたのが伺えます。

この鉄穴流しの方法は多量の土砂が下流に流れ出すので、
農業に悪影響を与えるそうです。その点、ここは海に流れ込むので、
環境への配慮の点でも選び抜かれた地形だというのが分かります。
時代はこのあと現代的な製鉄へと移行していきます。
ここは最後のタタラ遺構の形をよく残しているのかもしれません。

地図 恋の浦


今回の資料は福津市の文化財課から提供していただきました。
ありがとうございました。




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by lunabura | 2011-06-10 14:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

若八幡宮・多々良川―古代の製鉄―イラスト


若八幡宮
福岡市東区多々良
多々良川―古代の製鉄―イラスト

福岡市には多々良川という名前の大きな川が流れています。
「多々良」まさしく「蹈鞴」と同じ発音です。

今回は地元の地名と地形に詳しい聖洲さんに
古代の多々良川を案内してもらいました。

多々良川の下流の右岸から300メートルほど入ったあたり、
車が一台ようやく通るような細い路地を通ると「若八幡宮」がありました。
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石段を上っていきます。

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拝殿は小さな丘の頂上にあり、周囲を見晴らすことができます。
境内の広さは、先週紹介した風早神社とほぼ同じで、川の傍という点も似ています。
すると?―そうです。
やはりここには古代には製鉄所があり、鉄を守る神様が祀られていたそうです。

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拝殿前から参道の方を撮りました。

次は現代の多々良地区の航空写真です。こんもりとした所に若八幡宮が見えています。
(写真を一度クリックすると、自由に動かせますよ)
地図 若八幡宮 顕孝寺 香椎宮

1000年以上も前にワープすると、こんな感じ!
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聖洲さんがこの神社の周囲の古代の光景を再現してくれました。
今立っているところは中央の上の森あたりになります。
手前の川は多々良川。現在はまっすぐの堤防が作られていますが、
古代にはこうして岬になっていて、地名にもその名残が残っているそうです。
また、ビルの下からは古代のドッグの積み石が発見されています。

絵の左に黒煙を上げている大きな窯があります。製鉄の窯です。
調べても古代の製鉄窯は残っていないので、全く想像だそうです。
でも、それらしい雰囲気があります!

すぐ近くに小舟が停留していますが、砂鉄が山のように積まれています。
燃料は、ここから少し離れた八木山で天然の無煙炭が露天掘りで採れていて、
「しょうけ(籠)」に入れて運ばれていたそうです。
地の利がとてもいい所だったのですね。

「しょうけ」と言えば、八木山が難所のために神功皇后の赤ちゃんを「しょうけ」に入れて運んだために「しょうけ越え」という地名が起こったという伝説が有名ですが、
この無煙炭を運んだ話と入れ替わって伝わっているのだそうです。
そう言えば、そうですね。赤ん坊をショウケに入れて運ぶ方が難しい。

絵には遣唐使船が描かれていますが、これは遣唐使船というより、
韓半島などから直接やって来る民間の大型船だそうです。
その船が繋留されているのは顕孝寺
当然ながら大陸から韓半島までの最新情報が入ってきます。
この情報を求めて、はるばると香春岳の採銅所や宇佐(神宮)から
情報収集に集まって来ていたそうです。

次はここで採れていたスズ鉄のイラスト。

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葦の根元にバクテリアが鉄を集めて、茶色の塊が出来ているようすです。
葦は海と川の水が交わる所で育つそうで、それを刈り取って乾かして燃やし、
灰にして水に混ぜ、沈殿させて比重差を利用してスズ鉄を採ったそうです。
聖洲さんの子供頃までは葦がいっぱい生えていて、鳥も沢山いたそうです。
古代では多々良川の三つの支流で葦を刈り取ったあと、
一部に稲を蒔いていたそうです。一年ごとに稲作の場所が変わったとか。
葦と稲の輪作なんです!

これは同じ絵の全体のようす。
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ここには神功皇后の伝説も残っていました。
彼女は出産するために、この辺りから上陸したと伝わっているそうです。
左には名島神社。そして廻り込むと向こうに香椎宮が見えています。

神功皇后はこの辺りで破水しかけたという話もあるそうです。
タタラの鉄が流れ出す様子とあいまってそんな伝承が生まれたのか、
実際そうだったのかは遠い昔の事で、霧のかなたです。

それにしても、イラストのお蔭で古代社会のイメージがよくつかめました。
聖洲さん、ありがとうございました。

ここも安徳台のあった那珂川町と同様に那の国なんですよ。




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by lunabura | 2011-05-27 10:13 | 若八幡宮・わか・福岡市 | Trackback | Comments(12)

風早神社・製鉄の民の隠れ宮?


風早神社
かざはやじんじゃ
福岡県那珂川町安徳
製鉄の民の隠れ宮?

那珂川町の地図を広げて見ていると、奈東南雄さんが、
風早神社を見つけて「こりゃあ物部氏の神社だ」と言い出しました。

それなら行かなくてはと言う事で、伏見神社の後で訪れました。
地図上では簡単に見つけたけど、そこへ至る道は普通の道ではありませんでした。
そこで頼りになるのは、くるま座さん。
那珂川のフィールド・ワークをかなり重ねたらしく、
地元の人しか分からない道を縫って、私道のような道を通って到着しました。

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人家の間から突然開けた農地の向こうに、なんとゆかしい佇まいの鳥居。
歓声を上げて走り出しました。

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杉林の中を縫っていく急斜面の石段。
この斜度の険しさは、これまでも何社かあった。
まさしく製鉄所がある急斜面。
風早という神社の名前からして、風の神様が祀られているはず。
きっとここは製鉄の現場。

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丘の頂上は直径30mほどの円形の平地で、その正面に小さな祠があるだけでした。
祠を守るために新たに覆い屋が重ねられていました。

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覆い屋の中の神殿の側面。

境内には何もありません。何と簡素な。これこそ、祈りの原点。
この地形こそ大切な場所なのです。

杜の中の境内はとても心落ち着く所で、参拝を済ませると、
みんな座り込んでしまいました。
小さな丘の頂上の森に囲まれた境内。なんと心地よい。
木々の隙間からは川が見えます。先ほどの那珂川が流れています。

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登って来た石段を上から見下ろしました。
新しく塗り替えられていた赤い手摺から、
今なお地元の人々に大切にされているのが分かります。
くるま座さんがコンパスを取り出して確認すると、何と神殿は北向きでした。

地図を広げて、地形を確認。

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左下に風早神社の杜がこんもりとしています。
伏見神社の前を流れていた那珂川が、この丘にぶつかったために
急カーブを描いて蛇行していました。
「え?隣は安徳台?」
最初の裂田神社とは、安徳台を挟んでほぼ反対側に来ていたのです。
「なんだ。今日は安徳台の周囲をぐるぐる廻っているんだ。」

奈東さんが、地形を説明してくれました。
「製鉄には北西の風が必要で、この谷川から正にその風が吹き付けて来る。」
「そうすると、この風早の製鉄所と安徳台とはどちらが先?」
「製鉄所が先だね。それを守るために安徳台がある。」
鉄製品を作るには製鉄と冶金の作業があって、冶金の方が危険な作業だったとか。

地元の眞鍋氏の本によると、人々は夏は米を作り、冬の北西の風が吹き出すと、
製鉄をして農具を作っていた時代があったとか。
いったん火を入れると、三日三晩燃やし続けなければなりませんでした。
火を燃やすために風が必要だし、二酸化炭素が溜まらぬためにも風が必要でした。
この地形は海からの風が川を通って風速を増すような、まさに理想的な場所でした。

祭神は風の神と想像されますが、今の段階では分かりません。
(追記 現人神社の摂社 風早神社・伏見神社(級長津彦命・息長足姫命) 
                          福岡神社誌より)
この神社は隠れ宮のような風情です。
そっとして置くのがふさわしい静けさが漂っていました。

安徳台そのものからも、紀元前2世紀の製鉄所跡が発掘されているので、
この町はかなり早くから開発された重量拠点に間違いありません。
渡来人たちはこの地形を発見して歓喜したことでしょう。
海に近く、風を利用出来、天然の要害の地。安徳台。
水田を潤すために裂田溝を作って水の供給を安定させた。

この安徳台を中心としてクニづくりをした、製鉄と土木建築に優れた民たち。
いくつかの渡来人の集団の技術を集めた複合都市のように見受けられます。
そしてここは那の国です。

安徳台は未開発で、畑があるだけなので、考古学的な発掘が期待されます。
2200年前の住居跡からは勾玉や青銅器の鋳型、鉄器や鉄片ほかが出土。
飛鳥時代の柱の建物あとなども見つかっています。
しかも物部氏の末裔である眞鍋氏は地元の伝承を書き残している。
日本書紀には轟の岡として登場している。

研究資料が揃っていて、古代社会のようすが総合的に明らかに出来る、
目を離せない場所になりました。
また日を改めて安徳台には行きたいと思います。

地図 風早神社





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by lunabura | 2011-05-21 14:55 | 風早神社・かざはや・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

人丸神社(3)人丸は鍛冶の暗号だったよ


人丸神社(3)
人丸は鍛冶の暗号だったよ


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残りの疑問について考えました。

2・景清の娘の名前が「人丸」という男の子のような名前だった理由について、「朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けました」と言っているのは何だかこじつけっぽい。きっと昔も、「娘がなんで人丸という名前なんだ」と問う人がいて、無理に作られた話に見える。
3・若くして死んだ娘を埋葬するには「寺」のほうがふさわしい。
4・人丸といえば柿本人丸(人麿)を普通は指す。
5.ここは古代の聖地の可能性はないか。

ネットで「人丸神社」というキーワードで検索すると、一気に謎解きが進みました。

柿本人麻呂と人丸神社
柿本人麻呂神社は日本全国に人丸神社や人麻呂神社などの名称で多く存在します。この人麻呂(人丸)神社の性格を見てみますと人麻呂神社には四形態があるようです。その、四形態の分類とは、
   1. 和歌の聖としての柿本人麻呂神社
   2. 鍛冶や火事の人丸神社
   3. 客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社
   4. 祖神としての人麻呂神社
です。
最初の「和歌の聖としての柿本人麻呂神社」の代表は、兵庫県明石市にある明石柿本神社です。
次の「鍛冶や火事の人丸神社」は、全国の山村に分布する摂社としての人丸神社で、主に八幡神社の摂社の場合が多く見られます。
三番目の「客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」の代表としては、島根県益田市の柿本神社です。
最後の「祖神としての人麻呂神社」の代表は、奈良県葛城市新庄の柿本神社です。
(一部略)
ブログ「万葉集 柿本人麻呂と高市皇子」より
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/29144213.html

まず目についたのは「3. 客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」です。
そのブログでは柿本人麻呂の伝承を詳細に追っていて、
人麻呂は海難事故にあって、海岸に打ち上げられ、
人々から祀られるようになった経緯を丹念に論証しています。

思えばこの新宮町の「人丸神社」も景清の娘が客死した訳です。
当時の人には、「人丸=客死」という共通認識があったのが伺えます。

そして、何よりも「2. 鍛冶や火事の人丸神社」というのを知って、
「ガッテン」という声が鳴り響きました。

先のブログによると、柿本人麻呂の集団は「銅の精錬の渡来系の技術集団
であったことを突き止めてあります。
30人程度の技術集団で銅の精錬が出来るのだそうです。
そんな形態で全国各地で生産している状況だったのが、奈良の大仏を
作る事になった為に、坑道を持った本格的な銅の鉱山を作らなくては
ならなくなり、柿本氏族はその指導者的立場に立ったそうです。
そしてその本格的な銅鉱山は山口県にあります。
山口県で出来た荒金がどんどん奈良に運ばれてさらに精錬された訳です。

このような背景があったために、山口県を中心に人丸神社が
沢山祭られるようになりました。そこには鍛冶の神を祭っていたけれども、
時代が下がると意味が分からなくなり、
鍛冶の神⇒かじのかみ⇒火事の神⇒火止まる⇒人丸
となったようです。詳しくはリンク先をみてください。

この事から、この人丸神社のムラにも鍛冶集団がいて、
この場所を聖地として祀っていたが、鎌倉時代には本来の意味も失い、
「ひとまる」の名前だけ伝わるようになっていた。
そこに景清の娘の客死が重なって、「人丸姫」が御祭神になったのでは
ないかと、結論づけました。

さあ、この仮定を裏付けるにはここに古代に製鉄か銅の精錬が
行われていなくてはなりません。そして思い出しました。
ここには製鉄の跡があったのです。
地元の鉄工所の経営者が古代の製鉄のようすを本にしていました。
この新宮町を調べて行くと、古代のハイテクランドだったのが見えて来ました。
少し、この神社の周囲をぶらぶらしましょう。

                              (つづく)



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by lunabura | 2011-02-06 16:47 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)

山鹿貝塚/縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた


山鹿貝塚
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿
縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた
芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)


※今日は人骨のお話です。イヤな方はパスしてね!

いつ頃からだったでしょうか、縄文の彼女が気になり始めたのは。
各地の町誌を見ている内に、彼女の記事が何度か目に留まりました。
彼女は生まれたばかりの子供と一緒に埋葬されていたという。
傍にはもう一人の女性が。いったいどこに行ったら彼女に会えるのだろう。

山鹿貝塚という遺跡名から、芦屋町の図書館に行って見ました。
町誌を見ると、あった!やっぱりこの町に彼女はいた。
図書館で歴史資料館を訪ねると、町が合併したあと、
芦屋歴史の里」(歴史民俗資料館)にまとめられているとの事でした。
夕方になっていたけど、とにかく滑り込んで入館してみようと、車を走らせました。

彼女たちは二階にいました。レプリカがあったのです!
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私の探していた彼女は、向かって右側の女性です。2号人骨という名が付けられていました。第一印象は頭が小さくて小柄だなというものでした。
その胸には緑の大きなペンダントがありました。そして彼女の右腕には生れたばかりの赤ん坊が。その子は4号人骨と付けられていました。
それに寄り添うような左の女性は3号人骨と呼ばれています。

彼女たちが生きていたのは縄文時代。砂丘の上に埋葬されていたので、こうして良好な状態で発見されました。この遺跡全体で18体も発掘されています。




この2号と3号人骨の基礎資料をまとめてみます。(芦屋町誌より)

2号人骨は20才前後の女性。推定身長150.3センチ。おでこに輪をはめていた圧迫痕がある。二本のサメの歯で作ったイアリングをつけていた。腕輪はベンケイ貝製で、右に5個、左に14個つけている。
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これが胸の所にあった緑の石。穴の場所が偏っている。左右には切り込みがある。
長さは75ミリ、幅31ミリ、厚さ14ミリ。軟玉か蛇紋岩で、穴は紐ですり減っているので、いつも身につけていていたのが分かった。代々伝えられた可能性もある。
その他にも25センチの鹿の角を2本、穴を開けて胸にぶらさげている。

彼女は表面から1mの所の白い砂の中に埋葬されていたが、彼女の上半身の周りだけは砂が赤く染まっていた。朱をまいたのか、赤い上着を着ていたのかは分からない。

3号人骨は30才前後の女性。推定身長147.1センチ。鹿の骨で作ったかんざしを2本付けていた。腕輪は右に15個、左に11個。
子供を含めて、3人の血縁関係は分からない。また抜歯の風習はない。


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手前の3号人骨を見て下さい。首と腕の間の骨が全くありません。
奥の2号人骨も肋骨などが無くなっています。
それに比べて、赤ん坊の柔らかい骨は残っているという事から、
2,3号人骨は、埋葬されたのちに骨を抜かれているのが分かりました。

3号人骨の右側に不規則になった骨があります。骨はそこに集められているのですが、
これらを二人に戻しても、まだ骨が足りないのだそうです。

他の人骨には手が付けてられていないことから、
二人は特別な立場の人だと言われています。特に緑のペンダント
鹿の角2本を持っていたという事は彼女が特殊な立場だった事を教えています。

こんな想像をしました。
20歳頃の彼女は子供を生んだばかりなのでしょう。
30歳頃の人も同じ墓穴に埋められているので、姉か叔母あたりの血縁者ではないか
と想像しました。流行性の病気で一緒に亡くなったのかな…。

30歳の方が腕輪が多いので、もともと緑の石を持っていた人で、シャーマンか
メディスン・ウーマンか、女王(縄文では何て言うんだろ)だったのではないかな。
2号人骨にその立場とシンボルの緑の石を譲ったのに、く二人ともすぐに亡くなってしまった。
この緑の石を受け継ぐ立場の人がもういないので、石も一緒に埋葬されたが、
二人は慕われ続けて、後の人たちは彼女たちの骨をお守りとして貰って、漁や猟に出るようになった。
こんな空想をしました。

次の写真は他の人骨です。
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一人で埋葬された男性。並んで埋葬された夫婦らしき二人の男女。
さかさまに埋められていた男女、幼児を抱いた女性一人。などいろんな埋葬の形がありました。

この山鹿貝塚は原日本人を知る上で、かなり重要な遺跡のようです。
発見されたのが昭和28年、学術発掘が昭和40年という事です。
現代ならDNA鑑定も出来るし、死因もかなり調査出来るのではと思いました。

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ジオラマが一階にありました。この緑の丘の頂上部が発掘現場です。
細長い溝はトレンチの跡です。現在は更地になっていて、看板があるだけだそうです。
道と現場の状況は資料館で丁寧に教えていただきましたが、
小雪と日没で現地へ行くのはあきらめました。またいつか行ってみたいです。

芦屋歴史の里(歴史民俗資料館) 
開館時間:9:00~17:00
入館料:個人入館 大人200円、小人100円
    団体入館 大人100円、小人50円
    釜の里・歴史の里共通券 大人300円、小人150円
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)年末年始
福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿1200
TEL093(222)2555

この地は有名な芦屋釜を産出した所で、その遺物なども公開されています。

地図 山鹿貝塚 芦屋歴史の里



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by lunabura | 2011-02-03 16:04 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(9)

天照神社(2)奉納された稲穂の由来


天照神社(2)
奉納された稲穂の由来


あっ、稲穂だ!
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拝殿で目に飛び込んで来たのが左右の柱に掛けられた稲の束でした。
なんだかワクワク嬉しくなりました。
左は「奉 鶴田稲」 右は「奉 脇野稲」と書いてあります。
脇野鶴田で採れた一番最初の稲穂を奉納するんですね。
これこそ本当の祀りの形。それが今なお継承されている。

では、今回は貝原益軒の書いた由緒書きの方を訳してみましょう。
この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所です。
その後60年過ぎて、同じ帝77年の春、笠城山の上に初めて神殿を作って崇めました。秋ごとに初めて刈り取った稲の初穂を大神に奉納しました。秋の収穫の頃、民は暇がなくて峰の上まで登山するのに困っていたので、麓の谷に稲の穂を掛けて奉ったので、その谷を穂掛谷と名付けました。今佛谷というのは訛っているのです。

その後、允恭天皇の御世にこの社が野火に焼けてしまいました。人里から離れているのでこんな災いがあるのだろう。老人や子供たちが高い山に登るのも難行だしと言って、麓にある穂掛谷にあらためて作って移しました。その時、数千の石を集めてその上に神殿を建てたので、千石原と言うようになりました。

人に災いしたナマズを退治するように命じたのが最初のようです。
その時の剣が八剣神社の謂われになっています。
笠置山に神殿を作って初穂を奉納していたのですが、
農繁期には登山が大変なので、麓で奉納するようになりました。
上宮から中宮へと神社が下っていったようすが伺えて興味深いです。

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拝殿の左には三羽の鶴の像がありました。これは珍しい。
この鶴にも謂われがありました。続きを読みましょう。
その後、淳和天皇天長5年の冬、明野の里に宮殿を建てて、穂掛谷から移しました。明野は今は脇野と言うようになりました。

長屋山筒男は長寿でその御霊を明野に祀り長屋大明神と言います。この山筒男の末裔が天照宮の御祭を執り行い、今に続いています。

花園院の延慶元年、ある人の夢に大神が告げました。
「白い鶴が住む所にミヤシロを遷しなさい。」と。夢のお告げに従ってそのしるしを捜すと、今の鶴田の里に白い鶴の雄雌のつがいが棲んでいました。そこで、明野から今の所に移し、鶴田と名付けました。鶴が喜んで舞ったと言う事からその上の山を鶴喜山と名付けたと言います。

社殿は笠置山から穂掛谷、脇野、鶴田と移動していく理由が伝わっていました。
社殿の二つの稲穂は移動前の脇野と現在の鶴田から奉納されていたんですね。
鶴喜山(つるき)と剣(つるき)も掛けてある!

記録には、かつては三社ともに三日間神食(みけ)を祀ったりして、
たいそう盛大な奉納の祭りが行われたようすが書かれています。

貝原益軒はこの天照宮の由緒書きに大変、力を入れて書いていますが、
残念な事に、この御祭神を天照大御神と勘違いしています。
天地が別れた時からとうとうと書き起こしていて、名文なのですが、
天照大御神まで書いて、そのままこの神社の由緒に移っているのです。
私の読み違いではないかと、何度も読み返しましたが、
「鶴田の里におはします天照宮は則天照大神を祭奉る所也」と書いています。
勘違いしたようです。ニギハヤヒの正式名が
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ですからね。まっ、こんな事もアリですね。
それ以上に、その記録の素晴らしさを称えたいと思います。

さて、神殿をぐるりと廻って見ました。
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これが神殿の裏側です。裏にもしめ縄があるのは珍しいです。
これを背にして外を見ると、四角く突き出た土地がありました。
塀の鍵が掛かっています。あれ、遥拝所じゃないかな。
木々が生い茂って見通しが利かないので、境内の外に出て裏に廻って見ました。
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それがこの風景です。一番高い山が笠置山かな…。
今日は全く人に出会わず、確認する事が出来ませんでした。

さて、考古学的にアプローチすると、「笠置山」といえば、
弥生時代の「石包丁」の材料の輝緑凝灰岩の産地なんです。
この山の向こう側で石包丁に加工されたものが佐賀県や大分県でも出土しています。
そういう意味でも笠置山は興味深い山です。

さてさて、るなの推理コーナー。
この神社の横の川が犬鳴川だと知って、思ったのですが、
イヌナキーイナキなどは製鉄の工人の隠れ里を表す地名なのです。
ここが鉄器を作った物部の里だというのを合わせると、
山の上に掛けられた穂はもともとは葦の穂じゃないかな。
つまりスズ鉄の材料になる葦の繁茂を願って掛けられたのではないかなと。
ところが時代を経て水位が下がり、沼地が稲作地に代わって行ったために、
葦の穂が稲の穂の奉納に代わっていったのではないか、と。
この神社の伝承にそんな古代を重ねました。

さて、表層から伺えるのはこんな所でしょうか。
この神社を支える歴史の奥についての本があるので、
次回はそれを紹介したいと思います。

♪ ニギハヤヒの現代語訳を始めました。(『古事記の神々』)
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考える?牛

地図 笠置山・穂掛神社 脇野 鶴田 天照神社

 

ブログ「徒然なるままに、、、」で、スズ鉄について分かりやすくまとめられています。
わが国の鉄の歴史・スズについて
http://jumgon.exblog.jp/15138704/



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by lunabura | 2010-12-11 22:08 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(9)

高倉神社(2)弥生の風景そのままに・伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった


高倉神社(2)
弥生の風景そのままに
伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった


伊賀彦社
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本殿の左の方に歩いて行くと、いくつもの祠があります。
一つずつ辿って行くと、「伊賀彦社」という扁額が目に留まりました。
わあ、すごい。ここに祀られている!
この伊賀彦は「舵取りで、倭国の莬田の人で祝として祭らせた」
と日本書紀に書いてある人、そのものです。

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由緒書きに「伊賀彦命の古墳跡」と書いてあることから、
伊賀彦はここで亡くなったと考えられます。それが、神として祀られていました。
この裏の森の中にその古墳があるのでしょうか。
神社にお尋ねしたかったのですが、あいにく今日は七五三の参拝があっていました。

もし、この古墳が伊賀彦のものだと明確になれば、
日本書紀の名前と古墳が一致するという大変価値のあるものになります。
未盗掘だとすれば、西暦200年の頃の古墳の副葬品はどんなものだったのか、
年代特定の史料になります。よく考えると、すごい事だ…。

毘沙門天の銅像
そんな事を考えながら、山の中腹を縫うような小道をさらに先の方に辿ると、
思いがけない銅像がありました。
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銅製毘沙門天立像  福岡県指定文化財227、5cm
総高  193,5cm
制作時期 1491年(室町時代後期)
須藤駿河守行重を願主とし、大工大江貞盛により造られた。
とあります。ここは昔は鉄や銅などの生産が盛んな地でした。
そして、その後ろにある赤い鳥居は、もしかしてお稲荷さん?

稲荷社
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まさか。こんな所にイナリが…。そう、稲荷と言えば、志賀島の大嶽神社で調べたように、
イナ=鉄器。
武器や農具の鉄器庫の跡を表す可能性があるのです。

これを見て、ルナの頭の中に仮説が生まれました。
ここは高倉命とツブラ媛の住まいがあったクニの中心部で
稲荷社の所には武器庫があったのではないか。
ここのクニの王たちが仲哀天皇と神功皇后の船を止めて、
舵取りだったウダの伊賀彦を所望したのではないか。

じゃあ、ウダの伊賀彦にはどんな価値があったのだろう。
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その場で立ち尽くしていて、もと来た方向を振り返ると、神殿の屋根が見え、薄日がさっと差しました。
さっきまで、ポツリポツリと雨が落ちていたのに。神々しさに感動です。
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赤い鳥居を降りて行くと、最初の広い境内に降りて来ました。
振りかえって配置を考えると、細長い丘陵の中腹にずらりと神殿や伊賀彦社・稲荷が並んでいました。
やはり、この丘陵は古代の国王の住まいがそのまま神社になってる…。

ウダを調べなきゃ…。
まとまらない興奮を抱えて、家に帰って、ブログ「徒然なるままに、、、」
を訪問すると、「宇陀の水銀」の話がUPしてありました。
「ウダ」の隣は「伊賀」まである…。
そうか、ウダは水銀を産出する所なのだ!辞書を引くと
宇陀 奈良県北東部 古くは水銀の原料辰砂を産出していた。

辰砂とは水銀の材料の事です。
宇陀の伊賀彦は実際は金属加工技術者ではなかったか
という思いを裏付けるものでした。
それというのも、この神社をさらに西に行くと、
孔大寺(こだいじ)山があり、そこには金の採掘跡があるのです。
採算が取れないので、今では閉山されています。

金と水銀の組み合わせ
古代社会の金と水銀ってどう関係があるのか、理解を助ける例がテレビであっていました。
南米の金採掘のシーンです。

赤土の崖に大きなホースで水をかけて、土を崩し、それを川に流し、
フルイを使って、砂金を土砂の中から選り分けていました。
その時に、水銀を使っていました。水銀と金は簡単に結合するので、
小豆ほどの大きさになって、発見しやすいのです。
それを熱すれば、簡単に金が取れるとか。
しかしその時、水銀の毒を吸い込んでしまって、何人もの人が亡くなって、
ドラム缶の棺に埋葬されていました。
かれらは密入国のために、人知れずそこが墓となるのです。

これは現代の金の採掘現場のレポートです。
数分のシーンでしたが、金と水銀を理解するのに十分でした。

この高倉神社の近くでも金が採れるが、それを効率よく採掘したい。
あるいは、採掘者の水銀中毒があって困っていた。
そんな所にウダの伊賀彦が来たものだから、
金の採掘技術者として留まって指導するように依頼したのではないかと思いました。
その代償として、これから熊襲と戦う天皇への軍事援助を約束した。

この日は考えもまとまらないまま、もう少し、この地について調べようと、
郷土史を捜しに岡垣町図書館に向かいました。

(つづく)


鉄と稲荷⇒大嶽神社(5)



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by lunabura | 2010-12-02 15:27 | 高倉神社・遠賀郡 | Trackback | Comments(8)

織幡神社(4)武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。荒魂・和魂とは何だろう。


織幡神社(4)

武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。
荒魂・和魂とは何だろう。

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さて、『福岡県神社誌』を見ると、当社の始まりについて伝承が載っていました。

社記に曰く、当社の草創について、
履中天皇年中、武内大臣がこの岬に来て、肉体のまま昇天された所を、
和魂(にぎみたま)の表としてこれを沓塚(くつづか)と名付けた。
その霊地に荒魂(あらみたま)の表を立てて織機神社と名付けて、
壱岐真根子の子孫の人が伝えてこれを祀っている。

代々の帝がこれを尊崇して、毎年仲春4日に幣帛の勅使を下していた。
武内大臣の神変力にて、異敵退散のめでたき旗を織ったので、
代々の帝が毎年11月中のうの日には新嘗祭の手向けをして、
他と違った扱いをしていた。我が国守護の霊神という。


前回紹介した沓塚について、神社にこのような由来が伝わっていました。
武内大臣がこの岬に来て、肉体のまま昇天したとき、
靴だけ残ったので、それを沓塚と名付けて、和魂を祀り、
神殿を建てて荒魂を祀ったという事のようです。

「表」というのは初めて見るので、よく分からないのですが、
「和魂と荒魂」というのは、古神道に言う「一霊四魂」のうちの二つを指します。
これは人間の霊的な姿を表わしたもので、霊は四つの魂から成り立っているという考えです。
その四つとは和魂・荒魂・奇魂(くしみたま)・幸魂(さちみたま)です。
この織幡宮の場合、武内宿禰の四魂のうちの二つを表として留め置いたというのです。

四魂について辞書を引くと、和魂の中に奇魂と幸魂があるという説もありました。
すると、四魂を留めたと言っていいのかも知れません。

貝原益軒が採集した伝承によると、
武内の宿禰がこの山を素晴らしいと言って、
「自分が死んだら神霊は必ずこの地に安置せよ。異敵の襲来から守ろう。」
というのが始まりである。

という事でした。

伊勢神宮に行くと、拝殿の左側の杜の下がった所に
荒祭宮(あらまつりのみや)があります。
そこには天照大御神荒魂を祀っています。
こうすると、四魂を分けて祭祀するケースがあるのが分かります。

聖洲さんの話によると、
「その昔、亡くなった天皇の荒魂・和魂・奇魂を留める祭祀をする巫女(みこ)がいた」
という事です。
これらから、四魂についての定義はまちまちですが、死んでから神霊として留めるために、
荒魂や和魂を玉などに留めるような儀式が存在していたと想像されます。

多賀神社でも、イザナギの命の神霊を玉に留めたというのがありました。

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(NHK 「極める」佐野史朗のなぞの石学)

これは出雲地方の古墳で見つかった玉石です。
石には真っ赤な水銀朱が塗られて、棺の上に置かれていたそうです。
ルナの勝手な想像ですが、この赤い石には亡くなった人の和魂や荒魂などが留められて、
死後もその地を守る祈りがあったのではないかと思いました。


一霊四魂(荒魂・和魂・奇魂・幸魂)については、いろんな解説ありますが、
現代の武道家の興味深い体験談があるので、一部抜粋しながら紹介したいと思います。

「安藤毎夫 × 小山一夫」
(合気道家)  (ヨガ行家)

「安藤師範が一人稽古中に遭遇した神秘体験」

安藤 朝早く、4時頃に起きてひとりで稽古をしていたんですね。
    何日かやっていたんですが、
    あるとき、とても集中できるような感じになったんです。
    腰を落とした体勢で、普段は膝や腰が痛くなるのに、
    そのときは痛みが消えていったんですよ。
    それで、「これはなんかいい調子だな」と思ってつづけていたら、
    鏡に映った自分が消えていたんです。

増井 見えなくなったんですか。
安藤 そうそう。最後には目の玉だけを残して
    鏡の中の自分は綺麗に消え去ってしまった。
    それでふと我に帰ってみると、身体に感覚がない。
    皮膚と空気との境がないし、手の感覚がないんです。

増井 痺れているような感覚とも違うんですか。
安藤 違います。融けているような、空気と一体化しているような感覚。
    これは凄いぞ、何かあるんじゃないかと思って試してみないといけないと…。
小山 滅多にないことですもんね(笑)。

安藤 それで寝起きを共にしていた、現在は養神館高田馬場道場の
    千野進師範を起こして、稽古に付き合わせたんですよ(笑)
    それで彼に私の手をつかませてふっと動いたら、見事に吹っ飛んだんですね。
    しかも彼は何をされるのか全然分からないし、予知もできないという。
    自分でも、何かをしようという感覚じゃないんだよね。

小山 それが古神道でいうところの鎮魂の状態なんですよ。
安藤 そうなんですか。
    無心というか、空(くう)になっているという感覚ですね。
小山 ええ、最高に気が充実していながら、手や足の感覚がないんです。
    意識は非常にクリアだけど身体の感覚がない。
    無重力の空間に浮かんでいるようで、
    しかも自分がとても大きくなったような感覚になってくる。
安藤 そうです。そうです。
小山 それが鎮魂のできている状態なんです。

増井 その感覚は小山先生も体験なさっているんですか。
小山 それがないと審神者(さにわ)にはなれないんですよ。
    体験としてはほとんど同じで、
    自分の体が融けてゆくというのも、確かにそうです。

増井 どれくらいの期間、出来ていたんですか。
安藤 2~3時間で消えました。

小山 『延喜式』という平安時代中期に書かれた、
   律令の執行規則をまとめた文書があるんですが、
   その中に鎮魂の事が書いてあるんです。

   それによると、人間の一霊四魂というのは身体の中ではなく、
   肉体の周囲に浮遊しており、それを丹田に鎮めて初めて鎮魂となるんです。
   一霊四魂を丹田に収めるためには道ができなくてはいけないんですが、
   一度道ができると鎮まりやすくなります。
   ところがその道を断たれてしまうと、逆に鎮まりにくくなるんですよね。

安藤毎夫 養神館合気道「龍」師範
小山一夫 クンダリーニ・ヨーガ 火の呼吸 主宰
増井浩一 取材・文 (「月刊秘伝」 2005年1月号 BABジャパン)

雑誌に掲載された対談の一部を紹介しました。
これによると、平安時代にはすでに「一霊四魂」が認識されていたのが分かりました。
肉体の周囲に浮遊しているんですね。それを丹田に鎮めるのが「鎮魂」。
「鎮魂」はとても集中した時に起こり、意識はクリアで身体の感覚がない状態。

「一霊四魂」は人が亡くなると、肉体から離れてしまうもの。
武内宿禰はこれが分かっていて、それを織幡宮に特別な神事で留めさせたのが分かりました。
それは死んでもなお、この国を守る為でした。
これを当時の人々はよく知っていて、それで歴代の天皇も、この宮を崇敬していたのですね。

この織幡宮は武内宿禰の神霊を留めたお宮なんだ。
武内宿禰については、調べていくと、日本の文化の基礎作りに関わる人だと分かって来ました。
それが千数百年のままの姿で残っているなんて、すばらしいですね。
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織幡宮のある佐屋形山と地島と大島。
ここは大変危険な海路で、これを見守るように織幡宮が祀られています。
(つづく)



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by lunabura | 2010-07-11 23:44 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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