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榧星 かやのほし ベガ 伽耶とはベガを祀る天壇



榧星 かやのほし ベガ


伽耶とはベガを祀る天壇


天の川を挟んで輝く織女と彦星。
織姫星はベガ。

そのベガについて、今日は『儺の国の星』を読んでみます。
今日は、その一部の抜粋です。p156

<榧星 かやのほし> ベガ

古事記神代記上に曰く、
野の神、名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。
またの名は野椎神(のづちのかみ)という。

榧星は織女ベガの古名である。

地中海の神話には榧(かや)を神女巫人の化身として
崇(あが)められているときく。
幹の中心部が女人の血液に似て、朱赤に染まっているからと説かれる。


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                画像出典 ウィキペディア
(略)


織女の古名をガリヤと言う。

トロヤ人は母なる大地を女神とした。
そしてエトルリア人は色女として、
冬至の夜に大地に接する彼方をガリヤと呼んだ。

今のライン川とローヌ川あるいはドナウ川のあたりで、
ローマ皇帝ユリウス・カエサルが太守としてその植民地に開拓した地方である。


(略)

韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた。
遠く離れた地中海のガイヤに遡る古語である。


ベガを榧の木の精と見たのは地中海の人々。
それは女神の姿で語られました。

トロヤ人もエトルリア人も大地を女神としました。
同様に日本の神話でも野の神は女神でした。



私たちは七夕の時だけ、織女を意識しますが、
時代ごと、季節ごとに方角と時間を変えて姿を見せていました。

古代ヨーロッパで見えたベガは
冬至の夜に大地近くで冷たく輝いていたといいます。

あと少し、寒さを乗り切れば春が到来することを教えてくれる
「春の女神」でもあったそうです。



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           左 彦星 右 織女ベガ


凍り付いた北欧の大地近くに春の女神・ベガが輝く頃は夜も長いことでしょう。

短い昼に凍えた手をふところから出して、食事の支度をしたのでしょうか。

星を仰いでたくましく生き抜いた人間の強さが、心に浮かびます。


「伽耶」(かや)ということばはそんなベガを祀って祈る天壇だったといいます。

その語源がガイヤから来ているということは、
倭人の記憶の中に、遠い西の果ての祈りの心が残っているということでしょうか。




そのベガを志賀星(しがのほし)とも呼ぶそうです。
                          p166p156






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by lunabura | 2016-11-01 21:32 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

馬上の武人8 近江毛野臣


馬上の武人8
WAKIMIKO
近江毛野臣


前回のおさらいから。

516年。
新羅を襲った伴跛(はへ)国を討伐しようと、
水軍を率いて滞沙(たさ)湊に着いた物部至至(ちち)連だが、
戦う前に伴跛国に襲われて敗退した。

一年後に百済に援けられて帰国する。
送り届けた百済の将軍は、日本から己汶(こもん)を賜ったことの礼を言い、
先年、献上した五経博士の交替を望み、受け入れられた。

百済はさらにもう一人の将軍と「日本の斯那奴阿比多」を派遣してきた。
高麗の使者・安定(あんてい)も挨拶のために一緒に来た。

この「日本の斯那奴阿比多」に関しては諸説ある。
科野(しなの)の字を当てるものもある。よく分からない。




その後は平穏だったのか、『日本書紀』は523年に百済の武寧王が死んで、
翌年に聖明王が即位したこと、また継体天皇が二度遷都したことなどを記す。

百済は聖明王の時代になった。
鞍橋君(くらじのきみ)と関連がある王が出て来た。



そうして、三年後の527年。
近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に向かい、
新羅に破られた南加羅トクコトンを奪い返して任那に合わせようとした。


これを読んで驚いた。
新羅がいつの間にか二つの土地を奪っていたのだ。
『日本書紀』は、これに至る事情は全く書いていない。

またもや新羅攻撃隠しか。豊浦宮に続けて二例目だ。



状況は書かれていないが、
新羅と戦うために、日本から六万もの兵を送ろうとしていた。

この数字はオーバーに書かれたとしても、
かなりの軍勢が海を渡ろうとしたのだろう。
いったいどれだけの船が用意されたのだろうか。



この不可解な新羅攻撃の所に、筑紫国造磐井が出てくる。

『日本書紀』によると、毛野臣が出発しても、
国造磐井はひそかに反逆を謀りながら、ぐずぐずしていた。

新羅がこれを知って毛野臣の軍を防ぐようにと磐井に賄賂を送って来た。

磐井は火の国と豊の国に勢力を伸ばして職務を遂行しなかった。
外では海路を封鎖して高麗、百済、新羅、任那の年毎の朝貢船を
自分の所に誘導し、内では任那に派遣される毛野臣の軍を遮った。

そして、無礼にも、
「今こそ使者になっているが、昔は我が友として同じ釜の飯を食った仲ではないか。
急に使者となって、お前に従えというのか」
と言い争って命令を受け付けなかった。

磐井は驕り高ぶっていた。毛野臣は遮られて留まった。

『日本書紀』はこんな風に磐井を描写する。
このように饒舌な部分は作文なので、真剣に解釈すると
『日本書紀』の罠にはまってしまう。
が、とりあえず信じるとして、
毛野臣と磐井は過去に共に過ごした時代があったということになる。

いったい何処で。これもまた不可解な話だ。


近江毛野臣をネットで調べると、武内宿禰の後裔で波多氏の支族とある。
それなら物部系だ。
(武内宿禰の名は物部保連)


毛野臣は近江とはあるが、近江国では伝承が見つからないらしい。
筑豊の多賀神社付近は淡海と言っていたので、
本貫地を筑豊に探してみたくなった。

こちらは物部がわんさといる。
大軍勢を持っている点からも、筑豊の物部系ではないか。

そうすると、これまでの物部氏リストに加わることになる。

五万の兵が近畿から派遣されていたとすると、
既に船で本州から渡って来たことになるので、
磐井が拒否しても、自ら渡海すればよいだけの話だ。


ちなみに、百済、新羅、高麗が朝貢船を停泊する湊は門司にある。

地名が、百済浜は葛葉、新羅崎は白木崎、高麗入江は小森江と
なったと伝えている。
(拙著『神功皇后伝承を歩く』99甲宗八幡宮)

これは仲哀天皇の皇居が豊浦宮にあったためで、
外洋船はこれ以上、瀬戸内海に入れなかったためだろう。
そして、すぐ近くの和布刈神社は安曇磯良が祀られている。
安曇族の拠点だ。

開聞海峡の北は住吉族が掌握した。
毛野臣は住吉族の船を利用したのだろうか。
秦姓は宇佐を中心に今も分布する。




この時代の古墳の例

積石塚 相島一号墳 6世紀前半から中頃
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こちらは安曇族たちの奥津城




日拝塚古墳 那珂川町
6世紀前半
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任那にあった前方後円墳と石室が同じタイプだという。
那珂川町は奴国の範囲にあったという。






ところで、「歴史カフェ」に向けて、「脇巫女」を読み直しているが、
「脇巫女3」に、
<「われ」はネットを使って全国の「物部の民」に呼びかけよ、というのだ。>
というくだりが出て来た。

『日本書紀』を読んでいると、その物部が出てくる。
一人は穂積押山大連であり、一人は物部至至連だった。
これに加えて毛野臣だ。

彼らは古墳時代に海を何度も渡っていた。
漠然としていた物部像が形を取り始めていた。

2・21の『豊の国古代史研究会』では、遠賀水軍を話すが、
そこにも物部氏の名前がずらりと出てくる。
『日本書紀』に出ている人物もいれば、神社縁起から出て来た名前もある。


今、『日本書紀』を読むことは、「われ」の意図から、はずれていないんだな、
そう気づいた。





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by lunabura | 2016-02-09 21:32 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人7 物部至至連


馬上の武人7
WAKIMIKO
物部至至連は襲われた
 

伴跛国(はへのくに)とは任那北部にあったという。
百済に隣接していたのだろうか。
『日本書紀』を読んでいるのに、韓国の古代地図がないと読解が困難だ。

神功皇后の摂政時代も同じだった。あの時はあきらめたが、
今回は「馬上の武人」が何処で戦ったのかを知るために
少しずつ読み進めている。


百済、新羅、安羅、伴跛国。
日本の朝廷に滞在していた使者の国の名だ。

朝廷はこれらの使者を並べて、
「百済に任那の己汶(こもん)と滞沙(たさ)を与える」と宣言した。

伴跛(はへ)国がただちに撤回を求めたが、日本は応じなかった。

これが前回の流れだ。


伴跛国と物部連が今回の課題だ。

翌年、514年3月に伴跛国は日本に備えて城を作った。
子呑(しとん)帯沙(たさ)の地だ。ノロシ台と倉庫を置いた。
さらに二か所の城を作った。
これらの場所が現代の何処かは分かっていない。

そして、伴跛国はなんと、新羅を襲ったのだった。


明くる515年、百済の使者・文貴将軍らは帰国することになった。
日本は物部連(もののべのむらじ)に送らせた。

この「物部連」の名前が書かれていないが、
「『百済本記』には物部至至連(ちちのむらじ)と書いてある」
という注記があった。

何故名前が書かれていないのか。
それは、彼がヘマをしたからに違いない。物部至至連の名を使おう。



物部至至連らは巨済島に着いて、伴跛国の暴虐ぶりを噂に聞くと、
成敗しようと、舟師500を率いて帯沙江に入港した。

文貴将軍は新羅から去った。

(文貴将軍はいつの間に新羅に行ったのか書かれず、唐突にこの文が出てくる。
注によると、『日本書紀』はこの辺りは『百済本記』を参考に書いているらしく、
文脈が所どころ、おかしくなる)



至至連が巨済島に着いたのが2月だった。
4月になって帯沙江に着いたが、その六日目に突如、伴跛国が襲ってきた。

衣服も持ち物も奪われて、帷幕(きぬまく)も焼かれ、
至至連らはほうほうの体(てい)で、汶慕羅島(もんもら)に逃げた。



翌年、516年5月。
百済は前部木刕不麻甲背(ぜんぽうもくらふまこうはい)を派遣して
物部至至連らを己汶(こもん)に迎え、百済まで連れて来た。
百済の群臣らが衣類や武器を準備して待っていた。

9月に百済は州利即次将軍(つりそし将軍)に物部至至連を送り届けさせ、
己汶が日本から与えられたことへの謝意を伝えた。

この「物部至至連」が、
のちに出てくる物部伊勢連父根(ちちね)と同一人物らしい。

不名誉な事件の部分では名が伏せられる。
『日本書紀』によく出てくる手法だ。


この父根は調べると、伊勢の物部神社に祀られているようだった。





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by lunabura | 2016-02-08 20:34 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人6さらに二つを百済に与える


馬上の武人6
WAKIMIKO
さらに二つを百済に与える



百済に任那の四県を分け与えてしまった翌年、継体7年。

513年6月に、百済は文貴(もんき)将軍ら二将軍を派遣して、
穂積押山に添えて、五経博士を日本に奉った。
名を段楊爾(だんように)と言った。

さらに、将軍らは
「伴跛(はへの)国」が臣下の国である己汶(こもん)の地を奪ったので、
取り戻し欲しい、と願ってきた。

「伴跛国」が突然登場したが、任那北部の代表的勢力だという。
己汶(こもん)は重要な地であり、その争奪戦が今回からのテーマとなる。

この年の11月に、朝廷では
百済の文貴将軍や新羅安羅伴跛などの使者を並べて恩勅を授けた。
この時、朝廷は「己汶滞沙(たさ)を百済に与える」と告げた。

新しく滞沙という地名が出て来たが、滞沙と己汶は任那の一部だという。
だから、前回の任那四県に引き続き、さらに二地が与えられたことになる。



ここまで読んでいて、混乱した。
己汶の地のことを、百済は臣下の国と言っていたのに、
日本が分け与えるというのだから、本来は日本領だったということになる。

ここでの「臣下」とは百済自身をさす。
百済が日本の臣下の立場にあるということだ。

そして、日本は百済が望んでいない滞沙も付け加えて与えると宣言した。

露骨な百済寄りの政策を新羅や伴跛の使者に告げたのだから、
伴跛国が心穏やかなはずはない。

伴跛国はただちに新たな使者を日本に送り、珍宝を献上して
己汶を与えてくれるように願った
が、日本はそれに応じなかった。



どうだろう。
初めて知る国の名と人の名ばかりで、理解が大変だ。
しかし、この流れを読んでいるうちに、
磐井の乱への流れに矛盾があることに気づいた。
頑張って読み進めよう。



ついでにメモだ。
穂積押山は百済本紀では「委」の「意斯移麻岐弥」と書かれている、とある。
押山の『日本書紀』では「日本」と書いているが、百済では「委」だ。
倭国と日本の並立時代だからだろうか。
中国との外交が全く書かれていない点も含めて押さえておきたい。



これが「古墳時代」だ。
「馬上の武人」の環境を知るために、あと少し、読んでいこう。







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by lunabura | 2016-02-07 21:15 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人5任那四県を百済に与えてしまった


馬上の武人5
WAKIMIKO
任那四県を百済に与えてしまった

 
西暦512年。
穂積臣押山は任那の哆唎(たり)国守だった。
百済に派遣された時、筑紫国の馬を四十頭を土産にしたことを前回書いた。

四十頭もの馬を乗せる為には船は何隻いったのだろうか。
どこから出発したのだろうか。
船を出したのはどの海人族か。
筑紫の歴史を再現するためには、これらを一つ一つ考察する必要がある。

前回、この馬の産地は福津市の渡半島を中心とした
「高田牧」だろうと推測したが、
そこには京泊という湊があり、馬を輸入して育てたという伝承も残っている。

言い換えれば、京泊は外洋船が入港できる湊だから、
そこから直接、馬を船に乗せたかもしれない。
ただ、これは単なる私の推測以上のものではない。

しかし、歴史が筑紫以外の何処か他にあるという刷り込みを排除するには
積極的に推論を出し合う必要があると思う。

神功皇后の時のケースを考えると、今津湾、唐津湾もまた外洋船が泊まれる。
その近くに牧が見つかれば、新たな候補地が出てこよう。
そんな活発な意見交換が必要な時になっていると思う。



さて、穂積臣押山の話に戻ろう。彼は物部系だった。

押山が百済に行った年の末、12月に百済が朝貢してきた。
そして、こともあろうに、「任那国の四県を与えてくれるように」と
書いた文書を持ってきた。

押山も一緒に帰国したのか、それに口添えをした。
その理由は、「任那の四県は百済に近く、日本からは遠い。
百済に合併するのが最上な政策で、現状のまま百済と別国だったら守れない」
というものだった。

そんな理由がまかり通るのかと、理解に苦しむが、
大伴大連金村はこれを聞いてはかりごとをして
継体天皇に奏上した。



これがいわゆる「任那四県割譲事件」だ。
任那を百済に無償譲渡したという、
現代からは考えられない大事件が起こった。

この事件から、継体天皇は傀儡(かいらい)であり、
決定権は金村に存するのがよく分かる。

百済への譲渡が決定し、文書が作成された。

物部大連麁鹿火はその文書を伝える使者に任命された。
百済の客は難波の館にいた。

麁鹿火が出発しようとすると、妻が引き留めた。

「住吉大神が高麗、百済、新羅、任那らを誉田天皇(応神)に授けたあと、
母の息長足姫姫(神功皇后)が武内宿禰と共に、
官家(みやけ)を国ごとに設置したというのに。

それを裂いて他国に与えたら後の世までそしりを受けます」

麁鹿火は、「理屈はそうだが、勅命には逆らえない」と返事すると、
妻は仮病を使うようにとアドバイスをした。

麁鹿火は妻の進言に従い、別の者が文書を持っていった。

こうして、紙切れ一枚で任那の四県が百済に譲渡された。
大伴金村と穂積押山は賄賂(わいろ)を貰ったという噂が立った。

この四県の名は「任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県」
(みまな国のおこしたり・あろしたり・さだ・むろの四つのこおり)
と『日本書紀』にある。

ここに例の十数基の前方後円墳が造られていた。
そして、割譲されたあとは、ぱったりと造られなくなった。

任那に赴任していた筑紫や豊、火の国からの豪族たちは帰国したのだろう。

このことを、考古学者(韓国・朴氏)は、
あたかも倭の豪族たちが百済の配下にあるように書いていた。
そうではなかった。
そこは任那だった。
「任那」ときちんと書くべきだった。


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by lunabura | 2016-02-06 21:18 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人4 大伴金村大連 筑紫馬40匹


馬上の武人4
 WAKIMIKO
 大伴金村大連 筑紫馬40匹


金村大連が推した武烈天皇の在位はわずか8年だった。
しかも、子供がいなかった。

金村大連は天皇探しをする。仲哀天皇の五世孫の倭彦王を推挙した。
丹波まで迎えに行ったが、武装していたので倭彦王は恐れて姿を隠した。

金村大連は続けて男大迹(をほど)天皇を推挙する。継体天皇のことだ。
別名は彦太尊。継体天皇の名称を使おう。

継体天皇は誉田天皇の七世に当たる。
誉田天皇とは応神天皇のことだから、仲哀天皇と神功皇后の末裔で
天皇家の血筋ということになる。

金村大連は一応、物部麁鹿火大連許勢男人大臣らと協議する形を取るが、
実質的には独壇場で、麁鹿火大連たちは言われるがままだった。

金村大連は天皇の鏡と剣も預かっていて、継体天皇に奉っている。
手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に推挙したのも金村大連だった。

大伴金村大連は軍事力で他の豪族をしのぎ、政をほしいままにしていた。
天皇を推挙する実権を持ち、皇后選びも思うがまま。全盛期を迎えていた。

大伴氏の拠点はずっと古代には佐賀の吉野ヶ里遺跡の近くに
あったことを思い出す。
佐賀平野から玄界灘に抜けるルートも掌握していた痕跡があり、
武寧王が唐津で生まれたことが、
大伴氏の存在を抜きには考えられないようになってきた。

麁鹿火大連はひたすらイエスマンになっていた。



継体天皇即位後の体制が落ち着くと、
『日本書紀』は再び朝鮮半島の事情ばかりを書いている。

継体天皇3年2月、日本から使者を送った。
任那にあった日本の県邑(あがたのむら)に逃げ込んでいた百済人を調査し、
三、四世に遡って百済に送還した。



継体6年4月、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣する。
この時、筑紫国の馬を四十匹、百済に与えた。

馬が四十匹だ。すごい数だ。
しかも、筑紫の馬だ。筑紫の何処に牧があるか。

一番の候補はやはり福津市の渡半島だろう。
そこを中心として、宗像市に掛けての海岸線沿いに「高田の牧」があった。

過去記事に書いている。

渡の牧跡 わたりのまきあと 神代に放ち給う馬の牧跡
http://lunabura.exblog.jp/16445440/


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この「高田牧全体」では1300頭の成牛馬がいた時期があるという。



この牧を掌握していた筑紫の長は誰か。当然ながら磐井君だ。
ここ津屋崎は九州王朝の末裔たる宮地嶽神社関連の領地だった。

この四十頭の馬を運んだ穂積臣押山は饒速日の末裔。すなわち物部系だ。
朝鮮半島の南にあった任那諸国の中の哆唎国(たり)の守(みこともち)だった。
この男はのちに問題を起こす。

この継体6年は西暦では512年。

百済王の末多王が廃位されたのが502年のことだと書いたが、
この末多王を任命したのが日本だった。それが479年のことだ。

この時、百済王の任命権を日本が持っていた。

国王となすべく、末多王を日本から送り届ける時に、
筑紫の軍士が500人も護衛して海を渡った。

この筑紫の軍士派遣から筑紫馬贈与にかけての時代こそ、
百済に前方後円墳が築造された時代(5世紀後半~6世紀前半)と重なってくる。

「百済」と書いたが、そうではなかった。
そこは「任那」(みまな)諸国の一部だった。

あの古墳群は任那に赴任していた筑紫の豪族たちが眠っていたのだ。

以下は過去記事だが、まだそこが任那だとは知らないで書いている。
百済の前方後円墳
http://lunabura.exblog.jp/i189/



これは、某考古学者(日本人)が百済として講義したのを鵜呑みにして、
そのまま百済と考えてしまっていたことに、今気づいた。







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by lunabura | 2016-02-05 19:24 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(6)

馬上の武人3 百済の武寧王


馬上の武人3
WAKIMIKO
 百済の武寧王


物部麁鹿火
(あらかひ)の娘婿は大伴金村(かなむら)に殺された。
この二人の武将がのちに力を合わせて磐井君を滅ぼすことになる。

それに至るまで、どのような経緯を辿ったのだろうか。


麁鹿火の娘婿は平群(へぐり)の息子、(しび)だった。
金村が鮪を殺したとはいえ、それを命じたのは武烈天皇だ。

影姫は武烈天皇の物になったのだろうか。
その後のことは書かれていない。

武烈天皇は金村の勧めで即位したが、
皇后には春日郎子(いらつめ)を迎えている。




さて、『日本書紀』には武烈天皇の時代の「百済からの朝貢」が書かれている。

今回、確認したいのはこの「百済との関わり」だ。
何故なら、先々、大伴金村は百済政策で大失態をしでかすからだ。

鞍橋君百済王子と共に新羅と戦うようになった背景も確認せねばならない。



『日本書紀』から抜粋する。

武烈3年11月、百済の意多郎(おたら)が卒(しゅっ)し、高田丘に埋葬された。
―「卒」からは身分が高かったことが分かる。

武烈4年、百済では末多王(まったおう)が暴虐無道のために廃位され、
嶋王が即位した。これを武寧王(むねいおう)という。
—武寧王は唐津で生まれた。あとで詳述する。


武烈6年10月
、百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢してきたが、天皇は長年朝貢しなかったことを理由に留めて帰さなかった。


武烈7年4月、百済王は斯我君(しがきし)を派遣して朝貢した。
文書で「先の使者、麻那は王族ではなかったので、
斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と伝えた。


武烈8年12月、天皇は崩御した。



以上、百済との関係の部分だけを書き抜いたが、
百済は日本に朝貢する立場にあることが分かる。

他の国との交渉は全く書かれていない。
もちろん中国との交渉も書かれていない。

また我が国は「倭国」ではなく「日本」と表記されている。

百済の朝貢記事が並ぶ中、武烈4年の「武寧王の即位」の記事が目立つ。
この武寧王は先述のように唐津で生まれた嶋王だ。

この嶋王誕生については、雄略天皇の所に書かれている。

<百済が献じた池津媛が天皇に召される前に他の男と通じたために殺された。

それを聞いた百済王・加須利君(かすりのきし)は「女はもう貢がない」と言って、
自分の弟、軍君(こにきし)に日本に行って天皇に仕えるように命じる。

軍君は承諾したが、王の妻を自分に与えてくれるように願った。
加須利君は妊娠している妻を与えた。
「臨月なので、途中で出産したら、母と子と一緒に帰国させてくれ」と言いながら。

6月1日に筑紫の各羅嶋で出産したので、「嶋君」と名付けて帰国させた。
「嶋君」が武寧王である。>

これを読むと、感想に困ってしまう。男女の問題は人それぞれだ。

今回のテーマは「百済の武寧王が日本で誕生した」ということを
確認したかったのだが、状況は意外だった。
こんな説明、某博物館に書いてあったっけ?
かなり表現を変えていたね。



さて、この嶋王の誕生の記事は近年まで疑われていたらしい。

「筑紫の各羅嶋」とは「唐津の加唐島」(かからじま)のことで、
その浜の名は「オビヤ浦」と伝わっている。
http://www.saga-shima-show.jp/kakara/

そして1971年、韓国では王墓が未盗掘の状態で発見された。
墓誌から、『日本書紀』の記事が正しいことが証明され、
韓国の『三国史記』の記述も正しいことが証明されるという稀有な例となった。
(もちろん、それぞれに異説はあるが)

しかも、王と王妃の木棺は日本にしか存在しない高野槙だったという。

韓国の観光サイト(日本語)
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3149
を見ると、その黒い漆塗りの美しい木棺は何故か出ていない。


邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/buneiou.html
が詳しい。



このサイトによると、高野槙の棺の説明の日本語版はないが、
英語版があり、そこにはその説明が書かれているという。
お国柄が伺えて面白い。


この武寧王陵の発見により、日本と韓国の史料と出土物が一致し、
武烈天皇4年は西暦502年と証明された。


磐井の乱は527年。あと25年だ。
磐井君ももちろん活躍していることだろう。





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by lunabura | 2016-01-30 22:27 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

船原古墳の被葬者は筑紫君磐井・葛子の一族か


船原古墳の被葬者は
筑紫君磐井・葛子の一族か


古賀市谷山で発見された前方後円墳の側の埋納坑。
そこに埋められていたのは馬具だけでも六領。
一領の一部だけ、新羅のデザインが見られますが、新羅製かどうかは不明。
その他は倭国製だろうとのことです。


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馬具の一部は土の表面に姿を見せた時から黄金のきらめきを発していました。

この「船原古墳」は6世紀末~7世紀初めに造られたといいます。
埋納されていた国宝級の宝物の数々は誰のために奉納されたのでしょうか。

今回はその被葬者像に迫ってみようと思います。
その手掛かりの一つとして、同時代、同じ古賀市美(み)明(あけ)にあった屯倉(みやけ)「鹿部(ししぶ)田淵(たぶち)遺跡」の存在が挙げられます。

この遺跡の重要性は6世紀前半に起こった「磐井の乱」(527年)が関わってきます。

継体天皇に新羅攻撃を命ぜられた筑紫君磐井はなかなか出兵しませんでした。
継体天皇は朝鮮半島からの貢物を横取りしているという言いがかりも付けています。

磐井君は継体天皇の派遣軍と戦ったのですが滅ぼされ、その子・葛子君は連座を恐れて「糟屋の屯倉(みやけ)」を差し出しています。その候補地とされるのが「鹿部田淵遺跡」です。

この遺跡と船原古墳は花鶴川~谷山川という一つの水路で結ばれています。船原古墳の被葬者はこの屯倉の経営に深く関わっていたと考えられます。





被葬者の生きた時代はどんな時代でしょうか。


この時代は朝鮮半島では新羅(しらぎ)が拡大していて、任那(みまな)が滅び、百済(くだら)も危うい状況にありました。百済は何度も筑紫勢に援助を頼んでいます。



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葛子君の子・鞍(くら)橋(じ)君(鞍手郡)が百済王子・余昌と共に戦って王子を助けてもいます。福津の宮地嶽では同じく葛子君の子である勝村(かつむら)・勝頼(かつより)が活躍していました。

古賀市美明の屯倉にはおそらく武器が格納され、この戦いに貢献したと思われます。




一方、被葬者の祭祀環境も手掛かりとなります。
古代より、氏族は自分たちの氏神を祀っていたからです。

被葬者はどこで神祭りをしていたでしょうか。すぐ近くにあるはずです。

船原古墳は舌(ぜつ)状丘陵地帯の突端に築造され、その奥に鎮座する小山田斎宮を守るかのようにみえます。距離はわずか500m。

この古賀市小山田の斎宮(いつきのみや)の始まりは西暦200年。
仲哀(ちゅうあい)天皇と神(じん)功(ぐう)皇后の時代に遡ります。




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仲哀天皇は香椎宮で天下を治め、同市の皇(おう)石(いし)神社の鎮座する鹿部(ししぶ)山から船の軍事訓練を眺めたといいます。

その船はすぐ近くの安曇(あづみ)族の船です。ここは古代の阿(あ)曇(づみ)郷と考えられます。

しかし、天皇は突然崩御しました。神功皇后はその死の原因を知るために小山田に行って神々に尋ねたと『日本書紀』は語ります。

誰が土地勘の無い皇后を小山田まで導いたのでしょうか。

皇后は見知らぬ土地に導かれる時、その人物に全幅の信頼を寄せていたはずです。
その人物はやはり当地の安曇族だと思われます。
その境内には志賀三神も祀られています。綿津見の神ですね。

その末裔が船原古墳に眠ると考えるのが自然です。



安曇族は初代天皇の神武(じんむ)天皇の祖でもあります。その末裔でもある神功皇后が安曇族の船に乗って新羅を討ったのが、いわゆる三韓征伐です。

しかし、戦勝後も新羅との軋轢(あつれき)は400年続き、倭(わ)国は百済と共に新羅と戦うことになりました。

ただ、聖徳太子の派遣した征新羅大将の来目皇子は糸島で亡くなっています。それが603年のことです。船原古墳の被葬者もこの前後に亡くなっていると思われます。

船原古墳の被葬者はこの戦いに貢献していたと思われます。

被葬者が亡くなったあと、各地から宝物が届けられたと思われますが、すでに古墳の入り口が封じられていたために、そばに丁寧に埋葬されたと考えています。

以上から、船原古墳の被葬者は安曇族の一員で、その副葬品のレベルの高さからは磐井・葛子君の一族の可能性が高いと思われます。 




参考 『神功皇后伝承を歩く』掲載神社
24番 香椎宮
25番 皇石神社
36番小山田斎宮

下巻
69番 宮地嶽神社
71番 志賀海神社
72番 志式神社






赤 船原古墳   青 小山田斎宮




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by lunabura | 2015-10-15 20:06 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


高句麗壁画(1)
八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


今日は高句麗の装飾古墳壁画です。
その中に八咫烏がいくつか出ていたのでそれを紹介します。
ヤタガラスーそう、日本サッカーのシンボルマークです。三本足が特徴です。
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この絵は「日神・乗鳳凰図」です。
「太陽神が鳳凰に乗っている図」という意味なので、左右の人物の乗り物を見てみましょう。
左は龍ですね。右側は鳥です。ですから右の方が日神です。
この日神は笛を吹いています。ヘアースタイルを見ると男の神です。
高句麗の太陽神は男の神です!
中央の円を見るとカラスがいます。
羽根を広げて、笛の音に合わせて舞っているかのようです。
そして、足を見ると、三本だ…。ホントにこれは八咫烏です。

この古墳は「輯安(しゅうあん)5塊墳4号墓」と言い、
中華人民共和国―集安地方にあります。6世紀の古墳です。
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「日神・月神図」これは同じ輯安5塊墳の5号墓。
男女の神が舞っています。八咫烏を頭上に差し上げているのは男神です。
左が月神で女神です。神さまらしく衣の袖が羽根です。
とても軽やかな描写で、自由な筆遣いに驚きます。

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「舞踏神」これも同じ5号墳です。
朱雀か鳳凰に乗って天女が踊っています。
その向こうに八咫烏の足が三本だけ見えます。なんだか大胆な構図ですね。
八咫烏の顔は見る人の想像にお任せ。なんだか嬉しそうな顔が浮かぶんですけど…。
鳥や天女の躍動感がすごいです。

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真坡里(しんはり)7号墳
これは少し時代が後で、6世紀後半の金メッキの銅の透かし彫りです。
中央の円の中を見てください。鳥がいて三本足です。
また上の方にも鳥が彫られています。
下に帯があるので、冠ではないかと言われています。

これら4点の八咫烏は6世紀のものです。日本とはどう関わりがあるのでしょうか。
6世紀だという事は日本も古墳時代に入っています。
日本での八咫烏の話は、神武天皇の時に出て来ていて、道案内をしています。
日本の神話はずっと古いです。
ですから、この高句麗古墳からの日本への直接の影響は考えられません。

それでは二カ国に八咫烏が伝わっているのは何故か?と考えると
もっと、前の時代に八咫烏の伝承があったと想定できます。
検索すると「三本足の烏」の思想は中国で生まれていました。
すると、こういうストーリーが出来ます。

中国辺りに八咫烏神話を信奉する氏族がいて、北部朝鮮に辿り着いた。
その一部は南下して日本まで辿りついた。
北部朝鮮に残った人たちはそこで高句麗の建国に関わって栄えた。

では、その人たちはどんな氏族だったのでしょうか。
そのヒントが同じ古墳(5号墳)に描かれていました。

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「燧(ひうち)神と鍛冶(かじ)の神」
左の神は火打ちの神です。右は鍛冶の神。
これから、この八咫烏を信奉しているのは鉄の民族である事が分かります。
この高句麗の装飾古墳に埋葬された人は、八咫烏をトーテムとした鉄の民です。

一方日本では「八咫烏は賀茂氏の祖」だと言われています。

賀茂氏については真鍋大覚氏の本にいくつか記述があるので、
言葉を補いながらまとめて見ました。
南冠座(コロナ アウストラリス θ)
賀茂の氏族は、日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、
むしろ百姓の鋤鍬(すき・くわ)の方を主としていた。
その祖が来た時代を考えると、海幸山幸の時代に釣り針が出てくるので、
そのころには渡来していたはずである。
「冠座」を「かまのほし」とも言うが、この起源は鎌の形の半円形から由来する。
鎌の形は当時の舟の形にも似ていて、それで水を渡る時には、
葦草を切り払いながら漕がなければならない。
そんな沼沢池を渡って来た氏族・北方系の胡人が賀茂氏である。
彼らが鉄を作る時、片目で坩堝(るつぼ)火の色を見ていたので、
冠座には要目星という名もついていた。
坩堝の底の反面に析出した金銀の粒を星の配列にみたてていたともいう。

鳩座 (コルンバ β ウズン)
烏鵲は干潟の冠水の有無遠近を見定める鳥として、
昔は旧約聖書のノアの洪水の神話の時代から知られていた。
縄文弥生の祖先は烏鵲と共に干潟の開拓に努めて来た。
神代には賀茂の氏族は八咫烏を伴として日々をすごしていた。
今、肥前にすむカチガラス即ちカササギは
まさにその生きた化石というべきものである。
有明の干潟にいるムツゴロウをカチガラスは餌としていたが、
干潟が稲田と変わった今日では全くムツゴロウとは無縁になった。
干潟が陸地化するまでに3500年の以上の歳月がかかった。

タタラで鉄をつくる賀茂の氏族は火勢を見つめる仕事をするようすから、
「隻眼一目の神」と崇められて来た。

賀茂の星
『淮南子』などには大陸の西北方、或いは北方、さらには東北方に
一目国があったと語り伝えている。
「一目」を高麗の古語でカナムリと言う。一目は「タタラの神」となった。
常に高温の金属蒸気を見るために視力保護の目的で片目をつぶって
物を眺める習慣が身についている工人の氏族の事である。
福岡県那珂川ではこれを称して「八丁様」と言い、
京都山城では「加茂の神」と崇め奉った。

天智天皇は662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、
筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「背振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に
生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。
そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。
これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。
玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。
ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を
模した品にほかならないのと同じです。
これはあちこちにあった文章を集めました。

これをまとめてみます。
有明海が陸地化する3500年以上前に賀茂氏は八咫烏を連れてやって来た。
当時は葦原だったので、船を進めるには鎌で葦を払いながらであった。
その時の鎌の形が「冠座」の形と同じなので、「かまのほし」と名付けていた。
また、当時の船の形は三日月のように両端が上がっていた。
八咫烏には干潟が陸地になるかどうかを見極める力があったので、
賀茂氏はそれを連れていた。
賀茂氏の出身地は「一目国」で、中国大陸の北西から東北にあった。
「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、
閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからである。
それを、筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言った。
「賀茂神社の葵祭」の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、
天智天皇がご覧になって、京都でも真似をして始めたことにある。
葵祭は京で神社と共に栄えているが、
ルーツの方では寂れてしまって、忘れ去られてしまった。

この話は高句麗と日本と両方に八咫烏が伝わっているのを
よく説明してくれていると思いました。

古事記では神武天皇を助けるために天から八咫烏が使わされています。
その続きを読むと、地下で働く不思議な人々と出会って行きます。
これは、鉄の民の描写だと思っています。
神武天皇も鉄の民の協力を得て、力を付けていった事が婉曲に描かれています。
(⇒神武天皇
そしてこれが日本のサッカーのシンボルマークになりました。古くて新しいヤタガラスです。

参考文献
『高句麗文化展』 高句麗文化展実行委員会 (写真転載)
『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』 真鍋大覚 那珂川町発行



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by lunabura | 2015-08-10 08:10 | 高句麗壁画・八咫烏 | Trackback | Comments(10)

金星の和名(4)三本足…鼎と八咫烏の謎


金星の和名(4)
三本足…鼎と八咫烏の謎

今回は難問なので、皆さん一緒に謎解きして下さい。
金輪星 かなわほし
羽白星の別名を金輪星という。日の中に三つ足の烏が紅唇火をはき、以て世界を照らすと信じており、これを象徴して日暦を掌る天子の祭器としました。
どうですか?
「太陽の中に三つ足の烏がいて赤い口から火を吐いて世界を照らす」って
八咫烏の事ですよね。
それを象徴したものが「太陽暦をつかさどる天子の祭祀用の器」だというのです。
天子といえば中国です。中国の器で三つ足と言えば鼎(かなえ)です。
すると、殷の鼎は八咫烏と同じように世界を照らすという天子の象徴?

鼎―かなえーかなわー金輪と変化して、金星を金輪星と呼んだ氏族がいたとなります。
これを氏は金星と書かずに羽白星と書いています。
氏は何を言いたい?

ここで思い出す絵があります。高句麗壁画です。
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写真は中国にある高句麗壁画「集安5塊墳4号墳」の壁画に描かれた八咫烏です。
円は太陽です。太陽の中の黒い烏とは黒点の事です。黒点は飛鳥とも呼びます。


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これは同じ壁画の「燧(ひうち)の神」です。右手に火を持っています。
ヘアースタイルから女神だと思っています。その顔は兵馬俑で見かける顔に近いですね。

近東では火の加減を未婚の女性が扱う事になっていたそうです。
オリンピックの採火の儀式で神殿の女官が行っているのもその名残です。


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これは鍛冶の神。
右手に金づちを持って鉄の道具を作っています。
髪を頭頂でまとめるのは男性のヘアースタイルです。
この古墳の被葬者は「八咫烏と鍛冶の神々」を信奉している氏族だと分かります。
被葬者は6世紀に生きた人です。

それで思い出すのが日本にも八咫烏が神武天皇の時代に出て来る事です。
神武天皇は紀元前の人ですから、八咫烏は日本の方が古い事になります。
その謎については「高句麗壁画(1)」で考察してみましたが、
簡単に書いてみます。

中国の北部に「一目国」という冶金の民がいるので、
その一部が日本にまでやってきて、
残りは地元に留まって高句麗を建国したのではないか。
そうすれば日本の方が古い理由が説明できるのではないかと仮説を立てました。
高句麗壁画(1)
http://lunabura.exblog.jp/15054896/


そして「金輪星」の話に戻りますが、八咫烏に加えて新たに鼎の話が出て来ました。

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鼎は殷の時代のもので、
煮炊き用から権力者の器に昇格しています。

こうして鼎も八咫烏も三本足ですが、
私にはそのつながりが分からないのです。



いったい何だ?と思いながら本を探すと別の部分からこんな文も出てきました。
太陽の黒点、即ちサイゲリヤに移住したケルト民族の三つ趾の烏は、正しく28日の周期で現れることを知っていた。殷人は28日を一ヶ月、一年を13ヶ月と定めた。
殷人は太陽黒点の周期を知っていて、1年を13ヶ月で計算していた!
(マヤンカレンダーと同じですね!)
氏の文が理解しにくいのは、何度か書きましたが、
途中で失明されたために口述筆記になっているためです。
ですから誤植もあって、とまどう所も出て来ます。

この文を読むと三つ足の烏(八咫烏)はケルト民族の象徴となります。
太陽の黒点を指していて、
殷人はその28日周期を観測して暦にしていたという事です。
ケルトと殷人とどうつながるのだろうか?

金星暦と太陽黒点と八咫烏と鼎
ケルト、エトルリヤ、殷の天子、羽白。金工たち。

新たなピースがいくつも出て来たのですが、皆さん、これをどう嵌め込みますか?

新年そうそう、気になる謎が生まれました。
何かアイデアがあれば教えてくださいませ。

さて、金星には他にもたくさん呼び方があるのですが、
また別の機会に学ぶことにして、そろそろ神社の伝承に戻る事にします。

高句麗壁画(1)
http://lunabura.exblog.jp/15054896/





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by lunabura | 2015-05-03 08:32 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(12)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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