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吉武高木遺跡(1)魏志倭人伝から消えた王国


吉武高木遺跡(1)
魏志倭人伝から消えた王国


「ねえ、マーサ。吉武高木遺跡、行ったことある?」
「あるよ。行く?」
「簡単に行けるなら行きたいんだけど」
「帰り道よ。行きましょ」

ということで、伊都国歴史博物館を後にして日向峠を越えて福岡市に出ました。
その途中で見かけたのが、例の破壊中の金武古墳群です。

この日向峠は意外に急勾配で、道も折れ曲がっています。
峠を降りて、まもなくして左折、町中を走って右折すると
広い田園地帯のど真ん中に出ました。
「この辺なんだけど」と記憶を探るマーサ。

ナビをずっと見ていた私は
「あれ?ここ、もう遺跡のど真ん中にいるよ。確かに何もないわ」
と言いながら見まわしました。
教育委員会に尋ねた時の話通りだ。

「前ね、どうしてもここが分からなくて、思いあまって教育委員会に電話したの。
そうしたら、行っても何もないですよって言われたのよ。
でも、何もなくても地形が見たかったから、
で、出土物はどこで見られますかって聞いたら、福岡市の博物館にあるって。
でも、改装中なので今は見られませんって言われた」
その時は縁がなかったんですね。

(るなさん、平気であちこち電話しているようですが、実は何日も調べて、
どうにもならなくなったときに、電話してるんですよ)
一応、シャイなんです ( ´艸`)



で、現地で見えたのが衝撃的な山!

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ガガ~ン。今立っている所は、飯盛山の真東だったんです。
あれは、この遺跡の人たちには神の山です。
朝な夕なこの山を見て暮らしたはずです。
夕陽が毎日位置を変えながら沈み、やがては星々が輝き出すのを見た。

この山の向こうに糸島があります。
右の方に行くと海があり、周船寺に行く事ができます。
前回の神武天皇の家族たちが祀られている宮々はすぐ向こうなのです。

ここは消えた王国。
日本で最古の三種の神器がセットで出土したクニなのですが、
何故か、魏志倭人伝にはその名が出て来ないのです。

魏氏倭人伝では伊都国の隣は奴国。
その間にあって、これほど栄えていたのに名前が消失している。
遺跡もその時代のものは見つかっていない。

「伊都国から陸行1日」と書かれてもよいはずの弥生集落。
卑弥呼の時代には既に国が滅亡していた?
奴国に吸収されたという説もあります。

時代は2200年~2100年前と説明板に書かれていたので、紀元前1~2世紀。
弥生時代前期末から中期初頭だそうです。

現地説明板に写真がありました。

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出土品です。
剣も矛も銅製。これは実用品ですよね、
鏡は銅鏡でつまみが二つもある多鈕細文鏡。朝鮮半島でよく見られます。
勾玉は北陸産。

気をつけなければならない点は、これらが一つの墓から出たのではない事。

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一つだけ三種の神器のセットを持ったリーダー的な人物がいて、
他は一人に一本ずつ添えられていたという点です。
るなとしては、厳格な家父長的な、男性社会を想像してしまいました。
古代日本って母系制なんで、ちょっと雰囲気が違うように見えます。


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福岡市埋蔵文化センターで、撮っていた復元模型。
これが、この吉武高木遺跡のものだとは。ようやく繋がりましたよ。
こんな大型の建物があったんですね。(こんな高床式ではないと言う説もあるとか)
紀元前の話です。」

いったいどんな人たちが住んでいたのでしょうか。

思い出すのは、志賀島で聞いた鹿さんの言葉。
志賀島から見える糸島~福岡を指さして、

「天孫族は武器を持って来たといいます。
彼らは吉武高木遺跡で国を作り、それから東征して行ったと思います。
だから、空っぽになったんです」
そうか、そんな発想もあるのだ。

武器だらけの吉武高木遺跡。
ここに天孫族のクニがあったとすれば、山を越えて伊都国の姫たちと、
あるいは海人族の姫たちと結ばれたと考えることも可能だ。

ニニギの命は糸島の西に上陸して、こちらに拡大したのか。
あるいはここを拠点として西に拡大したのか。

なにしろ、周船寺の湊はどうしても手に入れたい湊だったろう。
戦って侵略しようとしたり、縁結びで平和に和合したり。
そんな事があったかもしれない。

そして、もう一つのアイデアがKさんからメールで。
  「伊都・伊親・伊蘇・五十・イソ・イト
  製鉄するための燃料
  この国に樹木を植えた者
  五十猛
  スサノウノの子
  日向峠
  飯盛神社
  早良の王
  いい流れですね。」
この暗号めいた文を並べて行くと、吉武高木遺跡には五十猛がからんでいる?

何か手掛かりに近くに神社はないか。
そこで、はたと、飯盛山の飯盛神社はどうだ?
とHPから祭神を調べました。

「天孫降臨の砌に天太玉命(アマノフトタマノミコト)が伊弉冉尊(イザナミノミコト)を奉齋するを起源とします。
上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し飯盛三所権現宮と称し
上・中・下宮・神宮寺を設けていました」

なるほど、中宮に五十猛尊が祀られているんだ。

面白いことになってきました。

ここは地図を見ると、室見川の中上流域にあたります。
そこにこれほどの平原があった。
思うのは、あの破壊されている金武古墳群。

真砂土を採取しているという話でしたが、
真砂土というのは樹木が茂っている間は地盤がしっかりしているのですが、
伐採してしまうと、簡単に地崩れを起こしてしまうそうです。

今は青々と茂る山々も、製鉄の為に伐採された時代があるとすると、
山津波が起こってここは洪水原になったはず。
そんな災害があって、消滅した可能性もあるのかもしれない。

山でさえ簡単に消失するのは、古賀市の三上山が二山消えたり、
田川市の香春岳の一の岳が消えたりと、信じられない光景を見て来ました。
福岡市西区からは今は見えない地点ですが、興味を持って監視するべき場所だと思います。


そして、ボロボロの地図を見ていた時、思いがけない書き込みが。
「平群」
へぐり。
そう、ここは和名抄を調べていて「へぐり」と想定した地だったのです。

(つづく)

<このはなさくや姫の里 13>
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by lunabura | 2013-12-29 22:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)

糸島の東に祀られている御毛沼命・神武天皇の家族が大集合



糸島の東に祀られている御毛沼命

神武天皇の家族が大集合



福岡市西区 周船寺



ヒコホホデミ命(山幸彦)は糸島の主要地に祀られ、
大神とも言える存在だったことが分かって来ました。

ヒコホホデミ命は天津神と国津神の縁結びで生まれたのですが、
悩みを抱えて海神・豊玉彦を訪ねました。そこで出会ったのが豊玉姫

二人はすぐに結ばれますが、ヒコホホデミ命は三年経つと自分の国に戻ってしまいます。
懐妊していたことに気づいた豊玉姫は夫の後を追いました。

しかし、何の事情があったのか、赤ん坊を残して自国へ戻って行きます。
その赤ん坊の名前がウガヤフキアエズ命

その事情を神話では、亀の姿に戻って産んだのを見られたからだとありますが、
妹の玉依姫は亀に戻らなかったらしく、何事も起こっていません。

この辺りに隠された裏事情があるのでしょうが、現代からそれを推し測ることは困難です。
(「ワニ」は一般に鰐やサメと訳されますが、るな的口語訳では亀と訳しています。
「ワニ」=バニ・マニ。太占・フトマニのマニ。例:亀の甲の占い)

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玉依姫は姉の子を育て、そして二人は結ばれます。

今日は玉依姫とウガヤフキアエズの命の間に生まれた四人の子の内の一人の話です。
その名は御毛沼命(みけぬのみこと)。

あれこれと書くより、『古事記』を読みましょうね。
(ヒコホホデミ命は古事記ではホオリノ命となっています
玉依姫
 玉依姫は海の神さま大綿津見(おおわたつみ)の神の娘です。
姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいました。

姉の豊玉姫が日の御子のホオリノミコトと結婚してから、三年でホオリノミコトが地上に戻りました。姉の豊玉姫も後を追って綿津見の宮を離れました。子供を出産するためです。

 ところが、子供を生み終えると、姉上は一人で綿津見の宮に戻って来ました。出産するときに本来の姿を見られてしまったために、帰って来てしまったのです。
 姉上はこちらに帰って来たものの、夫が恋しく、また残して来た子供が気がかりでした。そこで、妹の玉依姫が子供の養育係として、行く事になりました。

 こうして葦原の国に行った玉依姫は姉の子のウガヤフキアエズノミコトを育てました。そして、この子が成人すると、二人は結婚をしました。二人は伯母と甥にあたります。

 二人の間には四人の子供が生まれました。
子の名は五瀬命(いつせのみこと)。稲氷命(いなひのみこと)。御毛沼命(みけぬのみこと)。若御沼命(わかみけぬのみこと)です。

 長男のイツセノミコトは一番下のワカミヌノミコトと共に、この国を出て、東に新たな国を作るために出かけて、途中で戦死しました。
 二番目の子、イナヒノミコトは亡き母の国へと海原にお入りになりました。

三番目の子、ミケヌノミコトは波頭を踏んで常世(とこよ)の国に行きました。そこは不老長寿の国と言われています。

一番下のワカミケヌノミコトは別名、トヨミケヌノミコト、またカムヤマトイワレビコノミコトとも言います。イワレビコノミコトは兄のイツセノミコトと共に日向を出て、東に向い、大和を平定して初代の天皇になりました。神武天皇と言います。                 
(古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

『古事記の神々』の方に掲載している分です。

玉依姫の四人の子。
長男の五瀬命と四男の若御沼命は日向を出て東征します。
二人の名は、遠賀郡芦屋町の神武天皇社に揃って出て来ます。

二男の稲氷命は亡き母の国へ行ったとあるので、壱岐対馬に行ったのかと、ふと思いました。

で、驚いたことに、三男の御毛沼命を祀る神社がかつての糸島に二社もあったのです。

飯石神社 周船寺村大字飯氏字大屋敷
    祭神 御食入沼命

三所神社 周船寺村大字千里字石仏
   祭神 天津日高彦火火出見命、豊玉姫、御毛入沼命

漢字表記が少し違っていますが、同じ神です。今回は御毛沼命で統一表記します。

二社の住所を見ると、どちらも周船寺です。
どうして、ここに御毛沼命が祀られているのでしょうか。

近くの神社を見回すと、飯石神社から約2キロの所に産宮神社があります。
そう、今回の糸島シリーズで最初に参拝した宮です。
そこに、祀られていたのは
奈留多姫命 玉依姫 ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊

玉依姫の四男は奈留多姫と結ばれて、綏靖天皇を生んでいます。
綏靖天皇の母にはホトタタライススキ姫という好ましくない名前がついていますが、
これは製鉄の暗号が込められていました。

ふと、ホトタタライススキ姫の名が奈留多姫かもと思ったのですが、
思いつきにすぎません。

産宮神社で推定した系図に神武四兄弟を加えてみます。

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こうして見ると、周船寺を中心に家族が入り乱れるように祀られているのが分かります。

近くには豊玉姫の上陸地と思われる志登神社があり、
歩いて行ける範囲に祀られている妹、夫、子供、孫たち。

このように濃密に祀られているとしたら、
ここに神武天皇の家族のクニがあったと想定できるかもしれません。
それを「日向」と言うのでしょうか。

三男の御毛沼命が糸島に残り、長男が四男と共に東征。
二男は母方の国の跡を継ぐ。

そんなストーリが考えられます。
全く想定外の話が生れてしまいました。

当地はもう少し、時間をかけて調べる必要がありますね。
結論を急がず、じっくりと調べて行こうと思います。



<このはなさくや姫の里>シリーズ 12
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by lunabura | 2013-12-28 20:00 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(5)

糸島 国津神と天津神の戦いと融合


糸島
国津神と天津神の戦いと融合

ニニギノ命と木花開耶姫の分布
一刻も早く結論が見たくて、福岡市広域図に四色の付箋を張り付けることにしました。
付箋を貼ろうとすると、地図には既に神社の祭神がびっしりと。
かつて、自分で沢山書き込んでいました。 (*_*;
地図は折り目が切れてしまい、何度もテープで補修した跡が茶色に変色。
そのテープがはがれたので、今回、また貼り直しました。

   私、いったいいつ、どうやって調べたんだろ。
   かつて、糸島を調べようとしていた頃があったんだ。
   日付を見ると二か月の間に四回も行っている。
   またもや、忘れとったあ…だ。

当時の私は神々の名が覚えられなかったけど、どうしても知りたかったんですね。
でも、何を知りたかったんだろう。
それから、十年以上経って、再び糸島を調べています。

地名がどんどん変わるので、昔の地図は捨てられません。

『福岡県神社誌』には「今宿村」がありました。
今は福岡市になっていますが、かつては糸島郡だったんですね。
糸島郡として考えると、位置関係がようやく理解できるようになりました。

五十迹手はここから船を出して、仲哀天皇を迎えに北九州まで航行しているんです。
今宿村が糸島郡でないと、るなには古代世界が描けないのです。

天津神と国津神
さて、今回のテーマは、四神を色分けして地域的に隔たりがあるか調べることです。
四神とは ニニギノ命(黄色)ヒコホホデミ命(青色)<天津神>
木花開耶姫(ピンク)大山津見命(青の柄)<国津神>
です。

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これがボロボロの地図に付箋を貼ったもの。
どうですか?
黄色が明らかに北西部に集中しています。黄色はニニギの命です。17社。
ピンクがと柄物が東南部に広く分布しています。
木花開耶姫(5社)と大山津見命(4社)です。
大ざっぱに見ると、里と山に分かれています。
ニニギの命信仰の人たちは糸島水道の西側を中心にムラを形成しているのが分かります。
中心は一貴山(いきさん)。
明らかに船を操る人たちです。そこが天津神たちの里と考えられます。

それに対して、大山津見命と木花開耶姫は東と南の山に偏っています。
しかし、その分布がまばらなので、大山津見命の根拠地は
もっと東南の山にありそうな気配です。国津神の里です。

ブルーはヒコホホデミ命。8社。全体にまんべんなく分布しています。
これは『古事記』にあるように、天津神と国津神が縁結びをして、ムラが融合。
その結果、生まれた子が全体に祀られるようになったと解釈しました。

そこで、ブルーのヒコホホデミ命を外したら、天津神と国津神の融合する前の時代が
浮き上がるのではと思って、取ってみました。

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やはり、黄色 対、ピンク・柄が対立しています。
天津神 対 国津神 の構造です。
国津神が山を中心に住んでいて、のちに天津神が海から入って来ているように思われます。
これら四神は志摩半島の北部には全く分布していませんでした。

また糸島水道の南の中央部に分布していないのは、当時まだ干潟だったからと思われます。
そこにわずかにある微高地に弥生の遺跡が残っています。
邪馬台国の時代、糸島の水位は現代より1~1.5m高かったそうですから、
さらに古い時代、海水はかなり奥まで湾入していたと思われます。

細石神社で考察したように、「コノハナサクヤ」も、「イワナガ」も、
あるいは「土で塗り込めた産屋」も製鉄の暗号でした。

そこで、推測したのですが、
国津神はもともと干潟の葦でスズ鉄を生産していたのではないでしょうか。
そこに天津神が良質の砂鉄があるのを発見して入植した。
天津神の方が武力で勝っていて、一時は戦いもあったが、両族は縁結びする事で融合した。

そんなイメージが浮かびました。
宇美八幡宮の麓の縄文村を思うと、国津神とは縄文人のことではないでしょうか。
のちに支石墓の下に縄文人が埋葬されるのも、これなら話が上手く繋がります。


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ニニギの命を祀る神社は17社もあったのですが、木花開耶姫と一緒だったのは、
伊覩神社(いと)だけでした。
そこには、のちに五十迹手が近くの神社から合祀されています。
その場所は高祖山の山脈の北の端です。
東に行けば、もう海です。
この辺りが、二神の縁が結ばれた場所と想定してもいいのかも知れないなあと思いました。

新たな謎
さて、砂鉄の場合は森林を伐採しないと製鉄が出来ません。
志摩半島が一度は丸裸になってしまったのが、地名から分かっています。
Kさんのメールの指摘で気付いたんですが、森林伐採には五十猛の存在が絡んできます。
その神も糸島にはいくらか分布しています。


このほか、祭神の分布を調べていると、
ニニギノ命と菅原神がセットで祀られている神社が8社もありました。
菅原神が祖神の天穂日神と祀られている神社も弐2社ありました。

天穂日神が冶金の神で、道真公信仰の裏には鉄の存在が見え隠れする話は何度かしました。
しかし、この糸島でニニギノ命と強固に結びついているのを見て、
まだ知らない側面があるのだと新たな謎が生まれました。

また、神社の祭神の分布と支石墓や甕棺墓の分布がどう関わるのか、
興味深いテーマも生まれました。
誰か、地元の方、研究してくださいませ ( ´艸`)

そうそう、豊玉姫と玉依姫の分布とか。
スサノオとイソタケルの分布とか。
テーマが沢山ありますよ。

るなさん、さらに新たに気になる事があるので、次回考えます。
それは神武天皇の兄弟の件です。

<このはなさくや姫の里>シリーズ 11
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by lunabura | 2013-12-23 18:26 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(4)

さくや姫とニニギノ命さがし


さくや姫とニニギノ命さがし

前回、糸島のメインの山々にはヒコホホデミ命が祀られているのが分かりました。
今度は平地の神社を調べてみようと思います。
参考書は『福岡県神社誌』。
ターゲットを含む神社だけ、リストアップです。
地味ですね~。

ターゲットは大山津見命、木花開耶姫、ニニギノ命、ホホデミ命

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作業は時間がかかるけど、見るのは一瞬。
論文ではないので、漢字表記はテキトーに変えていきます。

なんと、この時代はまだ村があるんですよ。
人々の暮らしが浮かんできそうです。

( )に入っているのは、合祀したり、境内社だったりします。
ま、合祀したとはいえ、もともと近くにあったものですね。

***

可也村 
志登神社 豊玉姫神、和多津見神、ヒコホホデミ神、息長足姫神、竹内宿禰神
稲留神社 天照皇大神、ニニギ命
若宮神社 木花開耶姫命

元岡村
天降神社 ニニギノ命
太郎丸神社 イザナギ命、ニニギノ命、イザナミ命、埴安命

前原町
天降神社 ニニギノ命
神在神社 ホホデミ命、埴安命、菅原神

今宿村
八雲神社 スサノオ命、櫛稲田姫命、大己貴命、ウガヤフキアエズ命、玉依姫、豊玉姫、大山積神木花咲耶姫神、埴安神

怡土村
高祖神社 天津日高彦火々出見命、玉依姫命、息長足姫命、天照皇大御神、豊受神
細石神社 木花開耶姫命、磐長姫命
染井神社 熊野三柱大神、豊玉姫命、彦火火出見尊 息長足姫命、玉依姫
白木神社 五十猛命(大山祇命

周船寺村
伊覩神社 木花咲耶姫命ニニギノ命、(伊覩県主命) 
三所神社 天津日高彦火火出見命、豊玉姫、御食入沼命

雷山村
雷神社 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇、(級戸辺命、住吉大神、志賀大神)
託杜神社 ニニギノ命、イザナミ命、イザナギ命、埴安命
     (ウガヤフキアエズ命)(ヒコホホデミ命)(木花開耶比売命

長糸村
宇美八幡宮 仲哀天皇、誉田別天皇、気長足姫尊、玉依姫尊、(ニニギノ尊)(大山祇命
熊野神社 イザナミ尊、速玉男命、事解男命、大山祇命
天降神社 ニニギノ命、菅原神、(気長足姫命)、(誉田別尊、菅原神)
川上六所神社 イザナギ命、イザナミ命、(ニニギノ命)、(玉依姫命)、菅原神、埴安天神

小富士村
引津神社 天津日高彦穂瓊瓊杵命、イザナギ命、イザナミ命

一貴山村
天満宮 ニニギノ命、菅原神、(イザナミ尊、速玉男命、事解男命)
宝満宮 玉依姫命、ヒコホホデミ命、(菊理姫命)
天降天神社 天日高彦火瓊瓊杵尊、菅原神
天降天神社 ニニギノ命、菅原神、(速玉男命、イザナミ尊、事解男命)(ニニギ尊、イザナギ孫、イザナミ尊)
八坂神社 スサノオ尊、天照大御神、誉田別天皇、(熊野三所大神)、イザナギ尊、ニニギ尊、イザナギ尊、菅原道真
十六天神社 ニニギ尊、イザナギ尊、イザナミ尊、菅原神

深江村 
天満宮 大日高日古火瓊瓊杵尊、菅原神

***

全部で103社を調べました。
ターゲットを祀る宮がとても多く、結構時間がかかりました。

他の地域をこのようにローラー式で調べていないので、比較が出来ないのですが、
第一印象として、天孫降臨の時代の神々がとても多いと思いました。

イザナギ・イザナミ神が多いですね。
また、菅原道真公を祭る神社も思いがけず、多かったです。
磐長姫は細石神社以外は全くありません。

ターゲットを色分けしました。
大山津見命木花開耶姫ニニギノ命ホホデミ命
色でざっと見渡すと、偏(かたよ)りがありそうですね!(これが狙い)

時代は違いますが、誉田別天皇が意外に多く祀られていて、
雷神社以外は応神天皇とは書かれていなかったんです。
(誉田別天皇と応神天皇は何故か同一人物となっています)

これを見て、糸島には八幡信仰が余り入り込んでいないのではないかと思いました。
言いかえれば、八幡信仰による上書きがされていない点で、
原初のままの祭神が伝えられている可能性が高いということです。

福岡でも東部はずいぶん書き換えられている印象が強かったので、
糸島は古代の姿をよく残しているのかもしれません。

豊玉姫・玉依姫も散見されます。
この女神たちは次世代になるので、今回はターゲットからはずしているのですが、
リスト以外にも数多く祀られていました。
別の機会に調べる事にしましょ。

今回はここまで (;一_一)

この後、地図に分布を色分けして載せてみようと思ってます。

ほら、見るのは一瞬でしたね。 (^-^)



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三坂神社から見える糸島の平野と高祖山

糸島市





<このはなさくや姫の里>シリーズ 10









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by lunabura | 2013-12-21 14:51 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(0)

ヒコホホデミ命が糸島の山にはズラリと


ヒコホホデミ命が糸島の山にはズラリと


コノハナサクヤヒメの子を自分の子ではないだろうと疑ったニニギの命。
そして、二人の間に生まれたヒコホホデミの命

糸島市の中で、その三神の足跡はどうなっているのか、
神社の祭神の分布を調べる事にしました。

ニニギの命のムラがどこかにあるか、
それは神社の祭神の分布の偏りが教えてくれるかもしれないと思ったからです。

まず見つかったのは宇美八幡宮でした。(前回、前々回)


そして、再び高祖山を見ると、そこに祀られているのはヒコホホデミ命。
この写真のピークが高祖山です。


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ピークから左になだらかに稜線がくだっていきますが、この写真の中央辺りが紅葉していました。
赤や黄色と緑が混じり合って、これこそ錦織のようだと思ったんです。
光量が足らずに撮れてませんが (´・ω・`)


その色の美しさから、染井山付近ではないかと思いました!

この時、思い出したんです。あの万葉歌を。

「山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも」(3235番)

(山の辺の 五十師(いそし)の 井戸は 自然と 赤く染まった錦を
張り巡らしたように 紅葉した山にあるよ)

まさに、ぴったりの光景なんですね。

そこには神功皇后がウケヒで鎧を紅く染めたという井戸の伝承がありましたが、
この一画だけ美しく紅葉しているようすを見ると、この万葉歌がオーバラップしてくるのです。

この歌が当地を詠み込んだものだと発見したのは正木裕氏です。
それまでは、伊勢国の歌と思われていたらしい。

この日、11月下旬、ようやく紅葉し始めた山を見て、ますます間違いないと思いました。

これには長歌が続き、糸島の美しい山や里の光景と重なり合ってきます。
それはコチラに。
染井の井戸 ウケヒで鎧が赤く染まった 万葉歌に詠まれた光景
http://lunabura.exblog.jp/17584678/



さて、本題に戻りましょう。

その染井神社の祭神は
熊野三柱大神、豊玉姫命、彦火火出見尊 息長足姫命、玉依姫
でした。ここにもヒコホホデミ命が祀られています。

高祖神社 
祭神 彦火々出見尊、玉依姫命、息長足姫。

で、もう一つ糸島で秀麗な山・雷山。
雷神社
祭神 火雷神、彦火々出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇ほか

じゃ~ん。

糸島で目を引く山にはヒコホホデミ命がずらりと祀られていたことが分かりました。(@_@;)
これは如何なることじゃ?

彦火々出見尊=山幸彦

糸島の山々は山幸彦に上書きされている?
天孫族の勝利宣言に見えてしまうのは邪推でしょうか。


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これは一枚目の高祖山の写真と同じ日、三十分前に撮ったもの。
雷山の頂上は雲の中。

(ヒコホホデミ命が祀られている高祖神社、染井神社、雷神社。
どれも、ガイドブックで紹介しています。
ということは、神功皇后も挨拶・祈願に行った山々なのですね。
案内したのは五十迹手(いとて)のはず)

伊都国が全く別の顔を見せてくれ始めました。


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雷神社、11月中旬のようす。(ガイドブックでボツになりそうなので、こちらに掲載 (+_+))


<このはなさくや姫の里>シリーズ 9





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by lunabura | 2013-12-19 21:19 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(0)

宇美八幡宮(5)支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた


宇美八幡宮(5)

支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた

長野宮ノ前遺跡

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これは宇美八幡宮の一の鳥居からの眺め。大好きなショットです。

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この神社の参道は川から始まるのですが、支石墓はその近くに移設されています。

先日購入した「倭国創生」の図録を読んでいると、この遺跡のことが書かれていました。
「最古の戦死者たち」
(略)
さらに、長野宮ノ前遺跡では24基の木棺墓が主軸を合わせて整然と横並びに埋葬されていて、短期間に埋葬されたことをうかがわせる。その多くには頭部に赤い顔料が塗布され、二基の木棺墓から切先や茎が欠けた石鏃(せきぞく)が出土し、これらも副葬品ではなく体内に残存したまま葬られた可能性が高いと考えられる。
(略)

この遺跡の人たちは日本の歴史の中でも最古の戦死者たちだそうです。
武器は石器。
その切っ先が折れてしまっています。
12号からは刃渡り16.3cm近くの石鏃が出たのですが、
胸に2本、止めを刺すように交差していたそうです。

戦いが終わってムラに運ばれて、丁寧に葬送の儀式をされたのでしょうか、
頭に朱が塗られていたといいます。


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驚いたのは、彼らは木棺に埋葬されていたということです。
しかも、24基が野外墓地のように整然と並んでいます。
この多数の木棺はすでに準備されていたのでしょうか。
木棺って、急に作れるようなものではないですよね。24も。

大量の木棺を加工する技術があり、一般兵(?)にも使用したとなると、
かなり高度な文化があったということになります。

この長野宮ノ前遺跡の時代が書かれていなかったのですが、
前後に紀元前4~500年の遺跡の記述があったので、
これもその時代の物と評価されているのでしょう。
現地説明板では紀元前300年となっています。


この当時、宇美八幡宮は祭祀されていたのでしょうか。

竹内宿禰がここに香椎から棺を持って来て埋めたのが紀元200年ごろ。
その末裔がそのまま留まって祭祀していますが、
この支石墓の人たちはさらに500年以上も前の人たちです。

遡っていく弥生時代
弥生時代は研究が進むにつれて、だんだん古代に遡っています。
かつて弥生時代は紀元前3世紀頃(初期)から始まったと言われていたと思いますが、
もっと早くから稲作をしている遺跡が見つかり始めてから、
今では紀元前5世紀ごろから弥生時代と言われているのではないでしょうか。
(もちろん紀元前10世紀説もあり)

そこで、従来の「初期・中期・後期」という分け方に「早期」が追加され、
「早期・初期・中期・後期」と四時代に区分されているようです。
具体的に何世紀なのかは学者によって違うという問題があり、
一般人には弥生時代が理解しにくくなっています。

中国正史と比較して学びたいとき、このアバウトな分類が、私にとっては大きな壁となっています。
世界に通じるように、「何世紀」という表現をするようになってほしいなと願っています。
あるいは、本や案内板には必ず何世紀と書いてほしいなと思っています。


さて、「倭国創生」に戻りましょう。つづきを読みましょう。

支石墓の下に縄文人が!

このように、糸島地方の早・前期の墳墓では、戦いの痕跡をとどめた墓が多く発見されていることがわかる。糸島地方では、弥生時代初期の戦いの事例が集中していることは従来から指摘されていうところであり、弥生文化が、この地において様々な軋轢の中で根を張り、拡大していったことを物語っている。

しかし戦いの対決軸が、縄文的な旧勢力 対 渡来系新興勢力といった単純なものではなかったことは、先の新町遺跡の戦死者の墓が端的に物語る。

その戦死者は、支石墓に埋葬されていることから、稲作文化を将来した渡来系であるはずであったが、出土人骨から推定される人物は在地の縄文系であった。戦いの本質についての研究は、まだ緒に就いたばかりといえる。


これを読んで驚いたのが支石墓の被葬者の問題。
新町遺跡の支石墓に埋葬されていたのは渡来人ではなかった!
「縄文系の在地人」だったというのです。
この名称、「縄文人」と簡単に言っちゃいけないのかな?(どう違うんだろう)

実は、支石墓と言えば被葬者は渡来人、と当然のように言われることについて、
博物館でも疑問を投げかけたことがあります。
「どうして、支石墓の被葬者は渡来人と言えるのですか?」
「それは朝鮮半島に支石墓が沢山あるからです」
「???」

この論法は一般人には、あまり説得力がないなと思いました。

定説では「文化は半島から日本列島に流れている。逆はない。」
というのですが、どうやって証明されたのだろうかと常々疑問を持っていました。

『日本書紀』を読むと、倭人が何度も何度も朝鮮半島に渡っているので、
だんだん違和感が出て来たのです。

どれもこれもが渡来人なら、倭人はどこにいる?
そんな疑問、土井ヶ浜ミュージアムでお話しましたね。
(土井が浜は中国の一地方とDNAが一致したらしい)

だから、支石墓の下には縄文系在地人が埋葬されていたという結果には得心が行きました。

天津神と国津神
コノハナサクヤ姫は国津神、ニニギの命は天津神。
そんな二人の出会い。
一夜を契っただけで、同居していなかったという状況からすると、この糸島に、
国津神のムラと天津神のムラがそれぞれあったと考えられます。

両族は戦いや通婚などいろんな形で融合して行った。
だから、本に書かれた、糸島での「戦いの対決軸が、
『縄文的な旧勢力』対『渡来系新興勢力』といった単純なものではなかった」
と書かれていた点にすごく納得しました。


あの細石神社三雲南小路遺跡を祭祀した施設で、その墓に埋葬された王と王妃が
地元で言われるようにコノハナサクヤ姫とニニギノ命の墓だとすると、時代はいつか。
墓の年代から割り出す事ができます。

それは前述の本では「弥生中期」となっていました。
いったい何世紀だろうか。
こうして るなの思考はストップするのです。
(一説では金印・西暦57年より少し前らしい)
キリストの時代?

大山津見一族はその時代に糸島にいたと仮定することになります。
(るなには、さくや姫とニニギノ命が一緒に埋葬されている気がしないので、
三雲南小路遺跡には大山津見命が祀られていると今のところ仮定しています。
しかし、大山津見命はもう少し古い時代の気がする…)

一方、天孫族は福岡の中だけで考えたら、南から北へ移動しているように見えます。
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というのは、系図を見ると、天孫族は最初に高木の神一族と通婚していますが、
高木の神といえば、高良山周辺や英彦山周辺が中心でした。
天の忍穂耳は英彦山や宝満川沿いに祀られています。

その後、糸島の大山津見一族、志賀島・壱岐島の綿津見の神一族となると、
北上しているように見えるのです。
これは、今までのイメージと正反対なので、とまどっています。
どうなることやら。

糸島の遺跡の中に、あるいは神社の伝承に、
コノハナサクヤ姫とニニギの命の時代を再現できるのでしょうか。

神話でなく歴史を求めて、この美しい伊都国をもう少しさまよいたいなと思うのでありました。


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(宇美八幡宮)

地図 宇美八幡宮 細石神社








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by lunabura | 2013-12-17 21:59 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(2)

このはなさくや姫の里


このはなさくや姫の里


今、伊都国から木花開耶姫に関するものを調べ始めた所です。
記事を書く時間がとれませんが、少しずつ続きを書いて行きたいと思っています。

細石神社から始まったこのテーマですが、カテゴリ分けではたと困りました。
基本は神社の名前でさっとサイドバーから入れるようにしているのですが、
これから先、あちこちの神社を取り上げる事になるので、
シリーズとしてネーミングすることにしました。
先日、胸に浮かんだ言葉は「このはなさくや姫の里」。

伊都国とコノハナサクヤ姫の組み合わせは想像したこともなく、
今だに不思議でしかたがないのですが、
どんな伝承が育まれたのか、時間をかけて見て行きたいと思いました。

そんな折。
本日は、三人からこれに関する話があったので、びっくり。
イニシャルを使って紹介しようとしたら、三人ともKさん。 (+_+)
K1,K2,K3とすることにしました。

K1さん。
ニニギの命の神社をメールで教えて下さいました。
神社に呼ばれるという方で、先日もニニギの命の神社に呼ばれたとか。
私もチェックしていた神社なので、いずれ参拝したいと思います。

K2さん。
糸島の各地に巨大な磐座がいくつかあって、地元の人たちに忘れ去られていると
電話がありました。
私の方から「細石が砂鉄で、木花開耶姫の土の産屋がカマドを象徴している」
という話をしたら、宝満山の話になりました。
宝満山はもともと竈門神社というのですが、桜の紋だそうです。
玉依姫が天武天皇(?)によっ上書きされる前には大田姫が祀られていたらしい。
この辺り、少し調べる必要が出て来ました。
K2さんは木花開耶姫とニニギノ命が結婚した宮も知っていて、
案内して戴きたいと思っていた矢先の電話でした。いずれ探査してきます。

K3さん。
夢でニニギノ命と木花開耶姫の名前をそれぞれ別の日の夢で教えられていて、
その二神が夫婦と後で知ったそう。
るなに勧められて夢日記を付けるようになって、初期に見たのが木の太鼓橋のある神社。
あとで伊勢神宮と判明。念願かなって参拝。
その後、三輪山と出雲の夢を見せられているので、三輪山に行く予定だと。
「剣」と「みづち」の夢を見せられています。


この共時性をどう解くか。

思うに、筑紫の伝承は日本の始まりの歴史に関わるんだけど、
上書きされたりして、本来の神々の歴史が封じ込まれていて、
今、それが明らかになろうとしているのではと。

時間がかかっても、糸島の探査はやってこうと思います。

記事の分類は従来通り、神社名とか、遺跡とかに分けて行って、
<タグ>機能を利用して、
<このはなさくや姫の里>シリーズとか、
<欠史八代>シリーズとか、通して読めるようにしたいと思います。
(ただし、ぼちぼちと整理します …)

今日の記事は「にっき」に入るかな…。



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(細石神社の神木)


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by lunabura | 2013-12-14 23:52 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(2)

細石神社(6)ニニギの命を探して、再びの宇美八幡宮・気比大神・天日鉾


宇美八幡宮(4)

ニニギの命を探して、再びの宇美八幡宮
気比大神・天日鉾

再び、伊都国に戻って来ました。

磐長姫木花開耶姫の姉妹神が細石神社辺りに住んでいて、
その皇子・彦火々出見命が宮の傍で生まれたとしたら、
夫君のニニギの命の宮はいづこ?

あの高祖山にその名が無いので、伊都国の他の宮から探してみることにしました。

取り出したのは「神功皇后伝承を歩く」の原稿。
自分で自分の本を参考にしたのですが、これが一番便利 (・.・;)
手前味噌というやつですな…。
(あと少しで皆様のお手元にも…)

それで近場(ちかば)を探して出て来たのが宇美八幡宮
むむ。ここか…。

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宇美八幡宮は福岡には二社あって、応神天皇の生誕地とされる宇美町の宇美八幡宮と
この糸島市の宇美八幡宮があります。
この両者には深い関わりがありましたよ。
ガイドブックにはそんな話も織り混ぜています。


ところがどっこい、この糸島の宇美八幡宮はとても謎が多い。

ガイドブックで100社紹介する中で、99社までは整合性があったのですが、
この糸島宇美八幡宮だけは異なる伝承があって、どこに位置付けたらいいのか
悩んだ宮でもあったのです。

何度か電話でも尋ねて、親切に教えていただいたのですよ。
それでも、謎は沢山残りました。
糸島で、この宮の謎が解ければ、古代史の深い謎が解けると思ったほどの宮でした。

今回、木花開耶姫の夫君の宮探しで、再登場するとは…。

祭神を見てみましょう。

祭神
[上宮] 仲哀天皇
[本宮] 応神天皇、神功皇后、玉依姫、瓊々杵尊、気比大神、菅原大神

当宮は上宮と本宮では祭神が異なっています。

本宮の六柱から八幡神(応神天皇、神功皇后、玉依姫)と、平安時代の菅原大神を差し引くと、
ニニギの命気比大神が残ります。


気比大神と五十迹手
いとて
まずは、伝承が残っている気比大神について。
気比大神は神功皇后の御座船に出現して皇后を援けようと言われた神だそうです。
そして社伝では、気比大神はアメノヒボコとなっています。
(記紀とは違っていますよ)

天の日鉾といえば、神功皇后の祖先にも当たるのですが、
五十迹手(いとて)もまた、その末裔だという伝承が糸島にはあるのです。
いったいどうなっているのでしょうか。

ほかに、神功皇后軍が新羅遠征する間、仲哀天皇の棺が当宮に埋葬されて、
のちに竹内宿禰が掘り出したとも伝えています。
それほど、当宮は皇后や竹内宿禰から信頼された宮なのです。


それに仲哀天皇が近くで急に崩御されたと伝え、
その殯斂(ひんれん)地を占ったことが祭事として残っています。

豆と杯を使うのですが、これは周王朝の祭事を踏まえているのではないかと、
愛読者さんが指摘されました。

これらの伝承や祭事はいったいどう繋がるのでしょうか?
るなにはさっぱり分かりません。
誰か推理してください。

五十迹手は高祖神社を天皇家の祖神として奉斎していたので、
五十迹手自身の祖神を祀る宮はもしかして、こちらではないかとも考えたりしました。

近くの支石墓って関係ないかなあ。

で、今回のターゲット、瓊瓊杵尊の伝承は見当たりません。 (・.・)
(つづく)



過去記事はこちら
宇美八幡宮 http://lunabura.exblog.jp/i178/
宇美八幡宮・糸島(1)仲哀天皇の殯斂地と特殊神事
(2)武内宿禰の子 平群の木菟の末裔が祀る宮
(3)長野宮ノ前支石墓





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by lunabura | 2013-12-11 17:57 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(0)

細石神社(5)「さざれいし」が「砂鉄」なら


細石神社(5)

「さざれいし」が砂鉄なら


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「さざれ石」は「小さな石」ということでしょうが、
どうして木花開耶姫の神社の名に付いているのでしょうか。

「君が代」にも「さざれいし」が出て来ますが、それについて
真鍋大覚が解説していたのを思い出しました。

「さざれいし」とは砂鉄、即ち磁鉄鉱(Fe3O4)の結晶である。これを鉄に還元する名匠が伊迹師(いとし)、或いは五十氏(いそし)、後に万葉の頃は石上(いそのかみ)であった。

「いわほ」とは鉄のことである。鉄が分解して赤鉄鋼(Fe2O3)にサビとなって、苔が吸収されるまでの過程を述べた古歌だった。

しかし、この歌の内容を見る限り、砂礫が地球の造岩作用によって岩石に固結し、ついには風化して塵埃となり、草木に吸収されるまでの過程を説いたことになる。
(『儺の国の星・拾遺』)

「さざれいし」とは「砂鉄」のことだと真鍋は言います。
「いわほ」は「鉄」です。

これを作る名匠を「伊迹師、五十氏、石上」と言ったと伝えています。
             (石上といえば、物部氏ですね)
「いとし」「いそし」は音韻変化したものでしょうが、
あの仲哀天皇(神功皇后の夫君)が伊都国の五十迹手(いとて)を
「いそし」と誉めたシーンが『日本書紀』に出て来ます。

また筑紫の伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました。

そうして、
「私めが、わざわざこれらの物を献上する訳は、天皇が八坂瓊が優美に曲がっているようにあまねく治めて下さいますよう、また白銅鏡のように山川海原を明確にご覧になれますように、そうして、この十握剣を掲げて天下を平定してくださいますようにという意味からです。」と言いました。

天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

仲哀天皇の都だった下関市の豊浦宮を新羅の塵輪が襲撃したために、
天皇たちは佐波(防府市)に疎開していました。

熊鰐三種の神器を掲げて迎えに行きますが、
この伊都国の五十迹手もまた三種の神器を掲げて彦島まで迎えに行きます。

この「三種の神器を掲げる作法は正装」だと和布刈神社の社伝が伝えています。
多くの歴史書が服従の印と勘違いしていますが、「正装」なのです。
(征服した相手の船に乗るほど危険な行為はありませんよね)

五十迹手は仲哀天皇の祖を高祖山で長年祀り続けていたのです。
      (熊鰐も神武天皇の史跡を守り続けていました)
それで、仲哀天皇は五十迹手の口上を聞いて「いそし」と褒めたのです。

「いそし」が「製鉄の名匠」のことなら、
五十迹手が掲げた三種の神器は伊都国で生産されたもので、それを見て、
「名品だなあ、いよお!名匠!」というニュアンスで褒めたと解釈もできます。

「イソ」とは、「アントンイソラ」のイソと同じで、シリウスのようなプラチナ色の輝きを指しています。
まさに白銅鏡のプラチナ色の輝きをも思わせます。

『日本書紀』は五十迹手の国は「イソ国」と言っていたのが、「イト国」に訛ったと言います。
出来たばかりの白く輝く鉄の刀身。白い銅鏡。
そういうメタリックな白い輝きの色が「イソ国」のイメージでもあるのでしょう。


思えば、「木花開耶姫」を三雲村の人たちが「高磯比売神」だと言うことも、
「高磯」の名の中に「イソ」が含まれていて、気になっていました。
この「磯」もまた、金属を思わせる単語だからです。

この時、リンクしている『不思議空間「遠野」』さんがコメントをくれました。
(一部改変)

ところで、木花開耶姫を祀る神社、興味を持っています。

地元(遠野)では桜の木を「樺の木」と呼び「木の華」の意味があります。調べると鍛冶に於いて発生する「火の粉」の意がある事がわかりました。つまり桜の花は火の花でもある。

コノハナサクヤヒメのコノハナも恐らく火の粉だと思われるのは、火中出産を果たした木花咲耶姫は、茨城県の室八嶋神社で竃の神として祀られているからです。この細石神社での木花開耶姫と石長比売の伝承の詳細はわかりませんが、今後の展開を興味を持って待っていますm(_ _)m


製鉄や鍛冶の民は桜の花を見て、製鉄の時の火花を思い浮かべるのでしょうね。

鉄の民にとって、「このはなさくや」が「火の粉」のシンボルだとすると、
「いわなが」は、やはり産物の「鉄」のシンボル。
ですから、「木花開耶姫」の別名を「高磯比売」と呼ぶ可能性は十分にあることが分かりました。

カマドの火を一心不乱に見つめて温度を知ろうとする鉄の民が、
火を神と慕って「コノハナサクヤ姫」と呼び、桜の花と重ね、
のちに一般の人たちに絶世の美女神とされていった過程が思い浮かびます。

二女神の名には鉄の暗号が込められていることになりました。
(ホトタタライススキ姫と似ていますね)

きっと古代の人は、二女神の名前を聞くと、砂鉄を製鉄していた国津神の姫神と分かったのでしょう。

古代は姫たちの本当の名前は秘められていました。
「名前を尋ねる」ということは「プロポーズ」を意味していた時代がありました。
姫の名前を知っているのは、親と夫ぐらい。
ですから、二女神の神名も仮の名で、本当の名前は伝わっていません。


以上から、細石神社は砂鉄を製鉄していた集団の祀る宮ということになってしまいました。
これまでのスズ鉄から砂鉄へと大変革をもたらした技術集団なのでしょう。

この集団を「国津神」とすると、
「国津神の木花開耶姫」と「天津神のニニギの命」の結婚は、
「三雲南小路遺跡を祭祀するクニ」と「天孫族のクニ」の連合という事にもなりそうです。



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これは「ホの一族」というタイトルの記事の所で書いた系図です。
馬見神社でひらめいて描きました。
天孫族が結婚という温和な方法で連合国家を作っているような印象を受けました。

この系図から見ると、細石神社は大山津見命のクニとなりそうなのですが…。
いかがでしょうか。
細石神社が三雲南小路遺跡をも祀っているとすると、
その王と王妃は大山津見命と妃かもしれないと考えたくなります。
あるいは、大山津見命を奉斎する集団。


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(三雲南小路遺跡1号甕棺の出土品)

全く想定外の展開になってしまいました。

今回は、東北の『不思議空間「遠野」』さんと、九州の『ひもろぎ逍遥』が
同時に「コノハナサクヤヒメ」をテーマにしたというシンクロニシティに支えられました。
不思議な思いがします。

それにしても、夫君のニニギノミコトはどこ?
周辺を探してみましょう。

(つづく)




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by lunabura | 2013-12-07 00:15 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

細石神社(4)高祖神社にはコノハナサクヤ姫の皇子が祀られている


細石神社(4)

高祖神社にはコノハナサクヤ姫の皇子が祀られている


細石神社の参道を歩くと、ずっと目に入ってくる高祖山。
参道の正面ではないのに、心はそちらに魅かれます。

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気づくと何枚も写真を撮っていました。

伝承では、コノハナサクヤ姫はこの辺りででヒコホホデミ命を出産したといいます。
そして、そのヒコホホデミ命はあの高祖山の祭神となりました。

再び、奥村玉蘭の『筑前名所図会』を見てみましょう。(るな訳)
佐々禮石の社」(さざれいしのやしろ)
三原村にあり。
この神は高祖大明神の御母という。だから木花開耶姫を崇め奉るのだろう。神体は小石なので「さざれ石」というのだろう。

(三原村は三雲村の誤りでしょう)
「佐々禮石の社」とは「細石神社」のことです。
「彦火々出見尊の御母」が当宮のコノハナサクヤ姫です。

高祖神社
あの高祖山には高祖神社があります。

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祭神は主座に彦火々出見尊。
左座に玉依姫命、
右座に息長足姫です。

息長足姫(神功皇后)が祀られているのは、
皇后がこの社を乾(いぬい)の方角に向けて建立したからと言われています。
神功皇后は五十迹手(いとて)に案内されて、この宮に祈願に来たのです。

五十迹手は代々この神社を守っていたそうです。
神功皇后はこの彦火々出見尊に祈願したということになります。

祭神としての息長足姫の名はこののち追加されたことになるので、
上書きされる前の古い神が存在していたと思われます。

謎の高磯比売神
その古い女神の名がどうやら高磯比売神と思われます。
境内の由緒書に
〈『三代実録』には「正六位高磯比賣神に従五位を授く」〉とありました。

この高磯比売神のことが皆目、分からなかったのですが、
wikipediaの「細石神社」に次のように書かれていました。
この「細石神社」の祭神は「磐長姫、木花開耶姫」である。つまり主祭神は「女神二柱」である。
この事からと、昔は「高祖神社から神輿が細石神社に下る(上る?)」神幸があったという事から、この「細石神社」は「三代実録」に記載された「元慶元年(877年)、高磯ヒメ神に従五位下を授ける」とある「高磯ヒメ神」であると考えられると三雲の氏子は云っている。


三雲村の人たちは、「高祖神社の高磯姫神」とは「細石神社の女神」のことだと言っているんですね。
ですから、高磯姫神とは木花開耶姫を指しているのが分かりました。
(磐長姫も含まれているのかもしれませんね)

しかも、「高祖神社から神輿が細石神社に下る(上る?)」ということなので、
お子神が木花開耶姫の元に神幸するということになります。

これを補強する話が別のブログにコメントされていたので引用します。
高祖神社の正面で、確か、この細石神社から、末の娘が嫁に行くとか言う神話がありませんか?それで、神楽が4月26日ごろに毎年あります。

とあります。
「末の娘」とはコノハナサクヤ姫のことですね。

これらから、神功皇后が参拝した頃は、高祖神社にはコノハナサクヤ姫と彦火々出見尊の母子神が
祀られていた可能性が高くなりました。

こののち、神功皇后の神名が上書きされたんでしょうね。

地図 細石神社 高祖神社




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by lunabura | 2013-12-06 00:08 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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