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タグ:<百済と倭国の奴国を結ぶ> ( 14 ) タグの人気記事

丸ノ口古墳公園(1)那の国を見晴らす装飾古墳たち


丸ノ口古墳公園(1)
福岡県筑紫郡那珂川町後野
那の国を見晴らす装飾古墳たち

丸ノ口古墳公園はJR博多南駅から車で約10分の所にあります。
(へえ。そんなに近い(驚))
「丸ノ口・北中入口」の信号から山の方に登って行くのですが、
ナビなら「那珂川町北中学校」で行くと、隣なので分かりやすいでしょう。

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手前の駐車場から遊歩道を上ると円墳が!いきなりテンションが上がります。
ところが、左の草むらがすでに古墳。しかも、こちらがメイン。

丸ノ口古墳群Ⅵ群2号墳

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正面に廻って遠景を撮るとこんな感じ。入口は防護されています。

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扉の隙間から撮ってみました。円文が写りましたよ!

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これがそのイラスト。
イラストは円文と波と舟です。う~む。舟はどうして空にあるのだ。
よくよく考えると、高い所から見た大海原を描こうとするとこうなるかな。
あるいは遥か彼方からやって来た?
それともあの舟に乗って旅立つ?
装飾古墳は妄想出来るので、やっぱり楽しい。

しかし、問題は中央にある円文。さらに上にもある。
かつて王塚古墳で円文を見て、何も考えず人の説を採用したけど、
あれは反省。最近は少し慎重になった。

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これが出土品。さて古墳の時代は?
6世紀の後半だそう。
すると、磐井の乱後、古墳が小さくなったというのがこれ?

さてさて、一か所にこだわるには古墳が多い。先を急ごう。

丸ノ口古墳群Ⅴ群5号墳

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これは一枚目の写真の中央に見えていた円墳。廻り込むと、石室が露出していた。
おお、入口から既に円文が見えている。

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あれれ。この強化ガラスみたいな保護板は蕨手さんがレポートしていた古墳だ。
そうか。この古墳だったのだ。これは装飾古墳なのだ。
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石を打って模様を刻みこんでいる。
いたずらしないように覆いをしているのだろうけど、
ここだけ湿気がひどくなって、却って石の劣化が早くなるかも。

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と心配したけど、この解放感からすると、保護板で済ませたい気持ちもよく分かる。
天井石がないので、よく観察できるのだ。
パンフレットを見ると、何々?これは移築復元したんだって。
そうか。そうなんだ。
直径14mの円墳で、「円文」が3つ描かれているのが特徴。
ふむふむ。

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説明板がすぐそばにあるのでありがたい。
いつの頃かな?
6世紀代。さっきの2号墳と時代は重なる。

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ここから出土したのは玉類。
他の所からは武器や馬具が出ているので、ここにも、かつてはあったかも。
それとも夫人?
この時代は女性も同等に埋葬されたのかな…。

さて、この二つの装飾法は敲打法というのだそうだ。
ここだけなのかなあと思うと、こんなイラストまであった。

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福岡中南部に多いんだ。技術が伝播したのか、技術者が移動したのか、
偶然の一致なのか。誰か研究してないかな。
この古墳群が町の史跡に指定されたのが平成11年という事で、
カラーの説明板がすぐ傍に在るのは理想的でした。
(あとは出土品の所在地があれば完璧かな。)

そして、ここから見た景色がこれ。
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那の国全体が見渡せた!

正面に見えるのが若杉~宝満山系。左のずっと奥は犬鳴山系かな。
宝満山系の手前の低くて丸い山が乙金山、その右が最近話題になった大城山(大野城)のようだ。
大城山の麓には大宰府がある。その左は水城で仕切られている。

さらに左の低地から今立っている所も、かつて「天の原」と言われたという。
ちょうど白い飛行機が降りて行くところが板付。那国の王墓がそちらにもある。

ここは北東部が開けているのだ。
古墳の被葬者の背景を知るのに大切なのは場所だと思う。

この見える範囲に磐瀬宮候補地の梶原があり、日拝塚古墳があり、
三笠の山の稜線を伝って月が昇る天体ショーを見られる「月の浦」もある。
ここは何だか凄い所だ。
こんな見晴らしのいい所に古墳を作れるのは、この地を熟知して那の国を愛した人だ。

と思って反対側を見たら、あれ?磐座じゃない?
(つづく)

丸ノ口古墳公園





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by lunabura | 2012-07-25 22:58 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(3)

丸ノ口古墳公園(2)これは磐座?


丸ノ口古墳公園(2)
これは磐座? 

広大な那国の景色を眺めたあと、後ろを振り向くと、山の上に岩がいくつも見えました。

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い、磐座(いわくら)じゃない?

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登って行くと、頂上付近の岩群れが怪しい。
さらに近づくと岩群れの頂上に方向を示す石が見える。
写真を撮ろうと尾根に出ると、だ、断崖絶壁 (@_@;)

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採石か採土の為に切り通された崖になっていました。
かろうじて頂上の方向石が残っている状態。
ここまで近づくのが限度…。

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船石というのかも知れないけど、組んだ石に違いありません。
どこか、方向を示す強固な意志を感じます。
本来はこれを中心に磐座があったのだろうけど、もう全容は分かりません。

そこで思い出したのは、この近くに[後野神ノ前遺跡]という磐境祭祀跡がある事です。

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これは町で貰える冊子『那珂川町の文化財』の一部。
左上の写真は何気ない岩の集まり見えるけど、祭祀場です。
左下の土器群は岩のすぐ近くで出土したもの。
右の写真には、先程と似た石があります。

町の話によると、ここは大宰府のための祭祀場ではないかという説があるそうです。
これは面白い。

現在地はこの後野神ノ前遺跡から、さほど離れていません。

だから、現在地の岩の集まりが磐座だという可能性は充分で、
発掘すれば何か出るのではないだろうかと思いました。

後野神ノ前遺跡が大宰府鎮護の磐座説は魅力的ですが、
磐瀬宮のための祭祀場の可能性がないかなとも考えました。
そうすると、北西部に当たり、いい感じなのです。
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(龍頭遺跡群の近くが磐瀬宮推定地)

那珂川町の磐瀬宮説についての検証はまだ手つかずですが、
その近くの龍頭遺跡群ではこんな掘立遺跡が出ています。

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(町で貰える『那珂川町の古代・中世遺跡』より)

う~む。那珂川町は面白い。

そうして、頂上から下り始めると、巨大な岩盤が見えました。

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で、でかい。
これは御神体だったのだろうかと思ったのですが、祠らしきものは見当たりません。

この岩盤がどうしてこんな所にそそり立つのか、
思い出したのは阿蘇山の9万年前の大噴火です。
阿蘇山の火砕流がこの町まで流れて来たのを知ったのは
裂田溝(さくたのうなで)の所です。
(⇒ 裂田神社)
安徳台の特異な地形はその火砕流によるものですが、
これも同様にして出来たものではないかと思いました。

すると九州の各地で見た同様の岩盤が思い浮かんで来ました。

三郡山登山ルートの途中、あるいは熊本の山の中や
鹿児島の慈眼という名のついた公園でも、同じようなものがありました。
その成り立ちが不思議で仕方がなかったのですが、
今私の記憶の中でつながりました。

阿蘇山の大噴火による火砕流は九州を覆い尽くしたのです。
そして、山容が崩壊する時の地震で津波が起こり、
北アメリカの東海岸まで届いたというホピ族の言い伝え。

想像するだけで、寒くなる…。
(つづく)






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by lunabura | 2012-07-23 22:42 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

丸ノ口古墳公園(3)白石古墳群・磐座と古墳の謎


丸ノ口古墳公園(3)
 白石古墳群
磐座と古墳の謎
 

さて、巨岩を久し振りに見て、満足して下りて行くと、あれ?
ここにも古墳がある。
いったいどうなっているのだ。
しかも、入口に扉が付いている。きっと重要なのだろう。

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開口しているなら覗かねば。

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格子の隙間から写真を撮ると、こんな石室。


さらに、もう一つ古墳があった。
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暗くて見えないので、写真を撮る。

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この石室はさっきのよりずっと強固に造られている。日拝塚古墳と見た目も近い。

ここは「白石古墳群」という事が案内板で分かったが、
もうどれがどうなのか、各古墳の名前が分からなくなってしまった。
6世紀の後半のものだそうだ。
Ⅲ群1号墳は入口の前にテラスを作って、土器を供えて、
その中には皮袋の形をした水筒のような土器もあったという。

いったい、この丸ノ口古墳公園はどんな構造になっている?
改めてイラストマップを取り出した。

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このマップを見ると、私は一番右の⑩からスタートして、
③-④ そして地図では木が書いてある所に登って②-①と移動したらしい。
マップの中で、赤い丸は移築したものという事だ。

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そうすると先程、足元にあったこの露出した石室は移築した物だろうか?
その長さは90センチほどで、最小のものらしい。
この日はこうして珍しい古墳公園に満足して帰宅の途についた。


今、振り返りながら、古墳と磐座の関係を考えた。
古墳群がとても見晴らしの良い所に造られて、
すぐ上の磐座が祭祀遺跡だとすると、気になる事が一つある。

それは何故、祭祀地に古墳を隣接して造ったのだろうかという問題だ。
古代では祭祀点と埋葬地は別にするのではないかという考えを私は持っている。
(忌宮神社で、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)が太陽観測点ではないかと推測したのは、
思想的に禁忌を侵す事になるので、逆に隠す所にもって来いだったと考えたからだ。)

だから、磐座と古墳が至近距離だという事に疑問が残る。
イヤシロチにケガレが置かれるのだ。
 
幸いに築造の時期が分かっている。
6世紀後半という時代を考えると、磐井の乱後の混乱期だったろうと思われる。
この町でも古墳は小型化した。
古来の祭祀形態が排除される対象になった可能性だってゼロではない。

考えるに、この古墳群の被葬者は磐座を守り続けた一族ではないだろうか。
一族というイメージは、90センチという石室のサイズから生まれた。
90センチとすると、埋葬された子は2歳未満だったと思われる。
幼い子供の為に丁寧に石室を造る余力があったのだ。
しかし、「神ノ前」を離れられない。
そこでタブーを侵して、聖地に埋葬した。

そんな妄想が生れて来た。

「神ノ前」とか「後野」とかいう地名から、
ここはもっと広い範囲の祭祀圏があったのではないかと想像された。


たった一つの古墳群でこんな妄想を書く事が出来るのはブログならではだ。
これから先、いろいろと見て行く中で、自分の妄想を礎として、時には反省して
古代世界の再構築に向かいたい。


この那珂川町は古代の十字路の中心点だという評価がある。

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(町で貰える、『なかがわまちエコミュージアム』より)

西に行けば伊都国や末廬国へ。東に行けば大宰府。
北は袖の湊。南は吉野ヶ里。
古代のキーポイントを結ぶ立地だ。
大宰府がまだ湿地だった頃は、こちらの方が重要な地点だったに違いない。






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by lunabura | 2012-07-21 23:16 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(13)

百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ


百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ

日拝塚古墳のさきがけ
福岡県那珂川町

百済にある前方後円墳と北部九州との関わりについて、再開です。
ずっと前に石室が似ている春日市の日拝塚古墳を紹介し、
筑紫郡那珂川町ミリカローデンに行った所で中断していました。

石室の構造が百済の海南長鼓山古墳と春日市の日拝塚古墳が似ていたのですが、
一方、九州の前方後円墳の学会に出掛けて知ったのは、
京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の番塚古墳の石室も似ているという事でした。

そうすると、この三つの古墳はこんな位置関係になります。
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番塚古墳については下記へ(九州大学文学部考古学研究室)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/banduka.htm


これは前掲の二つの石室。
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そして那珂川町で聞いたのは、日拝塚古墳は那珂川町の大王たちの古墳群からつながる事でした。
それが下の地図です。

c0222861_23562589.jpg

安徳大塚古墳→老司古墳(福岡市)→貝徳寺古墳→日拝塚古墳(春日市)の順です。

さて、今回はこれらの大王たちの古墳を時代順に辿りましょう。

1 安徳大塚古墳
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一番古いとされる古墳で裂田神社の近くにあります。(気が付かなかった~)
全長64m。濠を含めると81m。4世紀の後半。
発掘調査は行われていないのですが、葺き石と埴輪が確認されているそうです。
前方部が細くてきれいな形をしていますね。(小郡市の古墳を思い出します)

2 老司古墳

それから老司古墳。これは福岡市老司にあります。5世紀初頭です。
竪穴系横口式石室で、初期の横穴式古墳だそうです。
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石の大きさが随分違いますね。

画像出典 福岡市の文化財より 詳しくは下記へ
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/property/detail.php?ID=101539
三角縁神獣鏡を含む10面の鏡などが出土したという事で、首長墓と呼べるものだそうです。

3 貝徳寺古墳

c0222861_2358469.jpg

あの貝徳寺君ハニワが出土した古墳です。(やっぱり山本太郎く~ん)
すでに墳丘が削り取られていたために、存在そのものが知られていなかったとか。
昭和56年に調査されて全長54mの前方後円墳だという事が分かりました。
5世紀後半。
いかにも前方後円墳と言えるバランスの良い形をしています。

4 日拝塚古墳

これは過去記事へどうぞ。
日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳 http://lunabura.exblog.jp/18056441/  
   (2)「ひはい」の由来 http://lunabura.exblog.jp/18063037/

町の話によると、那珂川町の古墳は磐井の乱以後小さくなって行き、
日拝塚古墳のあとは小さな前方後円墳が乱立するようになったそうです。

やはり、磐井の乱は福岡では大事件だったのですね。

さて、こんな話を聞いたら、そりゃあ現場に行きたい!
と、場所を尋ねると、一つは消滅し、一つは個人の所有地という事で見学は無理。

しかし食い下がって、なんとか見学できる古墳はないかと尋ねると、
丸ノ口古墳群を紹介されました。
これは、ブログでもどんどん紹介して下さいとのことです。
それは心強い。
という事で、レッツゴー。






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by lunabura | 2012-07-19 00:05 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(1)

百済の前方後円墳から考えた


百済の前方後円墳から考えた

百済の前方後円墳の流れを追っている途中だが、前回は新羅に寄り道して、
木槨墓の代表である天馬塚古墳をレポートした。
新羅の墓制はこのあと、横穴石室に変化して行く。

双円墳と見られた墳丘墓も、もともと円墳が一基あったのだが、
のちに一部削り取って新たに円墳を重ね合わせるように作った事が分かっている。
このうち古い円墳は木槨墓だったが、新しい方は横穴式石室になっていたことが判明。
夫婦や親子の墓が続けて作られたのではないかと想像されるが、
墓制の変化を反映するものとなった。

この新羅の地には前方後円墳は存在しないという。
これは百済に前方後円墳があるのと比較するのに好材料だ。

先日、九州前方後円墳研究会で発表の一部を聞いた。

百済では約30年間という短期間に十数基の前方後円墳が造られた。
各地に散らばって造営された件について、百済側による分断政策という説があったが、
最近、コンピューターによって古代の道路が再現され、
前方後円墳はその道沿いに造られているという発表があり、
前説は見直しする必要が出てきた。

また、発掘調査が周囲の集落にまで及ぶようになり、
前方後円墳を造営した人たちの村ではないかと期待されている。

まとめの段階で、百済(南朝鮮半島)の前方後円墳群は九州と関わりが強く、
考古学資料からは日本書紀に書かれている継体天皇と磐井の君の関係については、
見直しが迫られるという結論が出た。

それはこれまでの通説では考古学的な出土物の説明がつかないことを意味する。
これを聞いていて、九州王朝の存在を補強するものだと思った。

『旧唐書』にあるように、倭国と日本国が併存した時代がある。
倭国が九州の本家で、日本国が近畿の分家のような関係だと思っている。
のちに分家の方が繁栄したが、
白村江の戦いで倭国が実質滅びたのではないかと考えるようになった。
成人男性の人口激減と武器や船の壊滅のために、
残された九州の子女ではとても国を支える生産は出来なくなっただろう。

その危機の時に、分家の日本国が列島全体を統制するようになった。
その時に分家は自分の系統が本家となるように歴史の手直しをしたのだろう。

系図を切ったり貼ったりする時に、
カリスマ性の高い神功皇后と竹内宿禰を取り込むために
竹に木をつないだような改竄が行われたのではないか。
謀叛軍だった神功皇后たちが官軍になったのだから、かなりの書き換えが必要だ。
また筑紫の君・磐井についても、本末を転倒させたのではないか、
と考えるようになった。

この疑問を解明するには仲哀天皇と、応神天皇=誉田天皇の見直しが必要であり、
さらに前の時代の景行天皇の九州の動向を調べる必要があるだろうと思っている。



なんちゃって…。
早く、あちこちに出掛けたいよう…。
みなさん、近くの伝承を教えて下さいね。








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by lunabura | 2012-07-03 14:50 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)

ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた・倭国と日本国・仲遺跡・亀石


ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた

倭国と日本国・仲遺跡・亀石
 


ついに那珂川町に戻ってきました。
一年前だったでしょうか、裂田溝(さくたのうなで)を辿りながら
御中主神社、風早神社、伏見神社、裂田神社、現人神社などを逍遥しました。
(どれもサイドバーからどうぞ。)

人の営みと自然が調和した里で、日本書紀に書かれた水路を辿った古代散歩は
沢山残されていた伝承や祭りで豊かな色彩にいろどられていました。

そして今回は百済の前方後円墳の話から日拝塚古墳を経由して那珂川町へと
思いがけない歴史を辿ってやって来ました。

韓半島の南にある前方後円墳の被葬者は倭人で、九州の北部出身の人たちでした。
この時代についての中国側の記事を読むと、
倭国が毎年朝貢していたのに、その旅程を高句麗が邪魔するという状況でした。

そののち、いつの間にか日本国という存在が出現して、
これもまた中国に朝貢して来ました。
だから、一時期は倭国と日本国という二王朝が同時に存在しています。
その後、倭国の記述は消えて行きました。
韓半島の古墳もまたそれを裏付けるような状況でした。
その石室の構造が春日市の日拝塚古墳と似ているのを確かめに行ったのが
前々回の記事です。(サイドバー→日拝塚古墳)

百済と春日市と那珂川町。
この三つの地域が古墳でつながったのは偶然でした。
ある講座で百済と日拝塚古墳がつながるのを知り、
那珂川町の講座で日拝塚古墳と那珂川町の王墓級の古墳群がつながるのを知りました。

そこで、私の中で、那珂川町の古墳群→日拝塚古墳→百済の前方後円墳という
系譜があるのではないかという仮定が生まれました。
それは確かめないと分かりません。

時代は5~6世紀。磐井の乱は527年。
この磐井の乱は良い指標になります。
筑紫の君・磐井は筑紫の古代史ファンにとってはヒーロー。
(と、私だけが思ってる?いや、きっとみんなにとってもヒーロー。)
その子は葛子。他に鞍手の北磐津などがいるのが分かっています。
そして粕屋の屯倉。宮地嶽不動古墳。岩戸山古墳など。
筑前でも筑後でも、福岡の各地で彼らは深い歴史の奥から呼びかけて来ます。
そう、磐井の君の治めたエリアはとても広かったのです。

そのエリアは彼より300年前の人である神功皇后の移動したエリアにも
一部重なっていました。
皇后を支えた筑紫の古代人たちは、夏羽や羽白熊鷲、田油津姫たちという
旧勢力を滅ぼした後、新たな秩序を作り上げました。
それは連合国的なものだったように思われます。
これが倭国ではないかと思い始めました。

そして6世紀になって筑紫の君として記録に残ったのが磐井です。
彼はついに継体天皇と雌雄を決した。
それが倭国と日本国の戦いだったのではないでしょうか。
言いかえれば九州王朝VS近畿王朝という形なのでしょう。

「日本国は倭国の別種である。」
それは現代の「英国と米国」のような関係に近いと思います。
英国からの移民たちが独立して新国を作り、母国を凌駕して繁栄した。
伝統の国VS繁栄した新国。
それが「倭国と、東の方で繁栄した日本国」とそっくりだなと思うのです。

さて、日拝塚古墳が6世紀のものであり、
那珂川町の古墳群がそれより過去にまで遡れるらしいという事は
磐井と同時代に生きた人たちが埋葬されているという事になります。

那珂川町の古墳の分布は全国の10倍の密度だそうです。
乱開発から逃れ、系統だった古墳の変遷が見られる町です。
その古墳群の中に何が見つかるでしょうか。楽しみです。

今、私はミリカローデンという町の施設の玄関前にいます。
この真下にも古代の遺跡が眠っていました。
古代の人はどんな景色を眺めたのでしょうか。

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西の山々が見えます。片縄山や油山です。

c0222861_18203268.jpg

南には神奈備山がありました。城山というそうです。
ここに住む人々はこの山を神聖視したに違いありません。

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その人たちの遺した遺跡を仲遺跡(ちゅういせき)と呼びます。
縄文時代~古墳時代。
という事は仲遺跡の人たちは神功皇后や竹内宿禰を出迎えたかも知れません。
磐井の君とはどう関わったでしょうか。
ここもまた奴国(那の国)なのです。

c0222861_18211666.jpg

玄関口にぽつんと岩がありました。
どことなく怪しくて、ペトログリフでもないかと観察していたら、亀だ!

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自然石の一部だけを亀に見立てて彫っています。
どこから持って来たのだろう。
スタッフに尋ねたけど分かりませんでした。
亀は各地で神の使い、あるいは神そのものでした。

造成する時に現地から出たのでしょうか。それとも他所から持ち込んだ?
これは土器と同じように文化財としてどこから発掘されたか記録されるべきものです。
遺跡も石も神社も全部、ひっくるめて文化財だと思っています。

そして施設内には三角縁神獣鏡がありましたよ。
c0222861_18215342.jpg

そして例の山本太郎に似た貝徳寺くん。(と、古墳の名前からネーミング)
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さて、うまくつながるかな。さらに古代を歩いてみましょう。




ミリカローデン那珂川 福岡県筑紫郡那珂川町仲2丁目5-1
文化ホール 図書館 プールなどの総合施設






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by lunabura | 2012-06-09 18:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(3)

日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳


日拝塚古墳(1)
ひはいづかこふん
福岡県春日市下白水南6丁目208番外
百済と倭国を結ぶ古墳

百済の前方後円墳から、ずいぶん寄り道をしました。
百済の地にあるこれらの古墳は倭人が作ったことが見えて来ましたが、
その中の海南長鼓山古墳が春日市の日拝塚古墳に近いという事を聞きました。
偶然にも、すぐにその古墳に行く事が出来たので今回はそのレポートです。

この古墳は住宅地が迫る丘陵のピークにあります。道案内なしでは難しい所ですぞ。
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墳丘の形が綺麗に残っています。
国指定になっていたので、この敷地だけは保護されています。

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後円部に石室の入り口が露出しています。

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近づくと、こんな感じ。
教育委員会に申し込めば石室に入る事が出来るそうです。

c0222861_9544032.jpg

今日は隙間からカメラでエイヤっと。結構見えますね。
この石室が百済の海南長鼓山古墳と似ているそうです。

c0222861_9545612.jpg

そこで、二つの写真を並べて見ました。
左が日拝塚古墳。右が海南長鼓山古墳です。
確かに似ていますね。
日拝塚古墳は人が立つことができそうです。竹原古墳王塚古墳を思い出しました。
(過去記事はサイドバーから)
百済の前方後円墳は平天井が特徴だそうですが、
この海南長鼓山古墳の天井がどうなのかは分かりません。

石室の形や副葬品など、比較した研究があったら面白そうですね。

とりあえず、一般人が簡単に手に入る情報として、まずは春日市のHPから
 
6世紀に築造された前方後円墳で、周溝まで含めた規模は全長60メートルほどになります。墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。

 主体部は、後円部中央に位置する単室の横穴式石室です。昭和4年に盗掘を受けた際、石室内から須恵器、鏡、装身具、武器、馬具などが多量に出土しており、大部分は回収され、東京国立博物館に収蔵されています。
主軸が東西を向いて大根地山を見ているのは興味深いので、次回検証します。
今回は百済のものと比較するのがテーマです。
何々?出土物はいったん盗掘されたものが取り戻されたって?
これは驚きですが、その出土品もみんな東京に行ってしまった?
これじゃあ出土品が見られないぞ。

看板の写真を見てみましょう。
c0222861_9575593.jpg

これはかなり洗練された副葬品ですね~。
これが、倭人たちが百済で手に入れて、故郷の首長に贈ったものだとすると、
面白いのですが、私にはよく分かりません。

妄想するのにはもっと資料が欲しいなと思って探すと文化庁のデータベースがありました。
日拝塚古墳は博多平野にあり、那珂川の右岸の低段丘上に立地する前方後円墳である。古墳は前方部を西に向けており、全長41.2メートル、後円部径22メートル、高さ5.9メートル、前方部幅34メートル、高さ5.4メートルを測る。墳丘は段築が明瞭で、葺石、埴輪は認められない。石室は後円部中央に設けられ、西南に開口する単室の横穴式石室である。玄室は長さ3.6メートル、幅2.6メートル、高さ4メートルである。羨道は長さ4.8メートルで玄室から2.5メートルは幅約1メートル、高さ1.5メートルを有する。

玄室奥壁寄りに屍床があったといわれるが現在は残っていない。昭和4年に開口したおり、多量の出土品が知られ、獣形鏡1面・金製垂飾付耳飾1・金環4をはじめとする装身具類、環頭柄頭をもつ太刀1をはじめとする武具類、鉄製輪鎧3組などの馬具類、須恵器等多数があり、現在東京国立博物館に保管されている。本古墳は前方部が発達した平面形を示しており、出土品の特色からもこの地域で6世紀に属する後期の古墳として典型的なものである。
むむ。これでも、よく分かりません。残念だなあ。

(つづく)

地図 日拝塚古墳





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by lunabura | 2012-06-05 10:06 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(6)

日拝塚古墳(2)「ひはい」の由来


日拝塚古墳(2)
「ひはい」の由来
 

さて、今回のテーマは「日拝」という名前の由来です。
墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。(春日市HPより)

さて実際はどうなっているでしょうか。

c0222861_19374171.jpg

測量なんて当然出来ないので、グーグルアースから切り取ってみました。
前方後円墳にしては円墳が丸くないですね。封土が崩れているのかな。
それともそんな設計?

いや、テーマは古墳の主軸でした。
グーグルアースが地図として正しく東西南北を指しているとすると、
切り取った輪郭が物差し代わりに使えます。
それと見比べると微妙に傾いているので、
主軸はHPにあるように「ほぼ東西」となるようです。
歳差運動で、東西がぶれたのでしょうか。

c0222861_19382626.jpg

円墳の上から東を見ると、遠くに三角形の山が見えました。
(写真では電柱のすぐ左。)これが大根地山(おおねち)です。

c0222861_19385577.jpg

拡大しました。三角形の独立峰です。
このブログでは初登場ですが、実はこの山はあちこちから見える、気になる山で、
神功皇后が登って祭祀したという伝承もあります。
私もかつて登ろうとしたけど、イノシシの噂を聞いて止めたことが…。(-_-;)

c0222861_19392032.jpg

日拝塚古墳から大根地山に向かって東にラインを引くと頂上にはつながりません。
少し北に届きます。
もしかしたら、日の出の場所は山の北の峠かもしれません。
日の出を観測するのに、山のピークを利用するのも有りですが、
二上山のように凹んだ所から出る太陽を観測する例もあるのです。

そこで、月の浦からの月の天体ショーを発見した、くるま座さんに尋ねると、
彼はここで日の出を観察したというではないですか。
c0222861_1940735.jpg

それによると、春分の日は大根地山の少し左側から、夏至は乙金山から太陽が昇ったそうです。
それを写真に書き込んで見ました。
夏至に乙金山(おとがねやま)から昇るとすると、春分の日についても
大根地山のピークではなく峠から出る事が前提だった可能性が出て来ました。

ここから毎日、日の出を見た情景を想像しましょう。
春分の日に大根地山の峠から太陽が出ると、その後、日の出は日々左にずれて行き、
夏至の日に乙金山から出ると、Uターンして再び大根地山に戻ります。
その後はさらに右の方から出来ます。
冬至の日の出の目当ての山も家の向こうにきっとある事でしょう。
蛇足ですが、大根地山と古墳のほぼ中間点に大宰府があります。

c0222861_19412953.jpg

さて、振り返って古墳の反対側を見ると油山が見えました。
どんな日没が観測できるのでしょうか。

さてさて、この「日拝塚」の由来についてはあの真鍋大覚氏が書き残してくれていましたよ。

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写真が載っていたので、私が撮ったものと並べて見ました。
30年ほどで封土の形が変化しているようですね。
本文を引用してみます。
前方後円墳は門戸(かどのくち)の方位が夏至の日の出、冬至の日の入りを見通す様式になっているものもある。まさに居ながらにして太陽暦日を見取ることが出来る。

前方後円墳を「狐塚」とも言う。その形が狐の耳を立て腰を高くして休みおる姿に似ているからと説かれている。

昔は日契塚(ひけいづか)、後に日経塚(ひけいづか)と呼び、一種の日計塚の意であったが、これを「きつね」と略したのが由緒らしく、更に吉日を選び縁起を担ぎ出す江戸初期頃には暦書の普及も又百姓町民の手元に届くことになって、その由緒が失われた。

またの名を日回塚(ひかいづか)あるいは日向塚(ひけいづか)と言う。夏至冬至のこの日を限って日の出入りの方位が回転するからであるが、これが訛って日拝塚に変わり、春分秋分の日の出日の入りを正す渾天儀の役を勤めてきたのである。
なるほどですね。
すべての古墳が太陽の観測に使えるように造成した訳ではありませんでした。
ただ、この古墳は主軸が東西に造られたために、
さきほどのように山の稜線を観測する事で「日を計る」ことができたので
「日契」「日経」とも呼ばれ、「日回」「日向」とも書かれ、最終的に「日拝」となりました。

「あの古墳は何でヒケイち言うとかいな。」と人々が語源を考えて、
漢字を当てはめていったようすがよく分かります。
キツネの寝姿に似ているのも、面白いですね。
キツネが口にくわえている巻物とは暦のことなのですから。

つづき。
(前方後円墳は)元来は含墓(がんぼ)のちには観墓(かんぼ)と呼んだこともあった。その形が「含」(に似ていたからである。)

「含」とは即ち「王者の口に血統を刻した玉石」で、これを挟む葬式が遠く殷周時代に行われ、(その形は今の短冊あるいは紙雛、又は戯化されて、てるてるぼうずの形に似ていたが、)冥土で閻魔が鋏でこれを抜き、裏表の書面を確かめたうえで天国か地獄への配分を定めたと語られている。やがてこれが「大王の舌抜きの説話」に転じ、更には虚偽の申し立てを「二枚舌」と言うに及んだのである。
へえ。そうなんだ。
中国の殷などの被葬者の口に玉石をくわえさせるのは、
その血統の印刻を閻魔大王に見せるためなんですって。
閻魔大王はその玉石を引っこ抜いて、書面を確かめたなんて。
由来が分かるとなるほどだな~と思いますね。
その形は前方後円墳の形なんだ。ふふ。そうなんだ。

古墳の前と後は高さが不同であった。方位を見定める労を軽くする配慮であった。

衆人はこれを見て各々高さを競うゆえに「いがみあいづか」と称していたらしい。権力闘争を事とした王者を揶揄(やゆ)するかの如くに聞こえるが、元来は神前仏前に供える飯粥(いがい)の形を写した古語に他ならない。

飯はさらに高く盛り上げることができるが、粥(かゆ)は椀に入れて具を中に伏せてもほぼ平たくなる。百姓はかつて王者の資本で開拓した水田のお蔭を感謝する供物を日々忘れなかったのがこの発祥である。(中略)

里の女人が供物を捧げて立ち帰った後、人気のなくなったのを見済まして、母狐が子狐連れでそのまま一日草むらの日向で昼寝をしていたと聞く。古墳の尊厳は荘園が存続していた頃まであったらしい。

『儺の国の星』より(一部、るなが言葉を補いました。)
お供え物の「いがい」が「いがみあい」に変わるなんて、有り得る~。
そして暦のシンボルとなったキツネがそこで昼寝をするなんて、いい時代の話ですね。

古代は「王者の資本で開拓した水田」って、言われるとホントそうなんだ。
これに類する話は「裂田溝」(さくたのうなで)も該当しますよね。
あの裂田溝はここからはすぐ隣の那珂川町にあるんですよ。

そして、この日拝塚古墳の系譜はその那珂川町につながるという話を聞きました。
時代を遡ってその那珂川町に行きましょう。





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by lunabura | 2012-06-04 19:50 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(2)

百済の前方後円墳(6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号


百済の前方後円墳(6)

『旧唐書』日本伝
日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
 

『旧唐書』の倭国伝について、現代語訳をしましたが、
冒頭の部分について、多くのアドバイスをいただきました。
問題の箇所は「倭國者古倭奴國也。」というところ。
「倭国はいにしえの倭の奴国である。」と参考本に従って余り考えずに訳したのですが、
「倭国はいにしえの倭奴国である。」というのが妥当ではないかという内容です。

「倭」について「奴」について「倭奴」について、古代言語の解説などもいただいて、
興味深く拝読しました。
これを消化するには古代の中国史や朝鮮史そして、肝心の古代九州史の知識が必要で、
奥の深い世界です。
ブログという性格上、自分の思考の変化の過程を残すのも醍醐味だと思ったので、
前回の文は訂正しないでおく事にしました。
みなさんのコメントによって私の気づきが深まる過程を残したいと思います。

さあ、それでは「ぶらぶら歩き」の精神にのっとって『旧唐書』の訳を続けましょう。
『旧唐書』にある不思議な二つの国「倭国」と「日本」。
今回は「日本伝」です。
これまた唐の制度の知識が必要なのですが、またみなさんのアドバイスに期待して、
訳をしていきましょう。
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。

真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。

日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。

その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。
(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。

元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。
開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。
後半には煌めく大スターたちがどんどん登場して、目を奪われそうです。
教科書でよく知っている名前なので、うれしいですね。
日本からの遣唐使について、唐からみた姿が伺えます。

則天武后と粟田真人
則天武后(在位690-705)の生まれが623年なので、
粟田真人が則天武后に会った時は80歳だったという事になります。

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写真の則天武后の後の官人たちの服装や冠を見て下さい。
これに対して真人は戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)ほどで、あまり高い身分でないのに、
高い位のものを身に付けていたようなニュアンスを受けました。
紫を着られるのはどんな身分だったのでしょう。

これは進徳冠。
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(画像出典 昭陵博物館)
http://kohkosai.com/chinaphoto/syouryou/syouryou/page/005.htm
進徳冠を調べて行くと中国では 次代の天子になるべき太子の専用帽子だったという記事もありました。

どうやら国内なら厳罰に処せられそうな格好です。
異国の風習だからと朝廷は寛大に接したのでしょう。
倭国に比べて日本国から来た人たちへの疑いのまなざしはこうして続いたけれど、
新たに来朝した真人の人柄のよさに則天武后は別れの宴を開くほど、
真人を信任したと思われます。

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これは則天武后が若いころ。(ドラマより)


おっと、美人に見とれている場合じゃなかった。
テーマは「倭国と日本国」なんです。

日本国の成り立ち
もう一度最初の部分を読み直すと、
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
倭人に比べて日本人は態度が大きかった?
「多自矜大、不以實對、故中國疑焉」が原文です。
答え方にも誠実さが見られず、これまでの倭人のひたむきな印象と比べると、
「倭国が日本国になったのか?いったいどうなっているのだ?」
と中国側も「日本国」の存在を疑ったように見えます。

日本国の成り立ちは、
「倭国が日本国と名前を変えた」
「古くは倭国の東にあった小国が、いつのまにか倭国の地を併合した」
の二つが考えられた事が分かります。

後者は近畿の小国が大きくなって九州に勢力の中心があった倭国を併合して、
日本国と名乗った事を意味します。
百済の前方後円墳の副葬品の状況からは後者の説が正しいと思われます。

いったい、この時代はどうなっているのでしょうか。
サイドバーの年表に『旧唐書』から得られた年を赤字で入れ込んでみました。
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る。
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位 
663 白村江で大敗する
667 大津へ遷都する
703 日本国は粟田真人を使者とする。

倭国に関する記事は648年が最後です。
中大兄皇子の乙巳の変の頃に
倭国は新羅に仲立ちを頼んで中国との交渉を取り付けようとしています。

一方日本国の朝貢は630年の遣唐使から始まって、
703年の粟田真人から交流が深まります。
その間にあの663年の白村江の戦いが存在します。
それまでは倭国と日本国が併存していたと考えられます。

そうすると白村江の戦いの「倭国・百済の連合軍 対  唐・新羅連合軍」の前者は
厳密には「倭国・日本国・百済の連合軍」という事になりそうです。

白亀という年号
開元の初め(713~)に日本の使者が持って来た布には
「白亀元年の調布」と、日本史にない年号が書かれていました。

これについて九州王朝には「二中歴」という別系統の年号が存在する事が研究されているので、
探してみましたが、その中にも白亀はありませんでした。

参考にした本では「写し違いだ」と簡単に片づけてありましたが、
中国側はわざわざ「疑った」と話題にしているのです。
日本国は現在伝わる年号と違う年号を持っていたと考える方が合理的でしょう。
そう簡単に写し違いにするのはもったいないですね。

つづきは<百済から倭国へ>
日拝塚古墳へ



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by lunabura | 2012-05-31 11:04 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(4)

百済の前方後円墳(5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…


百済の前方後円墳(5)

中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう

日本書紀を気ままに訳していました。
我が国の事を古い時代は「倭国」と書いていたはずなのに
継体天皇の時代には「日本」という表記が出て来ました。
いったいいつの間に「倭国」から「日本」になったんだろう。

そう思いながら『旧唐書』(くとうじょ)をパラパラとめくっていると、あれあれ?
目次に「倭国」「日本」と二種類書いてあるのです。
これはいったい何だ!
日本が二種類だって?
二つ並んでいるという事は、唐は明らかに「日本列島に『二つの王朝』がある」
と認識していることを示しています。

「倭国」と「日本」は別なのか?
読み始めるといきなり「倭国」の場所が書いてありました。
目が点 (@_@;) 何じゃあ、これは!
それは良く良く知っている所でした。
それはこのブログでずっと歩きまわった所―奴国だと書いてあるではないですか。

それじゃあ、「日本」は、ど、何処?
と驚いたのですが、訳して読まないと、どうしようもない…。
と、ぼちぼちとチャレンジするのでありました。
という事で今回は『旧唐書』倭国伝です。

倭国
倭国はいにしえの倭の奴国(倭奴国)のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。

四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

(※のちに「倭の奴国」は「倭奴国」と換える事になります。)
以上が「倭国伝」です。この『旧唐書』は945年に成立しています。

唐の太祖(在位626年 - 649年)の時代のエピソードが書かれているので、
皇極天皇の642年の即位、白村江の戦いの663年と比較すると、
「倭国の王朝」がまだ存在して、「日本」と併存している事になります。
しかし、この後の『新唐書』ではもう「倭国」についての記述は消えてしまいます。

やはり白村江の戦いで倭国の兵士たちが海の藻くずとなった事が
倭国の滅亡へとつながったのでしょうか。

「倭国とはいにしえの倭の奴国だ。」という事は福岡県の北部を指しています。
奴国(なこく)。那の国。儺の国。表記がいろいろとあります。
そう。そこはこのブログでずっと歩いてきた所なのです。

奴国は現在の福岡市を中心にして、もう少し広い領域が相当します。
これまでの聞き取りでは東は福津市の東郷川まで、あるいは宮地嶽古墳あたりまで分かっています。
西は那珂川町が『儺の国の星』のタイトルが示すように奴国に入ります。
北は志賀島あたりまでかな?南限は未調査です。

倭国(奴国)の王の姓は代々アマ・アメと書いてあります。
これを見てちょっとショックでした。だって日本の神話によく出て来る名前ですから。

どこに住んでいたのでしょうか。
候補地の一つに聞き取りでは粕屋郡の志免町があります。
また、仲哀天皇の時代はもちろん儺の県―福岡市東区香椎ですね。
(ただし仲哀天皇が倭国の王のアマ氏かどうかはよく分からない。)

中国正史の他の本をパラパラとめくると都は
『新唐書』には筑紫城。
『隋書』には邪靡堆。即ち邪馬台だと書いてあります。
邪馬台も奴国にある事になってしまいます。
まだ一部しか読んでいないので、結論は出せませんが、これはいったいどういう事なのでしょうか。
都というものは時代の変化に合わせて転々とするけど、奴国の中でという事になります。

これがいわゆる「九州王朝」を指すのは明らかです。
こりゃあ「九州王朝説」とは、説ではなく、「事実だ」よ。だって中国の歴史書にそう書いてあるんだもん。

朴天秀氏が明らかにした百済の前方後円墳から割り出される「古代九州勢力」が
この「倭国」であるというhurutakaimasakiさんの指摘もまちがいありません。

中国史の部分しか読んでないので、全容を早く知りたいなあ。
誰か既に論文書いてないかなあ…。ズボラしたいよ。
公開日記に書くには問題が大きすぎますよね。


さてさて、話は全く変わりますが、ここに描かれた倭人のファッションが気になります。
人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている

これは庶民の格好の話ですが、いったいどんな格好?

c0222861_23563574.jpg

この写真の中央の人は「貫頭衣に一枚の布を前後に覆った」格好です。
左の人は貫頭衣だけ。右の人は貫頭衣の上から一枚の布を肩で結んでいます。
「顔が濃い人たち」が着ると「弥生人の貫頭衣」とは全く違うように見えますが…。
どうみても貫頭衣です。

c0222861_01459.jpg

阿部寛さん以外は現地のローマ人。似た人、ご近所にいませんか?

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

c0222861_23573033.jpg男子でも身分が高くなると帽子をかぶり、
一般人は「さいづちのようなマゲ」を結っています。
才槌は木の槌ですから、こんな感じかな?
これは『三国志』(180~280)の髪型です。日本では弥生時代ですね。
竹内宿禰が軍勢にこの髪型にさせて、弓の弦を隠させたのを思い出します。
ということは彼らは普段は違う髪型だった訳ですが。

c0222861_23574666.jpg

参考までに同じ『三国志』の冠や甲のようすです。
倭国の王族アマ氏は毎年、唐に朝貢していたというのですから、
このような服装の影響を受けていただろうとも思えるのですが。
いったいどんな格好をしていたんでしょうね。
c0222861_2358574.jpg

上は竹原古墳の壁画の武人。ブーツはいてるね。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

c0222861_23584585.jpg身分の高い女性はスカートに襦袢です。
襦袢(じゅばん)の語源はアラビア語の「ジュッパ」がポルトガル語「ジヴァン」に変化して、漢字をあてたものだそうです。
高松塚古墳(700年前後)の壁画の女性たちは後ろで髪を束ねてスカートを履いて、襦袢を着ています。
壁画のスカートはカラフルですが、倭国の場合は単色でした。
ヘアースタイルはトップは少し逆毛を立てて、あとは後で束ねています。
銀の花の髪飾りを揺らすにはもう少し上の方で結った方が良さそう。




c0222861_2359730.jpg良く似ているという新羅の女性の服装です。
こっちの方が銀の花の髪飾りが似合いそう。
倭国の婦人たち。どんなファッションだったのでしょうね。

次は同じ『旧唐書』の「日本伝」を読んでみましょう。

(つづく)










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by lunabura | 2012-05-23 00:05 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(21)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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