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ひもろぎ逍遥

7 玉垂神社 くろどん様とは武内宿禰

7 玉垂神社 くろどん様とは武内宿禰



月、星、日の三つの隈の中央にあるのが玉垂神社だ。そこで集約して暦作成をしたのではないか。そんな仮説を持って玉垂宮に参拝した。



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これまでの三隈は階段ばかりだったが、初めて平地の神社だ。



7 玉垂神社 くろどん様とは武内宿禰_c0222861_12503394.jpg



祭神は武内宿禰。



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鳥居の神額にも「黒殿神社」と書かれている。「くろどん様」とは武内宿禰のことだ。


ちょうど、RKBラジオで高良玉垂宮の祭神について話をしたことを投稿したばかりだ。


「玉垂命」(たまたれみこと)とは安曇磯良で、「高良の神」が武内宿禰だ。


高良山の上宮は安曇、下宮は物部と分けていたが、白村江戦後、仏教を取り入れなくてはならなくなり、「玉垂命が発心して大菩薩になる」という託宣が出たことにした。


それが白鳳二年のこととして『神秘書』に出てくる。こののち数百年の時を経て、上下宮とも武内宿禰となっていった。



 武内宿禰が物部氏の祖と分かったのは日下部氏の系図に書かれていたからだ。その名は物部保連(やすつら)という。


 この日下部氏が日田の風土記に出てくるのである。


それによれば、日下部君の祖に当たる邑阿自(おうあじ)が日田の靭編郷(ゆぎあみのごう)に靭部として着任する。


時代は欽明天皇の時とあるので、磐井の乱から十年程たった頃だ。靭編郷は余所(よそ)神社がある所で、その丘陵の端にダンワラ古墳がある。


余所山はもともと日田郡の最初の国造鳥羽宿祢の館があった所なので、こここそ国長の地だったのである。そこに日下部氏が居館を構えた。


 話を玉垂神社に戻すと、祭神が武内宿禰となっているのは日下部氏の影響があったのかもしれない。時期は不明だ。縁起が残っていればと残念に思う。


冒頭の暦作成地の手がかりは無かった。ただ、全方位観測可能な地だった。


20241108


# by lunabura | 2024-11-08 12:52 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

6 日隈神社 中臣氏は「かづらみびと」 北天の星を見る民

6 日隈神社 中臣氏は「かづらみびと」 北天の星を見る民


6 日隈神社 中臣氏は「かづらみびと」 北天の星を見る民_c0222861_16194780.jpg


日隈神社の真東に月出山岳(かんとうだけ)があり、太陽や月の出の観測に適した山脈があることが分かった。


当社には春日大明神が祀られていたことから、中臣氏の祭祀があったことも分かる。春日はスピカ祭祀でもあり、春分の日にスピカが出るのが仲哀天皇、神功皇后の時代だ。


もう一つ、思い出したことがある。それは、中臣氏は北天の星を観測する氏だったことだ。これを「かづらみびと」という。物部氏が南天の星を見ていたことと対になる。


日隈神社は日田盆地の南にあり、北側にも山脈が見えていて、北天を観測するのに適した丘だ。よって、ここでは月も星も太陽も観測されたことだろう。



6 日隈神社 中臣氏は「かづらみびと」 北天の星を見る民_c0222861_16564362.jpg


チェリーが月出山岳から南西に烏宿(からとまり)神社があり、完全な南西に当たることを突き止めた。


宿の字から、二十八宿との関連がないか調べて、同名の宿は無かったと教えてくれた。


烏宿神社をネットで見ると、役行者が天忍穂耳を祀っている。英彦山の神だ。


だが、それより祭祀は古いのだろう。湧水があり、それが祭祀に重要な意味を持ったと思われる。



烏宿を「からとまり」と読む語源は不明だが、おそらく「からす」の人たちが祭祀をしたのだと思う。


カラスは賀茂氏だ。その長が八咫烏になる。カラスは鉱山を結ぶ山道をよく知っており、飯塚市で山道で迷った三女神を導いたというのも、賀茂氏が山道をよく知っているからだ。




さて、日田市には日の出の地名があったはずだと思い出して、地図で確認すると、それは月隈神社の東にあった。


そしてもう一つ、九州にある地名に「日出」(ひじ)がある。それは遠いな、と考えていたら、チェリーが同じ事を考えたらしく、日出もまた日隈の東にあることを知らせて来た。


だんだん、話が広がっていく。

何処まで広がるのか。


と困惑していた時に、ふと「ウズの結界」を思い出した。


飯塚市の宮地嶽神社の謎の祭神、勝守をチャネリングした時に教えられたものだ。


倭国、九州を守るために結界が張られたという。

それは福津市の宮地嶽神社から発している。


勝守は「それを探さなくても良い」と語った。

しかし、日田がそれの一部ではないか。


ふと、そう思った時、私の思考はぐるぐると巡りはじめ、途方に暮れるのだった。



20241107


# by lunabura | 2024-11-07 16:57 | 日と鷹と三隈 | Comments(2)

安曇族の足跡を探る 第3回 高良玉垂宮 安曇磯良と武内宿禰 『高良玉垂宮神秘書』

RKBラジオ

安曇族の足跡を探る 第3

高良玉垂宮 安曇磯良と武内宿禰 『高良玉垂宮神秘書』から


【RKB案内文】


安曇族の長である安曇磯良は大川市の風浪宮の初代宮司となりますが、磯良は高良山とも関係が深いといわれます。


磯良は神功皇后に仕え、朝鮮出兵では水先案内したり、神功皇后の手足となって大活躍します。


その功績で、神功皇后は高良山の支配権を磯良に与えたといいます。


当時、高良山では銅が採れていたそうですから大変な支配権です。

古代でも、船代や軍備費は必要だったようで、住吉族には水田~裂田の溝を与えたのだそうです。

 


【綾杉るな】

安曇族を探るというテーマに沿って、第3回は『高良玉垂宮神秘書』の内容から話をしました。


高良大社と志賀海神社には多くの共通点があります。


一つは拝殿の上の海龍の彫り物です。龍の背景には波が描かれています。


二つ目に、祭神には覆面の布を奉納していたと記録されています。覆面の神といえば安曇磯良です。


三つ目に、神が高良山に来た時、三本の小松を持ちこんで植えた行事を「子(ね)の日の松」といって、平成になって再現されました。「子の日の松」は志賀海神社の祭事にたびたび登場します。


四つ目として、「玉垂」とは干珠満珠を授けたという意味だと記されています。このほか、高良山の始まりを記す縁起書には武内宿禰が安曇磯良から干珠満珠を借りて朝鮮半島の敵船に勝った話が記されています。



「高良玉垂命」と「高良の神」は別神で、それぞれ安曇磯良、武内宿禰を指しています。


かつては上宮が安曇磯良で、下宮が武内宿禰でした。


高良山に安曇磯良が高良玉垂命として祀られる理由は、神功皇后は軍の支払いとしてその支配権を与えたからと考えられます。高良山は銅と温石が採れる山です。


神功皇后がさらに風浪宮に綿津見神を祀らせたのも、国際港だった榎津の支配権を宣言したものと考えられます。


支払いについて、住吉族に関しては日本書紀に書かれています。


そこには天皇の龍船と水田が要求されたとあります。この時、仲哀天皇は大変怒り、それが神の怒りに触れて死の原因になったように書かれています。


水田については那珂川市に裂田溝(さくたのうなで)を作ることによって水を保障した話が現人神社に伝わっています。


高良山の祭神が安曇磯良から武内宿禰に入れ替わったのは白村江戦での敗戦が契機となりました。


仏教を拒んでいた高良山ですが、物部美濃理麿保続という大祝(おおほうり)が高良山を守るために「玉垂命が発心して菩薩になる」という託宣が降り、美濃理麿保続は「神の俗体を受けた」と宣言したのです。


これが「秘すべし」という『神秘書』の秘密の一つでもあります。


ラジオ放送はこちら

rkb-radio.jp/kodai/241020kodai.mp3






◆◆◆ 綾杉るな アーカイブ ◆◆◆

【神功皇后伝承を歩く】 

第1回 1忌宮神社 2024324放送

26回目 https://rkb.jp/contents/202403/188281/

豊浦宮 新羅軍の襲来 数方庭の祭 秦氏の渡来 仲哀天皇の殯斂地 


第2回 2一宮神社 3勝山勝田神社 4織幡神社

2024328日 放送

27回目 https://rkb-radio.jp/kodai/240331kodai.mp3

磐境神籬と神武天皇 旗竿 八本の旗 旗を織る 武内宿禰の沓塚

壱岐真根子




【安曇族の足跡を探る】

干珠満珠の動画を見ると分かりやすいです。

干珠満珠

https://www.youtube.com/watch?v=ZlSaFlET898&t=48s


第1回 歩射祭のガラモ採りと干珠満珠 2024428日放送

安曇族の神々 歩射祭 香椎宮の綾杉 和布刈神事 筥崎宮のお汐井採り

rkb-radio.jp/kodai/240428kodai.mp3


第2回 磯良の白い覆面とシリウス 202498日放送

神楽・磯良舞 早魚神事 八 中西の風 大西の風 対馬の嵐と三苫 

https://rkb-radio.jp/kodai/240908kodai.mp3



第3回 高良玉垂宮 202410月20日放送
志賀海神社と玉垂宮 安曇磯良と武内宿禰 『高良玉垂宮神秘書』より

rkb-radio.jp/kodai/241020kodai.mp3




◆◆◆ RKBラジオ アーカイブ ◆◆◆

古代の福岡を歩くステージA海の道から空の道へ~安曇族の足跡を探る~ - RKBオンライン



# by lunabura | 2024-11-05 17:53 | RKBラジオ 古代の福岡を歩く | Comments(2)

12月22日バスハイクは行橋市です


12月のバスハイクのコースが決まりました。再び行橋市に行きます。もう何度目でしょうか。見どころが多すぎて、これまでに行けなかった所を探訪していきたいと思います。


大原八幡神社は再訪です。

饒速日命を祖とする大原足尼(すくね)が饒速日と共に祀られています。以前、周辺の古墳上の神社をいくつも回ったので、記憶が混乱しています。今回は物部氏の祖宮として位置付けて訪問したいと思います。みやこ町や日田市にも大原八幡神社があり、いずれも関係しています。


秦の始皇帝の末裔の功満王が仲哀天皇の宮に亡命して、秦氏は豊前の開発に協力したと考えています。その秦氏の里と言われる所は、前回行けなかった神社があるのでこちらも再訪ですが、行きたいと思います。


また、豊玉姫の子のウガヤフキアエズと関連するのが姥ケ懐(うばがふところ)です。そこには英彦山からお潮井採りがあるというので、その重要性が伺えます。


またすぐ南には稲童古墳群があります。その出土品は行橋歴史資料館に展示されているので、こちらも再訪ですが、より詳しく見学したいと思います。


52回 行橋市 築上町 みやこ町

豊国 稲童古墳群と姥ケ懐 

20241222日(日)  案内 綾杉るな


 大原八幡神社は饒速日命を祖とする大原足尼命が祀られ、横に恩塚古墳があります。豊国の国造として重要人物なので、再訪しましょう。


姥ケ懐は海岸にある磐座で、豊玉姫がウガヤフキアエズを残した所と伝え、英彦山のお潮井採りの地でもあります。


稲童古墳群は30基もの古墳が営まれ、近くに須佐神社と安浦神社があります。


五社八幡神社、八幡神社の鎮座地は秦氏の里と呼ばれています。今回は豊前の行橋市を中心に回りましょう。



天神=大原八幡神社・恩塚古墳=姥ケ懐=須佐神社=稲童古墳群=安浦神社=豊前国分寺三重塔=行橋市歴史資料館=五社八幡神社=八幡神社=袂水=天神 


<20241104>



バスハイクの申し込みは「歴史と自然をまもる会」092-408-7140 

092-406-8725(2024年7月から)

(火曜日~金曜日 10時~16時)


参加費 5000円 当日払い

集合場所 天神日銀横(ファミマ横)勝立寺の前

出発時間 9時出発 

集合時間 8時45分


初めての方、日銀前ではなく、日銀横の勝立寺の前です。ファミリーマートまで出るとバスが見えます。

雨天決行です。



12月22日バスハイクは行橋市です_c0222861_21545322.jpg
12月22日バスハイクは行橋市です_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2024-11-04 10:45 | バスハイク | Comments(0)

5 日隈山から見える日田富士は「月出山岳」といった


さて、日隈山の東はどう見えるのか。

この謎をさっそくチェリーさんが調べてくれた。

以下はその内容だ。

🌸

日隈の東に見えるのは日田冨士と呼ばれる山で、その別名は「月出山岳(かんとうだけ)」でした!

 春分の太陽はその稜線から昇ってしまうのですが、その別名通り、月の出を観測した対象かもしれません。



5 日隈山から見える日田富士は「月出山岳」といった_c0222861_13355952.jpg



 月の出入りは大変複雑で、私は把握できていないのですが、山頂から昇る時があるのは間違いありません。


 https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/2024/m4111.html

 

なお、月出山岳には三つのピークがあり、日田から見て左から一番坊主678m 、二番坊主690m、 三番坊主709mと呼ばれます。


 一番坊主頂上には「龍跡岩」という岩があり、その上に石塔が立っているのですが、それが「二十八宿遥拝所」なのだそうです!


 http://hita1969.blog.fc2.com/blog-entry-139.html


 地図上で、正確にその位置を特定することができず、とりあえず、一番坊主の最高点を拾ったのですが、そこから日隈神社は真西でした。

 「月出山岳一番坊主」から「日隈神社」まで 真西270.00°(距離 11.518km


  ※ガランドヤ2号墳から二番坊主は真東に見えます(89.96°


 そもそも「月出山岳」を何故「かんとうだけ」と呼ぶかについては、現地に説明板があり、その内容は久津媛と景行天皇によるものなのだそうです。


 http://w.speedia.jp/mutu48/a-yama-kantoudake-1.html

 日田に天体観測の歴史が埋もれているのは確実と思われます。

                                                    

                                 チェリー

 カシミール3Dの画像では三番坊主の最高点は見えず、その100m程西側の三角点が見えていますが、2m程低いだけです。



 以上、チェリーさんからのメールである。

ついに二十八宿が出た。中国由来の星宿だ。

月出山岳で「かんとうだけ」と読む。 


景行天皇が来た時、この山に満月が出て、その名を「なんとう山か」と久津媛に尋ねた所、久津媛が「あの山はいづこか」と尋ねられたと勘違いして「関東です」と答えたという。


月の出に関してはチェリーさんの言う通り、特定しにくいものだと聞く。新月の観測はどうしようもないだろう。部族によっても、暦の基準は異なる。


月出山岳の山頂には二十八宿の遥拝所もあるというので、そこでも天体観測が行われたのだろう。


チェリーさん、ありがとうございました。


20241103


# by lunabura | 2024-11-03 13:37 | 日と鷹と三隈 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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