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ひもろぎ逍遥

日本武尊の足跡 浅木神社 日本武尊と斉明天皇が船を寄せた


日本武尊の足跡


浅木神社 日本武尊と斉明天皇が船を寄せた


フィールドワークに勝るものは無い。
今日は遠賀川の下流から上流にかけて、四社ほど訪問してきた。
北から南へのルートだ。


最初に参拝したのが浅木神社である。

遠賀川の土手を上流に向かって走ると左手に川が流れているが、右手も江戸時代までは広大な川が広がっていた。

今は田園が広がっているが、朝木神社の鎮座する小山は遠くからでも良く分かる島のような姿をしていたはずである。







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一の鳥居の奥に小山がある。







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心地よい参道だ。小山の雰囲気が伝わるだろうか。
この道もかつては海だった。











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石段を少し上ると拝殿前に出る。





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そして、拝殿に掲げられていた「浅木神社略記」にまさにその歴史が簡潔に書かれていた。


<祭神 日本武尊、応神天皇、素戔嗚尊

<昔時、淺木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。

日本武尊、熊襲御征伐の帰途、臨幸の神跡の霊地である。第三十七代斉明天皇また此の淺木山に御船を寄せ給う。この御代より鎮祭し奉る古社である。>一部読みやすく変更


日本武尊


 武尊は熊襲討伐の帰途に立ち寄ったとある。
「福岡県神社誌」では、

<「船をこの浅木山麓に寄せて従者と共に山上に登り、四方を眺望し、旅懐を慰められ、自ら桜の木を追って麓の岸に挿し、

「私はこの山に心を留めた。願わくは、枝葉が茂り、陽春を迎えて美しい花を咲かせ、千年の春を迎えてほしい」と言った。

従者たちは争って柵を作って記念とし、海を渡って東に帰って行かれた。桜はいくばくも経たずに枝葉を茂らせて、武尊の心に応えた>(意訳)
とあり、日本武尊は麓に桜を植えたという。



斉明天皇

のちに斉明天皇も船を寄せたという。これも「福岡県神社誌」の続きに、

<斉明天皇が筑紫に下られた時、嵐に遭い、航路を変更して岡湊より内海に入られたが、夜になるまで嵐は収まらず、船は漂い揺れ続けた。この山の木でお食事の煮炊きをしたところ、その香りがふくいくとしたので、天皇が大いに称賛され、この山を朝木山と名付けられた。>

とある。

斉明天皇が長津宮への到着が遅かったのは、嵐のために遠賀川流域に避難したためだ。船を点検し、修理をするために滞在したのである。

その間、斉明天皇は川向こうの水巻町の八所神社で日本武尊に倣って先勝祈願をし、中間市磐瀬の御館山を行宮としている。

これまでは、何故斉明天皇の一行が遠賀川に入りこんだのか、理由が分からなかったが、ここにその理由が書かれていた。

実は、過去「ことのかたり」に書いているが、崋山に入り込んだ天智天皇に筑豊滞在の理由を尋ねた時、嵐のせいだと言っていた。これを裏付ける伝承が出てきて驚いている。









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さて、この本殿がなんと、茅葺(かやぶき)だった。
これは初めて遭遇だ。

この美しい本殿に三神が鎮座している。


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福岡県遠賀郡遠賀町浅木3丁目22-13





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# by lunabura | 2019-04-21 21:08 | 日本武尊 | Comments(0)

万葉の里 糸島市綿積神社 遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいる


万葉の里 糸島市綿積神社 

遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいた



糸島市志摩船越竜王崎の綿積神社の境内は「万葉の里公園」ともなっています。

まずは福田赳夫元総理の揮毫による石碑があるのに驚きました。





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万葉集巻十五 3674

天平八年(736) 遣新羅使人 引津亭舶泊之作歌

草枕 旅を苦しみ 恋ひ居れば 可也の山辺に さ男鹿鳴くも

(長い旅が苦しく あなたを恋しく思っていると この糸島の可也山の山辺で 雄鹿も鳴いている)るな訳

新羅への使者を乗せた船は難波津からこの糸島まで来るまでも、難儀の旅だったようです。

掲示板にその航路が描かれていました。












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掲示板に書かれている文を読んでみましょう。

<天平八年の遣新羅使人の航跡

天平八年(736)、阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使人の一行は、旧暦六月に難波を出航し、瀬戸内海を西に進んだ。

途中、佐婆の海(周防灘)で暴風のため遭難し、分間(わくま)の浦(大分県中津市付近)に漂着した。

七夕の頃に博多湾岸の筑紫館(つくしのたち)に着き船団を立て直して荒津を船出したが玄界灘が荒れていたため、韓亭(からどまり・西区唐泊)で三日間海が静まるのを待った。

糸島半島を廻って引津亭(ひきつのとまり・志摩町引津湾内)に停泊し、狛島亭(こましまのとまり・唐津市神集島)から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へと渡って行った。>

神功皇后伝承で見かけた地名があるので、何となく様子が分かります。

佐波海から関門海峡を目指す時、暴風の為に大分に流されています。

分間は和間の浜のことでしょう。
そこなら、船大工たちがいた所なので修理もできたと思われます。

荒津は鴻臚館があった所でしょうか。
そこで船団を立て直して糸島に出るまでにも嵐に遭い、この引津湾に避難したのでしょう。

ここまで来るのに航路の三分の二を要しています。

ここから新羅への方が短い距離なのに、いよいよ外海に出るのですから、大変な思いをしたことでしょう。







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こちらの歌碑は巻七の旋頭歌です。揮毫した人の名は見当たりません。(正面からは)

柿本朝臣人麻呂之歌集出 1279

梓弓 引津の辺なる 莫謂花(なのりそのはな) 
摘むまでに 逢はざらめやも 勿謂花(なのりそのはな)


(引津の浜辺の「なのりそ」の花
摘むまでは 逢えないが 摘む時が過ぎたら 逢えるので 人に言わないでください)るな訳

「なのりその花」は「莫告藻」とも書き、ホンダワラという海藻を指します。
花は丸い実のように見えるものを指しているのでしょう。

志賀島の沖津宮でミソギの時に採る海藻の「ガラモ」と同じもののようです。

「逢う」の漢字は男女の逢瀬を指すので、恋人に逢いたい気持ちを表します。

ホンダワラの花が咲く季節までには必ず逢います。
でも、「莫謂」(言うなかれ)のように、人には言わないでくださいという意味が込められています。

秘密の恋人に逢う約束をしているようですね。

柿本人麻呂はこの引津湾まで来たのでしょうか。
秘めた恋のお相手はどなたでしょうか。

和歌は公でも私事でも詠むので、秘密の恋なのか、みんなの気持ちの代表なのか、一首だけでは分かりませんね。







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(綿積神社に奉納されていた海藻。茶色の藻に花のような袋がついている)








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この引津湾で詠まれた歌はもっと沢山あります。

日本書紀には筑紫の事が沢山書かれていますが、万葉集もまた各地で詠まれていて、そこに立つと嬉しくなります。魅力的な世界ですね。


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# by lunabura | 2019-04-20 21:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

心施





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心施


他人の為に 心を配り 共に喜び 共に悲しむこと



「他人」とは

この地球に共に生きる人すべてを指すのだろう。

だが、せめて目の前の人にこうありたい。


20190419




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# by lunabura | 2019-04-19 20:49 | 繁栄の種 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25