2009年 10月 25日
香椎宮(Ⅰ) 古宮を訪ねて
香椎宮(Ⅰ)
福岡県福岡市東区
古宮を訪ねて

『古事記の神々』に息長帯姫(オキナガタラシ姫) (神功皇后)のお話を書きました。
この話の中で、神宮皇后が神懸かりするシーンがあります。
その場所が香椎宮には今でも伝わっている事を知って、出かけて行きました。
その場所を古宮と言います。
古宮とか、奥の院とか聞くと、見逃せません。血が騒ぎます。
厳しい暑さを避けて、台風がひと吹きした後の、涼しくなった日に出かけました。
このお宮は春には桜の花が咲き誇り、山門や本殿の両脇を、まるで姫の髪飾りのように彩ります。
朱塗りに映える桜の色の華やかさと、古代から在るものだけが持つ重みを兼ね備えた姿が
素晴らしい神社です。

ご神木は綾杉です。その周りを古代の衣装を着た翁がほうきを持って掃き清めていました。
その人に「古宮」への道を尋ねました。「本殿の脇から行けます。」と教えてくれました。
まずは本殿へ。

お参りを済ませて、教えられた通りに、右の方へ行ってみました。

「仲哀天皇 樫日宮蹟(古宮) 100メートル」との案内板がありました。
赤い塀を出たとたんに、うっそうとした森の中に出ました。
わずか30メートルほどの森ですが、古代もこのようだったのだろうかと思うと、ゆかしい気持ちになります。
道は少し下り坂です。

車道にいったん出ると、すぐ正面に古宮の表示が目に入ります。こんもりと木々が茂っています。
右横の赤い煉瓦の塀が昭和の懐かしい記憶を留めていました。
引き込まれるように正面の階段を上って行きます。

なだらかな上り坂で、10段ほどの石段を上ると、正面ではご神木を手厚く祀っていました。
綾杉とは違う、二つ目の神木です。木の名はよく分かりません。(「香椎宮」の名にちなむ椎の木かも。)
と思いながら、右の方を見ると、木立の中に上り坂があって、人を誘なっています。

その道を辿ると、すぐ奥の方に、金色の文字が彫られた石碑が見え出しました。
「仲哀天皇大本営御旧蹟」と書いてあります。 (大本営か…。)
確かに、熊襲征伐のために設営した宮だから、そうなのですが、
どこか国威高揚に励む時代の言葉のようで神域にはなじみません。
石碑の側面を見ると、大正時代の日付がありました。
(なるほど、日本が戦争をしていた時代に建てたんだ。)
ここが目指す古宮です。広さは庭付きの家が一軒建つくらいです。
周りは木立が囲んでいますが空が透けて見え、小さな丘の頂上です。
神功皇后が神懸かりして、仲哀天皇が琴を弾いたのは此処でしょうか。
そして、突然亡くなったのも…。
由緒書きを書き写してみます。(口語訳しました。)
仲哀天皇 訶志比宮(かしひのみや)址(あと)
「仲哀天皇は筑紫の訶志比宮に遷宮されて天の下を治められた」と古事記に書いてある宮の跡で、
天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。
仲哀天皇の崩御の地
天皇は開闢以来の進取革新の内外政策をご実行されていたが、惜しくも9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。御陵は大阪府藤井寺市惠我長野西陵にある。
仲哀天皇の大偉業
天皇の大偉業は実に広大にしてその一端が神宮皇后の三韓征伐である。
この宮が策源地であったために大本営址として記念碑が建っている。-略―
香椎廟址
祭神 仲哀天皇
由緒 仲哀天皇崩御されるや、ただちに天皇の神霊を祭神とした神社は他にはない。
朝廷廟として特別の尊崇を捧げられる。
奈良朝に大宰府の官人が京から下るとき、まず香椎に参詣し始めて、入府する。
春秋の大祭には帥(そち)、国郡司を引き連れて必ず参拝し、
宣命を奏するのが通例であった。 -略―
もう一つ説明板がありました。
沙庭斎場
仲哀天皇の進取革新の内外政策は開闢以来の大偉業であるため、常に沙庭(サニワ)をたてて、神の教えを乞請された聖地である。沙庭が国史に現れたのはこの地が最初である。
棺掛椎
仲哀天皇のご偉業を完遂しようとされて、神宮皇后は天皇の喪を秘し、天皇の御棺をこの椎の木に立て掛けられて、まるで天皇がここにいらっしゃるかのようにして御前会議を開かれた。
この時、御棺より良い香りが漂ったことから、香椎の名前が起こったとの地名伝説もある。
やはり、この丘が物語に出てくる場所でした。この丘は人に沿ったなんとも心地よいサイズです。
ご神木のスペースで天皇と皇后は神を祀り、平安を祈った。
ここには、許された人だけが訪れる事が出来た。
ここで天皇は突然亡くなってしまい、重臣たちがその後の事を話し合った。
そんな地に立てるのは、隔世の感があります。
そう思いながら、出口に向かうと、両脇に立ち並んだ楠木や石灯篭が宮にかしずく人たちに見えて来ました。
再び本宮に戻りました。本殿からは、広い境内が見渡せます。
ここでは何千という兵士たちが陣営を営んだのかもしれません。ざわめきが聞こえて来るようです。

帰りに見上げる楼門の壮大さに思わず足が止まりました。
そして、その楼門によって区切られた向こうの景色にはっとしました。
帰り道の景色さえ、計算され尽くしたアートでした。
息長帯姫(オキナガタラシ姫)の物語は右の『古事記の神々』に現代語で書いてます。
(オキナガタラシ姫)
地図 香椎宮

藪の中にぽつんと石碑が立っていました。囲いがかろうじてあったような。まさに「哀」って感じでした。
遺跡としては昔のほうが趣があったなぁと、思います。

戦後日が経ってないから、皇室関係の遺跡はそんなもんでした。鳥居の官幣大社の官幣が塗り消されていたころです。
皇居跡、はまちがいないと思います。

今調べてみると天皇の親せきで、日本中に「家」があるのですね。つまり竹内神社のことかと今頃思っています。でもその時の場所は、香椎宮の中ではなく、その北、不老水への道あたりだったようなきがします。

ここでなくなったんだなぁ・・・って思いました。
武内家は今も健在で、おっしゃる通り、不老水の近くにありますよ。
家は新しく建て替わっていますが。
当ブログでも、不老水は記事にしています。
たぶん、サイドバーの香椎宮から入ると、簡単に出て来ると思います(^-^)

この頃記憶はハチャメチャで、冷蔵庫開けてなに取るんだか忘れても、昔の記憶はしっかりしてて。
昔の記憶、どんどん思い出してくださいな。


