2009年 10月 30日
小山田斎宮 (Ⅰ)神懸かりの地を捜して
小山田斎宮 (Ⅰ)
福岡県古賀市小山田
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

香椎宮での、仲哀天皇の突然の死。
何故、天皇は亡くなったのか。神功皇后(オキナガタラシ姫)と竹内宿禰は
神意を尋ねずにはいられませんでした。亡くなったのは2月6日。大変寒い夜です。
天皇の亡骸は、すぐに山口県の穴門の豊浦の宮に船で移されました。
香椎に来る前に天皇が都とされた所です。
竹内宿禰が船に乗って送り、戻って来たのが、22日。往復で16日です。
神のご託宣を伺うために斎宮が営まれたのはいつでしょうか。
日本書紀を見ると、3月吉日に斎宮へ行ったと記述がありました。
天皇の崩御後、約一か月が経っていました。
この間に場所の選定がされました。穢れを特に忌み嫌う時代です。
神託を伺う場所は、香椎宮以外の地が求められました。
斎宮の場所については古典の本には、分からないと書いてあります。
しかし、香椎宮の近くに、伝承が二か所に言い伝えられています。
福岡県古賀市「小山田の斎宮」と粕屋郡久山町「山田の斎宮」です。
どちらかが、神功皇后の斎宮の可能性があります。
日本書紀には「小山田の斎宮」とはっきりと書いてあります。
しかし、現代では「小山田」は忘れ去られて、「山田の斎宮」の方が有名です。
江戸時代にも論考があっていますが結論は出ていません。
江戸時代では実際に確認しには行けなかったでしょう。
平成の今だから車で簡単に出掛けられます。
ようし、まずは自分の目で確かめてみようっと。
まずは古賀市の小山田の斎宮について書きましょう。

車で行くと、道は山脈に向かって進んで行きます。川沿いに上って行きます。
かつてはこの川を船で向かったのでしょう。
オキナガタラシ姫の一行が、香椎宮から船で海に出て、
右の方に進路を取って、海上を進めば、ほどなく小山田に向かう川口が現れます。
そこから入って、それを遡上して行けばここに着きます。
青々とした山脈に車で近付いて行くと、ワクワクして来ます。
船なら尚のこと、上陸が期待されたでしょう。
小山田の斎宮は山里にありました。小さな集落の中です。
ずっと昔からこの地の人々がコミュニティーを作り、力を合わせて暮らしていたのが伺えます。
中央の小さな神奈備山。こんもりと樹々が茂っています。
そこが目指す小山田斎宮でした。

鳥居の左脇に小山田斎宮の石碑がありました。

鳥居をくぐって行くと、すぐに二つ目の鳥居がありました。やたら古いです。
周りはイチイガシの自生地でした。古木が立ち並ぶのですが、
左右は小さな崖になっているので、杜は明るい印象です。
巨木を見ると、気分が高揚して来ました。見ているだけでうれしくなります。
こんな反応をするのは、私だけかなあ。

あれ?参道の雰囲気が香椎宮の古宮への参道と似ている。
そう、斜面の傾斜と距離がほどよいサイズという印象がよく似ているのです。
ほどなく本殿に着きました。開けた敷地に宮が建ち、五色の旗が風に靡きます。
お祭りが近いのでしょう。

この神社が氏子の方たちが大切にされているのが伝わってきます。
社殿の奥の方には山が続きます。ここは、ちょうど海に突き出た半島のような地形です。
本殿の前に立って手を合わせると、どこからか花の香りが漂って来ました。
古賀市の『小野村史』を見ると、斎宮について三か所も記事があります。
地元の伝承があるなんて、超ラッキーです。順に口語訳してみましょう。
日本書紀にある小山田邑は即ちここである。村社斎宮は字大裏に在り、その昔、神功皇后が三韓征伐に行かれる時、神の教えを請うために、斎(いつ)き籠(こも)られた宮所で、古宮の地を聖母屋敷と称え、本社の西南、小川を隔てて谷山とのさかいの丘の上にある。聖母とはオキナガタラシ姫の事です。セイボ、ショウボ、ショウモという読み方をします。
今も小さな祠が五個ある。この地を汚せば必ず祟りありと言い、いにしえには香椎と並ぶ宮所であったが、兵火に遭って焼失して、文禄三年に今の社地に移し奉るものである。
ご神宝に神面を始め、斎宮当代の古祭器、古器物など、十数種類あってご由緒著しい。
明治40年1月8日、神饌幣帛科料供進社格に進まれて歳月を経て、次第に繁栄して、まさに崇敬すべき神社である。
当代の人々に、よほど慕われていたのですねえ。
(Ⅱにつづく)









