2009年 10月 30日
小山田斎宮 (Ⅱ)神懸かりの地を捜して
小山田斎宮(Ⅱ)
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
さあ、村史の次のページも読んでみましょう。
見てみると漢字だけです。仮名交じり文にもなっていません。
「、」や「。」さえついていないのです。誤植も多いし…。う~。こりゃ無理だ。読めない。 (;一_一)
該当する岩波版の『日本書紀』で訳してみます。
訳してみてびっくり。なんと迫力ある神懸かりのシーンが書いてありましたよ。
村社 斎宮神懸かりとか、サニワとか、こうやっているのですね。なんだかすごいです。知りませんでした。
祭神 天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
由緒 日本書紀 巻九の「オキナガタラシ姫(神功皇后)の尊の巻にこう書いてあります。
仲哀九年の春二月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御されました。この時皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。
そこで、群臣と百人の司たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。
三月の壬申の一日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となられました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。
「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。
「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。」と。
烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。
「他におられますか。」
「天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
と有ります。これが即ち、本宮の起源です。
この託宣でここにはオキナガタラシ姫の尊を一緒に御桐殿に合祀しています。
オキナガタラシ姫の尊は神恩を祈願して、稀有の神蹟を得ました。
斎宮ご祈願霊蹟
聖母屋敷は本社の西南の小川を隔てた所にあって、今は民有地だ。
中央に聖母宮の小さな祠があり、周辺には大神宮址、武内社、-略―。
さて、この小山田斎宮に来て新たな謎が出て来ました。
Q1交通手段は本当に船なのでしょうか。
さきほど、船で行ったように書きましたが、 実際どうなのだろうかと思いました。
すると、この『小野村史』に答えが見つかりました。
「古賀村にて海に入る」 という一文があったのです。
この地に、古代の船のルートがあった事が確認できました。
Q2移動時間はどのくらいかかったのでしょうか。
ここから香椎へは何日かかったのでしょうか。
そう思っている時、たまたまテレビを付けると、NHKの「街道てくてく旅」で原田早穂ちゃんが、
香椎宮から青柳まで、旧街道を歩いていました。なんというタイミングでしょう。
彼女は朝出発して、三時には着いていたと思います。
その青柳から小山田まではさらに1時間はかからないでしょう。
彼女はのんびりと人と出会いながら歩いて、この時間です。
なんだ、速足の人なら往復が簡単にできるような距離でした。
古代の船の速度は歩行速度とあまり変わらないと確か船の本で読みました。
香椎宮から船に乗って、一旦海上に出て、右に舵を取り、
しばらく海上を通って、川を遡れば丸一日もかからずに着くのですね。
疑問の一つがテレビのおかげで簡単に解けました。
さて、こういう事から、この「小山田斎宮」については、否定する要素が全くありませんでした。
日本書紀に書いてある「小山田」の地名もそのまま残っています。
わざわざこれを否定して、「山田の斎宮」に軍配をあげるのは却って不自然だなと思うようになりました。
Q3 何故この地が選ばれたのでしょうか。
ここは香椎宮に到着する前に、一度来た所らしいです。
北九州からやって来ると、最後の停泊地になった可能性があります。
神功皇后の一行は、ここで旅の汚れを落とし、
明日はいよいよ宮へと向かうために、装いを新たにしたのではないでしょうか。
香椎宮から程よい距離で、土地勘がある小山田を思い出して、
そこを斎宮にしようと決めたのではないかと思うようになりました。
でも、これではまだまだ納得できません。
さあ、もう一つの候補地、「山田の斎宮」のについても調べましょ。
千年以上も経つイチイガシの巨木です。
仲哀天皇が亡くなった事情は、右サイドバーのリンクからどうぞ。
『古事記の神々』のオキナガタラシ姫に書いています。
地図 小山田斎宮