2009年 11月 10日
伊野天照皇大神宮 (Ⅲ)アマテラスの二つ目の伝承 海妻甘蔵のお話から
伊野天照皇大神宮 (Ⅲ)
アマテラスの二つ目の伝承 海妻甘蔵のお話から

海妻甘蔵の伝える伊野皇大神宮の始まり。
神社史にはもう一つの縁起が書かれていました。
『伊野皇大神記録』と言います。
その著者の海妻甘蔵は貝原益軒から200年後の幕末から明治の人です。
彼は青柳種信の『筑前国続風土記拾遺』と『日本書紀』を参考にして書いています。
伊野天照皇大神宮のいわれ
天照皇大神のご神魂を、筑紫の道の口、糟屋郡の伊野の里にお鎮めになって
この国を守り、ご神宝とともにお祀りしていらっしゃる由来を尋ねたところ、
神武天皇が大和の国の橿原の宮で皇位につかれてから14代目の
足仲彦尊(亡くなった後に仲哀天皇と送り名をした天皇)の時代のことです。
熊襲征伐の途中、香椎宮で崩御した仲哀天皇は
「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」
という神の託宣を疑ったために、その祟りをうけ早死にしました。
そのことを知った神功皇后は、小山田の村に斎の宮を建て、
神にお詫びを請いました。
三月吉日に自ら神主となり、ご託宣した神の名を求めました。
その結果、伊勢の国五十鈴の宮に祀られた天照大神であることが
わかりました。
そこで、神功皇后は伊野の里にそびえて高い神路山を
天照大神の天降る聖地として祭ったため、
熊襲をはじめ新羅・高麗・百済の三韓の討伐を遂げることができました。
仲哀天皇が登った高岳が伊野の里にあり、
斎野(いつきの)が転じて伊野となり、
はるかのちの世に猪野村となったといいます。
この海妻甘蔵と貝原益軒のお話は、全く別々の由来を述べていますが、
これは、どちらもこの宮で起こった事としていいのではないでしょうか。

そうすると、アマテラスは合計三回、
この地に祀られたことになります。
神宮皇后が神託を得て、ここに天照大御神をお祭りした。(一回目)という事になります。
それから、足利時代、京都で祀られていた天照大御神は
豊丹生(ぶにゅう)氏と共に、英彦山を経由して、この伊野へ。(二回目)
秀吉の頃に、略奪を恐れて宝満山のふもとに隠されたが、
盗まれて、大分県のゆすはら八幡宮へ。
そうして、再びこの地に戻って来られた。(三回目)
この三回ともアマテラスのお告げによって祀られました。
よほど、天照大御神はこの地を愛していたのでしょうね。
まるで、元伊勢のお話のようです。
ネットで検索して、このブログにたどり着き、なるほど、こんな由緒があったのか~っと感動しました。
ありがとうございました^^
またしても、引用させていただきました。
いつも、ありがとうございます。
「地図でつなぐ聖地の旅 筑後国一宮「高良大社」その17」です。英彦山と遠見岳のラインについてです。
「その18」では、遠見岳と櫛田神社(博多・野芥)のラインについて書いてあります。
どう解釈していいのか、わからないのですけど…
お暇な時にチラッと見てやってくださいね!
一緒に登った方が、頂上は成形してピラミッドになっていると言われていましたが、本当かどうかは分かりません。
天照皇太神宮は江戸時代に現在地に遷座しています。元宮は麓のバスセンター近くの民家の間です。それでも、境内整地中に鏡が出たということなので、既に祭祀が行われていたと思われます。
鏡は宗像の人が持っていったそうです。









