2009年 10月 24日
香椎宮 (Ⅱ) 古宮とスピカ
香椎宮 (Ⅱ)
福岡県福岡市東区
古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった
そんな社伝に魅かれて

二か月前に、古宮からオキナガタラシ姫(神功皇后)の斎宮を探しに行って、
ずいぶん遠回りして、再び香椎宮に戻って来ました。
その時には半信半疑だった事を今日は書こうと思います。
それは友達が送ってくれたコピーから始まりました。
「橿日宮(かしいぐう)の社伝によれば、“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」
(真鍋大覚『灘の国の星 拾遺』)
この香椎宮ではスピカを祀っていたという一文が強烈に心を揺さぶりました。
出た。ついに出た。星の伝承が出て来た。
そこで、とりあえず、古宮へ行ったのが、香椎宮(Ⅰ)です。
そうしてスピカや伝承を調べて、今ここに舞い戻って来ました。
ここが「スピカを祀る日振宮」だというのです。
何か痕跡があるでしょうか。
まず、この地で天体観測が出来なくてはなりません。
この古宮の広さは庭つきの家が一軒たつほどの広さです。
見回すと、周囲は大きな木々が立ち並んでいます。
これがなかったら、小さな丘なので、太陽や星を観測するのには都合のいい所だと思いました。
古代の天体観測をする地点に、これまでも何カ所か行ったのですが、どれも、意外に狭い所でした。
狭い理由は、その方があまり動かずに観測出来るからです。
なるほど、真っ暗な夜中に星を観測するとなると、確かに座ったままで観測できる方が安全で効率的です。
この地はその条件を満足しているなと思いました。
また、目当ての山などがあるはずです。
東の崖の所に立つと、山の峰が見えました。この山のどこからか朝日が昇ったことでしょう。

古宮の東の端から、外を撮りました。足元は崖です。
春分秋分の象徴としてスピカを祀る。
これはいったいどういう事でしょうか。
まず、春分と秋分について確認しましょう。
秋分と春分の日には、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。昼と夜が同じ長さです。
辞書を調べると、この日には天皇が皇霊殿で大祭を行っているそうです。
皇霊祭と言います。
天皇は太陽神アマテラスの子孫ですから、太陽を祀るのは大切な儀式です。
それが、春分と秋分に連綿と執り行われている訳です。
仲哀天皇もこの香椎宮にいる時にも、きっと日子として、祭祀をした事でしょう。
「日振り」とはなんでしょうか。
「日振り」については、『灘の国の星 拾遺』に説明がありました。まとめてみます。
福岡県那珂川では仲哀天皇の頃から、御火焚(おひたき)の祭事が始まり、今も部落ごとに守られている。太陽暦と陰暦のずれを計算して、太陽暦にする。
氏族が自分たちの部落の行事に適するように編纂した暦を新しく神に供えると同時に、旧の暦を焼き捨てる。
これが御火焚(おひたき)の発祥であり、この名前はギリシア語のキタヒから来ている。それを書いた本の名前がビブリオンで、「日振り」の語源に当たる。
木の幹を小さく割って大小さまざまに一年の月日を並べて、衆議一決するまで立て替え並べ直して、納得の行くまで日取りを組む。これが「日振り」であった。
そして、これが出来上がると、氏族一同に触れて回る。これが「日振れ」である。年ごとの資料は神殿に奉納して子子孫孫に伝える。これが「国繰(くにく)り」であり、「国縫い」であった。
太陽暦と陰暦の差は現代も調整が難しい。
太陽の運行は正確には一年に365日ではないので、四年に一度、366日の年を作って調整します。
陰暦は月の満ち欠けを基準にしますが、一か月を30日としても、30日×12か月=360日。
6年経つと、一か月の差になります。季節が全く変わります。
この5~6日の差をどうするかは、難問で、国や氏族で個性がありました。
これを専門に計算する人たちが古代にもいました。日本では安倍清明の家系が有名です。
この本の著者の真鍋大覚氏の家系も、暦を伝える家系でした。
(この本には、古代ギリシアなどが出て来て、驚きますが、高松宮宣仁親王の指示によって出来た本で、
那珂川町が出版した本です。)
古代の人々は、氏族によって習慣が違う上に、暦の基準も違いました。
これをどうつき合わせるかは、大切な政治でもありました。
もし、暦がないと、「来年1月1日にまた会おう」と言っても、
太陽暦の人と陰暦の人では、違う日に当たるのです。
暦のすり合わせは、大切なイベント で、古代史を理解する上でも研究の余地があるように思います。
日本の天皇は太陽を観測し、太陽の気を下ろし、暦の設定の任を負っていたと思われます。
あの古宮は「日振り」をするための基準を確認する、そんな神聖な天文観測所だったのです。
香椎宮は何度も炎上して、古代の文献が残っていないそうです。しかし、社伝で言い伝えていたのですね。
「橿日宮の社伝によれば“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」

古宮の端っこに立って撮りました。
では、スピカとは古代、どんな役割の星だったのでしょうか。
スピカは乙女座の星です。白く輝く星で、日本では真珠星と言っていたそうです。
この事も真鍋氏の本から見つける事が出来ました。
『灘の国の星』より
乙女座のスピカを若狭の国三方では「しんじぼし」と呼ぶ事を野尻抱影氏が書いている。
「しんじ」とは古語で、昼と夜が同じ長さで、冬と夏が接する彼岸の中日、即ち春分、あるいは秋分のことであった。別名を「しなつ星」「ひなかば星」とも言う。
スピカは春分の中日と秋分の中日のシンボルでした。
氏によると、星の観測は皇后の神事だったそうです。すると、神功皇后はこの日スピカを観測したのでしょうか。
幸い、現代では星座ソフトでその夜を再現できます。ステラ・シアター・プロを使ってみる事にしました。
調べるには、年月日の入力が必要です。
仲哀天皇が199年にここにいたと言う年代は正しいのでしょうか?
日本書紀の年代はこうです。
じつは、199年というのを、古宮で見た時には、
仲哀天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。同じ9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。
ルナは思いがけず、「え、弥生時代?」とたじろいでしまいました。
日本書紀の年代については、多くの人々が計算をして、疑問視しています。
どうしようかと、困ってしまったのですが、暦法の大家の真鍋大覚氏が年代を訂正していません。
しかも、この年は、太陽暦と旧暦が全く同じ年だったと、確認してあります。
ですから、これに従って、日本書紀の記載通りに調べて行きたいと思います。
ターゲットを設定しました。
仲哀天皇が香椎宮にいたのは199年1月21日から翌年の2月6日まで。わずか一年余りです。
ターゲットになる、春分と秋分の日は199年3月21日と9月21日、だけです。
この二日だけ、仲哀天皇が神事をした可能性があります。
場所は福岡県福岡市に設定しました。
春分の日を3月21日、秋分の日を9月21日として設定します。
まずは春分の日から。
199年3月21日 朝6:30 太陽が真東から出る。
夜18:15 太陽が真西に沈んだ。
夜18:24 スピカが真東から出る。
22日 朝6:00 スピカが真西に沈んだ。
この日は、太陽が真西に沈むと、スピカが入れ替わりに上って来て、
同じコースを運行して行きました。
こんなシーンがあったかも。
天皇が夜明け前からここで待って、真東から昇る太陽を迎える神事をし、夕方になると、真西に沈む太陽を送る。
それから、数分後、皇后が真東からスピカが昇るのを迎えて神事をし、翌朝、真西に沈むのを送る。
古代は太陽の儀式を天皇がして、星の儀式を皇后がし、皇太子が暦の調整をすると真鍋氏は言います。
神事とは、単に日や星をシンボルとして崇めるのではなく、その眼で、実際に観測して確認したという事になります。
ちょうど、韓国ドラマ「大王世宗」に暦の話が出ていました。
ルナは50話ごろから見始めたのですが、暦の話が出て来て、驚きました。
自国の暦を持つ事は、隣の国、明からの独立を象徴する事であり、
これが知られたら、戦争にもなりかねないほど、大切な事だったというのです。
日本ではすでに200年には暦を持っていたので、状況が違う訳です。
暦って、国の威信をかけてつくったんですね。なんだか面白くなって来ました。
さあ、199年の春分の日は確認できました。
では、秋分の日はどうでしょうか。
199年9月21日 朝6:11 太陽が真東から昇る。
夜18:01 太陽が真西に沈む。
スピカは太陽のすぐ傍に居て、暗くなってしばらく見えていたが、
太陽と一緒に沈んだ。
夜18:36 満月が真東から出る。
22日 朝6:32 満月が西に沈む。
スピカは太陽の傍に移動しているために、夕刻にちょっとだけ見えました。春とは全然違います。
しかし、その代わりに満月が昇って来ました。
これはパソコンの画面でも、感動しました。実際にはもっと感動的だったに違いありません。
翌年の空も同じだったのでしょうか。
翌年2月に、仲哀天皇は崩御しました。ですから、その年の春分の日は神功皇后一人でした。
それでも、この年も太陽が沈むとスピカが真東から昇って来ました。
秋分の日には、スピカは太陽と一緒に昇るために見えません。月もずれていて、特徴のない夜でした。
昔は今よりずっと寒い気候でした。スピカは春分の日には春を告げる星として、
古代の人々は格別な思いで見た事でしょう。
春分の日は、古代の福岡では、この日から雪が溶けるという喜びの日だったそうです。
「香椎」・「橿日」はともに「かしい」と読みます。
「かし」は古語で、一般的に「星」を指すそうです。すると、「橿日」とは「星と太陽」になります。
この香椎では「かし」といえば、「スピカ」を思い浮かべる氏族がいたのでしょう。
そう、香椎は古代から栄えた港町だったのです。
野尻抱影氏の本には
「昔の航海者は、スピカの近くに月が出ていると、その間隔をはかってと書いてありました。すごい話です。
船のいる経度を50キロ以内まで正しく知ることができました。」
また、
「スピーカと、北斗の柄の第二星ゼータとを結んだ直線を延長すると、北極星にとどきます。
これは北斗七星が見えない時に、北極星を発見する方法の一つです。」
雲の多い日にその雲の切れ間から、スピカを見つけると、
海の只中に居ても、北が分かり、進路が分かるというのです。
少し暗い北極星より、明るいスピカの方に、心惹かれる感じも分かります。
夜にはスピカが、昼には太陽が、方角と時を教えてくれました。
それが「かし・ひ」だったのでしょうか。
香椎を拠点とする海人族たちは、スピカを神として祀ったのでしょう。
そして、ここの海人族とは、安曇族です。
この香椎はその時代、すでに大きな港町で、物資が集まったのはもちろん、船を造ったり
修理したりする所でもありました。
だから、仲哀天皇は北九州市の近くの拠点を捨てて、この福岡市の香椎に移動したのですね。
神功皇后と仲哀天皇が、実際に古宮でスピカを祀ったかどうかは分かりませんが、
神官たちが、春分秋分の日にはスピカを祀っていた事でしょう。
ここからは蛇足です~。
現代のスピカと太陽
この後、気になる点が出て来ました。
歳差運動のために星の出は少しずつずれていくはずです。
1800年経った現在、スピカはどう見えるのでしょうか。
2009年を調べてみました。
春分の日
2009年3月21日 6:26 太陽が真東から昇る。
スピカは西南西の地平線近くにいて、沈もうとしていて、
間もなく太陽の光に消えた。
18:19 太陽が真西に沈む
20:29 スピカが東南東寄りから昇る。
秋分の日
2009年9月21日 6:12 太陽が真東から昇る
18:03 太陽が真西に沈む。
18:57 スピカが西南西に沈む。
翌朝 スピカは見えない。
現在では199年のような天体ショーは見られませんでした。
春分の日に太陽が沈んでから、
スピカが太陽の跡をたどって夜空を運行するというのは
神功皇后時代を中心とした数百年のものでした。 香椎宮(Ⅲ)につづく
HPを拝見しました。
同じ視点からの観察で驚きました。
少しずつ読ませて下さいね。
こちらの星の情報は物部氏系統の、太宰府の暦官の家系の伝承を基にしています。
サイドバーのタグで真鍋大覚で分類しています(不十分ですが)
共通する伝承があるかも知れませんね。
これからもよろしくお願いします。 (^-^)
真鍋大覚も始めて知りました。アル スハイル アル ワズンという星が重要であると見つけたのですが、真鍋大覚がこの星を氷上の星と書いているらしいですね。すごい。日本の神社は星神を祀るとして、見直すと面白いです。鎌倉と大宰府は関係が深いですよね。
氷上の星について、本で調べてみると、日向星とも言って、冬至を知らせる星のようですね。
冬至を知るのに太陽だけでは無かった。
新たな認識でした。
星神…確かにその姿を再興させたいですね。
太宰府と関係が深いとは?
お時間があったら教えて下さいませ (^-^)








