2009年 10月 23日
香椎宮(Ⅲ)天皇の崩御をどうやって隠す?
天皇の崩御をどうやって隠す?

初めて古宮を訪ねた夜、気になる事が出て来て、眠れませんでした。
仲哀天皇の死は隠された。
いったいどうすれば隠すことが出来るのか。
それが疑問として浮かび上がったのです。多くの人々が仕える宮なのです。
そんな事ができるのでしょうか。
そこで、どうやったら天皇の死を隠せるのか、今日は、にわか迷探偵の推理レポートです。
まず、状況を再現してみましょう。
天皇の死の現場はサニワの場です。天皇は御簾の中で、琴を弾いていました。
神功皇后は座って目を閉じて、神がかりをしています。
その懸った神が本物か偽物かを判断するために、竹内宿禰が一人控えています。
そして、天皇は急死した。
もし、控えの者たちを人払いしていたのなら、これを目撃する者はいなかった可能性はあります。
現場は下の写真のように、狭い場所です。
神功皇后と竹内宿禰が黙っていれば、一晩ぐらいは隠せるなと思いました。
今から熊襲を攻めようという、矢先でした。
神功皇后に降りて来た神は、「熊襲ではなく、その後ろ盾になっている新羅を討て。」と言います。
「そんな国があるとは知らない。」と天皇が言ったとたん、亡くなってしまいました。
こんな不吉極まりないことはありません。
討つのが熊襲にしろ、新羅にしろ、戦意喪失が一番怖い。
この写真に写っている範囲がサニワのあった所で、仲哀天皇が崩御された所。

正面。

横から。 ここで、会議も行われた。
敷地の奥は崖になっていて、下のすぐ近くを川が流れる。
写真の左側が入口なので、そこには護衛がいても、人払いをしたら、独立した空間になる。
二人は群臣たちを集めて会議をしました。
神社の案内板によると、棺の板を立てて、天皇と見立てて、会議をしたといいます。
群臣たちには、その死が告げられた事でしょう。そして、緘口令がしかれました。
志式神社の伝承を調べるうちに、仲哀天皇の弟王に、
十域別王と、稚武王がいた事が分かりました。(⇒志式神社)
天皇の死後、この二人が新羅まで一緒に赴いています。
兄弟ですから、この二人も会議の席に着いたと思われます。
会議のメンバーは、神功皇后、竹内の宿禰、十域別王、稚武王。
最低四人は特定できました。
これに、安曇族の長、中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)、
などが順次呼び出されたと思われます。
安曇族の長は、実行の手配のために。
中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)は、
その後、竹内の宿禰に代わって、審神者をする事になります。(⇒小山田斎宮)
「遺体が腐敗する前に、ここから運び出さなくてはならない。」
「殯(もがり)をせねばならない。」
「どこで殯をしたらいいのだ。」
兵士たちから隠せて、しかも、管理が出来るところ。
それが山口県の穴門の豊浦宮でした。
日本書紀に書いてあります。香椎宮の前に作った宮です。
ここなら、兵団から、目の届かない所でした。
「天皇の姿が見えないのをどう言い訳するか。」
ルナの頭で、あれこれと考えましたが、せいぜい、「天皇の身を安全な所に置くため」
とか、「やや、具合が悪いので、静養するため」とかしか思いつきませんでした。
(日本書紀の別伝では、熊襲と戦って、矢が当たり、
その傷が原因で亡くなったという説も書いてあります。)
「誰かに天皇の衣装を着せて、ダミーを作ろう。」
生きた天皇が、豊浦宮に戻るように見せる案が一番妥当でしょう。
しかし、遺体をどうやって運び出すのか。
この疑問は現場を思い出したら、容易に解決しました。
香椎宮から海まで川が通じているのです。
途中までは実際に歩いて確認しています。
まだ、未確認の所は古宮のあたりだけです。
はたして、古宮の傍に川が届いているでしょうか。
そこで、ルナは再び確認しに行きました。
古宮の手前から左に歩くと、やはり川がそばを流れていました!
これなら、船をすぐそばに付けることが出来ます。
夜陰に紛れて、極秘のうち遺体を運び出すことは簡単です。

古宮の裏側から撮りました。古宮に沿って川が流れています。
この水路は昔はもっと幅が広かったそうです。左上の森が古宮です。
棺はどうやって調達するのだ?
まさか、ここで作らせるわけにはいかないでしょ。
弥生時代は甕棺が普通だけど、そんなのを持ち込んだらバレバレです。
古墳の発掘現場で、舟形石棺とか見たことあるなあ。
そうだ。
丸木舟をそのまま棺にしたらどうだろう。
そういえば、長―い丸木舟の型の木棺を写真で見たこともあるし。
遺体が腐敗しても、丸木なら防水をしなくても大丈夫。
現代では、ドライアイスを沢山使うのですが、移送する時間がかかる事を考えると、これが一番かな。
この時代に丸木舟型の木棺があるかどうか、ネットで確認すると、
ちょうど同時期の丸木舟の木棺が出土していました。
崩御が2月6日の厳冬の頃なので、腐敗は遅かったでしょうが。
殯(もがり)をせねばならない。
さて、その丸木舟を載せた船は、何処を目指せばいいのか。
それが先ほど書いた、山口県の穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)です。
そこは九州に入る前に、二人が合流して、宮として住んだ所です。
仲哀天皇はその宮を出発して船団を率いて、ここまでやって来たのです。
ここなら、留守を預かる者もいて、隠しやすい。
こうして、仲哀天皇は志半ばで倒れ、亡骸となって、密かに、誰にも知られずに豊浦宮に運ばれました。
送り届けたのは竹内の宿禰です。
崩御は2月6日。彼が戻って来たのが、22日。この間、16日です。
崩御されて、会議があって、船に乗せられるのに二、三日ほどかかったとして、
香椎宮から豊浦宮まで、船でどのくらいかかるのでしょうか。
これが次に気になり始めました。
豊浦宮で、殯(もがり)の手配をするのに、三日は欲しい。(と、勝手に想像)
すると、10日位で船で往復できるのだろうか。香椎と下関の間。
これを調べなくてはなりません。
幸いにも、これについては、大変貴重なデータがみつかりました。
実験考古学の資料があった!
『大王のひつぎ海を行く』(読売新聞西部本社編 海鳥社)という本が出ていました。
大和地方の古墳の石棺が、熊本県に産出するピンクの石で出来ていました。
いったい、これをどうやって、運んだのだ!?
という事で、古代の船を実際に造り、石棺を作り、手漕ぎで搬送するという実験があったのです。
そのルート上に、ちょうど志賀島から下関が重なっていました。
その行程は、わずか4日でした。それに予備を加えると、5日で行ける!
往復で10日。どんぴしゃりです。
日本書紀の記事はこの実験で証明されました。
火無し殯(もがり)の宮
留守を守っていた豊浦宮では、天皇が亡骸で戻って来られて、仰天、驚愕した事でしょう。
武内の宿禰の采配で、ただちに殯の場が整えられました。
もがりでは、遺体が腐敗する間、人々が哀悼の儀式をするのですが、
灯火を燃やし続けます。
しかし、天皇の死を隠していたために、火は焚かれなかったそうです。
神功皇后は、新羅から凱旋して、改めてそこで葬儀をしました。
御陵は大阪府藤井寺市惠我長野西陵にあるそうです。
(そちらにお住まいの方、今どうなっているか、よかったら教えて下さい。(^-^))
という事で、新羅征伐の間、天皇の崩御は無事に?隠されたのでした。
以上、にわか迷探偵の推理レポートでした。
☆ あれから一年。日本書紀に会議のメンバーが書いてあって、
十域別王と稚武王は除外されているのが分かりました。 (・.・;)

御陵は全部宮内庁が定めたものだそうです。発掘してないので学者も真実の被埋葬者は誰か断定できないようですが、、、、、。またそのうち藤井寺市の文化遺産関係の地図や記事を、ブログにアップしますね!
地図はボチボチでいいです。本を見たらそちらは遺跡だらけですね。先は長いです。
ところで、今日は室温38度を記録しました。暑さも忘れて、古代の旅です。(エアコンの中です。)
それから、この仲哀天皇崩御後の会議のメンバーは日本書紀の方に具体的に書いてありました。まだ、訳していませんが、いずれ加筆したいなと思っています。
「大王のひつぎ海をゆく―謎に挑んだ古代船 」
図書館にリクエストして読むつもり~。
「大王のひつぎ」を読むと、阿蘇のピンク石をわざわざ関西まで運ぶこだわりに驚きです。石は本当にきれいなピンク色をしてます。(*^_^*)

北部九州には神功皇后に関わる地名が多くあって、興味をそそります。
この記事はブログを書き始めたばかりで、古代史も良く分からないで妄想を楽しんでいます。
難しい言葉も別の記事で多分説明したんでしょうが、これからは説明をこころがけますね。
二年間で福岡県内の神功皇后伝承を持つ神社を百社まわりました。
ですから、今では少し考え方も変わりました。
例えば稚武王たちには内緒にしたんじゃないかなってね。
でも、どうせすぐにばれるんですが。
どうぞゆっくり遊んでいってください。

ブログが大きいので読み終えておりません、お詫び致します。
私も妄想しながら楽しんでおります。神功皇后は神がかりするし、軍を率いるし、知ることが増えれば、増えるほど、楽しみが増えます。
稚武王には知らせなかったかもしれませんね。
仲哀天皇は、どこで即位したのかも疑問でなりません。
これから、ゆっくり、読んで参ります。
宜しくお願い致します。
仲哀天皇を訳していると何故か奈良や大阪が出て来ないので不思議に思ったのを思い出しました。
亡くなり方も、いくつか日本書紀に書かれていますが、福岡でも三か所で別の亡くなり方が伝わっています。
(糸島市宇美八幡宮・小郡市御勢大霊石神社・香椎宮)
継体天皇紀を見てたら、仲哀帝の子孫がさらに出て来て、これまたびっくり。
何か不思議な気配がある天皇ですね。

仲哀帝の子孫が、継体紀にですか・・・、知りませんでした。
継体帝も、不思議ですね。
後者の方が事実に近いのではないかと今では考えています。
(御勢大霊石神社伝承)
福岡県の小郡市で討たれ、香椎宮に搬送されています。
しかし、どの時点で絶命したのか、よく分からないのです。
継体紀に子孫が出て来たのを私も一昨日読んだばかりです。
タラシナカツヒコでしょ。
発音がタリシヒコに似ている。なんだかますます迷宮入りしそうです。
最近すご~く気になっています。

神功紀に有るのでしょうか、私は見落としていたのでしょう。
天皇が戦闘や戦傷が原因で死んだケースが、私は紀の中に有るかどうかを知らないのです。天皇の死因を別にする必要が有ったのでしょうね。
継体紀に出て来る仲哀帝の子孫は倭彦王のことですね。見落としていました。
この亡くなり方が余りに不名誉なので、(天皇にとっても、物部氏たちにとっても)審神者(さにわ)の途中で突然亡くなった事にしたのかなと思っています。
毒殺説も地元にはありますよ。
仲哀天皇の事を調べてあるのですか?
何かあれば遠慮なく尋ねてください。 (^-^)

お手数をお掛けしております。
日本書紀「九年春二月癸卯朔丁未天皇忽有痛身而明日崩時年五十二即知不用神言而早崩一云天皇親伐熊襲中賊矢而崩也於是皇后及大臣武内宿禰匿天皇之喪不令知天下」ですね。「天皇忽有痛身而明日崩」と有るのが意味深長
にも思えます。
気が付きませんでした。
神功紀には年代的に無理があることを、記紀成立直後の読者にも容易に判る様に書いてあることが不思議でなりません。
それで、仲哀天皇辺りから、読み直しています。
また、お教え下さる様お願い致します。
仲哀天皇の子である誉田別皇子は死後に二つの名前をおくられます。
誉田天皇と応神天皇です。
これだけでも異常です。
別人としか考えられません。
皇子の生誕地も今は宇美八幡宮で落ち着いていますが、地元では数カ所伝えられています。

>誉田天皇と応神天皇です。
日本書紀「二年・・・生麛坂皇子忍熊皇子 『次娶来熊田造祖 大酒主之女 弟媛 生子誉屋別皇子』」と有ります。『』の文が有ります。
記にはありませんが、この皇子が天皇になった可能性は棄てられないと考えます。
>別人としか考えられません。
そう考えます。
仲哀天皇も最高位ですから、他に皇子は大勢いただろうとも思うのですが、当時の皇太子は香坂王か忍熊王だったのだろうなと想像しています。
謀反を起こしたのは、神功皇后勢とするのが合理的ではないかとも。
そこに正義をもたらそうとする人たちがいるんだな、とか考えています。
それが応神天皇の係累ではないか。百年以上のタイムの差を堂々と捻じ曲げている。
今のところ、そんな推理をしています。

そんな記憶もあるのですが、見つけ出せませんでした。
>神功皇后勢とするのが合理的ではないかとも。
そうなってしまいますね。 で、実は仲哀天皇は神功皇后と共に外征し、そこで負傷、急遽帰国、死亡という筋書きならと・・・妄想を
>百年以上のタイムの差を堂々と捻じ曲げている。
はい、ここで述べていることは、虚構ですと言っているように思えます。そして、」そこに事実のヒントを残しているかも知れないとも、妄想しています。
これは学者の良心のたまものと思いました。
為政者の求めるものと、真実を求める学者のせめぎあいのなか、
編者たちは、暗号として残して真実を伝えようとしたのかも知れないなあと時々思うのです。

私もそうだと思っています。
私に出来るのは、妄想だけであるのが、悲しい所です。
前のコメントの趣旨、ようやく気付きました。
>誉屋別皇子が神功皇后のもう一人の子
又娶息長帯比売命是大后生御子「品夜和気命」次大鞆和気命亦名品陀和気命
古事記に有ることに気が付きました。大変お恥ずかしいことを致しました。
そして、仰っている意味の想像が付きました。
誉田天皇の名から言うと、次男の品陀和気命が誉田天皇。
となると、応神天皇は誰、長男の品夜和気命は夭折したのだろうか・・・
さらに、継体天皇の即位にも繋がって、品陀天皇は誰かに・・・・
成務天皇の次に即位するのは、五百城入彦命か品陀真若王でも納得できます。
仲哀天皇は香椎と穴門で治天下することになって、兵力不足を神功皇后に頼らなければならなかったのかもしれないと考えています。
(神功皇后が親征しなければならなかった理由がそこに有る気がします)
判らないことが多くて、妄想がどんどん広がります。
なるほどですね。そういうアイデアは思いつきませんでした。
そこに、八幡(八ッティ)とのつながりのヒントがあるかもしれません。
また、神功皇后が豊浦宮時代に、精力的に造船のために周防灘沿岸を動ける理由が見えて来そうです。
ところで、久留米市の高良玉垂宮の秘密書には、神功皇后の子供が9人と伝えていますよ。
うち四人が仲哀天皇との子供です。
詳しくはサイドバー→高良玉垂宮→(7)(8)
これもまた謎が深いです。

いいえ、妄想ですから・・・・
>そこに、八幡(八ッティ)とのつながりのヒントがあるかもしれません。
おお、そこまで行きますか、私の能力の限界を超えています。
>神功皇后が豊浦宮時代に、精力的に造船のために周防灘沿岸を動ける理由が見えて来そうです。
なるほど、それには気付きませんでした。
私は、仲哀天皇の母である両道入姫の名前が気になってなりません。
穴門で治天下することになったのは何故かと併せて考えています。
>ところで、久留米市の高良玉垂宮の秘密書には、神功皇后の子供が9人と伝えていますよ。
>うち四人が仲哀天皇との子供です。
>詳しくはサイドバー→高良玉垂宮→(7)(8)
>これもまた謎が深いです。
有難うございます。
拝読致しました。
神功皇后はトロイのヘレンのように魅力的な女性だったのかもしれませんね。
穴門で治天下することになったのは何故かと併せて考えています。
そうそう。母方を調べるのはポイントですね。
竹内宿禰に関してはそう思ったのですが、仲哀天皇の母については思いもよりませんでした。
穴門がどうして都になったのか。
何か妄想でいいので、アイデアはありますか?
私は、その北にある銅山を守るためかなと考えたりしています。

そうなんですか・・・・
小碓の尊の妃とありますが、小碓の尊亡き後・・・どうなったのだろうかと妄想しています。
仲哀天皇をどこで育てたのか、両道入姫命の名前は何かを意味しているのだろうかと考えています。
>穴門がどうして都になったのか。
>何か妄想でいいので、アイデアはありますか?
残念なことに、まだ妄想出来るまでに、到っておりません。
>私は、その北にある銅山を守るためかなと考えたりしています。
銅山があったことを知りませんでした。
そうかも知れませんね。
採掘などの技術者が多数いたこと、武器の製造のためかもしれません。


