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高良大社(4)高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ


高良大社 高良玉垂宮(Ⅳ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
アンドロメダ星雲と暦の変化 


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高良山をネット検索したらウィキペディアの説が目に止まりました。
それにはこう書いてありました。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、
高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、
高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになった
という説もある。
現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

この話の出所が分からないのですが、気になってさらに調べてみました。
すると、地元の人がブログで同じような伝承を書いていました。言い伝えがあるようです。

そこで、今回はこの伝承の謎にチャレンジする事にしました。
「結界」は神護石を指している?
まず、「結界」という言葉に注目しました。
これは高良山にある神籠石(こうごいし)の事ではないかと思いました。
神籠石とは謎の列石で、高良山の山中にぐるりと置かれている石積みの事です。

これについては目的も時代も分かっていません。
しかし、同じような神籠石が西日本の各地に十カ所ほどあります。
この謎の列石を神話的に言い換えて、ここでは結界だと言っているのかなと思いました。

高木の神とは?
それでは、もともと高良山の氏神だった高木神とはどんな神様なのでしょうか。

高木神は何かのを暗示しているのではないかと思って
『儺の国の星』を調べると、やはり出て来ました。
高木星という星がありました。
これはあの有名なアンドロメダ星雲の事でした。
文中にこう書いてあります。
日本人も蒙古人も、その遥かな祖先はアンドロメダ大星雲を拝していた。
神代紀に出る高木の神がそれである。これを大嶽(だいがく)と名付けていた。

このアンドロメダ星雲を崇拝していたのが「日本人も蒙古人も」と言っているのには訳があります。

それは1264年の出来事です。
モンゴルと日本で同じ年に元号が変わったというのです。
日本は文永元年となり、蒙古は至元元年となりました。

その理由がこのアンドロメダ星雲に関わっていたという事なのです。
これを理解するために、本には暦法の説明が書かれています。
おおよそこういう事です。

「太歳」について
天皇が変わると暦法を選定する儀式があって、それを太歳と言いました。

これは天皇一代のうちには変更できない暦ですが、治世が長くなると、
「星による暦」と「太陽による暦」のずれが溜まってしまって、
現実と合わなくなるので、適当な時期に改元をしてそのずれを調整していたそうです。

ところが基準とする日に日食が重なる事があったそうです。
それが起こったのが、1264年でした。

日本は文永元年、蒙古は至元元年と改元したその年は、
春分の正午にアンドロメダの中心が重なった。西暦1264年であった。


これはどういう事かと考えたのですが、日食のときには空が暗くなって、昼なのに、星が見えます。
その時、アンドロメダが暦の基準線の所にいた(例えば南中したとか?)のではないかと、考えました。

当時の人々はこの気象現象を観測して日食を畏れ、またアンドロメダが昼間に輝いたのを畏れて、
日本も元の国も改元したらしいのです。

アンドロメダの華麗な渦巻きの中心には、昔はまばゆくきらめく超星があった。
昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。

と、真鍋氏は書いています。

当時はアンドロメダ星雲は夜空で今よりもずっと輝いていたというのです。
そして、太陽と並んで崇敬されていたというのです。

真鍋氏の本を理解するのには歳差運動の計算を理解する必要があるので、
この「日食とアンドロメダの関係」については難しくて、文面からなんとかここまで解釈が出来ました。

この現象は神功皇后の時代にも起こったそうです。201年と220年と228年です。
そのために彼女は太歳を三度も行ったそうです。
アンドロメダ星雲が昼間に観測される事は古代の一大事だったようです。

遷都する理由
さて、太陽と星は日々にずれて行き、70年もすると、素人の目にもそのずれが明瞭になってしまいます。
当時は山の頂上や峠が観測の基準になっていました。

目印の山と、ずれてくるのです。
そのために、星や日月を見定めるにふさわしい土地を新たに求めて遷都をしなくてはならなくなりました。
それが神武天皇から天武天皇の時代の事だそうです。

星の暦から太陽暦へ 
その後、地勢に頼らずに太陽の観測で時を計る方式に変わりました。
それが持統天皇から現在です。

暦法の話が神話になった? 
以上の事から古代の人たちが暦を作ろうとする時には
アンドロメダ星雲を代表とする星たちと太陽を観測して作っていることが分かりました。

ですから、アンドロメダ星雲を高木の神と崇敬し、太陽を天照大御神と呼んで、崇敬した訳です。

天照大御神は有名だけど。高木の神か…。別名、高御産巣日神。
高い所で次々に星々を生みだす神?
アンドロメダ大星雲。
いったいどんな神なのだろう。

高木の神がどんな神だったのか、想像もつきません。
そこで『古事記』を訳してみました。そして、二度も驚きました。

高木の神は神話のナンバー2だった。
まず、神話の冒頭に特別な五柱の神々が出てくるのですが、
高木の神はなんと、二番目に華々しく登場しているのです。
日本神話の第二番目ですよ。

これでこの神はどれほど重要な神かと言う事が分かります。これが最初に驚いた事です。

高木の神はしかし、独神(ひとりがみ)として、そのまま身を隠してしまいました。

高木の神は本当に身を隠した?
神話を読み進めていくと、高木の神がさらに何箇所も出て来ました。

高天原で出雲を征服しようと相談が起こった時です。その時に高木の神とアマテラスは一緒に出て来ました。

話はこうです。

高天原では、出雲征服を工作するために神々を送るのですが、出雲の居心地がいいらしく、
二度も失敗してしまいます。

それに対して次々に対策を練るのですが、その時に、この二柱の神はいつも一緒に出て来ます。
いつもいつもです。
二人はペアで行動する神なのです。
まるで一心同体と言えるほどです。
二人は一緒に高天原の秩序を守っていたようなそんな印象を受けました。共同経営者です。

冒頭に身を隠したと書いているのに、高木の神は隠れてなんぞいませんでした。
大活躍です。これが二つ目の驚きでした。

この二柱の神は何故いつも一緒なのだろうか? 
二人がいつも一緒に出てくる理由を考えました。

ここで先ほどの暦の話に戻りますが、暦を作る時に、昼には太陽を、夜にはアンドロメダ星雲を
観測していた事を象徴化したのではないかと思いました。

アマテラスは太陽で、高木の神はアンドロメダ。
この二人の神が昼と夜とを分かち合って、運行しているのです。
高天原の昼と夜の秩序を二人の神が作り出していました。

なるほど…。だから、二人はセットで出て来るんだ。

暦法の変化が崇敬する神を変化させた?
アンドロメダは暦法が発達していくと、その地位を太陽神に譲ることになりました。
アンドロメダへの崇敬は天照大御神重視へと移行して行きました。
だから、現代の私たちは高木の神なんて噂もしない。

これで、アンドロメダ(高木の神)のおおよその姿が分かりました。
ここでようやくタイトルに書いた「神々の交代」の神話にチャレンジできます。

アンドロメダからカペラへ変わった事情を探る
前回までの話をまとめると、古代はこのようだったと思われます。

アンドロメダ(高木の神)が崇拝されていた時代、筑紫を縦に貫く二日市水道の中央の聖なる山に、
暦の基準となるアンドロメダが輝くのを見て人々はアンドロメダを祀り、その名を取って、
高牟礼山(高木山)と呼んでいた。

しかし、歳差運動のためにかつてのように、アンドロメダはその山頂を通らなくなってしまった。
そうするとアンドロメダを祀っていた人々は、ふさわしい地形をよそに見つけて去って行った。

時代は朝鮮との戦いなどが続いて、人々は戦いの勝利を願うようになった。
すると脚光を浴びるようになったのは、かつて新羅討伐に勝利を導いた海神の神玉垂命(カペラ)だった。
人々は聖なる山にその神を祀るようになった。

これを踏まえて、冒頭の伝承を解いてみます。もう一度書きます。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

この伝承を「星の神話」に置き換えると、こうなります。
高良山にはもともとアンドロメダが祀られていてアンドロメダ星雲山(高牟礼山)とも呼ばれていた。しかし、時代が変わり、戦が起こったりした。

すると、海人族たちは戦勝祈願と航海の安全のために、干珠満珠を司る海の神(カペラ)も共に祀るようになった。
戦争に勝利すると、そのまま海の神(カペラ→カウラ玉垂神)が祀られて、高良山と呼ばれるようになった。

そして、アンドロメダ(高木の神)は下の方で祀られるようになった。
のちに 神籠石の列石も作られた。これを人々は玉垂神の結界と呼んだ。

人々の崇敬の念は次第に太陽神に変わって行き、アンドロメダ星雲のことは忘れ去られていきました。

アンドロメダの名は、高木星、太歳星(たいさいのほし)、太宰星(だざいのほし)、千歳星(ちとせのほし)千年星と(ちほせのほし)と変わって行きました。

そう言えば、高良山の麓を流れる筑後川は千歳川と言いました。その名を留めているのでしょうか。

高木星の名は長崎に地名として残っています。
筑紫の果てにある肥前の高来(たかき)彼杵(そのき)の両郡を東西と南北に並べた四つの半島の形は、まさにこの巨大なアンドロメダ星雲の姿を地上に映した渦巻き模様と同じであります。

昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。これが神代紀の天照大神と高木神の由来でありました。
古代の長崎県は海がかなり進出していて、沢山の島々が海中に浮かぶ地勢だったそうです。

八幡とは元来は風にひるがえる衣装の靡きを言う胡語であって、この発祥はアンドロメダ大星雲の旋回を表現した。   『儺の国の星』


高良山の八幡神はもともとここに、縁があったのもこれで分かります。
         (「高木の神」の現代語訳は『古事記の神々』に書きました。
         サイドバーからリンクしてます。)
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by lunabura | 2010-01-02 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)
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