2010年 01月 01日
高良大社(5)高良山を開山したお坊さんのお話
高良大社 高良玉垂宮(Ⅴ)
(こうらたいしゃ こうらたまたれぐう)
観音寺縁起 (修験道の開祖の物語)
高良山を開山した隆慶上人のお話
高良山の駐車場から筑後平野を眺める。
平野の緑の筋が筑後川。
向こうの山は背振山。
その山の向こうに博多があります。
この平野が今日の話の舞台です。
高良山はかつて修験道の山として栄えていました。
今日は、この山を開いた隆慶上人(りゅうけいしょうにん)のお話を紹介します。
*
高良山仏教の開祖、隆慶上人は、白鳳八年(679)から
奈良の大安寺の南院で定恵和尚を師とし、
仏法の奥義を学んでいましたが、
朱鳥元年(686)五月、
師の許しを得て帰郷の途につきました。
道中つつがなく、五月七日博多の津に至り、
十一日には筑後に入ることができました。
ところが、その日もの凄い大暴風雨に襲われたのです。
雷鳴は天にとどろき、
土砂振りの雨は蓑笠をも破る勢いでふりそそぎます。
大地は泥海と化し、ぬかるみに足をとられて進むことができません。
おまけに千年川(筑後川)が氾濫したとの報せです。
上人はやむなく鰺坂(小郡市味坂)村に宿をとり、
暴風を避けることとしました。
夜に入ると雨足はますます激しく、暴風は家を震わせ、
浪は壁を崩して倒壊する家、
柱根を洗われて流失する家も数知れず、
上人の宿った家も水に浮かんで漂流しはじめました。
家の廻りを、溺れた牛馬が浮き沈みしながら流されてゆきます。
泣き叫ぶ村人たちの間に端然と坐した上人は、
一心に観世音菩薩の加護を念じていましたが、
居合わす人々にも名号を教え指導しましたので、
「南無観世音菩薩」の大合唱が起こりました。
その声は暴風雨にかき消されながらも、闇の中に広がってゆきました。
すると、どこからともなく一つの火の玉が飛んで来て、
ぐるぐる廻りながら上人の宿を照らし出しました。
それを合図に波間から一隻の小舟が現れ、
上人の宿に近付いて来ます。
よく見ると、その小舟には大勢の童子が乗っているのです。
驚きあやしむ人びとをしり目に、童子たちは舟を家に着けると、
中の一人が縄を持って柱にするすると登り、
梁にしっかりと結びつけました。
童子たちが「エイヤ、エイヤ」とかけ声をかけて縄を引きますと、
上人の宿は流れにさからって動き出しました。
上人は「これこそ観音様のお助けに違いない。」と、
なおも人びとを励まして一心不乱に唱名を
続けました。
やがて夜明けまぢかになると、
それまで空を照らしていた一火(ひとつび)は飛び去り、
童子たちも忽然と消え去って、
水中に家だけが取り残されました。
恐る恐る見おろすと、
すでに浅瀬に着いていて、難をまぬがれたことが判りました。
「助かったぞ」人々は皆な水中に飛びおり、
抱き合って嬉し涙にくれるのでした。
のちに村人たちは、上人の宿をそのまま寺として、
十羅刹女(法華経を守する十人の羅刹女)の像を安置しましたが、
この寺は「御堂」と呼ばれて、永く崇められたということです。
久留米市合川町御堂島は、この寺の跡と伝えられています。
一方帰山した上人は、報恩謝徳のため
高良山中に新たに精舎を建て、
観世音菩薩の尊像を安置し、観音寺と名付けました。
その跡は、国指定の天然記念物、
金明竹林前の駐車場下段の平地であります。
『高良山の史跡と伝説』 の第一集 古賀寿 著
高良山の文献は明治時代の廃物希釈の時に、
大半が燃やされてしまったそうですが、
この高良大社の元の宮司である古賀寿さんが
高良山文化研究所を立ち上げて資料を収集されました。
その折発行された小冊子、『高良山の史跡と伝説』 の第一集から
書き写しました。
昭和の終り頃の刊行かと思われます。
この観音寺縁起を読むと、
筑後川の氾濫のようすが大変リアルに描いてあります。
これは、昭和28年の筑後川の氾濫を体験された事による
表現ではないかと思いました。
この昭和の大氾濫のあと、
筑後川沿いの家の軒下には舟がつるされるようになったと聞きます。
地図 小郡市あじさか(宿があった所?)
久留米市合川町(流れ着いた所?)
高良山 観音寺の跡
伝承は日々忘れられて行きます。
古賀寿氏はなんとか後世に残したい思いで伝承を収集されたのでしょう。
地元の人々はこんな宝があるのを御存じでしょうか。
この本の目次を書いておきます。
1、観音寺縁起
2、今長谷観音堂縁起
3、中谷の薬師
4、小龍の登天
5、中院縁起
6、満福長者
7、待宵の小侍従
8、鶴の御返し
1の「観音寺縁起」をそのまま書き写しました。