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ひもろぎ逍遥

高天原(1)志賀島の海に高天原があった


高天原(1)
福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった

なぜ海の中に高天原がある?

2000年前の博多の姿

高天原(1)志賀島の海に高天原があった_c0222861_1784351.jpg


ここが福岡県の志賀島の高天原の海です。博多湾に面しています。
海の向こうに見えるのは福岡市内です。
(デジカメのオートで撮ったために、暗く写っていますが、これはお昼に撮りました。)

こうして情報が入ったよ。

志賀海神社の宮司さんが
「志賀島には高天原という所がありますよ。」
と言って、地図を示してくれました。
確かに高天原と書いてあるのですが、そこは海でした。
「なぜ、そこを高天原というのかは分かりません。」とも。

高天原といえば、宮崎県の高千穂あたりかと思っていたので、
福岡県にそんな地名があるとは、驚きです。
それじゃあ、行って来なくっちゃ。

という事で、志賀島の勝馬の沖津宮からの帰りに寄ってみました。
時計とは反対回りです。
さっきまで、あんなに綺麗な沖津宮の所にいたのに、
再び、車を止めてみたくなるような景勝の地です。

その浜に降り立って驚きました。正面に玄海島が、大きく見えます。
福岡沖地震の後、テレビに何度も映し出されたので、
見ると、すぐにそれだと分かりました。

地震で破壊された町には、真っ白なビルが建っているのが、
こちら側からもよく見えます。こんなに近いんだ。
高天原(1)志賀島の海に高天原があった_c0222861_1792247.jpg

この玄海島の向こうの方にも大きな島が見えます。
しかし、よく見ると、島ではなくて半島でした。
糸島あたりの半島がすぐそこに見えていました。
博多湾の奥には、町が見えます。

船で博多湾に入港する時には、たくさんの緑の島々の間を
縫って入って行くので、その変化にわくわくしますが、
ここ高天原からは、それが一望できました。

それにしても、この海になぜ高天原の名前が?
確かに綺麗な海ですが…。

そこで天原の意味を調べました。 

この海が高天原だという謎を解くヒントはやはり、『儺の国の星』にありました。

その本には、「高天原」は載っていませんが、「天原」について、何箇所か書いてありました。
いくつか抜き出しましょう。

あまのはらとは船に泊まる氏族の邑(むら)のことであった。
筑紫の西の多島海であった。

古代の筑紫の西側はまだかなり海の中で、島がたくさんありました。
そこには、船に泊まる氏族がいて、その一帯をあまのはらと呼んだという事です。
昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、
南から有明海の荒穂(あらほ)、即ち滔々たる海流が貫いていた。
東なるを宇佐島と言い、西なるを天原(あまのはる)と言った。
―略―
宇佐島を昔は右佐島と呼んだ。
そして天原左佐島とした。
今、大分県豊後宇佐(うさ)にそのままの郡名と、長崎県肥前松浦左左(さざ)に郷名が残る。

筑紫(ここでは北部九州全体を指す)では、中央を海流が南北に流れていました。
北は玄界灘から、南は有明海から海流が流れ込んで、太宰府辺りで、ぶつかりあいました。
その二日市水道の東側を宇佐島、あるいは右佐と言い、
西側を天原あるいは左佐と呼んだという事です。

右佐と左佐の由来は星の名前から来ている。
「右佐」とは竜座のツバーンのことで、「左佐」とは大熊座のポラリスのことです。
北極星がツバーンからポラリスに変わる間、北極を示す目星がありませんでした。
ですから、当時はこれらのツバーンとポラリスが北を教えてくれました。

この地の人々は星空の大切な星の名を、東西の島に名付けたという事です。
(そう言えば、高良玉垂宮や志式神社に出て来た
二つの玉がこのツバーンとポラリスでしたね。)(⇒詳しくは高良大社に)

実際に宇佐と「ささ」という地名は、大分県と長崎県に現在も残ってます。
天原を「ささのうみ」と言った。
弦月型の葦舟(ささらぶね)が往来する多島海、古人のいう千顆海(ちかのうみ)であった。「ささなみ」は「しか」の冠辞である。
『儺の国の星・拾遺』より

(天原を「ささのうみ」とも呼びました。
それは、三日月形の「ささらぶね」が往来していたからです。
海域には沢山の島があって、それを古語で千顆海と言っていました。
枕詞の「ささなみの」は志賀にかかりますが、それはこの地名から来ているという事です。)

志賀島の語源は近い島と言われたりしますが、そうではなくて、
昔は多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていて、
それがしかの島と変わった訳ですね。

枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。
暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。

葦舟は本当にあったのだろうか?

それにしても、古代の日本に葦舟があったとは、考えたこともありませんでした。
そこで考古学の本を見ると、竹舟があったと書いてあります。
竹舟なら、『古事記の神々』で、「豊玉姫」を訳した時に、
山幸彦が、それに乗るシーンが書いてあります。その部分を書き出します。

 私はどうしようもなくて、海辺で嘆いていたら、塩土の神がやって来て、
『どうして日の御子さまが泣いていらっしゃるのですか。』
と聞いてきます。
それで事情を話すと、塩土の神は
『よい考えがあります。』と言って、
竹で編んだ小船を作って、私を乗せてこう言いました。
『私がこの船を押し流します。
日の御子さまはそのまま潮の流れに乗って下さい。
すると、綿津見の神の立派な宮殿に着くでしょう。

実はこの時、訳しながら、「ん?竹舟があったの?」と驚いていました。
今、考古学の本にそれが書かれていたのを確認して、やっと納得です。

でも、葦舟の記述はまだ見つけていません。
それでも、竹の舟があるなら、十分可能性があります。
腐れやすいので、発掘される事はないのでしょう。

南米のチチカカ湖の葦舟なんかは今でも現役です。
あれを見ると、葦舟でも博多湾を島から島へと行き交うのには
十分なんだろうなと思いました。

古代の天原を、まとめてみるとこうなりました。

福岡県には、かつて二日市水道(針摺の瀬戸)が南北に流れていた。
その海流が南北から流れ込んで、太宰府辺りでぶつかり合っていた。
そのために筑紫は東西の島に分かれていた。

東側を宇佐島とか右佐の島(うさのしま)と呼び、
西側を天原(あまのはる)とか左佐(ささ)の島と呼んだ。
そこには、葦のささら舟が行き交っていた。そこで、ささのうみとも呼んでいた。
それをアマのハラと呼んだ。
また、古代には船に泊まる氏族がいた。かれらの村もアマのハラと呼んだ。
(そう言えば、アマは海人、海女に通じますねえ。)

 「天原」は分かったけど、「高天原」は? 

福岡県の地図を見ると、「高天原」のある志賀島は天原(博多地区)の最北端に位置していました。
「高」は美称や敬称に使います。
「天原」の北端、あるいは聖地という意味で、「高・天原」と言ったのではないかと思いました。

これらの事から、「高天原」は、「沢山のささら舟が行き交う多島海の聖地」
というほどの意味ではないかと、思いました。


地図   高天原  二日市の針摺  佐々  宇佐




次回は浜辺でできる地震予知法を紹介します。


Commented by jumgon at 2010-10-13 23:07
「古代には船に泊まる氏族がいた。かれらの村もアマのハラと呼んだ。」
これってとてもエクサイティング!
「高天原」が天上にあるわけ無いのは当然だけど、これは説得力がある!ところで「真鍋大覚」氏tって何者?彼の本は古書ネットで探せばあるらしいけど、一体、どういう経歴の人なの?
Commented by lunabura at 2010-10-14 10:00
眞鍋大覚さん、すごいでしょ。まずはウィキペディアを見て下さいね。九州大学の工学部の助教授です。専門分野は、なんだか微妙な波動の及ぼす影響みたい。でも、これは彼が子供のころから星の観測をして、小さな変化で地震なんかを予測する訓練を受けたせいだと思う。
「地震雲」を世に出した人で同じような研究をした大和の市長さんの鍵田忠三郎さんとも会っています。
彼の『ー地震は雲霞の形や色で、予知できるー大地の雲映』は再販を願う署名活動がネットで行われていますが、この本は眞鍋氏自身の家に在庫がたくさん残されたまま逝去されています。
眞鍋家は古代からの暦法を伝える家系なので、日本書紀や古事記を補う情報が山のように伝えられているのです。この本のお蔭で、今私はいろんな謎が解けています。歴史研究家にとって最後の至宝だと思っています。
Commented by jumgon at 2010-10-14 18:55
考古学・文献学以外の人で歴史を研究している人の意見は本当に面白いですね。私は「眞鍋大覚」さんまで手がまわらないから、るなさんのブログで垣間見しますね!
田中八郎氏の「大和誕生と水銀ー土ぐもの語る古代史の光と影」はリクエスト中。先に同氏の「大和誕生と神々ー三和山のむかしばなし」がきたので今読んでます。実際の神社と照合しながらでないと、うっかりまとめられません。
Commented by jumgon at 2010-10-14 19:36
またブログ作成に関する質問です。
るなさんのぶろぐでは「タグ」からあちこち入れるようになってますが、どうして設定してるのですか?やって見ようとしたけどわかりません。私も自分の記事を、キーワードから検索したいので、タグをつけたいのです。時間のあるときに教えて下さい。お願いします。
Commented by jumgon at 2010-10-14 19:45
あっ、スミマセン。分かりました。投稿画面で設定するのですね。お騒がせしました。
Commented by くじら at 2011-02-18 06:23 x
 古代の筑紫を貫いていたとされる針摺の瀬戸、多いに関心があります。その時代背景、磐井が築いたとされる初期水城の役割、当時の博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸としてつながっていて、福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった等、ぜひ、研究会にて詳しくお聴きしたいと思っています。
Commented by lunabura at 2011-02-18 20:39
くじらさん、まずはDVDのお礼を申しあげます。早く見てみたいです。
針摺の瀬戸については、真鍋大覚氏の本を参考にしているのですが、何しろ難解なので、苦戦しています。
それでも、この針摺の瀬戸を理解する事で、古代筑紫の研究は基盤が出来るのではと思います。西鉄電車から、「針摺」とだけ書かれた案内板が見えてますよね。
博多湾と有明海は潮の高さが違うので、高度な調整が行われていたようです。
自分なりにまとめてみますね。
Commented at 2011-02-19 05:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2011-02-19 10:10
非公開さん、コメントありがとうございます。
連絡が取りやすいように、そちらのHPにアドレスを送りました。
ご覧になったら、確認のメールをお願いします。 (^-^)

それにしても、話が早い(;一_一) 宿題のテーマが大きすぎる…。
Commented by cartier 時計 女性 at 2013-10-25 12:33 x
時計 ベルト
by lunabura | 2010-02-04 17:50 | 志賀島の各地 | Comments(10)

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