2010年 04月 13日
名島神社(2)ここには「那の国」の宮殿があったという
名島神社(2)
ここには「那の国」の宮殿があったという
かつては海神・豊玉彦が祀られていた

名島神社の宮司さんからお話を伺いました。
その内容については、この先、本にする予定があるという事なので、
ブログでは差し支えのない範囲だけ、紹介したいと思います。
御祭神が明治時代に変えられた
江戸時代が明治に変わった時、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)がありました。
それまで神道と仏教が混在していたのを、国家が神道一本でやって行く事になったので、
仏教を廃止しようという動きの事です。
この時にこの神社の御祭神も変えられたという話でした。
江戸時代の地図を見ると、名島弁財天となっています。
明治時代の廃仏希釈によって、弁財天から宗像三女神に変わったそうです。
もともとどちらも水の女神です。(弁財天はインドがルーツ)
弁財天は現在、すぐ隣のお寺に祀られています。
元々ここは豊玉彦の神宮だった
そして、もっと昔に祀られていたのは豊玉彦の命一柱だけだったそうです。
豊玉彦の命は海神です。
このブログでもあちこちに登場しておなじみになりました。
志式神社のお神楽では、例のもじゃもじゃ頭で登場しました。
高良玉垂宮では玉垂宮は海神・豊玉彦ではないかと推測しました。
豊玉姫・玉依姫の父神でもあります。
豊玉姫や玉依姫を現代語訳した『古事記の神々』では、
和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町)を次のように紹介しました。
海神である豊玉彦尊がここに宮殿を造りました。この地を夫姫(おとひめ)と名付けました。
ここで生まれ育った豊玉姫はここで亡くなり、お墓が今でも伝えられています。
そして、この名島神社でも、その海神を祀っていたとは。これは新発見です。
宮司さんに聞かないと知らないままでした。
さあ、さらにお話を紹介します。
ここには「那の国」の宮殿(離宮)があった
「名島」のナは「那の国」のナと同じで、ここは那の国王が作った国です。ナとは湊(みなと)の意味です。ミナト島という意味でナ島と呼んでいたのです。壱岐の人たちは「浦」を今でもナと呼んでいて、
「郷の浦」はごうな、「さすの浦」はさすな、と呼んでいますよ。
その後、渡来人が来ました。
渡来人は湊を浦と呼んでいたので、名島は浦島とも言いました。浦島太郎のお話のルーツはここですよ。
この神殿はかやぶき屋根(流れ葺きで、神明造)だったのが中国からの渡来人の技術によって、中国式のそり上げの瓦葺になりました。彫刻が施されて、金銀が塗られていました。
なるほど、古代の日本の宮殿と言えば、それこそ伊勢神宮のような建物を想像しますが、
中国から技術者集団が来て、宮殿を建てたとしたら、屋根が反り上がって、きれいに彩色された
龍宮城のような建物が建つはずです。
浦島伝説と言えば、すぐ近くの志賀島にも残っていましたよ。
江戸時代の学者の本に、那の国に志賀島や和白が含まれている理由が分からないと書いてありました。
江戸時代には二日市水道が陸地化していたので、イメージが湧かなかったのでしょうね。
現在の市街地がほとんど海の上だと思えば、那の国が福岡平野に沿った湾岸地帯にあったというのが
分かります。
金箔のついた瓦が実際に出土していた
豊玉彦の宮殿が対馬でも、博多湾でも、当時の最先端の建築で建てられたのは間違いないでしょう。
対馬の方も瓦葺だったと伝わっています。
かやぶきの屋根の神殿が普通だった時代ですから、瓦葺きだとすると、それは大変な宮殿です。
しかも、金箔が貼られていたとは…。
そんな金箔の残った瓦がここから実際に出土して皇族のある方に届けられました。
(次回につづく)
次の絵は聖洲さんの想像画です。

那国王、那の津展望の図(那島 龍宮城)
後ろ向きの二人の女性が豊玉姫と玉依姫。二人がそれぞれ手に持っているのが干珠満珠だそうです。
向こうの岸は那の津。現在もその地名が残っています。その奥の方に那の国の本宮があったそうです。
聖洲さんも昔の名島に詳しくて、出土した瓦や神殿に残るものを参考に描いたそうです。
中国文化が入っていて、当時は絢爛豪華な宮だったのを表すために、
天井の一枚一枚まで丁寧に描き込まれています。
那の国も奴の国も同じだよ。
ちなみに 「ナの国」の表記について、那でも奴でも儺でも、どれもナと読みます。
それぞれに歴史があって、どれもOKです。現存する地名は「那の津」などと書かれています。
私の表記もその都度変わります。個人的には那の国が好きです。








