2010年 04月 12日
名島神社(3)三笠宮とオリエント文化研究
三笠宮様はここで出土した金箔の瓦を見て、
近東の研究に向かわれた。

昭和34年に三笠宮様が『日本のあけぼの』でと宮司さんが話してくれました。
「博多湾の名島が中心だ」と書かれたんですよ。
「え?三笠宮様が?ここに来られたんですか?」
「そうですよ。」
三笠宮について辞書を引きました。
皇族の一家。1935年、大正天皇の第四皇子崇仁(たかひと)親王(澄宮(すみのみや))1915年~)が創始。戦後東大でヘブライ史を専攻。日本オリエント学会名誉会長。
のちに、東大で講義をされたとも聞きました。ヘブライ語の研究をされた宮様がこの名島に注目された?
その理由がよく分からなかったのですが、思いがけず別の方から、詳しい話を教えてもらいました。
それは当時小学生だったという光さんと、親戚の聖洲さんの話です。
三笠宮様がまだ澄宮と言われていた頃のことです。
小学生の光少年が遊んでいたら、澄宮に呼ばれて、生れて初めてカレーライスを御馳走になったそうです。
澄宮がここに滞在された理由は、戦前にここに無線局があって、そこにしばらく勤務されていたという事でした。
ここは世界中の無線が焦点のように集まって傍受できる特異な地形で、
いち早く世界の情報が取れる所だったそうです。
「新高山登れ」も最初に傍受したのはこの名島の無線局だったそうです。
光少年はこの名島神社付近が遊び場でした。
名島神社の境内からは、金の冠がバラバラになったものが出土したそうです。
金の指輪も出て、それは宗像神社の沖ノ島から出土した指輪とそっくりなものだったとか。
また、瓦が出て、それには金箔が残っていたそうです。
そして、三笠宮様が名島神社に来られて境内の岩に座られた時、
当時の名島の小町娘がお茶を出したそうです。
その時に、出土した金箔のついた瓦を献上したそうです。
それを見て、澄宮はヘブライ語の研究に向かうようになられたと教えてもらいました。

この絵は聖洲さんが出土した物を、光さんから聞きながら描いたもので、
金冠と金の指輪と金箔の残った瓦です。
忘れられた神社の境内から異国の文化の遺物が出土した、その深い意味を悟られたのでしょう。
そう、古代の日本には文化と共に、多くの渡来人が来ていたのです。
この名島神社はその証を今に伝えていた神社でした。
三笠宮様は古代オリエント文明研究の第一人者となられました。
そして、昭和34年に三笠宮様が『日本のあけぼの』で「博多湾の名島が中心だ」と書かれたという訳です。
出土品は今、京大にある?
京都大学がここを発掘調査したそうです。続けて東大、九大がやって来たとか。
京都大学の考古学研究室には、これらの出土品がまだ保管されているでしょうか。
戦前のものはホコリをかぶったままかもしれませんね。
そこには、私たちの固定観念を一掃する遺物が収納されているはずです。
是非、調査して公開してほしいものです。
最近でも、境内からペルシャの彩陶が二片出て来たそうです。
宮司さんが確認したところ、鴻盧館(こうろかん・福岡市の古代の迎賓館)で
出土したものと、同じものだったそうです。
「一緒に展示したいと言われたけど、断ったよ」
とニッコリして言われました。
このエピソードがあった頃の名島の海岸のようすです。

これも聖洲さんの絵です。昭和の初期まで、まさに海の中に島がありました。
今は団地などが建っているそうです。砂州があって、島に歩いて渡れるようになっています。
絵の右上に沖ノ島があります。(宗像の沖ノ島ではありません。)
ここからは、鉄が出土していたそうです。
神功皇后が戦争から帰って、ここに武器を置いたという伝説があります。
現在のようすです。

古代の名島
海から見たらこんな風だったのかな?

(聖洲さんの絵)
名島にお城を復元するなら、こっちの方が断然いいのにな。
最近は毎日天神(古賀の天神ではありません)まで通勤しています。
土曜日はず~と出勤でしたが、週休二日でゆっくり骨休めしています (^^ゞ
名島神社では二時間半、聖洲さんにも2時間、名島の話を聞かせてもらいました、これを皆さんにどう伝えるのか、
頭をひねっています。 (^-^)








