2010年 04月 10日
名島神社(5)昭和の頃 竹藪に覆われていた・竜巻と鯖・ムーダン
名島神社(5)
荒れ果てていた昭和初期ごろ
韓国から巫堂(ムーダン)が祈りに来ている
もと光少年と聖洲さんから伺った珍しい昔の話を紹介します。
1.荒廃していた名島神社

[神殿と拝殿を除いて、一面、笹竹藪で、光少年の一家が6年間(昭和4年から昭和10年頃まで)に渡って、
竹根を掘り起こし、運んで焼却処分し、現在に至る。]
古代に栄えた名島神社は秀吉公によって、少し下の方に移転され、頂上には名島城が出来ましたが、
その後、城は福岡舞鶴に移転しました。社殿は時とともに古くなりました。
江戸時代にはいったん再建されましたが、その後、無人化して、ひどく荒れて行ったそうです。
光さんが小学生の時には絵のような状態で、竹藪に占拠されていたそうです。
そこで、光少年の家族が竹を除いて行ったそうです。
当時の話を聞かせてもらいました。
「竹はこんなに太かったよ。」
と親指と人差し指で輪っかを作って見せてくれましたが、直径6センチほどだったでしょうか。
竹ですから根っ子から払うのは想像を絶する大仕事です。
いとこの聖洲さんがその話を絵に描いていました。絵がとても面白いので紹介しました。
社殿を拡大しました。やけにリアルですねえ。

これが黒田家四代目綱政公が建立(再建)したものです。
時を経て、ここまで荒廃したのを、家族で藪を払ったんですねえ。6年かかったそうですよ。
今は、改修されて、写真のようになっています。

それまでは、雨が降ると神殿に雨洩りがして、バケツなどが置かれたそうです。
こんな珍しい話も。
2.竜巻が来るとサバが降って来た。

[博多港上で竜巻が発生して、名島神社上を通過すると、天から鯖(さば)が降って来た。(昭和10年夏ごろ)]
一回だけでなく、何度もあったそうです。昔は博多湾には沢山鯖がいたんだそうですよ。
もう一つ珍しいお話。
3.韓国から巫堂(ムーダン)の人たちが踊りに来ている。
かつては毎年。今は、時々。

[神功が峯の大松に鎮まる主(始祖・家元)に参拝する巫堂(ムーダン)と踊りの一行の図。]
話によると、かつて朝鮮から王が来た時、随行した踊り手が名島で亡くなってしまって、
大松の所に埋葬されたそうです。
それからは、その命日になると、毎年、朝鮮半島からその踊りを伝える人たちがやって来て、
ここで、踊りを奉納していたそうです。
「一行は朝鮮半島から下関に船で来てねえ、
何処にも寄らずにまっすぐに名島に来て、一週間踊り続けてたねえ。
浜辺にテントを張ってキャンプしていたよ。」
「でも、その頃は神社は荒れていたんでしょ。」
「そう。朽ち果てかけた神殿の周りを鉦や太鼓を鳴らしてぐるぐる廻って踊っていたねえ。」
今でもそれは続いていますが、名取を取った時だけに減っているそうです。
大松も枯れてしまって今はないそうです。
先日、桜の頃に再び行くと、頂上は公園として整備されていましたよ。
看板も変わっていたりしていました。
もう、三笠宮の話も那国の離宮の話もうたかたのように消えてしまうのでしょうか。
時々覗いては興味深く読ませていただいております。
考古学少年だった私にとって、古代を紐解くという事は「発掘」に頼らざるを得ないと考えていたのです。
実際、中学・高校と飯塚市や鞍手郡、宗像市などで発掘に携わり古代の様子を直に感じてきました。
中世の遺構や古墳を発掘すると、縄文や弥生の遺物が出土し、中には権力者しか用えないものが含まれていることもあります。
その時代の開発や気象現象等により、失われたものも多いことでしょう。
るなさんのブログを拝見すると、伝承の重要性を感じずにはいられません。
古代の人々の気持ち・思いが込められてような気がして、、、。
私の今があるのは先人のおかげですし、、、。
また来ます♪
考古学少年だったなんて、羨ましいです。
貴ブログでも、海岸で発掘調査員の方にばったりと出会った記事を書いてあったのを拝見して、お話が聴きたいなあと思っていました。
日本書紀や古事記の年代が正しいとすると、まさに、縄文と弥生の人々の姿が描かれている事になるんですよね。
でも、知らない事が多すぎて、一歩ずつという感じです。
宗像と宮地嶽がどうしても分からなくて、鞍手の事が書けずにいました。でも、何とか分かった事から少しずつ書いて行こうと思います。
紹介していただいたヤマトさんとも、連絡を取っていろいろと教えてもらいました。ありがとうございます。 (^-^)








